第六話

 すみません、総督。私としたことがフュトレ様の忠告を失念してしまうとは。

 それにしても導師ロスタインと導師トゥリナーンの確執を私も看破していましたが、どちらが教皇に選出されるとしても、我々の仕事に障りがないことを祈るばかりです。そういえば鏡の間の新しい仕掛けが、“救世神話十七巻十六章二十一節と同じだ”と、導師ロスタインに指摘を受けました。そんなことを言われても我々は……(手紙は途中で終わっておりくしゃくしゃに丸められた跡がある)

 ——ジバナーツァル大聖堂の設計に携わった男の廃棄されていた返信書簡より

 ………

 ……

 …

『命令書―――六班へ。集合・マル・フタ・マル・マル。突入・マル・フタ・サン・ゴー。容疑者確保及び撤収は指示を待て』 

 

 その夜の前日、日中は燦々とした晩夏の日差しが降り注ぎ地上を容赦なく照りつけていたが、午後七時以降には徐々に曇り空が広がり、日付が変わる頃には木々を揺らす風も強くなって、やがてはヴィリエ全域に強く湿った空気が吹き込んで大量の雨が降る嵐となった。闇が覆い被さる時間と外出を憚る荒天が相まって表を歩く人影はすっかり見られず、それは中心街も例外ではなかったはずだが、ジバナーツァル大聖堂入口正面の外周公園に、訓練された兵士らしき者たちがあちらこちらと三名、四名、五名というふうにバラバラの組み合わせでやってきては一箇所に集まり、最終的に二十名ほどが集合すると、今度は足早にどこかへ向かって歩き始めた。彼らの足音や防具の擦れる音は唸る風と建物の屋根や地面を叩く雨の音によってかき消され、誰も気付く事はなかった。

 ………

 午前二時二十五分 中心街 子爵邸――

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 木を叩く乾いた音が、風と雨の音に紛れてエントランスホールに響く。炊事場の小さい机に突っ伏してうたた寝をしていた夜番の使用人は反射的に目覚めると、発光器を点けて、使用人の小柄な身体より倍の大きさはある、立派な両開きの玄関扉へぱたぱたと音を立てて向かった。

 静寂と見慣れた光景が居座るエントランスホールに到着すると、

 コンコンコンコン。

 …と再びノックがあり、大分待たせてしまっているように思えた使用人は少し焦って、直ちに応対するため解錠しようと玄関扉へ近付いた。ところが使用人はここで一端立ち止まり、自分と真夜中の訪問者を隔てている玄関扉を見つめる。扉の装飾は厳つくシンプルで、見上げると本国の軍旗が威風堂々と胸を張っている。ヴィリエの中央に位置するジバナーツァル大聖堂から見て西側にある、子爵が執務をするための官邸と日常生活をする公邸を兼ねたこの邸宅は、家屋としてならヴィリエで最も堅固であり、まず安全である。しかしどうしてか、この時だけは子爵邸が外の強風によってがたがたと揺さぶられ、それによって安全が脅かされているような気がして、使用人にえも言われぬ不安を掻き立てさせるのだった。

 コンコンコンコン。

 再度のノック。

 使用人は躊躇したが、なんとか錠を外し僅かな間隔だけ扉を開ける。自分と真夜中の訪問者を隔てるものが無くなったのを思うと、使用人の心臓はますます憂慮の鐘を打つ。扉の向こう側では発光器の光が開いた分だけ外の闇を切り裂くが、使用人の胸中に立ち込める靄を払拭するにはそれもあまり効果がなかった。

「どちら様でしょうか?」

 使用人が言うと、扉の隙間から湿った空気と生暖かい風が吹き込んで来るのと同時に一人の男が姿を現す。男は左目にモノクルを掛けており、くねくねとした長髪は雨水を滴らせるほど濡れていたが、思わずはっ、と息を飲むほど美しい中性的な顔立ちで、まるで油絵に描かれた神を見た時の畏怖すら想起させる。ただその美しさがどこか場違いで、なにやら怪しい客だ、と使用人をかえって警戒させるのだった。

「やあ、どうも。夜分遅く失礼」

 隙間の向こうにいる訪問者の男が低く甘ったるい声でそう言うと、微笑を湛え一礼する。そのボウ・アンド・スクレープは誰の目からしても閑雅なもので、男が美貌の持ち主というだけでなく紳士である事に安堵した使用人は、要件を聞くためにまた少しだけ扉を開けた。だがその瞬間、男が笑顔のままその隙間に腕と足を入れ、まるでぬるっと滑り込むように中へ入ってきてしまった。素性の知れぬ男に立ち入りを許してしまった使用人は慌てて退去するよう求めたが男が聞いている様子はなく、レッドカーペットの上にぽたぽたと雨水を滴らせる防水用ケープを取り、エントランスホールを見回している。ケープ下のその姿から、使用人はこの男がテンプル騎士団の者である事を知った。

「ふうむ、この豪壮たるや、まさに子爵の権勢を表しているかのようだ」

「あの、お願いしますから出て行ってください」

「そして働く使用人もさぞ……」

 広さ十平方メートル程あるエントランスホールを見回していた男が、ここで懸命に退去を訴える使用人の顔を一瞥する。使用人はそばかす顔の十二歳かそこらの小柄な娘で、モブキャップを被りエプロンドレス姿だった。その姿を認めると今度は男がはっ、と不意に水をかけられたような表情になり、次に何故か後退った。

「あ、ああ……いや、悪いようにはしないから安心し給え」

「…?」

 使用人が訝しげな表情をして首を傾げる。男はそんな使用人の様子を見ながら、饒舌ではあったが最初と違い何か落ち着かない様子で、次のように名乗った。

「私はヴィリエ常駐テンプル騎士団第三騎士隊に所属する、クレメント。君、名前は?」

「エブリンですが…」

「よし、エブリン君。すまないが男子の使用人と代わってくれないか?なに、イリス様に誓って君が無礼を働いたから、という訳ではない。あくまで私の一身上の都合なのだ」

 そう要求するテンプル騎士の男――怪客は、頭髪をかきあげたり微笑んでみせたりと、どこか気取った様子。しかし少女、いや、外見だけなら女児とも呼べるエブリンの観察眼からも容易にうかがえるほど彼の手は震え、足は震え、そうなると声すらもどこか震えており、それが無理に取り繕った態度なのは明白であった。意味不明な態度と要求をするこの怪客にエブリンはますます訝しがったが、ひとまず相手は客。要求に対して答えねばなるまい。

「はい、クレメント様。でもこの御屋敷で働いている使用人はみんな女でして…」

「なんと!」

 怪客が瞠目し酷く狼狽する。彼はうろうろ、そわそわ、とエントランスホールを少しの間歩き回っていたが、ふとエブリンをもう一度観察すると嫣然一笑、今度は退くどころかその整い過ぎた顔を彼女に近づけた。

「ほう……」

「え?あ、あの…」

 エブリンが顔を背ける。ほんのり頬を染めているがまた嫌がっているのも明らかだったためだろう、怪客が彼女を凝視するのを止めた。だが彼の奇行はこれだけにとどまらない。

「君、男装をしてみる気はないかね?」

「えっ、男装って男の子の格好をするってことですか?」

「ああ。君ならそこそこ…いや、かなり良い線いっていると思うのだが」

「あの、私、そういうのよく分からなくて」

 しどろもどろになって暗に拒否をするエブリンの様子を見ていた怪客は、含み笑いをしながら近くに備え付けてあるソファー横のエンドテーブルに防水用ケープを置くと、あっはっは、と遂に笑い出した。本当に可笑しかったのか、その声はエントランスホールによく響いた。

「失敬、純粋無垢な君に寸劇でも…と思ってね。ほんの冗談だよ、悪く思わないでくれ給え。ああ、勿論要件が済んだら辞去させてもらうとも。私は君を困らせることはしない、約束する」

 この人は一体何のために尋ねて来たのだろう。まさか私とお話するためなんかじゃないよね…。

 そのように目したエブリンは、次にここが深夜とはいえ子爵邸であるということを考慮する。相手の目的は判然としないがそこは彼女なりに推し量り、大仰な身振り手振りを交えて意味不明な言動をする怪客を見ながら、早々に退去してもらいたく伝えた。いや、伝えようとした。

「あの、旦那様でしたら今――」

「――本国の要人と別の場所で会食…だったね。うっふっふ」

 ところが怪客はエブリンが言い終える前に割って入り、“君の言おうとしていることは全て把握している”とでも言いたいかのように賎しく笑った。そして戸惑うエブリンを見ながら、ここでようやく夜分遅くに子爵邸へ訪れた要件を伝えるのだった。

「いやね、私はマルセル子爵ではなくその御子息であるランドルフ氏に用があるのだよ」

「えっ」

 “ランドルフ”と聞いてびくっとエブリンが反応する。その様子を見逃さなかった怪客は、表情を変えて少し真剣な様子で尋ねた。

「どうしたのかね?酷く怯えているようだが」

 ランドルフ・エトムント・ドラクロワ、四十五歳。実の親である子爵とは政策について公の場で激しくぶつかり合うこともある、ヴィリエ行政議会議員。勤勉で、社交的で、遂行能力もあり、加えて父の威光に頼らぬ男として知られる、三十二歳という若さで初めて政治家になった傑物である。政治家としても“二世”などと揶揄されることのない実績の持ち主だがそれは表向きの話で、最近はいざ帰宅すると使用人たちに対する態度は怒鳴り散らす、当たり散らす、あわよくば理由なく平手打ちをするまでに及ぶ。当然使用人たちはそんなランドルフを忌避しており、彼に関わる仕事は厄介事として、なるべく最年少で新人のエブリンに適当な理由を作っては押し付けてきた。幸運なるエブリンはまだその憂き目に遭ってはいないが、実の親よりも接する機会の多い彼女にランドルフはきつくきつく、


『夜はいかなる所用があろうとも決して通すな』


 …と、血走った目で厳命していた。

 エブリンはランドルフを恐ろしい男だと思っているが、その恐ろしい男を訪問するこの怪客もまた恐ろしくなると、ここは最早経験の浅い自分では対応しきれないという結論に至り、先輩を呼ぼうと考えた。

 だが、ああ…なんということであろうか!

 今夜の当番はエブリン一人であり、寝ている先輩を叩き起こして指示を仰ごうにも、ランドルフからの命令を考慮すれば唯一つ、訪問客には退去願えと言うに決まっていた。

「どうしたんだねエブリン君。そんなに暗い顔をして」

 怪客が莞爾として笑いながら憂悶を抱えるエブリンのか細い両肩に手を置く。二人は丁度向き合う形になっているが、その構図を気にするでもなく、いや恐らくそれどころではないのだろう、エブリンは暗い表情をそのままに胸中を打ち明けた。

「ラ、ランドルフ様が夜は誰も通すなと。私たち使用人は皆あの方を怖がっていて…それで…」

 エブリンの談は短く断片的ではあったが、それを聞いた怪客は一旦彼女から離れ、背を向けて何事かを思案している様子だった。それが終わって再び向き直ると、やはり笑みを浮かべながら、今度は次のような提案をした。

「承知した。それなら君にはランドルフ氏の部屋の場所だけを教えてもらいたい。なに、訪問するかしないかは私の自由。君はただ部屋の場所を教えただけ。問題はなかろう?」

 エブリンは怪客の提案にも納得がゆかぬのか思い迷っているようだったが、やがて三階の奥、向かって左側がランドルフの部屋であることを伝える。すると怪客は君の協力に感謝する、と微塵の悪意すら感じさせぬ青空のような笑みで謝意を述べた。

 さてエブリンはというと、これで本当に良かったのかと自問自答する。結局の所、ランドルフの部屋の場所を教えたのは自分であり、これ即ち部屋へ案内したのと同様だと思えてならないからだ。もしこの事があの恐ろしいランドルフに知られたら、自分は一体どうなってしまうのか。厳しい叱責や暴力を受けるのか。いいや、もしかすると解雇されてしまうかもしれない――という風に。

 斯様に不安と後悔で苦しむエブリンを他所に、それは起きる。

「ふふ…時間通りだ」

 怪客がエントランスホールに置かれた年代物の柱時計を見ながらそう呟くと、閉じられた玄関扉が突然大きく開き、風が入り込むのと同時に何人もの白銀色の鎧を身につけたテンプル騎士が入って来て、彼らはひとことも言葉を発することなくあっという間にエントランスホールを制圧した。怪客は彼らに素早く何か指示を出すと、更に玄関扉から数名のテンプル騎士がやって来て、ドアを封鎖し警備の態勢に入った。時間にして五分もかからなかったこれらの出来事にエブリンはただおろおろするだけだったが、そんな彼女を安心させるように、怪客がまた優しく微笑みながら伝えた。

「君は様々な不安を抱えていることだろう。だがどうか今だけは私を、テンプル騎士団を信じて欲しい。君を笑顔にするのも我々の仕事だからね…ふふふ」

 このクレメントというテンプル騎士を信じるしかもう道は無い。エブリンはそう観念したのか、或いは単に不安でいっぱいな自分が一時的に心の拠り所にしたかったのか、それは彼女自身も分からない。ただ結果的に躊躇いがちではあったが怪客の言葉に頷く。それを見て怪客も満足そうに頷くと、次にランドルフの私室がある方の階段を見上げた。その横顔は微笑んだり狼狽したり意味不明な言葉を述べたりと、今までの不審な怪客の印象からは想像がつかないほど凛々しく、この子爵邸を揺さぶる嵐を跳ね除けるような頼もしさがあった。エブリンにとって意外な姿を見せる怪客だったが、加えて意外な言葉も発せられた。

「これは私からのお願いなのだが…エブリン君、他の使用人を起こして屋敷から避難してくれないか?ここは危険な場所になる」

 ………

 ……

 …       

 午前一時五十分 九番街岩石海岸地帯 某所――

 夜の静けさを破る強風と海岸の岩場へひっきりなしに打ち寄せる高くて黒い波。墨色の空からは無数の雨粒が降り注ぎ岩の大地を濡らす。辺りには人気がなく、そこではただ海による自然の営みだけが繰り返されていた。

 この九番街岩石海岸地帯はヴィリエ西方の端にあたり、尚且つヴィリエの特徴である円形の高い城壁に囲まれていない部分。干潮によって現れるこの海蝕台は足場が悪く危険で磯の香りが立ち込めており、異教徒や犯罪者、陸や海から流れ着いた怪物が住み着く場所ともされ、元々人が立ち寄らぬ場所だった。加えて時々浜辺に水死体が流れ着く時があり、ヴィリエの人々はそれを見て自分たちの知らぬ所でこの荒涼たる風景に孤独と自死を求め、身投げした者がいた事を知ることとなる。その一方、ここは知る人ぞ知る絶好の磯釣りスポットがいくつもあり、危険を顧みず一部の好事家が足を運んでは夜釣りを楽しむ姿が時折見られるという。

 ……一切の人工物が無く岩ばかりの暗い世界に、橙色の小さい小さい点が浮かび上がる。もしこの場に人がいたならば、おや、と不審に思うことだろう。誰の目から見てもそれはカンテラの明かりであり、しかも暗く危険な足場を歩くにはあまりに不十分な明るさ。まるで荒天と夜陰に乗じて衆目を避けているように思えてならず、凝らして見ると、僅かな明かりからは複数の人間を捉えることができ、一人、二人、三人、と数えてゆくと、計八人が一列になって歩いているのが分かった。いずれも襤褸をまとった者たちで、唯一違うのは前から三番目、手を縄で拘束され猿轡もされた若い女。女は修道服姿で、うー、うー、と声にならない叫び声をあげるが誰もそれに耳を貸そうとはしない。

 女の前後を挟んで歩く者たちはイリス教徒なら皆邪教と蔑む、フー・クランヌドグ・クァンザル教団の信徒。このカルト教団は南方にて産まれ勃興した土着信仰が島嶼地域故に性格や特徴に違いが生じ始め、それらに宗教的シンクレティズムがなされた事が濫觴とするらしいが、半年前に南方で展開する本国の軍とテンプル騎士団との交戦によって一時壊滅した。彼らはその残党と、新たに教祖となった人物の統制下で入信した信徒たちである。教団名の由来は南方の怪物たちとコミュニケーションして得られる内容を人語にして表したもので、意味は“太陽と月の融合”。これはこの世界の創生に重要な意味があるらしく、南方・ヴィリエの教祖共にそれを少しずつ少しずつ、イリス教の常識の下に生まれ育った信徒たちを混乱させないように、二重も三重も例えを交えながら伝えている。これを真に理解した者は精神に臨海を迎え、人によっては超常的な性質、即ち異能力を身に付けるという。端的に言えば彼らは自らの意思で呪病者になろうとしていた。

 さて、その信徒たちがどうして嵐の中この岩石海岸地帯にいるのか。彼らはヴィリエの住人を拉致して搬送する実行犯で、危険な橋を渡っての犯行にしては女一人と少ないが、その代わり女はイリス教の修道女。イリス教徒でしかも職業修道士・修道女を手に入れるのは彼らにとって大きな収穫となるらしい。“ドアの修理業者を装い女子寮に入ると後は簡単だった”というのが拉致担当者の談である。彼らは今、予め決められた場所で護衛担当と合流すると、活動拠点にして住居がある洞窟、衛兵隊やテンプル騎士団が地下古道とも呼ぶ場所へと向かっていた。

「うーっ、うーっ」

 拉致された修道女クラーラは道中に眼鏡を落としてしまい、僅かな橙色の明かりを感じるだけで他は闇。何も見えず、拘束されてどこへ連れられてゆくかも分からず、またそこで何をされるのかも分からない恐怖が、彼女の心を地獄の底へと突き落とす。それに対する生と元の日常への願望が、女神イリスと教会の教えに殉ずる誓いを忘れさせ、ただ泣き叫ぶ、しかし猿轡によってそれすらも出来ない哀れな人間へと変えていた。そんなクラーラを見て、列の六番目でここ一ヶ月前に同じく拉致されて信徒となるに至った元物乞いが、後ろの仲間に言う。

「可哀想だよな、あんな若い姉ちゃんがあのぶっとい芋虫を飲まされるなんて。喉、通るかな?」

「……」

 列の前から七番目の、襤褸のフードを目深に被った男は何も言おうとはしない。代わりに八番目の最後尾を歩く、元革靴職人の男が答える。

「この新人に話しかけても無駄だよ。何を話しかけても返事しようとしないんだ」

「なんだ、緘黙症かぁ?」

 新人への揶揄がエスカレートする前に、先頭を歩くリーダー格がいい加減にしろ、と窘める。彼らの根城の入り口が間近に迫って来たからだ。

 この岩石海岸地帯は八番街方面へ向けて進んでゆくと地殻と海面の変動によって地形の隆起がみられ、八番街が近付くにつれて今度は徐々に沈降して元の陸地となり、八番街を挟む川とぶつかる。この丘陵状の地形の中には切り立った海蝕崖と海蝕洞があり、それを改造して邪教徒たちは粗末な生活をし、貧困に苦しみながら新しい教義に身を委ねていた。

「フェルナンドさん、これを」

 彼らが海蝕崖に到着すると、フェルナンドと呼ばれた先頭を歩くリーダー格の男が後ろの部下から呪文符を受け取る。呪文符とは教祖から借りたものでどこにでもあるただの紙に幾何学的な紋様が描かれたものだが、その心得が無い者でも符に込められた魔法の力を発現出来る便利なもので、教祖は特技や知識もなければ武器を持たせて戦わせるにも心許ないほど非力な信者にこの呪文符を持たせ、謀のために利用していた。

 呪文符が翳されると、何も無い空間に真っ白な縦線が浮かび上がり、それが左右に分かれて広がる。次にガラガラと崩れ落ちてゆく断崖の岩。その後ろから次第に黒い穴が見え始めた。岩は一見すると万有引力の法則に従って下へ下へと落ちているが、この黒い穴を豁然と見渡せるよう、また出入の妨げにならぬよう、左右に飛び散るようにして落下している。やがて黒い穴——洞窟の入口が完全に姿を現すと、一行は吸い込まれるようにして中に入って行った。

 フェルナンドは全員洞窟に入った事と洞窟の入り口が再び閉ざされたのを確認すると、カンテラを自分のすぐ後ろにいる者に手渡し、洞窟の入口にある松明を手に取って奥へと歩き出す。クラーラを除いた後に続く者たちは強風と大雨からようやく解放されて、この時口々にふうっ、と吐息を漏らした。

 洞窟の構造はシンプルだ。入口のエントランスからカクッとL字の角を曲がると後は道なりを進むだけで、大きく開けた場所に出る。そこは信徒たちが集まって話し合ったり教義を学んだりと様々な用途で使う集会所で、高さ三メートルほどの壇上には彼らが神聖視する祭壇と掲揚された教団旗がある。祭壇といっても天然の岩石を大して加工せずに作られた粗末なテーブルのようなもので、沢山の頭蓋骨と儀式用ナイフ、教義が記された書物に知識が無い者からすれば嫌悪感すら抱きそうな血がこべりついたエンバーミングの道具といった、主に司祭が扱うものが雑然と置かれているだけに過ぎない。頭蓋骨に関しては教団のために身を捧げた者たちの最後の姿とされ、特に説明はされていないが、教団なりに彼らを弔う作法であると信徒たちは認識している。

 この開けた場所は入口の他に二つの通路があって、片方は住居層。男女別となっており個人居はなく、集団生活を行っている。教団内で結婚したり子供が産まれたりした場合には家族用、夫婦用の住居も用意されることもあるそうだがここではまだその例が無く、信徒たちはそれぞれ協力して洞窟での生活を維持するため勤労にも励んでいる。もう片方は祭壇の裏にある教祖と司祭のみが入れる秘密の部屋で、一般の信徒たちはこの部屋がどうなっているのか何も聞かされていない。

 信徒たちの構成はヴィリエ出身が四割、貧民街出身が五割強、残りのごく一部、リーダー格であるフェルナンドなどがそうだが、主に信徒たちのまとめ役で南方出身が一割弱となっている。教祖は不在であることが多く、その時のために司祭が代行する。この司祭も南方からやって来たとの事で、全ての信徒たちが体内に宿している芋虫の管理・飼育を行っているという。

 松明によって照らされる、ゴツゴツした岩盤の壁、掘削された人工の路。拉致したクラーラを連れて一行が洞窟の奥へと歩みを止めることなく進む。洞窟内は普段、明るさを保つため等間隔に松明を設置する箇所があるのだが、今夜は重要な集会があるために照明は殆ど集会所に集められている。尚、今回の集会は司祭によるいつもの教義としての集会ではなく教祖自らが執り行う“決起の儀”であり、彼らのパトロンであるエミリアーノ・ポリシオも出席する。そのため教団はこの儀式に全員参加を義務付けており、加えてイリス教徒、それも職業修道士・修道女を確保し、芋虫を飲み込ませるというメインイベントを催していた。決起の儀が具体的にどのようなもので何を意味するのか一般の信徒たちには知らされていないが、その代わり彼らは体内にある芋虫と教団の教え通じて、決起の儀が澆季溷濁を憂い変乱の世を統治するものだと誰もが感じ取っている。そのため、彼らはフェルナンドたちの帰還を心待ちにしていた。

「儀式が始まる。お前は入り口を警備しろ」

 集会所の入口で警備任務に就いていた信徒の男にフェルナンドが指示を出す。男は赤い瞳を瞬かせて驚いている様子だったが直ぐに仕事の顔に戻り緊張した面持ちで頷くと、一行とすれ違うように入口へ向かった。


 午前二時十分 邪教徒の洞窟 集会所――

 重度な近視眼に冷静な判断力を失っているクラーラでも暗い洞窟道から開けた場所に到達した事が分かると、更に大勢の異教の者たちがいることを知る。この場所は祭祀を連想する独特な配置方法で篝火が設置されていて明るく、その熱によって、また興奮する異教信者たちの精神状態も影響しているのか、蒸し蒸しとした熱気を感じた。何やら尋常ではないおぞましき儀式を行われようとしているのをクラーラの防衛本能が敏感に察知し、これから自分の身に何が起きるのだろうかと改めて彼女を暗い憂慮の淵へと突き落とした。

「挺進隊が戻ったぞ!」

「見ろ。本当にイリス教の修道女を連れている」

「教団がまた少し大きくなるな!」

 フェルナンド率いる一行が集会所に姿を現すと、待機していた信徒たちが一斉に感嘆と賞賛の声を上げる。待たされていただけにその賑わいは喧々囂々と凄まじく、信徒たちで埋め尽くされていた集会所は一行が通ることによって次々と道が開かれ、まるで凱旋のようだった。やがて壇上に上がるための岩石で出来た階段に到着すると、一行を構成していた拉致班と護衛班は解散し、フェルナンドとクラーラ、そして雑務用に新人を残した計三人が階段を上がる。壇上には全身をすっぽりと覆うフード付きの襤褸を着た男か女か分からない高身長の人物と低身長の人物がいて、自分たちの元へ三人がやって来るのを待っている様子だった。

「この娘に芋虫が入ってゆく所をよく見ておけよ、新人。今日は新しい門出のようだからな」

 最後の階段を上がる手前でフェルナンドが言い、新人の赤い目を覗き込みながら笑った。新人は特に反応を示さなかったがクラーラはその言葉を聞き逃さなかったようで、涙をうら悲しげにはらりはらりと零しながら首を横に振り拒否の意を示す。それに構わずフェルナンドたち三人が壇上の中央にある祭壇までやってくると、祭壇前にいた大小の二人が襤褸のフードを取った。

 長身の人物は女だった。年齢はおそらく三十代前半から半ば、黒い頭髪を長く伸ばしたヘアスタイル。“ロングヘア”といえば聞こえは良いが、この女の場合はただ伸ばしっぱなしの散ばら髪と言った方が的確だろう。顔立ちは整ってはいるがどことなく虚ろで生気に欠けており、暗く底冷えする、まるで死人のような黒い目をしている。人ではない者の心を宿しているのは截然たるもので、それでいて百八十センチメートルから百九十センチメートルはありそうな高身長だ。不気味な威容と異質な神秘性を与えるこの女こそフー・クランヌドグ・クァンザル教団の教祖で、名前は誰も知らない。ただ信徒たちは彼女を教祖様と呼ぶだけである。もう一人は子供ほどの大きさで身長百二十から百三十センチメートル、緑色の肌にとんがった耳、低い鼻、裂けそうなほど大きい口。つり上がった赤くて大きい目はクラーラをギラギラと怪しく見つめ、脇には六番街の聖トゥリナーンから盗んだ用途不明の壺を抱えている。その外見からして人間ではなく、南方の怪物たちによる秘術によって人に非ざる者へと変化した、れっきとした怪物の一種である。この小男は教団の次席で信徒たちが司祭と呼ぶ者であり、元人間だったことから人語を操るが、その外見から信徒たちですら畏怖の念を抱きあまり近づこうとしない。実際、まともな精神の持ち主とは言い難く、司祭によって祭壇奥の部屋へと連れていかれ帰って来た者がいないことから、信徒たちの間では秘密の人体実験でもしているのではないかと畏れられていた。

「ケ、ケ、ケ、よく戻った」

 金属と金属がぶつかったような声で司祭が短く労うと、教祖が猿轡をされたクラーラに歩み寄り、顎をぐいっと持ち上げる。何か品定めでもしているのか、輝きの無い目で瞬きもせず眺めていると、やがて飽きたのか乱暴に顎を放した。次に信徒たちが見上げる壇上の一番手前へと徐ろに立つ。教祖の眼下には盗品やシンジケートからの回し物によって入手した武器の配布が完了している、教団の殆どの信徒が集まっていた。その元々の顔ぶれは実に雑多で、男、女、東方人、南方人、北方人の若者、老人。農民、漁夫、石工、冒険者、商店主、皮革職人、娼婦、学者、物乞い、職業兵士、貴族等々。その全てが、人の目をした単眼の山羊に蛇が絡みついているフー・クランヌドグ・クァンザル教団旗の下に集結したのだ。同時に彼らが飲み込んだ芋虫が一箇所に集められた事により、それぞれが奇妙な共鳴を起こして宿主をより興奮状態にさせていた。

「血盟によって太陽と月の下に集まりし我が子らよ――」

 普段あまり現れない教祖の声が洞窟中に響いて木霊する。信徒たちは自分のものとは別の何かの鼓動が高まってゆくのを、確かに感じ取っていた。

「今日に至るまで教団の教えを信じて学び、理解を進め、また服してきてくれた諸君らの敬虔さに賞賛の意を表する。これから何が起ころうとしているのか“我が子”を通して感じ取っているであろうが、敢えて人語でここに宣言する。戦いの時が来た」

 広間に集められた信徒たちに動揺が走る。だが続く教祖の言葉に彼らは直ちに謹聴した。

「今から我々は武器を手に取り、破壊と創造を繰り返し人類を幾度となく滅亡の危機に立たせてきた邪悪な双身の神イリスを倒すための戦いとして、港湾都市ヴィリエを攻撃する。ここを占拠した後は我らの旗を全域に掲げ、呪病者を救済し、我々こそがこの街を管理運営するに相応しいと世界中に見せつけてやるのだ」

 信徒たちが持つ武器は刃こぼれをしていたりすっかり錆び付いてぼろぼろになった剣、手斧、槍…といったものだがまだそれらはましな方で、農具や一般家庭で使う刃物、棒切れに石を取り付けた原始的なものを持つ者までいる。しかし誰もが武器を持つ手に力が込められており、信徒たちの中で教祖による攻撃の号令に疑問を呈する者は誰もいなかった。

「これはイリス教との戦いでもある。イリス教の各宗派、特に聖イリス教会は呪病者を虐げるばかりか、イリスの真実を隠蔽・煽動し続け、人々に太陽神や創造神などとして崇めさせている。それにもかかわらず愚か者の彼奴等はイリスによって滅ぼされかけた経験、イリスから不条理に選択されてきた経験が我々の血と、肉と、脳みそにしっかり刷り込まれている事に気付かず、未だにイリスとは如何なる神なのか空虚な議論を続けて定められずにいる。この欺瞞を決して赦してはならない」

 教祖は自分の発する言葉の効果を確かめているのか、熱い注目をものともせず、信徒たちの目を見ながら続けた。

「この戦いにおいて諸君ら一人一人が戦士である。だが戦士はただ戦うだけでなく勝たなくてはならない。そのためなら私は如何なる奸計も、略奪も、残忍で非人道的な蛮行も赦されると思っている。抵抗する者を一人でも多く殺し、イリス教の産物を破壊し尽くしてヴィリエを陥落させ、代わりに呪病者たちの楽園を築く事が出来たなら、戦士として戦うことをやめて教団に加わる前の生活に戻っても良い。自分の家や職場に帰って、教団で知った本当の真実を伝え、諸君らが成し遂げた武勲を語り、戦いによって傷付いたヴィリエ市民に無償の救済をしながら彼らを感嘆させるが良い。だが今はどうか覚えておいてくれ、諸君らは戦士であるという事を」

 信徒たちの興奮が最高潮に達するか否かという所になって、教祖があらん声で締めくくった。

「蛮勇を振るえ、戦士たちよ。諸君らが宿す“我が子”は今ここで昇華し究極の姿となる。そうなれば約束しよう、恐れるものは何も無い。ここには無敵の戦士が集っている」

 丁度広間の中心付近にいる、痩せて髭を生やした中年の男性信徒に教祖の目が留まると、彼の身体に異変が起きた。急に胸を押えて呼吸を荒くさせ、激しく咳き込み、やがて胸を大きく反らして咆哮を上げた瞬間、腹から昆虫の脚とみられる六本の突起物が肉、皮膚、身に付けている襤褸を出血を伴いながら突き破って現れ、次に彼の顔面がちょうど中央から左右に裂けて、そこから人肉の質感に似た新たな頭部が姿を現した。ピンク色の新しい頭部は複数の真っ赤な眼球が規則正しく居並び、左右に裂けてしまった彼自身は斜視のように互いの目をあらぬ方向へ向けてしまっているが、まだ意志があるのか、忙しなく眼球を動かしている。信徒たちはこの異常な変化に恐れを抱くどころか我も、我も、と請い願い、するとまた幾人かが同じような変化を起こした。当の本人は己の身に起きた変化が分かっているのか分かっていないのか、ぐるぐる、ぐるぐると目を回しているだけだが、他の信徒たちには神々しくすら見られている。この狂気が起爆剤となり全ての信徒が鬨を上げ、興奮をそのままに決起の儀のメインイベントへと進む。それはクラーラにとって社会的な死を意味していた。

「おい新人。俺がおさえているから女の猿轡を外せ」

 フェルナンドが新人に指示する。新人は涙でぐしゃぐしゃになった哀れな修道女の顔をしばらく見つめていたが、やがて猿轡を外した。

「止めて、お願い。お願いだから助けて…!」

 祭司が懇願するクラーラの前にやって来ると、脇に抱えていた壺に片手を突っ込む。そこから取り出したものは全ての信徒に飲み込ませているあの芋虫だったが、形状が違った。

「ケ、ケ、ケ。これは俺が改良を重ね、ようやく出来た新種の新種、そのまた新種じゃ。お前は巫女となるのだ。芋虫共の巫女に…」

 司祭の緑色の指が摘んだ芋虫は前に頭部、後ろにも頭部がある種で、互いに意志があるのかもぞもぞと激しく動き回っていた。新種というよりは人為的に作られた芋虫の奇形種らしく、互いの動きが干渉し合うせいで既存種のように壺を登る事すら叶わない。そんな狂った芋虫を顔に近づけられたクラーラは、近視眼でも何とか見えるその見た目と動き方に不快感を露わにさせたが、同時に邪教徒たちがこれからこの世にも醜い芋虫を自分に飲み込ませようとしているのを悟る。

「ケ、ケ、ケ。娘、諦めて大人しく飲み込め。飲み込めば楽になり、高揚する気分に耽溺する事だろう……ただ一方はお前の食道を進み、一方は外に出ようとするからそれなりに…いや、かなり苦しくはあるだろうな…ケ、ケ、ケ」

 司祭がクラーラの顎を持ち上げ、両頬に力を込めて口を無理矢理こじ開ける。何人もの人間に芋虫を飲み込ませてきたからなのか、手馴れた様子だ。奇形の芋虫は相変わらずもぞもぞと狂ったように蠢いており、それがクラーラの目の前に近付き、芋虫の頭部、前脚部分が丁度接吻でもするかのように彼女の唇に触れる。

「(無理。こんな気持ち悪いの、絶対無理!)」

 これに対しクラーラは全力で抵抗した。彼女は戦う力や術を持ってはいなかったが、絶望的な状況に抗うだけの芯の強さを持っていた。豈図らんや、その甲斐あってかこれだけ大勢の人間がいるにもかかわらず、それは起きた。


『衛兵隊が来た!』


 誰かが叫ぶ。その声は教祖のように洞窟中に木霊するものではなく、次第にワー、ワー、と洞窟の入口方面から多数の人の声が聞こえてきても互いの顔を見合わすだけで、信徒たちが言葉の意味を理解するまで時間を要した。ただ、一番最初に反応したのはやはり教祖だった。

「戦士たちよ、異教徒共を殺せ。殺すのだ!」

 これを聞いて信徒たちが一斉に戦闘態勢へ入る。彼らはそれぞれ非常時の役割分担を決めており、その大多数は戦闘が予見されれば現場に赴き対応するが、残りは教祖と司祭の退却を手助けしたり、戦闘する信徒たちの後方支援へと回る者たちもいる。こうして彼らの戦いが、防戦という形で幕を開けた。


 午前二時二十五分 邪教徒の洞窟 集会所壇上――

 衛兵隊の突入をなんとか狭い通路で迎え撃つ事が出来た邪教徒たちだが敵も士気が高く、よく手入れがされた装備に加え、統率され、訓練もされているいわば戦闘のプロである。一方邪教側は怪物が混じっているとはいえ元民間人の寄せ集めのようなもの。烏合の集に武器を持たせた所で如何に士気が高かろうとこの戦闘で敗北へと進むのは分かりきった結果であり、十分から二十分ほどの戦闘で祭壇のある集会所まで衛兵隊が雪崩込むに至った。そこではひっきりなしに次々と押し寄せる敵の様子に信徒の誰もが教団の壊滅を予感するが、それでも教祖はただ戦闘の模様を静観していた。一方、教団危うしといった状況を他所に司祭はまだ芋虫をクラーラの口元へ押し込もうとしている。

「ケ、ケ、ケ。飲み込め飲み込め」

 芋虫は胸脚、腹脚を動かしてクラーラの唇、前歯を抜けて奥歯辺りにまで到達しており、それを彼女が舌で押し返すという攻防が続けられている。直径三センチメートルから四センチメートルある円筒状のザラついた何かが口内で蠢くその感触といったら肌が粟立つほどに不快極まりなく、食物とは異なり、自分の意思ではない何かが自分の喉を通して体内に入り込もうとしている事に本能が憎悪する。だがこの攻防も長くは続かない。クラーラが口蓋垂より先まで芋虫の到達を許した時、突然彼女の顔にびしゃっ、と血飛沫が降りかかった。その途端に芋虫の入り込む力が弱まる。

「うぇっ」

 クラーラが既のところで吐き出すと、唾液まみれになった芋虫が岩石の地面に落ちた。奇形の芋虫はあの怪物と化した信徒たちの眼球のようにぐるぐる、ぐるぐると円を描くように動き回っていたが、それを司祭によって踏み潰される。芋虫へ愛情すら注いでいるように見えるこの小男からは想像出来ない行動だったが、その司祭は芋虫一匹どころではなかった。

「え?あれ?腕、俺の腕……」

 司祭の右腕。その肘から先が鋭利な刃物か何かですっぱりと切断されていた。あまりに突然のことで、司祭は欠損した自分の腕と祭壇に並んでいた頭蓋骨らを倒して吹き飛んでいる自分の腕を何度も見比べている。脇に抱えていた壺は地面に落ちて割れ、そこから芋虫たちがぞろぞろと這い出ていた。

 ――もう儀式どころではない!

 戦火が壇上にまで及び始めこの場は危険だと判断したフェルナンドは、羽交い絞めにしているクラーラを乱暴に振り払うと、司祭の元へ駆け寄り傷の状態を見た。司祭の腕は決して太くなくどちらかといえば細い方だが、かといって簡単に四肢を切断出来るものなのだろうか。まるで輪切りでもしたかのように綺麗な切り口で、医療の知識が無い者でも針と糸で縫い合わせればそのうち治癒してしまいそうだった。

 一体どのような武器でやられたのだろう?

 矢が飛んできたわけでもない。投げ斧・投げ槍が投擲されたわけでも、鋼糸を巻きつけられて力いっぱい引かれたわけでもない。短い時間、フェルナンドは南方での戦闘経験から思い返してみたがやはり検討も付かず、茫然としながら切断面から流れる血を見ていた。

 衛兵隊との交戦模様は、異形の怪物と化した信徒が何人もの衛兵隊員によって槍で串刺しにされている。情けを求めるも聞き入れられずトドメを刺される信徒がいる。抑え込まれ連行されると思いきや戦斧で断首される信徒がいる。そこには男も女も関係無くただ殺戮が行われており、殺戮が行われていないのは最早壇上だけ。フェルナンドもここで教団が再び壊滅するのを予感したが、不意に戦闘の様子を傍観している教祖を見て我に返ると、後ろに控えている新人に向けて儀式は中止、自分は教祖を守りながら洞窟から脱出する準備をするので司祭の手当てをしつつ自分に続け、と命令した。だが――

「断る」

 低く気怠い声。短いが上下の立場を顧みることの無い挑戦的な物言い。初めて聞く新人の声にフェルナンドは思わず振り向いた。彼は初め、司祭の腕を切断するような攻撃をしたのは衛兵隊だと思っていた。しかし振り向いた先には襤褸のフードを目深に被った新人が、教団が与えた剣を手にして全身を縁取り青白く発光するオーラをゆらゆらと揺動させて立っているという、自分の考えを改めなくてはならない光景が目に飛び込んできた。フェルナンドは、そういえば新人の姿をまじまじと見るのも初めてだった。剣を持たせば様になるのにいつも気怠くふらりふらりと歩き、フードの奥にある目は茫洋として何を考えているのか分からない。自分の素性を全く話そうとせず、誰も彼の事を知らない。いつ自分たちの仲間入りを果たしたのかも知らない。ただ新人の赤い瞳だけが仲間である証拠だった。

「貴様、俺に逆らう気か!」

 焦ったフェルナンドが怒鳴る。彼は新人が放つ青白いオーラを、南方で見覚えがあった。怪物との戦いに特化した彼らは南方人にとっては敵でしかなく、また恐るべき存在であった。しかしそれは有り得ない。新人は芋虫を飲み込んでいるはずで、芋虫を飲み込んだ者は上位の者に服従し、ましてや剣を抜かない。ところがその新人はフェルナンドの言葉を聞いているのか聞いていないのか、剣を片手でくるくると回して遊んでいる。信徒たちの拙い武器の扱い方を考えると、フェルナンドはますます焦慮に駆られた。

 そう、信徒たちの中にがいるはずはないのだ…!

「俺の腕、俺の腕、俺の腕……」

 手にする武器で器用に遊んでいた新人が、激痛によって我を失ったかのように同じ言葉を連呼する司祭に向けて突然剣を振るう。いや、ただ振っただけではない。半透明状の青白い剣風を飛ばしたのである。剣風はフェルナンドを抜け、真っ直ぐに司祭へ飛翔すると、スパッといとも簡単に首を刎ねた。首と右腕を失った司祭の身体は操り人形の糸が切れたようにその場で両膝をついて倒伏し、刎ねた首はそれほど遠くへは飛ばずにごろごろと地面を転がり、壇上から信徒たちと衛兵隊とで交戦している真っ只中へ落ちていった。醜い芋虫を愛玩動物のように愛でていた司祭の生首は誰にも気付かれることなく、やがて他の死体に埋もれて分からなくなった。

「これで変態司祭は死んだ。それにしてもテメエら、法律を犯す時はひとつずつ、そう学校で教えてはもらわなかったのか」

 新人はそう言うと、手にした刃こぼれのある剣をまたくるくると回して遊びながらフードの奥でくっくっく、と嗤った。

 ……最早言葉は要らない。フェルナンドは剣を抜くと、雄叫びを挙げて新人に斬りかかった。だが新人の方がずっとずっと早く、上段から振り下ろそうとしたフェルナンドよりも先に姿勢を低くして踏み込み、左に払い抜ける。胴をバッサリ切られたフェルナンドは、断末魔を上げることもなく静かに崩れ落ち、そのまま二度と動くことは無かった。

 ここで新人が襤褸を取りその姿を表す。襤褸の下はヴィリエに常駐する男性テンプル騎士が一般にインナーとして装備しているドレスシャツ型の戦闘服姿だった。そして邪教の信徒であるはずの彼が何故か教祖と対峙しようとしたが、その前に小さく舌打ちをすると、倒れ込んだまま動かないクラーラの元へそっと近付いた。

「おい。大丈夫か、クラーラ」

 新人が震えるその肩を揺すると、おっとりした彼女の性格からは考えられないスピードで手を払われてしまい、更に拘束された両手をぶんぶん振り激しく抵抗してきた。鮮やかに司祭とフェルナンドを葬った彼も、これには流石に困った様子だった。

「私に近付かないで。あっちに行って!」

「馬鹿野郎。オレだ、スェーミだよ」

「嘘!スェーミさんがここにいるはずがないっ」

「嘘じゃねえよ……って眼鏡が無いのか。お前は滋養強壮を理由に、オレが嫌いだと知りつつキノコ入りスープをよく飲ませたよな。しかも残すことを決して許さなかっただろ」

「ええっ。その喋り方といい、まさか本当にスェーミさん?でも、どうしてここに?」

 邪教徒の新人に扮していた赤い瞳のスェーミは深い吐息をしながらクラーラの拘束された手を解いてやると、野暮な用事で来ているように思えるかよ、と一言添えた上で、この場所にいる事情説明はせずクラーラの安否を確認した。どうやら彼もかなり焦っていたらしく、普段の仏頂面を崩して大儀そうにしている。これは滅多にお目にかかれない貴重なひとコマだが、それはクラーラの重度な近視眼に理由があるかもしれない。見えない者の前で表情を作る必要は無く、また隠す必要も無いのだ。ただ見えない者には会話の相手の表情を知る方法のひとつに、声色がある。スェーミの声色は間違いなくクラーラを案ずるものだった。

「奴らがお前を拉致って来やがったのは計算外だった。怪我は無いか?芋虫を飲み込んでいないよな?黙ってちゃ分からないぞ。全く、世話の焼ける奴だ」

 ぶっきらぼうなのはスェーミのトレードマークのようなもの。クラーラもそれは心得ているようで、また目の中いっぱいに赤い感情の粒を溜めると、スェーミの質問を答える代わりに彼の胸内へ飛び込んだ。そうすることで彼女は遠く離れた北方にいる父母と抱擁するように、使い慣れた枕へうずもれるように安らぎ、満ち足りる事が出来た。安穏たる日常の一端を再び掴み取れたクラーラは離れたくないのだろう、そのままずっとスェーミの温もりを感じていた。

「スェーミさん……ああ、スェーミさん。助けに来てくれたんですね」

 彼女が抱擁する力は泣き叫び一度は絶望しかけた人間とはとても思えぬもので、無事である事は明白だった。一方、抱きつかれたスェーミはクラーラの背や腰に手を回すような事はせず、また無事だった事に安堵する表情も一切出さず、彼女から直に伝わる体温、それに若い女特有の体臭を感じると、いつもの仏頂面に戻った。彼の視線は既にクラーラではなく、その後ろで衛兵隊との戦闘を傍観する教祖ただ一人に向けられている。

「衛兵隊に保護してもらえ。それと訪問者にはもう少し用心した方がいい」

「えっ…」

 血で汚れたクラーラの柔らかい頬を拭いてやりながら耳元でそう囁くスェーミは、一体どんな表情をしているのか?

 答えは前述の通りいつもの仏頂面なのだが、声色では測りかねたその表情を確認するため、クラーラが近視眼で見えない目を彼の顔へと向ける。しかしもう遅かった。

「悪いがやる事が残っている。…じゃあな」

 そう言った後、スェーミはクラーラを邪魔そうに引き剥がし、今も衛兵隊と邪教徒の戦闘を他人事のように見物している教祖と今度こそ対峙した。

「これはこれは、“神官カサノヴァ”ではありませんか。どうしてこのような所で演説はなしをなさっておられるのです?それも大分熱が籠っておいでのようだ」

 壇上に立ち信徒たちへ決起を促した邪教の教祖は、どうした事か、あのタルやコレット、シイラに命令を出していた祓魔神官カサノヴァとあまりに似ていた。だがスェーミの挑発するような言葉にも反応せず、教祖――スェーミの言う通り神官カサノヴァかも知れぬ女は信徒たちの奮戦している模様を見下ろすだけ。それは、暗に邪教の教祖とカサノヴァは同一人物である事を本人が認めたと捉えてもおかしくないだろう。ただそうだとしても、今度は祓魔神官としての立場と邪教の教祖としての立場とで、呪病者の扱いに矛盾が生じる。祓魔神官としての彼女は呪病者を間接的にも直接的にも殺し、邪教の教祖としては、先程の話だと呪病者を擁護しようとしている。姿形の一致は明確な事実だとしても、その行いは正反対なのである。

「貴様、何者だ」

「テンプル騎士でございます」

 やっと口を開いたカサノヴァにスェーミが恭しく、だが、油断なく頭を垂れる。一方カサノヴァは誰何したと思えば一転、また黙するので、スェーミはお前の正体は把握している、という態度をチラつかせながら質問を投げかけた。ただ相手の様子が超然としているだけにこのような駆け引きは無意味であるとも予想する。では相手を話の土台へ確実に引き出すにはどうしたらよいか。

 …手っ取り早いのはしかない。簡単なことだ。

「神官カサノヴァ。ここは邪教徒共の拠点ですぞ。どうして貴女がここにいて、しかも声高々とイリス教の排除を訴えているのです?いいや、その前に貴女には相応しい別の名前がありましたな。そちらでお呼びすべきでしょうか?」

 カサノヴァにやはり反応がない。茫洋たる目で対峙するスェーミもそれは同様だったが、死人のような黒い目は思考も感情も全く読み取れなかった。

「……そうかよ」

 問答がまたされるのかと思いきや、不意にそれは起こった。スェーミが一言呟くと、カサノヴァに切りかかったのである。彼の動きは先程のフェルナンドやゼクスたち若者が行うような力強い突進ではなく、己の自重を用いた自然で、滑らかで、疾風の如き速さを兼ね備えたもの。スェーミはまさしく言葉通りに音も無くカサノヴァに接近しその顔目掛けて刃を振り下ろしたのだが、結果は意外な形になった。カサノヴァはスェーミへ視線すら向けず、この一撃を容易く素手で掴み取ったのである。押しても引いてもびくともしない超人的な力か何かで元の姿勢を不動のものとしているのも束の間、カサノヴァの剣を受け止めている左手から、どす黒い血の色にも似た赤黒い光が炎のようにぼうっ、と発光し揺蕩う。イリスへの反逆を企てる者らしい禍々しさすら印象に与えるオーラだが、ここで初めてカサノヴァの目がスェーミへと向けられる。そこには予測出来ない明日への不安、勤労の後に飲む一杯の酒の喜び、果てしない知識の壁を登ろうとする探究心に、四顧寥廓たる大宇宙の片鱗、星々の瞬きすらも感じさせない。

 黒、黒、黒。絶無の黒。ただ黒があるだけ。それも吸い込まれそうなほどの。黒の先は何も無いのか、見えないのか、それとも我らの知覚を退けるところにあるのか。

「一介のテンプル騎士如きがよく教団に潜り込めたものだな」

 気持ちの悪い女……そう思うだけならまだ良い。スェーミは敵の底抜け穴のような目をまともに見て、相手の計り知れなさに愕然とし、また恐怖も覚えた。女を切り伏せて勝利する結果というものが、あの“黒”によって飲み込まれるような気がしたのである。そこで彼はそれを悟られないよう、また払拭するよう、毛髪の一本一本から剣先に至るまで精神力を循環させた。更に敵の目の内まで見ないようにした。もしかするとこれは敵の魔法、或いは策であるかもしれないからだ。

「ああ、苦労したぜ?毎日血ヘド吐きながら戦争している南方のテンプル騎士団にあんたの事を調べさせたものでね。奴らからあんたに伝言だ。“仕事を増やすな”……だとよ」

 そう言うスェーミは女神イリスの尖兵として邪教と立ち向かうが如く、青白いオーラをまとい、ゆらゆらと立ち昇らせている。対するカサノヴァの赤黒いオーラとで、二色のオーラは互いに激しく鬩ぎ合い干渉し合った。

 しかしながら、スェーミはカサノヴァと対決する中で現状の不味さを素直に実感していた。まるで親に力で反抗する幼子のようで、カサノヴァが剣を握る手に対し本当にびくともしないのだ。体術で応戦するにも相手のこの異常な力がそれを躊躇させる。

 それもそうだろう、普通に考えれば勝ち目は無い。ただの人間である彼ではいかに練達した技や経験を持とうと、祓魔神官――つまり呪病者を殺すことが出来ないのだ。それには教会が陳ずる“呪病者を殺せるのは呪病者だけ”という原則が関わってくる。呪病者となる仕組みとこの原則を成す理由などといったものは現状一切解明出来ていないが、教会が異端としながらも公然と呪病者を祓魔神官として採用している事から、原則やそれと捉えられるような何らかの事象は間違いなく存在しているのである。

 “神に呪われし者”は伊達じゃない——そのように今、スェーミが呪病者と普通の人間の差、祓魔神官という肩書きを目の前の女によってまざまざと思い知らされていると、これまでなんら表情に変化を示さず黒い目でスェーミをただ見つめていたカサノヴァが、俄に言った。それは到底受け入れられず、また信じられないものだった。

「テンプル騎士よ、我らの同志となれ」

「何?何だと?」

「私の話を直ぐ傍で聞いていただろう?お前にはその権利がある。我らの同志となるのだ」

 スェーミは油断なくあっはっは、と笑うと、カサノヴァの言っている意味が理解出来ず、もう一度どういう事なのか質問した。しかし次のような主旨の欠けた言葉を抑揚の無い声で述べるだけである。

「お前はこちら側の人間だ。何も覚えていないのか?」

 ――そんな馬鹿な。テメエらクソ共と一緒にするんじゃねえ。

 眉間につつと汗を流しながらも不敵な笑みを見せると、スェーミは言った。

「覚えている覚えていないも何も……おいおい、頼むぜ。こんな臭くてジメジメした所に潜入し、あんたが現れるのと衛兵隊を嗾けて突入させるタイミングを合わすのには骨が折れたんだ。今更停戦交渉なんざ受け入れられねえ、諦めな。それと一応言っておくが、命乞いをしたいというのなら無駄だぞ。あんたにはここで死んでもらう」

「あの肥えた上官がそれを許さぬだろう」

「本部長の事か。分かってねえな、あんた」

 スェーミが青白いオーラを凍てつく飆風のように巻き起こし、自身の頭髪だけでなくカサノヴァの長い髪と襤褸を威嚇するように揺らす。

「ここからはボランティアだ。つまりあんたを殺すのは仕事の内じゃねえってことさ」

 自分は自分の物語の英雄であることを願い、何らかの使命を帯びていることを信じている――誰もが抱くそんな見解を、琥珀色の液体が注がれていた空のグラスを見るような目で辞む。それがスェーミだ。希望や情熱を持たない者が目を赤くさせてまでしてこの洞窟に潜入し、危険を顧みずボランティアと称し大敵の前に刺客として現れ、勝ち目の無い勝負に挑むその理由は彼自身の他に知る者はいない。その代わり、生きるも死ぬも生かすも殺すも、そこに一切の女神の慈悲は無いという事を彼の心が語らずして語っている。

 どんな敵を前にしても悪鬼羅刹であれ、と。

 万物の法則ですら掴み取れぬ風であれ、と。 

「覚えていないのなら思い出させてやろう。“イリス様ごっこ”を」

 カサノヴァが感情が読み取れない死人のような黒い目を再び動かす。この時敵の目が“攻撃”として自分を捉えたと感じたスェーミは、咄嗟に利き腕の左手を剣の柄から離すと、少ない時間、僅かな精神力で、可能な限り敵に損傷を与えられる魔法を反射的に繰り出した。ところがそれよりも早く、カサノヴァの赤黒いオーラが突然爆発したかのように膨れ上がり、魔法の力を左手へ集約・解放をしようとする青白いオーラごとスェーミを飲み込んだ。すると邪なオーラを間接的に帯びた彼の頭脳に、記憶に無い筈のもので様々な情報が強制的に映像として入り込む。それは――


『見渡す限りの花畑』

『子供の姿の自分』

『女の子との出会い』

『勝負のつかないじゃんけん』

『途方に暮れて二人で歩く』


 ……ブロンドのお下げがまるで人形のような女の子と言葉少なげに歩いていた。するとどこから現れたのか、もう一組の綺麗な顔立ちの男の子と黒髪の女の子と出会った。彼らもこちらに驚いている様子で、話を聞くと勝負のつかないじゃんけんとどこをどう歩いても花畑しかないこの場所に五里霧中と言った所で、境遇は自分たちと同じだった。

 じゃんけんをしよう、と一緒にいたお下げの女の子が言うと、あの人も混ぜてやろう、と綺麗な顔立ちの男の子が指差す。その方向を見ると、何故かあの聖ロスタインが佇んでいた。

 私呼んでくる、と言って黒髪の女の子が聖ロスタインへ駆けてゆく。そして、その子が連れてきた人物とは――。

「やめろっ」

 時間にして秒の世界だった。

 スェーミは赤黒いオーラを振り払って後退ると、ずきん、ずきん、と痛む頭を抱える。敵はもうオーラを帯びていなかったが、その代わり右手の甲にある、荊を振るう魔女の印を煌々と赤く光らせていた。祓魔神官たちが“呪いの石”と呼ぶもので何らかの機能を使ったとみられるが、もしそうだとして敵は一体何を見せようとしたのか?これも短い時間だったが、スェーミは今見た映像について考えた。

 幻覚?魔法?攻撃の一種?それとも今のは忘れていた記憶を思い出させる治癒魔法の類なのか?いずれにせよリアルで、映像の中の自分は気付き始めていた。一緒にいたおさげの女の子と、とても重要な何かをしなくてはならない事を。それは何かというと、言葉にするのが馬鹿馬鹿しくも恐ろしく、どうか敵の魔法攻撃による一時的な錯乱であって欲しいと心から願いたいほどのものだった。

「思い出したか?お前が夢の中で出会った黒髪の娘、あれは私だ」

「何?夢だと?」

「これが世界の真理。呪病者の正体だ」

 お前は何を言っているんだ。

 卒爾な敵の言葉に困惑するスェーミがそう問い質そうとした時、誰かが大声で彼を呼んだ。見ると衛兵隊は邪教徒たちの抗戦を鎮圧しつつあり、集会所の入口にはあのヨアヒムがいてこちらを見ている。スェーミはヨアヒムがここにいる意味や自分を呼ぶ理由よりも、先程の映像についてまた考えた。

 …違う。ヨアヒムはあの映像に出てきた、カサノヴァとペアだった綺麗な顔立ちの男の子ではない。

 理屈では説明出来ない直感がスェーミ自身の問いに答える。あの映像を見た後のせいなのか、その答えは確信じみていた。またどういう訳か、なんであいつはそんなに情けない面をしてやがるんだ、とスェーミの目にはヨアヒムがとても憐れで悲しく見えた。

 はっ、と我に返りスェーミが前方を睨むと、カサノヴァは祭壇奥にある、一般の信徒に立ち入りを禁じている通路へ走っているところだった。直ぐに後を追うため彼も地を駆ける。

 敵が先程のような映像を見せたり意味不明な発言をする理由は分からないが、ひとまず夢やら映像やらについては後にする。最悪、忘れてしまってもいい。今後自分に直接関り合いがあるとは思えないし、所詮幻覚の類だ。

 そう自分に言い聞かせると、スェーミは護衛の邪教徒二人による強襲を難なく退け、それ以上不可解な映像について考えるのを止めた。そしてカサノヴァの背を獲物を狙う肉食動物のように追う。

 “稀代の毒婦”ヴィクトリアの死からその存在が明らかになった邪教の壊滅はもうすぐだった。ただ真相の全てを知るにはあの女、カサノヴァから色々と聞き出さなくてはいけない。

 その後のスェーミの選択肢の中に“ただ生かす慈悲”というものはやはり無かった。

 ………

 ……

 …

 その夜、ゼクスは自分が記憶する中で二度目の夢を見た。

 一度目の夢は、自分の育った場所である聖ロスタインから出ると一面ピンク色の花畑が広がっているという、現実離れした景色がどこまでも広がっていた。

 そう、それから子供たちがいた。子供たちは遊ぶようせがみ、じゃんけんをして、自分が負けて、“イリス様ごっこ”の鬼になった。あれから色々あってすっかり忘れていたが、こうして二度目の夢を見ることで、ゼクスは再び夢の内容を鮮明に思い出す事が出来た。

 二度目の夢はあの名も知れぬピンク色の花々の上でうつ伏せになり、その花弁に埋もれた状態から始まる。ゼクスは花弁を払いながら起き上がると、自分の身を確かめた。寝間着用の修道服姿で、最後に身に付けていた衣服の記憶と一致する。また、一回目の夢の最後から目覚めた時にまで感じた、あの例えようのない心理的重圧感は無い。いや、本当は心の何処かでは常に重荷を抱えていて、それを自分の意思とは無関係に封じ込めていると説明した方が、もしかすると正しいのかもしれない。

 ……出来ることなら鬼を変わってもらいたい。この苦悩と課せられた何らかの責務を誰かが代わりに全うしてくれれば、今後夢の事など気に留めることなく元の日常を過ごすことだろう。ただ、自分が抱えた問題を一緒にじゃんけんをしたあの子供たちに背負わせようというのかと問われたら、そのつもりはないと即答する。結局の所、この夢の中で他に登場人物がいなければ鬼は自分が引き受けるしかないのである。そうなるとイリス様ごっこの鬼になった意味と、鬼になったことで具体的に何をするのかを知ろうとする探求心から、行動せずにはいられないのだ。

 さて、前回の夢の内容は思い出しはしたが見当もつかない夢の意味までは考えないようにして、ひとまずゼクスは髪にもついている花弁を払いながら辺りを見回した。果たして少し離れた所に聖ロスタインが見えるだけで、それ以外の人工物は確認出来ない。

 現状、この夢が以前見た夢の続きだとすれば、する事といえばひとつしかない。一緒にじゃんけんをした、まだどこかにいるはずのあの子たちを探して訊ね、二回目の夢の行先を知るのだ。

 ゼクスは少し迷ったが、あまり遠くへ行き過ぎないように、聖ロスタインが見える位置を保ちながら辺りを探索することにした。

 暫く歩いていると、見渡す限りの花絶景の他に緩やかな斜面が現れた。導かれるようにその斜面を降りてゆくと草花で出来た隧道があって、そこにはピンク色の花の他に、天井から葡萄のように垂れ下がる無数の花が、宝石に似た煌めきを放ちながら爛漫と咲いていた。花を近くで観察してみると、蔓の先に小さい花が集合して垂れ下がっており、それが花弁と同色の幽き光を放ちながら、時折どこからともなく吹いてくる甘く穏やかな風によって楚々と揺れている。この花もゼクスの知識に該当せず、ただ紫を基に赤、赤紫、ピンク、白、黄といった色が階調となってずっと奥まで続いている。しかもこれだけ密集して咲いていれば隧道内は影になって暗いはずが、暗くない。花のひとつひとつが放つ幽き光がゆっくり明滅して、周囲を明るく照らすのだ。この花の隧道を少し進むと道が湾曲していて、その先に子供が座り込んでいた。頭髪はゼクスと同じブロンドでお下げにしており、ライトブルーの瞳、それから青い花柄のワンピースを着た八歳くらいの女の子だ。普通の子供とどこか違うのは、子供ながらに気品と凛々しさを宿しており、妙に落ち着いて子供らしくない。ゼクスの記憶によれば、女の子はイリス様ごっこで鬼を決める時にじゃんけんをした子供らの内の一人で、人形のように可愛らしい顔立ちをしているが残念なことに憂いを抱えた様子だった。

「見ぃつけた」

 女の子がはっ、と息を飲んだ後に立ち上がる。だが逃げようとはせず、眉を曇らせたままただゼクスの顔を見つめている。ゼクスは微笑を湛えながらゆっくりと女の子の近くまで歩み寄るとそこで屈み、いくつか質問をした。

「僕の名前を知ってるみたいやな。えっへっへ、ほな君の名前はなんていうの?」

「……」

 返事が無い。人見知りをする子なのだろうか。

「君はなんでここにおるん?兄ちゃん、迷子になってもうてん。ここがどこなのか教えてくれへん?」

 ゼクスが照れ笑いをしながらぺろっと舌を出す。子供受けには申し分無い愛嬌だが、それでも女の子は愁眉を開かず、無言だった。これにはゼクスも困ってしまい、さてどうしたものかとうんうん唸っていると、

「あのね、ゼクっちゃん」

 …と、女の子がぽつりとか細い声で何事か話し出そうとする。ゼクスは、本当は身を乗り出し聞き耳を立てて、ここはどこなのか、イリス様ごっことは具体的にどんな遊びなのか、どうして自分たちはこれほどリアルな夢をはっきりと知覚しているのか等、矢継ぎ早に質問をしたかった。したかったが、なんとかそれを堪えて女の子が話すのを待った。

「イリス様ごっこなんだけど……本当は私とあの子か、他の子たちがペアになって鬼をする筈だったの」

 そう言って女の子が隧道の奥を指差す。そこにはもう一人子供の姿があり、ゼクスが目を移した時にはスッと湾曲した道の先へ消えてしまった。ほんの一瞬だったが、男の子に見えた。

 ここでゼクスが女の子の言った意味を考える。

 イリス様ごっこは本来、この女の子とさっきの男の子、二人でやるはずだった。または他のペア。そういえばじゃんけんをした時、まだ男の子と女の子が一人ずついた。

 二人。二人でやることに何か意味があるのだろうか?

 ……考えたところで情報が少なすぎる。ゼクスは自分の心臓が飛び出さんばかりに鼓動するのを感じながら、女の子を刺激しないように優しい笑顔で質問を続けた。

「そうなんや~、二人とも仲ええなぁ。ところで兄ちゃん、その“イリス様ごっこ”ちゅうのも――」

「ゼクっちゃんなら、ゼクっちゃんなら二人じゃなくて一人で出来るから……」

 女の子がゼクスを遮り、まだ小さいというのに真に迫った様子で言う。どうもこの子が眉を曇らせているのは責任や罪の意識のようなものを抱いていると察することが出来るが、一方のゼクスは脳天に楔を打ち込まれたような、預言者が天啓を授かるような、視界が真っ白になるほどの激しい衝撃を受けていた。

 自分のことは自分がよく知っている。間違いなく自分はイリスではない。だがそれ以上に、それ以上にだ。自分の、誰も知らずまた知られてはならぬ禁秘を理由に、本来二人で行うはずのイリス様ごっこを一人でやるという意味を持つのだとしたら……!

 このイリス様ごっこの鬼という不本意の選定により、戸惑いや恐れ、煩わしいものでしかない事が、ゼクスの中で激しい憎しみになって変わろうとする瞬間、女の子がまた言った。

「私とあの子で、君を助けるから。必ず助けるから!」

 女の子の言葉を聞いた瞬間、今度は突然後ろに引っ張られる感覚がした。正確には物理法則に従って落下する現象が自身の背後、つまり横方向に向けて起きる奇妙な形だ。それが風を切るような音を感じながらゆっくり進むと、次第に真っ黒な空間が自分の視界を包み込んでゆく。自分の目で捉えていた花の隧道と女の子が映像を視聴するように切り離されたかのようで、その映像の中の女の子はくるりと背を向けると、隧道の奥へ駆けて行った。そしてこの映像がどんどん遠くなってゆき、点ほどの大きさになると、最後には真っ暗な闇に包まれる。しかしただの闇ではない。質量を持った何も見えない何かだ。そこでゼクスは、改めて誰かに呼ばれた。

「ちょっと、ゼクスくん。凄い音がしたけど大丈夫?」

 臀部の鈍い痛み、それから轟々と唸る嵐の音と共に聞こえるリタの声。夢から目覚めたゼクスはまたやってしまった、と自分の寝相の悪さを憎む。なんの照明の無い真っ暗な部屋の入り口に目を向けると、心配そうなリタがこちらを見ていた。

 二人が夜空を眺めていた時刻がおよそ二十三時頃。夏とはいえ夜風にずっと当たっていては体に障るので、時間まで待機するため部屋に戻ったらいつの間にか眠ってしまったらしい。ゼクスの目は暗がりにある時計の秒針ですら見ることが出来るが、それによるとあれから四十分ほど経過していた。

「は、はひ。だ、だ、大丈夫です」

 リタの問いにだいぶ遅れて、吃りと裏声を混じえつつゼクスが返事する。だが余程大きな音だったのか、それとも他に危惧する要素があったのか、彼女は訝しげな表情をしたままだった。

「寝る子は育つと言うけれど、寝相が悪いのも考えものだよ?……もうすぐ時間だから支度して」

 そのように伝えることを伝えると、リタが退室する。あまり怒らなかった所を見ると“鬼の副長”はまだ本領発揮せずといったようだが、彼女を舐めてはいけない。ゼクスは速やかに起き上がると支度を開始した。ただ、支度をしながらもイリス様ごっこの夢について考えていた。

 雲間から差す淡い黄色の光芒。名も知れぬピンクの花を揺らす穏やかな風。仄かに香る甘く心地良い花の香り。強く握るとくしゃくしゃになってしまう花弁、その感触。物体に質量が存在し自分の体を地に縛り付ける現実と瓜二つのあの世界は、本当に夢なのだろうか。また、最後にあの女の子が言った事はどんな意味が込められているのだろうか。

 自分を守る?あの子たちが?どうして?

 守れなかったらどうする?守ろうとする過程でもし会えなくなるとしたら?

 実践任務考査を終えてヴィリエに帰還した後、ゼクスは夢を見る原因について調べた。それによれば夢の続きを見る原因に関して、単に同じ体勢で寝ていたり、その者の性格、例えば繊細であったりすれば起こりうる。また心的外傷によっても見る事があるという。ではゼクスの心が本人が意識しない所で意図的に夢を見させるのかといえば、現代の医学的見地では、夢の内容をコントロールするのは難しいとされている。したがって今まで全く夢を見る事が無かったゼクスが急に見るようになり、しかもその続きを見るのはとても珍しい事なのだ。

 夢を見る理由など無い。見るべくして見た。ゼクスはそう考えて夢を忘れようとしたが、夢を見た後に残る感情は静かな水面に広がる波紋のようで、彼の心を暗く靉靆させる。その感情を言葉で表すなら、それは“羞恥”だった。


 午前零時四十五分 リタの家 正門前――

「さぁ、乗って」

 リタと嵐に急かされて、二頭の馬が引く幌馬車の荷台にゼクスが乗り込む。一旦横殴りの雨が治まっていたのは良かったものの、訓練所では毎日のように着脱していた防具がテンプル騎士として正式に採用されてからあまり装備しなくなったため、重く感じる。また背中に抱えた盾も邪魔だった。一方我らの副長の装備は、ケープコートによく隠れて見えないチェストガードとヴァンブレイス、肘当て、グリーブのみ。盾を持たないのは彼女が二振りの剣を操るからなのだろう。

 もたつくゼクスの後にリタもすぐ乗り込むと、直ちに幌馬車が発車した。幌馬車の荷台は両端にある木製の出っ張りが手前から奥まで延びているだけのシンプルな構造で、ちょうど椅子のように腰をかけられるようになっている。ゼクスは荷台のすぐ手前に腰を下ろすと、リタもゼクスと向かい合うような位置に腰を下ろした。荷台からの景色はリタの家の正門とその向かって右側の姿が見え、幌馬車が進むにつれて、あの美しい邸宅が生暖かくて強い風と出発してまた降り出した大雨の中に佇むシルエットだけになってゆく。

 ああ、こんな形であの場所とお別れになるなんて。また来ることがあるのだろうか?その時は一体どういうシチュエーションだろう…。

 これから重要な任務があるというのに、ゼクスが荒天と夜の闇に溶け込んでゆくリタの家をもの惜しげに見つめる。結局リタと本当に食事をして、今夜の任務に備えて彼女の家でただ休むという、仕事上の成り行きなだけでそれ以外は何も無かったが(逆に何かあってもまずい)、それでも居心地が良かったのは確かだ。

 次があるとしたら、一緒に料理も出来たらいいな。それとも僕からどこかのレストランに誘うとか。

 そう夢見の悪さを忘れるようにリタの家でのひとときを反芻していると、ふとその本人はどうしているのか、チラリと様子を伺う。彼女はここに来る時と同じ、俯きながら物思いに耽っている様子でどことなく話しかけづらい。本国の任務から帰還し、その日の内に継ぎ接ぎの館で捜査を行い、別行動中も色々やって、それから深夜のこの任務だ。休むこと無く仕事をしているからか、彼女が疲れているような印象を受けた。いや、きっとそうに違いない。

 ところでこの馬車はどのようなものかというと、荷台の内装の通り、人を輸送するための馬車で二騎が所有するもの。十人以上は乗車出来るとされているが、動力源が馬であるため、重量過多にならないよう注意が求められている。そんな馬車をリタがこの時のために手配したのだ。これから向かう九番街の岩石海岸地帯はリタの家からだと直線距離では近い位置にあるが、実際は来た道を戻りまた海側に面した場所へ向かうため、だいぶ距離がある。今回の任務で二人同時に、それも早く移動出来る馬車は必須と言えるだろう。

 ガラガラと音を立てて走行する馬車の音に交じって、嵐によって唸る強い風と降りこめる雨の音が聞こえる。荷台はそれほど広くないし特に目に留まるものも無く、外の音を聞くくらい静かで二人の間に会話が無い。憂鬱な夢と任務による緊張で意識していないでいたが、この事に気付くと、ゼクスは何か話をしようとその内容を模索した。

 …そうだ。そういえばまだこれからの任務について聞いていない。

「ねえ、副長」

「うん?」

「僕たち、目的の場所に到着したら何をするんですか?」

「あ、いけない。まだ話してなかったね」

 仕事の話を持ちかけると疲れた様子が何処へやら、リタがぽん、と掌を叩いて生気に満ちた顔色になる。彼女は溌剌とした様子で内容を述べ始めた。

「目的地ではまず四騎の隊長と合流するんだけど、そこへは馬車では行けないので途中で下車するから。でもそんなには歩かないよ」

「四騎の隊長さんですか…どんな人なんやろ?」

「濃い。それに変。後は意外と要領が良いかな」

 顎に手を当ててわりと本心を述べているであろうリタにゼクスは失笑した。すると彼女も鈴を転がしたように笑う。

「怖ない人っちゅうことですね」

「まあ、少なくとも怖くはないかな」

 リタが任務の概要を説明する。

 曰く、今回は潜入任務である。邪教徒たちが潜んでいるといわれている地下古道に潜入し、“決起の儀”という集会でやってきた邪教の教祖とエミリアーノ・ポリシオを逮捕するのが狙い。相手が抵抗するならば、場合によっては殺害するのもやむを得ず。ただ殺害は最終手段で、なるべく容疑者逮捕という形にする。また本任務はリタ、ゼクス、四騎の隊長と三名で実行するため、二人同時に逮捕というのは困難である可能性があり、従ってどちらか一名に目標を絞る事とする。第一目標は教祖だ。地下古道は多数の邪教徒がいるとされ、彼らに我々の存在が発覚した場合、任務失敗どころか自分たちの命も危うい状況となる事が十分に予想される。任務成功のため、そして自分たちの命を守るためにも、彼らとの直接戦闘は避け発覚されずに潜入せねばならない。

 またリタはこうも付け加えた。

 曰く、敵の拠点に潜入するという事は確かに危険だがそれだけの価値がある。つまりは邪教壊滅、そして真相の解明である。これは君の自信を取り戻す上で必要な事であるし、並のテンプル騎士でしかも新人ならまず経験出来ないような任務なので、奮って遂行してもらいたい。

 …ここまで聞くと、ゼクスは質問した。

「あの、もし捕まったら……」

「今度こそあの芋虫を飲まされるか、魔術的な何らかの儀式の生贄にされると思う」

 実際にそうなった時の事を想像しているのか、いや、そのようなことは起こらないと確信しているからなのだろう、顎に手を当てたリタが平然と述べる。ゼクスは死地へ赴く兵士の心境が分かる気がした。

「応援は来ないんですか?」

「残念だけど来ない」

 キッパリと首を振り否定するリタを見てゼクスは、彼女は恐れというものを知らないのだろうかと心の中で溜息をつく。だが、併せてこうも思った。いざまずい状況になったとしてもこの人がきっと打開してくれるだろう……とも。

「まあ、現地にがいるみたいだから、ピンチになったら凄い番狂わせがあるかもね」

 どこか楽しそうに言う鬼の副長だが、一応、騎士団には四騎を通して洞窟に潜入する事を伝えることになっているらしい。ただしそれは明け方で事後となってからになる。どうしてこんな事をするのかというと、九番街連続殺人事件やそれに係わる出来事に対して触れるべからず、という本部長の命令が強く影響している。つまりリタは何が何でも成功させるか、或いは何らかの成果を上げるつもりで本任務に挑んでいるのだ。四騎の隊長も本部長の命令があるのでこの任務には自分だけ参加しようとしているのだろう。もし任務に失敗したら命令違反についても追求されることになるはずだ。もっとも、その頃には既に命を失っているのかもしれないが。またリタの言っていた“内通者”とはおそらくモーリスが話していた内通者と同一人物を指していると思われる。その内通者が味方なら心強いが、そもそも内通者なる人物が本当に存在するのだろうか?

 …ゼクスは希望を見い出せず、暗澹たる思いのまま質問を続けた。

「僕たちだけで邪教の教祖とポリシオを逮捕するんですか?」

「どちらか一人だけだって。何?そんなに心配なの?」

 微笑みかけるリタに、ゼクスが不安を露わにする。

「はい。第一、地下古道の場所すらはっきりしてないのに洞窟内を敵に見つからず潜入するなんて無理なんじゃあ?それに継ぎ接ぎの館が焼失した事を奴らに知られていると考えると、決起の儀を中止するかも分からない。教祖もポリシオも現れへんのちゃうかな、て思うんです」

 これを聞いてリタが少し険しい表情になる。まずい、とゼクスは思った。

「ゼクスくん、訓練所の教官からこういう任務の時になんて教わった?」

「は、はい。ええと確か――」


『専任の隊員に任すべし』


 駄目だ。そんな事は言えない…!

 ゼクスは曖昧模糊たる夢の事もすっかり忘れ、鬼の副長が何を言おうとしているのかを必死に推測した。

 場所が分からない上に内部の構造も不明。しかも敵に発覚した場合は捕らえられて命を落としてしまう――そんな場所に潜入しなくてはならない。そうなると、確実に見つからない方法でもない限り死にへ行くようなものだ。何か方法はないものか?

「も、もしかして邪教徒に変装を…?別にええねんけど、またおとり捜査の時のようなあの汚うて臭~い襤褸を着るんですよね…嫌やなぁ」

 険しい顔つきをしたのはわざとだったのか、本当に嫌がるゼクスを見たリタがくすくすと笑う。一方のゼクスは彼女の笑顔を見てホッとはするが、僕は試されているのか、と少し不満に感じてしまう。

「私だって嫌。というか不正解。この問題を解決するためもあって、私は四騎の隊長を呼んだのだから」

「ええ?四騎の隊長さんがここにも関わってくるんでっか?」

「そう。確かにゼクスくんの言う通りこの潜入任務は無茶だよね。けど、それを彼が可能にしてくれる」

 四騎の隊長は男性らしい。それにリタが濃いだの変だのと述べていたのはあくまで人物評であり、仕事上では隊長を務めるだけの能力がある男だと認めているようだ。少しでも明るくなれる材料が欲しいゼクスは、興味深くリタの話に耳を傾けた。

「彼は潜入任務に長けていて、今回の任務では透明魔法を使うみたい」

「とうめい?」

「元々は邪な理由で覚え始めたのがきっかけなんだけどね。詳しい事は彼から説明してもらうから」

 そう言ってリタが話を締めくくる。再び馬車内に沈黙が訪れるが、ゼクスはそれどころではなかった。彼は今、元々優秀な頭脳を任務へと思考を向けている。そうする事で、無謀で危険な任務を見事やり遂げて生還を果たしたいのだ。リタと、ついでに言うなればその四騎の隊長とで。

「(イリス様…願わくはどうか僕に困難を打開する力をお与えください…オーファム)」

 ゼクスはふぅ、と深く吐息すると荷台から見える景色に再び目を向ける。丁度貴族の広大な敷地と庭園がある辺りを走行しているようで、暗い車道の両端には等間隔で街頭がぼんやりと灯っている。緑の植樹は風で揺らぎ、無数の雨粒が馬車の幌を叩く音からは本格的な嵐を思わせる。ヴィリエの、明日の平和を左右するかもしれない嵐。この嵐を制するのは自分たちなのだと信じ、目的地に到着するまでゼクスはずっと外の景色を眺めていた。


 午前一時三十分 九番街 岩石海岸地帯 某所――

 九番街の海岸は、八番街寄りの岩石海岸と海図上のみの存在である十番街寄りの堆積物による海岸とで大きく分けられる。リタとゼクスが向かう先は勿論八番街寄りの岩石海岸地帯で、そこは海面変動と地殻変動によって数百年という年月を経て海の陸に面する場所を変化させ、多くの海蝕台と波蝕棚を形成している。これらは海岸段丘という形で斜面を作り出し、場所によっては断崖絶壁の海蝕崖も形成されている。二人が赴く先は同じ岩石海岸でもこれらのロケーションを見下せる場所で、先ずその近くまで馬車で移動し、途中下車して徒歩で移動する。また道中ゼクスがリタから聞いた話によれば邪教徒たちの居る地下古道がある場所は四騎の隊長が把握しているらしく、彼との合流はまさに任務の成否が関わっていた。

「到着しました」

 ずっと無言だった荷台へ、幌の小窓から御者が伝える。これを聞いたリタとゼクスは馬車が停車すると立ち上がり、荷台から下車した。その途端、横殴りの雨に曝されあっという間にずぶ濡れになってしまう。任務の困難さを天候が表しているかのようで、ゼクスは思わず空を見上げた。慈雨にしては多過ぎる降雨量、それに暴風は災いをもたらす凶雨と呼ぶのが適切だ。

 一体この嵐はいつ治まるのだろう――ゼクスはそう思いながらも、雲外蒼天の所存で顔に大粒の雨がぶつかるのも気にせず空を睨み続けた。

「ご武運を」

「貴方も帰り道に気を付けて」

 リタと御者との間でそのような会話がされる中、天を睨むのをやめたゼクスが周囲を見渡す。九番街の幹線通りから外れ更に西へ進んだこの場所は、砂利と岩が混じった地形になっておりヴィリエを囲う城壁が無い。東側に時折ぽつんと見られる朽ちかけた人工物は人家ではなく用具等を保管する倉庫のようで、人の営みを感じさせるものがなく満目蕭条といった様子。自分たちがやって来た八番街の方向を見ると、丘陵のようになっていて、それらが全て岩石で出来ている。おそらくこの丘陵を進んで行くと八番街を地形的に孤立させている大きな川と出くわすはずだ。

 幌馬車が九番街の明かりのある方向へ去ってゆくと、何も無い真っ暗な場所に荒天の中、リタとゼクスの二人っきりになった。ここからは徒歩による移動となるが、そういえば目的地の場所はどこだろう。ゼクスが改めて周囲を見るも、目印となりそうなものは何も無い。だがリタは行こう、とだけ言ってずぶ濡れの状態を気にするようでもなく先を歩くのでその後について行く。

 それから十分ほど歩くと小規模だが隕石孔のような形状をした波蝕棚がいくつかあって、どれも風雨を凌ぐのに適した小さい海蝕窪が形成されている。その内の一つで暗がりに小さなカンテラの灯りが見え、灯りから人が居るのも分かった。リタは迷うことなくその人物に近付いてゆく。

「お待たせ」

 海食窪の暗がりに佇む人物に向けてリタが声量を落とし静かに言った。やっと雨宿りが出来たと思いながらゼクスも周囲を警戒するが、酷い嵐の音が聞こえてくるだけでやはり人の気配は無い。もし誰かがいたとしてもこの荒天で気付く事は難しいだろう。

「来たか。その人は誰だい?」

 やや高っ調子の、男の声だった。またテンプル騎士でもあり、リタ、ゼクスと同じ白銀色の防具を装備している。様子からして男もこちらが何者か分かっているようで、警戒を解き、ふぅ、と小さい吐息を漏らしていた。

「この子が夕方に話した私の相棒で、ゼクスくん」

 男が腕を組み、まじまじとゼクスを見つめる。四十代程の男で少し長めの頭髪を中分けにし無精髭を生やしているが、スェーミのように尖った顎に程よい量が収まっているのではなく、四角い顎とエラが張った顔にびっしり、ワイルド過ぎるほど生やしている。

「んん?んん〜?」

 パーソナルスペースを侵し男が更に濃い顔を近付けてゼクスを凝視しようとすると、リタが箴める。

「何してるの。嫌がってるじゃない」

「いや。ちょっと失礼」

 そう言って男がしゃがみ、足元に置いてあったカンテラを持ち上げる。荒ぶる風によってカンテラの中の火は今にも消えてしまいそうだったが、それを男は慌ててゼクスに向けた。その一方で仄かな橙色の光に照らされたゼクスはこの後の展開が何となく分かるような気がしていたが、ひとまず男の出方を待つ。

「…その、最初に言っとくが、別に人の性別を決めてかかるわけじゃない。俺は仲間をみんな男だと思っている。棒があろうと割れ目があろうとな」

 男が言うと、カンテラの灯りはそこで消えた。

「ローリック、今回の任務の事なんだけど」

 男の意味不明な言動をリタが無視し、自己紹介もそこそこに本題へと入る。ローリックと呼ばれた男もわざとらしい咳払いを何度もしてから、歩きながら話そう、と言って彼、リタ、ゼクスの順で縦一列に並び、移動を兼ねたブリーフィングを開始した。

「はっきり言ってこの任務は無茶のひと言だな。どこでこんな情報を手に入れたのか知らんが、実際に邪教の教祖が現れるのか確証が無い。しかもスペシャルゲストにエミリアーノ・ポリシオまで来るんだって?本当かよって疑っちまうぞ。それで敵だらけの中に潜入するんだからな。可能か不可能かは別として、いっそ騎士団を率いて叩いちまった方がよっぽど良い」

 嵐の音に紛れて激しく波打つ音もどこからか聞こえてくる。いつの間にか三人は声を張り上げて会話をしていた。

「私たちは貴方の個人的な感想を聞きに来たんじゃなくて、貴方を頼りに来た。分かってるでしょ?」

「ああ勿論。俺は潜入のエキスパートだ。その時の状況にもよるが、少なくとも敵にバレずに潜入するための九つのステップを考えてある」

「九つも?」

 驚いたリタとゼクスがハーモナイズに私感を述べる。これに気を良くしたのか、ローリックがやや興奮気味に説明を始めた。

「ふふん、よく聞けよ。まずステップ1。“凄く強い酒を飲む”!これはもうやった」

「大事な任務があるのに飲酒するなんて」

 リタが呆れる。だが任務から切り捨てるような事をしないのを見ると、この奇妙な男の九つのステップとやらに興味を抱いているように思える。ゼクスもそれは同様で、続くローリックの言葉に耳を傾けた。

「ステップ2。なんとかなるのを祈る!これもやった。次、ステップ4。“良い女を囲ませる”!これも今やってる」

「貴方、馬鹿じゃないの?それにステップ3は?」

 暗闇と嵐の中でリタの冷淡なコメントが聞こえてくる。彼女なら頼る立場でさえなかったら殴っていたかもしれない。

「いや、一人でやるよりも仲間がいた方が良いってことさね。なんつったってこの任務にあたるのはそちらだけの問題じゃない。俺にも潜入する理由があるんだ」

 リタの質問に答えず一方的に語られたローリックの談によれば、聖トゥリナーンで盗難にあった重要宝飾品の一つ、先代の教皇から贈られた壺を探している。壺は教会の独自調査で、ヴィリエの盗品商を経由して貧民街へと渡った事までは分かっていたがそれからは貧民街での邪教の暗躍を考慮し、ローリックに潜入調査を命じたのだという。つまり教会は、衛兵隊もテンプル騎士団も行っていない、ヴィリエと貧民街との間で交わされる非合法の交易を既に捜査していたのだ。そうなると、あの焼失した継ぎ接ぎの館の存在も教会は知っていた事になる。

 一体、教会はどこまで事件について把握しているのか。衛兵隊、テンプル騎士団に続き、まさかの教会という第三の捜査機関の存在にゼクスは意外に思いはしたが(教会はテンプル騎士団の上位組織のため第三者と呼ぶにはやや不適切ではある)、ここまで来て別段驚く程の事でもなかった。その一方でリタは、濡れた頭髪が頬に張り付いているのも気に留めず何か考え事をしているのか、それとも話の続きを待っているのか、顎に手を当てて視線を落としていた。

「あそこは邪教の縄張リだろ?しかもひと儲けしてヴィリエの上流階級さながらの生活をしているシンジケートの連中がわんさかいる……だからいいアイディアだと思ったんだ。酒も食料も美女も揃ってる。俺はその三つが揃ってれば他には何もいらねえ。邪教はまるでパーティーみたいだった」

「……ふーん」

 興味の無さそうなリタの声がまた嵐の夜に響く。多分、ローリックには聞こえていない。

「それで初め、潜入するために“よう、どうやったら入れるんだ”って聞いてみたんだ。すると簡単に入れるって答えが返ってきた。でも直ぐに中指おっ立てて断ったよ。南方の邪教はどうも教団の運営そのものまではシンジケートを頼らないガチ系みたいでな、奴ら、クソみたいなルールを並べてきたんだ。まず酒は禁止。パーティーは無しってことだ。修行と称して飯が粗末なモノやまともに食えない日すらある。姦淫だって基本禁止。つまりセックスも駄目って事だ。冗談だろ?そういう経緯で九つのステップを計画するに至ったってわけさ」

「あ、そう。それでステップ3は?」

 リタはまだこの奇妙な男の話を真面目に聞こうとしているらしい。ゼクスはというと、いっそリタの私邸に引き返し、もう一度熱い湯に漬かり髪をしっかり乾かして、ふかふかのベッドで眠りたかった。そんなことを考えると、またあの夢が頭にチラついてしまう。

「…忘れた。ステップ5は……クソッ、残りも忘れちまった。まあそのうち思い出せるだろ」

 ローリックはそう言った後にチェストプレートの脇から何かを取り出すと、口に思いっきり呷って投げ捨てた。直後、磯の香りに混じってアルコールの口臭がぷん、と漂ってくる。どうやら先頭を歩く者にして潜入任務のエキスパート、この任務に欠かせない人間はたった今、凄く強い酒を飲み干したらしい。

「あ、ステップ3を思い出した。実は奴らのアジトはあっちなんだよ」

 北側の海へ向かって歩いていたのを、左手の丘陵に向けてローリックが指差す。今度こそ彼はリタに頭を叩かれた。


 午前一時五十分 岩石海岸地帯某所――

 どれほど歩いただろうか。先頭を歩くローリックがカンテラを置くと、その場でしゃがんだ。リタとゼクスも彼を挟むようにしてしゃがむ。

 雨水滴る頭髪をかき上げ、ゼクスが周囲を見る。ここらは海蝕により広範囲な海岸段丘となっていて、気を付けながらなんとか下へ降りる事が出来る、ちょうど劇場の観客席から公演が行われる舞台を見下ろすような見晴らしの良い場所だ。この下はおそらく海水が浸かる海蝕台で、今は干潮のためか海水は引いている。三人がいる場所は足場がぬかるんでいないことから波蝕棚か陸地かと思われる。

 ローリックが見ろ、と顎で合図すると、リタとゼクスもそちらに視線を向ける。視線の先には嵐と暗闇の中で今にも消え入りそうな橙色の光点と、その光点を先頭に何者かが一列になって歩いているのを確認出来た。

「邪教徒共だ」

 酒の臭いを伴いながらローリックが呟く。彼は心做しかニヤニヤと笑っており、敵が暗躍する姿をこうして俯瞰するのに楽しんでいるようだった。ゼクスはこの男の口臭に辟易し始めていたが、それよりも邪教徒の一行がどこに向かうのか気になっていたのでそちらに注視する。

 人数は計八人で、真っ直ぐに海蝕崖に向かって進んでゆく。この海蝕崖はまさに断崖絶壁で三人がいる場所から左手にあるが、これでは完全に行き止まりだ。一体彼らはどこへ向かおうとしているのか?ローリックがこの場所を案内した以上、この近辺に入口があるようなのだが…。

「ここでステップ5。“都合の良い状況は徹底的に利用する”。いいか、これから衛兵隊の突入作戦が始まる。俺たちはその騒ぎに上手く乗じて任務をこなすんだ」

「(お酒臭いなあ)衛兵隊が…?僕、昼にヨアヒムさんと会うて話したんですけど、突入作戦の事なんてなんも言わんかったなあ」

 そう言った後に、ゼクスはヨアヒムから捜査の話は軽々しくするものではないと窘められた事を思い出す。彼はあの時にはもう突入作戦を準備しており、もしかすると作戦開始の合図を待つだけの状態を作り上げていたのかもしれない。ただ、いつもの穏やかで誠実、仕事に実直な面を見せたと思えば、彼らしくもない、端正な顔立ちをきまりが悪そうにさせてもいた。詮索好きなゼクスからすればこれは何か他に勘繰らせることがあるような気がしてならず、前後の会話を思い出すと、それはリタが関わっているように思えた。

 一方、そのリタとローリックはゼクスが昼にヨアヒムと会った事には触れず、衛兵隊について話し合っていた。

「どうして貴方が突入作戦の事を知ってるの?」

「そりゃあお前の所のボス、ナハルヴェンから聞いたんだ。“リタとアジトに潜入する”って話したらさくっと教えてくれたぞ。本部長にバレたらまずいからお互い部下を通じて、だけどな」

「…まさか隊長も一枚噛んでいたなんてね」

 顎に手を当てたリタが何やら考え込む。そういえば今回の任務は彼女の独断によるものだが、隊長は容認しているのだろうか。

 いや、容認しようがしなかろうが、結局言っても無駄だから、と放任しているに違いない。それか、彼女があまりにアグレッシブなために声をかける間すら無いのかも。これは彼らからすれば日常にありふれたやり取りなのだろうが、推測するゼクスとしては自分の上官たちなだけに興味深かった。

「——という事は、衛兵隊はこの場所を既に見つけてるのか。先を越されると逃げられてしまいそう」

 まだ何かを考えている様子のリタに、ローリックがニヤリと笑いながら付け加える。

「邪教徒共が大人しく投降するとは思えないから間違いなく戦闘になるだろう。どうする?負傷して動けない衛兵隊員を助けるのか?」

 …首を振るリタ。あくまで任務を優先させる意をここで示したが、その表情には逡巡が見え隠れしていた。

「作戦の指揮を執るのは誰?」

「そっちの新人君が今言った、敏腕で知られるヨアヒム捜査官だ。作戦の方針として可能な限り邪教徒共を殺さずに確保し、異端審問にかけるらしい」

「まあ、彼なら考えそうな事だね」

 そう言うリタの表情をゼクスが盗み見る。彼女は眼下に広がる海蝕台を用心深く歩いている邪教徒たちを観察しており、それ以外に変わった様子はない。ただ、今彼女が述べた言葉は、邪教徒の扱いに関して教会の命により即刻斬り捨てようとするテンプル騎士団と、形式上とはいえ裁判を通す衛兵隊のやり方に温度差があって、その温度差を冷笑的に捉えているように聞こえる。いや、どちらかというとこの場合、“衛兵隊のやり方”ではなく“ヨアヒムのやり方”と言えば分かりやすいかもしれない。

 ここでゼクスも任務とは直接関係ない出来事や思考を一旦記憶の端に置き、会話に加わる。

「ローリック隊長殿、味方の内通者について何か知ってますか?僕たちはこれまでの捜査の過程で、邪教徒からその存在を仄めかす発言を聞いているんです」

「内通者?そんなのがいるのかい。マジに俺は知らないが、そいつがどこのどいつでどんな目的があるにせよ、上手く敵に妨害工作をしてくれれば俺たちにとって都合の良い状況になる、利用しない手はないな。それとその隊長殿っていうのは止めてくれ、ケツが痒くなる」

 本当に痒むのか、ローリックがボリボリと臀部を掻きながら言った。

「了解、ローリックさん。今回の任務で四騎の隊員さんたちは何処かで行動してるんですか?」

「それが出来たらこんな息苦しい思いはしてないって。俺たち“シードッグズ”は首輪をはめている。それは良いんだが今は鎖で雁字搦めにされている挙句、檻に閉じ込められているんだ。筋違いの命令に背くのは俺だけで十分だよ」

 シードッグズとはヴィリエ常駐テンプル騎士団第四騎士隊の“海の外回り”とは別にもう一つある俗称で、名付け親は殉教した先々代の隊長。犬のように五感を研ぎ澄ました者たちが、犬のように海を見張る意が込められているという。つまり海の番犬である。彼らが九番街連続殺人事件とそれに係わる出来事に拱手傍観の姿勢にあるのは本部長の命令であるのに他ならないが、果たして首輪をはめて檻に入れられ、鎖に繋がれただけの犬が番犬と呼べるのだろうか。番犬はイリスとイリスを信じる者たちのためにあり、テンプル騎士団のためにあるものではない。それはたった一頭だけではあったが、リタの説得と招きに応じ、鎖を断ち切って檻を飛び出し、イリスがはめた首輪を煌めかせる忠犬となってこうして現れた。犬にだって強くて明確な意思があるのだ。主人に従うという意思が。

「――それでこの事件の担当の奴らには海にでも出てろって指示してある。だから皆沖へ釣りに行ったり浜で寛いだりしてるんだが、実は隠語があってな。バカンスは聞き込み、食事は会議、宿直は張り込み、休憩はそのまま休みって意味なんだ。遊んでいるフリして仕事をしてるって訳さ」

「水着姿で聞き込みですか?」

「ああ。だからマジに遊んでる奴も中にはいるんだ」

 声を押し殺して笑うゼクスとローリックに、リタが二人とも静かに、と注意を促す。どうやら邪教徒の一行に変化があったらしい。見ると、海蝕崖の一部だった場所の岩が左右へ飛び散るように動きだし、後にぽっかりと穴が現れた。

 …入り口だ。

 彼らは海蝕崖に形成された干潮時にしか姿を見せない入口を、更に天然の岩を利用して隠していたのだ。地下古道と話していたが、見た目は洞窟と呼ぶに相応しい。邪教徒の一行は道が開かれるとそのまま穴へ吸い込まれてゆき、やがて全員穴の中へ消えると今度は岩がひとりでに動きだして元通り穴の入口を塞いだ。岩の様子を見た所、扉の開閉のように岩を動かすなんらかの魔法が施されているようだ。

「こういうのはリタの出番だな。ただしあんまり派手にやり過ぎるなよ」

 その言葉を聞いても当の本人は直ぐに真意を得られなかったようで、“え?”と言いたげな顔をして僅かな間を置いたが、

「ねえ。前から聞こうと思ってたんだけど、私が強引で、何でも力ずくで押し通す人間だと思ってない?」

 …と、直ぐさま氷の刃を露わにした。だがローリックも動じない。

「違うのか?」

「違うっ」

 含笑しながら言うローリックにリタが不快感をうんと込めて否定する。そして本当に憤慨したのか、身を乗り出して邪教徒の一行が歩いていた海蝕台へひとり段丘を下りていった。

 これはかなり不味い状況ではないだろうか、とゼクスが嵐と夜影に紛れて次第に見えなくなってゆくリタの後姿を見守っているところで、ローリックも何でもない事のように段丘を降りようと身を乗り出す。

「はは、怒らせちまった。リタは美人で強過ぎるぐらい強いんだが横紙破りなところがあるからな。君も苦労してるだろ」

 今回の任務の参加において、この忠犬がリタとどのような交渉や説得といった駆け引きが行われたのかゼクスには分からないが、彼の言うことはリタと行動をすればするほど大きく頷き肯定してしまうというもの。そこで興味を抱いたゼクスは、自分も身を乗り出し斜面を降りながら幾つか質問した。先ず彼の主任務である先代教皇から贈答された壺の捜索だ。教会は壺の在り処の有力な手掛かりとして貧民街に目をつけていたそうだが。

「あんなもん盗まれた事自体が五、六年前の話なんだ。毎月の報告書には“目下捜査中”であとは真っ白けさ。この潜入任務に俺が同行するのは、まあ、ついでの事情みたいなものだな」

 教会は盗まれた壺が本当に貧民街にあるのかどうかすら疑わしい状況でローリックに捜査させていた。なんとも杜撰な話だが、最近になって邪教とシンジケートが結託している証拠を掴むと、改めて貧民街か邪教が関わる施設の捜査をするよう命じていたらしい。恐らくその最近とはここ一、二ヶ月前からだろう。リタが類推した『A』『B』『C』案件の発生と一致するタイミングだ。尚、聖トゥリナーンでは現在模造品を飾り盗難事件を糊塗しているらしい。

 次にリタとの付き合いについて。二人は互いの善し悪しを熟知しているように思える。

「一緒に仕事をしたのはそんなに多くも長くもない。最初が確か四年前で、四騎うちの離島での捜査にまだ本部勤めだったあいつが同行した時と、二年前のあいつが副長になるかならないかって時に子爵の要請で行った、治安出動の時。それとこの間の祓魔神官を探す時だな」

 本人はまるで覚えていない様子だったが、そういえば継ぎ接ぎの館にいたモーリスが四年前にもリタと会っていると話していたのはその離島での捜査の時なのだろうか。またローリックもリタと組んで祓魔神官の捜索にあたっていたのは意外だった。この件で、彼の談でも姿を消したという二人の祓魔神官は杳として行方が知れない事を聞けた。

「一般に殆ど知られていないからテンプル騎士になったばかりの君もまだ知らないと思うが、ヴィリエに拠点を置く祓魔神官は全部で五人いるんだ。リーダーのカサノヴァだろ、剣士のシイラだろ、幻術士のコレットだろ、炎使いのフラメだろ、それに――おっと、足を滑らすなよ」

 丁度足場が近付いてきた。ゼクスはローリックに続き海蝕台へ降りきると、強風強雨の中、ぬるっとした足場に何度も滑りそうになりながら邪教徒の一行が消えていった海蝕崖の方へと向かう。


 午前一時五十五分 邪教徒の洞窟入口――

 リタに追いついたゼクスとローリックだが、そのリアクションはそれぞれ全く違った。ゼクスは如何に同意と肯定に値する発言を聞けても、その対象が上官でありコンビをも組んでいる人物。流石にフォローの一つや二つするべきだったかと後悔しているが、一方のローリックはケロッとした様子で小指を耳穴に突っ込んで周囲を見回している。ゼクスは無言の威圧を放つリタの背中が怖くてただただ困惑していたが、

「転ばなかった?」

 …と、柳眉倒豎の様相を呈した先程の彼女が至って自然に、しかも微笑みかけて身を案じてくれるので、そこで漸く――でもまだ何が起こるか分からないので少しだけ――胸を撫で下ろした。

「どんな感じになってるんだ、こいつは」

 耳穴をほじっていた手でずぶ濡れの頭髪をかき上げると、ローリックがリタの横に立ち邪教徒が何かを仕掛けた入口の岩を見上げる。一見何の変哲もない海蝕崖だが上手く岩が重なって擬装出来ており、これに海水が加わればほぼこの入口を発見するのは不可能だろう。

「普通の錠魔法みたい。ちょっと勉強すれば出来るような、ね」

 腕を組んで岩を見上げるリタから出た“錠魔法”とは、結界魔法の系統に属しその名が示す通り施錠と解錠を魔法の力によって行うもの。主な用途はそれだけなので内容はシンプルだがバリエーションが豊富なのが特徴で、例えば解施錠が分かりやすく視覚に訴えたものや、間違った解錠をすると施錠された空間が消失してしまうもの、火を起こして中身を燃やしてしまうもの等がある。他には解錠する者、施錠する者の意思に反して逆の結果にしてしまうという、人の思考を読み取るものもある。両者とも単なる時間稼ぎのような意図でしか使えない(勿論術者の使い方によって結果は変わってくる)ため、錠魔法というより罠魔法の部類に近い。共通の特徴としてはやはり結界魔法の系統にあるため、魔法痕という使用した形跡が必ず残る。その心得がある者なら、解錠した後の錠魔法は結界が破壊された状態になるため、硝子のような半透明状のものが割れてその場に落ちているように見えるのだ。魔法痕は物質に干渉せずその場に残り続けるが、徐々に蒸発して小さくなり最終的には消えてなくなる。その時間はどんなに小規模な結界でも最低二週間はかかる。

 他にも共通点がある。それは解錠方法だ。三人の前に立ち塞がる錠魔法は重い天然の岩を利用するという、錠魔法の中でも応用を効かせたものだが、錠魔法を解錠する時は術者の能力や内容に応じて難度が変化するパズルを解く。訓練所でも必修としてこのパズルを歴史から論理・実践、昨今の応用技術まで学ぶのだが、その成績に関しては凡人のローリックは控えめに見ても並、リタとゼクスはトップクラスの成績。目の前にある錠魔法は成績優良者とってお遊び程度に過ぎなかった。

「やってみて」

 先程小馬鹿にした人物から不敵な笑みを浮かべて試されるような事をされれば、男のプライドに賭けて引く訳にはゆくまい。ローリックは任せろ、とだけ言って前に出るが、あれほど立腹していたリタが妙に余裕なのはこの錠魔法を通して応酬出来るからではないか、と解錠の事をそっちのけに勘繰っていた。

 ローリックが岩の壁と向かい合うようにして立つ。次に利き腕の右手だけ青白いオーラをまとい、掌を前面へ押し出すと、何も無い空間に平らな壁のようなものが当たる。壁から触覚を通して感じるものはざらざら、つるつるといった質感が無く、熱い・冷たいも無い。ただ壁と表現するだけに固く、押してもビクともしない。そんな見えないもう一つの壁が今彼の前にある。ここでローリックは目を閉じて、視覚ではなく睡眠時に脳が夢という形で体験させるのと同じように、擬似的な五感を作り出す。これがパズルを解くための第一段階。次にパズルが見えなくてはならないが、それを第一段階で作った疑似視覚によりパズルを視認する。これがパズルを解くための第二段階。ローリックの疑似視覚では、丁度右手を前面に出している所に人間の目をした単眼の山羊に蛇が絡みついているという、南方の邪教のシンボルマークが浮かんでいるが、そのシンボルマークは額に収められた絵画のように平面図形の中に描かれており、それが十六マスに区画されバラバラに配置されている。錠魔法を解錠するためのパズルは、このように術者に関係するものに準えた形で現れるのである。また今回は四角形で十六マスだが、難度が高いものはより複雑な形でマス目の数も増える。ローリックは更に精神を集中させると、今度はパズルを解く最終段階である疑似触覚から出来た手でパズルに触れて、右に左に、上に下にと動かしてゆく。

「…駄目だ、全然出来ないっ」

「どうしたの?衛兵隊がもうすぐ来るんでしょ?」

 催促するリタだが、悪戦苦闘するローリックを見てどこか面白そうな様子。案外この二人は相性が悪いように見えるだけなのかもしれない、とゼクスは思う。

「斥候のことを考えるとヤバいな。俺たちの事がバレるかもしれん」

「なら早く解錠してよ。さっきの邪教徒たちがパズルを解いている様子が無かったから、解施錠を簡略化する呪文符か何かでも持っていたんだと思う。私たちはそういう便利な物を持っていないからパズルを解くしかないけどね」

 大儀そうにパズルへ挑むローリックとそれを楽しそうに見守るリタの構図を見ていると、ゼクスは訓練所でパズルが解けずに癇癪を起こしていた仲間の事を思い出す。それは今から二ヶ月ほど前のセピア色にもならない過去の出来事で、実践任務考査を受験するための筆記試験が間もなく控えていた時の事だ。仲間にはパズルの解錠をゲーム感覚で楽しみながらやってみろ、と助言したものだが、そのゲーム感覚という言葉で、今度は自分が塞ぎ込んでいた時に部屋へやって来たナハルヴェンとの問答を思い出した。


『何故その大切な人はお前を殺そうとしたんだ?』

『何故事情があると思うんだ?』

『何故兄妹みたいに思うんだ?』

『何故子供の頃から一緒だったというだけで、兄妹のような関係であると結び付けるんだ?』

『何故兄妹のような関係だから、何か事情があって呼び出したのだろうと思うんだ?』


 何故?何故?何故……。

 眼鏡の先にあるナハルヴェンの黒くて冷たい目。それに苦し紛れに答えた直後にまた出される難問。あの時は情けない思いでいっぱいだったので、がむしゃらに行動を起こす事でヴィクトリアの事を忘れようと必死だった。しかし今は彼女を自らの手で殺めてしまった事実を冷静に受け止める事が出来る。その上で、流石にゲーム感覚という風にはいかないが、ナハルヴェンとの問答を言葉遊びのように捉える事で“何故”に対する答えを論理的に導き出せそうなのだ。

 ゼクスにとって良い意味での遊びの発想は現実と向き合わせ、真実に向かい到達するための追い風となっている。そしてその追い風は彼へ任務に対する積極的な姿勢をもたらしていた。任務を阻害しようと立ちはだかる錠魔法の解錠は自分がやるべきだ、というように。

「僕が――」

 やりますよ、そうゼクスが言おうとした時だった。

「退いて。私がやるから」

 …と、慣れない仕事で早くも流汗淋漓のローリックに代わりリタが前に出ると、白銀色のグリーブに包まれた右脚から青白いオーラを発光させ、なんの躊躇も無く清流のような足刀蹴りをした。蹴りは見えない壁へ強かにぶつかり、その衝撃でパズルに何らかの影響を及ぼしたのか、壁の先にある岩々がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。パズルのあった辺りには無惨に砕け散った小さい魔法痕が残されており、今度はこの光景を見たゼクス、それにローリックまでが“え?”と言いたげな顔になる。

 …先に反応したのはローリックだった。

「お前、何やってるんだ。パズルを壊してどうする!」

 周囲に邪教徒や衛兵隊の斥候がいるかもしれないというのに忠犬が吠える。だがリタは“それがどうした”と言わんばかりに首を傾げた。

「何をやっているって、私たちは急いでいる。だから手っ取り早い方法で解錠した。何か問題ある?」

「手っ取り早い方法だと?ただ蹴りを入れて壊しただけだろ!」

「壊したんじゃなくて解錠したの。衛兵隊じゃあ錠魔法を解錠出来ないだろうし、かといって直ぐに突入されても困るわけだし、これでちょうどいいよね」

「……さっさと中に入るぞ」

 これ以上の問答は無駄と判断したのか、ローリックが先を歩き出す。リタもそれに続こうとしたが、ふと立ち止まった。

「ゼクスくん、何か言おうとしてなかった?」

「い、いいえ。先を急ぎましょう」

 どうやらリタにとって強引に押し通すのと状況に素早く対応するのとでは明確な違いがあるようだ。それは結構なのだが、周りの人間からすればそれがあまりに紙一重の差であるためになかなか理解を得られずにいる。ローリックの言葉を用いれば、彼女は強過ぎるのである。ゼクスは光芒一閃の鮮やかな蹴りによって折角燃え上がらせた使命感を跡形もなく吹き消されてしまったが、気を取り直して真っ暗な海蝕崖から口を開く黒い穴を睨み、一歩一歩確実に歩を進めた。


 午前二時十分 邪教徒の洞窟 エントランス――

「ここからが本番だな」

「やっとですね」

 洞窟の入口を塞いでいた岩は結界魔法によって操作されていたが、邪教徒の一行が操作した時、予めそういう動きを定められていたかのように規則正しく機械的で、入り口を開く際は右へ左へと綺麗に退けて通行の妨げにならなかった。三人が通行する際は確かに解錠することは出来たのだが、岩の動きは機械的ではなく万有引力の法則に従ったものだった。即ち、海蝕崖の上に沿って配置されていた岩が地上に向かって落下しただけだったのだ。そのため、再崩落の危険を伴いながら彼らはやっと人ひとり通れるような岩と岩の隙間を通ることとなり、その通行は速やかではあったが容易いものではなかった。これを“やっと”と言わずにいられなかったゼクスはふぅ、と深い吐息をし、先にリタが偵察しに行った洞窟の奥を見る。ローリックもそれに倣い、思ったより反響する声に注意しながら胸中を打ち明けた。

「なあ、俺たちの任務は邪教の教祖かエミリアーノ・ポリシオを引っ捕らえる事だが、本当に出来ると思うか?」

「分かりません…教祖もポリシオも見たことない人物ですし。それに捕らえた所で何処にどうやって連れていくのかちゅう問題もあります」

「本当だよなぁ」

 忠犬と仔犬はクーンと物悲しく鳴き任務の先行きを憂えるが、ちょうどその時、行ったと思っていたリタが戻って来た。

「見張りが来る。定期的な巡回なのか入り口の状態に勘付いて来たのか分からないけど」

 そう冷静に彼女は述べると、文字通り出た所勝負を敢行するつもりなのか、L字状になっているエントランスの壁を背にし、左の双剣の柄に手を当てて身構えた。どうやら敵の前に儵忽と躍り出て戦うのではなく不意打ちを仕掛けるつもりのようで、流石の彼女も不用意な戦闘は避けるべし、と心得ているようだった。とはいえ戦闘は戦闘だ。スッ、と音も無く剣を抜くリタを見たゼクスは、不安と緊張が一気に高まった。

「ふ、ふ、副長、何をするんですか」

「やっつけないと見つかるでしょう」

「で、でも」

「いいから武器を構えて」

 ここでローリックも見ていられなかったのか、間に入る。すた、すた、すた、と通路の先から足音が聞こえてきており、猶予はもう無かった。

「早まるな、リタ。ここでステップ6の“透明魔法を使う”だ」

 防御の魔法として知られる透明魔法は使用用途によって様々な使い道があり、潜入任務の今がその真価を発揮する時だが、自分の身を透明にすると自分の目を通して普段見ている手や足はどういう風に見えるのか。透明になっているのだから見えないのではないか――そう疑問を抱く事もあるだろう。これは先ず物体の物理的構造を変化させずに認識結果だけを歪めているのを共通点とした上で、光学的作用、精神的作用に二分される。前者は姿を消失させる魔道具だったり自分の身に人間や動物から視認されないコーティングを施す方法で、この時、自分の身にコーティングをするものは自分の手足まで見えなくなるものもある。後者は生物の精神を操作して見えているはずが見えていないようにさせる方法で、これは自分ではなく被術者に作用するものなので、当然自分の身体は見える。

 …ローリックが透明魔法の詠唱を始める。

「女神イリスよ、その一糸まとわぬお姿を覗かせて下さい…どうか透けるような貴女の肌をお見せ下さい…」

「その詠唱、なんとかならないの?」

 リタが呆れたように言うと、ローリックがうっ、と嘔吐く。

「来た来た、行くぞ…行くぞっ」

 何か良くない事が起きる気がする、とゼクスが直感した通りにそれは起きる。ローリックが無遠慮に盛大な曖気をしたのである。後にゼクスが知った所によれば、ステップ1の“凄く強い酒を飲む”はこのためだった。またステップ2の“何とかなるのを祈る”は、正確には適切なタイミングで曖気が来るのを祈るため。加えるならステップ4の“良い女を囲ませる”は、曖気はなるべく近くでやらなくてはならなかったから。

 計三つのステップを経て斯様な曖気をすぐ側でされたリタとゼクスは悶絶躄地といった所で、激しく咳き込み、涙を否が応でも誘われ、述べることと言えばただ“臭い!”の一言だった。

 ………

 ……

 その男はかつて勤労し、納税し、貯蓄し、たまに人付き合いのために一杯引っかけて、悩みがあるとすれば伴侶がまだ見つからないというだけの善良なヴィリエの市民だった。彼がエミリアーノ・ポリシオの部下に拉致されこの洞窟で芋虫を飲み込まされたのは一ヶ月前。今ではすっかりフー・クランヌドグ・クァンザル教団の教義のために殉ずる敬虔な信徒のひとりとなっているが、元来の義務を誠実にこなそうとする姿勢は健在で、地味で目立ちはしないが、たった一ヶ月で教団の少壮幹部から信頼を寄せる程になっていた。今夜の決起の儀が執り行われる際は全信者に儀式の参加を義務付けられているが、多くの信者が教祖の言葉を謹聴するために集合する中、彼には信用の証として見張りと巡回警備の仕事を与えられている。彼としては己の務めに励む所存なのだが、やはり与えられた武器を扱う心得が無い状態でそれを使わなくてはならない状況に陥った時、即ち、賊の侵入には恐れた。ただ潮の満ち干きと魔法による天然と人工の偽装により洞窟の入口は隠されているため、その可能性が非常に低い事が彼に勇気を持たせていた。

 大勢の信者たちが広間に集合し、その盛況ぶりを尻目にしながら見張りをしていると、決起の儀のために重要な任務を与えられているフェルナンドたちが戻って来た。

「(無事だったのか…!)」

 驚嘆と感動、それに予定通り決起の儀という不可解な儀式が行われるという先行きの不安が渾然となって、男の心を震わせる。聞くところによれば教団は南方から遥々海を渡りヴィリエにやって来た経緯があるそうだが、南方では決起の儀は一度も行われなかったらしい。

 男は生唾を飲み込みフェルナンドの赤い眼を見ていたがそのフェルナンドは、

「これから重要な儀式が始まる。お前は入口を警備しろ」

 …とだけ命じ、任務に同行させていた他の信徒、それに拉致した修道女を連れて集会所へと入ってゆく。すると沸き起こる歓声の声。男は歓声に加わることなく命令通り入口へと向かった。

 男が洞窟の入り口へと歩く最中、そういえばこの一ヶ月間、全く外に出ていない事を思い出す。通常、一般の信者たちが入り口へ行こうものなら彼のような警備係によって呼び止められる。逃亡を防ぐためだ。その係が自分となった今、この洞窟から脱出する好機ではないか。

 …そう思いはしたが、入り口は時間的に海水はまだ張っていないものの、結界魔法の岩石によって堅固に閉ざされている。

「(やはり出る事も入る事も叶わないか)」

 ふぅ、と諦念とも安穏とも取れる軽い吐息をした時、ガラガラ、ゴロゴロなどという音を伴いながら足元が震動した。音や震動は集会所までは伝わらない程のものだったようで、この異変には彼しか気付いていない。

 男は武器…といっても刃渡り十五センチメートルほどの調理に使う出刃包丁を逆手に持って構え、残念ながら音が出てしまっていたが、抜き足差し足の体で先に進んだ。もしこの時彼が一旦引き返し応援を要請することを選んでいたら、リタ、ゼクス、ローリックの三人がどうなっていたのか知れず、更に衛兵隊の突入作戦もより激しい抵抗に遭っていたことだろう。

 洞窟の入り口に近付くと、物陰からひそひそと声が聞こえてくる。それから“げぇ~~っ”と、腹の底から出る下品な音。直後に“臭い!”の声。

 誰かがいるのは明らかだった。男は意を決すると、さっ、と通路からL字になって見えないエントランスへ飛び出す。しかし、そこには誰もいなかった。予想外の状況に戸惑う彼の五感が次に感じ取ったのは、強烈な吐き気をも催すような悪臭だった。

 ——く、臭い!

 自分の体内に居座り自分の意志までも制御する芋虫ですら悶絶するような臭い。愈々視界がチカチカと白く明滅するようになると、今直ぐこの場から離れようとしたがその瞬間、がつん、と頭に衝撃が走り、それっきり男の意識は暗い淵へと落ちていった。

 ………

 ……

「ステップ7。“背後から迫る”。うちの爺さんが南方戦線で現地の女にしたように」

 両手で抱えるほどの岩を放り投げると、白目を剥いて泡を吹く邪教徒の男を見ながらローリックが得意そうに言った。一方、リタとゼクスはそれ所ではない。

「ゲホゲホ。何、この酷い臭い!」

「ゲホゲホ、ほんまですね。目にまで来るゲップなんて聞いた事ないわ!ゲホゲホ」

 それにしても、困難な潜入任務の切り札とされていた透明魔法が悪臭・刺激臭を浴びるようなものだったとはどうもリタは知らなかったようで、彼女自身相当に面食らった思いだろう、というのがこの時ゼクスの抱いたもう一つの感想だった。

 ここで忠犬、不平不満を露わにする二人を黙って観察する。仲間には髪の毛一本残さず透明になってもらわなくてはならず、またお互いに視認出来なくては非常に不便で場合によっては任務に支障をきたす。そのため、この曖気は目にまで浸透しなければならなかった。リタとゼクスはまだ気付いていないが、今の彼らはテンプル騎士が魔法の力を使う時に帯びる、青白いオーラに包まれた状態になっている。そしてこれはローリックの体内から出た曖気によるものなので、透明魔法はこの三人だけに効果がある。

 透明魔法が上手くいった事を確信したローリックは、次に巡回から戻って来ないのに敵が気付く時間、魔法の効果時間、衛兵隊の突入作戦が開始される時間等から、潜入のスペシャリストとして見た任務の予想時間を想定した。それらから導かれる答えは、任務の失敗である。リタには申し訳ないが不確定な事があまりに多過ぎた。だが彼女の事だから撤収を提案しても絶対に受け入れないだろうし、彼女の論理に欠けた強気な態度は辟易させられる事もあるがその無鉄砲さが妙にやる気を起こさせ、今この時のようになんとかしてみせようと思わせるのだ。例えそれを単なる男のつまらぬ意地だと揶揄されようとも。

「さぁ、いよいよステップ8だ。“援軍が来る前に行動する”。敵のボスをとっ捕まえるんだったら集会中は無理だ、その前後が狙い目だろう」

「アホやけどちゃんと考える事は考えてんねや。見直しました、ローリックさん」

「あっはっは、狙った獲物は逃がさないのもシードッグズと呼ばれる所以なんだぞ。あとアホは余計だからな」

「ねえ、魔法の説明をして」

 すっかり打ち解けた忠犬と仔犬に現在任務中であることを伝えるためもあるのだろう、容喙するようにリタが説明を求める。そうして得られたローリックの回答では、魔法の効果時間はおよそ十五分。これは効果が保証される時間で、効果時間に近付けば人によっては見えるようになってしまうかもしれない。また臭いについても注意しなくてはならない。臭いが消えたり、別な臭いが移ったら効果に影響を受ける。

 確実に安全な時間はせいぜい十分。それを聞いたリタとゼクスも、伝えたローリックもこの場所にいつまでも留まっている場合ではないと自覚すると、彼らはひとまず音に注意を払い奥へと進んだ。


 洞窟の通路は透明魔法の必要がないほど人気が無く、しかも蟻の巣のように複雑多岐に道が分かれているのかと思いきや、一本道。カーブを曲がるとそのまま真っ直ぐ進む道があって、その先にある場所からはざわざわと大勢の人間がいる気配を感じる。どうやら決起の儀によって邪教徒たちは広間のような場所で一箇所に集められているらしい。だが敵の居る場所までもう直ぐそこ、というところでリタが一旦足を止める。それは警戒のためではなく、何か異変が起きて動きを止めているような違和感があった。

「(副長、どないしたんやろう?)」

 ゼクスがリタの横顔をそっと覗き込む。彼女の表情は動揺、憂懼、驚嘆、煩悶といったものが混じり合い、ライトブルーの大きい瞳とびっしり生えた長い睫毛を頻りにぱちぱちとさせて、広間の先をまじろぎもせず見ている。ちょっと強引なところはあるが勇敢なテンプル騎士に変わりない彼女からは想像がつかない様子だ。ただ、彼女が彼女らしくない表情をしたのはゼクスの記憶上にはもう一つあった。それは初対面の時で、あの時はどこか虚ろな表情をしていた。

 リタはどうも人には話していない何かがあって、それを今感じ取っているのか…?

 ゼクスもいつの間にかリタの横顔をまじまじと見つめてしまっていたのか、はたと我に返った彼女がゼクスに向き直ると、“どうしたの?”と言いたげに見つめ返す。偶然とはいえその距離およそ十数センチメートル、だいぶ、いや、かなり近くに感じたゼクスは慌てて自然を振舞いながら距離を取った。

「副長、大丈夫ですか」

「え?うん、大丈夫」

 声色は平然としたいつものままだったが、洞窟内の僅かな明かりから見えるその表情は物憂げであり、馬車でこの岩石海岸地帯へやって来る時から気がかりだったゼクスは余計かもしれないと承知しつつも、彼女を案じた。

「ホンマですか?今、じっと向こうを見て心ここに在らずといった感じでしたよ?もしかして体調とかが悪いんじゃあ?」

 リタはゼクスの言葉を聞くと顎に手を当てながら難しい顔をして少しの間俯いていたが、ちらりと何やら壁を観察しているローリックを見ると徐ら話し始めた。任務中、敵地で、それも限られた貴重な時間内ではあったが、そんな事よりも、自分の事に関しては口を一文字に閉ざし謎めいていた彼女の自己開示の方が重要だと率直に思うゼクスは、一字一句逃すまいと、慎重に耳を傾けた。

「実は私が二騎に赴任した辺りからなんだけれど、頻繁に特定の夢を見るようになって…」

 夢。それを聞いてゼクスの心臓がどくん、と跳ね上がる。

「内容は、知らない子供同士が他愛のない遊びをしているものでね——」

 リタが続けようとすると、ローリックがちょっと来てくれ、と呼び止めた。

「何?何かあったの?」

 仕事の顔に戻ったリタが振り返る。もう少しで話を聞けたのに、と思うゼクスも少しむっとした顔をして振り返った。そこには真剣な表情をするローリックが、壁のただ一点を凝視している。彼は少し変わった男だが任務に取り組む姿勢は本物で、一見軽くあしらっているように見えるリタもそれを承知しているのか、ローリックの観察眼を辿ろうと目を鋭くさせている。

「なんかこの道、臭くないか?」

「はいはい、貴方のゲップがね」

「本当に臭いって意味じゃない。怪しいんじゃないかって言いたいんだ」

 そう言いながらもまだローリックがじっと壁を見ている。そこは海蝕洞に人の手が加えられた何の変哲もない岩の壁だが、よく見ると岩肌がブレて見えた。これは彼らテンプル騎士や魔術の心得がある者しか見破れない、巧妙に偽装された言わば隠し通路の入口である。しかもリタが触って調べた所によれば結界魔法が施されていた。ここまでになると何者かが意図的に隠した道に違いなく、三人はこのまま直進するよりも結界を解いてその先へ進み、何があるのか確かめてみる必要があると判断する。

 しかし、ゼクスはこうして任務が進行していってもリタが夢について言及した事を頭から切り離せなかった。彼女の不可解な様子は他人事ではないと直感が言っているのだ。自分の見たイリス様ごっこの夢をもし彼女も見ていたとしたら、これは一体何を意味するのだろうか?

 邪教、貧民街のシンジケート、九番街連続殺人事件の真相、潜入任務に限られた時間、そして意味不明な夢。使命感に燃えては深い思考に沈んでゆくゼクスの心は今、靉靆とし優れなかった。

 一方、リタがさっさとパズルを解くと岩肌が消え、結界魔法による触覚を擬似的に与える現象も消失した。そしてローリックの睨んだ通り、その場所にはポッカリとやや上り勾配のある通路が姿を現す。

「……だろ?犬は鼻が利くんだ」

 リタは得意顔のローリックを物言いたげな目で一瞥すると、隠し通路の先へさっさと進んでゆく。その後を続くゼクスもローリックに目を合わすと、彼は白い歯を見せてニカッと笑った。

 そうだ。僕は副長とコンビを組んでいて、ローリックさんも含めると僕たちはチームということになる。僕がだらしないと、二人の命にもかかわるかもしれない——。

 ローリックがゼクスの精神状態を察知しているのかどうかは分からないが、本当の意味でゼクスを任務に戻させたその笑顔は強烈で、任務の先行きが不透明だというのに何故か二人の間にくすくすと笑いがこみ上げてきた。

「二人共、来て」

 先を進んでいたリタの呼びかけによってゼクスとローリックは直ぐに緊張感を取り戻し、ここで二手に分かれる。ゼクスはリタの方へ向かい、ローリックは敵に発見されないよう、また衛兵隊が突入する際にこの隠し通路を通らないように再度結界を張る作業を開始した。衛兵隊には邪教徒と正面切ってぶつかってもらった方が、注意がそちらに向くので潜入に都合が良いからだ。しかしその前に、彼はこの先にある邪教徒たちが集まっている広間を調べるため、一人でそちらへと足を進める。例え任務が失敗しようとも、ただ失敗するだけでは終わらないのが彼の主義だった。


 午前二時十五分 邪教徒の洞窟内部――

 隠し通路は階段を一階から二階へと上がる程度の距離でそれほど長くなく、足音を立てずに小走りで向かうと、ゼクスは直ぐにリタの居る場所まで到着した。そこは人の手によって造られたであろう奥行きのある広間で、あるものと言えば大量の人骨。骨が揃ったものから頭蓋骨、肋骨、腕の骨、足の骨、頚椎から胸椎のものだけといったバラバラなものまで、とにかく何十人分もの人骨が広間の中に転がっている。何より目を見張るのは骨が揃ったもので、いくつもの人骨が起き上がり、しかも剣や弓矢などで武装している。彼らは空洞のはずの眼窩から浅葱色の光を放ち、何をするでもなく広間の中をうろうろと歩き回っては時折立ち止まり、その場にじっと佇んでいる。中には襤褸を着込んだ個体もいて、人骨たちの生前はおそらく邪教徒であったことが伺える。

 人骨だけが直立二足歩行する姿を想像出来るだろうか?

 足の骨が地面を歩行するという事は、骨が直接地面とぶつかる事を意味する。その音は、かたん、ことん、かたん、ことん、と木を叩く音に似ており、木材を加工する音ならまだしも、人骨が歩く音となれば死そのものが歩くようで、聞いている方はかなり気持ちが悪い。また人骨だけで人間は歩けるのか、というと答えは当然不可能だ。人間は先ず脳から身体を動かすための信号を送り、その信号を受信して筋肉が動く。骨はその支えをする役目を担っているのは人間も動物も同様の仕組みだが、今リタとゼクスの前にいる人骨たちは骨だけで歩行している上に各々武器まで手にしているという、生命体として完全に逸脱した存在だった。

「めっちゃきしょいわぁ…こいつらなんやねん」

「ゼクスくん、これがなんだか分かる?」

 身を隠すことなく堂々と腕を組んだリタが問う。彼女の視線は歩く人骨たちに向けられていたがその眼差しはゴミを見るかのようで、この時点で彼女が最終的に取りそうな行動は分かる気がしたが、ひとまずゼクスは質問に答えねばならなかった。

「あ、あれはせ、せ、精霊術です。古の呼び方でいう所の死霊術」

「今の訓練所はそう教えてるんだね。私は普通に死霊術って教わったけど」

 二人の共通した意見は名前でなく、死体を魔法の力で動かすという禁断の術である事だ。邪教は芋虫でヴィリエの人々を汚染させた。だがそれだけではなく永遠の安寧を得られるはずの死者をも隷従させ、よからぬ謀に利用しようとしているのだ。

 クカカカカカ。

 クカカカカカ。

 呼吸でもしているのか(そんなはずはないが)、リズミカルに骨と骨が軋み合う音を発する人骨たち。そんな死者の成れの果てをゼクスたちが見ていると、どういう作用が働いているのか分からないが、突然洞窟中に、低い低い、男のようで実は女と分かる声が木霊した。

『血盟によって太陽と月の下に集まりし我が子らよ――』

 恐らくこの声の主こそ継ぎ接ぎの館が燃える最中にモーリスが話した“教祖の女”だろう。どうやら決起の儀が始まったらしい。一体何を述べるのかと聞き耳を立てた途端、二人は瞠目した。

『今から我々は武器を手に取り、破壊と創造を繰り返し人類を幾度となく滅亡の危機に立たせてきた邪悪な双神の神イリスを倒すための戦いとして、港湾都市ヴィリエを攻撃する』

 ゼクスがリタの顔を見る。彼女も“今の聞いた?”といった顔をしてゼクスを見ている。二人は思わず顔を見合わせていた。

 意味が解らなかった。

 かつて人類は滅亡の危機に瀕していた——確かに救世神話の時代以前から怪物との生存競争を続けてきた人類が、滅亡を予感させられるような事態に直面した事があるかもしれない。しかしそれがイリスが行ったことによるものとはどういう事か?

 もっと聞き慣れないものがある。“双神”だ。イリスはイリス。我々が信仰する唯一無二の女神のはず。

 ゼクスがそのように思案していると、リタに肘で小突かれた。彼女の視線は歩く人骨たちに向けられていて、先程の侮辱的なものではなく今度は“敵”として凛然と攻撃の態勢に入っている。他方、歩く人骨たちは教祖の言葉に反応してか、侵入者の二人をここでやっと認識し、武器を構えてにじり寄っていた。

 そう、今は考えるより行動。洗礼の剣を抜く時。そして歩く人骨たちに再び死の沈黙と眠りを与えるのだ。憎しむのでなく、救うために敵を討つ。それこそ我々テンプル騎士が戦う意味、本懐ではないか。

『この戦いにおいて諸君ら一人一人が戦士である。戦士はただ戦うだけでなく勝たなくてはならない。私は、そのために如何なる奸計も、略奪も、残忍で非人道的な蛮行も赦されると思っている』

 教祖の声が再び木霊するその時、歩く人骨たちが一斉に襲いかかって来た。その数、十体。広間に散らばる骨の数にしては少ない個体数だが、それでも数の上では勝っている敵との交戦だ。ゼクスはすぐ様剣を抜き盾を構えて一旦距離を取ろうとしたが、リタが前に出ろ、と叫ぶので勇気を振り絞り迫りくる敵と対峙する。すると最前列にいた敵はもうすぐそこにいて、しかも剣を振り下ろそうとする所だった。咄嗟に盾でこれを受け止めるとカキン、と音がして、盾が弾かれ態勢も崩されてしまう。まずい、と思ったゼクスは間髪入れずに右から左へ切り払おうとする敵の剣をなんとか受け止め、互いの剣による力と力での競り合いになった。その力は骨だけだというのに訓練所の仲間よりも強く、継ぎ接ぎの館で斬ったシンジケートの構成員と同じくらい強かった。眼窩から発光する光もゼクスを睨みつけるかのように大きくなっている。どうやら交戦したり今のように力を込めたりすると眼窩の光も反応するらしい。魔法によって蘇生され本人の意思とは関係なく動かされている人骨にも感情に似た何かがあるということなのだろうか。

 ゼクスが競り合う剣へ更に力を込めていると、ちょうどこの時、右側から矢を番えて放とうとしている敵を捉えた。だがこの敵はリタによってまず武器を持つ腕を斬り飛ばされ、次に袈裟を斬られた。流麗な剣技によって無力化した歩く人骨は、風船が破裂したかのように骨がバラバラになって周囲に飛散する。それは傍から見れば芸術的とも呼べるほどで、死者の最後のそのまた最後を彩る花火と表現してもおかしくなかった。

「(お前も浄化したる、その後ゆっくり寝とけや)」

 バラバラになって足元に転がってきた大腿骨を目の前の敵に踏ませて、今度は敵の態勢を崩して前のめりにすると、そのタイミングを狙いゼクスは敵の首を刎ねた。頭蓋骨だけになった敵は眼窩の光も消え、胴体を構成する骨は動くのを止めてその場で飛散する。奥で他の敵と戦うリタを見ると、次にゼクスは洗礼の剣へ精神を集中した。それは時間にしておよそ五秒、青白く発光するツーハンデッドソードへ変化させると、横へ居並ぶ敵に接近し大振りに切り払った。斬撃は敵の武器に当たって弾き飛ばし、もう一回横に薙ぎ払うと敵は死の花火をあげた。

 こうして二人は歩く人骨たちを次々と浄化していったが、戦闘が終わった後は無数の人骨が散らばっているだけで、問題の人骨たちに死霊術を施した者の姿はこの隠し部屋には見当たらなかった。

 邪教はまだ何かを隠している。勝利の余韻は爽快とは言い難く、喉に小骨が引っかかったかのような違和感と不快感を残す形になった。

「…浄化完了。副長、大丈夫ですか?」

「うん、全然平気」

 そう言う彼女だが、ふう、と小さい吐息を漏らす。その姿からもしかすると気遣う相手を心配させないための配慮だったり単に強がりだったりと色々と想像してしまうが、何はともあれ、ゼクスとしては彼女との潜入任務初の戦闘を無事に済んだ事に安堵する。後はこの騒ぎを敵に感知されなければ良いのだが…。

「おいお前ら――って、何だ何だ?ここまで骸骨だらけだと壮観だな。一体どこから集めて来たんだ」

「ちょっと、何処に行ってたの?」

 教祖の演説が進む中、ひょっこりローリックが現れた。リタは肝心な時にいない彼に対し結構怒っていたが、この潜入任務はチームの一人とて欠けても成功は有り得ない。ゼクスは全員無事である事に改めて安堵したが、訓練所の老教官も現役だった頃を懐かしむような目で、成功とは全員無事に帰還することも含まれている、と受講態度の悪い訓練生たちへ教えを説いていた。今のゼクスはそれが実感として分かる思いだった。

 他方、忠犬ローリックはリタとゼクスから歩く人骨について説明を受けた後、口元に人差し指を置いて、透明魔法の効果が切れつつある事をそっと伝える。潜入も遂にここまでかと思う一同だが、ローリックは白い歯を見せて更に続けた。

「それと衛兵隊が洞窟の入口を塞いでいる岩の除去作業を進めているから間もなく戦闘が始まるぞ。この広間への隠し通路の結界は元に戻しておいたから、衛兵隊は真っ直ぐ集会所へ進むだろう。それにちょっと調べたんだが、この広間は構造上ちょうど祭壇のある壇上に、正面から見て左側から繋がってるみたいなんだ。その壇上で今、教祖が声高らかに演説している。とっ捕まえるにゃあ衛兵隊が集会所まで突入した時のドサクサがチャンスだな。それにしてもあの教祖――」

 そこまで聞くと、リタとゼクスは走った。広間の奥、壇上へと繋がる出入口はまた結界によって閉ざされていたが、これのパズルを解く…なんていう事はせず、先頭に立つゼクスは“リタ流”の結界解錠を実践した。イリスの加護、つまり魔法の力で以てパズルそのものを破壊する手法である。

 結界を思いっきり足蹴りする。

 最初は上手くいかなかった。

 二回目も上手くいかなかった。

 三回目も上手くいかなかった。

 四回目はリタと二人でする事で、パズルを破壊することに成功した。

 ローリックが最後尾で呆れているのを気にせず、ゼクスとリタは身を低くして敵に気付かれないよう演説が行われている集会所に足を踏み入れる。集会所は儀式的な配列をした松明の炎によって明るかったが、ちらちらと揺れるその灯が時間の感覚を忘れさせ、また演説を謹聴する邪教徒たちの熱気がひとりひとりの内から発せられているようで蒸し暑く、これから起きようとしている殺戮に気分を高揚させているのがよく分かった。ゼクスが矯めつ眇めつ集会所の観察をしていると隣にいたリタがぐいぐい、と袖を引く。顎で“見ろ”と言うので彼女の視線と同じ方向、壇上を見ると、そこにはこの場にいる筈のない人物がいて、ゼクスは大きく目を見開いた。

 ――クラーラ!

 今頃粗末なベッドで就寝している筈の彼女が、あの世にも醜くおぞましい芋虫を飲み込まされようとしている。驚きのあまり、最早ゼクスにはそれ以外の集会所の情報は入ってこなかった。

「リタ、神官カサノヴァについて何か聞いた事はあるか?」

「……ない。どうしてここに?」

 ここでリタとローリックが壇上にいる人物たちで最前面にいて演説を行う長身の女について話し合う。今注目すべきはクラーラではなく、何故か邪教徒の洞窟にいる祓魔神官のカサノヴァだということだが、そうであってもゼクスは今窮地に立たされているあのお節介な修道女から目を離せなかった。彼女を、ヴィクトリアのように殺めたくなかったのだ。

「神官カサノヴァは半年前、南方戦線での任務を終えて帰還したはいいが、まるで人が変わったように無口・無感動・無表情となったって話だ。その人物が教祖としてここにいる……どうも臭うと思わないか」

「確かに。でもどうしてそんな事を知ってるの?」

「上級神官に知り合いがいる。シードッグズは教会内部にだって文字通り鼻が利くのさ」

 ローリックがそう言った時だった。神官カサノヴァ、それとも邪教の教祖やもしれぬ女の演説がクライマックスを迎えると、集会所が騒ぎ出した。聴衆の中から怪物の姿になる者が次々と現れ始めたのである。彼らはその変化の異常性に気付かないのか、歓声をあげている。まるで狂宴だった。

「そろそろだな…」

 防水加工された腕時計を見てローリックがどこか楽しそうに呟く。すると集会所の入り口に息を切らした邪教徒の男が現れ、大声で叫んだ。

「衛兵隊が来た!」

 これを聞いてもゼクスは剣の柄を握り、芋虫を飲み込まされそうなクラーラをじっと見つめていた。

 ………

 ……

 …

 前日・午後三時二十分 ヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊支部 隊長室――

 衛兵隊次長補捜査官のヨアヒムはこの日、三番街の東端周辺に屯す貧民街の住人を強制退去させた事と、非合法の交易が行われる中継拠点としてヴィリエの街中に堂々と設営されていた“継ぎ接ぎの館”を焼失させ、館を出入りする関係者たちに大きな損害を与えた事を速報としてナハルヴェンに伝えるため、単身で二騎に訪れていた。彼らは互いの政敵であるヴィリエ常駐テンプル騎士団本部長と同守衛監督局次長の動向や情報を共有し合い、その妨害工作から自分たちの練る策を守り暖め続けてきたが、実はこの二人、顔を合わすのは初めてで、それまでは自分の信用出来る部下を通じて間接的にやり取りしてきた。衛兵隊の人間がテンプル騎士団の拠点に顔を出すのは異例の事であるし、その逆もまた然り。加えて政敵の目を瞞着するためにも二人は顔を合わすべきではなかった。そう、合わすべきではなかったのだが、今回はどういう訳かナハルヴェンが、

「いいから、いいから。ちょっとだけ」

 …と強引に誘うので(勿論この時も各々の部下がやり取りしている)、その意図を計れないヨアヒムは渋々応じる形でこうして両者が顔を合わす事になったのである。

「どうぞお掛け下さい。公式の場じゃないんだし、喫煙も自由になさって結構ですよ」

 湯気立つコーヒーカップを二つ応接テーブルに置くと、緊張するヨアヒムに向けてナハルヴェンが言った。

 第二騎士隊の隊長は豪放磊落な男と部下から聞いていたヨアヒムは、実際に対面して成程、その度量の大きさと個性的で一風変わった人柄は人情の機微に触れるもので、客人の対応を自らするこの男が多くの部下に慕われているであろう事が推測出来た。

 …それにしても受付事務をしている眼鏡をかけたあのキツそうな女に、それこそキツく支部内は禁煙である旨を伝えられたが大丈夫なのだろうか。

 ヨアヒムはそのように心配したが、あまり深く考えず勧められるがままに胸ポケットの紙箱を取り出し点火する。やがてユスティーツの香りがしてくると机で小作業をしていた部屋主も咥え煙草のままやって来て、ソファーに腰を下すと点火した。美味そうに煙を吸いながら悠然と足を組む様子はヨアヒムと違い、初対面の人間を前にしても臆することなくリラックスしているようだった。

「どうぞ」

 ナハルヴェンが“コーヒーを飲んで下さい”と言わんばかりに、頼んでもいないコーヒーへ手を差し向ける。対面してから早々のこの独特な雰囲気に一種の通過儀礼のようなものなのかと変に納得したヨアヒムは、どうも、と言って、少し慌ててコーヒーを口にした。

 …良い豆を使っている。それは結構なのだが、生憎彼は味を調整してから飲む習慣があり、ブラックでは苦過ぎる。心中でしかめっ面をしながら苦い苦いコーヒーと格闘していたが、そこで何か気を紛らすものはないかと視線を周囲に向けると、壁の肖像画が目に留まった。部屋主、それにふくよかな細君らしき人物に三人の子供が描かれているが、肖像画の人物は得てして無表情であり、且つ背景も暗いトーンが多いためどこか陰鬱な印象を与える。飾られた肖像画も一見して同様の印象を受けたが、よく見ると無表情に見えるはずが微笑んでいるようにも見えて、その微笑がごく自然なものなので、見る者としては描かれた一家が順風満帆な毎日を送っている、そんな様子を垣間見るような気がした。これは恐らく画家の緻密な技巧によるものなのだろう。

「あの絵はご家族ですか?」

 ヨアヒムが問うと、ナハルヴェンがにこっと笑い答える。当たり前だがその笑う顔が肖像画の人物とよく似ていた。

「ええ。子供たちもすくすく育ってくれて」

「そうですか。さぞ食事の時などは賑やかなのでしょうね」

「賑やかですけど、俺もたまには一人で静かに食べたいって思う時ありますよ」

 少し意外に思ったヨアヒムが苦いコーヒーを啜った後にふと考える。賑やかな様子を傍から見る分には微笑ましいが、その背景にはやはり色々大変な事があるのだろう。実際に家庭を運営する者、子供たちの面倒を見る者にとっては並々ならぬ苦労が絶えないのだ。勿論そういった苦労は寝静まる子供たちの顔を見れば掻き消えてしまうのだろうけど。

「ヨアヒムさんは…?」

 問われて今度はヨアヒムが笑う番だった。但し彼の場合は完全に苦笑いだ。

「いいえ、子供はおろかパートナーすらいなくて。この人かな?って思う女性と交際はしていたのですが結局別れることになってしまって」

「そうなんですか、勿体ない。でもヨアヒムさんはナイスガイだし、女性からアプローチされたりするんじゃないですか?」

「どうでしょうね。はっはっは」

 そこでこの話がひと段落するとヨアヒムから本題に入り、蟇隊長から聞かされた速報を伝える。これを聞いたナハルヴェンは満足そうな笑みを浮かべ、熱くて苦いコーヒーをひとくち口にした。

「部下の手違いで館を焼失させてしまいましたが…」

 ヨアヒムが血気盛んな蟇隊長の顔を思い浮かべ、コーヒーと同じくらいに苦い顔をする。だがナハルヴェンは笑顔をそのままに、次のように述べた。

「いいえ、寧ろそうした方がこちらの意思を敵に知らしめるのには丁度いいですよ。外の敵にも内の敵にも」

 動きたくとも動けぬもどかしさ。権力を盾に悪辣な行いを平然とやってのける上官。それを良い事に暗躍する邪教と貧民街のシンジケート。静かに憤りを抱えているナハルヴェンを見て、ヨアヒムとしても同調を示すものであり、そっと拳を握り締める。勃然たる空気の中、今度はナハルヴェンから続けた。

「今夜、教祖の女とエミリアーノ・ポリシオが現れます。信頼出来る情報源なので間違いないでしょう」

「やはり今回はただの集会ではないのですね。貴重な情報をありがとうございました」

 ヨアヒムとナハルヴェンの計画は二段階に分かれており、今回の継ぎ接ぎの館周辺で展開されたものが第一段階で、邪教側に潜伏したある人物による内通情報によって計画・実行された。その密偵について二人は特に触れなかったが、そういうルートで得られた情報を元に二人の協力関係が出来たのは事実。そして次の第二段階こそが彼らの本当の狙いで、ナハルヴェンがヨアヒムに共闘を持ちかけた真の目的でもあった。その一方でヨアヒムは現在、邪教徒たちが根城を構える場所を既に独自のルートで把握しており、テンプル騎士団には無い衛兵隊の機動力を利用した作戦のため、密かに準備を進めている。当然犯罪の首謀者たちが集うタイミングを狙うようにだ。その時が遂に来たのである。

「なに、こちらに出来ることはこの程度しかないのですが…宜しくお願いします」

「はい、お任せ下さい。それでは失礼します」

 コーヒーを何とか胃に流し込んだところでヨアヒムが立ち上がると、それをまだ話があると言ってナハルヴェンが呼び止める。

「実はヨアヒムさんに話があって。正直な所、こちらが本題と言った方が良いかもしれないですね」

「はぁ…」

 ナハルヴェンの意図が掴めぬヨアヒムはソファーにまた座りその出方を待つしかなかったが、肝心の呼び止めた本人は語ろうとせず、寧ろ深々と腰を下ろしていたソファーから立ち上がると、ウッドブラインドが掛けられた窓に立ち、ブラインドの隙間から外を眺めたまま黙っている。傾き始めた太陽は支部の西側を照らして長い影を作り、聖ロスタインの眩しい緑から聞こえてくる蝉時雨は沈黙と緊張の波に飲まれるヨアヒムを哄笑しているようだった。

 沈黙はヨアヒムが長い、と感じ始めた頃にナハルヴェンによって破られる。だが、それはひどく曖昧で不得要領としたものだった。

「もしこのヴィリエで政変が起きたとしたら、どうしますか?」

「政変…ですか?それが民主的なものなら傍観するしかありませんが、クーデターやテロリズムなら全力で阻止鎮圧します」

「それがヨアヒムさんの仕事だからですよね?分かりますよ。でも俺が聞きたいのはもっと個人的なもので、もし賛同出来る勢力によるものなら自分はどうするのかって意味で伺ってるんです」

「そ、それは……」

 ヨアヒムが言い淀む。ナハルヴェンは極端な話、簒奪に与するのか否かを問おうとしているのに気付いたからだ。

「答える代わりにお伺いするのですが…貴方は一体何をしようとしているのですか?」

「なに、一緒に“畑”をやらんか、という話です。俺に雇われは向いていない。だからチャンスがあれば自分で畑をやろうと思ってるんです。ただ畑はあまりに広大で、自分一人じゃ手に余る。それで今その時のために先ず勉強して、それから仲間を集めようとしているんです」

 …まさか本当に農作業の仕事を誘われているわけではあるまい。

 比喩として畑を持ち出したのだろうという事までは理解出来るが、如何せん聡明なヨアヒムにもその“畑”が何の事なのかピンと来なかった。

「勿論来る者拒まずって訳じゃないですよ。厳選に厳選を重ねた、フィーリングの合う人だけ。それがヨアヒムさんなんです」

「ナハルヴェン殿の仰る“畑”が何なのか分からない内はどうにも。しかしその畑や先程仰った政変が良いものであるなら……」

「良いものです。間違いなく」

 背を向けていたナハルヴェンが向き直り、今度はしっかりヨアヒムの目を見据えて力強く断言する。だがここでヨアヒムは慌てて目を逸らした。これ以上この男の目を見ていると、今の自分の価値観が揺らいでしまいそうな気がしたからだ。自分は衛兵隊で彼はテンプル騎士団で、立場が違うのだ。そこははっきりと明示すべきである。

 けれどもふとヨアヒムは思う。こうして組織の垣根を越えて同じ目的のために協力関係を結び、彼の呼びかけに応じてテンプル騎士団の拠点へ出向き顔合わせもした。もしかすると、言い方は悪いが自分は既に彼の言う“畑”をやらされているのかも……。

「はっはっは。まあヨアヒムさん、そんなに考え込まないで下さい。次、会う時にきちんと話しますから。俺だって大して悩まずにホイホイ了承するような奴を仲間に迎えたくないし」

「は、はい」

 しかしヨアヒムは隊長室を辞去しながらも考えていた。衛兵隊の今の現状、そしてこれからを。

 ヴィリエ守衛監督局局長、今現在ヴィリエに常駐する衛兵隊のトップは長い闘病生活を送り、寝たきりの状態がかれこれ五年と続く。したがって現在その代行を務める次長が実質衛兵隊のトップとなっているが、その次長が導く衛兵隊の行く先がヨアヒムにとって憂えるものとなっているのは確かだった。今は代行という肩書だが、いずれは局長の名を手に入れて、あの男のことだからヴィリエでの利権を欲しいままにすることだろう。

「(もしかすると、これはもしかするかもしれないな)」

 御家の再興を目指し本国の一兵卒として遠征軍に加わる兄は、生きているのか死んでいるのかも分からない。一方、過去の栄華に興味のない自分に、そのチャンスを連想するような誘いを受けてしまった。もし実際に自分が賛同出来るような政変が起こり、ナハルヴェンの計略に乗って簒奪するような事があれば、没落したとはいえ自分は貴族。今の生き方から変わるような事があるのかもしれない。そうしたら兄は喜ぶだろうか?それとも空回りを続ける己に怒りを覚え、チャンスを物にした自分を妬むだろうか?

 ……馬鹿馬鹿しい。そもそも何がどのようにして、どうやって起きるかのすらも分からない政変について考えるのは愚な事だ。それに政変は得てして民衆に明日への不安を掻き立てる。どちらかといえば、いかにそれが大義名分素晴らしかろうと起きない方が良い。

「ご苦労様でした。気を付けてお帰り下さい」

 キツそうな受付事務の女にそう見送られても返事をすることなく悶々と歩くヨアヒムはあまり前を見ておらず、

「あっ、ヨアヒムさん」

 …と声を掛けられるまで、自分が二騎のエントランスまで歩いてきていることすら自覚が薄かった。はっ、となって声の先を見ると、そこには見覚えのあるテンプル騎士が立っていた。

「君は確かスェーミと一緒だった…」

 あのぶっきらぼうなスェーミの後を一生懸命続いていた、ゼクスという少年のような名の少女。その外見に似合わぬ奇抜で面白い発想をするので周囲を和ませ、良い意味で少し変わった人物――そう記憶しているヨアヒムは、これまで優れなかった気分を忘れ、思いがけない再会に表情を綻ばせた。だがそれも束の間、直ぐにおとり捜査の夜のことを思い出すとまた表情を戻し、そうなると彼は問わずにはいられなかった。

「その後はどうなんだ?体調は万全なのかい?」

「あ、はい。ついさっきまで外の任務に出ていたところで…」

 子供らしい返答ではあったが本人なりに思う所があるのだろう、恥ずかしそうに謝意を伝えられるとヨアヒムもここでやっと安心し、破顔一笑する。衛兵隊もテンプル騎士団も若い人材は貴重な上に未熟な分、殉職・殉教の率が高い。ヨアヒムはただ純粋に、ゼクスには立派なテンプル騎士になってほしいのだ。

「無理はするんじゃないぞ、ルーキー」

「は、はい……」

 頬を赤らめる少女を見てヨアヒムがそろそろ辞去しようと足を一歩二歩と踏み出すと、今度は彼女の方から尋ねてくる。金色の頭髪をかきあげコバルトブルーの瞳を煌めかせるその表情には、“興味”が色濃く映し出されていた。

「ところでヨアヒムさんはどうしてここに?」

「うん?ああ、実はね……」

 答えにくい質問だったが、変に誤魔化そうとすればかえって怪しまれる。二騎に訪れた表向きの理由を述べることでその場を取り繕うヨアヒムだが、彼はこの時まだ、ゼクス、それにリタも継ぎ接ぎの館を捜査しており、火を放った蟇隊長のせいで二人が死にかけた事を把握していなかった。蟇隊長は失態を冒した事に頭がいっぱいでその旨を報告し忘れていたのである。ヨアヒムがこれを知るのはまだほんの少し先の話で、その時彼は仰天すると同時に血気盛んで忘れっぽい部下に改めて辟易する事となる。

「ナハルヴェン殿も話が分かって助かる。ヴィリエは組織の垣根を超えて、協力しあって守らなければならないんだ」

「めっちゃ燃えてますね、ヨアヒムさん」

 そう屈託なく笑うゼクスを見て、ふとヨアヒムがある事を思い出す。それはごく短い時間ではあったが、尋ねようか否か散々迷った末にやっと尋ねる決心を固めた。いや、これは彼にとってどうしても知りたい事であったため、決心を固めはしたものの色々事情があってまだ迷っており、気付けばついと尋ねてしまっていた、と説明するとこの状況が分かりやすい。そのためヨアヒムの口振りはゼクスにおや、と印象を与えるほど歯切れが悪かった。

「ときに……君らの副長が遠方の任務を終えて戻っていると聞いたが何か知ってるかい?」

「副長?リタ副長の事ですか?」

「…そうだ」

 本国より放鳩されて届いた手紙によれば、予定通りに事が運んでいれば今朝にもヴィリエに到着している筈だった。船旅は安全が保障されているとは言い難く、つまりヨアヒムはリタの安否確認をしたかったのだが、それをゼクスは意外な事実と併せて伝えてくれた。

「副長とならさっき分かれたばかりで、四騎に行きました。その、九番街の件で……」

 リタが無事に戻っていた。それは良いが、長旅と困難な任務の後だというのに休息を取らず、早くも精力的に次の任務に就いている…!永久機関などと呼ばれても仕方がないほどの勤労意欲にヨアヒムは改めて驚かされるが、更に彼はこうも思った。

 ゼクスの発言が聞き捨てならないのは“九番街の件”という部分だ。今から九日前に不可解な終わり方をしてみせた九番街連続殺人事件をあのリタが首を突っ込まないはずがない。かといって今日来たばかりで欠陥だらけの捜査資料しか知らないであろう彼女に、今度の未明に邪教徒たちが潜む洞窟へ突入する自分たちまで追いつくとは到底思えない。だが、あの行動力ならもしかすると……。

「ねえ、ヨアヒムさん。僕たち実はさっきまで――」

 そこまで言いかけたゼクスを、ヨアヒムが鋭い目で見据えて首を振る。彼の拳は固く握り締められていたが、それは先程のナハルヴェンと似たような立場であるとして同調の意を示すものではなく、もっともっと、個人的な理由だった。

「いいかい、捜査の事は軽々しく、それもこんな立ち聞きされるような所で人に話さないことだ」

 言われて動揺するゼクスをそのままにヨアヒムは、

「また会おう、ルーキー」

 …と伝えると、対するゼクスの言葉を聞かぬままエントランスを出た。

 そうだ。ヴィリエを蝕む邪教を滅ぼすのは我々衛兵隊でありテンプル騎士団ではない。

 先程の発言はどこへやら、そのようにヨアヒムはどこか卑屈にすらも思える意志を固め、真夏の強い日差しを気にするでもなく足早に二騎を去っていった。

 ………

 ……

 それはヨアヒムがナハルヴェンの呼びかけに応じて二騎へ訪れた日、同じくリタとゼクスが継ぎ接ぎの館を捜査した日のおよそ二ヶ月前、朝から雨がそぼ降る陰々滅々とした日で、昼下がりの午後の事だった。

 ヨアヒムは六番街にある個人経営の、それこそ隠れ家のような小さい店で、他に客もおらず唯一の店員にして店主でもある老婆の気配すらしない店内のテーブル席に座り、砂糖を大さじ三杯、それにミルクを追加したコーヒーだけを注文し、あるひとりの人間がやって来るのを待っていた。流行らない店の出窓には純白の陶器に白いユリが活けられており、そのちょっと先にある硝子窓は雨の水滴がしたたるほどに濡れている。

 …まだ来ないのか。

 そう思ってヨアヒムが持参していた仕事の資料を三度目か四度目かを見直していると、がたん、と店の入り口から音がして、そこからテンプル騎士団の内勤用制服を身に着けた一人の女――リタが入店してきた。彼女は狭い店内をキョロキョロしながら歩きヨアヒムを見つけると、

「ごめんなさい。説教をしてて遅れちゃったよ」

 …と、柳眉を八の字にして謝罪した。リタもヨアヒムと対面する席に座ろうとすると、いつの間にか店主が傍に居て、濡れた傘の店内持ち込みは御免被りたい、そして傘立ては入り口ドア付近にある旨を伝えると、リタは雨水が垂れる白と緑色の葡萄唐草模様の傘を持ち直し、慌てて入り口に戻った。それから傘を然るべき場所に置いて再び席へ戻ると、戻ったのを確認した店主が注文を聞いた。

「私は紅茶でお願いします」

 リタがバッグからハンカチを取りだし、着ていた内勤用ジャケットの、雨で濡れた部分を拭きながら注文する。その姿を見たヨアヒムが誰にも分からないほど小さくはっ、とした表情をすると、次に暗く視線を落とした。彼女が今所持しているバッグは伯父から二十歳の誕生日プレゼントとして贈られたものらしく、ヨアヒムが贈ったものではないからだ。

「説教って?」

「素行の悪い隊員がいて、なかなか言う事を聞かないんだよね。机を片付けないし喫煙ルールを守らないしで――」

 少しぬるくなったコーヒーを口にしながら暗い気持ちを払拭すべく尋ねると、リタが滔々と語り出す。その談を聞いている内にヨアヒムは心中でこれは止まらないな、と苦笑いし、彼女の溜飲を下げつつ適当に話の終着点をつけるタイミングを探した。その甲斐あって、注文した紅茶がやって来て、それを彼女がみくち目を口にした頃に漸くひと段落出来た。

 この日、ヨアヒムとリタが会うのは世間話をするためでも、互いの近況報告をするためでもない。二人は仕事の話をするために忙しい合間を縫ってやって来たのだ。それはリタも承知しているようで、今度はヨアヒムから話し始めるのを待っている様子。その雰囲気を感じ取ったヨアヒムはここで本題に入った。

「君ならヴィリエで一般に流通している物資と、貧民街の流通経路不明の物資とで非合法の交易が行われているのは知ってるだろう?」

 それは二人がこうして会う、更に一週間前の事だ。四番街の幹線通りで営業している、ある食料品店の商品が出処不明であるとの通報があり、衛兵隊は同店の立ち入り検査を実施した。その結果、不審な契約書が複数見つかり、店主への聴取によってそれが貧民街のシンジケートとのものである事が分かると、衛兵隊の捜査当局に衝撃が走った。ヨアヒムはその証拠品のひとつである、約款が箇条書きされた一枚の書類をテーブルに置いてリタに見せた。

「話には聞いた事があるけど、実際にその証拠を見て事実を確認したのは初めてかな。いいの?大事な証拠品を持ち出したりして」

 そう言いながらもリタは書類を手に取り、文字に目を走らせている。今の彼女は『以上の契約に署名した場合、甲は乙の主義思想に理解を示すものとし、また乙の要請に甲は状況の許す限り連携することに合意したとみなす』……という部分に触れているが、この頃はまだ邪教の影響がヴィリエにはっきりと形として現れていなかったため、洞察に優れる彼女でもその真意を掴む事が出来なかった。

「構わないさ。君にも事情を知ってもらって、そっちでも動いてもらいたい。他にも捜査の資料に使えそうなものを持ってきたから使ってくれ。濡らさないようにしてくれよ、ひとつしかないんだから」

「…うん。ありがとう」

 そう返しながら、リタはヨアヒムの持参した書類の内容を早くも読み耽っている。彼女が空返事をするようになると、ここに来た時と同様に話が進まなくなってしまう。それをよく承知しているヨアヒムは隠すこともなく苦笑いし、仕方なくそのまま本題の続きを進めた。

「それでその交易の元締めなんだが、調べていく内にヴィリエ側と貧民街側とで二人いる事が分かった」

「…うん」

「誰だと思う?」

「…わかんない」

「マルセル子爵とエミリアーノ・ポリシオだ」

「…えっ、それ本当なの?」

 流石にこの話は意外が過ぎたようで、書類に目を落としていたリタがすぐさま顔を上げる。純一無雑なその双眸はヨアヒムだけを捉えており、一体どういう事なのかと説明を求めているのは明らかだった。一方のヨアヒムは今の彼女の心中を推し量るのは直截簡明といった所で、暴るる馬を宥め賺すようにゆっくりと、それから声のトーンを落として説明した。

「声が大きいぞ。その食料品店の店主に聴取を続ける内に漏らした話で、真偽の程はまだ定かじゃないんだ。もっと調べが必要なんだよ」

 しかし実際はかなり調べを進めており、他の商店からも同様の不審な書類が見つかっている。そうでなければ重要な捜査資料をこうして持ち出し、ましてや部外者に渡すようなことはしない。彼も彼で打算的な理由があってリタと接触しているのである。

「私からすれば貴方の情報だし、十分に信用出来るものだと思ってるけど?」

 そう言ってリタが改めてヨアヒムを見つめる。見つめられたヨアヒムは彼女の凛とした強い眼力で射抜かれないよう視線を逸らそうとしたがもう遅く、あまり触れたくない内部事情まで語ることになってしまった。

「…分かったよ、なんとか裏を取ってみる。でもあまり期待しないでくれ、次長が“この件については本国と相談して決める”などと言って表立った捜査が出来ないんだ」

「どうして?子爵が貧民街の人間と関わりを持つだなんてあるまじき話じゃない」

「俺にも分からない。ただあの人の事だ、何か良からぬ謀があるに違いない」

 そのヨアヒムの言葉によって話は締めくくられた。

 本題が済んで後はお互い帰るだけなのだが、外の雨の事もあってか、何か示し合わせる訳でもなく二人は無言のままその場でしばらく滞在することになった。ヨアヒムはすっかり冷めたコーヒーを飲み干すと、止まない雨に濡れた、硝子窓から見える外の様子を眺める。幹線通りや中央通りから外れたこの辺りでこの天候では、馬車は通らず水溜まりを踏みながら歩く者もそうはおらず、ヴィリエの街並みが雨に打たれる風景だけがずっと続いている。特に変化のない外を見るのに飽きると、今度はリタに視線を向ける。彼女は脇目も振らず書類に目を通しており、熱い闘志――もとい、勤労意欲をめらめらと燃え上がらせているのがよく分かった。これを見たヨアヒムは、独り言を呟くかのように尋ねる。似たような会話は過去にもされたが二人の間には色々あって、それは遠い遠い忘却の彼方だった。

「どうして君はいつもそうエネルギッシュなんだい?」

 子爵がエミリアーノ・ポリシオと関わり合いがある話と比べれば重要性の低いのか、尋ねられたリタは書類から目を離さずのんびりと答えた。

「毎日を最後の一日のように生きているからかな。私たちテンプル騎士は基本的に危険な怪物との戦闘を想定して編成されたから」

「確かにそうかもしれないが――」

 “確かにそうかもしれないが、同じテンプル騎士でも違う理由の人間もいるんじゃないか”

 ヨアヒムが本当に言いたかったのはそういうものだったが、彼はリタが反論するポイントを心得ている。その上で話を続けた。

「…いや、そうだな。君の言う通りだと思う。でも俺はテンプル騎士としてでなく、もっとこう、君個人の考えとして聞きたいんだ」

「え…?だから私はテンプル騎士だし、その教えや考えに殉ずるのが仕事だから」

 二言目には仕事、そしてイリス教の教義。君は今日もそのエネルギーをそれらにだけ向けるというのか。

 ヨアヒムはリタと出会ってからずっとずっと、彼女が崖に向かってまっすぐ進んで行くように感じてならなかった。始めはあまり気にしようとはしなかったが次第にそれが耐えられなくなり、リタとのすれ違いも強く意識するようになった。それが今の関係だ。彼女の思考が過去から未来に至るまで何もかもが仕事とイリス教に直結することが、ヨアヒムには理解出来ず耐えられなかったのである。だが、そんなリタを彼は常々憂えていた。

 今は良い。だがこの先いつまでもその調子が続くのかどうか。そして彼女の命を縮める事になりはしないだろうか、と。

 ………

 ……

 午前一時十分 十二番街海上北 陸繋島――

「ヨアヒム捜査官殿、お時間になりました」

 嵐の音に紛れて伝令係の声が聞こえてくる。

 テントの中でただごろごろしていたヨアヒムは体を起き上がらせると、分かった、とだけ言って気怠く応答した。これから重要な作戦を控えている彼は事前に仮眠や食事を済ますべきなのだが、どうにも眠れず食も進まず、蒸し暑いのに水分もあまり摂ることなく、夕方にゼクスと話してからというもの、今のように過ぎ去った時の出来事を振り返っていた。胸が詰まるような想いを抱えながら自分の考えを告げてだいぶ時間が経過したが、未だに夢の中で楽しかった時の笑い声を聞くことがある。以前はあまりにも当たり前に存在していた幸せなひと時の残像が、ふと目に過ることもあった。ヨアヒムはどんなに幸せな思い出であろうとあまり長く浸らないよう気を付けており――それが中々出来ずに彼の心を苦しめているが――形はどうであれ、仕事に打ち込むことでそれらを一日でも早く忘れようとしていた。

 そう、記憶は思い出を振り返るにはいいが、今後の行き先を示してはくれないのだ。

「それと斥候から報告がありまして――」

 伝令係は時を伝えるだけでなく重要な情報も報告しようとするので、ヨアヒムは弛緩した頭脳を急速に働かせた。

「洞窟の位置が正確に判明しました。邪教徒は海蝕崖に元々形成されていた、干潮時にしか入り口を見せない洞窟に潜伏しており、それを更に海岸で散見される大きい岩石を利用して入口を隠しています。突入には削岩装置かそれに代わるようなものが必要です」

「削岩装置についてはどうなっている」

「隊長殿が準備を進めており、まもなく完了します」

「了解した。下がってよし」

「はっ。失礼します」

 テントの向こうで伝令係が敬礼して去ってゆく。そこでヨアヒムも深い吐息をした後に支度を始めた。


 身をも切り裂くような風と視界を遮る激しい大雨、そして大船すら揺らす高い波浪。黒風白雨の今、蟇隊長指揮下の衛兵隊員はヴィリエに最低限必要な人員だけを残し、残り全ては十二番街海上から北へおよそ二十キロメートル離れた陸繋島の影に駐留している。彼らは今夜未明、海上より九番街の岩石海岸地帯に上陸し、邪教徒が根城を構える洞窟へ突入して教団を壊滅させ、集会に現れるという教祖、そしてエミリアーノ・ポリシオを逮捕する作戦のため待機していた。

 ヨアヒムが支度を整えてテントから出ると、その瞬間、夥しい雨粒によって忽ち全身が濡れた。彼は本国の軍が士官用として採用しているレインコートを着用しているが、あまりじっとしていると雨が滲み込んできてしまいそうだ。自分の顔に付着した雨水を手で払うと、ヨアヒムは蟇隊長や隊員たちがいる直ぐ近くの浜へ足早に向かった。

 軍用の携帯型発光器で照らされた浜では、荒天の中だというのに雨具を着用せず直立不動の姿勢で整列している隊員たちと、隊員たちの前で嵐に負けず大声で策励する蟇隊長がいた。彼等は自分の明日が不明瞭となる作戦を前に緊張を強いられているはずだが、同時にプロの戦闘部隊としての矜恃も心得ているようで、緊張の中にどこか余裕のようなものを感じられる。作戦を第一線で遂行する勇士たちを前に、ヨアヒムは先程まで過去の出来事を理由に輾転反側していた自分を恥じた。

 ――蟇隊長のあらん限りに張り上げた声が浜に響く。

「全員膝当てと肘当ての装備も出来たな!?よいか、貴様たち。これから上陸する場所は潮の影響によって歩行を可能にしているが、足場は固い岩石でしかも海水や藻などによってぬめっており非常に危険である。向こう見ずに突っ走って転倒しないよう、注意せよっ!」

「はい、隊長!」

「斥候によれば、敵は洞窟に潜伏しネズミのようにこそこそしているというだけで見張りの兵はおらんという事だ。しかし!何処に伏兵がおるかも分からんし、我々の上陸を妨害するための何らかの策が講じられてあるやもしれん!ゆめゆめ警戒を怠るなっ!」

「はい、隊長!」

「恐れるな、戦士たちよ!我々は死なない、負けはしない!必ず勝利し、家族の笑顔のために、大切な人のために、そして衛兵隊を信じてくださる方々のために、生きて帰るのだ!我々は勝つ!勝つべくして勝つ!勝利の栄光は我らに有りっ!!」

 鬨を上げる隊員たち。

 士気は最高潮に達し、最早彼らは死すら恐れる事はないだろう。蟇隊長はお世辞でも利口とは言えないが、部下の勇を鼓すのは得意中の得意であり、本人は戦闘前に自らを奮い立たせるためだと主張するが、その熱く涙脆い様が結果的に部下たちから磐石の信用を得られているのだった。ヨアヒムはこの熱気に圧倒され苦笑したが彼らはそれを分かっていない様子で、本作戦の指揮者がこの場にやって来たのが分かると隊員たちは鬨を上げるのを止めて直立不動の姿勢を取り、何を話すのか固唾を飲んで見守った。

「隊長、これは一体どういう事になっているんだ」

 ヨアヒムが問うと興奮のあまり目を潤ませた蟇隊長が完璧な敬礼をし、次のように述べた。

「はっ、申し上げます!ヨアヒム捜査官殿の言葉をこやつらは待っているのでありますっ!」

「言葉って何を?」

「本作戦に対してでありますっ!予め自分が注意事項を伝えておきましたので、後は出撃の合図だけです!お願いします、ヨアヒム捜査官殿!」

 彼らはまさか、俺まで巻き込もうというのか。

 ヨアヒムはそのように思ったがもうこの空気に抗えない。困った彼は蟇隊長を手招きしそっと耳打ちした。

「“戮力排難”だ。後は任せる、隊長」

 ヨアヒムはそう言って蟇隊長の肩に手を置くと、浜に浮かぶ舟艇へ乗り込む。

 蟇隊長が伝えられた“戮力排難”とは史実として子供への教育としても伝えられる、あまりに有名な至言である。この言葉が現代に残る経緯は、年代でいえば救世神話の時代から旧文明時代へと移り代わった頃まで遡り、その時に起こった本国海軍と怪物たちとの激しい戦闘の際に、ある指揮官が所属する全部隊へ特攻を呼びかけるために述べた訓示が由来している。この特攻は各兵士ひとりひとりが、また軍船一隻一隻が爆薬を抱え押し寄せる海の怪物たちに体当たりするというもので、結果、特攻は成功し人類と怪物との海におけるアドバンテージはしばらく平行線を辿ることとなった。双方に甚大な被害を齎したこの特攻に当初賛否は分かれたものの、今ではこの行動なくして人類の栄光はなかったと本国の軍、それに他宗教他国家からもこの指揮官を英雄視している。特攻の命令を下した指揮官はマルセル子爵の先祖にあたる人物で、実際に述べられた訓示を一部抜粋すると、

『我ら己がじしが戮力をもちて天下豪勇の士とならば定めて万難を排し、かくてその武勲、後世に語り継がるることとならむ。汝らこそ勇士なれ。汝らこそあらましごとなれ』

 …というもの。

 そんな言葉を送られた蟇隊長は感涙しない訳がなく、彼は震える体と声をそのままに、これを隊員たちへ伝える。

「今、ヨアヒム捜査官殿から有難いお言葉を授かった……貴様たち、良く聞くのだっ!」

 神託を預かる預言者のように隊員たち全員が蟇隊長に注目する。一方、ヨアヒムは舟艇でひとり欠伸をしながら成り行きを見守った。

「“戮力排難”!万難は勇士たちの力を結集せし時、必ずや排せる!そして我ら衛兵隊の物語は末永く後世に語り継がれるであろう!総員、舟艇に乗り込めっ!」


 午前一時二十分 陸繋島 砂浜海岸――

「おらおら、時間給じゃねえんだ。さっさと乗り込め!もたもたしてるとケツに蹴りを入れるぞ!」

 ヨアヒムの耳にそんな罵声が飛び込むが、それでも装備を整えた衛兵隊員らは訓練通り次々と時化で揺れる上陸用舟艇へ乗り込んでゆく。出航の準備が整うと一隻目、二隻目と離岸し、潮の影響により海水に沈んだ陸繋砂州の上を通って九番街の岩石海岸地帯へ向かった。最後尾にはヨアヒムと蟇隊長、他伝令係などが乗船する上陸用舟艇が続く。

 作戦に使用される舟艇は全六隻。そのうち五隻は班長を筆頭に二十人ずつ乗船し、計百人が前線を進む。何故陸の進軍ではなく荒天下の海からの上陸なのかというと、まず作戦の目的は邪教の壊滅だが、根底的な壊滅には教祖とエミリアーノ・ポリシオの殺害か身柄の確保が不可欠である。もし部隊が十分接近せず敵に発見された場合、教祖とエミリアーノ・ポリシオには逃走の機会だけでなく、抗戦の準備をする時間まで与えてしまう。そのため衛兵隊は可能な限り敵に発見されず洞窟に近付く必要があったが、陸で百人が行軍するには目立ち過ぎるのだ。それ故今回、十二番街海上より北へおよそ二十キロメートル、九番街岩石海岸地帯より北東へおよそ五十キロメートルの地点にある陸繋島にて分屯し、上陸用舟艇を用いて洞窟の近くで接岸・上陸する部隊運用が考案された。また、本国の軍より舟艇のデータ収集を求められていたからというのもある。実はこの作戦で使われる上陸用舟艇は本国が開発した最新のもので、速度は最大およそ三十五ノット、波高二メートル程度なら既存型と比較して安定的に航行が可能。推進機構はバーズタイル・フピリョートという発明者の名前にちなんで呼ばれるもので、 内燃機関に次元崩壊を起こさず且つ魂サイフォンが魔反転を起こすことなく開魔法場に維持できるジャロル装置を搭載している。これを簡単に説明するとウォータージェット推進に似ており、現代ドルテクノロジーとマリンエンジニアリングの融合によって生まれた新しい推進機構である。燃料はドルトル粉を結晶化させたもので、これを投入口に入れると液体化・気体化して内燃機関を動かす。上陸用舟艇の通常型は一階層のみで操縦装置のある場所以外は屋根すら無く、ヨアヒムたちが乗船している指揮官型上陸用舟艇は構造が二階層になっており、二階層目の船橋で指揮を執るようになっている。作戦中は伝令係がそれぞれ担当する船橋の窓から常に状況を監視し、それを指揮官に報告する仕組みだ。尚、非戦闘艦艇で特に旅客用と貨物用の民間船ではまだ風を推進力とした帆船かせいぜい古ドルテクノロジーによる外輪船が主流であり、最新技術が軍事目的にあることから民間に普及するのはまだまだ先の話になる。ただ船舶の開発は世界中の人類の拠点で日進月歩行われており、戦闘艦艇は高速化・高機能化、非戦闘艦艇は居住性、最大乗船人員・積載物量の増加などが実現している。このように人類の運搬技術や車両船舶の製造技術は多数の怪物が潜む危険な陸運よりも、遠方への人と貨物の搬送に効果的で且つ比較的怪物の数が少ない海運の発展の方が顕著に見られている。

 上陸作戦の流れは先行する五隻が先に上陸し、大急ぎで邪教徒の洞窟がある海蝕崖まで進軍すると、そこで洞窟を塞いでいる岩の削岩・除去作業に入る。削岩作業は主に屋根無しで車輪を取り付けただけの破城槌に似た仕組みの削岩装置で岩を削り、細かい所は各隊員に携帯させているツルハシで除去。削った岩石は全て人力で運び出す。

 ここまでが上陸作戦。もし手こずって定めた時間内に岩を処理出来なかった場合、作戦は失敗。

 次に突入作戦だが、ナハルヴェンの事前情報により洞窟内はあまり広くないという事が分かっている。折角士気の高い隊員が大勢いるというのに、戦場へ有効に送り込めないのだ。そこで各部隊交代で戦闘することによって隊員の消耗を抑えつつ、のべつ幕なしに敵へ攻撃を加える方法が取られる事になった。問題なのは邪教徒がどれだけの人数がいて、どれだけ武力を擁しているかだ。こちらの損害が四割を超える事態となれば撤退しなくてはならず、突入作戦は失敗となる。

「上陸が開始されました!」

 前方を単眼望遠鏡で監視していた伝令係がそう叫ぶと、海図を見ていたヨアヒムと蟇隊長は弾かれたように窓へ飛びつき、すぐさま肉眼で状況を確認した。

 荒れる海の向こうで、各隊員ひとつずつ持っているカンテラの小さな明かりが同じ方向へ進んでいるのが見える。ただやはり真っ暗な上に荒天も重なっているため、肉眼ではそれ以外のものは確認出来ない。

「波が凄いな…全員無事に上陸出来ると良いのだが」

 ぱらぱらぱら、と雨粒が窓にぶつかる音と共に蟇隊長が柄にもなく不安げに呟く。ヨアヒムも気持ちは同じだったが、こうしている今も指揮官型上陸用舟艇は高い波によって右に左に前に後ろにと傾いている。作戦を案ずる前に自分たちの状況の危うさも先行きを不安視させる要因になっていた。

「妨害はどうだ?」

 ヨアヒムの質問に、伝令係が単眼望遠鏡へ目を凝らし、上陸用舟艇に設置された発光器の視号通信を必死に読み取って報告する。彼らには冷静を努め、可能な限り見たものそのままの状況を伝えることが求められるが、望遠鏡を握る両手には力が籠められ制服は汗がじっとりと滲んでいる。遂行される作戦によって肩に力が入るのは、何も実行部隊だけではないのだ。

「ぼ、妨害には遭っていないようですが、波が高く上陸に時間がかかっている模様ですっ」

 伝令係の報告を聞くと、蟇隊長が叫んだ。

「ぐっ…ヨアヒム捜査官殿、我々も上陸しましょうっ!」

「落ち着け隊長。“待てば海路の日和あり”というだろう」

 腕を組んで窓の向こうをじっと注視するヨアヒムに言われ、蟇隊長もまた拳を握り締め直し、眼前の遥か向こうで作戦を遂行する部下たちを見る。嵐の中に浮かぶ小さい灯火たちは頼りなく、簡単に吹き消されてしまいそうだった。

 ――では、上陸作戦中の衛兵隊員たちは今どうなっているのか?

 先ず一隻目、二隻目と接岸し上陸を開始する。彼等は最も危険な立場にあるが幸い何事もなく、続いて三隻目、四隻目、五隻目と接岸し上陸に成功、急ごしらえで作った削岩装置や物資も下ろせた。また足場の悪さは蟇隊長直々に伝えられていたため彼らはこの困難を的確にこなし、問題の邪教の洞窟がある海蝕崖まで辿り着く。ここで五人の班長を統括する班長主任が指揮を執り、岩の状況について調査させる。岩は斥候が洞窟の入口を発見した後、本隊が上陸するまでの間にリタ、ゼクス、ローリックによって錠魔法が解かれた後の状態だったので、削岩というよりは岩の除去が主な作業だった。それでも大きい岩は削岩しなければならなかったが、用意したツルハシや削岩装置でなんとか砕くことが出来た。これら砕いた岩の除去作業を進めていると――。

 ………

 ……

 カツン。カツン。ガラガラガラ。

 カツン。カツン。ガラガラガラ。

 叩いては砕け、叩いては砕け……そんな音が何度も繰り返されていると、次第に沢山の男の声が聞こえてくる。

「固ってえなあ…あとどのくらいあるんだ?」

「俺はどのくらい時間が経ったのか知りたいね。早くしないと海水で溺れちまう」

「無駄話を叩くな、作業を続けろ」

 洞窟の入り口で一人仰向けになって倒れていた邪教徒の男が意識を取り戻し、酷い頭痛と吐き気を催しながら上体を起こす。頭痛は再び意識を汚泥の中へ突き落とすほど酷いもので、それ以外に後頭部からも鈍痛がした。

 そうだ、自分は何者かに後ろから襲われたのだ。

 男はそれが分かると次に激しく嘔吐した。吐瀉物は白っぽい何かで時々血が混じっている。ゲェー、ゲェー、とこれ以上出すものがないほど吐き出すと、今までずっと靄の中をゆっくりと漂っていたような感覚が、自我と五感を取り戻し悪い夢から覚めたような心地になる。男には自分の身に何が起こったのかこの時点で検討もつかなかったが、あれこれと思案する前に衛兵隊による削岩と除去作業が最終局面を迎え、遂に洞窟の入り口が豁然と開かれた。

「おい、人がいるぞ」

「誰だ」

 カンテラの灯りが洞窟の入り口を照らし、三人の衛兵隊員が足を踏み入れる。その後ろにも岩の除去作業を続けている何人もの衛兵隊員が見え、また全員武装しているのも分かった。

「お前、邪教徒か?」

 三人の衛兵隊員で、一番先頭に立つ衛兵隊員が剣を抜き問うと、男はこの時反射的に殺される、と予感した。あの靄の中にいた時はあまり感じなかった感情が鮮烈に蘇り、本能が死の恐怖を痛烈に訴えるのだ。ところが、男が衛兵隊員の顔を怯えた目で見つめていると、

「目が赤くないから邪教徒じゃないな。奴らに攫われたのか?」

 …と言われ、男は訳も分からず無事保護された。

 一体彼の身に何が起きたのかというと、ローリックの吐いた曖気は酷い悪臭と刺激臭を伴うものだったがその性質は聖なるイリスの加護に他ならず、それを気体として吸入した結果、体内の芋虫を除染する効能を引き起こしたのである。

 男のその後について先に述べると、先ず衛兵隊に街の医療機関へ搬送され、そこで栄養失調気味であることを除けば至って健康と診断されると、すんなり元の日常に戻った。かつて邪教の信徒であった事を自ら述べない限り、このイリス教の社会で粛清される事はまず無いだろう。とはいえ、いざ邪教から離れると元の日常がいかに閉塞的で且つ虚偽、欺瞞、貪婪たる我慾・邪慾に溢れているかが彼にはよく分かり、厭世観すら抱くのである。

 しかし同時に男はかつて邪教徒であった立場から、こうも感得していた。恩恵に預かれる内は恩恵を貪り、都合が悪くなると批判し排除しようとする。また、大多数にとって少数は異端であり得てして理解されず、理解出来ぬものは恐れを抱き浮石沈木を振りかざして排除しようとする。一見愚かに見えるが、それこそ人間と人間が作り上げた社会というものではないだろうか、と。

 彼が再び邪教の信徒として生きる事はもう無いが、その時に学び感じ取ったものは良くも悪くも決して忘れぬものとなったのである。

 ………

 ……

「隊長、報告しますっ」

 伝令係が叫ぶ。呼ばれた蟇隊長だけでなくヨアヒムもその報告に耳を傾けた。

「突入せり!突入せり!全て作戦通り遂行中であるとの事です!」

「よしっ!」

 蟇隊長がガッツポーズをする。ヨアヒムも大きく頷く。前線で作戦を遂行する衛兵隊員は百名だが、この人数はナハルヴェンからの情報を考慮し、洞窟に潜伏する敵を蹴散らし速やかに制圧するにはこの人数が妥当、と計算された結果だ。その結果の詳細を知るため、ここで指揮官型上陸用舟艇も接岸・上陸し、邪教の洞窟に突入することが決まる。


 午前二時二十分 邪教徒の洞窟入口――

 ヨアヒムたちが洞窟へ向かうと、岩はすっかり除去され、発光器に照らされた入口がぽっかりと姿を現していた。その前では削岩装置を解体し砕いた岩などで作った即席の小さな軍事拠点が出来ており、警備する隊員、次の突入のタイミングまで待機する隊員、伝令に走る隊員等々と、嵐の中前線らしく人が走り回っている。また風雨を凌げる拠点の中には洞窟の地図を見ながら指示命令を出す主任がいた。長身痩躯で短く刈った頭髪、細い目に狡猾な光を宿すこの主任という男は本国から赴任してきた古参の兵士で、昨今の平和なヴィリエにしては大規模と呼べる本作戦にも冷静に対応していた。その彼にのし、のし、と鼻息荒い蟇隊長が歩み寄る。こうして見ると漫画の登場人物と実在の人間が並んでいるようでひどく滑稽だった。

「主任、状況はどうなっておるかっ」

 蟇隊長の呼びかけに主任は敬礼すると、状況を説明した。尚、この主任は蟇隊長の補佐をしており、局からは上官の蟇隊長よりも頭が良く話の分かる男だという評価を得られている。

「はっ、報告いたします。狭い通路を推し進み、現在は集会のあった広間で戦闘が行われています。ただ邪教徒共は士気が高く軽装とはいえ武装もしており、多数の死傷者が出るのは避けられないでしょう」

「ぬうぅ~っ」

 蟇隊長が青筋を立てて猛犬のように唸る。本来ならここで怒鳴り散らす所だろうが、重要な作戦中だけに彼なりに堪えているのだろう。

「しかし戦況はこちらが確実に有利です。もう三十分…いえ、十五分もあれば制圧出来ます」

 主任の言葉を聞き、ヨアヒムが船橋の中にあった掛時計の時刻を思い出し、また更に自分の腕時計を見て確認した後、考える。

 上陸作戦・突入作戦共に順調で、思い描いた以上に事が進んでいる。それは良いのだが、邪推すれば、この状況は何か自分たちの知り得ぬ所で敵にとってマイナスの要素となるものが作用しているからではないか。或いは秘密裏に準備を進め、秘密裏に展開しているこの作戦までが何者かに利用されている…そんな気がしてならないのだ。

「主任、捕らえた邪教徒の手筈は…?」

 生じ始めた疑念をそのままにヨアヒムが尋ねると、冷静な主任が淡々と答えた。

「はい、伝令によればもう間もなく輸送部隊が到着しますので、後は結果次第になります」

 ヨアヒムは作戦に参加する全隊員に可能な限り敵の命を奪う事なく作戦を遂行するよう指示しており、捕らえられた者や大人しく投降する者はこの輸送部隊によって衛兵隊が管理する留置所まで連行されることになっていた。その後の彼らの未来は異端審問にかけられ処刑されるというただひとつのみだが、事情によっては延命の可能性があるかもしれない。何せ彼らの多くが元々ヴィリエに住むごく一般のイリス教徒であり、それが拉致され、本人の意思とは関係なく邪教徒にされてしまった者たちなのだから。

「了解した。俺たちも洞窟に入る。ここは頼むぞ」

 ヨアヒムがそう言うと主任も敬礼して答える。その際、待機している四名の隊員に護衛へ付くよう指示した。よって洞窟内へは蟇隊長を先頭に隊員二名、ヨアヒム、その後ろに隊員二名と計六人がひとかたまりとなって進む。ヨアヒムの前後にいる隊員たちは戦闘に備えた装備をしていない彼の護衛だ。

「よし!貴様たち、しっかりヨアヒム捜査官殿をお守りするのだぞっ!」

「はい、隊長!」

 上陸用舟艇に乗り込む前の士気は維持出来ているようで、それは一介の兵士として作戦に参加する彼らから見ても、作戦が順調に進んでいるように感じているからなのだろう。また燃える蟇隊長と作戦指揮者のヨアヒムが直接戦場にやって来たというのもあるのだろう。こうして彼らは洞窟内へ足を踏み入れた。


 岩を除去した事によって明らかになった邪教徒たちが住む洞窟の入口は、勾配な坂を下ると直ぐに勾配な上り坂が来訪者を出迎える。断面して見るとそれほどシャープではないがV字のようになっており、入口から底にかけて岩が敷き詰められ、尚且普段は海水に浸されるので事前に情報がない限りは殆どその存在を確認出来ないだろう。ただ主任も、後に主任から話を聞いたヨアヒムも、岩の状況からしてここを“入口”とは言い難く、入口を隠すために岩を配置したというよりはまるで外敵が侵入されないように岩で入口を塞いだ、と解釈した方が納得のいく状態だった。それでは邪教徒たちは一体どこから出入りしているのか、他にも出入りする場所があるのか、と首を捻ったものだが、これはまさにリタ、ゼクス、ローリックによって錠魔法が解かれたが故の事であり、それを知らないヨアヒムは一部の隊員に上陸用舟艇で海岸周辺を調査するよう命令を出していた。

 V字状の入り口を抜けると天然か人工かのエントランスになっていて、そこは陽の光が当たらぬ場所だけに暗く、生臭く感じるほどの磯の臭いが充満している。ただ、突入した隊員たちが設置した発光器のお陰で鼻をつままれても分からない闇が広がっている事はなく、エントランスからL字型の角を曲がるとあとは岩石に覆われた一本道が左へカーブするように続くという、そんな洞窟内の状況がよく見えた。これなら突入する部隊は迷うことなく前進出来たはずで、ヨアヒム一行もそのまま道を進む。連行される邪教徒や救護班によって担架で運ばれる隊員など、様々な者たちとすれ違いながらそのままどんどん進んでゆくと、洞窟の入り口から聞こえていた“ワー、ワー”という人と人が争い合う声が次第に近くなってくる。

「お、おおっ…!」

 蟇隊長が思わずたじろぐ。声のする方へそのまま進んでゆくと広く開けた場所に出て、そこで衛兵隊と邪教徒と思しき武装をして襤褸を着込んだ者たちとで激しい戦闘を繰り広げていた。中には怪物に姿を変化させた者までいて、屈強な衛兵隊員をなぎ倒している。広間には死傷した衛兵隊員と邪教徒が死屍累々と転がっていたが、倒れているのは邪教徒が殆どで、衛兵隊は以前として士気が高く武装までしている敵を押し返しているようだった。

「(あれは…!)」

 これまでずっと冷静に対応していたヨアヒムが瞠目する。この開けた場所は“決起の儀”が行われる場所だったのか、正面には壇上があり、その少し奥に祭壇のようなものがある。そしてその祭壇の前に、なんとスェーミがいた。しかも彼は壇上で民間人の修道女を守るように襤褸を着込んだ大柄な女――恐らく教祖と対峙しているではないか。

 曖昧模糊たる真実と虚偽に喘ぎながら自分が向かうその先に、何故かいつも先行しているあの灰色の男の存在に驚きはした。だが、なによりもあの大柄な教祖の女だ。ヨアヒムは女に見覚えがあった。彼の記憶が確かなら、ヴィリエ周辺で活動する祓魔神官たちを束ねる、神官カサノヴァだった。

 邪教の教祖の正体は神官カサノヴァ…?

 自分はこの邪教が絡む一連の事件について何をどこまで知っているのか。そして何を追っているのか。また自分が秘密裏に練りに練って実行されたこの作戦の背景にはどんな事実が潜み待ち受けているのか。そういった不安と、恐れと、焦りがヨアヒムの心を次第に覆ってゆく。そして気付いた時には叫んでいた。

「スェーミ!」

 その叫びは壇上にいる三人にも届いたようで、神官カサノヴァは身を翻し、祭壇の奥にある穴の中へと消えてゆく。スェーミも修道女を放ったらかしにしてその後を追って行った。

「(何をしているんだ。お前はテンプル騎士だろ!)」

 昏い影が差し一時燻ったヨアヒムの心が、使命感によって再び燃え上がる。彼は蟇隊長に修道女を保護するよう指示すると、併せてスェーミとカサノヴァを追おうとした。蟇隊長も直ちに了解、と答えるが、ヨアヒムを守りながら祭壇まで行くには敵味方が交戦する真っ只中を進まねばならず、非常に危険だった。そうこうしている内に一体どこに道があったのか、祭壇を正面から見て左側からリタ、ゼクス、それにもう一人の見知らぬテンプル騎士の男が煙のように現れ、リタは祭壇の奥へと真っ直ぐに走り、ゼクスは修道女の元まで一旦駆け寄るとまたリタを追い、見知らぬテンプル騎士は地面に落ちて割れている何かを見ていたが、ゼクスがリタを追って走ると彼もその後に続いた。

 スェーミだけでなく更にリタ、ゼクスらに先を越されたヨアヒムは激しい焦慮に駆られたが、ただこの時同時にナハルヴェンから得られた情報も彼の頭脳を過ぎっていた。確かこの集会には邪教の教祖の他に貧民街を拠点とするシンジケートのボス、エミリアーノ・ポリシオも現れるのではなかったか。もしこの洞窟に居るのだとしたら、やはり彼らが向かった、祭壇の奥にあるあの先に…?

 これまでスェーミが九番街連続殺人事件の捜査をしていたなら、ヨアヒムは衛兵隊の組織力で以て貧民街のシンジケートについて捜査をしてきた。邪教の存在がヴィリエで初めて確認されたのは稀代の毒婦・ヴィクトリアからだが、では邪教はどういう流入経路を経てやって来たのか?この疑問に対してヨアヒムはヴィリエに近くて遠い貧民街からではないかと睨んでおり、部下を送って具に調査してきた。その甲斐あって分かったのが、シンジケートと邪教の実態、それに“芋虫”だ。人を人でなくしてしまうあの芋虫は、シンジケート内では既に蔓延していることが分かった。芋虫は衛兵隊によってサンプルが回収され、本国の軍、それに教会も交えて解明が進められている。他に衛兵隊が掴んでいる情報は、正体不明の人物とされてきたエミリアーノ・ポリシオについてだ。この人物は依然謎に包まれているが、これまでの定説であった高齢者説の他に、二十歳かそこらの“若者説”が浮上した。しかし、貧民街のシンジケートが今や軽視出来ないほど大きくなっている事を考えると、いかにエミリアーノ・ポリシオが少壮気鋭の若者だとしても求心力を保てるのか甚だ疑問である。それにはっきりと姿を表さず、シンジケートの幹部たちですらその姿を見た事がないのもどうしてなのか分からない事の一つだった。したがって、ヨアヒム個人の考えとは別に、ヴィリエにその名が囁かれ始めた時から調査していた衛兵隊からすれば、この“エミリアーノ・ポリシオ”はそもそも実在しないか実在したが既に死亡しており、貧民街に名前だけが知られる象徴的な人物であると考えられてきた。それが今、ヨアヒムの中で何か確信めいたものに変わろうとしている。恐らく先行して洞窟に潜入していたテンプル騎士団と、この場にいるはずのない神官カサノヴァの存在によって。

 ………

 ……

 …

 午前二時四十分 邪教徒の洞窟 祭壇裏秘密の広間――

 祭壇の裏にあった一般の信徒の立ち入りを禁じていた通路は短く、直ぐに十五平方メートルほどの人工的に掘削・削岩された広間に出る。地面は岩石による大小のでこぼこで足場が悪く、上の天井は高くなく大人二人分を縦に並べた高さ。比較的最近に手を加えられたのかまだ砂利や小さい岩が転がっており、集会所のように使用感が無い。また松明が複数箇所に設置されて明るいが、その代わりとても蒸し暑かった。

 スェーミがこの部屋にやって来ると、カサノヴァの他に誰かが居た。ただその人物は殆ど入れ違いで部屋にあるまた別の場所へ通じる通路へ入ってゆき、金色の長い頭髪とヒラヒラした外套の裾しか確認出来なかった。だが、一般の信徒たちが立ち入りを禁じられている部屋にいた者であるとなれば、今の人物こそがエミリアーノ・ポリシオに違いない。スェーミはそのように推測すると、歩いて靡く髪と外套の裾から同人物がどのような姿をしているのか分析した。

 男か女かまでは分からない。ただ松明の明かりを反射する頭髪の艶から年齢二十代前後。いって三十代の後半。身長は長身のカサノヴァが見下ろすほどで、カサノヴァの身長が仮に二メートルだとすると、人間の頭部がおよそ五十五センチメートルから五十七センチメートルで目の位置が頭部のほぼ中央に位置することから、エミリアーノ・ポリシオの身長は百六十センチメートルから百七十センチメートル程度と思われる。

 殷賑極まるヴィリエの影で暗躍し、九番街連続殺人事件において最大にして最後の謎。未だかつて誰もその正体を掴むことが出来ていない、エミリアーノ・ポリシオらしき人物があの穴の先にいる…!

 今のスェーミにとって、前に立ち塞がるカサノヴァは勿論、ヴィリエの法律、テンプル騎士という肩書き、道徳心、彼の心を今支配している焦慮ですら邪魔だった。それは彼自身どうしてなのかよく分からないが、少なくとも理屈で説明出来るものではなく、あらゆる感情を切り捨てて単に“灰色の男”となる理由が欲しかっただけなのかもしれない。

「テメエは後だ、クソ女。そこを退け」

 エミリアーノ・ポリシオが去っていった通路の前に立ち塞がるカサノヴァに、剣先を真っ直ぐに向けてスェーミが凄む。彼の体を縁取る青白いオーラが迸るように燃え上がり、密封された空間に発生するはずのないしじまなる風が、松明の炎をまるで意思があるかのように激しく揺らす。

「やってみるがいい。だがその前に、貴様には我々の研究成果を試させてもらう」

 それを聞いてスェーミがやっとこの部屋の異常さに気付く。

 獣の臭い。他には血、腐った何かの臭いが混じり合い、それが部屋に充満している。

 はっ、と右に視線を移すと、そこに掘削した形状に合わせて作られた牢屋があった。鉄格子の先は松明の炎ですら照らされず真っ暗。その闇の先に何かが潜んでいるのは明らかで、スェーミの胸をざわつかせた。

「私が思い出させた夢の事をよく考えるのだな。それは

 カサノヴァがぱちん、と指を鳴らすと、鉄格子が赤黒い光を放ちながら雲散霧消する。遮断されていた鉄格子の先と部屋の空間が繋がると、スェーミはぽっかりと穴が空いたようなその暗がりから目を離せなくなった。

「何を飼っているんだ?まあ、大体想像つくがな」

 そう悠然と述べるスェーミだが、心臓は早鐘を打つ。

 九番街連続殺人事件の捜査を進める上で、まだ分かっていない事は残っている。確かにエミリアーノ・ポリシオが最大の謎である点は譲れないが、全身の肉を抉るようにして喰らう恐ろしい犯人がどのような姿をしているのか、という謎はまだ明らかにされていない。推測は出来ても、実際に目にしているのは被害者以外誰もいないのだ。

 じゃらじゃらと暗がりから何かを引きずる音が聞こえてくると、やがてゆっくりとそれが姿を現す。鉄格子の先にいたものは怪物。それは想像つくだろうが、ただの怪物ではなかった。

 ダークブラウンの体毛をした山羊が二足歩行している姿を想像してもらいたい。脚部は四足歩行時の後ろ足の形状を維持しているが、前足にあたる部分は人の腕に酷似しており、非常に発達した大胸筋から伸びるその腕は丸太のように太く、鉄球付きの鎖によって自由を奪われている。頭部は山羊なのだが、過去に切断した痕跡を残す大角が天にそば立ち、目は紅く、草食動物であるはずの山羊に何故か口輪が装着されている。胴は人の目をした単眼の山羊に蛇が絡みついているという教団のシンボルマークが刻印された金属製の胸当てを装備して急所を守っており、その上からまた鎖によって幾重にも渡り拘束されていた。

「これは自ら被検体になる事を承諾した我々の同志で、呪病者となった後、芋虫を飲み込ませて成虫にさせた」

 カサノヴァが怪物の口輪を外しながら淡々と説明をすると、口輪を外された山羊の化物はメー、と静かに鳴いてギザギザの尖った歯並びを剥き出した。口輪をしていたのは草食動物には無い、肉を噛みちぎる牙を封ずるためだった。最早彼らのする事で驚く事など何も無いスェーミは、いつもの茫洋たる目を向けながら黙っていたが、この沈黙は怪物が一体何どういうものなのか聞き出す意図も含まれている。カサノヴァは山羊の怪物がメー、メー、と鳴く横でその意図通りに話し始めた。

「期待通りの能力を出せるのはいいが制御に問題があってな。成虫にさせてから血が欲しい、血が欲しい、とせがむのだ。初めは身内を与えていたが今度はその身内の調達にも難が出た。そこで異教徒共を与えるようになるのは自然な成り行きというものだろう」

 スェーミがカサノヴァの言葉から事の真相を推測する。ヴィクトリアに血を集めさせていたのはこの洞窟で山羊に血を与えるため、いわば保存食のためだった。それだけこの怪物の血に対する欲求が激しく、急いでいたのだ。しかし集められた血液は邪教の手に渡ることはなく捜査当局に回収されてしまい、“何も知らない蜥蜴の尻尾”のヴィクトリアは邪教にとって捨て駒どころか役立たずでしかなかった。スェーミは口から管を伸ばし涙を流して息絶えていた彼女の姿を僅かに惟るが、それ以上の事をすることはなく更に推測を続けた。

 山羊の怪物を見た所から察するに、邪教徒たちの体内に宿すあの芋虫が成虫になった結果、宿主にどのような影響を与えるかは多種多様のようで、対峙する山羊の怪物が本当に元人間だとすると、広間に集まった信徒たちが見せた変化とはまた別のものなのは明らかである。どうしてこのような変化の違いが現れるのかスェーミには見当すら付かなかったが、分かっているのはカサノヴァは教団の信徒に適当な理由をつけて山羊の怪物――山羊の餌にし、その調達が煩慮を抱えるとなると今度はヴィリエの人々を攫ったり、またある時は直接ヴィリエに出向き喰わせていたという事。反社会的で卑劣極まりない、人の命を何とも思わぬ無情刻薄な行いだが、ここにきて山羊にしてもカサノヴァにしても、スェーミにとって命を奪うのに何の躊躇いもない者たちだ。既に臨戦態勢にあった彼は月並みな義憤に駆られるようなことも無く、あの司祭のように軽く首を刎ねてやるつもりで剣を構えた。その代わり、エミリアーノ・ポリシオは諦める他なさそうだった。

「なるほど。だがその食う事しか頭にねえ出来損ないの面倒をみる苦労からは今夜で解放されるぞ。オレがそいつを始末するからな」

「さて、出来るかな?」

 一貫して無表情だったカサノヴァが少しだけ口角を上げる。意外は意外だったが、残念ながら瑞々しさを失っている彼女の唇では魅力的には映らず、かえって不気味で何か含みのあるものにさえ感じられた。

 ――いや、きっとそうだ。何かある。

 スェーミがカサノヴァから山羊に警戒を向けるとそれは起こった。突如、山羊が雄叫びをあげると鎖を引きちぎり、鎖に繋がれた鉄球をこちらに向けて投げ飛ばしてきたのである。

 ぶわっと風を切る音をしながら鉄球が高速で近付いてきて、スェーミは直撃する前に何とかこれを避けたが、どすん、と地面に落ちた鉄球はじゃらじゃらと鎖の音を立てて引きずられ、山羊の元へと戻ってゆく。

 また来る…!

 今更ながらスェーミが鉄球について観察する。大きさは人の頭部よりも大きく、繋がれている鎖の長さは先程の山羊との間合いを目測するにおよそ六~八メートル。つまりこの部屋の半分近くまでは届く計算だ。拘束具を容易く引きちぎり鉄球を投げるパワーは外見からも想像つくが、これでは被拘束者の動きを封ずるための鉄球がまるで武器だ。

「(やれやれ、キャッチボールをするにはタマが凶悪過ぎるぜ)」

 一方、観戦しているカサノヴァはこの戦闘は早く終わると予想した。相手のテンプル騎士が如何に戦士としての才能が優れていようと、今の鉄球を何度も避けきれるものではないし、一度命中すれば致命傷かまともに戦えなくなるほどの傷を負う。そうなるとこれ以上鉄球を投げさせてはいけないと考えるのが自然な流れで、必ず接近戦に持ち込もうとするはず。結果、あっけなくあのテンプル騎士は喰われて死ぬだろう。接近戦こそあの山羊の本領だからだ。

  ——山羊が鉄球を軽々と持ち上げ、投げようと構える。同じく、スェーミも剣を構える。

「来いブタ野郎。…ん?山羊野郎の間違いか」

「馬鹿め、勝つ気でいるか」

 カサノヴァがそう言った直後、再び黒い塊がスェーミに向けて飛ばされる。時速およそ百十キロメートル、その大きさと重量からすればもの凄いスピードだったが、スェーミもそのスピードに合わせて数々の敵を葬ってきたあの剣風を飛ばした。これら二つの要素は丁度空中で衝突し、結果、周囲に急な青白い発光と無音の爆風を生じさせ、鉄球が剣風を打ち破る。その代わりこの時の衝撃で鉄球の狙いが逸れ、速度も著しく低下し、あらぬ方向へと飛んでいった。また山羊もこの発光によって目を眩ませる。スェーミはこれを狙っていたのか、爆風に乗じて素早く接近すると、先ず鉄球と山羊を繋ぐ鎖を断ち切った。次に山羊の懐に飛び込んで、胸当てで保護されていない右横腹を切りつける。

 分厚い筋肉と脂肪を削ぎ切る感触がすると思った矢先、スェーミの身にこれまで体験したことの無い、不思議な現象が起きた。彼の五感が徐々に遮断され、時間間隔が麻痺すると、次に真っ暗な空間から山羊の輪郭が見え始め、更にその中央に赤黒く燃え上がる火の玉を確認出来るようになる。よく見るとそこには、ああ……なんという事だろう。地獄と呼ぶものを形にしたのならこういうものを言うのかもしれない。

 赤黒い火の玉の中には大勢の人が、まるで溺れているかのように手足をばたつかせ、一様に痩せこけて骨と皮だけの骸骨のような顔に苦悶の表情を浮かべながら、

「イリス様、お救い下さい」

 …と、助けを求めているではないか。恐らく彼らは山羊に喰われた人々の魂。それだけではなく彼ら自身が赤黒く染まっている様子から、その魂は邪な山羊の魂によって穢されているのだ。

 不意に燃え盛る火の玉の、僅かな片鱗に触れる。すると失われたはずの五感全てを通して様々な——簡単に言ってしまえば断片的で誰のものかも分からない記憶とその時々の感覚だ。それが、目を閉じても見えてしまい、耳を塞いでも聞こえてしまい、口を閉じても述べてしまうように、己の意思と関係無く自分の体に流れ込んでくる。その感覚といったら、便所の水に似た味のカクテルを飲まされたり、二日酔いの酷い朝に何度も吐瀉し、その上難解な議論をさせられるような、不快極まりないものだ。触れただけでこれほど嫌悪感を抱くのだから、火の玉の中にいる人々は恐らく正気を保っていないだろう。そのままスェーミが苦しむ人々を眺めていると、今度は彼の視線の横から青い光の線が駆け抜けようとしているのが見えた。

 …なんて事はない、それは刃こぼれした粗悪品の剣で山羊を斬りつけようとする自分の手。いや、やはり剣なのだろうか。きっと同じなのだろう。手と剣が一体となり光になって見えるのだ。

 間違いない。あの赤黒い火の玉を断ち切らねば、破壊せねば、山羊を殺す事は出来ない。そして山羊に喰われて穢された人々の魂も解放されないだろう。

 スェーミの感覚が物質ではなくその本質を捉える中、彼が思う事。カサノヴァの前に刺客となって現れたのと同じように、苦しむ人々に対する憐憫の情や山羊を殺して彼らを解放するという使命感は無く、ただ一言、

『クズ共め』

 …と、冷たく見下ろすだけだった。

 それは間違っているのかもしれない。何かがおかしくて狂っているのかもしれない。ああ、そうだ。そうだとも――。

 スェーミは、山羊に喰われた人々の魂が穢され山羊の中でずっと留まり続けているこの法則そのものと、一方的で、理不尽で、己の意志を問わず強制させられる法則に抗いもせずただ従い苦しんでいる人々に対して憤りを感じてならなかった。 風のような生き方をする彼にとって、ルールや法則に締め付けられる事、またそれを遵守しようとする者、遵守させようとする者、即ち“ルール馬鹿”を見るのが、他の何よりも腹立たしかったのである。そうなると、気付いた時には山羊が宿す赤黒い火の玉とそこで苦しむ人々にめがけて、一筋の青い光の線と化した自分の手、それに剣を叩き込んでいた。

 ここでスェーミの五感と時間感覚が元に戻る。彼は鎖に繋がれた鉄球が地面に激突するより早く、渾身の力を込めて山羊の右横腹を払い抜けた。

 本当は、喰われた人々が己の意志であの火の玉の中に留まっている訳ではなく、好きで苦しみからの救いを求めている訳ではないと分かっていた。本当は、自分を棚に上げてクズだの何だのと述べる自分が愚かしく、自分で自分を嗤う様子が客観的によく分かっていた。そして、それもまたおかしくて嗤った。そう、口元に笑みを浮かべながらスェーミは山羊を斬ったである。

 しかし——それは純白のハンカチに一つの黒点を見出すほど微細なものだったが、彼の経験が手応えに違和感を覚える。スェーミがすぐさま振り向くと、今、まさに山羊が飛びかかろうとしている時だった。それはとても回避するには間に合わない距離で、出来ることといえば牙を剥き出して大きく開いた敵の口に噛みつかれないよう、防御することだけ。スェーミは自分の肉ではなく剣を噛みつかせてこの難を逃れると、ごろごろと地面を横転し、互いにマウントポジションを得ようと競り合った。これを制したのは巨体の山羊で、彼は剣が峰に立たせられた。

 山羊の体重がスェーミに押しかかる。直ぐ目の前にある剣の先には山羊の牙が。牙は口の奥まで並んでいるが叢生ゆえに噛み合わず、己の歯肉を噛んでしまうので牙は血だらけで、口中にも気泡の混じった血が溢れ出している。長く伸びた顎髭は口から流す血で真っ赤に染まっており、それがひたひたとスェーミの顔に付いて濡らす。

「メェェェェ…メェェェェ…」

 山羊が切なげに鳴くと同時に百万の花ですら意味をなさないほどの耐え難い悪臭を吐く。また斬った横腹からは腸が飛び出していて、何ら痛痒を感じないのか、それでも貪欲なまでに喰らいつこうとしている。スェーミは悪臭といい、不利な状況といい、露骨にしかめっ面をした。

「(畜生、こんな臭い息を吐く野郎に喰われてたまるかよ)」

 抵抗に業を煮やしたのか、山羊がスェーミの左肩を鷲掴みにする。山羊の手は人のものと同様に五本の指を形成しており、途方も無い握力で指一本一本が容赦なくスェーミの皮膚を破り肉に食い込んだ。

 テンプル騎士の名の元に数多の敵と戦闘をして殺し続けてきたスェーミなら、この状況が真の絶対絶命であると態々伝えることなく察していることだろう。戦闘を続ければ、テンプル騎士の仕事を続ければ、いずれは負ける時が来る。多くの同僚がその運命を辿ったように、どこにでもいるただの人間である彼もまた同じ。その未来を予知するかのように彼は生と死の境界線が日々薄くなっているのを感じており、その線は今はもうすっかり掠れて見えなくなりつつある。

 終わりなのか?

 ここで本は閉じられ、棚に戻されるのか?

 ……いいや、まだ分からない。

 スェーミはいかなる状況であろうと諦める事はしなかった。また、考える事も止めなかった。それは反骨精神と言えば彼らしい理由として簡単に結論付け出来るが、剣を捨て、思考を停止させ、“くそ”と言って死んでいった同僚を実際に何人も見ている彼からすれば、実践的な経験則によるものとした方が的確だろう。卑屈であれ、ニヒルであれ、気を確かに持ち状況を打開するために考える。それが生存という細い細い紐を掴み取るスェーミなりの秘訣なのである。ところが、今回は彼が何度も経験している絶体絶命とは違った展開を迎えた。


『私とあの子で、君を助けるから。必ず助けるから!』


 一体何なのだろう?

 スェーミの脳裏に木霊し過る女の子の叫び。

 聞いた記憶が無い声なのに、会ったこともない人間の声のはずなのに、これを聞くと、生きなければ、戦わなければ、などと陳腐な使命感を掻き立てられてしまう。

 聞いた記憶が無い?会ったことがない人間?

 ある。あるはずなんだ。

 それはカサノヴァが見せた、あの意味不明な映像の中で出会い、じゃんけんをし、途方に暮れながら延々と広がる花畑を一緒に歩いた、人形のような女の子ではなかったか。

 あれは誰だ?本当は誰なんだ?

 今、スェーミは敵によって蹂躙されている左肩、臭い吐息、刃こぼれをした頼りない剣のすぐ先に迫る凶悪な牙よりも、花畑で出会った女の子が頭から離れず、彼の頭脳にこれまで出会った女性たち一人一人が静止画のように記憶から引きずり出す事が優先された。それは街を歩いてただすれ違うだけの人物であったり、職場の同僚であったり、飲食店の女給であったり、嬌声をあげる売春婦であったり、物乞いする老婆であったり、同年代の子供と元気に走り回る女児であったり、腐乱死体となって発見された女であったりと実に様々だった。


『私とあの子で、君を助けるから。必ず助けるから!』


 夢の女の子の声が再びスェーミの脳裏を過る。しかし今度は苛烈なまでに強い意志の力を伴って突き抜けていった。そこには諦めることを知らない代わりに無鉄砲であったり、寒冷期の湖に張る氷のように表面上だけ固く強いという、人間臭さや不完全さがよく分かったが、数々の伝説が遺されているイリスや異教の神々よりも、手を伸ばすと届きそうなほど近くに感じた。これだけ近いのにどうして俺は声の人物が分からないんだ、と自分が腹立たしくなるくらいに。

 ふとスェーミに左肩の尋常ではない痛みと腕の疲労の感覚が戻り、自分が殺されかけている状況を目の当たりにする。これはかなり辛かったが、直ぐそこまで迫っている醜怪な山羊の顔を睨みつけて危機的状況を脱する策を講じていると、突然青白い何かがどん、と山羊に衝突した。

 ナハルヴェンか?

 スェーミは初めそう思った。山羊に何か非常に強い力がぶつかり木の葉のように吹き飛んだからだ。スェーミの記憶にある彼ならば、それは造作もない事。だが見かけによらずパワーで敵を圧倒する人間がもう一人いた。

 白銀色のグリーブ、両腿に帯剣された双剣、ケープコートに隠れてよく見えないチェストガード、肘当て、ヴァンブレイス。そしてポニーテールをした凛々しい女。

 そう、リタだった。信じられないがどう見てもリタに疑いようがなかった。スェーミは言葉も出ず、どうしてこいつがここに居るんだ、とそんな事ばかり考えていたが考えたって分かるはずがない。とにかく自分が邪教の密偵をしている間に思いもよらぬ所から状況が動き、彼女がここにこうしてやって来た…そう結論を出す。だがそれでもまだ彼らしくもなく呆気に取られた様子でリタを見つめていた。

「スェーミさん、しっかり!」

 そうこうしている内にゼクスとローリックもやって来た。ゼクスは真っ先にスェーミの元へ駆けつけると、負傷している彼の左肩へ治癒魔法を行い、ローリックはリタの隣に立ってカサノヴァと対峙した。そのカサノヴァは目を見開き、何かに驚愕しているようだったが、明らかに愉悦も同居していた。どうやら他のテンプル騎士たちが現れた事に関係しているようだが、この奇妙な様子に気付いているのは対峙するローリックだけだった……。

「大丈夫?立てる?」

 負傷しているスェーミをそっちのけにリタがライトブルーの双眸を真っ直ぐ山羊へ向けたまま言う。すると山羊も右横腹に一太刀、胸にもう一太刀受けた山のような体をむくっと起こし、ひしゃげて曲がった胸当てを邪魔そうに捨てた後、飛び出した腸をズルズルと引きずらせながら動きだした。リタはその様子を静視観察していたが、山羊が鉄球を回収した所で二つの剣を抜く。敵意と蔑みの眼差しを山羊に向ける彼女を見たスェーミは、自分でさえ策を練り技を駆使して挑んだというのに、まさかあの鉄球を正面から受け止めようと考えているのではあるまいな、と鬼胎を抱く。鉄球を無力化するには避ける・キャッチする・破壊するのどれかだが、リタはその全てを同時にこなそうとしているようでならないのだ。しかも鉄球は直撃すると当たり所が悪ければ即死するほどの破壊力がある。

 スェーミは思わずリタに叫んだ。

「おいリタ。よせ、止めろっ」

「私に任せて頂戴。全て終わりにするから」

 スェーミの憂慮に耳を貸さず、リタが両手の剣のうち、左に持つ剣の先を真っ直ぐ山羊に向けて宣言した。最早彼女を止めることは出来ない。

 ――マジかよ、こいつ。

 スェーミがそう思った瞬間、山羊によって鉄球が投じられる。時速およそ百キロメートル、前回、前々回とほぼ同じ速度だが、負傷しているというのに相変わらず狙いは正確だった。一方のリタはその優れた動体視力によって高速で接近する鉄球の表面にある、スェーミとの技でぶつかった時の傷を捉えていた。これを狙って彼女は自身が体得している剣技を繰り出す。

 それは、簡単に言ってしまえば分身である。別の表現を用いて説明するとすれば、合わせ鏡をした時に現れる無数の鏡像と鏡像とが、彼女を構成する輪郭、即ち実体から次々と現れては、迫り来る鉄球に向かって突進するのである。鏡に映し出された訳でもないのに鏡像と表すのはおかしな話だが、単に分身と呼ぶにも合点がいかない。彼女の鏡像の場合、地を駆ければ音と共に砂埃が舞い上がり、壁に衝突すれば震動が起こるように、質量をもった物体が実際にその場になければ起きない、物理現象が起きる。また、ひとつひとつの像に影が有り、息遣いが有り、顔の作りは同じだが皆それぞれ表情が違う。発光や半透明状といった視覚的な相違も無いのだ。

 実体のリタは剣先を山羊に向けたまま、その輪郭から何人ものリタ自身が飛び出しているような不可思議な光景を周囲に見せると、高速で接近する鉄球を彼女たちは一斉に切りつけた。これにより怪物が投擲した鉄球は空中分解を起こし、バラバラになった破片は剣先を向ける実体のリタに一切当たる事なく壁や床に飛散する。鉄球を完全に無力化した彼女たちはそこで雲散霧消すると、実体のリタは次に山羊へ向けて鏡像を飛ばした。仁王立ちしたままの山羊を何人ものリタがすれ違い様に切り刻み、最後の鏡像が山羊の首を切りつけると、それは切断までには至らなかったが確実なトドメとなり、山羊の姿をした怪物はとうとう地に伏した。併せて山羊の前身である人物が飲み込んだ芋虫の成虫もここで死んだ。一方山羊が倒れると、実体だと思われていた剣先を向けるリタが消え去り、最後の鏡像と思われていた彼女だけが残った。どうやら陽動として鏡像を残しながら実体も動けるらしい。

 巨漢の山羊を不可思議だが華麗な技によって容易く屠ったリタにはその場の誰もが只々目を見張る思いだったが、その彼女は山羊を退けた後も剣を収めず一方向をじっと睨んでいる。視線の先は勿論、南方の邪教の教祖にして祓魔神官のカサノヴァだ。スェーミとゼクス、それにローリックがこの時見たリタの目には、カサノヴァの教会への裏切りやイリス教の背信に対する咎めは既に無く、“ただの敵”それだけのようだった。

 山羊を失い流石に形勢不利と見たのか、カサノヴァが背を向けて直ぐ後ろにあった通路へ逃走する。すかさずリタがその背中へ目掛けて鏡像を二体飛ばしたが、

「止めろリタ!」

 …と、今度はローリックが大声で制止を呼びかけると、鏡像が既の所で消えた。だが実体は敵ではなく味方であるはずのローリックに鋭い目を向けている。

「何で止めるの?すぐそこにいるのに。背中を見せているのに!」

「この任務はから失敗するものだったんだ。だが邪教は壊滅、敵の首領の正体も分かった。貧民街のシンジケートだって多大な損害を与えたはずだ。それで充分だろう!」

 リタの反駁にもローリックは一歩も引かず、厳しい口調で改めて制止を呼びかける。スェーミはこの様子をただ静観していたが、ゼクスには二人の関係から本気で意見を戦わせるのはまず無いように思え、スェーミの治療をしながらどこか物珍しい目で見ていた。その間に蟇隊長を先頭に衛兵隊もぞろぞろとこの秘密の広間にやって来て、部屋の状況を一目見ただけで何かを判断した蟇隊長はその場にいた全隊員にカサノヴァが逃走した通路を調査するよう命令を出すと、更に次から次へとやって来る他の衛兵隊員へも命令を出したところで、じろりとテンプル騎士の一行に目を向ける。

「貴様ら、一体どういう事になっておるのか説明してもらおうかっ!」

 蟇隊長はリタを見ると、前日の継ぎ接ぎの館での出来事がまだ彼の心を苦しめているのか、より一層険しい表情で睨んだ。対するリタは忠犬に蟇蛙にと睨まれ戦意をすっかり失ったのか、それとも滑稽な自分の状況に馬鹿馬鹿しくなったのか、双剣を鞘に収め腕を組むと、面白くなさそうにぷいっと目線を逸らす。そこでやっと邪教壊滅の立役者であるヨアヒムがやって来た。

「隊長。状況はどうか」

「はっ、既に教祖の女はここに居らず、今部下に追わせています」

「別働隊を編成し海蝕洞や近辺の海を調査するよう命令を出している。この時化で戦闘艇でもない小型船が海に出たらどうなるか知れた事だが、一応な」

 どうやら衛兵隊はこの海蝕崖を利用した洞窟のどこかにまた別の海蝕洞があるのを把握していたようで、カサノヴァはこの通路の先にあるであろう海蝕洞を抜けて逃走したと考えているようだ。ただ周辺の地理から海蝕洞の規模は小さく、もし非常時の逃走用に船を用意してあるとしても、それはヨアヒムが言うように釣り人が沖に出るためのような小型である事が予想され、そうなると逃走したカサノヴァの生死すら不明という事になる。

 ヨアヒムと蟇隊長の話が一段落した所で、今度はまだ不機嫌そうなリタが口を開いた。

「さて…と。スェーミ、あなたがここ数日の間行方を眩ましていた理由と、その赤い瞳について聞かせてもらえる?まさかあの芋虫を飲み込んだなんて言わないでよね」

 腕を組み厳しい眼差しを向けるリタには、いかなる事実をも受け入れようとする意志の力と追求する厳しさをも感じられる。それはついに大都市ヴィリエを蝕む邪教が滅んだ今、ゼクス、ヨアヒム、蟇隊長は勿論の事、別の理由でこの洞窟に潜入したローリックも同様であるかもしれなかった。対するスェーミは傷の治療を終え、注目する視線から彼なりにきまりの悪そうな顔をしていたが、やおらに指の平を両目にあてがうと、丸くて赤い、半透明状の物体を取り外して元の茶色がかった黒い瞳を露わにした。

 彼の説明によれば、この半透明状の物体は眼鏡の一種で、網膜に直接装着して視力を矯正したり、角膜の色を元々の色とは別の赤や青に見せたりする、医療機器として本国の軍が開発したもの。網膜に直接装着するタイプの眼鏡を開発するとは軍も兵士の近視眼にはだいぶ憂慮しているようだが、それにしてもこうして種が明かされれば誰にも出来る簡単な方法で、それでいて意外な所に着目するものだなと感心する所である。スェーミがどのようにしてこの新型眼鏡を入手したのかは分からない。分からないが、とにかく入手したら後は装着するだけで、芋虫を飲み込むことなく“芋虫を飲み込んだ同胞”と偽り、まんまと邪教徒たちの中へ紛れることに成功したのだった。尚、この洞窟は彼にとって別の仕事を通してずっと前から既知の存在だったらしく、今から一週間前のカフェ・カリタでの捜査を機に、いつの頃からか邪教徒の洞窟になっている事を知ったのだという。

 それはそうとして、子爵と貧民街のシンジケートなどの後押しを得てヴィリエを内部から瓦解しようと暗躍する者たちの中に、まさか密偵がいるとは誰も思うまい。スェーミは不眠不休で諜報活動を行い、第二騎士隊長ナハルヴェンに得られた情報を流し、ナハルヴェンはその情報を更に衛兵隊のヨアヒムに提供した。それが今回の衛兵隊による上陸・突入作戦の経緯だ。勿論邪教も子爵を通じて衛兵隊の局次長とテンプル騎士団の本部長と間接的に繋がりを持っているので、内通者がいる、という事は察知していた。だがそれが何者なのか分からず、組織の末端のモーリスたちは神経を尖らせていたのである。そのため邪教は信徒たちやシンジケート関係者へ些細な誤りや教義に対する違反行為を理由に粛清を始めており、その形跡がリタ、ゼクス、ローリックが発見したもう一つの隠し広間にある大量の人骨である。あと少し密偵が長引けば、流石のスェーミも危なかったかもしれない。

 継ぎ接ぎの館でモーリスが苛立ちを隠さず述べていた内通者の正体はスェーミだった。それは分かったが、他の者はともかく、ゼクスは先ずリタが屠った怪物について知りたかった。だが、祓魔神官のカサノヴァがどうしてこの洞窟にいるのか理解出来ないヨアヒムが最初に尋ねたため、それは後になった。

「スェーミ、どうして神官カサノヴァが邪教の教祖としてここにいる?あの女は一体何者なんだ?」

「確証が無く完全に推測の域でしかないが、敢えて言うなら恐らく奴はカサノヴァの姿をした、いや、カサノヴァの身体を乗っ取ったドミニクという女だ。正体はここで見たままの通り南方の邪教の教祖さ。これが確かなら恐らくカサノヴァの精神は喰われてもう存在していないだろう」

 ゼクスが実践任務考査の移動時に、スェーミと馬車の中で会話した祓魔神官について思い出す。確か彼は祓魔神官たちの顔を知らないような事を述べていた筈で、どうして神官カサノヴァがそのドミニクなる人物と入れ替わっていると言えるのか疑問に思う所だが、これには南方のテンプル騎士団の一助が大きく影響していた。今からおよそ半年前、彼らは南方におけるフー・クランヌドグ・クァンザル教団との交戦が重要局面を迎えた時、ヴィリエより応援としてやって来た神官カサノヴァも自ら戦闘に参加し、教祖ドミニクの殺害に成功する。ただそれは大規模な戦闘の最中でのカサノヴァとドミニクによる一騎討ちであって、どのような対決が行われたのかは誰も知らない。残されたのは南方で猛威を振るっていたドミニクの死体が残されていただけで、それはカサノヴァが確かに一騎打ちを制した証左であった。しかしそのドミニク亡き後も未だに邪教は統率がとれた状態で抗戦を続けており、南方のテンプル騎士団はスェーミの依頼がある前からこの原因について調査していた。そこではカサノヴァが殺したのはドミニクの影武者ではないか、或いは新たな教祖が擁立されたのではないか、などと考えられてはいたが、最終的に結論を出したのが“ドミニクは何らかの方法でカサノヴァに扮している”…というものだ。

 スェーミが続ける。

「オレは祓魔神官の連中やドミニクの顔を知らないが、祓魔神官の特徴で“呪いの石”と呼ばれる紋様の事なら知っている。お前らも知っているだろう?あの教祖の女も右手にそれがあった。つまり教祖の女は少なくとも祓魔神官なんだ。また南方戦線でカサノヴァが参戦しその後にヴィリエで起きた今回の邪教騒ぎを考えると、ここで教祖として君臨していた祓魔神官は状況からしてカサノヴァで、また南方のテンプル騎士団が調べた話からカサノヴァの姿をしているが中身はドミニクではないか、と推測出来るって訳だ」

「その推測、多分良い線いってると思うね。俺の知り合いの上級神官も、南方戦線から帰還したカサノヴァが人が変わったようだと言ってたしな」

 スェーミの後にローリックも続ける。ただ先程リタとゼクスにも話したその上級神官の談では、戦場ノイローゼによるものと考えているという。それはそれで現象に対して納得のいく理由となるかもしれないが、祓魔神官は数々の戦闘をこなしており、カサノヴァに至ってはリーダーを務めるだけあってその経験は数知れないのだ。果たして戦場ノイローゼという理由は合理的と言えるのだろうか。

 …場が沈黙する。邪教の教祖は一体何者なのかと暗中模索する中でゼクスは、訓練所で習った禍々しくも感じさせる、荊を振るう魔女を模した黒い紋様を思い出していた。教会の奥の手であり、忌み嫌われる呪病者でありながら対呪病者の諮問機関であり、上級神官でもある歪な者たちの証、呪いの石。女性を中心に構成され、彼女たちの華々しい活躍は退屈な訓練所生活の中でも耳にしたことがある。その一人が邪教の教祖という裏の顔を持っていたとは驚天動地の心境だが、同時にゼクスはスェーミの推測について少し分かりにくかったので自分なりに整理した。

 あの教祖の女がカサノヴァなのか、ドミニクなのかはひとまず置いておく。次にこのヴィリエに現れた南方の邪教の教祖にも呪いの石の紋様があれば、その教祖も祓魔神官であるといえる。だが聖イリス教会の高僧である祓魔神官が邪教の教祖のはずがなく、仮にもしそうだとしたら、半年前に南方へ向かい帰還したカサノヴァか、若しくはそれに扮したドミニクが考えられる。

 ……連想ゲームのように短絡的でだいぶ苦しい結びつけではあるが、ローリックの知り合いの上級神官が述べていたという、南方より帰還したカサノヴァの様子が以前と大きく異なる事についても織り込むと、あながち間違いということではなさそうにも思えてくる。それになにより、南方のテンプル騎士団は本国の軍と共に怪物とそれに与するフー・クランヌドグ・クァンザル教団と永きに渡り戦闘を続けてきた。そこには千軍万馬の経験と知識があるはずで、その見地から疑わしきはカサノヴァ、しかもその肉体にはドミニクが憑依している可能性があると言うのなら、真実味があるのかもしれない。

 それにしても、南方に住んでいた人々に妖しい教えを流布して魔に堕とし怪物たちの奴隷として使役させていたドミニクは、未だに人類と怪物の係争地である南方から何のために、どうしてヴィリエを選びやってきたのか。逸脱者である彼女の考えなど常人には到底理解出来ぬものだが、とにかく彼女は元々カサノヴァの下で任務に就いていた他の祓魔神官たちですら偽物と見抜けず、事もなげに教会でパワーを振るっていた。もっと分からないのは、ドミニクとカサノヴァの立場が真逆であるという点だ。あの演説では呪病者の救済について述べていたが、ドミニクがカサノヴァを騙っている時は他の祓魔神官を遣わせて間接的に彼らを葬っていたという、演説の内容と矛盾する行いをしていた。これについてスェーミは見当もつかない、と述べるだけだった……。

「実際の所、教祖はそのドミニクという女だと思う?」

 顎に手を当てたリタの質問に、スェーミが肩を竦める。

「さあな。名札でも付けていてくれれば判別は容易だったんだが。とにかく、ドミニクは時化の海にダイブしておっ死んじまった…なんて事はないはずだ。奴は必ず逃げ延び、再び姿を現すだろう」

 それは遠い先なのか、それとも…?

 スェーミの不気味な予言に、その場にいた誰もがカサノヴァか、若しくはカサノヴァに扮したドミニクのあの姿を想起していた。どちらであろうと同じなのは、邪智暴虐たる性質を有し、交渉や説得に応じるような相手ではないという事だ。

 ……ちょうどこの時、教祖の女を追っていた蟇隊長の部下たちが戻ってきた。やはり逃亡した後で、その姿はもう無かったとの事である。

「教祖の女は逃がしてしまったし、新たに判然としないものが浮かび上がってきた。それに加えてポリシオは姿すら現さなかったか」

 ヨアヒムが事件の一知半解の有様にふぅ、と小さく吐息するのを他所に、鋭い目をしたスェーミが何か言いたそうだったのをゼクスは見逃さなかった。ただそれは本当に一瞬の事で、彼は立ち上がると胸ポケットからぼろぼろの紙箱とマッチ箱を取りだし、海水の湿気とこれまでの戦闘ですっかりヨレヨレになった煙草を咥えると点火する。しかしなかなか点火出来ないのを見て、ローリックが火を貸した。あんなに捻れて擦り切れた紙の箱によくまぁ煙草の形の原型を留めているな、とゼクスは関心するが、部屋の隅に横たわっている怪物の死体を改めて見て、ここでやっと自分の知りたかった事について触れた。

「スェーミさん、あの怪物はなんですか?」

「あれか?ヴィクトリアが血を吸っていたなら肉を喰っていたのがあれ、例の食い専野郎だ。ヴィクトリアとあの化け物がどういう風に組んで犯行に及んだのかは知らねえがな」

 これを聞いて蟇隊長が大袈裟に聞こえるほど鼻を鳴らす。いや、彼は地声が非常に大きいのでこれが普通なのかもしれない。

「貴様らテンプル騎士団はまだそのような世迷言を言っておるのか。肉を喰らったのは犬や猫、或いは血を抜き取った者と同じ、どこかの異常者か他の邪教徒に決まっておる!これは我々の日常にありふれた人間や動物による犯行なのだっ!」

 捜査当局の対応について思い出したいのが、テンプル騎士団が“犯人は怪物で血液を抜き取りその後に死体を食した”のに対して衛兵隊は“犯人は人間で血液を抜き取りその後に死体を食した”という見解の違いである。衛兵隊は公には九番街連続殺人事件は解決したとしているが、ヨアヒムはそうだと考えておらず、そこは蟇隊長も同調していた。ただ最初の犠牲者が出てから二週間が経過したというのに、彼らは未だ何処かにいる異常な人間による犯行と見ている。テンプル騎士になったばかりのゼクスもそれは同様で、彼は自分がこれまで生きてきて当たり前だと思っていたことを、深く深く掘り下げて考えるほど影響を与えたこの事件の犯人は一体何者なのか、そしてどのような結末を迎えるのか知りたかったものだが、それが向こうで腸をぶちまけながらズタズタに切り裂かれている山羊を見ると、そんな馬鹿な、という信じられない思いがこみ上げてくるのである。

 一方、蟇隊長に言われたスェーミは不味そうに煙草の煙を吐いた後、いつもの気怠い調子は変わらなかったが、その代わり険のある言葉で返した。

「おい、このガマガエル野郎。テメエの頭ン中はカラッポなのか?それとも肉しか詰まってねえのか?面構えから察するに肉の方か」

「な、なんだとっ。俺にはジュリアンという貴族の名前が――」

「黙れ。テメエら衛兵隊は自分たちが被害者の解剖をして“死体を噛みちぎったのは歯型からして人間と同じくらいの大きさの獣”と結論を出しているのに、何で人間や動物による犯行として捜査するんだ?馬鹿なのか?それとも人の話を聞く耳がねえのか?」

「ふぐっ…!」

 蟇隊長がそれこそガマガエルのように顔を膨らまし真っ赤にさせている。スェーミは構わず続けた。

「いいか?まず法医解剖の見地と異なるので貴様が言う犬猫、つまり動物による食害はそもそも有り得ねえ。仮にそうだとして、一晩で一人の人間を人相が分からなくなるほど喰らい尽くすには何頭もの犬猫が死体にかぶりつかないと無理な話だ。おい、顔を血だらけにして街中を彷徨う野良犬野良猫を見かけたって報告は上がって来たか?それも五日間連続、五人分だぞ。来てねえだろ?だが被害者やその周囲には獣の体毛らしきものは発見出来ているはずだ。もっと身内の話を聞いてやらなきゃあ、損するぜ」

「うむ、確かに発見されている。だが…」

 言い淀むヨアヒムの先に続くもの。それは恐らくあの局次長が関わっているに違いない。己の権利欲が満たされるまであの老人は権謀術数をめぐらし、真実に繋がる証拠も平然と踏みにじるだろう。

「ふん。では聞くが、あの怪物が犯人だとして最初の被害者が見つかった状況をどう説明する。あの倉庫は密室だったのだぞっ!」

 蟇隊長の反駁にゼクス、それにヨアヒムまで同調した。

「そうですよ、スェーミさん。あの倉庫には天井の所に窓がありましたやろ?あないなとこからどうやって犯人は出入りしたか分からずじまいやないですか」

「お前も知っていると思うが、夜を賑わう倉庫通り周辺で梯子や脚立の運搬をしている者たちは目撃されていない。ロープを引っ掛けられそうな所も現場には無いぞ」

 スェーミは紫煙を燻らせながらゼクスとヨアヒムの指摘を黙って聞いており、蟇隊長にいたっては顔を汗まみれにして引き攣った微笑を浮かべている。偉そうな事を言っておきながらこの問題を解決していないではないか、という嘲笑に見えるが、それは自分たち衛兵隊もまた同じこと。流石に彼もそれを理解しているようでこれ以上の追及はしなかったが、代わりに持論を展開した。

「死体を食ったのが犬猫でないのなら、やはり犬歯が発達したような人間の仕業なのだっ。俺が思うに犯人は複数いて、そいつらが死体を食った後、どうにかして――例えば合い鍵などを作り倉庫をさぞ密室のように作り上げたのだ。もしかすると第一発見者が怪しいかもしれんぞっ!」

 煙を吐き、また吸って、煙を吐き、また吸って……それを黙って三回繰り返した所で、スェーミが漸くここで口火を切る。何を考えているのか分からない茫洋たる目は真っ直ぐに蟇隊長へ向けられていた。

「肉を喰う犯人が同時に複数いた?合い鍵を作って密室にしただと?じゃあ聞くが、天井の窓付近に付着していた被害者のものらしき血痕はどう説明する?それに他の被害者は路上でだって殺されているんだぜ、いちいち密室だと思わせるような状況を作る必要があるのか?まだあるぞ。あの倉庫周辺のように犯人が限定されない不特定多数の人間が出入りする場所で、貴様の言うような偽装工作をして何か意味があるのか?」

「ぐぬっ…!」

 次から次へと浴びせられる質問に、蟇隊長は全く答えられない。彼の持論は事実から求められる論理的思考によって導かれたものではなく、単なる口からでまかせと思いつきによるもの。それをこの場にいる、部下を含めた全員に周知されてしまい弱り目に祟り目といった状態で、顔から火が出る思いになっているのはその様子からして明らかだった。

「スェーミ、話して」

 一方、ずっと腕を組んで静聴していたリタはこの茶番よりスェーミの考えを早く知りたいらしく、彼に話をするのを促した。促されたスェーミはチラリとリタを瞥見し、その強い眼力に射抜かれた事によって仕方ない、と決意する。彼はまた一回煙を吸ってゆっくりそれを吐くと、秘密主義者の妙味をしじまなる風のように語った。

「馬鹿げた事にお前らは密室、密室、なんて言ってるが、あそこは密室でもなんでもない。オレたちテンプル騎士からすれば、施錠されている出入口、激しく食害を受けた被害者、天井付近にある窓とそこを出入りした形跡——これらの状況から犯人は飛行能力を有するか、それに準ずるほどの筋力や跳躍力を持つ化け物だと容易に推測出来る。いいか、。そいつは道具も何も使わず、普通にあの天井付近にある窓から侵入し、泥酔状態の漁夫を殺した。バー・クラゲの海のマスターも同じで、換気用に開けられた二階の窓から侵入しマスターを殺した。脚立だの梯子だのロープだのと人間による犯行だと考えれば永遠に解決しねえ問題だってことだよ。もっと言うと、衛兵隊による解剖の歯型と、現場で発見された獣の体毛だ。歯型と体毛があれと一致したら証拠にもなる」

 “あれ”と言いながらスェーミが横たわる山羊の怪物に左親指を向ける。

 ドミニク、邪教、貧民街のシンジケート、“何も知らない蜥蜴の尻尾”のヴィクトリアに、肉を喰らう山羊の怪物、そして子爵。九番街連続殺人事件とそれに係る出来事を構成するキーワードはここに殆ど揃ったが、これら一連の出来事を複雑にさせている、最後の一欠片がまだ残されていた。

「ただ最初の漁夫、それにクラゲの海のマスターは違う歯型で、別の体毛が見つかるはずだ」

「何だって?実行犯はまだいるのか?」

 質問をするヨアヒムはスェーミの言葉に驚きを隠せない様子でいる。それもそのはずで、衛兵隊はテンプル騎士団との合同捜査を急遽取り止めたり、子爵の煽りによって犯した誤認逮捕という失態を捏造した証拠によって人々の目を瞞着しようとするなど、九番街連続殺人事件に関しての対応は迷走に迷走を続けていた。更におとり捜査の後からは同事件の解決を局次長が宣言しており、以後触れる事すら出来なかったのだ。

 スェーミはヨアヒムの質問に答えるように続きを始める。ただその“独白”は彼らに衝撃を与えるものだった。

「九番街の事件で、オレは先ず漁父の死因について疑問を持った。衛兵隊、それにこれはテンプル騎士団もそうだが、漁父の死体は損壊が激しかったため確認出来なかったものの、他の四人が吸血による失血死なら、この漁父も同じく失血死だろうとして、死体の状態が似ていることを理由に同一犯扱いにしていた。だが実際はそうではなかったんだ。オレたちは先入観に囚われているんだよ」

「つまり、最初の被害者はヴィクトリアに吸血されず殺害されたって事?」

 リタの問いにスェーミは一瞥するだけで黙っている。この場合の彼は無視ではなく肯定を意味するが、どうしてか彼の事を全く知らない者もいるというのに、その場の誰もがこの無言の肯定を察知していた。

 それはヴィクトリアの姿からも導き出せる事である。地上四階建ての窓から道具を使うことなく侵入を可能とするには筋力や跳躍力、反射神経などが非常に研ぎ澄まされた怪物のみであり、人の姿をしていた彼女には不可能だ(この事実があることで密室と失血死の関連を繋げることが出来ず、衛兵隊は頭を悩ませていた)。それを最初の被害者は二番目から五番目の被害者と同様に失血死であろうと結びつける双方の捜査当局は、浅慮と呼ばれても免れ得ないだろう。スェーミはヴィクトリアが邪教徒として姿を現す前からいち早く犯人が複数存在し、死因も異なる被害者がいる事に気付いていたのだ。

 スェーミが静かに続ける。

「クラゲの海のマスターは殺されて死んだ。だがその死が、オレにもう一人の犯人は同じようで違うという事を教えてくれたんだ。肉を喰らう化け物は山羊野郎だけじゃねえ、もう一匹いやがったんだよ。そいつは倉庫街や酒場でをして、尚且つ一切姿を目撃されないでいる狡知に長けた野郎だ。骨は折れたが、六日前にやっとそいつを見つけ出すことが出来た」

 六日前と聞いてゼクスが思い出すのは、その翌日にスェーミと公園墓地で再会した時の事だ。降りしきる雨が地面を、墓石を、木々を、そしてもしかすると彼の目をも濡らしていたかもしれない凄凄切切とした日で、あの時スェーミはもう一人の犯人に辿り着いていたのだ。この実りを獲得できたのは身命を擲つ覚悟と、すっかり磨滅して体が動かなくなってもなお自分に鞭を打ち続けた、彼の強い忍耐があったからに違いない。残念ながら、こちらはそのもう一人の犯人について憶測上ですら浮かばなかった。代わりにこの事を知ったことで、これまでゼクス自身が思い描いていた事件の全貌とは異なるのものが頭に浮かんでくる。

 謎のヴェールに包まれたもう一人の犯人。一体何者なのだろうか?

「私がやっつけたあの山羊の怪物が最初の被害者やマスターを殺害したんじゃないの…?」

「確かに死体を食い散らかす事は出来るだろうが、あまり身軽そうには思えないぞ。多分、やったのはあいつじゃない」

 いまいちピンと来ないリタが何となしに言うのを、ヨアヒムが否定する。どうやら彼も衛兵隊の立場でありながらテンプル騎士団のスェーミが伝えようとしている事を実感として理解し始めているようで、そんな二人のやり取りを見ていたスェーミはどこか面白そうに言った。

「こればっかりは勘が当たらなけりゃ、ここまで来れなかったかもな」

「ふ…ふん!捜査をする者が揣摩臆測をするとはなっ!」

 蟇隊長が相変わらず顔を真っ赤に膨らませて吐き捨てるように言う。どうも二人は本当に馬が合わないようだが、言われたスェーミは気にも留めていない様子。彼は煙をゆっくり吐くと、蟇隊長と再び向き合った。

「貴様にだけは言われたくねえな、ガマガエル野郎。だが仰る通りこのヤマは単なる憶測から真実へと導かれたんだ。オレたち捜査をする者は自分の勘を信じることを知っている…そうだろ?」

「真実だとっ!?さっきから勿体ぶりおって、その真実とやらをさっさと言えっ!」

「分かったよ。話すから汚ない唾をそんなに飛ばすな」

 蟇隊長の激しい催促に負けて切り出したスェーミの言う真実の一端、“ランドルフ・エトムント・ドラクロワ”という名。聞いたことのある名前だ、とゼクスは思うと、同人物について記憶を手繰り寄せた。

 ヴィリエでは知らぬ者はいない辣腕政治家で、子爵の息子でもある男。その反面、継ぎ接ぎの館へ足を運びモーリスたちとカードゲームにも興じる、芋虫を飲み込んだ邪教徒。彼はこれまで四度も暴行事件を起こしたかに見られていたが、他人の空似によるものとして罪に問われる事は無かった——。

「きっかけは週刊誌の報道さ。ちょうど例の暴行事件を取り上げていて、ランドルフとは別人の容疑者が逮捕された、という内容だった。だがもし他人の空似ではなく、ランドルフ自身による犯行だったら?…と思ってな。衛兵隊の留置所にいるその他人の空似野郎を連れ出し、“尋問のエキスパート”に依頼して吐かせた。そうしたら新事実が出るわ出るわ。そいつは暴行事件を起こした政治家殿の身代わりで、芋虫を飲みこんではいなかったがシンジケートの構成員だった。シンジケートの奴らはランドルフと個人的な付き合いがあるという人物を捏造し、事件当日、ランドルフは会食をしていたというアリバイをでっちあげたんだ」

 潜入のエキスパートがいれば尋問のエキスパートもいるのかとゼクスは感心したものだが、それ以上に、スェーミのコネクションの広さに驚く。彼は彼個人の要請により九日前、つまりおとり捜査の翌日から二騎とは別に三騎と捜査協力を結び、衛兵隊の捜査当局と変わらぬ規模の人員を動員して九番街連続殺人事件とそれに係る出来事の捜査をしていたというのだ。

 捜査協力を結んだその後のスェーミは、中心街の、特に子爵邸がある西側を毎夜警邏するよう三騎へ依頼、己の直感を信じて待つ。そして六日前の丁度今頃の時間帯に、それは起きたのである。

「後はクレメントの野郎が上手くやってくれてると良いんだがな」

 スェーミはそう気怠く言うと、すっかり短くなった煙草を踏み消した。

 ………

 ……

 …

 午前二時三十五分 子爵邸――

 クレメントが先頭となり、六名の部下を引き連れて子爵邸内を足早に歩く。彼はよく磨かれた手摺りを掴むとひらりと跳躍して階段を上り、最上階の三階まで上り切ると、その先は一本の廊下である。クレメントたちは躊躇することなく前進し、やがて目的の場所に辿り着いた。

 これは一級の特殊作戦であり、本作戦に参加している隊員は三騎の玉石混淆たる人員の中でも特に厳選された精鋭揃いで、“根絶やし”と呼ばれる一般隊員とは一緒くたにされぬ顔触れであったが、そんな彼らにも心臓を鷲掴みにされるような緊張がのしかかる。流石のクレメントでさえも、この時は笑顔ではいられなかった。

 コンコンコン。

 三回ノックする……が、返事は無い。

 時間が惜しかったクレメントはハンドジェスチャーで素早く、

『蹴り破れ』

 …と、隣にいた部下に指示を出す。緊張によって汗まみれとなった顔を気にするでもなく彼は頷くと、ドアから少し離れ、右脚に青白いオーラを発光させるとドアノブの辺りに目掛けて一回、二回、三回と蹴った。通常なら盾を摸したかのようなこの牢固たるドアを蹴り破る事など困難だが、人間の力と魔法の力を帯びた脚によるものならば鉄槌で強打する程の威力がある。果たせるかな、四回目は蹴らずに体当たりするとドアは見事破られ、七人の訪問者は荒々しくランドルフの私室へと踏み込んだ。

 部屋の中は発光器が点灯しており、中の様子がよく見えた。贅沢に作られた調度品、木製の立派な本棚。そこには学者向けの分厚く高価な植物図鑑、動物図鑑、言語辞典、法律辞典、歴史書などの他に著名作家の小説が何冊も敷き詰められ、壁には遠い昔に名を馳せ今も色褪せることのない画家が描いたヴィリエの風景画が飾られていて、ワイン棚には熟成され飲み頃を迎えた年代物がいくつも収められていた。目的の人物はナイトガウン姿で大の字になってもまだスペースに余裕があるベッドの上で横になっており、そこでうー、うー、と唸りながら胸を押えて苦しんでいる。この様子を見たクレメントはベッドへ歩み寄り片膝をつくと、容体について訊ねた。

「ご気分はいかがですか、ランドルフ殿。かなり具合が悪いように見えますが」

「うぅっ、なんだ貴様らは…。馬鹿な下女共め、夜は誰も通すなと言ったのに…!」

 絞り出すような声でランドルフが言う。顔は苦痛に歪み、脂汗でじっとりとガウンを濡らしているのがよく分かった。

「夜分遅く申し訳ありませぬ、我々はテンプル騎士団第三騎士隊。貴方に幾つか伺いたい事がありまして。その内容次第ではご同行頂きたく……」

「テンプル騎士団だとっ」

 ランドルフが上半身を起こし、胸を押えて息を切らしながらも、よろよろとベッドから下りようとしている。その様子があまりに弱々しく危なっかしいので、クレメントの部下が肩を貸そうとしたが、彼はそれを、

「私に触るな!」

 …と、拒否した。

 何とか私室にある肘掛け椅子に腰を下ろすと、息も絶え絶えといった様子のランドルフは額の汗を拭い、憔悴はしているがギラギラとした鋭い目を油断なくひとりひとりに向けると、改めて今度は彼から訊ねた。

「私に話というのはなんだ」

 相手が話をする姿勢になったのを七人の訪問者は互いに目で確認し合うと、クレメントがまた先頭に立ち、僅かに微笑をも浮かべながら用件を伝えた。

「ご協力感謝します。早速ですが、先日の事件について貴方に伺いたいのです」

「先日の事件?私に似た男による暴行事件の事か?あれはそこら辺の浮浪者か何かだったはずだ。貴様らはまだそんなことを——」

 “捜査しているのか”。それを言い切る前にクレメントが言葉を挟んだ。

「——お言葉ですがランドルフ殿。我々は貴方が申し上げようとしている暴行事件の捜査をしてはおりませぬ。あれはこれまで四度も起きましたが、どれも貴方による犯行ではなかったのでは?それに犯行があった同時刻、貴方と会食をしていたという証言まであるそうですから間違いないのでしょう。お、そこの棚に置かれているワイン、素晴らしい銘柄ですな」

 クレメントが飄々と大仰な身振り手振りを交えて言うも、胸を押え苦しそうにしているランドルフが攻撃的な眼差しを向けて次のように駁した。緊張がますます高まってゆく。

「では何の用で来たというのだ?集団で押しかけ、ドアを破り、それも武装をしている。それなりの理由があっての事なのだろうな…!」

「はい、ランドルフ殿。我々は九番街で起きた連続殺人事件の捜査をしておりまして。貴方も承知しておられるでしょう?あの凄惨な事件を。議会でも取り沙汰にされたではありませんか」

 九番街連続殺人事件は猟奇的で住民に甚だしく影響を与える重大事件だとして、領主のマルセル子爵及び行政議会議員らは一日でも早く事件解決に向けて取り組み、住民らに安寧を取り戻すことを議事堂にて宣言した。そしてヴィクトリアの死によって事件は解決したとされ、九番街は元の活気を取り戻しつつある。また事件解決の一番の功労者は、おとり捜査を行うよう命令を出したヴィリエ守衛監督局次長となっていた。

「あれは全て邪教徒による仕業で、犯人が死んだ事によって事件は解決した。そうではなかったか」

「うっふっふ…ランドルフ殿、本当にそう思われているのですか?」

「貴様!言いたい事があるならさっさと言え!」

 激しく怒鳴るランドルフに、クレメントが両掌を見せて落ち着くよう伝える。それでもなかなか興奮がおさまらないので、クレメントは少しだけ待つ事にした。

「あまり大きな声を出すとお身体に障りますぞ、ランドルフ殿」

「ハァハァ……さっさと話せっ」

 クレメントはランドルフをなるべく刺激しないようにしていたが時間の事もそろそろ気になり始めていたので、言われた通り速やかに本題へと移行した。

「今から一週間前…ああ、正確にはもう八日前の出来事になってしまうのですが、丁度この位の時間、どちらにおいででしたか?」

「私が隠蔽工作をしているとでも言うのか?それも八日前にだと?」

 これを聞いたクレメントはニヤニヤと賎しい笑みを浮かべながら、それは大仰という程ではなかったが、身振り手振りを交えて滔々と話し出す。彼も緊張しているはずだというのに心做しか楽しんでいるようだった。

「隠蔽工作だなんてとんでもない。ただ形式的に聞くだけです。少々時間が空いてしまいましたが貴方は非常に頭が良い。その辣腕ぶりは議会の答弁を見れば一目瞭然、八日前程度の事なら問題なく記憶しておいででしょう。勿論思い出して頂くためのお手伝いとして、我々は貴方の当日のスケジュールを把握しております。いやあ、この日もギッシリ詰まった一日。大変でしたなあ」

 ランドルフが壁に掛けられた時計を見る。午前二時四十分を少し回っていた。

「ふん……この位の時間だと、もう部屋で休んでいただろうな」

 仕事か何かで起きていなければならない理由でもなければ、普通の人間なら就寝している事の方が多いだろう。またランドルフはここ最近帰宅すると外出をせず、加えてエブリンら使用人に夜は誰も通すなと命じている事から、屋敷どころか私室からも出ず篭もりっきりなのかもしれない。しかもこの部屋は三階だ。ランドルフの証言には信憑性があるといえる。クレメントはそのように考えながらもニヤリとまた笑みを浮かべると、話を続けた。

「その八日前のことです。一般には公開されておりませんが、六番街にあるクラゲの海という平民向けの…まぁ、薄汚いバーですな。そこの店主が死体となって発見されまして。それだけではありません。その翌日、今度は五番街の人目のつかぬ場所で、物乞いらしき男が死体で発見されました。この件についてご存知でしたか?」

 ランドルフが汗を拭いながらそっぽ向き、知らん、とだけ答える。彼の表情に変化が見られないと感じたクレメントはそれが無様に瓦解するのを思い描き、姦智に長けた頭脳を働かせてゆく。

「確かに公には九番街連続殺人事件は解決したこととなっています。しかし我々の愚考ですが、この二件を考察するにあたり、解決したとはまだ考えておりませぬ」

「どうしてそう思う」

「はい。実はですね、一般に知られている犯人のヴィクトリアは解剖の結果、吸血するための管は発見されたのですが人肉を噛みちぎるような牙等は発見されなかったのです。また今お話した新たな二人の被害者は、吸血はされず肉を噛みちぎられた状態で発見された……酷い話ですねぇ。つまりこれらの事から犯人は吸血をするヴィクトリアとは別に、死肉を喰らう何者かが存在すると考えられるのです。恐ろしい事件の犯人が野放しにされた状態で、まだこのヴィリエの何処かにいるということですな。ところがですよ……」

 クレメントはさも意外そうに――いや、実際に意外だと思っているのかもしれない。彼は顎に手を当てると、子爵邸の庭園を見渡せる出窓に近付き、景色を眺めた。外は照明が無ければ何も見えないほど暗く、常夜灯に照らされた場所からは嵐によって植物たちが土砂降りに曝され強風で激しく揺れているのがよく分かる。クレメントは一際強い風が吹いて常緑樹の庭木が大きく揺れるのを見ると向き直り、言葉を続けた。

「私の仕事仲間…仕事が趣味のようなつまらぬ男がですね…うっふっふ、こう言うのですよ。“九番街連続殺人事件の犯人は三人いる”と」

 ランドルフの性格を象徴するかのような太い眉がピクッと反応した。

「最初の被害者は…ええと、漁夫でしたか。彼は換気用の窓がある地上四階建ての、施錠された倉庫の番をしている時に殺されました。その次の水夫は人目のつかぬ路上でほぼ同じような状態で殺されていました。この違いに何か思い当たることはありませんか?もっと言いましょうか。九番街の事件の後に見つかった二人の被害者で、バー・クラゲの海の店主は二階建ての家屋とバーを兼ねた、施錠された一階で殺されました。一方、その後の物乞いらしき被害者は人目のつかぬ路上で殺害されました」

 クレメントの一挙一動も見逃さないような鋭い目をしたランドルフが、呟くように言った。

「上…か?」

「そう!最初の漁夫とバー・クラゲの海の店主は建物の上、つまり屋根や窓から侵入してやって来る犯人に殺害されたのです。それ以外の被害者とおよそ二ヶ月前にラシェル銀行の裏通りで発見された同様の変死体は、“上からやって来る犯人”ではなく“路上の犯人”によるものでしょう。私の例の仕事仲間はこれを“意味がないようで意味がある事象”などと何とも分かりづらい言い方をしていましたな。はっはっは」

 クレメントの言葉に、彼の部下たちが瞠目する。この事実は作戦を遂行する彼らにも伏せていた事だったのだ。その一方で、ランドルフは次のように指摘した。

「犯人が他にもいることは分かった。だが上から来たり路上で犯行に及んだりなど、偶然で片付けられる話にも思えるが?」

 これは至極もっともな指摘である。

 街を徘徊していた犯人はたまたま屋根を登り、たまたま窓が開いていたのでそこから侵入し、たまたま居た被害者を己の胃を満たすため喰らった——。

 シンプルだが一番有り得そうな話だ。深読みをし過ぎれば存在しないはずの犯人を生み出してしまうことになるが、クレメントはそれを首を横に振ってきっぱりと否定した。

「それが偶然ではないのです。上からやって来る犯人は路上の犯人とは明らかに質が異なる。しかしこれを話す前に、まず犯人が何者なのか説明しなくてはいけない」

 クレメントはランドルフの私室に飾られている、ジバナーツァル大聖堂と西側の大洋に沈みゆくサンセットが描かれた風景画を見ながら、犯人について説明を始めた。

「先ず上からやって来る犯人をここでは“犯人X”、路上の犯人を“犯人Y”としましょう。この二人の犯人が共通した特徴は鋭い牙を持ち、強靭な肉体を体毛で覆った獣のような怪物であるということです。もしかすると肉を引き裂く爪もあるかもしれませんな。動機も単に殺人衝動と胃を満たすためだけで、犯行に至る経緯なんてあったものじゃない。本能の赴くままに行動する怪物、それが犯人の正体です」

「そんな化け物がいるのだとしたら何故見つからない?衛兵隊や貴様たちテンプル騎士団がそいつを見つけなければまた死人が出るのだぞ」

 絵を見ているクレメントの横顔に、心做しかまた苦しみ始めたランドルフが吐き捨てるように言う。言われた本人は厳しい叱責に対し歯牙にもかけず、絵画の鑑賞を続けている。

「はい、目下全力で捜査しております。…それで先ず犯人Yですが、匿われているのです。この怪物は知能が発達していないか、或いは急速に減衰した個体であると我々は見ておりまして、恐らく犯行時に同行者がいるはず」

「同行者?何者だ」

「邪教徒ですよ。そう、九番街連続殺人事件の犯人であるヴィクトリア以外にも邪教徒はいたのです。そして犯人Yは今頃私の仕事仲間が上手くやってくれているでしょう。邪教徒の方も併せて衛兵隊が出動するのでご心配なく」

「な、何っ。衛兵隊が動いただと!?そんな馬鹿な、やつらは……」

 衛兵隊の出動がランドルフにとって余程予想外だったのだろう、彼は思わず立ち上がり瞠目した。その様子を見てクレメントがニタァ、と笑う。

「ええ。出動につきましては相応しい人物が指揮を執る故、局次長殿は一切関与しておりませぬ。気付いてすらもいないでしょうな。何か問題でも?」

「…ない。続けろ」

 ランドルフが力無く椅子に腰を下ろすのを見届けると、クレメントも言われた通り話を再開した。

「ときにランドルフ殿。再び申し訳ないのですが、六日前の今頃はどちらに?」

「今度は六日前だと?ふん、ここだ。この私の部屋にいたっ」

「ふふ、そうですか」

 笑う質問者にランドルフは苛立ちを隠せない様子だが、胸の苦しみによって怒鳴り散らすのも憚れているようだった。一方、他所を向いていたクレメントはランドルフに向き直り、愈々犯人Xについて触れる。

「実はこれも一般には知られていないのですが、まさにその六日前の事です。“ピザの切り分け”の西側。分かりますか?中心街の西側はこの子爵邸を始めとした背の高い建築物が建ち並ぶ場所です。そこで偶然——そう、偶然にも我が第三騎士隊の警邏班が怪物と遭遇しましてなぁ。うっふっふ…」

 室内の緊張が膨れ上がっているというのに、クレメントがまたニタァ、と笑った。

「その恐ろしい怪物は地上五階建ての建物に屋根から…いいですか、屋根からですよ?そんな高い所から侵入しようとしているのを発見したのです。――ええ、交戦する事態になるのは必定というものでした。その怪物は我々が目した通り、体毛に覆われ鋭い牙を持つ、体長二メートル程ある人狼のような怪物だった。勿論翼などはありませんでしたが、それに準ずるほどの筋力と跳躍力、身軽さ、それに反射神経といったものを兼ね揃えており、加えて高い知能を持つことまで確認出来た。我々はですね、この個体こそが犯人Xと見ています。怪物には奮戦虚しく多数の負傷者が出た上に逃走されてしまったのですが、その代わり傷を負わせることには成功しまして。窮鼠猫を噛む、というやつですな。はっはっは」

「つまりどういう事だというのだ」

 ランドルフが胸を押えて苦しそうに言う。対するクレメントは“そんな事も分からないのか”と言いたげに肩を竦めた。

中心街ここの構造や警備体制をよく考えてみて下さい。簡単に出入り出来るような場所ではないでしょう。犯人Xは恐らく中心街に潜伏しており、しかも表向きの、人間の姿も持ち合わせていると考えられるのです。この二面性を上手く利用して人の目を欺き、二人の人間を殺害したのですよ。また犯人Xとの交戦後、逃走経路を追ってゆくと建物の屋根や梁に血痕が見つかりましてな。この事から犯人Xは建物の壁や屋根伝いで移動している事が分かりました。これは六番街のバー・クラゲの海の付近と九番街の倉庫通りとでロケーションが似ています」

 バー・クラゲの海は個人宅や集合住宅が密集した場所に有り、また倉庫通りは橙色の屋根をした地上四階建てほど高さのある倉庫が建ち並ぶ場所。ランドルフにとっても公務のため近くを視察した記憶があるため、クレメントが荒唐無稽な話を述べている訳ではないと理解しているはずである。ただ、その双眸は非常に険しかった。

 強い視線に射抜かれるのを臆することなく、クレメントが続ける。

「では何故犯人Xは屋根伝いで移動していたのか?それは恐らく怪物の姿は勿論のこと、人の姿ですらも犯行現場周辺で見られる訳にはいかなかったからではないでしょうか。犯人Xの推測される人物像は、中心街に潜伏している事から貴族や政治家、教会の高僧、資産家、官僚といった貴顕紳士淑女で、尚且つヴィリエに住む者なら誰でも知っているような有名人。また、ひょっとすると複数の犯罪歴を持っているとも考えられる。もしそうなら犯人Xは確かに人の姿も獣の姿も衆目に晒される訳にはいきませんな。何せ犯人Xの犯行現場はどちらも不特定多数の一般人が頻繁に出入りする場所です。そんな場所にいたら目立ち過ぎる上に、要らぬ疑いを持たれるでしょうから…ふっふっふ」

 ここまで聞いて、ランドルフがふん、と鼻を鳴らす。

「ひとつ訊ねる。貴様が述べている事にさっきからなんの証拠も示されていないのはどう説明する?生憎、虚誕妄説は議会で散々聞かされている身でな……ウンザリなのだよ」

「いいえ、証拠はしっかりとありますのでもう少し私の話を聞いてください」

「五分だ。五分以内に結論を言え。そうでなくとも貴様らの横暴は議会を通してしっかり教会、それに本部長にも伝えるから覚悟しておくがいい」

 相手は辣腕で知られる政治家で、命令とはいえ非常に不味い状況ではないか。クレメントの部下たちは顔を見合せ不安に慄いたが、そのクレメントは莞爾として笑いながら結構ですよ、と述べるだけ。ドアを体当たりして破った部下が室内にある掛時計へ目をやると、まもなく午前二時五十分を過ぎろうとしていた。

「さて、ランドルフ殿。次は貴方自身についてお伺いしたいのです…その、五日前のスケジュールのことで」

「アリバイの次はスケジュールだと?残り五分を切っているというのに貴様、そのような事を聞くか。おめでたい男だな」

 そう言われても今のクレメントはただ微笑んで回答を待っている。相手の意図が掴み取れないランドルフは、そのまま答えた。

「確かあの日は子爵邸ここを出た後真っ直ぐ議事堂に行き、委員会が終わった後議事堂内で昼食を摂った。その後は講演会の準備のため事務所に戻って、打ち合わせをしていた筈だ。それが終わる頃には確か夕方くらいになっており、また議事堂に戻って朋輩と会い、暫く会談してから帰宅した。間違いない」

 それは一人の政治家の欠伸を漏らすような縷々とした一日であったが、話を終始聞いていたクレメントは己の神の如き美貌を醜く歪ませ、賤陋とした笑みを浮かべつつ、

「嘘ですな」

 …と、一刀両断した。腕を組んだ彼の手元には意味ありげに動物革の茶色い手帳が確認出来る。それを見たランドルフがはっ、と目を見開いた。

「ランドルフ殿でしたらこの手帳に見覚えありますな?ええ、これは貴方の秘書のものです。“ちょっと貸して下さい”とお願いしたら直ぐに貸してくれましてねえ。いやはや聡穎なる政治家には得てして話の分かる優秀な秘書を従えているものですなあ。あっはっは」

 重要な仕事道具である手帳を政治家の秘書がそう易々と渡す筈がなく、それを踏まえた上でクレメントの部下たちは上官の性格をよく承知している。彼らは上官が一様に何か“特殊な方法”で手帳を入手したと察するが、その本人は賎しい笑みをそのままにペラペラと手帳を捲っている。

「――ありました、五日前のものが。おかしいですな、ランドルフ殿は今“真っ直ぐ議事堂に向かった”と仰いましたが、ここには“病院へ行く”となっていますよ」

 クレメントが実際にそのページを前面に出し、ランドルフへ見せる。その後、部下たちにも見せてやる。手帳は神経質そうな字が紙一枚一枚にびっしりと書かれているが、確かにそこには“九時三十分議事堂へ”の前に“整形外科病院へ”が追加訂正されており、整然と並ぶ沢山の文字の中で唯一その場所だけ訂正されているので、おや、とやたら目を引いた。クレメントの部下たちはもしかするとこの箇所は上官自身による捏造ではあるまいかと勘繰りはしたのだが、ランドルフが黙する様子から、どうもそうではなさそうだと考えを改めた。

「嘘ではない。忘れていただけだ」

 低く唸るような声でランドルフが弁明する。しかしこれはかなり苦しい。もしランドルフの記憶力が本当に精確であるならば、病院へ行ったという出来事を忘れるだろうか。持病の長患いならあるかもしれないが、手帳には確かに“整形外科病院”と記述されている……。

「転んだ時に少し怪我をしただけだ。だが秘書が念の為と言うからな」

「うっふっふっふ……。ランドルフ殿、また嘘を仰いましたな」

 ここでクレメントが左右の部下に目で合図を送ると、二人の部下は突然、椅子に腰を掛けたランドルフを押さえつけた。

「き、貴様ら!何をする!」

「なに、少し見させてもらうだけです。貴方の腕を」

 激しく抵抗するランドルフの左腕をクレメントが捲る。果たしてそこには血の滲んだ包帯が巻かれた、治療の後があった。

「ランドルフ殿。我々が中心街で怪物と交戦した翌日の五日前、あなたのスケジュールに突然病院に行く、というものが組み込まれた。それは秘書の手帳から見て間違いない」

「それがなんだと言うのだ。何か関係があるのか、ええ!?」

 この発言からランドルフは五日前、予定を変更しやはり病院へ行ったと判断出来る。即ち、彼は虚偽の証言を認めたのだ。

「有ります。大有りです。貴方は、医者には転んだ時に花瓶を割り、その割った破片で腕を負傷したと述べていたようですな。だが医者はプロです。貴方が嘘をついていて、実は負傷した傷が鋭利な刃物で切りつけられたものであると見抜いていたのですよ」

「あの医者の目が狂っておるのだ。私は確かに転んで、その時に負傷したっ」

「ふむ…そうですか。ではランドルフ殿、どこでどのような花瓶を割って怪我をなさったのです?」

「そ、それは……」

 話の流れからクレメントの部下たちには確信に迫ろうとしているのがひしひしと伝わり、このような展開では彼らの上官の性格からして必ず嘲笑めいた笑顔を浮かべるはずだが、今はそれが無い。クレメントは言い淀むランドルフへ、己の美しい顔立ちになんら表情を現すことなく以下のように突きつけた。

「我々を見くびってはいけません。貴方の身近にある花瓶、また外出先の花瓶、全て調べさせてもらいましたが、ここ最近に割れた花瓶、またそれに類似するもので、貴方に関わるものはひとつとして無かった。この屋敷のものも、さっき使用人の方に確認してもらいましたが割れた花瓶などは無かったのです」

 ランドルフが再び黙する。ただ今度は先程のものと比べものにならないほど重い。対するクレメントも整い過ぎた顔立ちを凍らせたままで、そこには命乞いをする相手を無慈悲に奈落へ踏み落とし、喉元に剣をあてがい要求を呑ませるような非情さと凄味があった。

「よろしいですか、ランドルフ殿。六日前に我々と交戦した怪物は逃走を許してしまいましたが、傷を負わせた事と、怪物が非常に身軽であることが分かりました。それを考慮し、我々は中心街の西側、特にこう…屋根の辺りなどを捜査した。それは先にお伝えした通りですが、その過程で発見した血痕、どこに続いていたと思います?」

「……」

 おかしな事に、先程まであれほど苦しそうにしていたランドルフが、今は平然としている。クレメントはこの変化に一抹の不安を抱いたが、それを悟られぬようモノクルの位置を直し、話を続けた。

「この子爵邸の屋根、それも貴方の私室の真上です」

「ふん、その化け物が偶然通りかかっただけだ。貴様の話は証拠も無く、ただの可能性としての話に過ぎん」

 これを聞き、今度はクレメントが鼻を鳴らし嗤った。

「よろしい、でははっきり申し上げましょう。我々は九番街連続殺人事件の最初の被害者とバー・クラゲの海の店主を殺害したのは、怪物の姿となった貴方だと言いたいのですよ。犯人Xから推察される人物像と貴方は完全に一致する上、六日前の犯人Xの逃走経路が子爵邸の、それも貴方の私室の真上で終わっている。これを証拠と言わずになんと言うのです?まだありますよ。私が貴方に八日前のバー・クラゲの海のマスターが殺害された日と、六日前の犯人Xとみられる怪物と交戦した日にアリバイを伺った理由は、犯行のあった時間帯に貴方がここに居た、と証言するのを聞くためです。そして確かにここに居た、と仰いました。何故貴方はそう証言したのかというと、周囲に帰宅した後はずっと自室で過ごしていたと見せかける必要があったからです」

 クレメントはここで一旦言葉を切ったが、ランドルフが黙って聞いている風なので、構わず続けた。

「もう二週間も前になりますが、九番街連続殺人事件の最初の被害者が出た経緯は予め使用人には“夜は決して部屋に通すな”と伝え、ずっと自室から出ずに夜を過ごそうとしている様子を見せていたが実際はもぬけの殻、貴方は部屋を抜け出していた。それは八日前、バー・クラゲの海の店主の時も同様です。その後、それぞれ“上”から侵入して犯行に及んだ。ただこれにはひとつだけ避けられぬ問題があり、中心街を出るにはどうしても検問所を通過せねばならなかった。それは行政議会議員の貴方なら造作もないことでしょうが、理由が理由です。殊に殺人目的で通過するとなると、出来れば検問所でも姿を見られたくないと思ったことでしょう――ええ、そう危惧した通り、我々は貴方が二週間前と八日前の推定犯行時刻前に検問を通過したという記録を押さえておりますよ。そこで六日前、今度は中心街で犯行に及ぼうとした所を貴方は我々に発見されてしまった。この時貴方は人目を忍ぼうとするあまり、かえって犯人像を推測する材料を与えてしまったのです」

「何を馬鹿な事を。さっきから聞いておれば貴様、今度は証拠も無いのに私が犯人でしかも化け物と申すか。それに三階の屋根だとかどうとか言っておったが、捜査の許可を得ての事なのだろうな」

「証拠、証拠。その次は許可ですか」

 クレメントにしては珍しく憤慨した様子で、ランドルフに一旦背を向ける。だがまた直ぐに向き直り、この海千山千の政治家と対峙した。

「証拠のひとつに我々が怪物に負わせた傷の場所と、貴方が負傷している傷の場所が一致している。他にもここ二ヶ月か三ヶ月前辺りを境に、どうも怒りっぽくなった気がしませんか?無力で無抵抗な使用人たちを恫喝したり暴力を振るったりなさっておいでのようですな?貴方は人と怪物との狭間で、次第に人としての感情を制御しにくくなっているのです。そして…今の貴方。我々がここに来る前から随分苦しそうにしていましたが、痛むのですよね?腕が。胸が。我々が腰に提げている洗礼の剣は邪なる気を浄化する効果がありますからなあ。最後に貴方は見事隠し通せているとお考えのようですが、貴方と姿が似た人物による四度の暴行事件は、実は全て貴方自身によるものだと我々はしっかり把握しております。この意味が分かりますか?行政議会議員である貴方は事もあろうに貧民街のシンジケートと関わり合いがあり、尚且つ邪教との繋がりがある事も把握しているという事です。そして先程申し上げた通り、衛兵隊の出動により邪教は壊滅、邪教と手を結ぶシンジケートにとっても大幅な弱体化を招くことでしょう。貴方はもう終わりなのですよ……ふっふっふ」

 クレメントが言い終えた瞬間、ランドルフが負傷した腕を椅子と備え付けられた机へ叩きつけた。机はしっかりとした造りでそう易々とは壊れないはずだが、ペンやインク、書類などといったモノを辺りに散乱させて、激しく損壊した。ランドルフの外見からは想像もつかない、徒ならぬ怪力だった。

「この腕!この腕が!この腕が治らんから!」

「ふふ…ランドルフ殿、今の貴方は身体に毒が回っているようなもの。簡単に傷など癒えませんよ」

「皆殺しだ!皆殺しにしてやるぞ!」

 ランドルフが椅子から立ち上がる。瞳だけではなく白目までがそれこそ血のように赤く燃え上がり、ギロリと七人の訪問者を見回す。紛れもなく彼は邪教の秘術である芋虫を身に宿した者だったが、それだけに留まらず彼の外見は大きく変化していった。両腕両脚、胴体に至るまで、聞こえてきそうなほどの激しい心臓の脈打ちと共に筋肉組織の異常増加が起こり、ナイトガウンを破って、元々の身体からかけ離れた、筋骨隆々と言うには収めきれぬほどの強大な肉体へと変貌する。それに併せて体毛が見る見る内に生え渡り、それが顔まで覆うと今度は肉を食いちぎるために発達した顎、上がった口角から覗く牙、狭くなった両目の間隔というように、肉食動物の頭部に形状が変化する。

 ――鋼のように硬く蛇のように靱やかな筋肉を持った、人狼。先程までランドルフと呼ばれていた男が、ついに怪物の姿となって現れた。

 これを見たクレメントは、ぼぅっ、と炎のようにゆらめく青白い光の中からインテリジェンスナイフを出現させ、それを両手に三本ずつ構えると緊迫した声色で言った。最早言う事はひとつだけだ。

「彼はもう行政議会議員のランドルフ氏ではない。任意同行願いたい所だったが止むを得ん、ここで浄化する」

 クレメントの言葉を合図に、三騎の精鋭たちが洗礼の剣を抜く。六人とも剣から青白いオーラを立ち昇らせており、人狼に先ず一人が斬りかかった。それは上段からの袈裟斬りだったが、人狼は洗礼の剣が自身の身を切り裂く手前で太い腕を振るい弾くと、もう片方の負傷した左手で薙ぎ払った。これの直撃を受けた隊員はベッドの方へ吹き飛ばされ、仰向けに倒れたきり動かない。よく見ると、今の一撃でチェストプレートがべっこりとへこんでいた。今度はもう一人の隊員がウオオオ、と雄叫びを上げながら突進する。更にクレメントも援護として右手のナイフ三本を投擲した。人狼は突進してきた大人と子供程の体格差もある隊員と揉み合うと、投擲されたナイフを分厚い肩の筋肉で軽く受け止め、最後に隊員の首をいとも簡単にくしゃっ、とへし折った。人形のようにその場で崩れ落ちる隊員を足蹴りして退かすと、人狼がゆっくり一歩また一歩と前進する。今度は一人が盾を前に、その後ろにもう一人が武器を手にして戦う、二人で攻防一体の戦闘体型で挑む。これに対して人狼は咆哮を上げると、鋭い蹴りを盾にぶち当てた。このたった一撃の蹴りで、二人の隊員ごと盾を弾き飛ばしてしまう。床に転がった盾は激しくへこんでおり、人狼の強烈な打撃の前には全く意味をなさなかった。

「グルルル……」

 後退る三騎の面々。唸りながら前進する人狼。その左腕からは傷が開いたのか血が滴り落ち、高価な幾何学模様の絨毯を赤く濡らしていた。

 六日前の人狼との交戦時、クレメントはその場におらず報告を聞いただけだった。しかしその報告に違わぬ、いや、それ以上の力をこうも見せつけられると、戦慄し、この私室での戦闘は不利であると否が応にも思わさせた。

 このままでは全滅する。クレメントはそう判断すると、震えてカラカラになった口で叫んだ。

「そ、総員――」

 “エントランスまで後退せよ”、そう言おうとした時である。ギャーッと、死の空気が充満するこの場に不釣り合いな、女の叫び声がした。

 全員が、人狼さえもそちらの方向を向く。そこには避難したはずのエブリンが部屋の入り口に立ち、ただ一点、恐るべき怪物を見ながら顔を青ざめさせ、わなわなと震えていた。

「(エブリン、なぜ君がここに!)」

 クレメントが小さな使用人を守るために全ての精神を集中させた時、もう状況は動いていた。人狼も真っ赤な視界の中でただ一人エブリンだけを捉え、疾風の如く地を駆けていたのである。同時に、人だった時の、ランドルフだった時の思考がこの怪物の頭脳を過った。

 馬鹿な使用人め、夜は誰も部屋に通すなと伝えたではないか。

 先日も熱過ぎる茶をよこしおって。おかげで舌を火傷したぞ。 

 第一、そのおどおどした態度が気に食わぬ。 

 罰を与えなければなるまい。

 その肉、贓物、骨に至るまで全てを——


『喰らい尽くしてやる!』


 人狼の真っ赤な視界には、恐れのあまりへたりこむ隊員、避ける隊員、倒れた者の容態を見る隊員、剣を構えただけで向かってこない隊員、そして“逃げろ、エブリン”と叫ぶクレメントという三騎の面々をも確実に捉えていたがそれを無視し、目に見えない空気を掻き分けるように走りながら、人の指の形状を残した手先から鋼鉄をも切り裂かんばかりの鋭い爪を引っ張り出すと、その距離三メートル、クレメントの投擲したナイフが突き刺さるのをそのままにして二メートル、やがて一メートルに達すると、人狼は何の躊躇いも無く鋭い爪を剥き出しにした右腕をエブリンに向けて振り下ろした。

 この状況に、己の身を守る術を持たないエブリンは何も出来なかった。ただ状況に流され、無残な死を待つのみであった。それはこの場にいた三騎の隊員たち、それにクレメントが自身の持ちうる力全てを結集しても同じだった。

 ところが——ああ、イリスよ!

 女神の悪戯か、それとも神すら図らずして起きた、人と人との想いが紡ぎ出す事で起きる奇跡なのか。迚も斯くてもそれは、誰も予期せぬ出来事だった。

 顔を背け、防御の姿勢になるエブリン。振り下ろされる爪。その間隙に、ある人物が割って入ったのである。

 マルセル子爵だった。

 人狼の爪撃は最早止められない。エブリンの代わりに子爵の背中を切り裂くと、あれだけ獰猛な人狼が大人しくなり、後退る。その場の誰もがあまりの事に言葉が出ず、ただ呆然とするだけだった。

「怪我はないか、エブリン」

 白髪をオールバックにさせ、息子にも遺伝した太い眉が厳つい印象を与える顔立ちだが、その子爵がエブリンに向けて優しく微笑む。

「は、はい、旦那様。でも、ああ…なんて事…なんて事……!」

 言葉を詰まらせるエブリンの頭を撫でると子爵は向き直り、三騎の面々、次に人狼へと目をやる。そして――。

「使用人に当たり散らすなと何度言えば分かる、この馬鹿者が!俚耳に入る言葉というのは近しい人物との穏やかで自然な会話から生まれるもの。それが出来ないお前は一生二流のままだ!」

 …なんと、叱咤した。人狼は恐れをなしてか更に後退り、再びその肉体に変化を起こす。今度は徐々に元の人間の姿へと戻っていった。

「ち、父上…父上…」

 ランドルフが泣き崩れる。子爵はその肩にそっと手を置き、気丈にも背中の傷を一顧だにもせず、諭すように言った。

「ランディ、お前がした事全てを悔い改め、公共の場でしかるべき処理を受けろ。こうなってはもう、私の力ではどうすることも出来ない」

 ……この後、ランドルフは負傷している左腕の応急処置を受けると、ヴィリエ常駐テンプル騎士団第三騎士隊によって中心街で最も堅牢な留置所のある第一騎士隊本署へと連行された。その間、彼は終始大人しくしており、言われるがままに従っていた。

 後日関係者とその周囲が知った所によれば、子爵はテンプル騎士団がランドルフ逮捕のため公邸に突入する事を側近から耳にすると、要人との会食を急遽取り止め、こうして戻ってきたのだという。

 もし子爵が現れなければ多くの死傷者を出したはずで、当然自分も無事では済まなかっただろう――そう述懐するクレメントは、出し抜いたと思っていた筈が命を救われた挙句、危険なその場の状況を直ちに治めてしまった子爵の侠気仁徳に、柄にもなく渋い顔をするのだった。

 …………

 ………

 ……

 午前三時零分 邪教徒の洞窟 祭壇裏秘密の広間——

 邪教徒の潜む洞窟へ突入し教団壊滅を図る衛兵隊。邪教の教祖とその協力者であるエミリアーノ・ポリシオの身柄を確保するため密かに行動していたテンプル騎士団。前者は成功し後者は失敗に終わったが、ヴィリエを蝕む闇はひとまず雲散霧消し、謎のヴェールに包まれた真実はここで豁然と取り払われ、陽の光を浴びた。しかし、更に中心街という思いもよらぬ場所、それも子爵邸で三騎による突入作戦が行われているのを知ったスェーミを除くその場の一同で、特にリタとヨアヒムは今後の対応についてあれやこれやと慌ただしく協議を始めていた。蟇隊長も洞窟の外にいる主任に伝令するよう命令を出している。真実を追求する者たちの夜はまだ明けそうになかった。

「こうしてはいられない。今頃中心街は大騒ぎになっているはず」

「おいおい待ってくれ、リタ。ここはどうするんだ?君たちテンプル騎士団も一枚噛んでいるんだぞ」

 一方、すっかり取り残されてしまっているのがゼクスだ。自分はどうしたら良いのか分からない彼はこの様子をおどおどした様子で見守っていたがスェーミは何処吹く風、欠伸をして興味が無さそうだった。

「ローリック、手伝ってくれる?」

 すっかり仕事の顔になったリタは溌溂としており、傍で何事か考え事をしている忠犬に助けを請う。だが彼は餌を欲しているのか、露骨に嫌そうな顔をした。

「本作戦成功のためのラストステップ。“逃げるは上計なり”」

「そのステップは却下で。探していたものは見つかったんでしょ?」

「壺が見つかったは良いが割れてたんだよ。どうやって報告するか……ああ、分かったよ、手伝うよ」

 自分は何を手伝うのだろうと緊張して待つゼクスに何故かリタは声をかけず、ローリックと衛兵隊のヨアヒム、蟇隊長の四人で今後の対応について難しい顔をして話し始める。そこには知らない人物名や組織名が出てきたり、二つの突入作戦において発生する諸問題などが挙げられ、到底新人のゼクスが加わってついていける話の内容ではなかった。そんな時、彼の背中を誰かが叩く。

 スェーミ。

 彼に顎で“行こうぜ”と言われたゼクスは、ぶっきらぼうな振る舞いだというのにどうしてかほっと胸を撫で下ろし、さっさと歩き去る彼の後を追おうとした、その時だった。

「あっ…」

 山羊の体の丁度中心から、あの赤黒い火の玉の中に囚われていた人々が次々と現れては光——そう、赤黒くもなく青白くもない、太陽の日差しに似た淡い黄色の光に包まれ、骨と皮だけになったその顔に皆安心と満足の表情を浮かべて、天井に浮かんでは消えてゆく。ゼクスにはこの光景が見えていたが山羊を屠ったリタは熱心に仕事の話をしているので気付いておらず、その他のローリックやヨアヒム、蟇隊長に衛兵隊員らは丁度見える位置に立っているのに見えていないらしい。一方スェーミはゼクスの声に反応して振り向き、この光景を見えているのかごく僅かな時間目に留めていたが、また気怠く背を向けると一言も発することなくゆらりゆらりと歩きだす。ゼクスもただ怪物の命を奪うだけでなく本当の意味での浄化というものをしっかり目に焼き付けると、もう振り返ることなくスェーミの後を追った。


 邪教徒たちの根城を出て、寂しい岩石海岸地帯から徒歩にて九番街の浜辺まで戻ったスェーミとゼクスは、そのまま特に会話を交わすことなく、何処に向かうのか示し合う事もせず、二人並んでぼんやりと歩いた。あの嵐はすっかり治まり風は穏やかで、朝焼けのスペクトルが空に漂う薄雲とジバナーツァル大聖堂の二つの尖塔を照らす。光の恩恵は地上を歩く彼らにも影響を与え始めており、ゼクスは夜目を効かす事なく見えるようになったスェーミの横顔をそっと見る。彼は相変わらず気怠そうにふらふらと歩いており、何を考えているのか分からない目が語りかける事を躊躇させた。ただ、おとり捜査の夜にヨアヒムと激しくぶつかり合った時や、公園墓地で自分自身の行動に冷笑めいたコメントをした時のようではなく、そのいつもの“分からなさ”がかえってゼクスを安心させた。

 さて、ドミニク、それにエミリアーノ・ポリシオがまだ残っているので事件は必ずしも解決したとは言えないが、ヴィリエにとってひとまず九番街連続殺人事件の真相は解明した。それはこの素晴らしい朝焼けに誓って良いだろう。とはいえ、ゼクスにとってはまだ分かっていない事が残っている。彼は事件の解明もそうだが、もっと個人的な理由を原動力に敵と戦い、困難を乗り越えて来た。それだけのためと言っても良いほどに。

 …聞かずにはいられない。

 どこか重い沈黙の中少し上擦った声で、不意に独り言を言うかのようにゼクスが横を歩く灰色の男へ訊ねる。一体彼はどう答えるのかと、心臓は早鐘を打っていた。

「スェーミさん。捜査の過程でヴィッキーについて何か分かった事はありましたか?」

「ああ?ヴィッキー?」

「ヴィクトリアの事です。僕の幼馴染の」

 沈黙。この男と行動を共にすれば無言の間は否が応でも付きまとうが、この時は言葉を選んでいたり、話す内容を探していたりといった思考のための時間のように思われた。そうして時間をかけて紡ぎ出された彼の言葉はいつも重い。良い意味でも悪い意味でも。

「お前の幼馴染は男運が無かったんだ」

「えっ…?」

「だがきっちりケジメはつけさせた。汚れ仕事はお前に向いてねえよ」

 スェーミはそれ以上語らずまた黙って歩いていたが、今度はゼクスもまた思考のため無言に沈む。

 男運、ケジメ、それに汚れ仕事。これらの要素から分かる事。ヴィクトリアは何者かに、恐らく男に騙されてしまった。だがスェーミがその男を見つけ出し、もう二度と人を騙す事の出来ないように報いを受けさせたのだ。

 それが真実。それが彼女の身に起こった出来事。断片的な言葉からそう察したゼクスの目に、一筋の感情の雫がこぼれ落ちる。

 痛ましきかな、ヴィクトリア。今なら、全て分かるような気がする。君はこれ以上人を殺めないように、けれど自分ではどうすることも出来ないから、テンプル騎士となった僕に止めて欲しかった。だからあの時あの場所に呼び出して、昔話をし、僕の髪を結ったのだ。僕と接するのがそれで最後になるから。

 ああ無惨、ヴィクトリア。聡明で罪の意識に苛まれる君なら、全てが終わった後、自分はきっと辱められる事になるだろうと分かっていたに違いない。それが“稀代の毒婦”と二番街公開処刑場での磔刑。夏の日差しによる腐敗と夥しい蛆によってこうしている今も少しずつ君は崩れてゆき、その様子を大衆に晒し続けている……。

 さようなら、ヴィクトリア。君は僕によって討たれて望みを果たし、君を殺した僕はこれで良かったのだと納得し、これからまた君のような憐れな人を殺し続けなければいけない。邪教徒にはまともな弔いがされず、家畜の餌にすらされる事があると聞く。それでもどうか君が安らかに眠れる事を祈る。僕は君が涙するに値する大切な人だったという事を、決して忘れない。

「それにしてもお前、災難だったな」

 スェーミが唐突に少し明るい口調で話し出す。やはり彼にとって沈黙は大して苦ではないらしい。何事か、とゼクスは慌てて頬を拭いた。

「どうせアイツが首を突っ込むのに巻き込まれたんだろ?」

「アイツ?」

 心做しかスェーミの口元が綻んでいるような気がする。いいや、小さくだが、間違いなく笑っている。彼ほど笑顔が貴重で、彼ほど笑顔が似合わぬ者はそうはいない。

「リタだよ。お前とアイツが現れた時点でどういう経緯なのか想像がつく。全く、同情するぜ」

 ゼクスはリタの説得と命令に応じて捜査に加わった。ここまで来れたのは間違いなく彼女のおかげだが、その一方でスェーミの“支部にいろ”という指示に従わなかった罪責感が心を優れなくさせているのも事実。彼との間に息が詰まる思いを感じていたがそれは杞憂であったようで、そうなると、ゼクスは自分の中での九番街連続殺人事件が解決したのを期に、気持ちを新たにする。やっと本来の自分に戻れる時が来たのだ。お調子者の自分に。

「副長ってめっちゃ強くて美人やけど、その分やたら強引ですよね」

「いいや、あんな奴強くもないし美人でもねえ。ただ、いちいち五月蝿いんだよ」

 でも、スェーミが邪教徒の洞窟で事件について述べていた時、それに蟇隊長と意見を戦わせていた時もリタは口を挟むことなく黙って聞いていた。また副長室で事件について話をしていた時、彼女は姿を消したスェーミが言い残した事を分析しようとしていた。もしかするとリタは“仕事に関して”だが、彼の事を一目置いているのかもしれない。

 ――リタをダシにして会話するのはまだ終わらない。これを機に、ゼクスは彼女についてこれまでずっと感じていた事を訊ねずにはいられなかった。

「ねえ、スェーミさん。副長とヨアヒムさんって付き合うてるんですか?」

 折角スェーミとゼクスの間に居座っていた気まずい雰囲気が取り払われたというのに、この問いのせいで再び奇妙な間が割り入る。スェーミはじっとりした眼差しをゼクスに向け、この野暮な質問に対して返答する代わりに、質問で返した。

「お前、その話を誰から聞いたんだ?」

「何となく。あの二人を見ているとそんな感じがしたから」

 スェーミは深い吐息をすると露骨にうんざりした顔をし、どうして俺がこんなことを説明しなくてはならないんだ、と一入気怠く前置きした上で、ぽつりぽつりと、本人にはとても聞けない非常にプライベートな話を語り始めた。

 先ずリタについてだが、彼女は北方で武門の棟梁として名高い貴族の、正妻との間に産まれた一人娘。現地の最高学府を一足飛びに卒業して満十八歳を迎えると、テンプル騎士になるためヴィリエの訓練所へやってきた。あの大弓から放たれた矢のような性格は元かららしく、困難に見舞われてもそれをぶち破る強さでいつも切り抜けていた。訓練所首席卒業という経歴はそのひとつである。次にヨアヒムとの間柄だが、ゼクスが感じ取った通り確かに二人はそういう関係にあった。貴族同士でしかも美男美女の好一対、衛兵隊員とテンプル騎士との禁断の恋などと周囲は持て囃し祝福したが、いざ破局を迎えるとぱったりと誰も話題にしなくなり、現在に至る。とはいえかつての懇意の名残りなのか、あくまで仕事上の付き合いという名目か何かで、時折二人が六番街の瀟洒なレストランで食事をするのを見かけることもあるらしい。尚、別れ話を持ちかけたのはヨアヒムからだという事だが、基本的にリタもヨアヒムも自分のプライベートを話さぬ人間である。したがってこれらの話は一部の噂好きが想像を逞しくさせたものかもしれず、真偽のほどは定かではない。最後にスェーミがどうしてこんな話を知っているのか訊ねたが、いくらせがんでも彼が話してくれる事はなかった。

「へ~…」

「何を楽しそうな顔してるんだ、お前は」

「僕、こういう話大好きで…えへへへ」

 じっとりした眼差しを向けて呆れるスェーミを気に留める事もせず、ゼクスはやっと合点がゆく思いだった。リタが妙に衛兵隊の事情まで詳しかったり、ヨアヒムにリタの話をした途端難しい顔をして冷たくなったり。実際のところ彼らの本当の関係はどういう風になっているのかは二人だけにしか知れぬ事ではあるけれど、敢えてそこを推測するならば、リタは淡白で割り切っているように、反対にヨアヒムは切ない未練を抱えているように思える。

「あれぇ、旦那方。こんな時間に歩いて何処へ行くんです?」

 リタとヨアヒムの話が丁度ひと段落したところで、そう懐かしくもない、聞き覚えのある声がしたので振り返る。そこにはあのルーティングテーブルの村へ行く時に世話になった御者が神々しいばかりの朝暾に照らされ、肥えた体でパンパンになった雑嚢、それに背嚢を背負い、汚れた手拭いでしきりに汗を拭いて立っていた。スェーミは分からないが、ゼクスからすれば彼のイメージは軽蔑と不審という形で凋落していたのに、何故かそれをたった今払拭してしまった。それはなんの前触れもなくひょっこり現れた彼が、もしかすると姿を偽り地上に降臨した女神イリスではなかろうか、などと想像を抱くほど非現実的で不可解な出来事だった。

「なんか久しぶりやな~。おっちゃんこそ朝早うにどこ行くん?もう少し前やったら一人の外出は危なかったで」

 この意外な再会にぱっと笑顔で迎えるゼクスと仏頂面で黙するスェーミ。御者からすればその光景は別段変わった様子ではないらしく、彼も弾んだ声で近況報告をした。

「私は九番街の事件どころじゃないですよ。今度このヴィリエの、しかも六番街で女房と一緒にカフェを経営することになったもので。きっと乗ってみせます、この商機ビッグウェーブに!」

「へ~、おっちゃんカフェを経営するんや。なんて名前の店?」

「旦那は若いからカフェに興味有るでしょう。店名は“カフェ・カミノザ”といって、クラゲだとかなんとかっていうバーが閉店したのでそこを買い取ったんです」

 ……それはバー・クラゲの海ではあるまいか。

 いや、そうに違いない。御者が知らないのは当然で、九番街連続殺人事件の六人目の被害者であるマスターの死は報じられず、一般には知れ渡っていないからだ。人死にの起きた場所では飲食店に関わらず、通常あらゆる商い事が流行らず忌避するものだが、彼はそれを知らずに不動産を購入してしまったのだ。近隣住民は流石にいわくのある場所だと知っているかもしれないが、何も知らない人間からは元々あった店がリニューアルオープンし、バーがカフェに変わった程度にしか思わないだろう。

「旦那方、きっと来てくださいね」

「う、うん。そのうち…ああ、近いうち行く。贔屓に頼むで」

 御者は急いでいたのか、手を振った後、足早に去ってゆく。残されたスェーミとゼクスはなんとも言えない想いでその場に佇んでいた。

「なるほど。クラゲは死なず、か」

「はあ?なんだそりゃあ」

 元気よく頷くゼクスにスェーミが気怠く反応する。掴み所の無い茫洋たる目は真っ直ぐこのお調子者の少年に向けられていた。

「僕、訓練所でベニクラゲについて勉強した事があって、その生態はほんま不老不死と呼べるものなんですよ。成熟した個体が死なず、逆に若返るちゅう現象が起こるんです。スェーミさんは公園墓地で“マスターが死んだらあの店も死ぬ”言うてましたやろ?せやけどバーやったクラゲはカフェとなって生き返ったと解釈出来る思うんです」

 すた、すた、すた。

 真剣な顔をして述べるゼクスの蘊蓄と意味不明な解釈に興味が無いのか、スェーミは御者と再会した場所からだいぶ離れた場所まで歩いている。その後ろ姿を見てゼクスは慌てて追いかけた。

「ああっ、スェーミさん。どこ行くんでっか!あ、そういえばクラーラが何処に引っ越したか知りたがって――ああ、もう。待ってくださいよ、スェーミさぁん」

 大先輩は振り向かず、どこへ行くのか答えもせず、ただどんどん先に浜辺の道を歩いてゆく。これまでずっと一人で歩んできたであろうその道程には必ず物語の続きがある筈で、それが楽しみで確認せずにはいられないゼクスは駆け足で後を追った。

 後日、公園墓地のとある名前の無い墓に、人知れず一輪の百日草が献花されていた。その赤い花弁は夏の日差しをものともせず、秘める意味を故人に伝え続けていた。

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サラリーマン テンプル騎士 藤本鷹久 @fill-with-blue

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