第五話

 お前には口酸っぱく言ったつもりだがまだ分かっていないようだな、このマヌケ。鏡の間については記録に残るような方法でやり取りをするなと言ったはずだぞ。特に仕掛けについてはフュトレ様が決して口外してはならぬと仰られただろ。ロスタインの野郎が初代教皇に内定してから最近色々と面倒臭いんだ、言われた通りにしろ。それとロスタインが編纂した救世神話だが、あれは出鱈目でイリス様がお弟子さん方と旅をしたのは事実だそうだが、その旅の道中の内容については大っぴらには出来ないものだったらしいぞ。曰く、イリス様はかなり“好き者”だったらしい。それを隠蔽するのが救世神話って訳さ。お前はバカだから一応言っておくが、この事を人に話すなよ。

 何で詳しいかって?教皇選出でロスタインの対抗馬だったトゥリナーンに聞いたからだよ。実は、フュトレ様が本当に推薦したかったのはあいつらしい。俺に話したのは負けた腹いせがしたかったんだろうな。まぁあいつは若いし、教皇になれるチャンスはいくらでもあるだろう。

 ——ジバナーツァル大聖堂建設責任者の書簡より

 …………

 ………

 ……

 …

 遥か救世神話の時代、その後期に建造されたとされるジバナーツァル大聖堂は当初、宗教的理由からこれまで一切調査が行われてこなかった。それが今回のパトリーキィ枢機卿のヴィリエ訪問が決定すると、同時に教会から調査の許可が得られ、半年前から研究が始まった。

 今、特に研究者たちが熱い視線を送っているのが聖堂一階奥にある、聖遺物トゥインドイスフの鏡が安置された円型の部屋“鏡の間”である。この鏡の間は聖遺物の安置だけでなく古代に描かれた壁画があり、イリス教徒ならばその慎み深く荘重たる佇まいに跪座低頭を余儀なくされるという。そんな場所に、祓魔神官タルの同僚であるフラメは時間さえあれば足を運んでいた。彼女たちの研鑽によれば、鏡の間と壁画に何らかの意味や関係性を示すものがあるかもしれないのだという。太陽神イリス、または創造神イリスの謎を解き明かさんとするため、日夜研究に取り組んでいるフラメは、祓魔神官であると同時に考古学者でもあった。

 タルは螺旋階段を降りきると一階の祭儀が行われている聖堂の奥、鏡の間へと向かう。途中の廊下ではヴィリエ常駐テンプル騎士団第一騎士隊の隊員が警備にあたっており、彼らに右手の甲を見せると速やかに通された。鏡の間へ入ると、神官、考古学者らが入り交じり、中には壁画に詳しい画家もいて、静かに、だが熱く議論や調査を行われていた。その中に目当ての人物、フラメも混じっており、彼女は分厚い書籍を片手にして部屋の中央、つまり聖遺物が安置されている台座の近くで壁画を眺めているようだった。

「何か分かったことでもあったそうだな?」

「戻ったのね、タル」

 タルに気付くとフラメは穏やかな微笑みを湛え、帰還を心から祝福した。だがそれも束の間、直ぐに思案顔となって壁画の観察を再開する。

「(相変わらず熱心だな)」

 少し声をかけ難く感じたタルがフラメを横から見つめる。白いローブに真紅のレグレティカをきっちりと着込んだ神官服には一部のほつれもない。タルやコレットよりも少し歳上で、しっかり者の彼女からはしばしば言葉使いについて小言を言われる。ミディアムほどの長さで情熱的な赤髪の奥からは、意志の強さを思わせるブラウンの眼が覗く。

 フラメ。炎の祓魔神官。

「タル、聞いて。最近この聖堂の研究が進んでね、そこから鏡の間に“ある秘密”が隠されていることが分かったの」

「秘密?」

 タルが高さ一メートル程の台座に立てかけられた、丸い鏡を見ながら尋ねる。鏡といっても光を反射する能力はとうに失い、酸化によって青緑色に変色してしまっている。イリスの化身とも崇められるこの聖遺物は回りを縁取るように文字、或いは何かの紋様が描かれた銘帯鏡で、大きさは直径約二十センチメートル。厚さ約三センチメートル。子供でも掲げられそうなサイズだ。

「壁の絵を見て」

 フラメの言うままにタルが矯めつ眇めつ壁を見る。壁には部屋の入り口から時計周りに、救世神話を表しているであろう壁画が描かれている。先ず真っ白な光があって、次に荒涼たる大地が広がり、そこにイリスと思しき少女が降臨する様子。それからイリスが歩き、奇跡を起こしながら人々を救い、弟子たちと出会い、ちょうど鏡の間の入り口と向かいの壁に描かれた黒い影の中に入って姿が見えなくなる。影から再び現れたイリスは壁画の中で再び旅を続け、だんだんと最初に現れた時の白い光に包まれてゆく。つまり部屋の入り口を勘定せずに見ると、壁画の内容が輪のように繋がっているのだ。それが全て横向きになっていて、漫画のように分かりやすい構図で描かれていた。

「救世神話の絵みたいだけど?」

 神を信じぬタルは連綿と語り継がれるこの物語にも当然興味が無い。そんな彼女は、少しぶっきらぼうな言い方でフラメに先を促す。

「いい?絵の構図に着目して欲しいのだけれど、専門家との共同研究によって、絵の内容は全部で三十コマあることが分かったの。それと入り口の直ぐ右隣から一、二、三、と数えて十五コマ目の場所を見て」

 フラメに言われてタルも入口から絵を目で追い、真後ろに振り向く形になった。そこには真っ暗な影に入ってゆくイリス、影だけ、影から出てくるイリスの三コマが描かれている。

「あれが何だっていうんだ?」

「あれはね、新月、つまり壁画は月齢を表しているかもしれないのよ」

 月齢。月の満ち欠け。およそ二十九・五日のサイクルで行われる、太陽と月、それに観測者を交えてでの、ごくありふれた天文ショウである。これを四捨五入すればちょうど三十となり壁画のコマ割りと一致することになるが、それだけでは月齢を表している根拠として薄い。それに救世神話は全部で十七巻、その中には更に項と節があり、もしそれぞれの物語が壁画に表されているにしてもコマ割りと数が一致していない。

 タルがその事をフラメに言うと、彼女はよくぞ聞いてくれました、とばかりに目を輝かせ、今度は天井を見よ、と指示した。天井はドーム型になっていて、柱と柱、それに壁に合わせて交差したリブヴォールトが施されているが、そのドーム型天井の中央は天窓になっていて、そこからは青い空が見える。

「あの天窓、実は鏡になってるのよ」

 ……となると、相当な大きさになる。

「鏡だって?聖遺物だとかイリスの化身だとかいうこっちの鏡は駄目になってるのにか?」

「タル、そういう事は言わないの。出土している古代人が使っていた鏡の全てが劣化しているのだから、イリス様が使っていた鏡も当然同じようになるはずよ。でも……あの鏡は違った。特別だったのね」

 フラメによれば、天井に設置された鏡は当初ただの天窓と考えられてきた。ところが昼夜を問わぬ研究によって、悪天候や太陽と月の位置関係が近くなって太陽光の影響が受けやすい時期、それに新月の日以外は、春夏秋冬、天気が晴れさえすればいつでも鏡の間の天井から月が見えることが判明したのである。この鏡の間の中央にはトゥインドイフスの鏡を立てる台座があるので、ここには人々の寝静まった夜、月光が降り注いでいるはずだ。またこのジバナーツァル大聖堂の地下には天然の水路があって、そこに古代人は仕掛けを施した。その仕掛けが、潮の満ち干きを利用した大掛かりな月を追う鏡の装置である。

「古代人はヴィリエの波間に訪れる太陽の潮汐力と月の引力を利用して、可動式の鏡を作った。それが天井の鏡。でもこの鏡の間は地上一階で、背の高い大聖堂では空が隠れてしまう。それを鏡に頼ったのね」

「ということは、鏡は天井のものだけじゃないのか?」

「その通り。二つの鏡を反射させて、ここからでも月が見えるようになっているのよ」

 タルはフラメからもう一つの鏡の説明を受けたが完全には理解出来なかった。彼女曰く、聖堂の東西に高く聳え立つあの尖塔が大きな関わりを持っているらしい。

「疑うなら今夜ここに来て天井を見たら?今日は月齢十三日目で満月に近い月が見れるはずだから」

 古代人の叡智が見え隠れするこの不思議な部屋の存在にタルは名状しがたい思いに駆られ、それに伴って強い熱意と興味関心、それに好奇心の塊となっているフラメに返す言葉を彼女は思い浮かばなかった。

 ……聖遺物は毎夜月の見える位置にあり、そしてその聖遺物が安置されている部屋は月齢と同数のコマ割りで救世神話の壁画が描かれている……。確かに救世神話には壁画の十五コマ目のように真っ暗な絵から連想される物語が無いので、もし意味があるとしたら何か別のものを指しているかもしれない。それが新月。そうだとするとこの鏡の間は全力で月が関係していると言いたくて、そこにある聖遺物もまた然り。更にはイリスでさえも、ということか……?

 古代人の考えていたことはさっぱり分からない。そう結論付けたタルは鼻を鳴らし、次のように言った。

「大した造りじゃないか。でもこれじゃあ太陽と月、創るのか壊すのか、どっちなのか分からないな」

 フラメはタルの言葉を聞くと口に手を当ててふふふ、と笑う。

「流石にタルもイリス様が太陽神か若しくは創造神であると考えられているのは知っているみたいね」

「馬鹿にするな。あれこれ説を唱えて結局なんなのか決められないでいるのは、お前たち研究者側の方だろ」

「確かにね。もしイリス様がこれまでの研究を覆して月神であるとすれば、太陽神説の根拠となる数々の証拠がどうなるのかって話になる。そうなると私たちは振り出しに戻るワケね。でも何か……この太陽と月を利用した鏡の装置といい、月齢を表しているかのような壁画といい、古代人たちは私たちに何かとても重要な秘密を伝えようとしているのではないかって思う」

 二人の間に沈黙が訪れる。タルはこの辺りが頃合であろうとみて、考古学者としてでなく、今度は祓魔神官としてのフラメに尋ねた。

「ときに俺はカサノヴァから手伝えと言われて来た。手こずっているのか?」

「ええ、実は少し……」

 フラメが片手で頭を抱え、ふぅ、とため息をつく。彼女は紅蓮の炎を自在に操る能力を持っているが、シイラのようにそれを駆使して敵を一騎当千の如く葬ることはしない。タルと同様に内偵の仕事が多いフラメは、それだけに様々な事情にも詳しい。今、彼女はヴィリエで起こっている失踪事件を追っているという。

「お前が手を焼くってことはかなり面倒なのか?」

「……歩きながら話しましょう」

 鏡の間の外へ歩き出すフラメの後をタルもついてゆく。聖堂の祭儀は終わり、集まっていた神官やイリス教徒らも解散する所で、二人もその流れに乗って表に出た。

「この街は今、とても危険な状態にあるわ」

 周囲に人が居ないのを確認すると、フラメはいつにも増して真剣な表情で語り始めた。

「私が最初にこの話を耳にしたのは四番街にある教会の庭先で、修道士見習いの子たちとの何気ない会話だった。いつも施しを求めに来る物乞いの一人が急に来なくなって、どうしたのかと心配していたらすぐに別の物乞いが来るようになったけど、その人たちも次々にいなくなっていった……。一週間前、遂に衛兵隊が教会を通じて私たちに調査協力依頼が来たわ。とうとう失踪者を探していた衛兵隊員までがいなくなったらしいの。それで愈々これは悪魔か何かの仕業なんじゃないかって噂が出てね。それからも失踪者は増え続けた」

 フラメは、タルがコレットと再会した辺りの噴水までやって来ると立ち止まり、懐から折り畳んだ手紙を取り出した。

「二週間前、衛兵隊と教会に届いた犯行声明文で、教会に届いた方の写しよ。読んでみて」

 どうやらフラメはまだ知っている事があってそれを全て話し切っていないようだと嗅ぎとったタルは、犯行声明文とやらに強く興味を引かれ、手紙を受け取ると言われるまま文字に目を落とした。


『 誇り高き都市の守り手たちへ。

 昨今の失踪事件を起こしているのは私だが、この事件に関しての一切の捜査を中止することを薦める。併せて一般市民の夜間外出を禁ずるよう強く薦める。これは要望でも、ましてや命令でもなく、善意の忠告であると受け取ってほしい。

 すでに気付いていると思うが、我々が狙っているのは街にのさばる乞食や不法移民、異教徒に犯罪者たちのみであり、一般市民に対して害を成すつもりは毛頭ない。現在失踪している民衆たちは不幸にも我々の姿を目撃してしまったためだ。彼らには衷心より遺憾の意を表する。しかし我々がやっていることはこの街を更に発展させるためであることを理解してほしい。

 そしてイリスの神官たちへ。

 この街には二体の悪魔が存在し、私はそれを使役している。先日、ラシェル銀行の裏通りで見つかった乞食の死体を調べれば、それが我々の仕業だと君たちなら分かるはずだ。

 私の言っていることが真実である証拠としてやむを得ず悪魔を利用したが、今後悪魔は休眠させる。君たちが余計なことをせず、神に祈りを捧げていれば、悪魔が眠りから覚めることはないだろう。だがもしもこれ以上犯人捜しを続けるようならば、悪魔がいつ目覚めるかわからない。いくらイリスに選ばれた祓魔神官といえど、この広い都市のすべてを守りきるのは至難の業だろう。勘違いしないでほしいが、私はこの都市が傷つくことを望んでいない。全てはこのヴィリエの未来のため。

 イリスの神官たちよ、神が人々を導く時代は終わったのだ。これからは人のために祈り、尽くすがいい』

 

「よくもこんな文章が書けるもんだ。書いた奴の顔を見てみたいぜ」

 そう言いつつフラメに手紙を返すタルだが、同時に手紙について考えていた。

 先ず送り主は何者なのか?街の更なる発展のためなどと述べているが、それが本当の目的なのか?使役しているという悪魔は本当に存在するのか?存在するとしたらどこに?夜間外出禁止令など、ヴィリエのように法治が進んだ都市で簡単に出来るものではない。出来ないと知って言っているのか?それとも意味など無いのか?

 ……疑問は尽きない。

「犯行声明文の通り、先日物乞いらしき人が全身の肉を抉られたような……その、食べられたような状態で発見されたの。これは明らかに人間の仕業じゃない。それに周囲には“呪病者の痕跡”も残されていた。これは失踪する人たちと何か関連があると見た方が良さそうね」

 実際にその死体を見たのか、フラメがうっすらと顔を歪ませる。一度見たら忘れなくなりそうな無残な死体の様子は勿論だが、なによりも彼女の事だからきっと被害者に対し惻隠の念を抱いているのだろう。それはフラメの心中を推し量るタルも同様だったが、タルの場合、犯行声明文以上に興味を引かせる、呪病者についても併せて留意していた。フラメの言う“呪病者の痕跡”とは、祓魔神官たちの右手に埋め込まれている呪いの石から意思疎通を図る時に感知出来る、特定の共鳴音のこと。祓魔神官は時にこの共鳴音を辿り呪病者を探し当てるのだが……。

 タルが腕を組んで考える。

 確かに今人類が確認している怪物の中で、古代の伝説に登場する悪魔のような個体が存在する。となれば、犯行声明文の送り主が本当の事を言っているのなら大変だ。その気になればヴィリエを陥落出来るほどの力を持っている事になるからである。

 しかし、だ。悪魔を使役しているといっても、異常な殺害方法をする事で、“悪魔が実在する”と思わせる狙いがあるのかもしれないし、それにどのみち全身の肉を抉り食うなんてまともな人間がすることではないのだから、悪魔と呼べるような者は確かに存在するのだ。解せないのは呪病者の痕跡である。ここでどうして呪病者が出てくるのか?そういえばカサノヴァがコレットに命じた呪病者の処理任務で、事前に探索魔法によって二人の呪病者がヴィリエにいることが分かっていると話していた。何か関係があるのか……?

 タルは一旦思考を止め、もう少し詳しく事情を知るために質問をした。

「それで、失踪者の捜索は続けてるのか?」

「いいえ……表立っては衛兵隊もテンプル騎士団も動いていない。衛兵隊は身内が居なくなってる上、教会に捜索依頼を出しているのに、自分たちが動かないなんておかしな話よね。そうなればテンプル騎士団が動くと思うけど、彼らもなんら動向を見せていない」

 フラメの言い方は、失踪者の捜索を行わない双方に内部事情がある事を示唆するものだった。これを受けてタルは、ただの失踪事件の裏に鼻が曲がりそうなほどきな臭い何かが蠢いているのを感じ取る。

「それに実はもうこの事件の首謀者は分かってるの」

 タルはフラメの意外な発言に面を食らったようで、目を大きく開いて思わず尋ねる。

「何?誰だ?」

 初夏の風になびく髪を直しながらフラメが言う、“貧民街のあの男”。タルはこの時貧民街がどのようなものかも同時に思い出していた。乱雑に立ち並ぶ建物、暗く灯りが殆ど無い路地。ヴィリエにやって来る人々の数は年々増え続け、その影響でいつの間にやら城壁の外に出来上がったもう一つの街。六番街の検問所を超えられない者たちが無断で作り上げた、法も秩序も無い暗黒街だ。この街に法は無いがルールはある。そのルールは単純明快だ。


『エミリアーノ・ポリシオに逆らうな』


「目撃者がいるの。ポリシオの手下たちが動いていたって」

 エミリアーノ・ポリシオについて分かっていることはそれほど多くない。姿形、男か女かすらもはっきりしていない。ただ元々イリス教徒で、行商隊を率いるリーダー、そして北方、南方と危険な場所を旅し続けた猛者だったといわれている。しかしヴィリエの検問所を通過することは出来なかったらしく、やむを得ず街の東側に野営地を作ったのが貧民街の始まりなのだとか。だがそれも三十年ほど前の話で、エミリアーノ・ポリシオは恐らく齢七十から八十の老人であると考えられている。

「今、参事会の伝手を使って手紙の送り主を探しているわ。私たちにできることはいつも通り都市の安全を守り、見張ること。それだけなのよ」

 そう言うフラメだが、きっと真相を掴むために三思九思しているに違いない。その一方でタルも困難な仕事と暗躍する大敵の存在に慄然とするのを堪え、この一連の出来事について考えていた。

 ヴィリエ市民らの失踪、謎の犯行声明文、全身に食害を受けた変死体、呪病者の痕跡、そしてエミリアーノ・ポリシオ……。今のところまだ何も分からないが、これらの事柄がもしひとつに繋がるのだとしたら調査する場所は決まっている。危険な場所だが覚悟を決めなくてはいけない。

「フラメ、俺に考えがある」

「え?」

 ……………

 …………

 ………

 ……

 …

「私とあの子で、君を助けるから。必ず助けるから!」

 そう叫び、私は隧道の奥にいる“あの子”の元へ向かうため、走った。すると段々と目の前が真っ白になって、気が遠くなって、やがて私は……目を覚ましたようだった。

 自分が今横になっているものともうひとつ、粗末なベッドが二つ並んだ小部屋。壁にはすっかり古くなったタンス。時折視界が右へ左へと動く。いいや、身体そのものが揺らいでいるのだ。

 そう、ここは船。その客室。私は船旅の途中だった。

 上半身を起こすと、私はつい今さっきまで見ていた夢の内容をぼんやりと思い出そうとした。

 お花畑。桃源郷とはああいうものを言うのだろう。夢の世界であるとはいえ、いやにリアルだった。

 じゃんけん。子供の頃から見る夢で、いつも負けていた。じゃんけんの相手は私自身もそうだが皆子供で、男女比も大体同じくらい。私たちはこのじゃんけんを“イリス様ごっこ”と呼んでいた。

 男の子。夢の中で叫んだ“あの子”だ。当然見覚えがない。彼とのじゃんけんはどういう訳か引き分けが続き、勝負がつかなかった。そこでじゃんけんを止めてどこまでも続くお花畑を一緒に歩いた。子供らしい雑談をしながら。

 そしてあの人……触れることすら許されないような神々しい光そのもの。男性か女性かも分からない。とにかく、私と男の子はあの人を守らなければならない使命を――。

「あらお嬢様、起きていたんですね」

 その時、客室のドアから若い女……私の身の回りの世話をする侍女が入室し、思考が中断した。彼女は酷い船酔いで顔面を蒼白にさせていたが最近幾らかマシになってきたようで、陸にいる時と変わらぬ様子で隣のベッドにすとん、と腰を下ろした。

「船にはもう慣れた?」

 私が問うと、彼女は深い吐息の後に首を振る。

「もう船旅はこりごり。しょうがないんですけどね、ホント、全く」

 侍女の言葉に私が苦笑すると、今度は彼女が私に尋ねた。

「お嬢様こそ大丈夫ですか?ずっと泥のように寝てましたからちょっとだけ心配してるんですよ。ちょっとだけね」

 現地での任務を終えこの船旅が始まってから一週間、私は寝てばかりいた。疲れていただとかそうではなく、特にやることがないからなのだが、どうしてかベッドで横になっているとうたた寝を誘う。その度に“イリス様ごっこ”の夢を見るのだ。

 私は侍女にちょっとだけ心配かけてしまったね、と伝えると、彼女が突然にそうだ、と目を大きく開き、落ち着かぬ様子で一気にまくしたてた。

「陸が見えて来たんですよ!陸!」

「え?陸って……ヴィリエが?」

「そう!だからもう寝てる場合じゃありません、支度しないと。ああもう、寝癖がこんな風になってますよ?早く直さなきゃ、ホント、全く」

 そう言って侍女が右肩をぴょこんと上げる。具体的なことはよく分からないが、私の髪はかなり凄いことになっているらしい。こうして、私たちは慌てて支度を開始した。

 支度を整えると客室を出る。既に他の乗船客は下船のために甲板へ移動したのか、沢山の客室が並んだ通路は人気が無く、侍女が急ぎましょう、と急かすので私は早歩きで移動した。静かな通路でヒールの音を鳴らしながら歩いてゆくと、甲板とこの通路を仕切る、両開きのドアが見えてきた。これをゆっくり引いて甲板に出ると、頭上から太陽の光が容赦なく降り注ぐ。あまりの眩しさに思わず手を翳すと、

「おや、姉さんたちが最後だよ」

 ……そう言ってのんびり作業をしていた船員が私たちを見て呼びかける。あまり彼らと交流をしなかった私だが侍女は違ったらしく、船酔いの手当てもあり、随分彼らと接して仲良くなったらしい。

「あらどうも。ヴィリエまではあとどのくらい?」

「寄港するのにはまだ一時間はかかるかな。全く、みんな気が早いったらないよ」

 侍女と船員が交わす気さくな会話を他所に、私は右に左にと揺れる船に少しだけ足を取られながら、船首の方へ集まった乗客たちが視線を向ける方向を目にする。

 どこまでも青い水平線が続いていた紺碧の海の先に、右側には陸繋島、その更に先には九番街の波止場、他に停泊する白い船が見える。船員たちが灯台代わりにしているジバナーツァル大聖堂の二つの尖塔は甲板に出た時から見えていた。

「お嬢様、着いたらまず旦那様に手紙を書いてください。もう何枚も催促の内容を含めたものが届いているんですから。ホント、全く」

 父は遠く離れた北方にいながら私の仕事先を逐一把握しようとし、近況報告をせよ、とせがんでくる。父が私を愛しているのは分かるし私も父を愛している。それは良いのだが、手紙のやり取りをする間隔が短いので、最近は煩わしくてあまり返していないのだ。流石にそろそろまずいかもしれないので、侍女の言うように手紙を書こうと思う。

 ――だがその前に仕事だ。直ぐに二騎へと向かい、ナハルヴェンに任務の報告をし、書類を作成する。それに私がいなかった間の状況も知っておかねば。後は“素行の悪い隊員”もどうしているのか気になる。

 私は手首に付けていた、二十歳の誕生日に叔父からプレゼントされた茶色のヘアゴムを外すと、それでいつものように髪を結び、他の乗客たちと共にゆっくりとゆっくりと近づく陸を臨んだ。

「(ヴィリエよ。私は帰ってきた)」

 ………

 ……

 ごとん、ばたん。

 静かな寮に響く物音。

 偶然廊下を歩いていたその人物は、思わず物音がした部屋へと走った。

「ちょ――ゼクス君、大丈夫?」

 呼ばれたゼクスは抱き枕にしがみつき、ベッドから落ちて床で横になっている状態で、手痛い目覚ましによって少しずつ覚醒している様子だった。そして彼を呼んだ人物は、ドア越しから首だけを出して様子を見る呆れ顔のクラーラ。彼女は壊れたままのドアを引き摺りながら開けてゼクスの部屋に入ると、締め切ったカーテンをしゃっ、と音を立てながら開いて窓から外を眺めた。すると暗く無音だった部屋に外から様々な情報が入り込んでくる。先ず眩しい夏の日差し。今日も晴れらしい。道を進む馬車の音や人の話す声はまだ聞こえず静かだが、鳥のさえずり、晩夏に現れる蝉の鳴き声、誰かが表を歩く気配、それから水を撒く音が聞こえてくる。朝の営みはもう始まっていた。

 窓から外を眺めていたクラーラが振り返り、まだ床に尻餅を付いた格好のゼクスに目を向けると、胸を張り両手を腰に当てて、甲斐甲斐しい姉のように伝える。

「今日はドアを直す業者さんが来る日なんだから、出る前に部屋を片付けてね」

 ぼんやりとした頭でゼクスが件のドアに目をやる。木製のドアが見事に貫通していて、その時の衝撃で蝶番がひん曲がり、全体が斜めに傾いているため枠におさまらず、ドアと沓摺との間に隙間が出来てしまい、そこから廊下が見える。ずるずると引きずるように開閉しているので床がドアを動かした後で傷だらけにもなっていた。ゼクスのプライバシー保護のため管理人刀自がドアの穴に布を張ってくれたが、それでも不便極まりなかった。

 ドアを機能不全にした張本人で四日前にこの部屋に現れたテンプル騎士の男。彼の正体は二騎の隊長・ナハルヴェンであるとゼクスが知った時、そういうような気がした。あれから顔を合わせていないが、同僚の話では和気藹々たる人物で親しみやすく、隊員たちを家族のように思っている男だと皆評している。ナハルヴェンが自分の前に現れたのも、それが理由か……?

「朝ご飯、もう冷めちゃってるけど食べる?」

 ゼクスが壊れた扉を起き抜けの惚けた顔のまま見ていると、脱ぎっぱなしで放置された衣類を畳みながらクラーラが尋ねる。生まれてからずっと女性だけの修道院で生活してきた彼女は全くと言ってよいほど男性慣れしていないが、どういう訳かゼクスは平気らしく話し相手欲しさのために食事ができずに困っている彼を自室へ招き、同じくクラーラを全く異性と思っていないゼクスは単に食事のため、二人で食卓を囲んでいる。もっとも、観想の生活と慈善の社会事業に生きる彼女の食事では、食べ盛りのゼクスをなかなか満足させることは出来ないが。

 時刻は午前六時半過ぎ。ゼクスは第二騎士隊支部へ徒歩で向かうが、この時間だと始業時間にはかなりギリギリだ。一方、修道女のクラーラは朝五時に起床する。テンプル騎士は修道士・修道女としての側面もあるため、基本的に何時いかなる時も教義に殉ずる姿勢が求められる。そうクラーラに寝坊について窘められると、ゼクスは食事を提供されている立場だというのに、

「分かっとるがな」

 …と、流すのだった。

 この日の朝食はいつもと変わらずパン、それに薄味の豆のスープ。ゼクスは少し堅めのパンを頬張りながら、ぼんやりとテーブルに置かれた新聞の記事に目を走らせた。一面記事ではないからか、取り留めのない内容が記載されている。今日もヴィリエは平和のようだ。

 寝起きが悪く言葉少なげに食事をしているゼクスだが、それに相反して部屋主のクラーラは他のハンガーに掛けてある修道服を手に取っては姿見の前で当ててポーズをし、顔の表情を変え、と落ち着かない。

「ゼクス君。これ、似合うと思う?」

 ヴェールとウィンプルを取っていつもの修道服だけの姿になったクラーラが、グレーの貫頭衣でレグレティカにも似た修道服を見せると、ゼクスは昨日から修道女にも夏用の服を支給された事を思い出す。普段は紺色の修道服を着ていることからグレーのものがその夏用なのだろう。

「ええ?まあ、似合うてる思うで」

 そう素っ気なく返されても気に留めていないのか、頬を薄ら桃色に染めたクラーラが夢見心地に言った。

「あのね、修理業者さんが来るでしょ?それでね、その業者さんって多分殿方だと思うんだよね。それでどの服がいいかなと思ってぇ。あぁ~、困ったなぁ」

「……ふーん」

 服といっても夏用と常用の二種に限られている。何を愚なことを述べているのか、と興味の無いゼクスは頭が留守になるのもそれっきりにして、さっさと食事を済ますと食器を洗浄し、その後支度を整えて寮を出た。


 さて、公園墓地でスェーミと分かれて四日後。九番街連続殺人事件の最初の犠牲者が現れてから二週間が経過した。ゼクスはスェーミの指示通りに支部での勤務に励んでいるが、その間、ヴィリエにも大きな変化が訪れた。血腥い事件が遠い過去の出来事のように、女神イリスがもたらした恩恵を感謝する感謝祭、女神祭とも呼ばれる祭りが、聖イリス教会ヴィリエ支部神官長の宣言により昨日、華々しく開催された。

 ゼクスはそんな彩り豊かな街を歩いて午前八時、予想通り第二騎士隊支部に始業時間ギリギリで到着すると、まだ眠気眼のまま、

「おはようございま~す」

 …と、大きな声で挨拶をした。すると第二騎士隊の仲間たちからも挨拶が返ってくる。真夏の暑さでなんとも緊張感の欠けた朝のやり取りだった。

「よう、ゼクス」

「おはよう、ゼクス君」

「お、二騎のマジックドリーマーさんがお出ましだ」

 金色の髪をなびかせて歩くゼクスを見かければ誰もが声をかけ、何かしら会話をしようとする。彼にはえも言われぬ不思議な魅力があるようなのだが、その事に本人は気付いていないのか得意になるということもなく、それがかえって人を惹きつける所となっていた。また“マジックドリーマー”は“アトミックマン”と同様に彼が勝手に名乗る綽名だが、ユニークな彼らしい一面として隊員たちも受け入れているのだった。

 ゼクスは挨拶を適当に交わしながら座り慣れた座り心地の悪い椅子にすとん、と腰を下ろすと、欠伸の出る口を隠しもせず机に向かう。主が変わっても机は相変わらずめちゃくちゃで、先ず何が置かれてどのような配置になっているのか、それを理解することが最近のゼクスの最初に行なう業務となっていた。それでもこの四日間、集中的に事務仕事に打ち込んだ甲斐があって、手付かずの白紙書類は減って少しずつ仕事のし易い机となってきている。

 スェーミについてだが、公園墓地で彼と再会を果たしたものの、それからは一度も顔を合わせていない。どうやら彼はあれから支部にすら戻っておらず、その所在は杳として知れないのだ。一体いつ、どこで、どのように食事をし、入浴をし、睡眠をとるのか?人間らしい生活の営みを全く感じさせない彼に、ゼクスは疑問を抱かざるを得なかった。もう一つ分かったことは、ゼクス自身が事務仕事に向いていないという事だ。座りっぱなしで仕事をするというのは、どうも性にあわないらしい。これは訓練所の座学においても同様だった。

 今日はどうしようか、とぼんやりゼクスが机を眺めていると、隣の机に書類を置いたローズがやって来た。彼女はゼクスの机の前に立ち止まると片手に持った書類の束の中から、少しくすんだピンク色のマニキュアを塗布した細い指で書類を取り出し、ばさっ、と音を立てて置いた。音だけでもゼクスが今までこなした仕事量と同数分あるのは明らかだ。ローズはこのものぐさな少年がげんなりする間を置かず、次のように言った。

「ゼクス君、今日からはちゃんとした方がいいですよ」

「なんで?えっへっへ、僕はいつでもちゃんとしてんで」

 ニコリとも笑わず言う彼女に、ゼクスは大量にやって来た新たな仕事を見ないようにしながら、問題無い、という風に人差し指を左右に振る。同じようなやり取りは四日間毎日行われているのでこれは一種の戯れのようなものなのだが、この時のローズは少し違った。

「副長が帰って来たんです」

「ふくちょう?」

 事務所で仕事をしていればスェーミからは濁されて聞けなかった、ここ第二騎士隊の副長を預かる人物について聞く機会が嫌でも出来てくる。

 副長はなんと女性。隊内では“鬼の副長”などと誹謗中傷が飛び交う、蛇蝎のように嫌われている人物である。なんでも隊の規律やイリス教と教会の教義に大変厳しく、己自身も厳正公平に律する高潔な人柄であるという。そのため、隊員たちは煙たがりはするものの言う事を聞くしかなく、影でこっそり、鬼、堅物、鬼お局、などと憂さ晴らしに呼称している。また副長は殆ど休暇を取らぬと知られ、加えて妥協の許さぬ仕事ぶりが“永久機関”などと呼ばれる所以であった。

 その副長が遠方での任務を終え帰還したことで今、隊員たちは戦々兢々とし、身だしなみから机の整理整頓、始業時間前の十分間に各々担当している場所の清掃をするという習慣を文字通り復活させ、煩わしい副長のチェックから逃れようと朝から躍起になっているとのことだった。その旨をローズから伝えられると、ゼクスが周囲を見回す。言われてみれば挨拶こそいつも通りだったものの、どこか物々しい雰囲気を感じられる。事務所内では普段しない敬礼を見受けられるし、棚は勿論、概ねどの机も整理されている。そういえば支部の入り口でいつも警備している青年騎士も今日は世間話をせず、挨拶だけに留めていた。

「え、みんな何?何?そんなに副長って怖いの?」

「怖いというより、面倒くさいんです」

 流石のローズも副長には難儀をしているようで、ふぅ、と重い息を吐く。ゼクスは副長にまつわる大概の話を聞いてはいるが、就労体験がまだ乏しい彼からすれば単に仕事熱心な人物であるという印象でしかなく、ローズ、それにスェーミが煩わしく思う理由を完全には理解出来ないでいた。もっともスェーミの場合は机を片付けろ、だとか喫煙ルールを守れ、だとかしょうもない内容ではあったが。

「ふーん…まあ、世の中仕事一筋とかよう分からへん人がおんねや。全く、仕事のどこがおもろいやら。あっはっは」

 話をすると生来の三枚目な部分が表れ、誰であろうとこうして舌が回る。ゼクスの発言はテンプル騎士として不適切でありしかも人を嘲笑する発言ではあったが、あのローズをくすっと笑わせた。

「掃除とか、いつもやっとったらこんなにバタバタせんで済むのに。まぁ僕が副長ならちょい片付いとらんでも、構へん構へんって流すねんけどな」

 全く片付いていない目の前の机を見ないようにして自分を棚に上げ、やれやれ、といった様子で大仰に身振り手振り交えて話すゼクス。そんな彼がよほど可笑しかったのか、ローズがついに失笑した。

「ゼクス君は副長をどのような人だと思ってるの?」

 失笑するローズに気を良くしたゼクスが、思っている事を素直に伝える。

「えぇ?そうやなあ。ニコリとも笑わん、怖~いおばはんかな。掃除なんて窓枠を指でなぞって具合を見るとか」

「そこまではしないけど……」

 ローズがくすくすとまた笑い、楽しそうにゼクスの話を聞いている。その様子を通りすがりの男性隊員が二度見した。

「後は“永久機関”なんて言うけど、実はこっそり休んでるのとちゃう?なんて思うなぁ」

「そうそう、本当に休まない人だから私たちも休みづらいんです」

 ローズが頷く。この時には彼女の笑みは消えており、労働環境に対し切実に不満を漏らしているようだった。ここまで言いたいことを言ったところで、ゼクスが椅子から立ち上がる。

「ローズさん、今日は予定変更をして警邏任務に就きますわ。終業時間には必ず戻ります」

「あっ、ゼクス君」

 ローズの声を背に、ゼクスは全てを放ったらかして逃げる事にする。そう、彼は己の不味さに気付いていた。こんな煩雑極まりない机を直ぐに片付けられるワケがなく、鬼の副長とやらにこってり絞られるに決まっている。またこういう面倒そうなことは避けるのが孤児院時代からの彼の鉄則だ。こうしてゼクスは小走りで事務所を出て受付を通り過ぎ、出入りする隊員たちに何事かと見送られながらエントランスを出た。ここで副長とばったり鉢合わせないかとゼクスは冷や冷やしたが、そういう三文芝居で目にする展開にはならず、無事支部を脱出することに成功した。それから毎年二週間行い、更により凝った造りになったという感謝祭をじっくり見物するため、三番街の幹線通りへ向かった。

 

 今年の感謝祭はマルセル子爵の政治的な思惑やパトリーキィ枢機卿の訪問を控えた関係もあり、祭りの雰囲気が従来より変化し、儀式的な側面を強く表すように工夫された。簡単に言えば、祭りで賑わう人々に対し規制及び監視が入ったのである。その任務を命じられているのがヴィリエ常駐テンプル騎士団第一騎士隊(一騎)。一騎は通称“守護者”とも呼ばれ、主に教会の高僧やジバナーツァル大聖堂のような教会が所有する重要な施設を警護・警備任務に就く。支部は一番街にあるがそこは分署であり、任務の特性上も考慮されて本署は中心街にある。その事を理由に彼らはエリート意識が強く、実際に惜しくも本部勤めにはならなかった訓練所の成績優良者たちで構成された隊である。これに衛兵隊も加わった監視によって例年通りお祭り騒ぎが出来ないでいる平民たちは鬱憤を募らせていたが、その代わり救世神話に準えた飾り付け、歌や踊り、音楽といった芸能に関しては広く推奨された結果、祭りの雰囲気が一新される事となったのだ。

 神官長による感謝祭の開催宣言が行われると、中心街から何百発もの花火が打ち上げられ、花火に負けじと街も一斉に装飾へ明かりが灯された。その明かりは上空から観察すると星雲のように不定形で揺らめいており、色彩はドルトル粉の胆礬色によく似ている。それがヴィリエの夜を照らして闇が居着く場所がない。街ではこの時のためだけに準備された垂れ幕に横断幕、太陽や鳥、天使をモチーフにした飾り、救世神話を準えた壁画やオブジェが至る所で目に留まり、店舗や露店で販売する飲食物は女神イリスが降臨した当時の一時的な回帰が謳われ、中央通りと幹線通りは踊るダンサーたちと楽隊が行進し、街の劇場では救世神話の伝説が再現された。これら多種多様な催しには全て衛兵隊と一騎の監視下にあったが、それでも今を生きる人々が感謝祭を絢爛たるものにしようとする精励恪勤の様は、女神イリスを身近に感じそして信じられている証左だった。

 さて、ゼクスが仕事の煩わしい事から逃避し昨夜の興奮から少し平静を取り戻した朝の街を歩くと、その刺激によって自分がしたい事やしなくてはならない事、それに忘れようと輾転反側していた出来事を、一時的に朧々たる記憶の底へと追いやってくれる。彼の性格上、落ち着いて物事に対応出来るようになるのはまだ先であるとしても、もし昂る感情によって己の本心を見失った時、或いは再び靉靆とした気分に悩まされる事があれば、今後は何も考えず表に出て歩けば良いと考えた。ゼクスが街を歩くきっかけとなったのは単に煩わしい存在からの逃避だが、しかし歩く事による効果については、どういうわけかあのスェーミの影響を受けたのである。

 とはいえ今はまだ朝。街ゆく人もそう多くはなく、露店は準備がてら商売を始め、店舗はまだ営業をしていない場所が多い。秉燭夜遊の後片付けも済んでおらず、監視があるにも関わらず祭りに乗じて羽目を外した酔っ払いが吐瀉した汚物もまだ清掃されていない。街は目覚めたばっかりだった。

「わぁー……」

 六番街の中央通りまで歩いてきたゼクスが思わず感嘆の声を漏らす。中央通りと幹線通りがぶつかる中央広場では感謝祭の装飾として、湾曲させた木材と木材とで格子状に組んで、そこからランタンを吊り下げるドームが建設された。このランタンは救世神話の時代にイリスが千二十四回起こしたという奇跡を模しており、同じ数のランタンがヴィリエ中に設置されている。それがこのドームに集中しており、夜の帳が降りる頃にはドルトル粉を気化したガスによって一斉に発光する。そんな地上に住む人間が誰一人とて見たことのない光景をヴィリエが演出するのだ。

 是非その光景を見たい。……誰と?

 スェーミ。

 二騎の同僚たち。

 訓練所の仲間たち。

 孤児院の子供たち、それに院長夫人。

 タル。

 ヴィクトリア。

 ………。

「引ったくりだ!そのガキを捕まえろー!」

 叫び声にゼクスが我に返る。訓練生時代はこの手の揉め事に無視を決め込んでいたが、今は新人とはいえ立派なテンプル騎士だ。暫く動かしていない身体と強い使命感が瞬時に燃え上がり、彼は声がした方へ向いた。

 説明が無くとも、時間にして秒の僅かな光景から状況を把握出来た。身なりの良い平民風の中年の男が、フードを被った襤褸姿の背の低い人間…いや、子供に向けて叫んでいたのだ。

 あれは通称“子供の盗賊ギルド”などと呼ばれる、その名の通り働ける年齢にも達していない子供たちが徒党を組んで、食べてゆくために窃盗を繰り返す一味の一人だろう。走る姿は非常にすばしっこく、男か女かも分からない。ゼクスは“襤褸のフードを被った子供”と記憶すると、後はただ走った。被害者の男は追うゼクスに盗まれた品についてあれこれと大声で述べていたが、当の本人は全く耳に入っていない。

 子供は確かにすばしっこいが、それはゼクスもまた同じだった。特に走ることに関しては得意で、かけっこ遊びは好みでもあった。幹線通りを走る小さい背中が次第に手の届きそうな距離になってくると、かくっ、とラシェル銀行六番街支店と雑貨屋の間の通りを曲がる。それから雑貨屋のすぐ右横にある裏通りへと続く狭い道に再び曲って、産業廃棄物が投棄してある袋小路に差し掛かる。ここで子供はハァハァと息をしながら、ゼクスと対峙した。

「えっへっへ、もう逃がさんでぇ。観念せんかい、このちんちくりんがぁ」

 しかし、ゼクスの予想だにしない事が起きた。なんと子供が、軽業師宜しく産業廃棄物の入った袋を足場に飛び跳ね、建物の横壁を利用した三角ジャンプをして、袋小路を成す石の壁をよじ登ろうとしたのである。そして登ることは完全に成功し、その場に残された彼か彼女のすることといえば、追跡者を撒いた事の安堵と会心の笑みだった。

「バーカ!」

 中指を立ててそう言うと、壁の向こうへすっ、と消えた。声からして男の子のようだった。

 ゼクスが昨日読んだ新聞で、一人の子供が串刺し刑に処された内容をふと思い出す。ヴィリエ政府の子供に対する厳罰化が進んだのは、このように大人たちが子供の犯罪に対し脅威として見ている表れだろう。そして彼らは大人たちがそのような目で見られていること、それがどれほど危険なことか分かっていないのだ。彼らが犯罪に走るのは大人たちが不甲斐ないからであるとしても、かといってやって良いことと悪いことがある。

 あの子を逃がしてはならない。犯罪を撲滅するという使命感だけではない。あの子の将来のために、なんとしてでも自分が捕えなければと決意した時、ゼクスの全身から青白い光を立ち上らせていた。

 一方、子供は壁の先へ降り立った後、その会心の笑みがおさまることは無かった。ギルドいちの瞬足と仲間たちから称えられ、数々の難仕事を頼まれて暇を持て余しているのだ。

「(おれにかかればテンプル騎士の一人や二人を撒くなんて造作もないぜ)」

 小さい両手に抱えた布の袋に意識を向けると、重みの他に角張った何かが感じられる。現金や簡単に換金出来るような宝石類だと都合が良いのだが、この際文句は言っていられない。あの素早い女テンプル騎士が直ぐ壁の向こうまで迫っているのだ。

 小さな窃盗犯がアジトまでの道程を頭に描きながら裏通りを抜けるその刹那、背中から、いや、壁の向こうからなのか、目が眩むような光と無音の爆風が一瞬、この子の全身を貫いた。それは本能的に死を意識するような寒々しいものでなく、もっと優しく抱擁されるような、心が包まれて安らぐようなものだった。走りながら背を押されたような体勢になった彼は、宙に浮き、距離にして三メートルは吹き飛ばされただろう。そして何が起きたのか分からず、我が身を案じるために起き上がろうとする時には、ゼクスが壁を悠々と乗り越え子供に歩み近寄っていた。

「逃がさんて言うたやろ。坊主、盗んだものは返してもらうで」

 尻餅をついた子供。傍に転がる盗品。それを見下ろすテンプル騎士。子供にとって絶対絶命の状態だが、彼は諦めが悪かった。いや、悪い意味で目的のために邁進しているのだ。

「あっ!?空に光るものが……あれはイリス様!」

「なんやて!?」

 思わずゼクスも子供の視線に合わせる。古典的な方法だったが、相手が騎士であり修道士でもあるテンプル騎士からすれば、それは効果があまりにも効き目があり過ぎた。子供からすれば、ほんの僅かな時間が欲しかった。その僅かな時間は、逃走する体勢と追跡者との距離を確保するのに充分である。身を低くして走る子供に視線を逸らされ、且つその姿を探す時間を要したゼクスは、この不意打ちによって追跡に失敗する可能性が高まった。ところが……。

「うわぁっ、離せよ」

 民間人の男性が、すれ違いざまに子供の首根っこを捕えるように片手でフードを掴み上げていたのである。盗品は敷石の地面へ落とし、中身が散乱していた。子供も激しく抵抗するが、男性はどこ吹く風。ゼクスが盗品を回収すると彼は手を離し、這う這うの体で逃げる子供の後ろ姿を二人で見送った。

「盗品を取り返せました。ご協力感謝します」

「いいってことさ、テンプル騎士さんよ」

 低い声で軽く受け答える男性はどこか謎めいており、敬礼をするゼクスに口角を薄ら上げて微笑んでいるようだった。それを見たゼクスが咄嗟に失礼のない程度の観察をする。

 年齢は五十代から六十代で、太陽に照らされると銀色に光る白い短髪に日焼けした浅黒い肌。顔は笑ってはいるがカミソリのように鋭い目をしており、冷々たるライトブルーの双眸は名状しがたい独特な光を放っている。特徴的なのは左頬で、爆弾が破裂したような痛々しい傷跡がある。スラリと痩せた体には季節にそぐわぬキャメルのトレンチコートを羽織り、更に真紅のスカーフを巻き、下衣は黒のパンツにショートブーツを身に着けている。右手にはステッキというよりは太い、木製のシンプルなじょうを持っている。頭髪の色が示す通り男性は北方人だと思われるが、夏の装いではないことを除いても到底ただの一般市民とは呼び難い人相で、しかも炎天下だというのに汗ひとつかかず涼しげですらある。その穏やかな雰囲気の中にまた言葉では言い表せない凄みがあって、すっかり萎縮してしまったゼクスはどんなやり取りをしようか対応に窮したが、男性は悠然とどこかへ歩き去っていった。

「ふー、怖かった~。なんか言われた訳ちゃうんに縮こまってもうたわ。蛇に睨まれた蛙とはこの事やな」

 ともあれ、盗品は取り返した。後はこれを持ち主に届けるだけだ。犯罪は完遂される直前で防がれたが、その元は断っていない。犯罪に走る子供たちを真っ当な道へと導かなければならないのは大人たちの仕事だが、その大人たちまで犯罪に手を染めている。今、ヴィリエはその未来が危ぶまれている。

 

 ゼクスがそのまま六番街の幹線通りをぶらぶらしていると、商店が営業時間となったのか少しずつ開店しているのが目に入る。流石にまだ踊りや音楽で祭りを楽しむ者は見られないが、人々の往来が増える時間帯になれば、またいつも以上の喧噪を見せることだろう。尚、感謝祭は十三日後にヴィリエを訪問するパトリーキィ枢機卿が閉会宣言をすることで、教会としての感謝祭は終了する。

「おーい、嬢ちゃん」

 ゼクスの感謝祭に対する記憶は、孤児院時代も訓練生時代も感謝祭の意味をよく理解せずに、大人が騒ぐのと一緒に自分たちも騒いだものしかない。また騒ぎに乗じて異性に告白しては振られ、同性には逆に告白されるという苦い記憶もある。それは勿論断ったが、その後気まづい関係が続いた。

「嬢ちゃーん」

 他には、タルとヴィクトリアの三人で祭りの見物をしていると身なりの良い中年の男が、金をやるからついて来い、などと声を掛けられた事もあった。あの時は面白がってついて行こうとするタルを無理矢理引っ張って逃げたものだが、もしついて行ったら何をされたか分かったものじゃない。

「おおーい、そこのテンプル騎士の嬢ちゃーん」

 ……反応したら負けだった。だが辻馬車を御する嗄れた声の人物は執拗に呼んでくる。仕方がなくゼクスはあまり良い印象を持っていないその人物に向き直った。

「お、やぁっと気付いてくれた。俺、俺、チャベスだよ。忘れちまったのか?」

 顎髭をにょきっと伸ばした、辻馬車の御者にして裏の情報屋チャベスが馬車を徐行させ、御者台から賎しい笑みを浮かべて手を振っていた。ゼクスと彼の関係はスェーミと九番街へ向かう時に一度会ったきりだが、その時の事が嫌な記憶しかないゼクスは露骨にげんなりした表情を浮かべる。しかしこんな事が出来るのは意図的であれ無意識であれ、チャベスという男がどこか憎めない人柄であるからに他ならず、この見えないマジックに感覚として気付いているゼクスはどうにも心を開ききれずイライラしてしまうのだった。そして力押しでは上手く躱されると分かっていながらも、自分が嬢ちゃんなどと呼ばれる覚えはない事を示すため毅然とチャベスに歩み寄ると、用件を尋ねた。

「安心しな。スェーミん所の子だ、手を出しゃあしないよ。まあ、なんだ。乗っけてやるから、ちょ~っと話をしていこうよ」

 あくまで女扱いというのが気に入らないけれど、スェーミの名を出すのならば信頼出来る。だがもしそれを裏切るようなら問答無用で斬りつけるつもりでゼクスが馬車に乗り込むと、二騎の事がちらつく中で少し躊躇したが、短く三番街へ、と頼んだ。

「あいよぉっ」

 チャベスが初めて会った時と同じように、威勢の良い声を挙げて馬車をUターンさせる。ここからだと、二騎までは二十分から三十分といったところか。馬車は早くもなく遅くもない速度で走行し、乗客に余計なストレスを与えない。ゼクスはどうやら信用しても良さそうだ、と少し安心した。

「それでおっちゃん、何の話するん?ふざけた話ならここで降ろさしてもらうで」

「ん?ええとな、実は俺の話を聞いてもらいたいんだ」

「おっちゃんの?」

「ああ」

 そうは言いながらチャベスは何故か語ろうとしなかった。それが長く続き、やがて五番街から四番街にさし掛かる。それでも彼は何も話そうとしない。これはゼクスにとって都合の良い状況かもしれないが、話を聞いてほしいと言いながら、あのお喋りな男が黙して語らずにいるのはひどく不自然だった。もしかするとこの男の心理作戦かもしれぬと警戒もしたが、ゼクスの性格上、とにかく話してくれないことにはこのまま目的地に到着しても降りる事は出来なかった。

「おっちゃん、話ってなに?黙っとったら分からへんで」

「え?うん、そうだな……」

 再び沈黙。だが今回はそれほど長くは続かず、ゆっくりとチャベスが語り出す。

「俺なぁ、今度すげえデカイ仕事を引き受けたんだ」

「へぇ、ええやん。どんな仕事?」

「そいつは言えないね。情報屋稼業は秘密も仕事に含まれてるからな」

「何それ?つまらないなぁ」

 チャベスの立場を考慮すれば確かに秘密にしないといけないが、わざわざ話を聞いてほしい、と乗車を誘ったのは彼の方からではないか。その内容を話せないとなれば、ゼクスからすればつまらないに決まっている。実際ゼクスは早く到着してほしいとばかりに視線を外に向けて不機嫌そうにしていた。チャベスはというと、機嫌を損ねたゼクスにフォローをすることはせず、ただ黙って御者台に座っているだけだった。そうこうしている内に三番街に到着してしまった。

 馬車は停車し、ゼクスが下りようとしてもチャベスはまだ何も言わない。それを見かねたゼクスは、

「何をするのかいっこも分からへんけど、まぁ頑張ってね」

 と、粗略ながらも一言残してドアを開けて下車する。すると馬車も走り出すが、その時にチャベスが言うのだった。

「嬢ちゃんと会えて良かった。おかげで緊張が解れたよ。スェーミの奴によろしくな」

 えっ、どういう意味?と言いたげな顔のゼクスに手を振りながらチャベスが去ってゆく。結局彼は何を思い、何を言いたかったのか判然としないまま、ゼクスは朝の三番街を歩いた。

 ………

 ……

「ただいま帰還しましたぁ……」

 午前十一時、結局ゼクスは憂鬱を抱えこっそり二騎に戻ってきた。

 鬼の副長とやらは流石にもう居るのだろうか?居る・居ないは別にしても、どうか自分の事は気にかけないで欲しい。放っておいて欲しい。そんな事を思いながら受付の横を通り抜けようとすると、てきぱきと受付業務をこなすローズに呼び止められた。

「あ、ゼクス君。伝言です」

「誰から?」

「副長からに決まってるじゃないですか」

「ええっ!?」

 瞠目するゼクスを無視しローズが淡々と説明する。彼女曰く、副長は自ら隊員たちと接し、ひとりひとりの人物像を把握しようとする。これは副長の務めのひとつで隊員の管理が由来しており、二騎では副長が名前を知らぬ隊員などいないとの事だった。したがって、副長が仕事の上で新人のゼクスと接触しようとするのはごく自然な流れであり、また隊員たちの任務を管理するのも副長であることから、今後いかなる理由を作ったとしても、近い将来、除隊しない限り副長からは逃れられないのは必定というもの。つまらぬ遁走劇を演じたものだ、とゼクスは自分が情けなくなったが、ローズはまだ言伝の内容すら伝えていない。彼女はエントランスの掛時計をちらりと見ると、短く言った。

「丁度三十分後に副長室へ来るように、とのことです」

「副長は、い、い、い、いつ戻ったの?」

「ゼクス君が出た直ぐ後です」

 もしかすると、副長を二、三時間ほど待たせているのかもしれない。そう思うゼクスの背中を不快な汗が伝った。

「め、め、め、命令かな?かな?」

「命令だと思います」

 緊張と焦りで吃るゼクスに、ローズが眼鏡のつるを触りながら事務的に返答する。それは見慣れた彼女の様子ではあったが、ここでは“副長対策”というひとつの仕事を放たらかしにして逃げた、指弾とも見て取れる。ゼクスはこれを敏感に感じ取るまでには至らなかったが、結果として、社会の仕組みからは自分の浅はかな考えや行動如きで免れることはできないことを実感として知ることとなった。

 それから三十分後の午前十一時半の少し前。ゼクスは支部にある食堂で小休憩をとると、三階の副長室の前へとやって来た。ローズから話を聞いた後で確認してみると、元々の任務であったデスクワークや副長から逃げる口実の警邏任務は全てキャンセルされ、本日の任務は終日空白になっていた。同僚によると、やはり副長の命令であるという。

 ……なんというか、強引だ。それも有無を言わさぬ雰囲気すら感じられる。確かに隊員の管理が務めなのだとしても、隊員だって各々任務があるのだし、命令で任務を中断させてまで自分の所へ来させる理由が果たしてあるのだろうか。ゼクスは副長の強引さに理解出来ず、ただただ首を傾げるしかなかった。また休憩中に聞いた同僚たちの話によれば、副長は訓練所を首席で卒業するほどの才媛であり、その優秀さからゼクスと同じように将来を嘱望され、現場の支部での勤務経験を経ずにそのまま本部勤務となった経歴を持つ。それが気に入らなかったのか、本人が現場での勤務を強く希望した結果、三年前にここ第二騎士隊に編入、僅か一年たらずで副長になったという。その副長は先月から教会の命令により本国へ向かい、内紛によってほぼ機能不全にまで陥ってしまっていた本国のテンプル騎士団を治めつつ、迫り来る怪物の群勢を殲滅するという危険で困難な任務を快刀乱麻を断つが如くこなした後、つい昨日まで帰還の途であるという事だった。任務の間のみとはいえ、本国のテンプル騎士団長代行を務めるほどの辣腕を振るい八面六臂の活躍をした副長を引き止めるために、教会は随分と説得を重ねたそうだが彼女は最後まで断り続け、ヴィリエでの勤務を臨んだという。

 優秀で強い意思を示す人物、それが二騎の副長。付け加えるならば、副長室に直接出頭を命じられるのは何か余程不味いことをやらかした時か緊急を要するための措置であるという。

 一体これから自分はどうなってしまうのか。ゼクスはずしりと重くのしかかる腹を引きずるようにしてやってきて、かれこれ五分ほど直立不動のままじっと副長室の前で佇んでいる。

 珍しく渋い顔をし心臓をどくどくと脈打たせ、薄ら発汗までして緊張する自分。馬鹿みたいだ、と己を罵るゼクスが時間になったのに気付く。

 コンコン。

 乾いた音が辺りにやたら大きく響く。隊員の往来が多いはずなのに、何故かこの時だけ誰一人としていなかった。

「どうぞ」

「(え……?)」

 返事は直ぐに返ってきたのでもう逃げられない。だがそれ以上に、ゼクスは今の声が気になった。確かに女性の声だったが、ゼクスが想像したような“おばはん”の声ではない。

「失礼します」

 ドアを引き副長室に入室する。入って直ぐ手前にある茶色のソファーとテーブルの応接セットが最初に目に入り、次にその奥にある家紋のような紋様が刻まれた立派な机に座り、書き物をする人影。窓には霞のようなレースカーテンが引かれており、丁度日差しが入る時間帯なのか、室内が眩しく感じる。そのため、その人物……恐らく副長をはっきりと見ることが出来なかった。

「は、初めまして……ふっ、ふっ、副長殿。騎士ゼクス、ただ今参りました」

 ドアを閉めると一歩、二歩と前に出て敬礼する。何を言われるのか分からないからには、こういう作法はしっかりした方が良い……そういう打算的な理由を抱いての事だったが、眩しさに目が慣れると、次第に机に向かう人物が明瞭に捉えることが出来るようになってきた。

 副長は紛れもなく女性。しかしその声が示すように彼女は年齢を重ねた人物ではなくゼクスよりやや歳上というだけの、芳紀まさに二十四、五といった佳人であった。

「お務めご苦労さまです。それに初めまして。私が二騎の副長を預かっている――」

 副長は敬礼をするゼクスへ目を向けず少しうつむき加減で羽根ペンを走らせたまま、“リタ”と名乗った。リタは白皙でゼクスと同じ鮮やかな金色の頭髪をしており、頬骨が隠れるほど長い前髪を左右に分け、後ろ髪をすっきりまとめ上げてポニーテールにしている。そんな彼女から受ける印象は凜然の一言で、今は交差した二つの剣とエーデルワイスの花を模したという銀色の副長章を佩用した内勤用のジャケット姿だった。どうも書き物の最中だったらしく、少々待つようにゼクスへ命じると、それっきり黙って仕事を再開した。無言の重い沈黙がいつまで続くのかと思いきや一分も経たずに仕上げたようで、ペンを置き書類をまとめると、ここでやっとリタが顔を上げた。

「お待たせ。君に聞きたいことが――」

 ところがそう言いかけると、彼女は視線を一直線にゼクスへと向けたまま、ぴたりと静止した。

「え……あっ……」

 リタが片手で頭を抱え、宙を見詰める。苦悶の表情ではなかったが、やはり何か幻でも見ているかのような、輝きを失った虚ろな目をしている。

「あの、副長殿。大丈夫ですか?」

 ゼクスに言われて我に返ったのか、目に意志の光を取り戻したリタはごめんなさい、なんでもないから、と答えると、ソファーへの着席を促した。促されたゼクスは入室して一番最初に目に付いた、応接セットの茶色い光沢のあるソファーに座る。

 背筋をピンと伸ばしリタを待つが、緊張と不安を払拭するために、ゼクスはあまりキョロキョロしないよう部屋の中を観察した。部屋から入って右手にはアンティーク調のポールハンガー、それと観葉植物。左手にはシェルフが置かれているが、あまりモノが置かれていない。少し落ち着いて気付いたが、女性の嗜みである香水、お香、洗髪剤の類といった男がありがちに連想する甘い香りがしない。今度はソファーとソファーの間にあるテーブルに視線を移す。テーブルには白いレースのクロスが敷かれており、そこにはペン立てにメモ用紙が置かれているだけで、特に気になるものは見当たらない。照明は天井にあるシャンデリア型の発光器がその役目を負うのだろう。発光器とはドルテクノロジーによって生み出されたものの一つで、燃料を投じて室内を明るくさせる照明装置をいう。用途によって大きさやデザインなどが異なり、冷却装置ほどではないものの一般の平民たちにはあまり流通していない。また燃料はドルトル粉に更に別の物質を加えて粒状に加工されたもの。これに熱を加えると気体化し発光器が明るく光るという、街灯と同じ仕組みだ。

 他に目に付くものはリタが座っている机の横、つまり部屋の隅に、木製で飾り気の無いクローゼットがある。そこにはきっと彼女の着替えが……。副長室は細かなところに女性的な雰囲気を感じるものの、基本的にはシンプルで小綺麗な、執務室と呼ぶに相応しい部屋だった。

 ゼクスが室内を観察しているとリタがふぅ、と軽く息を吐き椅子から立ち上がる。そして女性のテンプル騎士へ支給されるブーツの靴音を響かせながら、今度はゼクスの前にあるソファーに座った。

「仕事にはもう慣れた?」

 リタが微笑みを湛えて尋ねる。

 テンプル騎士として正式に採用されて日が浅い上、塞ぎ込んでいた時を考えるとまともに勤務した日数は一週間にも満たない。慣れる慣れない以前の話だが、こうして純一無雑なライトブルーの瞳を微笑みと共に向けられると、くそ真面目に正確な事を伝えなくても良いではないか、とゼクスは思う。

「は、は、はひ」

「そう。頑張ってね、期待のルーキーくん」

 ……彼女はきっと自分の勤務状況を把握しており、その上での質問なのだろう。そして自分の返答を聞き微笑みを絶やすことなくそう述べた言葉から、どうやら自分の返答に満足しているように思える……。

 ゼクスはそのように解釈すると、少しほっとした。だがそれもほんの束の間、リタは真顔に戻ると今度は次のような質問をした。

「ときにゼクスくん、今日ここに呼んだのは君とお話して君自身の事を色々聞かせてほしいからなんだけれど、他にも君とコンビを組んでいるスェーミについても聞きたいことがあるの。ここ数日、彼の消息が全く掴めていない状況でね。何か知っている事があったら教えてくれない?」

 隊員の管理、それに任務の管理が彼女の務めなら、いくら秘密主義のスェーミといえど、例に漏れずその所在と任務の状況を知ろうとするのは当然のこと。この時ゼクスは、リタが自分の任務を消去してでも副長室へ来させた理由が分かった気がした。

「いいえ、スェーミさんとはここ数日会うてなくて」

「どうして?君たちはコンビでしょ?」

 “どうして?僕たちはコンビやないですか!”

 四日前、雨が降る公園墓地でゼクス自身が言った言葉が符合し頭を掠める。あの時、スェーミはどうして自分を連れて行かなかったのか?彼が行方知れずになったのと何か関係があるのだろうか?

 ……分からない。ただ自分の決意以上に彼の決意は固く、それにきっと、彼がこれからしようとしている事の方が事件解決において重要度が高いのだ。そうなると、新人で未熟な自分は邪魔に違いない……。

 ゼクスは決して事件に携わることを諦めたわけではないが、時が経つ内に四日前の出来事をそのように自己解決していた。しかしどうしてか、記憶を反芻する度に目は潤み声がひび割れる。

「す、スェーミさんと別行動なのは、あ、あの人の指示ですから」

 リタはゼクスの返答を聞くと、顎に手を当てて質問を続けた。

「あいつは何かをするとか、何処かへ行くとか言ってた?」

「い、いいえ。で、でも……きゅ、九番街の事件を追っているのは間違いないと思います」

「“九番街の事件”って、もしかしてあの穴ぼこだらけで訳の分からないやつ……?」

 リタがぶつぶつ言いながらまた席を立ち、机からいくつか書類を手に取って戻ると、それをテーブルの上に並べた。見出しには“九番街連続殺人事件初動捜査資料”、“九番街連続殺人事件最終報告書”などとあって、それを見たゼクスは思わず言葉を失う。二騎は、あの凄惨な事件がおそらくヴィクトリアの死によって解決したと考えているのだ。ゼクスにとってこの決定は断固として容認出来ぬもので、悔しさのあまり拳を握り締めた。

「ゼクスくんはこの事件を今もスェーミが捜査していると言いたいんだね?」

 涙を溜めてゼクスが頷く。リタはその様子をちらりと見たあと、更に会話を進めた。

「でも解散した捜査隊が作ったこの最終報告書によれば、事件は解決したことになっているけど?」

「か、解決は……ま、ま、まだしていませんっ」

 スェーミから伝えられた、バー“クラゲの海”のマスターの死をゼクスが思い出す。事件の犯人は、類似する状況から察するにヴィクトリアだけではない。リタはまだ資料の内容だけしか事件を把握していないのだ。しかし、今のゼクスではそれを説明することが難しかった。

「どうして?」

「そ、そ、それは……」

 ゼクスが鼻をぐずぐずとさせ涙ぐむ。

 実践任務考査が終わってから色々あった。そう、本当に色々あった。それは人が生きてゆく上で起こりうる不運と簡単に片付けられるが、それでも悲しかった。ただただ悲しかった。この事件は終わっていないのに世間は終わったと認識されている事実、恐らくその事を知りつつも尚事件の捜査を続けるスェーミに、協力したいと申し出ればそれを却下された、やるせない想い。確かに自分は未熟かもしれないが、本当に何も頼りに出来ないほど未熟なのだろうか。

 他にもまだある。ヴィクトリアが事に及んだ原因を何も知ることが出来ずにのうのうと毎日を過ごす虚しさ、それにこんな事をしてはいられないと身を焦がす思いは?そのような葛藤にゼクスは今、苦しめられている。

 リタはそんなゼクスの様子をただじっと見つめていたが、ふとソファーから立ちあがるとシェルフへ向かい、そこに置かれているフルーツスタンドに寂しく一個だけあった熟れたりんごを手に取ると、他に果物ナイフ、フォーク、純白の皿を伴って再びソファーに戻る。そして果物ナイフで器用にりんごの皮を剥き始めた。やがて実が露わになると今度は口にしやすいよう切り分け、不要な部分を切り取る。こうして皿に盛られたりんごをゼクスの前に置くと、リタが食べてごらん、と勧めた。ゼクスは言われるままにりんごをフォークに刺しひとくち噛じると、咀嚼する度にしゃりしゃりと心地好い食感が得られ、次にりんごの甘い果汁が口の中に広がってゆく。すると不思議な事に、彼に覆い被さっていた濡羽色の靄が、口に広がる黄金の蜜によって洗い流され、最後にはゼクス自身が残った。そうして豁然と開いた視界からは、リタの出頭命令に応じ質疑の最中泣き出してしまうという、己の見苦しい現状が良く分かるのだった。

「副長殿、すみません、ほ、ほ、本当に」

「気にしないで。それにしてもゼクスくんは私が知っている以上にこの事件について知っている事があるみたいだね?」

 そう言うリタの声色は優しかった。そこで耐え難い慚愧にゼクスはついぽろりと落涙してしまったが、リタは顎に手を当てたまま本当に気にしていない様子で、報告書には挙げられていない内容の説明を待っているようだった。それを見たゼクスは気を確かに持ち、九番街連続殺人事件の被害者とされる五人目以降の、スェーミから聞かされた六人目、七人目の被害者についてリタに説明した。

 六人目はバー“クラゲの海”のマスター。彼は自宅と兼ねている一階のバーで変死体となって発見された。これはスェーミが話していたように、確かに情報統制されているらしく一般には知れ渡っていない。恐らく死体発見者やそれに立ち会った者の周囲のみで、どうにかして内々に上手く処理され、九番街の事件とは関係ないものとされてしまったのだろう。また七人目の被害者は未だ身元不明であることから物乞いや浮浪者などではないかとされており、これは民間にも情報が行き渡り、九番街の事件を彷彿とさせるものとして新聞に報道された。これらについて本国から帰って来たばかりのリタがまだ知らないのは仕方がないのかもしれない。両件ともゼクスがスェーミと再開する二、三日前、つまり今から一週間近く前の出来事だからだ。

「そうか……なるほど……ということは……」

 ゼクスの話を聞いてリタはソファーから立ち上がり、顎に手を当てて室内を歩き周りながら何か考え事をしているようだったが、それが済むと、次にスェーミが事件について他に何か述べていなかったかを尋ねた。

 それに答えるために、ゼクスはなるべく考えないようにしていたあのおとり捜査が行われた日のことを、その優れた記憶力を映像にして、それもまるでリタが映像の中に入り込んだかのような精度で再現する。これは彼に具わる特殊能力のようなもので、当然だが記憶の中の人物たち、それにリタはお互いを知覚しておらず、通行人が歩いてぶつかりそうになっても映像に入り込んだリタを透過していった。

 映像は夕刻前の午後、二日酔いの状態で女子寮の管理人刀自と出会ったところから始まる。それから二騎でスェーミと再会したシーン、二人で街へ繰り出しチャベスの馬車に乗るシーン、閑散とした九番街を海運局へ向けて歩くシーン、捜査本部でヨアヒムと局次長が言い争っていたシーンへと移り変わると、ここでリタが口を挟んだ。

「ちょっと待って。ヨアヒムが……いえ、衛兵隊は局が捜査指揮を執ってるの?」

 最終報告書にはおとり捜査を衛兵隊と合同で行ったことが記載されているはずだ。ゼクスは少し変に思ったがその通りだと答えると、リタは分かった、とだけ答えて続きを促した。

 それからいよいよおとり捜査の夜のシーンになる。臭くて汚いボロボロの服を着て変装した自分。同じような格好になって海運局の前で蒸し暑さに耐えながら、真っ黒な夜の海へ仏頂面を向けるスェーミ。あの時彼は五夜連続、それも同様の手法でもって五人が殺害される事に疑問を呈し、犯人は“何も知らない蜥蜴の尻尾”と述べていた。それを聞くとリタが腕を組み顎に手を当てて、淡いピンク色の唇をきゅっと結ぶ。ゼクスは沈思黙考の邪魔をしてはならないと思い待つことにしたが、彼女は直ぐにスェーミの意味不明な言葉に対して解を出したらしく、滔々と語り出した。

「“何も知らない”っていうのはおそらくそのままの意味で、五人を殺害した実行犯は何も知らないまま吸血をして、その後死体を食したんだと思う。“蜥蜴の尻尾”は組織犯罪を示唆していて、仮に実行犯が死亡したり逮捕されたりして失っても、変わりはいくらでもいるって意味かな。おそらくスェーミはかなり早い段階で事件の組織性に気付いていて、しかも死体の猟奇性や何らかの証拠から、邪教の存在も考えにあったのかもね」

 あの夜スェーミとの会話で、犯人と事件の組織性に少し触れていたのでゼクスとしてもそれは留意していたが、そういえばスェーミは、ヴィクトリアの亡骸を仰臥させ衣服を切り取り、まるでそこにあるのを知っていたかのように邪教のシンボルマークを見せていた。寡黙な彼がどのような思考を経て邪教という結論に達したのか今となっては搔い暮れ知れぬところだが、彼は誰よりも早く先に真実へ向かっていたのだ。

 スェーミが残す謎めいた発言で他には、“意味が無いようで意味がある事象”、それに“先入観を捨てろ”がある。

「それってつまり、一見意味が無さそうな事でも実は意味があるって言いたくて、それには先入観を捨てろって言いたいのかな、あいつは」

 流石のリタもこれには首を捻り、またまたソファーから立ち上がって室内を歩き回りながら思案する。ゼクスもスェーミがそう述べていた前後の会話を知るため、記憶の映像を早送りと巻き戻しを繰り返す。確かあの時は……。

「ゼクスくん、君に聞きたいのだけれど、例えばこの事件で先入観を持ちそうだとしたらどの部分だと思う?」

 それは被害者だ、とゼクスが即答する。彼らが発見された状態は似ているが、死因は一致していなかったのだ。リタはこれを聞くと大きく頷いた。

「そう、他の四人は吸血されて殺害されたのに、最初の被害者の漁夫に関しては吸血された痕跡が無い。これは様々なことが考えられるけど、本件の場合は犯人が二人以上いる可能性があって、実際にヴィクトリアの解剖で人肉を噛み切るような牙等が発見されなかったことを考えると、まず間違いなくそうなのでしょう」

 九番街連続殺人事件だけで既に七人が殺されているのだ、“何も知らない蜥蜴の尻尾”という表現は確かに言い当てている。だがスェーミが伝えようとしていることはこれだけではないはずだ。

「副長は密室の件についてどう思いますか」

「密室?そんなのあったっけ?」

 キョトンとするリタに、少し熱くなってゼクスが言う。

「最初の漁夫は出入口が施錠された状態で発見されたやないですか。確かにめっちゃ高い天井付近には窓があって、そこは開放しとったけど……。でもその付近から血痕が発見されたんですよ?これは犯人があの高いとこにある窓から出入りした証拠とちがいますか?」

 更に辺りには地上四階建てほどの高さにある窓を出入りするような道具は発見されなかったことをゼクスが付け加えると、リタはスェーミが言っていた“先入観を捨てろ”という言葉に触れて、次のように話して聞かせた。

「こういう言い方をしてしまうと不謹慎ではあるけれど、事件というのはそれぞれの物語があって、私たち人間が計り知れないような偶然が重なってとんでもない事実が出来上がる時がある。けれどもまず一番の前提として、私たちはテンプル騎士であるということを忘れてはいけない。テンプル騎士はイリス教の教義に殉じ、聖イリス教会の命により武と魔導で以て戦う専門家なのよ。立場上憶測を安易に言えないけれど、本件の殺害現場で密室と呼べる場所は無いと思う」

 しかし衛兵隊は密室であるとしており、何者かによる犯行とみている。ゼクスは六人目の犠牲者であるバー・クラゲの海のマスターも密室のような場所で殺害されていたと考えているので、あくまで自分の考えは変わらないでいたが、リタの戒飭によって揺らぎつつある。では犯人は、古に廃れてしまったとされる飛行魔法等で、最初の漁夫は地上四階建ての高さもある窓から、マスターは二階の窓から侵入し事に及んだというのだろうか?

 目尻に涙を溜めたままゼクスがそう思考に耽っていると、リタが話のまとめとして、九番街連続殺人事件についての私見を述べ始めた。

 曰く、遡ること二百年前、島嶼地域である南方の地は、人類にとって生活を営みながらも怪物との交戦が行われる係争地だった。だが本国の軍が敗走をしてからは現地の人々は怪物に蹂躙され続け、イリス教の文明は灰燼に帰し、殆どの南方人は邪教徒、即ち人の姿をした人に非ざる者たちとなってしまった。そして今からおよそ五十年前、体勢を立て直した本国の軍と教会のテンプル騎士団が同盟を結ぶと、連合軍となって南方の地へ再び遠征し、元の土地の三割程を奪還・浄化したという歴史を持つ。その上で、連合軍は南方人が流出しないために堅固な海上封鎖を展開しており、それが現在も継続中であることから、南方の邪教をヴィリエに伝えるのは困難であるとみている。だがヴィクトリアの紅い瞳、それにシンボルマークである邪教の刺青は魔に堕ちた南方人の特徴と似ていること、それに彼女の周囲から邪教の証拠が多く見つかったとなれば、間違いなくヴィリエに南方の邪教徒が流入しており、今も増え続けているはず。

「残念だけれど、君の幼馴染は……」

 その犠牲者であり邪教徒であることに間違いない――リタの言葉をそう予測したゼクスは、大丈夫です、と言って続きを促した。

 曰く、南方の邪教徒はいわば怪物たちの先兵であるためどのような姦計が張られているのか知れず、したがって自分としては、スェーミが事件の捜査からゼクスを外すのは大いに理解を示すもので、的確な判断だと思っている。しかし本件は報告書からでは説明のつかないような問題(例えばヴィクトリアの解剖では人肉を噛み切るような歯牙が発見されていないのに彼女が行った異常行為の一つであるとした)がある上に、その後に更に同様の手口と思われる二人の犠牲者を出している。これらの事から九番街連続殺人事件はまだ解決していないと自分は考えている。次に行方不明となっており現在も本件の捜査をしている可能性が強いスェーミについて。本件は不可解な情報統制や欠陥のある報告書などから、何者かによって意図的に隠蔽しようとする動きがあるように思える。そんな中で、彼がどれほど真相を掴めているのか分からないが、いかに彼が豊富な経験を持っていようと本件の単独捜査はあまりに危険である。

 結論として、スェーミと合流するためにも、事件の解決をするためにも、本件の捜査を改めて行う必要がある。そこで自分も捜査に乗り出そうと思っているが、それには“優秀な人材”を一人同行させたい。

 ……ゼクスが涙を拭い、リタに向き直る。

「ゼクスくん、私と行こう。うん、それしかない」

「えっ、僕がですか」

「危険には違いないけれど、私と一緒なら大丈夫。それに私と同行する隊員は君が一番の適任者だと考えてる」

 そう言って大きく頷くリタだが、当の本人はなんとも煮え切らない懸念を述べる。

「でもスェーミさんは言うことを聞け、と……」

 公園墓地でスェーミと別れる時、捜査から外されたゼクスは、本件に対し固い決意を胸にした。だが今こうして目の前にチャンスが転がっていてそれを掴めることが出来るとなると、今度はスェーミに厳しく叱責されるのではないかと恐れを抱いてしまう。そうすると、公園墓地での決意は昂った感情がさせる一時のものだったのかと、自分自身に対する失意がよぎり彼の心を再び靉靆させるのだが、リタはそんなゼクスの心中を慮ってか、ゼクスをしっかりと見据えて次のように言った。

 曰く、スェーミに何を言われたのか何となく察せるが、彼のことは一切気にしなくてよい。今の君に必要なのは自信を取り戻し、本来の力を出せる状態になることだからだ。それには捜査に携わりながら事件の真相を知り解決する必要があるのであって、スェーミに言われたことを忠実にこなすことは全くの逆効果である。

 それでも眉を曇らせたままのゼクスに、リタが更に言い添える。

 曰く、スェーミは自分に文句を言えない。ああいう男だが、なんやかんやと悪態をつきながらも指示には従う。だからもし本件に関わって彼が君を厳しく叱責しようものなら、捜査の参加は自分の命令によるものだ、と名を出して構わない。そうすることで彼は閉口せざるを得なくなるだろう。

 ……ここまで聞いてゼクスは、あのハードボイルドなスェーミにアグレッシヴで烈婦たるリタがものを言う様子を想像した。

「ほ、本当に名前を出して良いのですか、副長殿」

 実際は名前を出すつもりなどないが、本当にいざという時は出してしまうかもしれない。ゼクスはそう思ってリタに尋ねるが、これまで凜然と話していた彼女が今度は腕を組み視線を右下に向けて、何かを思い出しているのだろう、過去の出来事に対して憎ったらしそうにしながらゼクスの質問に答えた。

「当然でしょ?私の命令でゼクスくんは動くようなものなんだから。まぁ私の注意は聞こうとしないみたいだけどね、あいつ。さっき見たけど机を全然片づけてないし、私の注意書きも外してるし」

 スェーミが使っていた机は今、ゼクスが使っている。

 流石の彼女もその事を知らないらしくぷりぷりと憤慨しており、ここでゼクスは改めて“副長対策”を怠ったことの不味さを知ることとなった。おそらくだが、スェーミが注意書きを外さずそのままにしていたのは“貴女の注意を聞き努力しています”というひとつのポーズであり、意図的だったのだ。それを邪魔だから、という理由で処分したゼクスの背中にまた嫌な汗が伝う。そうなると涙もすっかり止まっていた。

「まぁ、あいつの事は気にしないで……どうかな?私と一緒、つまりコンビを組まない?」 

 やっと微笑むリタの言葉を聞き、ゼクスは改めて決意する。副長という強力な力を得るのは事件の捜査をするきっかけを得るのと同時に、真相を知る絶好の機会だからだ。

 そうだ。もう迷うことはない。副長と共に九番街連続殺人事件を解決し、そしてヴィクトリアが何故事に及んだのかを知るのだ。

 ゼクスはソファーから立ち上がり、大きくガッツポーズをした。

「もちろん!よぉし、見てろ犯人め、必ず捕らえてぐうの音も出えへんようにしたるわ!」

 リタはその様子を満足そうに見ており、ゼクスがソファーに着席したところを見計らうと、次は事件について話を始めた。

「ゼクスくん、よく聞いて。九番街の事件が起きる前、今から二ヶ月くらい前のことなんだけれど、関連しているかもしれない様々な出来事があったのね。その内の一つで街の人たちが次々と失踪するなんて事があって、これは現在も継続中。それで衛兵隊もテンプル騎士団も表立って捜査を開始しない内に、本件と同様の全身を抉られたように食害を受けた変死体がラシェル銀行の裏通りで発見された」

 ゼクスはリタから得られた新たな情報を整理するため、順番に、まず失踪者について思いを巡らせた。これに似た話を実は彼も耳にしており、訓練所を卒業する直前に仲間から街の人が消える、という触れ込みで知った。これは新聞にも掲載されたらしい。次にラシェル銀行の裏通りで発見された変死体について。朝に子供の盗賊を追った時、確かラシェル銀行の六番街支店、それも裏通りを走った。場所が一致しているかもしれないと思うとゼクスはぞーっと身震いをするが、この件は世間に公表されなかったので彼が知らないのも無理はない。捜査当局の対応はどういう訳か行き倒れの死体が犬猫に食われた……などと事件性を問うことなく、杜撰で不可解な処理をされたらしい。九番街の事件と類似する出来事は、もっと前から起きていたのだ……!

 リタの話す、関連がしているかもしれない様々な出来事というのはこの二件だけではない。この後、教会と衛兵隊に、なんと“犯行声明文”らしき文書が送付されたというのだ。

「ど、ど、ど、どんな内容なんですか、は、は、犯行声明文って」

 興奮するゼクスとは反対に、リタは至って冷静に、どこかつまらなそうにすら感じるほど無感動に答える。

「確か教会に送付されたのは祓魔神官宛みたいで、衛兵隊は本国の軍宛だったと思う。送り主は前二つの件は自分がやった、と確かに紙面で述べていたね」

 犯行声明文。この人を惹きつける存在を知ったゼクスは震天駭地の心境ですらあったが、残念ながら差出人は勿論のこと、内容も目的も意味不明で捜査当局はまるで相手にしなかったらしい。当然公表もされなかった。

 ところで失踪者数は現在何名にのぼるのかというと、一般市民や巡回中だった衛兵隊員もいなくなっているが、主に物乞い等の路上生活者が中心となっている関係上、正確な人数が分かっていない。ただ、およそ四十名から五十名だとされている。これは明らかに異常な数だし、今も失踪者が出ているところを考慮すると、失踪者の意思とは別の、自分たちが認知していない何らかの動き、つまり組織的なものが関与していると思われる。

 そのように今も継続中の失踪者についてリタがコメントすると、次に捜査当局について話を転じさせた。

「ではどうして失踪者や見つかった変死体について表立った捜査をしなかったのか?それはテンプル騎士団も衛兵隊も上長の命令によるものなんだけれど――」

「副長殿、話の途中申し訳ないのですが、上長って本部長の事ですよね。本部長は一体何と言っているのですか」

 衛兵隊はともかく、テンプル騎士団はどうして捜査をしないのか。単にイリス教徒が教会に捜査の請願をしなかったというのなら分からなくもないが、それでも教会はテンプル騎士団に重要案件へ対しての自発的な対応を認めているのだ。これは話を進めてゆく中でゼクスが抱いた違和感のひとつだった。そしてその違和感はリタの話によって本部長にある事が分かった。

 本部長はどうして捜査をしないように命令したのだろうか?ゼクスはリタの返答が納得のいくものであることに期待した。

「やっぱり気になる?本部長はね、“衛兵隊が捜査をするから手を出すな”と言った。でもその衛兵隊は“テンプル騎士団が捜査をするから手を出すな”と局次長に言われたらしくてね」

「え?それじゃあ誰が捜査をするんですか?」

 両者の上長命令によって起きたこの趣旨不明の空白に、ゼクスが改めて問う。

「そう、だからこの命令にはおそらく何者かの策謀が関与してるんじゃないかって私は考えてる。その候補の一人として“貧民街のあの男”が挙げられるんだけれど、誰だか分かる?」

 腕を組み険しい表情をしたリタに問われてゼクスが最初に思い付く男。その名は……。

「もしかして“エミリアーノ・ポリシオ”っちゅう人の事ですか?なんでも貧民街のめっちゃヤバい人て聞いたことが……」

「正解。まあ有名人だから知ってるよね」

 情報源は訓練所の教官をはじめ、彼を取り巻く仲間たち。このようにエミリアーノ・ポリシオという人物はヴィリエの人々に海千山千の端倪すべからざるしたたか者として広く認識されている。ただそれはあくまで貧民街の中での話であって、ヴィリエの街中で起きた出来事に関わっていようとは通常誰も考えはしまい。だが実際にその子分たちが寝静まった夜のヴィリエを徘徊し、人を攫う姿が目撃されているのだという。

 ……失踪者はエミリアーノ・ポリシオの配下にある者たちによって攫われた。目撃情報がある以上、そう考えて良いだろう。そして二人の上長命令によりヴィリエの捜査当局が機能不全になってしまったのもエミリアーノ・ポリシオが一因している……?

 確かにそうなのかもしれないが、この話に筋道を通すにはまだ何かが足りない。ゼクスはまた新たな違和感を覚えながらリタの話を聞いた。

「上長命令により私たちは何も出来ない。そこでこれらの出来事の捜査を私たちテンプル騎士団や衛兵隊がするのではなく、祓魔神官がする事になった。でもその祓魔神官までいなくなってしまったのはもっとヤバい事だと思わない?これも九番街の事件の前に起きた出来事の一つで、今から一か月半ほど前の事だね」

 リタの話によれば、捜査に乗り出した祓魔神官は二名。彼女たちは捜査を開始した翌日に姿を消した。このように唐突に祓魔神官が姿を消すのは教会にとって由々しき事態であり、焦った教会はテンプル騎士団に精鋭を編成させ捜索にあたらせた。だが彼女たちを発見することは今も尚出来ていない。

 ここでリタは失踪者・犯行声明文・ラシェル銀行の裏路地で見つかった変死体の件を併せて『A』、祓魔神官二名が失踪した件を『B』、九番街連続殺人事件を『C』と分割して類推するに、これら三者は全て関連があるのものとして考えられる、と主張した。また共通して関連する事柄の一つとしてエミリアーノ・ポリシオの暗躍が挙げられるが、彼は邪教と関わり合いがあるかもしれない。何故なら『C』の特徴は邪教徒による事件だからだ。となると、他の『A』『B』も邪教絡みと考えることが出来る。

 ここでゼクスが、違和感とはまた別の、先程から感じている疑問を投げかける。

「しかし……副長殿が『A』や『B』の事情に明るいのはなんでですか?」

「それはね、私も捜査に加わっていたから」

 リタは任務のため本国へ向かう前に、十日ほど祓魔神官の捜索を行った。捜索は三名一組になり数班に分かれて行われ、その範囲はヴィリエ全域は勿論、交易のある集落とその周辺の土地までに及び、貧民街も含まれたという。これは世間には勿論、身内にも公表されなかったごく一部の者のみが知る重大案件である。

 それにしても若い女性で構成されているという、一介のテンプル騎士からすれば雲の上にいるような存在の祓魔神官に一体何があったのか。ゼクスは『A』『B』『C』の中でもとりわけ濃霧に包まれて分からないことだらけの『B』という出来事に、何か説明のつかない胸騒ぎがした。なので、出来れば捜査状況の文書を閲覧したかったのだが、リタは柳眉を寄せて次のように言った。

「祓魔神官捜索についての資料は本部にあって遠いし、しかも禁帯出なんだよね。けれど大丈夫、内容は全部頭に入っているから」

 言い終えると今度はにこりとはにかんで人差し指を自分のこめかみに当てる。ゼクスはそんなリタを眩しそうに見ていたが、同時にふと訓練生時代の出来事を、先程のように映像化して思い出していた。

 映像の中の彼自身は居眠りをしている隣の席の男子訓練生を尻目に、檀上に立つ老教官が詰まらぬ講釈を垂れているのを頬杖をついて聞いている。その様子を俯瞰視点で想起する形だ。この時老教官はこめかみに人差し指を当てながら、人の記憶や畢生を図書館に例えた。棄てるべき物語、残すべき物語、そしてこれから出会うであろう物語。それらはあまりにたくさんあって一度きりの命では読み切れないから、選ぶ必要がある。その選択の結果こそが人間ひとりひとりの本質を語ってくれるのだと。自分の物語は細く長く、それにもう間もなく最終ページを迎えつつあることは確かだが、君たちはまだまだ先が長い。これからは良いものだけを選ぶことだ、とも話していた。

 あの時は何を老いぼれが、とまともに耳を傾けることはなかったが、リタと老教官の姿を重ねる事で、図書館の例えがただの妄言ではなさそうだ、とゼクスの考えを改めさせた。しかしゼクスは思うのである。恐らく、我々は図書館ほど多くの選択肢を持ち合わせていないのではなかろうかと。人によっては、たったひとつの物語を読み進めるだけかも知れないのではなかろうかとも。だがそれで人の善し悪しを決めるべきではない。仮に自分が図書館でたったひとつの物語しか選べなかったとする。そこで目の前にいるリタとの出会いがその物語の内の出来事であるなら、自分の心は果たしてどのような感想を抱くだろうか……?

「了解。副長殿、色々聞くので教えてくださいね」

「うん、何でも教えてあげる」

 姉弟のように微笑み合う二人。リタの記憶力がどれほどのものか出会ったばかりのゼクスには知る術はないが、彼女の一言一句全てに確信じみたものを感じられた。

 閑話休題、元帰正伝。

『B』の件については後で聞くことにして、これからの捜査方針はコンビの相方でイニシアチヴを取るリタに一任する。ゼクスはそう心に決めると、大先輩のスェーミと比べるような目で彼女の出方を待つことにした。そのリタは話がひと段落したところで、ちょっと待っててね、と言ってソファーからやおら立ち上がり、クローゼットへ向かうと両開きの扉を開く。そこで着ていた内勤用のジャケットを取り半袖ブラウス型の戦闘服姿になると、装備を整え始めた。

 リタの装備はヴィリエに常駐する一般的なテンプル騎士の制式装備とだいぶ違う。戦闘服の上着は通常ならローブだが、彼女の場合はミドル丈のケープコートで、正面から見るとダブルブレストになっていた。染色はローブ同様に紺色を基調とし、それを荊の金襴生地で縁取り、縫いしろを朱色に染めあげ、背面には聖イリス教会の紋様が朱色で刺繍されていた。最も特徴的なのは帯剣している剣だ。剣を収めるホルダーが彼女の場合両腿にひとつずつ計二つあり、そこに一本ずつ剣が収められている。通常、洗礼の剣の柄は天使の両翼を模された意匠をしているが、彼女のものは片翼で、二本一組という意を示してのことなのだろう。

 ゼクスがじっと見ているのに気付いたのか、装備を終えたリタがふと向き直る。そして、

「似合う?」

 ……と、腰に手を当ててポーズを取った。ここでケープコートの裾に隠れて見えなかった、黒いオープンフィンガーグローブとアームカバーが一体になった装備に包まれている、彼女の腕が露わになる。

「は、はひ。似合ってます、副長殿」

 しまった、と赤面しながらゼクスが顔を反らす。リタはその様子を見て白い歯をこぼし、ひとつ提案をした。

「“副長殿”って、気持ちは有難いんだけれどなんか堅くない?折角コンビを組んだことだし、いっそ“副長”と呼んでみたら?」

「(それ、ただ敬称を省いただけやん……)」

 ゼクスはそう指摘したかったが、副長御身自らの配慮は痛み入るもので、彼女との任務を円滑に進めるためにもここは素直に了解することにした。

「副長、これからどないします?」

 気不味い思いを払拭するべく可能な限り自然を装ったゼクスの問いに、装備を整えて机の前に立つリタが顎に手を当てて、カーテンより向こうの景色を眺めながら言う。

「ポリシオに直接話を聞ければ早いんだけどそれはとても危険だし、そもそも上長命令で私たちはこれらの件を捜査をすることが出来ない……」

「上長命令ですか……」

 ゼクスはこの命令というものを人生で初めて煩わしく思った。煩わしく思うのはリタも同様だったようで、彼女が言い加える。

「勿論私が捜査に乗り出すからには命令違反は覚悟の上でだけどね。それでゼクスくん、これからなんだけれど、私は貧民街に行ってみようと思う。ポリシオ本人でなくとも、その息がかかった奴に話を聞くならあるいは……」

「あ、はい。貧民街でっか………え!?」

 目を丸くして驚くゼクスを気にせず、思案顔のリタがもう一度伝える。

「そう。あそこにはシンジケートが形成されていてね。おそらくそのボスがポリシオなんでしょう。そしてその部下を叩けば情報を引き出せるかも」

 そう言ってリタがぎゅっと拳を握り締める。

 意気込む彼女によれば祓魔神官捜索の際、別件のある犯罪の容疑者で、貧民街のシンジケートに関りを持っている人物が何名か浮かび上がった。彼らはいずれも証拠不十分ということでそれ以上の捜査・追及はされなかったが、エミリアーノ・ポリシオの息がかかっているのは間違いなく、つまり『A』『B』『C』いずれかに関わっているのかもしれないというのだ。一方、ゼクスにとって貧民街は悪い思い出しかなく、テンプル騎士ともなれば忌避しているあの場所へはいずれ行く事もあるだろうとは想定していた。しかしまさかこんなに早く行くことになると心の準備が出来ておらず、大いに鬼胎を抱かせた。

 腹を決めるしかない。ゼクスがリタに気付かれないようそっと溜め息をつくと、

「ときにゼクスくん、貧民街へ行くのは初めて?」

 ……と、質問された。

「えっ?は、はい、えーと、行ったことあります」

「どういう事情で行ったの?あそこは君が思っている以上に危険な場所だよ?」

「はい……」

 貧民街の更にどん底の生活をしている者たちは通行証や通行に必要な金銭を持ち合わせていないので、正面から入ろうとしても当然衛兵隊の検問所によって追い返される。ひとまず貧民街へと身を落ち着かせる彼らは、少しでもまともな生活を夢見て様々な事情を抱えながら命懸けで壁を越えるのである。そんな危険極まりない街に、悪ガキだった当時のゼクスは如何にして足を踏み入れたのかというと………。

 …………

 ………

 それは二年前、三番街東端の外壁付近。

 二名一組で編成された衛兵隊の歩哨がカンテラを手に警備する。歩哨の明かりはゆっくりと注意深く決められたルートで進み、時折立ち止まってはくるりと回れ右をする。歩哨が歩き去った後には闇が広がるも、また別の方向からやって来た歩哨によって明かりが広がり、闇がつけ入る隙は無い。

 カンテラの明かりで照らされるものは静かで昏く人の営みを感じさせない住居が多く、ヴィリエの人々がこの地域を忌避し近くには住み着こうとしないのをありありと見せられた。ヴィリエの東端は貧民街と隣接しており、この壁を乗り越える者たちを警戒するために、この頃の衛兵隊は六番街と同様レベルの警戒を行っていた。万一壁を乗り越えられた者がいるとしても、この歩哨によって捕縛され、貧民街へと強制的に送還される。そして戻ってきた者への処置は死のみである。これは見せしめとして、また貧民街でもルールがある事を示すものとしてエミリアーノ・ポリシオが決めた事だ。だが、反対にヴィリエから貧民街へやって来た者たちへの対処はどうだろうか?

 少年たちは当初、それほど興味はなかった。育った環境は違えど、“貧民街とそれに関わる者には近付くな”と教えられていたし、遠くからも見える高い高い壁が、同地を絵空事のようなものに見せていたからである。では二年前、ゼクスたちはどうやって貧民街に足を踏み入れたのか。馬車を利用せず、特殊な能力を必要とせず、金銭を必要とせず、時間をかけずに行く方法とは?

 きっかけはテンプル騎士訓練生の誰かが三番街の壁の近くにある空き家を見つけ、屯していた事から始まる。その場所は訓練所から離れていたが、小煩い教官や告げ口をする大人がいないので、退屈な訓練所生活で溜まった鬱憤を晴らすため、悪ガキたち代々から伝わる場所となっていた。勿論この場所を知られてはならないので安易に伝達されることは無かったが、お調子者でその性格に合わぬ外見の持ち主である“訓練所のアトミックマン”だったゼクスは、直ぐにこの空き家を教えられるに至った。そしてある爽やかな秋晴れの夜、少年たちがいつものように屯していると、取っ組み合いのケンカが始まった。これは別に珍しいことではない。そもそも日頃の鬱憤を晴らしにこうしているのだから、突発的な揉め事も起こる。ケンカは程なくして終わるが、この日だけは違った結末を迎えた。

「やれ、やっちまえっ」

「どうした、もうギブアップか」

 二人の男子訓練生は周囲の煽りによって闘争心を更にヒートアップさせ、空き家に元からあった家具を壊すなどケンカは度を超す。そしてぐしゃっと木が割れる音がすると、場は水を打ったように静まり返った。喧嘩をしていた者の一人がしたたかにダウンした時、床が割れたのである。少年たちが割れた床を剥してゆくと、そこにあったのは地下道だった。

 救世神話の時代に造られた、怪物との戦いに備えられたものなのか?旧文明時代に円形の壁が完成したのちに造られた、非常通路なのか?それとも現代に?

 いずれにしても少年たちの鬱憤を好奇心に変えさせ、彼らを地下道の探検へと向けさせるのに時間はそれほどかからなかった。

 まず地下道は空き家の床で隠されており、堀土で固めた急な斜面の穴を進む形で地下に下りてゆく。道というよりは穴と言った方が正しい土の道を直進すると、下りの時と同様、今度は上りの斜面に出る。それをそのまま進むと方角が指し示す通り、果たしてそこに貧民街があった。正確には貧民街の一角にある物置用のバラック小屋の床下。貧民街ではこのような類似する建物が大小とひしめき合っているのだ。

 この隠し通路の発見は少年たちの冒険心を燃え上がらせ、予てから耳にしていた貧民街のアウトローでアンダーグラウンドな世界に強い憧れを持たせたが、問題もあった。地下道は古く、今にも崩れそうな危険を孕んでいたのである。少年たちは地下道を慎重に慎重を重ねて利用する事を約束し合った。

 それからは早い。念のため邪魔な衛兵隊の警備に注意しながら空き家へ訪れ、地下道を通るとそこはもう危険な貧民街。ゼクスは三人の仲間を連れ立ってその雰囲気を堪能した。ところが……。

「あの時僕が捕まりそうになって、仲間が慌てて助けてくれたんですけど……地下道の隠されたバラック小屋まで追手を撒くことが出来なくて。それで例の地下道を通ったら崩落してもうたんです。多分、おっきな振動を与えたからやろうな……」

 話をしながら二騎を出て人々の往来が激しさを増す三番街の幹線通りを歩く二人。ゼクスが話を終えた合図のように一匹の蝉が飛び立つが、どこへ飛ぶのかと思いきや飛翔する鳥に捕獲されてしまった。リタは顎に手を当ててゼクスの話をずっと静聴していたが、話が終わるとどういう訳かくすくす笑い出す。

「えっ。僕、な、何かおかしな事を言いましたか」

 リタが口許に手を当てて、首ともう片方の手を振りながらを否定する。

「でも危なかったね。これからはそんな事をしちゃダメだよ」

 少し訝しげな表情をしたゼクスが思い切ってリタに質問する。

「じゃあ副長は訓練生の時、どんな感じやったんですか?」

「えー?私は……」

 何かを言いかけた時、彼女が湛えていた閑雅なる微笑がすぅっと消えて、仕事の内容へと話を切り替えた。かわされたか、と思いながらゼクスは彼女の話に耳を傾ける。

「ゼクスくん、実は私もその地下道の存在を知っていてね」

「えっ、そうなんですか?」

 リタは祓魔神官捜索の際、三番街の空き家と崩落した地下道についても併せて把握していた。これはゼクスにとって意外だったが、もっと意外なのは今、崩落したあの地下道は修復されているというのだ。それも貧民街側からの修復という事らしく、つまり貧民街に住む者たちは地下道を通れば好きなようにヴィリエと行き来できる。今の空き家周辺は貧民街の住人が流入しており、屯す彼らを衛兵隊は見て見ぬふりをしている状態だが、そこをヴィリエへ行き過ぎないようにエミリアーノ・ポリシオの部下が管理しているらしい。リタの貧民街へ行くという本当の計画はその管理している部下を訪ねる事で、その人物は地下道の隠れ蓑となっていた空き家にいるはずだという。

「二年前、衛兵隊は地下道の崩落とみられる揺れを確認したようなのだけれど、それを具に調査するということはしなかったみたい」

 衛兵隊の杜撰な仕事ぶりを暗に批判するリタだが、どういう訳か活き活きとしている。それは彼女に少し近づくだけでも熱気を感じるようなほどだった。

 ゼクスが思うに、おそらくリタは衛兵隊の怠慢によってエミリアーノ・ポリシオの魔手がヴィリエに公然と広がっているのを危惧しており、それを自分たちが清算する事に情熱を燃やしているのだ。それは結構だが、これらの件について九番街の事件と直接関係が無く遠回りをしているように思えるのが彼の気になるところだった。しかし、

『任務の完遂はひとつひとつの小さな仕事を成功におさめて成り立つ』

 ……と、訓練所の老教官が述べているのを思い出すと、この状況はまさに的を射ているのではないか、と自らを納得させた。貧民街のボスに邪教との関わり合いがあるなら、その配下の者たちまで同様であっても不思議ではない。そこから自分たちとスェーミも追っているであろう邪教の根城、プラス、今から向かう邪教の拠点のひとつを抑えることで、九番街連続殺人事件の真相をより明るみにすることが出来るのではないか。

 ゼクスはリタの情熱的な一面に少し気後れしてしまったが、直接貧民街に向かう訳では無いという事と、全く別件の捜査をするのではないという事に、前進への意欲を改めて持ち直すのだった。

 

 ヴィリエは今、非常に目まぐるしく変化を遂げている。高額な費用を投じて建設された商業施設が僅か一年たらずで賭博の拠点に娼館、宿無しが風雨を避けるための場所へと変貌する。平民向けの小綺麗な教会は、訪れる者が居なくなるとイリスの形像が見下ろす中、犯罪が平然と行われる。特に三番街の東端は貧民街の人間が流入し、ヴィリエの行政による施策や衛兵隊の懸命な巡回警備をもってしてもそれを完全に防ぐことが出来ずにいた。結局のところ、ヴィリエの中に入ってしまえばその人間は貧富問わずにヴィリエの住民なのである。何もしていなければ取り締まることは出来ないのだ。

 リタとゼクスが変わり果てた三番街東端を歩く。辻馬車も近付きたがらず、彼らが今歩いている場所へは三十分ほど要した。時刻は十三時から十四時へ変わる頃で、燦々たる太陽が最も活発に照りつける時間帯だった。周辺の住居は荒寥として人気が無く、建築用の材木や成形された石が所々に放棄されており材木に関しては朽ちて久しい。手入れのされていない敷石の地面からは雑草が生えているが、太陽が届く場所のものは大概が緑を失い地に伏している。人が去り、滅びゆく街並みを眼前にしながら二人は注意深く歩いた。

「暑いね、ゼクスくん。これが終わったら一休みしようか」

「はい……」

 ゼクスが物陰から時折視線を感じるので目を向けると、襤褸を着た何人かの男が、野卑な笑みを浮かべてこちらを見ている。気付けばそんな人間があちこちにいて、この界隈では自分たちが異色の存在であることを知らしめられた。それにしても、この陰気で粘り着くような視線はゼクスを不快にさせるには充分だった。

「あいつらは見ているだけで何もしないから大丈夫。それより……」

 リタに言われ、ゼクスも同じ方向を見る。

「は、はい。確か例の民家はあっちの方向ですけど……あれは一体……」

 屋根や外壁の塗料がすっかり色褪せてしまった住宅街の中に、その建物はあった。

 ゼクスの記憶では地下道の崩落の際、空き家まで崩れることはなかった。またリタが言うには一ヶ月半ほど前に訪れた時も、今二人が視線を向けているような建物などなかった。しかし、二人の記憶と場所が一致している限り、空き家のあった場所にその建物があるのは間違いない。それは一般的な建築物のイメージから甚だしく逸脱しており、弥縫策としてなのか定かではないが、木の板をベタベタと継ぎ接ぎのように貼り合わせ、乱雑に且つ無計画に建築・増築を繰り返された辛うじて建物と呼べるものが、何かを主張するように闃として佇んでいた。この滑稽な建物は貧民街でなら別段変わった様子はないのだろう。だがここヴィリエでは周囲の風景に溶け込んでおらず、そのミスマッチさが建物の異様な雰囲気を醸し出していた。ゼクスはかつて自分たちの遊び場だった場所がすっかり雲散霧消して“継ぎ接ぎの館”に変貌していることになんら感慨を持たなかったが、牙をむき出し爪を研ぐ恐ろしい怪物が潜んでいそうな場所の中へこれから入るとなると、近付いてゆくだけで装備の下に冷たい汗が流れるだった。

「こっちは裏か……正面に回ろう」

 リタがライトブルーの目で直線距離にして百メートルほどの位置にある“継ぎ接ぎの館”を見て言う。彼女の様子からあの建物を見ても動揺することもなければ恐れを抱いていることもないようだが、それでも今の発言はゼクスにとって聞き捨てならぬものだった。

「え?普通は裏からそーっと侵入して……」

 ゼクスは不安そうに眉を曇らせ蚊が鳴くような声で訴えるが、リタは腕を組んで息を吸うと、力強く次のように言って訴えを退けた。

「私たちは作戦で潜入任務に就いているのではないし、何か疚しい事をこれからする訳じゃない。捜査をする、そのために来た。分かるよね?」

「は、はひ」

 ゼクスはリタの淡いピンク色の唇に視線が釘付けになってしまうが、当の本人はそれに気付いていない様子で続ける。

「なら、こそこそしないで堂々と前から入ればいいじゃない」

「は、はひ」

「よろしい。何かあったら頼っていいからね」

 “鬼の副長”ついに本領発揮されるのか、彼女は満足げに微笑むと回れ右をして金色のポニーテールを右に左にと揺らしながら歩き始める。ゼクスもその後を追って歩く。

 継ぎ接ぎの館は周囲にあった民家を取り込むように広がっていて、二年前に人が住んでいた家までその一部となっていた。恐らく元々の家の構造をそのまま利用し、部屋として使っているのだろう。また新たな“継ぎ接ぎ”が行われようとしているのか、別の民家の庭には大量の木の板が積まれている。この見境無く周囲の建築物を取り込んで増築する様は、ゼクスにルーティングテーブルの村に現れたあの世にも醜くい肉塊を彷彿とさせた。そう、彼らのしていることは怪物と変わらないのだ。

 二人が継ぎ接ぎの館の正面にやって来た。ゼクスの記憶の中にあるあの空き家は南側に玄関ドアがあったが、今は代わりに五段ほどの階段があって、それを上がると金属製の取手が取り付けられた両開きのドアがある。階段といっても敷石の地面に使われる石を用いて段差を作っただけのものだし、ドアの取手はすっかり古くなって黒んずんでさえいる。ただスペースはわりと広く設けられており、十人から二十人が押しかけても問題なく機能しそうな造りだった。恐らく、ここが継ぎ接ぎの館の入口だろう。だがそこには襤褸を着た男三人がしゃがみこんでおり、談笑をしていた。彼らは明らかに通行の邪魔になっているが、リタはそれを、

「退いてくれる?」

 ……と、閑雅なる微笑、しかし何処か質の異なるものを湛えて伝えたが、男たちは顔を見合わすと退こうとせず、逆に威嚇するようにして立ち上がった。露出した顔、腕、足からは汚れて真っ黒な皮膚が覗き、臭いも凄かった。

「酒と食い物を用意して裸で踊ってくれたらいいぜ、テンプル騎士のお嬢さん方」

 そう一番先頭の男が言うとげらげらと下卑た笑い声をあげた。どうやら通す気はないらしい。

「(な、なんて下品な奴らや。このくそったれ!)」

 ゼクスが男たちの発言に強い憤りを覚える。このような差別的にも思える発言をあたかも自然にするということは、貧民街では当たり前のようにそのような事が行われているのだろうか。そう彼は思いもしたが、状況は差し迫っていた。

 男たちは真上から見て三角形の隊形でこちらに立ち塞がっており、皆髭をもっさりと生やし体格もがっしりしていて顔立ちも厳つく手強そうだった。ただ紅い目をしていない事から彼らは邪教徒ではない。ゼクスはアウトローでアンダーグラウンドな世界に少年らしい思いを馳せる傍ら、この手の不穏な展開にまだ慣れておらず委縮してしまっていたが、当然リタは違う。彼女はこの理不尽な要求にも笑顔を崩す事は無かったが、但しずいっと間合いを詰めるともう一度退くよう要請した。しかし男たちも譲らない。一触即発の状況に冷や冷やしたゼクスは、咄嗟に男たちの要求に対する代替え案を思いつく。

「そ、そや。副長、お金を渡したらどうですか。僕、出しますよ」

 男たちは話が分かるじゃないか、とご満悦といった様子だったがリタはそれを制し、ゼクスに少し強い口調で言う。その時には笑顔も消えていた。

「ダメ。こいつらに情けをかけてもイリス様に感謝しようとしないし、つけあがって法外な施しを受けようとやって来るから」

「そんな事はないよなぁ?」

 先頭の男が後方の二人に同意を求めるため振り向いた瞬間、おうっ、と呻き声をあげた。リタの左脚、ブーツの爪先が彼の股間へ突き刺さるようにめり込んだからだ。次にリタは、内股で前のめりになっている男の切なそうな顔にめがけて、小さな跳躍からの右脚による回転蹴りをした。蹴りは男の側頭部へしたたかに当たり、彼は今度こそダウンした。

「て、てめえ」

 後ろにいた男のひとりがリタの前に躍り出ると、右、左、とパンチを繰り出す。それをリタはスウェーに体を反らしてと躱すと、再び男が狙いを定め、大きく踏み込み右手からのパンチを繰り出す。リタはこれも頭を下げて地をなぞるように前へ進みながら躱す。ここで男との間合いが至近距離になると、すかさず彼女は相手の顎に目掛けて痛烈なアッパーカットを喰らわせた。顎を下から貫くようなその一撃は身長差も体重差も、体格差まである男を即座に昏倒させてしまった。

 最後に残った一人は自分たちの体格に物を言わせた闘い方が全く通用しない相手だと分かると、態度をころりと変えた。

「と、通っていい。通っていいから見逃してくれ」

 声が震えている。哀れといえば哀れだが、何故か同情する気になれない。それはリタも同じだったらしく、

「貴方たち、さっき“裸で踊れば”とかどうとか言ってたよね?」

 ……と、なんともサディスティックな微笑を浮かべて言う。男はそこから何かを察したのか慌てて襤褸を脱ぎ出したが、そこにどすっ、とリタの鋭い強打が鳩尾を突いた。すると男は呼吸困難となりそれが原因で視界が真っ白になると、その後あっけなく倒伏した。

「貴方の裸踊りを見たいなんてひとことも言ってないんだけど」

 ……倒れて動かなくなった男に視線すら向けず、リタが冷たく吐き捨てるようにそう言った。ゼクスは不穏な空気に萎縮してしまっていただけにこの鮮やかな展開が痛快で、思わず口許を綻ばせる。

「ははは、これじゃあ捜査ちゅうより殴り込みやわ。副長ってめっちゃ強いんですねぇ」

 だがリタはゼクスの言葉に反応せず、周囲の状況を気にかけているのか、顔を動かさずぱっちりした睫毛の先にある眼球だけを動かして辺りを観察している。それを見たゼクスも周囲に目をやった。

 自分たちが継ぎ接ぎの館へやって来る際、貧民街の者たちと思われる人間の監視が続いていた。恐らく今の騒ぎも聞きつけているだろう。そして予測通り、強い敵意の眼差しが至る所から確認出来る。襤褸を着た男たちが建物の影、それから継ぎ接ぎの館の二階からも気配を感じるのだ。ゼクスは今しがたの笑いはどこへやら、本当にこの中へ入るのかと不安になったが、決然としたリタが言う、

「入るよ」

 ……という言葉に、不安や恐れ抱くことなど無用であるとして払拭し、気を引き締めて玄関ドアの先へ臨んだ。

 リタが敷石の段を登る前に一旦足を止めて、ドアの周囲を見る。何かをチェックしたのだろう、その後素早く段を登ると、ドアノブを手に取る。ここでもう一度彼女は後ろにいるゼクスに“今入るぞ”という意味の視線を送り、そのゼクスも頷くとリタは今度こそドアを引いた。するとドアの正面にはまた更に他所を向いた男がいて、その男の振り向き様にリタが反射的とも言えるほどの速さで足刀蹴りをした。蹴りは青白い光の軌跡を発しながら横腹に当たり、男を大きく後方に吹き飛ばす。ここまで来ると本当にただの殴り込みだが、それよりもゼクスはリタの強さに驚いた。彼女はまだ一度も武器を使用せず、自分よりも体格差のある男たちを徒手空拳でもって薙ぎ倒しているのだ。特に今の一撃は目を見張るもので、男の吹き飛ぶ距離が普通ではなかった。見るとリタの右脚、ブーツの脛から足元にかけて青白いオーラのゆらめきが見て取れる。これは紛れもなくテンプル騎士たちが操る女神イリスより借り得た聖なる力、または己の精神力の現れだが、これを用いるには当然の事ながら集中する時間が必要である。彼女はそれを一瞬で発動させているようだった。

「動かないで。テンプル騎士団第二騎士隊です」

 毅然とした態度と張りのある声がホールにいた男たちを圧倒する。ゼクスも緊張を伴いながらも上官のリタに続き踏み込んで、その際に中の様子を伺った。そこはエントランスか何かなのか、天井が高い広間になっていて、内装は外観と同じで全て板張り。住宅街に堂々と佇む継ぎ接ぎの館はやはり張りぼての安普請であり、加えて薄暗く異臭がむわっと漂っていた。正面奥に意味ありげなドアがあるが、広間には人相の悪い男が何人もいて、何事かと一斉にこちらを注目していた。

 入って分かったのが、薄暗いのは採光がほとんどされていないからで、実際には天井の板と板の隙間からいくつもの陽光が降り注ぎ、スポットライトのような光によって塵や埃が浮いているのが見て取れた。これが無ければ館内は日中でも真っ暗だろう。意外なのは、蒸し風呂のような暑さを想定していたのに涼しく快適。どこかで冷却装置が作動しているらしい。

 リタとゼクスが室内にいた男たちと対峙する。

 蹴り倒した者を含めると、相手は全部で五人。入口で門番をしていた三人よりも身なりはまともで、ヴィリエの平民だと言われても誰も気づかないだろう。だが彼らの目は爛々と紅く光っており、敵意の眼差しが痛いほどだった。

「貴方たち、ここはヴィリエであって貧民街ではないのだけれど……そこは理解してる?」

 男たちの威嚇に怯むことなく、全身からめらめらと青白いオーラを揺動させて侃々諤々とリタが言う。それ意外の言葉が無いのは、相手は外の門番と同じ雑兵で有益な情報を得られそうにないと考えての事なのだろう。大人しく投降する気も無い男たちに対し完全に叩き潰すつもりのリタを見たゼクスは、最早戦闘は避けられないと覚悟をして洗礼の剣を抜き構える。そしてじりじりと歩み寄る男たちを睨んだ。だが実戦任務考査の時と違って今度の相手は人の姿をしており、その事が甚だしく彼を躊躇させた。おとり捜査の夜、管を延ばして迫るヴィクトリアの姿が重なるのだ。

 敵は剣、槍、メイスといった近接戦闘武器を手にしており、リタの一番手前にいる男は湾刀を持って構えている。柄のデザインから衛兵隊の制式装備のようだった。武装した敵を前にしてもどういうわけかリタは洗礼の剣を抜かずそのまま一歩二歩と前に出ると、一番手前にいた男が雄叫びを上げて突進し、湾刀を逆手に持ち替え、大きく振りかぶった。身長差はあったが、リタは湾刀が自分に突き下ろされる前に男の両腕を頭上で押さえると、体を素早く右に反らし、互いの力の作用を使って男の腹に刺した。自害でもしたかのように湾刀を己に突き立てる男の最期を見届けることなく、リタは新たな敵に目を向ける。今度は槍を持つ口髭を生やした男。腰を落として槍を構えるこの男は気魄を込めて、えいや、と刺突する。だがリタはこれを難なく回避し、左手で空を突く槍を掴み右手で顔面に強打を浴びせると、更に目に星を飛ばせる男へ足蹴りをして仰け反らせ、いとも簡単に槍を奪ってしまう。男は命乞いをするように見えたが、リタは構うことなく奪った槍で腹を刺し貫いた。槍を引き抜くと今度は剣を捨てて尻餅をつく男の姿を捉える。完全に戦意を失っており待ったをかけているが、リタはそれがどうした、と言いたげに小首を傾げると、男に向けて槍を投擲した。近距離で投擲された槍は喉より少し下の首元に突き刺さり、鋭く長い鏃が皮、肉を斬り骨をも砕いて貫通し、床に射止めた。

「ゼクスくん!」

 呆気なく三人を葬ったリタだったが、メイスを持った男がゼクスの上に覆い被さって床に倒れ込んでいるのを見て叫ぶ。すると覆い被さった男がごろっと力無く横に退けて、そこから息を切らしたゼクスがゆっくり立ち上がった。ぬらっと血液が付着した洗礼の剣が目に付いたリタはますます顔色を変えてゼクスに走り寄る。

「大丈夫?怪我は無い?」

 剣の血を払いを鞘に収めると、ゼクスが頬に敵の血液が付着しているのも気にせず精一杯の笑顔をし、親指を立てる。

「へ、平気です。う、動きが全然遅かったし僕を舐めてかかってるようやったから楽勝でした」

 それでもリタは柳眉を曇らせたままゼクスを見つめていたが、直ぐに捜査中であることに気付いたのか、一度咳払いをすると自分から離れるな、と厳命した後に先を歩く。それに了解、と返すゼクスは前を歩く上官の背中を見つつ、訓練所で教えられた事を思い出していた。訓練所では戦いから逃げても恥ではない、という事を何度も聞かされた。

『生きることこそが宝』

『生きるためにこそ剣がある』

 それは逃げ切れば再び戦える日まで生きられるという意味が込められていて、生き残ることの重要さを教えられたが、反対に必要であれば自らの命を賭す勇気を腹に据えねばならぬとも、冬風邪をこじらせた老教官が述べていた。

 次にゼクスが思うのは敵についてだ。教会が言うように邪教とその信徒が人類の敵として寝返ったものだとはいえ、それら全てを瓦解させ滅ぼす必要があるのか、ゼクスは自分自身の答えをまだ出せていない。これはヴィクトリアについて考えた時からずっと付きまとう違和感で、彼女が邪教に改宗した理由が自主的なものだったのだとすると、敵も同じような理由があったのではないかと、憎むことが出来ないのだ。

 だが敵は違う。彼らはいつでも躊躇なく牙を剥き自分の喉元を掻っ切るだろう。そこに今のゼクスは戦う意味を見出す。戦わなければ、死ぬか逃げるかのどちらかだ。

 死ぬ訳にはいかない。逃げる訳にもいかない。

 イリス様、どうかお許しを。今この時だけは、迫り来る敵を撃滅する悪鬼羅刹であれ。

 ……敵を排除したことにより緊張が緩和し、周囲の音にも気を配れるようになる。館は戦闘の後だというのに不気味なほどに静かで、歩く毎に床がギシギシと軋む音がやたら耳についた。

 継ぎ接ぎの館に入って最初に目にした正面奥のドアは施錠されており、その代わり正面左手にはまた別のドア、右手には通路があったが、左手のドアもまた施錠されていた。捜査をする上で最も重要なものがありそうなのは正面のドアだが、ここは右手の通路へ進むことにする。

 通路も同じく何枚もの薄っぺらい板がベタベタと張りつけられただけの造りで、エントランスのように板と板の僅かな隙間から外の光が木漏れ日のように差し込んでいる。そのお陰で通路の先にまたドアがあるのが直ぐに分かった。ドアに近付くと丁度大人が立つ辺りに小さい覗き穴があって、それをリタの背中越しから見たゼクスは、ここのドアも施錠されていなければよいが、と思う。

 ドアの前に立ったリタが二回ノックする。その後一歩下がると、ここで初めて左手で右脚のホルダーに収められた片方の洗礼の剣を抜き、紫電一閃、ドアの覗き穴に向けて刺突・引き抜いた。そのほぼ同時ともいえるタイミングでドアの向こうからごとっ、と何かが倒れる音が聞こえる。覗き穴ではなく剣の刺し痕に変わった場所からは、僅かにカンテラの灯りに照らされた室内が見える。

 このドアは施錠されておらず、ノブを引くとギィー、と鈍い音を出しながら開いた。すると寒々しい死と隣り合わせのこの館にひどく不釣り合いな、やさしいオレンジ色のカンテラの光が通路まで広がる。そこでゼクスが最初に見たものは、右目を潰し大の字になって床に横たわる男の姿。右目の傷は真新しく、どうやら敵のようだがピクリとも動かない。他には粗末な机と椅子、その上に置かれたカンテラ、ファイリングされた書類が多数置かれた棚。リタは横たわる男に目もくれず真っ直ぐに棚へ向かうとそこからファイルを無造作に二つ、三つと取り出し、机の上に置いて捲り始めた。一方、ゼクスはドアに空いた穴と死体を見比べて、先程リタがドアの前で何をしたのか考える。恐らく彼女はノックをされると覗き穴から様子を窺う人の警戒心を利用し、死角に隠れた敵を誘い出してドア越しから文字通り必殺の一撃をお見舞いしたのである。目から頭部を貫かれて即死したであろう敵の死体からは、やっと肉体の反応が追いついたのか、どす黒い血が薄い板の床を濡らしてゆく。

 あまり見ないようにしようとゼクスが死体から視線を外したと同時に、リタがあっ、と驚きの声を上げた。

「どうしたんですか、副長」

 いつの間にか机の上に沢山の捲られたファイルが置かれていて、そのうちの一つを手に取り、リタが少し早口で伝える。

「マルセル子爵とポリシオの密約の証拠を見つけた。この館は貧民街で行われる交易の中継地点で、コネがあれば出入りできるみたい」

「ええっ。ちょ、ちょっと副長、一体どういう事ですか」

 ここまで来てゼクスは敵が邪教徒であることを戦闘を通して明確に理解しているが、リタからは“貧民街からの人の流入を管理するエミリアーノ・ポリシオの部下を訪ねる”としか聞いていない上、そもそもその人物からどのような情報を聴取するのかさえ聞いていない。ちんぷんかんぷんの彼は一人納得してうんうん、と頷くリタに説明を求めた。

「ああ、ごめん。そういえば話してなかったね。子爵が事件に関わっているなんて話、証拠も無いのに出来なかったから」

「えっ……?」

 書類から明かされる事実に興奮気味だったリタは一呼吸置くと、今度は訓練所の教官のようにゆっくり話し始める。

 曰く、先ず貧民街の者たちが非合法で手に入れた物資とヴィリエに正規のルートで流通している物資とで交易されているという実態がある。これは貧民街の存在を認めないヴィリエの法律からすれば立派な犯罪行為である。次にこの継ぎ接ぎの館はやはりヴィリエと貧民街を繋ぐ地下道を隠すのが目的であるが、他にはヴィリエ側から地下道通る人間は紹介者を通じて契約書に従うことを条件に闇の交易を行うため、また貧民街側から地下道を通る場合はシンジケートを通じて必要な人間のみ通行が許される……というように、双方の地下道利用者をフィルタリングするのが目的でもあった。無闇やたらに人を通らせぬよう秩序維持の働きを持つという、モノの流通ではなく交易に関わる者たちの流れを管理する場所、それがこの館だ。

 まるでヴィリエの検問所のようだ、とリタが皮肉ると、次は約款について触れた。彼女が本棚の書類を分析したところによれば、通行や交易の条件として、料金の他に協力関係も求められているのだ。

「“――以上の契約に署名した場合、甲は乙の主義思想に理解を示すものとし、また乙の要請に甲は状況の許す限り連携することに合意したとみなす”…とどの契約書にもあるんだけど、この主義思想っていうのが嫌なカンジするよね」

 恐らく彼女はこの主義思想とは邪教を示している、と暗に言っているのだろう。もしそうなら貧民街と交易をしているヴィリエの人間はイコール、邪教に与する者たちということになる。例えば一見何の変哲もないカフェや雑貨店でも、経営者は邪教の仲間、若しくは邪教徒そのものかもしれないのだ。そしてその数は多く見積ってこの棚にある契約書の数ほど。自分が育った大好きなヴィリエは、人知れずどんどん蝕まれている。ゼクスはそう思うと、胸中に怒りとも悲しみともつかぬ感情が渦巻いた。

 ここでリタが一枚の書類をゼクスに手渡しながら、ある噂を伝える。噂と言っても仄聞というわけではない。彼女の信頼出来る伝で知り得た情報である。その情報では、交易の貧民街側の元締めがエミリアーノ・ポリシオ。一方、ヴィリエ側の元締めはなんとマルセル子爵だというのだ。

 人差し指を下に向けて読んでみろ、とリタがジェスチャーするので、ゼクスが慌てて書類に目を走らせる。内容は期日までに乙が甲宛に部下を通じて送金する、という旨の内容だが送金の額が普通ではない。それに同意するとして乙が“エミリアーノ・ポリシオ”、甲が“マルセル・ヴィルヘルム・ドラクロワ”、とサインされている……!

 ゼクスはとんでもないものを見てしまった、と脳天に楔を打ち込まれたような衝撃を受け、それにこれまでの孤児院時代と訓練生時代の生活からあまりにかけ離れた現実と直面して、くらくらと眩暈もした。自分がどんな事に首を突っ込んでいるのか分かってきたからだ。

 ゼクスたちが真相を追おうとしている事件は、単なる殺人事件でなければ邪教などという不逞な輩が起こした謀でもない。政治家の汚職までが絡んでいるという、もっと大きな、途方もないものだったのだ!

 肌が粟立つほどの衝撃はまだおさまらない。副長室で感じた違和感はまさしくこれだった。確かに『A』『B』『C』どれもエミリアーノ・ポリシオが一枚噛んでいるのかもしれないが、彼はあくまで貧民街の人間である。ヴィリエの捜査当局にまで影響を与えるにはあまりにその存在が希薄で不明瞭で、曖昧模糊とし過ぎているのだ。だが一連の事件にもし子爵も関わっているのなら納得がいくというもの。

 ゼクスは自分をどうにか落ち着かせて気を確かに持ち、続くリタの話に耳を傾けた。

 曰く、子爵とエミリアーノ・ポリシオの関係を留意した上で、副長室で話した三件の出来事、『A』『B』『C』について思い出してもらいたい。テンプル騎士団は本部長による命令によって『A』の捜査は殆ど行われず、私見では『C』も本部長が関与しているとみており、未完成で欠陥のある報告書から、おそらく捜査を中断させられたと考えている。これら本部長の不可解な命令はマルセル子爵がそう仕向けるように指示したという噂があり、その噂が真実だとして、では子爵はどうしてそんなことをしたのか。それは貧民街との交易を考えれば信憑性のある話だと考えていたが、このように証拠が見つかるとそれは確信に変わった。

 ヴィリエと貧民街との間で行われている非合法の交易で、ヴィリエ側の元締めである子爵。当然違法で犯罪であると知っての行いだろう。自らが法を定める立場であるにも関わらずそれに背く行為をしている彼には何か事情があるのかもしれないが、ここでは一切の弁解は認められない。

 テンプル騎士団に事件の捜査をさせないように本部長へ指示した子爵。事情は分からない。分からないが、その権力を使って犠牲になった人たちをも隠蔽し真実を隠し通そうとする行いは決して許してはならない。

『A』『B』『C』の大まかな全貌は恐らくこうだ。

 先ずエミリアーノ・ポリシオは貧民街を支配するシンジケートのボスで、且つヴィリエと交易をする貧民街側の元締めでもあり、更には邪教とも通じている。理由はどうあれ、子爵はそういう人物と関わりを持っており、約款に従い、ヴィリエで暗躍するエミリアーノ・ポリシオの部下と邪教の謀に衛兵隊とテンプル騎士団の捜査が入らぬよう仕向けた。それが『A』と『C』。『B』は教会がテンプル騎士団に直接命令したため子爵も口を出せなかったが、祓魔神官の失踪そのものはおそらくエミリアーノ・ポリシオが関与しているのではないか。なぜなら、失踪した二人の祓魔神官は『A』の捜査の途中で消息を絶ったからだ——。

 ……リタの冷静な話を聞いて少し落ち着きを取り戻したゼクスが、これまで分かった事で感じたことを一人つぶやくようにして言う。

「子爵とポリシオがグルやなんて……。それにしてもテンプル騎士団は教会が作ったのに、なんで関係あれへん子爵の言うこと聞こうとするんやろ?」

「ヴィリエのテンプル騎士団と子爵の関係については本部長を直接問い質せば直ぐに分かるんじゃない?あの人、子爵が開く招宴の席には必ず出席してるし」

 そう言うリタは果たせるかな、といった様子で身の丈に合わぬ大敵の影にも屈せず挑戦的な笑みを浮かべている。いいや、ランタンの灯りによってそう見えるだけで、根を伸ばそうとしている問題を隠蔽するのに権力を振るう者たちへ静かに、だが強い怒りを宿す凜然とした表情をしているのかもしれなかった。

「この書類は証拠品として確保しておかないと。それにこれとこれも」

 ここは敵地でまたどこから襲ってくるかもしれないというのにリタは豪胆にも即席の“証拠ファイル”を次々と作り上げてゆく。彼女は、表情こそゼクスの目に残像するものの、どのような表情であれ一貫して言えるのは、彼女が洞察力に優れ、恐れというものを知らないかのように泰然自若としており、また障害をものともせず行動することだ。ヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊の副長は、九番街連続殺人事件に関わる全ての不正を暴くまで決して諦めないだろう。

 ……そうだ。敵の強大さに慄くのではなく、今は捜査を進めなくては。ゼクスはそう心に決めると、自分も他の書類に目を通そうとファイルを一冊手に取る。そして一枚一枚の行間を読もうとした。できるだけ早く、確実に。

 一方リタは証拠ファイルが完成すると次に死体を調べ始め、その結果、敵のポケットからあるものを発見する。

「ゼクスくん見て。ほら」

「おおっ、その鍵はきっと施錠されとった所のものですよ!」

 思わず笑顔になるゼクス。だがその笑顔は次の手掛かりを得るために必要な鍵を入手したためだけではない。障害を取り除く方法がなければ障害そのものを排除すればよいのだ。彼女なら必ずそうするはず……とゼクスが視線を向けると、そのリタは顎に手を当てて思案顔になっていた。

「……なんだかおかしいと思わない?」

「何がですか?」

「こんなに大事な証拠があるのに、どうして見張りがこれしかいないの?それに交易するためにやって来る人たちは?本来ならここはもっと厳重に管理されていて、人も多いはず」

「あ、確かに……」

 考えられるのは罠。だが、どうやって事前に自分たちが継ぎ接ぎの館へやって来るのを察知したのか?それに自分たちを罠に掛けて何か意味でもあるのか……?

 ゼクスも一緒になって思案顔になると、リタがそうか、と手をぽんと叩く。

「私たち、もしかしてラッキーなのかも」

「えっ?」

「幸運な状況を“どうして?”って考える必要はないってこと。さ、行くよ」

 こうして二人は元来た場所へと戻った。


 エントランスホールでは死の静寂がそのまま残されており、何者かが新たにやって来た形跡はない。どうやら南方の邪教の秘術には、死者を起き上がらせて使役するようなものは無く、人を隷従させたり人体の一部を変化させる効果しかないらしい。継ぎ接ぎの館は、変わらず静かそのものだった。

 ゼクスがそのように敵を観察する傍ら、リタはさして気にする様子もなく、入手した鍵を鍵穴に差し込む。

「この鍵だといいんだけど……」

「ダメだった時はどう壊します?」

 敵への警戒を怠っていないゼクスだが、残念な事に会話への警戒は怠っていた。

「やだ、もしかしてゼクスくんは私がドアを壊すなんてことをすると思ってるの?」

「(!!)」

「……まあ、いざという時はそうするしかないんだけど、その必要はなかったね」

 かちゃ、と軽い音が聞こえた。

 リタがドアを開ける。

 ゼクスもその後に続こうとすると、突然リタに頭を鷲掴みにし、無理矢理床に伏せられた。直後に施錠されていたドアがばん、ばん、と乾いた音を立てて粉塵と木片を撒き散らしながら穴を空ける。その数三ヶ所。伏せられたゼクスは立ち上がると次は腕を掴まれ、ぐいっと向かって左側の壁に移動させられる。彼はあまりに突然の出来事で訳が分からなかったが、ただ敵に攻撃を受けている、それも射撃武器である事は理解出来た。そう、ドアの向こうに敵が待ち構えていたのだ!

 一気に緊張が高まる。木製の安っぽいドアではあるものの、それを易々と貫く威力だ。急所や頭部に命中すればほぼ即死だろう。

 リタが半開きのドアから首を伸ばしドアの先の様子を伺うが、直ぐに引っ込めた。時挟まずして薄っぺらい板張りの壁の端を破壊しながら何かが飛んでゆく。

 ゼクスの優れた動体視力で捉えた今のものは、時速およそ二百キロメートルで進む先端が尖った細長い物体。間違いない、敵は弓や弩弓のようなもので攻撃している。これまで戦闘した敵の様子から、それほど訓練せずとも高い命中精度が出せる、弩弓による射撃かと思われる。

「ふっ、ふっ、副長!」

 ゼクスが金色のポニーテールに向かって叫ぶ。だが返ってきたのは短くそっけないものだった。

「静かに。これだと壁も貫通してくるから」

 つまり居場所を特定される訳にはいかない、ということか。そのようにリタの言おうとしていることを理解したゼクスだが、更に危険は迫っていた。エントランスから武装した敵がわらわらと入り込んできたからである。

「動くな。動くと撃つ」

 弩弓を構える男二名、女二名、他に近接戦闘武器を持った男の計七名ほどを従えた、頭髪を丸刈りにし顔に刺青を入れた男がそう警告した。リタとゼクスは向けられた弩弓によって警告通り動けずにいると、施錠されていたドアの奥からも弩弓を持った男が二名、女一名が現れ、それぞれ狙いをつける。

 愈々状況が危ういと判断したのか、リタが目で動くな、とゼクスに指示を出す。その彼も言うに及ばず武器に手を伸ばすことはなかった。二人の様子に満足した刺青の男は、部下に洗礼の剣を回収させ、更に、

「そっちの女が持っているも忘れるなよ」

 ……と、リタが作った証拠ファイルも忘れずに回収させた。

 やはり自分たちを捕らえるための罠だったのか?

 ゼクスはそう考えはしたが、何せ当たりどころが悪ければ即死するようなものを複数の方向から向けられているのだ。恐怖で竦む思いになり、これからどうなってしまうのか気が気でない。流石のリタも鋭い眼光を放ち敵を威嚇するだけで、刺青の男が連れて行け、と言われても大人しくしていた。


 ……その後のリタとゼクスはすぐ近く、継ぎ接ぎの館の内部へと連行された。

 先ず施錠されていたドアの先に進む。すると正面に大きな両開きの扉があって、左手にまたドアがある。両開きの扉は木製だが分厚く、所々に金属の補強がされた頑丈そうな扉だ。恐らくこの扉の先に二年前に崩落した地下道への入り口があるのだろう。リタとゼクスはその正面の扉ではなく、左手のドアの先へと弩弓に狙われながら歩いた。

 ドアが開かれるとリタの副長室よりやや狭い部屋があった。ここも採光がされておらず、部屋の四隅に設置されたカンテラが部屋のものを照らしている。とはいえ、部屋にあるものは中央に置かれた引き出しのある四角テーブルと椅子、それと沢山のファイルが並んだ棚二つがあるだけ。殺風景なのは副長室と共通しているが、男による効率だけを重視した部屋だというのが大きな違いだった。

「どこのどいつだと思ったら……ふん」

 部屋には男が三人いて、そのうちの一人、椅子に座った男がリタとゼクスを瞥見すると忌々しそうに言った。その男は頭髪を整髪料でカチカチに固めてオールバックにしており、身なりも他の敵よりずっと良かった。一番の特徴はエキゾチックな顔立ちと皮膚の色が黄色いことで、これは異国、おそらく東方人かその混血であることを示している。東方人とはイリス教が信仰されている地域を中心に見て東に位置する場所に住んでいる者たちを指す。実際にヴィリエから東へ進むと徐々に気候が変わり、やがて荒涼とした大地と草原が広がる。更にその先には東方人たちの国々がある、東西を線引きするような嶮峻たる大山脈が連なる。個人で営む行商人はこの山脈の向こうにある東方や極東と呼ばれる異国の地へと旅立つが、この峻嶺を己の足のみで越えるのは並大抵の事ではない。あまりに厳しい自然環境や野盗、それに怪物の手によって命を落とす者が多く、それでも一攫千金を夢見て山を越えようとする者が後を絶たぬという。それは勿論東方人も同様で、命懸けの旅を経てやって来た者たちに縁者を持つのが彼らなのだ。

 リタと椅子に座る男が対峙する。

「また会うとはね、モーリス」

 モーリスと呼ばれた男はリタ、次にゼクスを値踏みするように見ると、椅子の背もたれに寄りかかり、鼻から大きく息を吸い込んで言った。

「確かあんたとは過去に二回会ったな」

「そうだったっけ?」

「よく覚えている。最初に会ったのは四年前であの時はまだ若い娘といった様子だったが、その次に会ったこの間の一ヶ月か二ヶ月くらい前は、容姿は勿論、ウデもよく磨かれているようだった」

 ククッと含み笑いをするモーリスに、囚われの身でありながらもリタが微笑んで礼を言う。ゼクスは自分の知らない人物の登場に説明もなく戸惑ったが、リタの立場、このモーリスという男の立場を考えれば二人が友好的でないのは明らかだった。そしてここへ来る前にリタが話していた、地下道を管理しているエミリアーノ・ポリシオの部下で、自分たちが訪ねようとしている人物がこの男であることもまた推測出来た。

「ときにモーリス、貴方に教えて欲しいことがあるんだけど」

 笑顔のまま口火を切るリタに反して、モーリスは表情をこわばらせる。ただ、口調は最初のように軽かった。

「ああ、ああ、そうだろうとも。俺の部下を何人も来たんだ。さぞ火急の要件なんだろうなあ。だが聞きたいことがあるのはこっちも同じだ。あんた、自分たちが置かれている状況を分かってるのか?」

「勿論」

「あっはっは、度胸の据わった女だ」

 モーリスは笑うが目が笑っていない。この時、弩弓を構えた男二人がリタを挟むようにして狙い構える。

「俺を舐めるのもいい加減にしろ!どうやって“集会”のことを知った!?お前らは“集会”で手薄になったタイミングでここに来たんだ。ええ?そうだろう!」

 机を叩いてモーリスががなり立てるのを他所に、ゼクスはそういう事か、と継ぎ接ぎの館が今どのような状態にあるのかを整理した。

 本来、ここは交易のために発生する人の流れを管理する場所なので、もっと見張りや出入りする人がいてもよいはずが今はガラガラだ。これはモーリスの言う“集会”とやらが大きく関わっている。そしてその“集会”が行われる場所こそ邪教徒たちの根城なのだ。モーリスたちは少ない警備の者だけを残し継ぎ接ぎの館で待機していた。その時に偶然自分たちが踏み込んだのだ。

 幸運といえば幸運だ。しかし館の外に敵がいたのは不幸だった。こんな事なら応援を要請すれば良かったのかもしれないが、こちらはそもそも崩落した地下道の跡地にあった空き家が継ぎ接ぎの館へと変貌していたことすら知らなかったのだ。となると、捜査をする際は慎重にならなくてはならないと思う。だがリタは正面突破を敢行した。

 ……そう考えるとリタの行動を批判する流れになるが、しかし彼女の敢行は非常に早かった。重要な情報を裏付ける資料を入手した上、モーリスの様子から敵は意表をつかれ混乱もしているようだ。もし施錠されていたドアへ向かわずに継ぎ接ぎの館から速やかに退去していたら、一石二鳥の結果になっていたのかもしれない。

 慎重行動か正面突破だったのか、そうゼクスが考えている内にもリタとモーリスのやり取りが続く。

「――だから知らないと言ってるでしょう。内通者なんて」

「そんなはずはない。子爵の犬であるはずの衛兵隊がまた九番街を嗅ぎ回っている上にあんたらテンプル騎士団の登場だ。居るはずなんだよ!」

「子爵の犬ってどういう事?」

 腕を組んで落ち着いた様子のリタが問う。これはきっとカマをかけている、とゼクスは考える。というのも、先程見た書類から子爵とエミリアーノ・ポリシオとは非合法の交易をする関係においてであるのは間違いないが、子爵が約款に従って衛兵隊やテンプル騎士団の捜査当局に横から干渉したかどうかはまだ噂や推測の域を出ていない。そのため彼女は敵から正確な証言を得るためにわざと質問したのだろう。だが興奮したモーリスにそれは効かないようで、彼は激しく怒鳴り散らしリタの質問を退けた。

「黙れっ、聞いているのはこっちだ!」

「落ち着いてください、モーリスさん」

 顔に刺青をした男が宥める。そこで漸く落ち着きを取り戻したのか、モーリスはせせら笑った。紅い目はギラギラとした怪しい光も宿している。

「どうしてもというのなら、嫌でも口を割るようにしてやる。セルゲイ、“芋虫”を持ってこさせろ」

 セルゲイと呼ばれた顔に刺青をした男はこれに対し、

「しかし教祖様の許可がないと不味いのでは?相手はテンプル騎士ですよ」

 ……と、露骨に難色を示した。だが結局は了承したようで、従わせていた部下のひとりを何処かへ遣いにやった。

「いいか、よく聞け。芋虫っていうのはなあ、見てくれはあれだが、効験あらかたなハイになれる魔法のクスリみたいなものだ。もぞもぞと口から喉を伝ってゆくので始めは苦しいが、しかしそれが段々気分が高揚してきて、芋虫が体ン中を這い回るのが分かるとクセになっちまうんだ。だが一人一匹っていうのがルールらしくてな」

 モーリスが陶酔したように言う。これから自分たちもその芋虫とやらを飲み込まされるのかと思うと吐き気すら催してしまうゼクスだが、これで邪教徒を作り上げる秘術の仕組みが分かった。また彼には芋虫を根絶するという、新たな目的が出来るのだった。

「まあ怖い。私たちはおしまいという事ね」

 モーリスの身振り手振りを交えた説明にリタが感想を述べる。ただ言い方は無感動で抑揚がなく、本当に恐怖しているのかは甚だ疑問だった。

「ときにモーリス。貴方、過去の私との出会いを覚えていると言っていたけれど、私も思い出しました」

「ほう、そうかい」

 彼女曰く、過去二回の出会いはいずれもモーリスが窮地に立たされていた時だった。彼は重犯罪の容疑者扱いになっており、重犯罪で逮捕され証拠が認定されると、内容にもよるが、再犯の可能性高しとして処刑される見込みが高まる。本来ならそのまま三騎へ連行されるはずだったがそれを証拠不十分としてリタが上官に訴え、二度も見逃した。その時のモーリスは見苦しいほど咽び泣き、この恩は決して忘れないと頭を垂れていたのを記憶しているという。

 ……これを聞いたゼクスは二人の関係を掴み取れた。またリタがここへ来る前、祓魔神官捜索の際に別件の犯罪で証拠不十分だとして容疑者を何人か解放したと話をしていたが、その何人かの一人がこの男だと察する。どうやら“継ぎ接ぎの館で人の流れを管理しているエミリアーノ・ポリシオの部下”とは同一人物であることが分かった。それにしても今こちらの命は敵の手中にある。過去の事でそれが真実であるとはいえ、リタのどこか挑発するような発言はゼクスの肝を冷やした。

「何が言いたい?」

 紅くギラついた目でモーリスがリタを睨む。だがリタは堂々と臆することなく自らの意思を伝えた。

「私たちに一回くらいはチャンスをくれてもいいんじゃないかってことよ」

「駄目ですモーリスさん。こんな奴ら、さっさと始末しちまいましょう!」

 セルゲイが容喙するも、モーリスは聞いてはいない様子でリタを睨んだままだった。そして一度深呼吸をすると、彼は気炎を上げていた先程と変わり今度はゆったり椅子に腰掛けじっとしている。何か考え事をしている様子だったが、やがて口を開いた。

「確かに俺はあんたに二度命を助けられたな」

「モーリスさん!」

 セルゲイはもう一度侵入者を速やかに処理することを訴えたがそれをモーリスは退け、ある提案をした。

「ひとつゲームをしようじゃないか。俺が勝ったら芋虫を飲み込んで知っている事を話してもらう。あんたが勝ったら解放してやる」

 敵の言うゲームとは如何なるものなのか知れぬというのに、リタは提案を即答で受け入れた。ゼクスとしても本当は知りたい事やしなくてはならない事、すべき事が沢山あるが、まずは命が大事だ。きっと彼女が勝利すると信じて、自らの運命を委ねた。

「ゲームって何?」

 モーリスはリタの質問に答えず、ひとまず着席を促した。すると二人が対面して座す構図が出来上がる。そこでモーリスがにやっと賤しい笑みを浮かべると、得意そうにゆっくりと言った。

「そうだな、ポーカーでもしようじゃないか」

 モーリスが机の引き出しからカードを取り出す。次にセルゲイを自分の左手側、リタから見て右側に座らせると、カードを切り始めた。カードの表紙は赤い幾何学模様で、子供の遊び用にも使われるようなシンプルなもの。その間にセルゲイも丸いチップらしき円形のものを用意し始めた。チップは木製で青い塗料により装飾されてはいるが、だいぶ使い込まれておりくすんでいる。また表面に数字が刻印されていて、一枚につきそれぞれ一単位、五単位、十単位であることを表していた。それをセルゲイは計百五十チップ分を配布した。

「ホールデムでいいよな。ルールは知ってるだろ?」

 カードを切り終えると、モーリスがセルゲイ、リタ、自分の順番で配布する。二枚目を配り終わった後、それまで黙っていたリタが言った。

「賭け事が貴方たちの得意とする韜略で、そこから私たちがチャンスを見出せるとあらばなんでも構わないけど?」

「そう、それでいいんだ」

 モーリスは従順な虜囚の様子を見て満足したのか、この部屋まで連行した部下を弩弓を持つ男二名だけ残し、残りは解散させた。部屋に残ったのはリタ、ゼクス、モーリス、セルゲイ、その部下二名だけになった。

 入れ違いで、遣いにやっていた部下が戻ってきた。手には透明の瓶をもっており、中には液体ではない何かが入っている。円筒状の形をした瓶は直径十五センチメートル、高さ三十センチメートルほど。それが卓上の誰もいないリタの左手側に置かれると、その場にいた全員が視線を瓶の中身に向けた。

 それはまさしく芋虫だった。

 体は人の中指よりも長く、太さは錬金術に使われていた試験管ほど。乳白色で体を蠕動させながら動く。彼らは瓶口を目指して上へ上へと登るが、蓋に阻まれて瓶底に落下する。動きは緩慢だがそれを何度も何度も、登っては落下、登っては落下、を繰り返している。特徴的なのは眼状紋で体表に規則正しい流れの列でびっしりとあるが、瞳にあたる部分が紅い。毒々しいというよりは狂気・妄信・凝望を印象に与える悪魔の芋虫が、何十匹も瓶に詰められていた。

「おい」

 モーリスがセルゲイに顎で説明しろ、と指示をする。それを見たセルゲイは、強面をそのままに指示通り説明を始めた。

「元々は人間を宿主にする寄生虫の類だったらしいが、教祖様が品種改良を重ね、ようやく出来たのがこいつなんだと。成虫にはならず、一度人間の体内に入ったら人間に依存して生き続ける。こいつらは今じゃ旧型なんて呼ばれてはいるが、ここの兵隊共は皆こいつを宿しているんだ」

 この時、ゼクスの脳裏にあのヴィクトリアが芋虫を飲み込む姿が浮かぶ。


『苦しい、助けて。でも我慢しないと……』


 彼女の事だからきっと自らの意思であれかあれと似たようなものを飲み込んだ。どうして飲み込まなくてはならなかったのかは分からないが、芋虫が“希代の毒婦”と呼ばれるほど人を変えてしまう効果があるのは間違いないのだ。

 ……捜査当局が寄生生物と呼び、幼なじみが魔に堕ちた原因である、南方の邪教の秘術についての情報が得られた。しかしその説明の中でゼクスは新たに疑問を持つ。

「(成虫にならない幼虫ってどういう意味なん……)」

 それに構わず卓上ではまた気になる話がされる。

「そういえばこの間、あいつ……ランドルフの野郎もここに来たな。こういうのは向いてないからよせっていったのに、“負けたままじゃ面白くない”とか、カッコつけやがってよ」

 ランドルフ?

 その名前に聞き覚えのあるリタとゼクスはモーリスの続く言葉に黙って耳を傾けた。

「ん?興味ないのか?子爵の息子だぞ?奴は芋虫を飲み込んでからどうしても抑えられなくなるのか、夜道を歩く人を襲うんだ。はっはっは、俺たちのおかげで辛うじて政治家をやっているがよ、流石にそろそろまずいかもな、あいつは」

 この話を聞いて、ゼクスは初めて二騎へやってきた時の事を思い出す。

 質問攻めのローズ、慌ただしく広い事務所を動き回る先輩のテンプル騎士たち。それに散らかり放題のスェーミの机。その机の上にあった週刊誌に、子爵の息子ランドルフによる暴行事件がスクープされていた。その件はリタも承知していたようで、少し意外そうに反応した。

「先日発刊された週刊誌に載っていたこと?あれは過去三回と同様でランドルフ氏に似た別人だったっていう結果で終わったと思ったけど」

 リタが言うと、モーリスとセルゲイはげらげらと笑った。

「とんでもない!全部あいつさ。子爵の頼みで俺たちが濡れ衣をかぶってるんだ。もう知ってるだろ?ウチのボスと子爵は繋がってるってよ。あっはっは」

 やはりあの書類のサインは本物だったようだ。これで政治汚職、邪教、『A』『B』『C』の出来事はより色濃く繋がる。しかも子爵の息子ランドルフ氏はこの恐ろしい芋虫を飲み込んでいた。即ち邪教徒だったのだ……!一体どこまでこの汚染は広がっているのかと、ゼクスは愕然とした。

 勝利を確信しているモーリスの話が続く。

「多分だが、俺たちの腹の中にいるこの芋虫、成虫になったら、ランドルフみたいになるんだろうな。つまり理性が利かず本能の赴くままに行動する、正真正銘の化け物になっちまうってことだ」

「それはないんじゃない?ランドルフ氏は先日議会の社会福祉についてしっかり答弁をしていたけど」

 リタの反論にモーリスが首を振る。

「あいつが政治家をやっていられるのも今のうちだ。じきに夜だけでなく陽の当たる時間も耐えられなくなる」

 ……遣いの部下が退室すると遂にゲームはスタートした。

 固唾を飲んで見守るゼクスも実はポーカーで遊んだことがある。特に訓練所で生活をしていた頃は教官らによる禁止令や監視の目を潜りながら盛んに遊んだ。勿論やるからには賭博の要素が盛り込まれもした。賭博といっても掃除当番を肩代わりするだとか給食の一部を譲渡するだとか子供らしい内容だ。今行われているようにアダルトな雰囲気でしかも命を賭けたゲームとは次元が違う。

 ――セルゲイが先ず参加料としてチップを卓上に置く。リタもチップを置いた。ここで各々手札を確認する。

「おいおい、ギャラリーもいるんだからマナー違反は止めてくれないか?」

 突然モーリスが唾を飛ばすほど激しくリタを非難する。当の本人は何を指摘されているのか分からずきょとんとしていたが、卓上に伏せたカードをとんとん、と指で突っつきながら嘲笑めいた視線を送るセルゲイを見て、彼女はやっとカードに問題があるらしいことを理解したようだった。

「まだ分からないのか?は卓上からカードを離すな。いいか、俺たちはプロだ。こだわりがあるんだよ」

 そうモーリスが厳しく指摘するとリタは、

「あら、ごめんなさい」

 ……と詫びるも、さほど悪く思っている様子はなく、モーリスは相手のマナー違反に苛立ちを隠すことなく舌打ちをした。

 ゲームが再開する。水を差されたモーリスは気を取り直し、レイズした。吊り上がった賭けに対しセルゲイは迷うことなくコールする。

 さて、ゼクスとしては自分の運命を託した我が上司は一体どう勝負するのか気になるところで、それにはカードの内容が重要になってくる。しかし当たり前だがいかにゼクスの視力が訓練所の折り紙付きで優れていようとも、彼女の背に隠れてしまっては見ることが出来ない。ただ、結果としてリタも迷うことなくコールした。

 ここでモーリスが卓上の横側に伏せていたカードの束を手に取ると、最初の一枚を卓上に伏せて置き、その下の三枚を手に取り、器用に並べた。コミュニティカードはリタから見て左からクラブの10、ハートのK、クラブの4だった。これを見た順番のセルゲイはリレイズした。

「さてはお前、なかなか良いのが来ているな」

 モーリスに言われたセルゲイは特に何も返事をしなかったが、ただにやりと意味ありげな笑みを浮かべる。その笑みからモーリスは何かを察したようで、声を上げて笑った。

「はっはっは、そうかそうか」

 しかしその笑いは次のリタの出方によって雲散霧消する。なんと彼女は、持てる全てのチップをこのラウンドに投じたのである。

 目を丸くして唖然とするモーリスとセルゲイ、そしてゼクスにも構わず、リタがいつもの凛とした様子で言う。

「お楽しみのところ悪いんだけれど、私は自分が勝つかのか負けるのかを早く知りたくてね」

 ……本当に彼女の言うようにただ勝負を早くつけたいだけなのか。それとも、敵を勝負から降りさせるための策なのか。それとも、それ以外のまた別の策があっての事なのか。それとも、ただ勝つ自信のあるカードを持っているからなのか……。

 コミュニティカードが公開されてからのことなので、どうとでも捉える事が出来る。全ては彼女の手元にある二枚のカードが鍵を握っており、それを裏返せば簡単に意図を暴けるが、“ゲーム”という制約の中にあるためその秘密は守られている。このようにリタが計らずとも心理戦に陥った卓上では、雰囲気が完全に凍りついてしまった。それを嘲笑うかのように、瓶の中の芋虫たちは忙しなく上へ上へと登っては落下するのを繰り返していた。

「ちょ、副長。いくらなんでもそらまずいんちゃいますか!?」

 思わず駆け寄ろうとしたゼクスを部下の一人が制する。その時彼は、この敵が奪われた自分の武器を腰から提げているのに気付いた。

 一方卓上ではゼクスの挙動により時計の針がやっと動き出し、それは多分に無理を押し殺したものだったが、モーリスは笑い、それに倣ってセルゲイも笑った。

「オールインだと?あんた分かっているのか。負けたら終わりなんだぞ。こいつを飲み込むことになるんだぞ」

 芋虫を飲み込めばその瞬間、邪教徒になる。芋虫を飲み込んだ時に起こる体の反応や効能も想像するだけでおぞましいものがあるが、テンプル騎士団に邪教徒と分かれば即抹殺されるか連行され処刑される運命だ。

 それにも関わらずモーリスの言葉にリタは表情を変えず髪を撫で、

「貴方こそやるの?やらないの?どっち?」

 ……と、ゲームの続きを促した。

 モーリスとセルゲイが思わず互いの顔を見合わせる。二人が目で伝え合う意味は共通していた。


『この女、クレイジーだぜ』


 モーリスは愉快だった。実に愉快だった。おそらくだが、女の胆力が並外れているのを考慮すれば、これはハッタリだ。それにどのみち女が勝ったところで芋虫を飲ませるつもりであったし、飲ませたあと従順になったところで男の欲望を満たすための玩具にするつもりでもあった。その時は部下にも遊ばせてやるか。

 そう弾んだ思いでセルゲイの紅い瞳を見ていると、突然彼が宙の一点を凝視したままになった。

「!?」

 モーリスとセルゲイが顔を見合わせた時間は秒をいくつか刻んだ間ほど。その僅かな間に、セルゲイの首元にナイフが深々と突き刺さっていた。

 びくん、びくん、とセルゲイが痙攣しながらどす黒い噴血を撒き散らす。血はテーブルまでには至らなかったが、ナイフを突き刺した時の返り血らしきものがリタの顔をべっとり汚していた。

 部屋ではゼクスと部下二名による戦闘も行われていた。それはリタが隠し持つ武器までチェックせず、テンプル騎士たちが提げている剣を奪っただけですっかり無力化したと思い込んだ慢心からなのかもしれない。とにかく、モーリスの部下たちは致命的とも言えるほどリタによる電光石火の早業に反応出来なかった。彼女はセルゲイにナイフを突き刺すのと同時に、ゼクスの武器を腰に提げている後方の敵にも目掛けて刃渡り十五センチメートルほどのナイフを投擲していたのだ。投擲されたナイフは胸に刺さり、敵が悶絶しているところをすかさずゼクスが洗礼の剣を奪い返す。そしてヴィクトリアの時のような防衛本能などではなく、敵を討つという明確な意思の下、青白いオーラを纏いながら袈裟斬りをした。持ち主の手に戻った洗礼の剣が欣喜雀躍しているのか、迸るようにオーラが燃え上がる。

 最後に残った部下は狙う相手をどうするか、極わずかな時間逡巡したが、弩弓をゼクスに向けると引き金を引いた。

 矢は真っ直ぐ進み、そのまま行けば確実に突き刺さる。だがそうはならなかったのはこの若きテンプル騎士に元々具わる類稀な能力が発揮されたからに他ならない。ゼクスは矢の動き、スピード、自分に到達する場所・時間といったデータを感覚として予測し、加えて矢を剣で弾くために必要なデータと合わせて、完璧なタイミングで迫り来る矢を弾くことに成功する。そうしたら後は簡単だ。予想だにしない結果に驚き次の矢を装填しようとする敵を斬り伏せるだけである。

 この部屋の中においてでは、形勢は完全に逆転した。

 卓上ではリタが返り血を気にする様子も無く、かといって一時的な勝利に調子付くこともなく、モーリスに向けて毅然と次のように言った。

「失礼、これはハウスルールでね。貴方、賭け事に関してプロだというのなら正々堂々と一対一で勝負しなさいよ」

「ぐっ、このアマぁ……!」

 虚空を見つめるセルゲイの痙攣はおさまったが、今も尚首からはだらだらと血が流れている。部下を次々と失いプライドも傷付けられたモーリスは、赤い瞳を炯々と光らせ憎悪の眼差しをリタに向けるが、当の本人は臆することなくゲームを進める。

「親は時計回りでいいよね」

 リタはモーリスから目を外さずに卓上のカードを集めると、それをセルゲイの場所へ置いた。

 ……反応は無い。

「親を見送るようです」

 そう言って今度は自分の手元へカードの束を置くと、そこで我慢ならなくなったのか、モーリスがテーブルを激しく叩き立ち上がる。だがリタの方が早かった。彼女は一体いくつ隠し持っているのか、ナイフをくるくると手先で器用に回し、ぴたっと刃先をモーリスの眉間に向けて立ち上がっていた。

「勝負を降りるの?それなら私の勝ちね」

 どこからともなく煙の臭いがする。その臭いは段々と強くなってゆき、部屋の中は煙も見られるようになった。

 間違いない。継ぎ接ぎの館のどこかが燃えているのだ。それでも動揺せず涼し気ですらあるリタは、焦慮と怒り、敗北による悔恨でぐちゃぐちゃのモーリスに言った。

「私の勝ちだけど、一応貴方の質問には答えておきます。内通者については気になるけど、私は本当に知らない。分かった?」

 次は私の聞きたい事を答える番だ、と前置きすると、リタはずばり質問した。先程モーリスが連呼していた“集会”の場所についてだ。するとこの東洋人の小悪党は哀れなほどに顔を青くしてよろよろと後退りを始める。恐らく、衛兵隊やテンプル騎士団に情報を与えたら身内からも粛清を受けるのだろう。目先の命を取るか、それとも邪教徒としての本懐を遂げるため戦うか、この男に究極の選択を迫られた。

 後退るモーリスと刃先を向けたまま追うリタとの攻防が続くと、絞り出すような声でモーリスが言う。

「だ、だ、誰がお前らなんかに場所を……」

「死にたいの?」

 ちくっと背中に何かが当たる感触がしたので、モーリスがひいっ、と情けない声を上げて立ち止まる。全神経を背中に集中するとどうやら先端が尖ったものを突きつけられていて、そこには何故かリタの気配がした。しかし前方にいるリタはまだナイフを向けて、テーブル一台分ほどの距離を保ちこちらを見ている。ただ先程と違うのは、今の彼女からは全身を縁取るように青いオーラを帯びており、それがゆらゆらと立ち昇っていた。

「(二人?あの女が二人いる……!?)」

 モーリスは背後にいるリタに反撃を試みようと、突きつけられた刃物を避けるように素早く身を翻した。果たしてそこには紛れもなく青いオーラを立ち昇らせたもう一人のリタがいたが、今度は首元にナイフの刃を突きつけられてしまった。

 モーリスの背後からリタの声がする。

「さっさと話してくれない?焦らされるのは嫌いなの。私はね、本当なら先ず最初に貴方たち全員を小間切れにしてから捜査を進めたかった。けれど生きた情報も必要だし、それだとあの子を守らなければならないから」

 いつの間にか部屋から姿を消したゼクスを確認した後にリタが言う。その声色は今までの彼女から想像のつかない、暗く冷たい殺気に満ちたもので、それは脅しではなくやると言ったら確実にやる凄みと、その言葉通りにしてしまう恐るべき能力がある事を内包していた。

 一体何が彼女をこのようにさせるのかと、前門の虎後門の狼といった具合だというのにモーリスは考えてしまったが、ちくっともう一度背中に刃物を突きつけられると、彼はついに観念した。

「わ、分かった。話す。話すから勘弁してくれ」

「言っておくけど、貴方は邪教徒だからここで難を逃れても命は狙われ続けるからね」

 この時、勢いよくドアが開けられる。すると更に煙が部屋の中に入り込み、モーリスが思わず咳き込んだ。ドアからはゼクスが飛び込んで来たが、彼は息を切らしひどくくたびれた様子で、コバルトブルーの目も混乱、不安、躊躇といった感情が綯い交ぜになっており、彼の身に何が起こったのか推測するのが難しかった。

「ふっ、ふっ、副長。さ、さ、三人斬りました。そ、そ、それと副長の武器も取り返しました!」

 ゼクスが戦果の報告と共に両手でリタの双剣を掲げる。

「ありがとう。私もどこに持っていかれたのか気が気でなかったの」

「あ、あと、衛兵隊が。衛兵隊が館を取り囲んでいて、火箭を放ちました!」

 この時同時に起きていたのは衛兵隊による一斉検挙作戦。これまで彼らは三番街の東端で貧民街の住民が屯しているのを見て見ぬふりをしていたが、やっと重い腰を上げて、強制退去させる作戦に踏み切ったのである。彼らは先ず逃走を防ぐために三番街の東端を包囲。次にその包囲網の中で、屯す貧民街の住民を捕縛する実行部隊を展開した。実行部隊の指揮を執るのはあの蟇隊長。彼の管轄は七番街から九番街だが、血気盛んな性格故に本作戦に加わるのを自ら名乗りを上げたのである。また本作戦は子爵の横槍に屈せず大いなる決断を下した次長補捜査官ヨアヒムによるものだが、その命令内容によれば、継ぎ接ぎの館は証拠保全のため破壊せず館内に直接踏み込んで制圧する、というものだった。だが蟇隊長はその事をすっかり忘れてしまい、火箭を放ちそこから炙り出てきた者を捕縛することしか考えていなかったのだ。

「副長。ひ、ひ、ひ、火が。火がそこまで!」

 敵との戦闘、それに燃え広がる火災によってパニックになりかけていたゼクスが、何故か二人いるリタを気にせず叫ぶ。

「おい!なんでも話すから早く解放してくれ!焼け死んじまう!」

 モーリスまで叫ぶと、どうやら本当に時間が無いと判断したのか、リタはゼクスにここが一番大切な所だから落ち着くように、と伝え、モーリスには質問に対し手短に答えるよう念を押した。それを合図にモーリスが話し出す。

「集会の場所ならこ、今度の未明、九番街にある秘密の洞窟でやる」

「その秘密の洞窟の場所は?」

「八番街寄りの岩石海岸地帯だ……!よ、夜の引き潮になると入り口が現れるから誰も気付かない。昔はあんたたちが地下古道と呼んで管理していた所だがいつの間にか忘れ去られて放置していたのを使っているんだ。そこでボスとボスに接近してきた教祖の女とで、決起の儀なんてのをするらしい」

 邪な増長を続ける貧民街を牛耳り、ヴィリエにすら影響を与えるあのエミリアーノ・ポリシオと、ヴィリエを蝕む邪教の教祖がついに姿を現す……!

 ゼクスは火の手を気にしながらも、この具体的で有力な情報により十分スェーミに近付いたと満足するが、リタはこれだけでは終わらない。更にちくっとやってモーリスを脅すと、また有力な情報を引き出す事が出来た。

「お、お、俺も詳しくは知らないが、なんでも教祖の女は教会の神官としての顔もあるんだとよ。それを隠れ蓑に色々やってるって話だ」

 邪教は貧民街だけでなくヴィリエの政治家までも抑え、衛兵隊とテンプル騎士団に影響を与えているが、それだけではなく、教会にまで暗躍していた……。もしこれが事実だとしたら一体邪教はどれだけヴィリエに侵食しているのだろうか?

「教祖の女はどんな奴?」

 リタの質問にモーリスが首を左右にぶんぶん振って答える。

「し、知らない。本当だ!いや、チラッとだけ見た。背の高い女だ、俺よりも……」

「背の高い……?」

 少し考えている様子のリタだったが火の手を心配するゼクスを見て、あと二つ、と言って質問を続けた。

「どうして街の人を攫ったりなんかしたの?」

「ボスは貧民街の住民でも、堅気に芋虫を飲み込ませることはしなかったんだ。でもそれだと人が足りないからやれって……」

 つまりヴィリエからいなくなった人々は、皆この瓶に詰められたおぞましい芋虫を飲み込まされたのだ。邪教と貧民街側の勝手な都合で……。

 モーリスに押し当てられている首元のナイフがぐっと強くなる。血管が切れるほどではないが、細い流血の線が伝った。

「貴方たちはサイテーね」

 リタがそう非難するとモーリスも応酬した。

「ボスと子爵がやれって言ったんだからしょうがないだろ!あんただって上司がやれって言えばやる時もあるだろうがよ!」

 ……最後の質問になった。リタはモーリスに犯行声明文について問うた。

「犯行声明文?ああ、ええと、二ヶ月前くらいのあれか。あれは子爵からの依頼をボスが受け、ボスの命令で俺たちが衛兵隊と教会に送った。部下に書かせたから酷い内容だったそうだが、概ね子爵の指示通りの内容だった筈だ」

 またもや子爵、それにエミリアーノ・ポリシオが関わった出来事だった。しかし文の内容まで子爵が指示していたとは意外である。これは内容を確認せねばならないが、ひとまずリタは油断なくナイフを下ろして約束通りモーリスを解放した。すると彼は一目散にドアの外へと走り去ってゆく。ここで二人のリタが歩み寄り重なって元通りになり、青いオーラもすぅっと消えた。そして何事も無かったかのようにゼクスから自分の武器を受け取る。

「それじゃあ、私たちも出ようか」

「ふっ、ふっ、副長、お、お、お、落ち着き過ぎです。もう火ぃやばい事になってますよ!」

「えっ、そんなに?」

 二人が大急ぎで部屋を出る。火の手はもう直ぐそこまで迫っており、煙のせいで前がよく見えない。そして当たり前だがとてつもなく熱かった。

 リタはゼクスを庇うようにして身を低くし、火に触れないよう、またお互いが煙を吸引して一酸化炭素中毒にならないよう口元に手を当てた。部屋を出て左手には頑丈な両開きの扉があったが、そっちはおそらく貧民街へ続いている上に炎の壁によって閉ざされている。行くとしたら右手に進みそのまま真っ直ぐ行って出口を目指すべきだが、そちらは燃え崩れた瓦礫によって塞がれている。つまり、二人の退路は閉ざされてしまったのだ。モーリスは一体どこへどうやって逃げたのか?

「熱いし煙でなんも見えへん……こらもうあかんのちゃうか……」

 ゼクスが咳き込みながら言葉を漏らす。

 訓練所で教えられた怪物よりも、武器を持って襲いかかるこの館の敵よりも、ずっとずっと恐ろしい、物が燃えるという現象。人は扱いきれなくなる可能性があるものにどうして手を出してしまったのかと、この絶体絶命の状況になって彼の頭脳を巡る。最早ゼクスには打開策など何一つとして思いつかなかった。多分、このままだと彼の物語はここでゆっくり煙に包まれ、やがて掻き消えてしまうだろう。

 但しゼクスは信じる事を諦めてはいなかった。それは朧げで遠い遠い存在である女神イリスのことではない。血を通わせ容易に傷付いてしまう人だ。人を信じるという行為は身近で、私たちが日常的に行っているコミュニケーションのひとつである。それだけに今のゼクスには近くて手が届きそうで、非常に心強かった。それが生きることの執着へと繋げさせるのだ。

 この時のゼクスはひとりではなく、すぐ側にリタがいた。死ぬのを待つしかない自分とは違い、彼女なら何らかの突破口を見つけるはず。無ければ、作ってさえしまうはずだ。彼女はこの大事件を解決するまで決して諦めない。ここで焼け死ぬことも考えていないだろう。ゼクスは燃え盛る火に包まれようとしている中、そのようにリタを信じた。

 コンビの相方が吐く弱音を真に受けとったのか、リタが言う。

「諦めないで。私が必ずなんとかするから」

「副長……」

 この人と出会ったのはいつだろう。

 訓練生時代から?

 孤児院時代から?

 悠久の昔から?

 どれも違う。たった数時間前だ。

 ……なのに、どうして彼女をこうも信じることが出来るのか。

 僕は、勘違いをしているのかもしれない。

 それでも一切の知覚を退けて、空間と時間を超越した宇宙に漂う運命というものがあるのだとしたら、それを信じたい……。

「今、目を閉じたまま走れる?」

 ぱちぱちと物が燃えて崩れる音に紛れて、リタの緊張した声がゼクスの耳に入る。

 道は閉ざされているのにどこへ走れというのか。ゼクスはそのように思ったが、体を動かせない訳ではないので可能である旨を伝えると、伝えた途端、彼はぐいっと右腕を引っ張られた。それから、走った。

 走って走って、一体どのくらい走るのかと思う時になって、今度は僅かな時間、宙に浮いた。次に体が叩きつけられる衝撃。これは痛かったがその後に感じる熱度が火災から解放されたのか真夏なのに涼しいほどで、しかも呼吸がまともに出来るようになったお陰でひどく咳き込んだ。ゼクスはその場で休みたかったが否応なく起こされるとまた引っ張られ、走り、そしてまた倒れ込んだ。それからは起こされることもなければ引っ張られることも、走ることも無かった。己の身に何が起こったのかよく分からないゼクスだったが、とにかく死の炎から逃げる事が出来たようだった。

「おい、建物から誰か出てきたぞ!」

「二人ともテンプル騎士だ!」

 衛兵隊員らしき男たちの声が聞こえてくる横で、

「ゼクスくん、大丈夫?」

 …と声も聞こえたので、ゆっくりゼクスが目を開ける。

 果たしてそこにはリタがいた。流石の彼女も大儀そうで同じく咳き込んでおり、艶のある金色の髪を焦がしてチリチリにさせ、敷石の地面にぺたりと座り込んでいる。その背景には今にも燃え崩れようとしている継ぎ接ぎの館があった。

 ただ捜査をしに来たというには随分と大事になってしまった感は否めないが、なにより自分たちは生きて表に出られたのだ。ゼクスは咳き込むのがおさまると、今度はその安心感から目が潤んだ。

「大丈夫?立てる?」

 返事をしないゼクスを心配したのか、リタがいつの間にか立ち上がっており、手を差し伸べる。彼女の顔は敵の返り血と黒い煤ですっかり汚れてしまっていたが、ゼクスが差し伸べられた手を取ると、にっこりと屈託の無い笑顔を浮かべた。

「(あ……デジャヴ……)」

 真夏の青空に不釣り合いな激しい炎を燃え上がらせ、まもなく崩れようとしている、いや、たった今崩れた継ぎ接ぎの館。そして差し伸べられる手。

 ……いいや、デジャヴなどではない。あのルーティングテーブルの村で全てが終わった時、スェーミにも手を差し伸べてもらった。背景も同じような感じだ。リタは笑顔でスェーミは無表情だったが、思えば二人は似ている。リタはこれからどうするか、何を考えているのかをしっかり周知し、行動を起こす時は素早く。スェーミは伝えるべき事を伝えると後は一切何も話さず、素早く行動を起こす。彼らは素早く行動を起こすことに関してはよく似ていた。

「顔は真っ黒だけど大丈夫そうだね」

「はい、副長。あっ……」

 ゼクスは手を差し伸べたリタの右手の甲から、装備を引き裂いて血が滲んでいるのを確認した。それから本人は大したことはない、大丈夫だ、と断りはした。断りはしたがしつこくさせてくれ、とせがまれ、結局ゼクスの治癒魔法により治療を受けることとなる。傷はあっという間に無くなり、なんと焦げてチリチリになった毛髪まですっかり元通りにしてしまった。それは魔法使用者のゼクスも同様だった。

「ときに副長、どうやって僕たちは脱出を?」

「ああ……あまり得意な部類ではないのだけれど、防御魔法を使ってね」

 ひと言で防御魔法といっても様々なものがある。

 敵の物理的な攻撃を緩和したり弾き返したりするものから、風雨を凌ぐ程度ものや雪山の猛吹雪、今回のような火、高熱のガスなどを和らげたり完全に遮蔽してしまうものもある。彼女はありったけの力を使ってその防御魔法を展開し、ゼクスを庇い引っ張りながら出口に向かって走った。多少の瓦礫なら問題無かったが、出口付近にあるものはかなり大きく防御魔法が保てるか心配だった。だが思い切って体当たりをした結果、無事に脱出を果たせたらしい。

 簡単に言えば魔法を使った。後はただ走った、ということになる。普通ならその無謀さに唖然とするかもしれないが、ゼクスの場合、潤んだ目から涙が零れた。勿論悲しみの涙などではない。リタを信じて信じ抜いて、望み通りになった嬉しさからだ。

「ふん、テンプル騎士団がいるとはなっ」

 二人が声をした方を向く。

 そこには蟇隊長が腕を組み、せせら笑うように立っていた。それを見たリタの目が、今度はギラリと鋭くなる。ゼクスにはまだこれほどまでに凄まじい怒りの炎を宿した彼女を見た事がなく、囚われの身となった時のように押し黙ってしまった。

「モーリスは?」

 短く問うリタに蟇隊長が悠々と答える。

「モーリス?誰だそれは」

「東洋人の男なんだけど」

「はっ、知らんな。だがここを不法に占拠し薄汚い建物まで建築した輩は皆邪教徒だと聞いておる。そいつらは出てきた所を全員とっ捕まえてやったわい。あっはっは」

 モーリスは焼け死んだのか?いいや、悪運の強い彼のことだから無事に館からの脱出を果たし、復讐の機会を狙うだろう。その時がきっと彼と相見える最後となる。

 だがリタの質問は続いた。

「作戦の責任者は誰?」

「ヨアヒム捜査官殿だが……」

 少し言い淀む蟇隊長。リタの質問はまだ続く。

「ヨアヒムが火を放て、と命令したの?」

「そ、それは……ええい!いちいち貴様らに説明する理由などないっ、さっさと立ち去――」

 蟇隊長が言い切る前に、リタが彼のぴちぴちの隊長服の胸ぐら掴む。そして激しく揺さぶり柳眉を逆立てた。

「証拠はどうするの、証拠は!衛兵隊のせいで全部燃えてしまったじゃない!ヨアヒムなら火を放て、とは言わない。貴方にはもっと別の命令をしたはず!」

「え?しょ、証拠?なんの?え?え?」

 図星なのに加え、自分がとんでもない失態を犯したことに気付き始めた蟇隊長は目をぎょろぎょろと動かし、先程の勝ち誇り自信に満ち溢れた態度が惨めに瓦解する。これを見たリタは長い吐息をついた後、どん、と蟇隊長を突き放し、ゼクスに向き直った。

「行こう、ゼクスくん。まずは顔を洗わないとね」

 そう言う彼女の目にもう怒りの色は無く、これにほっとしたゼクスは潤んだ目を拭うとゆっくり頷いた。

 ………

 ……

 リタとゼクスは三番街の東端を後にすると、同じく三番街の一般市民が利用する教会で休憩を取った。次に幹線通りまでやって来ると、ゼクスはやっと緊張が解けて余裕を取り戻す。そしてつい先ほどまで死の危険が迫っていたというのにどうしてかあの冒険が遠い過去のように思えてしまい、そんな今ひとつ信じられないような感覚を抱きながら、隣を歩くリタに継ぎ接ぎの館での出来事について色々尋ねた。彼女もすっかり落ち着いている様子で、時々困った顔をする時もあったが、概ね微笑みながら答えていた。その内容の中に重要な証拠を目にしたり、気持ちの悪い芋虫を見たり、敵に囚われたり、と色々あったが、ゼクスが特に興味を示していた事のひとつに、モーリス、セルゲイとのポーカー対決があった。ポーカー対決と言っても勝負という勝負、それに駆け引きはあまりなされず、俄に終わってしまったが。

「ねえ、副長。オールインした時のカードってどんなだったんですか?」

「オールイン?ああ、ポーカーの時の話?確かスペードの2とダイヤの2だったと思うけど」

 なんと、あの時の彼女の手札は最弱のカードが見事に揃っていた。なんとか役を作れたとして、それも最低に弱い。となると、相手をフォールドさせる為に心理戦へ持ち込む上級者向けのプレイが求められるゲームだったようだ。

 自分たちの命が懸かっているゲームだというのに平然としていた彼女の肝っ玉に改めてゼクスは感心したが、同時にルールに厳しく“鬼”とまで揶揄される人物がポーカーをするという、その絵が非常に貴重であるともまた考えていた。

「それにしても副長がポーカー出来るなんて意外やわ。僕も出来なくはないけど、直ぐ顔に出てまうから弱いんです」

 そうゼクスが切り出すと、リタは不思議そうな顔をして次のように述べた。

「私はポーカーなんて初めてだし、やり方も知らないよ?」

「……え?」

「あれはただ前の奴と同じように合わせてただけで、後は勝手に進行してくれるから」

 リタはあの時、短い間ではあったがポーカーをしていたのではなくただ座っているようなだけだった。勝負強いというよりは相手が自滅した、或いはその隙を見せた、と言った方が正しいのか。この事実を知った直後のゼクスは、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。

 そんなゼクスを他所に、リタが仕事の話を始める。

「ゼクスくん、モーリスから聞けた情報を整理するけど、明日の未明に邪教の集会があるんだったよね」

 一旦歩みを止め、建物の日陰になっている歩道帯の端へ移動すると、リタが顎に手を当てて確認した。これは極めて有力な情報で、一気に事件の核心へ近付くものと言っても過言ではないだろう。ゼクスも抑え難い意気込みをそのままに、リタの確認に答える。

「そうですね。スェーミさんは現れるかどうか……」

 自分たちのこれまでの捜査上にスェーミの存在が現れないのは、彼とはまた違う方向で事件を追っている事を示している。つまり、スェーミは事件を隅々まで把握していないのだ。しかし情報が確かならば、彼もきっと邪教の集会に姿を現すはず。食事や睡眠を満足にとらず、無精髭を伸ばし、ボロボロの姿で煙草をくわえる彼の姿がゼクスの脳裏に浮かぶ。

「あいつの事はとりあえず放っておこう。うまくやってるでしょ、多分。それより、その岩石海岸地帯で引き潮の時に現れる洞窟なんだけど、場所はどこだか分かる?」

「あ、そういえば……」

「分からないよね?実は私も」

 ヴィリエに点在している、モーリスが言っていたような洞窟や地下古道の多くは塞がれ、意図的に残した僅かな数しか存在しないのは二人とも知っていたし、その僅かな数の洞窟や地下古道がどこにあるのかも、訓練所の教育や二騎の巡回警備任務を通じて知っていた。だが九番街の人が寄り付かない八番街寄りの磯の方に洞窟があるというのは二人の知識の中には無かったもので、リタはこの事についてずっと対策を講じていた。もし今度の未明に邪教の集会が行われるのが確かなら、今から九番街に行ってどこにあるかも分からない洞窟を、たった二人で探して間に合うだろうか。いいや、今は探すことすら叶わない。モーリスによればその洞窟は夜の引き潮時に入り口が現れるというからだ。

 これにより、リタが今思案する内容は“どこに洞窟があるのか”ではなく、“どうやって洞窟を見つけるのか”にあった。そこで彼女は、既知の仲である第四騎士隊の隊長に捜査協力を要請することでこの問題を解決しようと考えていた。四騎は九番街連続殺人事件に関して拱手傍観の姿勢を取っているが、彼女としてはこれが気に入らず、力づくでも協力させようとしているのも、その思考内容の内に含まれていた。

 リタがこれらの事を包み隠さずゼクスに話すと、彼は敬礼し了解、と答えた。それからリタはまた次の提案をした。

「よし、そうしたらここで一旦解散しよう。私はこれから四騎に行くから、ゼクスくんは戻って報告書の提出、通常業務に戻りつつ時間まで待機」

 この提案はゼクスからすれば残念なものだった。それは何故かというと、お互い昼食もまだ済ませていないのだし、折角なのだからどこかのカフェにでも立ち寄って飲食を共にしながら、興味関心事や愉しい事、感想を述べあったりしたかった。またそういった内容の話をする時のリタの表情を見たいというのもあった。要は仕事以外の話をすることで、お互いに懐を開く機会が欲しかったのだ。

 なんとなく悄然とするゼクスだったが、そんな彼の様子を見てかどうかは分からないが、リタがまた続けて次の提案をした。その内容はゼクスの靉靆する心を吹き飛ばすほど魅力的で、予想外のものだった。

「それで、夜に私の家に来ない?晩御飯を御馳走してあげる」

「えーっ、ほ、ほ、ホンマでっか!?」

 この世界の何処かにいる美食家が、“誰と一緒に食事をするかは何を食べるかほど重要な事ではない”と述べているのをゼクスは聞いたことがある。

 食事は、理想としては、好きなものを好きなようにして、好きな事をしながら、好きな人と行うべきだ。特に好きな人との食事というのは、それが美味かろうが不味かろうが感動の共有となる。それに冷たくて固くなった不味い食事を食べ続ければ、ただ暖かいだけでも感動出来るはずだ。

「うん、腕をよりにかけて作るから」

「よっしゃー!それで、何処に集合します?」

 歓喜と興奮で震えるゼクスに大袈裟だなあ、と微笑むリタは、集会の時間が未明であることを計算して、合流場所を十九時に八番街の検問所を指定した。

 八番街はヴィリエでも中心街の次に特殊な場所とされており、そう云われるのは南にある山々から流れる大きな川や地形が由来する。川はヴィリエまで真っ直ぐ流れ、それが五番街に到達すると二手に分かれる。一方は中心街へと進み、地下の水脈と合流する。もう一方は針路を変更し六番街の街中を斜めに流れてゆき、それが途中で八番街を隔離するように枝分かれするとヴィリエの西端に面した湾へと放流する。真上から見ると、川と川とで挟まれた状態にあるのが八番街だ。七番街と九番街の境はこの川が目安になっているが、これらを通じて八番街へ行くことは困難を極めるだろう。何故なら、先ず川幅が広く且つ水流が急な事が挙げられる。次に八番街は川を隔てて勾配のある丘陵地帯になっており、登攀しようにも岩石海岸に似た天然の峻険たる壁が行く手を阻むのである。八番街は湾に突起するような形状の場所があって、地形学では半島と分類される。この半島は北から西は紺碧の海と砂洲、それに陸繋島が、南からは遠くの山々が一望出来る風光明媚な場所。向きを変えて東からはジバナーツァル大聖堂や子爵邸といった中心街も含めたヴィリエの街並みも望めるという、絶景ポイントである。当然この場所に住む者らは皆富裕層や権力者、由緒ある貴族といったもので、防犯と防災を兼ねて半島の入り口に検問所が設けられている。これが“八番街の検問所”と呼ばれるもの。通過するには住民か通行証がなければ許されない。

「八番街の検問所って……もしかして副長はそっちの方に住んでるんですか?随分遠い所から来てるんですね」

 ゼクスの問いにリタがどこか遠くを見るような目をして答える。

「お父……ああ、ええと父が用意してくれてね。不要だとは伝えたんだけれど」

「へぇ~!副長の部屋、どんななのか楽しみです」

 自分の住んでいる寮のような場所をイメージしたゼクスが目を輝かせる。リタは、

「うん、まぁ、とりあえずその時間と場所でよろしくね。検問所は私と一緒なら通れるから」

 ……と苦笑しながら言って、自分の住居について多くを語らず話を終わらせた。

 この後二人は辻馬車を拾うと、先ずは二騎へ向かった。誰かと辻馬車に乗るのはスェーミ以来だな、と心地よい風を感じながら思ったゼクスがふとすぐ隣のリタに目をやる。彼女は座席にゆったり背中を預け、外の景色をぼんやりと眺めていた。黙って沈思黙考を続けるのはなんというか彼女らしくなくて、心なしか物憂げな表情すらしている。少々デリカシーに欠けるかもしれないが何を思考しているのか興味も有り、ゼクスは尋ねてみることにした。

「副長、どないしたんですか。何か捜査の事で気になることでもあるんですか」

「え?ああ、何を作ろうかと思って」

「作るって何を?」

 きょとん、と首を傾げて問うゼクスに、彼女にしては珍しく悪戯っぽく微笑んで答える。

「ゼクスくんと食べるご飯ですが何か?」

 答えるリタを見て、野暮なことを聞いてしまったとゼクスは苦笑した。それに夏の暑さとは別の汗も一緒に頬を伝う。

「あ、そ、そ、そうですか。あっはっは」

 嬉しい。嬉しいことなのだが、何も黙ってそんな表情をしなくても、とゼクスは思う。リタからすれば沈黙とそれに付きまとう気まずさだとかいうのをものともせず、本当にただ思案していただけなのだろう。

 女性とは……いや、人間とは、私的な会食というイベントに対し、得てして魅力的な未来を想像するものなのだ。ゼクスとリタは職場の上官と部下という関係で、この場合私的というには意見が分かれるかもしれないが。

 そうこうしている内に二騎に到着した。ゼクスは下車すると座席のリタに手を振って辻馬車の出発を見送る。リタも手を振って返し、辻馬車は四騎へ向けて出発していった。

 さて、時刻は午後三時をだいぶ過ぎた頃だろうか。報告書の提出を指示されているが、ゼクスとしてはひと休みしてからにしたかった。いや、それより昼食がまだではないか。リタとの食事は非常に楽しみだが、その前にやらなくてはならない報告書の提出云々をこなすためにも軽く腹ごしらえをした後が良い。ゼクスはそのように考えると、先ず食堂に向かうため二騎の正門を潜りエントランスに入った。ところがそこで意外な人物、あのヨアヒムとばったり会った。

「あっ、ヨアヒムさん」

「君は確かスェーミと一緒だった……」

 ヨアヒムは最初に会った時と同じ、白いシャツを腕捲りしノーネクタイ。グレーのスラックス、黒の革靴を身に付けた、次長補捜査官とは思えぬラフな格好だった。彼は直ぐに真剣な顔になり、その後はどうか、体調は万全なのかとゼクスに尋ねた。あのおとり捜査の夜、冷然と対応するスェーミから庇おうともしていたし、彼なりに心配していたのだろう。これにゼクスはもう通常通り勤務に戻っている事、心配してくれた事に対する謝意を伝えると、ヨアヒムは安心したのか表情を緩め、微笑んだ。

「無理はするんじゃないぞ、ルーキー」

 そう言って白い歯を見せる彼はなんとも爽やかで、頼りになる兄のようだった。ゼクスは気恥しい思いをしながらではあったが、夏の澄み切った空のような微笑みをするこの男との出会いを嬉しく思う。

「ところでヨアヒムさんはどうしてここに?」

「うん?ああ、実はね……」

 彼の話では、三番街の東端で展開した衛兵隊による一斉検挙作戦は速報として一網打尽の成果を挙げたらしく、その報告を隊長のナハルヴェンへするためにやって来たのだとか。どうして衛兵隊のヨアヒムがテンプル騎士団のナハルヴェンに成果の報告をするのかは話さなかったが、ゼクスが後に知ったところによれば、作戦の中止を求める子爵を介入させぬように予め手筈を整え、それを実行したのは他ならぬナハルヴェンだった。ゼクスたちの知らない所で政治的な駆け引きがなされ、それに勝利したのがあの作戦だったのだ。更にその後聞いた話によれば、命令を忘れて継ぎ接ぎの館を焼失させてしまった蟇隊長は譴責程度で済んだらしいが、暫くはでしゃばった真似をせず大人しくしていたという。

「ナハルヴェン殿も話が分かって助かる。ヴィリエは組織の垣根を超えて、協力しあって守らなければならないんだ」

 ヨアヒムが頷きながらそう言った。彼は今回の成果に満足な様子で持ち前の使命感をめらめらと燃やしているが、ふと何かを思い立ったのか、めらめらがおさまると今度は声量を下げて、そっと静かに尋ねた。

「ときにゼクス君……君らの副長が遠方の任務を終えて戻っていると聞いたが何か知ってるかい?」

「副長?リタ副長の事ですか?」

 ヨアヒムが視線を宙に泳がせ日焼けした鼻の頭を触りながら、そうだ、と答える。彼らしくもない歯切れの悪さだった。

「副長とならさっき分かれたばかりで、四騎に行きました。その、九番街の件で……」

 それを聞くとまたヨアヒムの表情が険しくなった。そういえばスェーミと同じく彼も同事件の捜査をしていると聞いたことがあるが、進捗は一体どのようなものなのだろうか。ゼクスは衛兵隊の捜査状況も知っておきたく尋ねたが、彼は首をゆっくり横に振った。

 何故?今しがたヴィリエは組織の垣根を越えて守るべき、と述べていたではないか。ゼクスは動揺したが、捜査の事は軽々しく人に話さない方がいい、と念を押すとヨアヒムは、

「また会おう、ルーキー」

 ……と言い残し、足早に去って行った。

 ゼクスは訳が分からないままその背中を見送ると踵を返し、食堂へ向かって歩き始めた。

 ………

 ……

 …

 八番街の半島部分は絶景ポイントであるが、ジバナーツァル大聖堂などイリス教の施設を一望出来るということは、女神イリスを見下ろし軽んじているとして、教会関係者は良い顔をしない。それを表立って抗議しないのは、偏にかつて怪物と戦い続けた軍人たちの働きによるものがある。救世神話の時代に“イリスの消失”が起こり、旧文明時代末期にドルトル粉が発明された後も、このヴィリエ周辺は人類と怪物の係争地だった。最終的に人類側が勝利を収めこの地を平定させた功労者である子爵マルセルの祖父は、元々は本国より大軍を率いて勝利のために尽瘁した将校のひとりで、その武勲から主君に爵位と領地を与えられ、大軍に参加した騎士たちには良き居住地を与えられた。彼らの惜しみなき忠誠心と勇猛なる戦いぶりがなければ、教会はこの地に根付く事すら出来なかったのだ。

 さてゼクスはというと、現在はかつての騎士や貴族、様々な産業で成功を納めた者が成り上がりでこの場所に住む者もいる八番街の中でも、とりわけ名門とされる貴族でしか住めない場所へと足を運ぼうとしていた。時刻は十八時五十分。一度も訪れたことのない八番街を見物しながらやって来てこうして約束の時間に間に合いはしたが、ゼクスはここでようやく待ち合わせの場所の意味について考える。

 リタは確かにここ八番街の検問所を指定した。自分と一緒ならこの検問所を通過出来るとも言っていた。つまり彼女はこの先にある半島部位の住民なのだ。住民は貴族に限られている。それはつまり……。

「どうしたの?そんなに考え込んで」

 声をした方を見ると、大小沢山の拒馬と幾重にも張られたバリケード、それに馬車二台ほどが並んで通れそうな鋳造門という物々しい検問所を背景に、リタがいた。彼女は紺色の日傘を差して私服姿だったが、その私服が黒のパンツスーツに黒のパンプス、白いブラウスにはクロス・タイを巻くという、のような出で立ち。それに黒といってもフォーマルではなく檳榔子黒による染色のため気品と優美さを兼ね備えており、つまり彼女の服装は並の人間が身に付けるような代物ではない。招いた方は彼女なのに、どういう訳かとても畏まった様子だった。

「あ、副長」

 リタが涼しげな雰囲気を振りまきながら、悠然と歩み寄る。初めて会った時の内勤用制服と今の私服姿は似ているのに、ゼクスは少しドキリとした。

「大丈夫だった?何か問題とかあった?」

「えっへっへ、問題無し!」

 リタの問いにゼクスが親指を立てて元気良く答えると、彼女はにこりと笑みを浮かべ、行くよ、と言って先を歩き出す。検問所はセンチネルが任務にあたっており、彼らは西と東にある高台、鋳造門前、通行路、他にも様々な場所で油断なく警備を行っていた。リタとゼクスが門を通過する際、近くを警備していた数名のセンチネルが皆敬礼をする。これはきっと……いや、間違いなくリタに対してだろう。何事も無く検問所を抜けると、周囲にはそれほど背が高くない、せいぜい二階建ての店舗の並びがあって、店内ひとつひとつが柑子色の照明によって煌々と明るい。食品、洋服の仕立て屋、靴、他には不動産を扱う所もあった。リタとゼクスはその並びの近くにある、辻馬車の停留場へ向かう。辻馬車は五台ほど停車していたが、その中のひとつでヴィリエの街中ではまず見かけない、雅趣に富む二人掛けの馬車が待機していた。二頭の白い馬が引くその馬車は深緑色に染色され、個人所有のものらしく、副長室の机にも見かけた家紋らしき紋様が刻まれている。馬車の乗車ドアの前には夏季用の装いをしたフットマンがいて、こちらに深く一礼すると乗車ドアを開けた。御者は既に台に座って待機している。

「副長、あの……」

 この人たちはなんですか。ゼクスがそう尋ねる前にリタが、

「ほら、乗った乗った」

 ……と、促すので仕方なく乗り込むと、リタも乗車したところでゆっくり馬車が動きだした。

 八番街もそうだが、ゼクスはこの検問所から先へは行ったことがないので、ヴィリエの未だ知らぬ顔を見るために外を眺めた。検問所周辺にあった店舗の並びを過ぎると敷石の道と植樹で整理された静かで落ち着いた風景になり、やがて貴族の邸宅であるカントリー・ハウスと、自然を是とする風景式庭園を目にするようになる。人口の建物がまばらなのは彼らが有する土地の広大さを意味しているのだろう。貴族たちの崇拝する自然が赤い赤い沈みかけの陽に照らされる側で、道の端に等間隔で設置された街灯に点灯夫が明かりを灯している。明かりは遠くに見えてきた交差点からやってきており、その近辺は検問所周辺と同じような商店が並んでいた。馬車の停留所も見えてきたところで、リタとの距離が近くて先程からドキドキしているゼクスが尋ねる。

「あの、副長。九番街の、集会が行われるっちゅう洞窟は見つかったんですか?」

「うん。正確な場所はまだ特定出来ていないんだけど、実は四騎の隊員が巡回警備中に不審者が徘徊している旨の報告をしていて、その辺りじゃないかって。今も探してくれてるみたいだから安心して」

「そ、そうですか。良かった(安心して敵の集会に乗り込むなんて変な話やなあ)」

 馬車は沈黙をも運び、軽快に進んでゆく。

「………」

「………」

 八番街の敷石の道が平坦でよくならしてあるからなのか、馬車の車輪が上質な物なのか、走行時の音があまりなく静かだ。だがその静かさがかえってゼクスには不快だった。今、この沈黙に対しては、多少やかましいくらいの方がちょうど良かったのだ。

「副長の部屋――」

 何か話題は無いかと模索した上で、やっとゼクスが声を出す。

「うん?」

 窓から入る風でなびく髪を直しながら、リタが聞き返す。馬車に揺られて前方を見ていた視線がゼクスへと向けられた。

「ええと、副長の家って遠いんですか?」

「まあ、端の方かな」

 再び沈黙が訪れると、ゼクスは足元に視線を落とし考える。

 ……なんだろう、この違和感は。

 彼女と行動を共にすればするほど、二騎の事務所で聞いた内容以外の、個人的な事を知る機会が出来る。それは嬉しいのだが、彼女がそれについて何故かあまり話したがらないのは不思議だ。また彼女は何もしていない時いつも……そう、まさに今のように伏し目がちで物憂げにしているのも気になった。これから楽しい食事会だというのに。

 もしかして自分を食事に招いたのは、コンビという関係を円滑にするための、一種の社交辞令なのではないだろうか?

 今やすっかり暗くなった窓の外の景色で、遠くにある建物の影を見ながらゼクスは考える。

 継ぎ接ぎの館で火に囲まれた時も感じたことだが、副長という人はどうしてだか分からないが今日初めて会った人ではない気がする。いつか、どこかで、必ず再会することを信じていたから、こうしてまた巡り会えたような気がしてならないのだ。こんな事、本人に話したら笑われるだろうか?それとも距離を置かれるだろうか?

 確かに聞くのは不粋というものだ。それに明朗快活な性格に反して案外じっと黙っているのが彼女にとって自然なのかもしれない。

 そのように考えはしたが、ゼクスは違和感から生ずる好奇心を止められなかった。

「副長、あの――」

 僕とどこかで会いませんでしたっけ、そう尋ねようとした時、

「あ、止めて」

 ……と、順調に進んでいた馬車からリタが唐突に降りたいと申し出る。御者が言われた通りに道の左端へ寄せて停車するとリタが降車し、交差点にある商店のひとつに入っていった。

 ……僕は何を考えているんだ。受け手の立場としては、相手の好意が魅力的ならば素直に何も考えず受ければ良いじゃないか。

 ゼクスは両頬を叩いてそう自分に言い聞かせると、休憩にはちょうどいいか、と彼も降車して大きく伸びをした。街灯の点灯はこの交差点から始まっているようで、周囲は明るい。ただ人が殆ど歩いていないので、折角の照明が勿体ないように思える。

 ここでゼクスが、リタが入って行った雑貨店に目をやる。彼の優れた視力から見る限り、商品の質はよく分からないが、値は高級品と言って間違いない。外からは皿などの食器の類がショーウィンドウに綺麗に並べられている。店内にいるリタの姿は見えないので、ゼクスは他の商店にも目を向けた。商店の並びにはカフェなどの飲食店もあって、身なりの良い人たちが食事している。やけに店内が明るくてよく見えるな、と思いふと西の空を見ると、馬車に乗っていた時はまだ僅かに西陽が差していたのに今はすっかり沈んで藍色の空が残され、曇り空が重なっているのもあって、晴天時より暗い夜になりそうだった。

「お待たせ~」

 ゼクスが空を眺めていると、リタが大きな紙の袋を片手に雑貨店から戻ってきた。するとフットマンが彼女に歩み寄り、紙袋を両手で受け取る。

「何を買うてきたんですか?」

 そう言った後でゼクスはまたもや野暮な事を聞いてしまったと後悔したが、そのリタはいつにも増して真剣な表情になり、

「言わない?」

 ……とだけ静かに言った。

 この人にそんな表情をされて言われると断れるわけがない。そう思ったゼクスは慌ててはい、とだけ返事をすると、リタはやおら話し出した。

「二騎の給湯室で共有の水筒あるでしょ?」

「ああ、取手が壊れたアレですよね。皆して“誰がやったんだ”って話してましたよ」

「アレを壊したの、実は私」

「!?」

 ゼクスは思わず唖然とし、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。今日、彼がこの状態になったのは一体何度目だろう?リタと行動をすると良くも悪くもこうして驚かされてばかりなのだろうか?コンビの相方であるゼクスは、こういった慮外からもたらす彼女の“意外”に慣れなければいけなかった。

「取手を持って片手で持ち上げようとしたらボキッ……っていっちゃってね。あの時は本国に行く直前で急いでたから結局誰にも言えずじまいになっていたんだけど」

 曰く、そういう後ろめたい事情があり、偶然立ち寄った機会もあって向こうの雑貨屋で代わりの水筒を購入した。みんなには黙っていて心から申し訳なく思っている。だが時間もだいぶ経過してしまい、今では取っ手の無い水筒を扱うのに順応しているのかもしれない。或いは、何らかの代用品を既に用意しているのかもしれない……。

 そうリタは危惧していたが、ゼクスが皆不便な思いをしながらも同じものを使用している旨を伝えると、彼女は嬉しさ半分申し訳なさ半分なのか複雑な表情を浮かべて、

「良かった。でも、これは黙っていてね」

 …とゼクスに弱々しく念を押した。そのゼクスも、スェーミが“どこかのバカが取っ手をぶっ壊しやがったから持ちづらくてかなわねえ”とボヤいていたのを忘れようと心に決めて、

「了解です。僕と副長だけの秘密ですね」

 …と言って、二人でくすくすと笑った。

 他の買い物はもう良いのですか、ゼクスがそう尋ねようとすると、ごきげんよう、と何者かに挨拶をされたので振り返る。そこには四日前に公園墓地へ行った時にスェーミと一緒だった、貫頭衣型の制服を着て左目にモノクルを掛けたあのテンプル騎士がいた。この中性的な顔立ちをした男を忘れるのはかなりの時間を要するだろう。それくらいに際立った美貌の持ち主だからだ。

「ごきげんよう。ゼクスくん、彼はね……」

 リタからこの男が三騎の副長にして異端審問官でもある、クレメントという名であることを紹介される。その最中彼はゼクスを見ながら終始ニコニコしていたが、その視線から何か本能に訴えかける不快なものを感じ、どうにも居心地が悪かった。そこで間を繋ぐため、この奇妙な男に当たり障りのない質問をした。

「初めまして。今日はお休みなんですか?」

 この質問にクレメントは肩を竦めた後、大仰な身振り手振りを交えて次のように答えた。

「いいや、ここへは腹ごしらえにね。全く、考えてもみたまえ。街には一般市民を含め、無数のイリス教徒が繰り出しているのだ。その中に紛れ込んでいる異教徒や犯罪者を探すだなんてみみっちいことをしてはいられないよ。私は感謝祭こそ休日と考えている」

 そうテンプル騎士らしからぬ返答を堂々とする彼だが、リタは咎めようとせず、ころころと笑っている。

「何を食べたの?」

 今度はリタが尋ねる。ゼクスとしてはクレメントと長話をしたくなかったし、ちらりと馬車へ目を向けると御者とフットマンもこちらを待っている様子。そろそろお暇した方が良いのではないかと思っている他所に、クレメントがまた大仰な身振り手振りを交えて話し始めた。どういう訳か熱も入っている。

「よくぞ聞いてくれた、リタ君。そこのパスタ専門店はイイ、スゴクイイ。燦々とした太陽の恵みを浴びて育ったトマトは甘さはほどほど、酸味は私好みで酸っぱく感じない。優れた畜産業者が愛を込めて育てた豚の肉は柔らかくてボリュームもあり食べ応えがある。ここで忘れてはならないのがチーズだ。豊富な経験と高度な知識を持つ熟成士が作り上げたハードタイプチーズは、削ると天使の羽の如く儚げに舞い落ちる。見た目もさることながら、ああ、“濃厚な味と芳醇な香り”としか表現出来ない自分が憎い!個人的にはペペロンチーノが好みなのだがあの店の場合はミートソースを推すね。あれは絶品だよ。良き素材と良きシェフが邂逅し奏でるハーモニーは口に運ぶひと口ひと口が至福だった。君らもディナーがまだなら是非お勧めする」

 出来の悪い芝居のようだったがそれなりに締めくくられると、拍手でもするかのようにリタがにこにこして同意した。そして……。

「クレメント、ちょっとそのままじっとしてて」

「っ!?」

 リタがクレメントのパーソナルスペースを何の躊躇もなく侵しずいっと詰め寄る。すると先程までの余裕の態度から打って変わって、クレメントが照明の明かりでも分かるほど顔を青くして後退った。

「じっとしていなさい。ゼクスくん、ちょっと抑えて」

「えっ!?でも……」

「いいから早く」

 詰め寄っては後退る事を続けていると、業を煮やしたのかリタが低い声で短く言った。有無を言わさぬその言い方からこれは命令と同義であると嗅ぎ取ると、成り行きを見守ることしか出来なかったゼクスは真っ青なクレメントを羽交い締めにした。彼は見た目通り華奢ではあるがしっかり鍛えられているのか固く、それでいて何処か滑らかな質感を感じる。パワーと柔軟さを兼ね備えた戦士ということなのだろう。そしてリタが彼の眼前にいよいよ迫ると、何事かを喚き始めた。

「そ、それ以上近づくな。止めろ、止めてくれーっ」

 リタはクレメントが喚くのを無視し、いつの間にか傍にいたフットマンからベージュのチェック柄ハンカチを受け取り、そっと口元……そう、クレメントの口元を拭いた。ゼクスが羽交い締めを解いて事が済むと、彼は放心したように立ち尽くすだけで、一体何が起こったのか分かっていないらしい。そこでリタが腕を組みじっとりした軽蔑の眼差しを向けながら、次のように述べた。

「貴方、美味しいものを食べるのは結構だけどお口の周りをちゃんと拭いたの?あ、そのハンカチはあげるから」

 つまり、リタはクレメントの“芝居”に綻びがあるのを指摘したのである。これにはゼクスも哄笑がこみ上げそうになるが、芝居の報奨がリタのハンカチとなれば、それは十分過ぎるものではなかろうか。

 そのクレメントは言われて我に返ったのか、フットマンから渡されたハンカチをポケットにねじ込んでいつもの余裕を取り戻すと、サンキューレディ、などと言って慇懃に頭を垂れた。だがそれは本心ではなかったようで、

「調子に乗るなよ、“女”!私はその母性を必ず克服してみせる!」

 …と意味不明な事を撒き散らした後、ここからではかなり遠い八番街の検問所に向けて歩いて行った。

 どことなく悲しそうな、寂しそうなクレメントの後ろ姿を見送りながら、フフフ、とリタが品良く笑う。彼女と一緒ならあの奇妙な男は怖くなさそうだ。

「クレメントって面白いよね」

 本当に面白いようにリタが言うので、ゼクスもとうとう笑った。

「あっはっは。でもあの人、かなりやり手じゃあ?」

「大丈夫だよ。行こう」

 そういえば胃が空腹を本格的に訴えている。それはリタも同じなのか、ゼクスに乗車を促す。こうして二人は雲が立ち込める夜空を見ながら目的地へ向かった。


 ゼクスが暫し佇み見上げるリタの家――。

 それはヴィリエの平民が住む街ではまず見かけない、丘陵地の傾斜を利用した三階建ての家屋で、外観は白の塗料、屋根は藍色の塗料で塗装されている、空の色と海の色とで風景に溶け込んだ美しい家だった。二階と三階にテラスバルコニーがあり、三階と比べ、二階のテラスバルコニーは広めで青いパラソルが立てられているのが見える。庭は無さそうで、その分丘陵地帯という地形に合わせて開放的なホームデザインになっているのだろう。

 フットマンと御者はリタとゼクスが馬車から降車した後、恭しく礼をして去ってゆく。それを気に留める様子もなくリタがこっちだよ、と先導するのでゼクスも続いた。

 エントランスは二階にあるらしく、らせん状に造られた白い石畳の階段を上る。玄関ドアはダークブラウンで木製の両開きドアだが、植物を模した美しくも堅牢な鍛造ドアであるところが、リタの貞操観念やプライバシーに対する考え方を表しているかのように感じさせた。

「どうぞ、入って」

 ……だがあっさりと、それも先に通される。

 カチャッと小刻みの良い音を立てて開かれたドアの先は真っ暗でしん、と静まり返っていたがエントランスにあった発光器から明かりが灯ると、ゼクスは思わず感嘆の声を漏らした。彼の目に最初に飛び込んできたのはナチュラルな木目の内装と観葉植物、シューズラック、コートハンガー、それに幾何学模様の絨毯。外国製のものだとかいうこの絨毯の値は、一体如何ほどのものなのだろう。ただ目につくものといえばこれくらいで、全体的にモノが置かれておらずそれがよく片付けられているので生活感の無い印象を与え、少し殺風景にすら感じる。匂いまでしないので、これは正直なところ、二騎の執務室と同じ感想だった。

 ゼクスがぼーっとしている間にリタが二人分のルームシューズを用意する。それに履き替えると、エントランスを背に右手の部屋へと向かった。そこは奥にキッチンカウンター、手前には木製のテーブル、椅子などといった家具があるダイニングだった。ダイニングもエントランスと同じく必要最低限な家具以外は置かれておらず、ゼクスの来訪を歓迎しているのは海側に設置され穏やかな風に揺れるネイビーブルーのカーテンと食欲のそそる匂いだけ。上を見上げると天窓があって、そこからは三階の外壁と空が見える。今夜はやはり曇りなのか、瞬く星々が隠れて見えない。こうして窓の数を考えると採光は良くされているようで、日中はとても明るい部屋なのだろう。

 それにしてもあんまり人様の家の中を徘徊したりキョロキョロするのはよろしくないが、クラーラ以外の女性の住居に訪れるのが初めてなゼクスには目に入る全てのものが珍しい。クラーラの部屋はいかにも修道者然とした部屋で、訓練所の部屋と何も変わらなかった。それだけにイリス教に殉ずる姿勢が分かるのだが。

 ゼクスがカーテンを開けて外の景色を見ていると、

「そのまま楽にしてて。用意するから」

 …と、リタがさして気にしていない様子でキッチンへ向かう。ひとまずゼクスは上衣のローブをハンガーに掛けるが、その間も辺りを注意深く見回した。どこかに一階や三階へと上り下りする階段があって、そしてリタが休む閨門……入ってはいけない……しかし入ってみたい秘密の部屋がどこかにあるはずだ。それはおそらく三階。

 一体なんだろう、どうにかしてこの機会に彼女が無防備になる部屋へ入りたいと思う気持ち。直に“入れさせてくれ”と頼んでも言下に拒否されるだろうからこそ、そう思わさせてしまう。しかし、リタの部屋に入った所でゼクスは一体何をするのかと自問する。

 そう、そこだ。

 あの“鬼”とまで呼ばれる人物とこれから会食するわけだが、出来ることなら“鬼”の鬼らしからぬ部分も知りたい。

 鬼らしからぬ部分。鬼の、鬼らしからぬ、鬼の部分……。

「ゼクスくん、ちょっと配膳だけ頼める?」

 その声に思春期の少年なら誰でも抱く妄想を打ち消される。

 いけない!このままではリタの顔をまともに見れなくなってしまう。ゼクスは緊張した面持ちでキッチンに立つと配膳を開始した。

 白、黒、グレーのブロックストライプ模様のエプロン姿でリタが用意した夕飯、それは煮込みハンバーグだった。牡丹唐草の模様で縁取られた白い皿にはしっかり成形された褐色のハンバーグが鎮座し、それに同色のソースがたっぷりかけられている横で茹でた人参とブロッコリー、それにマッシュポテトも添えられている。ゼクスの前に登場した“鬼のハンバーグプレート”は予想をずっと上回り、鮮やかに彩られ大変食欲のそそられるものだった。

 感極まりながら配膳をするゼクスをよそに、リタがバスケットを持って来た。バスケットには様々なパンが入っており、ゼクスが食べ慣れたライ麦パンの他に干しぶどうが入ったパン、チョコレートが編み込まれたパン、チーズが入ったパンなど見慣れないものもあって、しかもかなりの量。改めて感嘆の言葉を漏らすゼクスに、たくさん食べてね、とリタが微笑む。

 冷静に考えると上官にコックや給仕係のようなことをさせてしまっているが、ここまで用意してもらうと遠慮は無粋というもの。ゼクスはまたの機会は無いとばかりに料理を堪能する事にした。

 …………

 ………

 二十三時。客室用の浴室で汗水と体の汚れを洗い落とし、頭髪を乾かしてすっきりしたところで、ゼクスは一人ベッドの上で大の字になって横になった。そして食事の時の会話を思い出していた。

 とても楽しかった。

 二騎の事、スェーミの事、ナハルヴェンの事、ヴィリエの事、自分たちが最近気に留めている事。それらを包み隠さず話して、本当に気が晴れる思いだった。特に塞ぎ込んでいた時にナハルヴェンが自分の住んでいるアパートに現れた話をすると、リタはいつもの毅然とした態度になり抗議するだとか教会に報告するだとか述べていた。

 穏やかながらもどこか熱っぽく繰り出される彼女の一語一語が、ゼクスの胸の奥へと深く響く。ただ、やはり彼女は自分の事をあまり話そうとはしなかった。一体どうしてなんだろう。

 窓から冷たい風が入り込み、カーテンを揺らしながらゼクスの頬を撫でる。熱いお湯でまだ火照った彼の体にはそれが心地良く感じられた。そのようにリラックスしきった体とは反対に、ゼクスはこれから身を投じる事になる邪教との戦いに、自分はどう立ち回るのかという事も考えていた。

 当然だ。リタを守るんだ。継ぎ接ぎの館では守られてばかり、頼ってばかりだったから。だが彼女はきっと自分に危害を受けないよう、今度も身を挺して自分を守ろうとするだろう。ならばそうならないように立ち回る。それがゼクスの考える、リタを守る術だった。

「(……なんだか眠られへんな)」

 行動を起こす時間までまだ余裕がある。ゼクスはガウン姿のまま客室を出た。

 客室の外は暗く全ての発光器が光を放っていなかったが、星々の瞬きだけでも暗闇を見通せるゼクスは、殺風景な室内の様子が容易に見て取れる。それによると、フットマンたちが持ってきてくれた彼の防具が置かれた先にある二階のバルコニーで、外を眺めるリタの姿を確認出来た。彼女は既にテンプル騎士の装備を身に付けた状態で、身動きせずにじっとそこで佇んでいた。

「副長」

 呼んでも反応が無いので、ゼクスはリタの隣に立ち、彼女と同じようにバルコニーの手摺りに寄りかかるとその横顔を見た。彼女はポニーテールの髪を解いており、長めのミディアムヘアが夜風になびくのを気にするでもなく、ずっと海の方を見ていた。星が見えればロマンティックなのだが生憎の曇りで、暗い雲が空を覆っている。それに相反して次第に戻りつつある人々の営みと常夜燈によって、九番街がやたらと明るく見えた。

「休まなくていいの?」

 声をかけたゼクスの顔を見ずにリタが言った。彼女が向いている方向は真っ黒な海で常人なら何も見えないが、ゼクスには陸繋島のシルエットが確認できる。その先にある、遠くの峻嶺も。

「どうも眠れなくて……緊張してるんやと思います」

 言いながらゼクスはリタの顔を見た。

 馬車に乗っていた時と同じだ。継ぎ接ぎの館から出た後に乗った時、ここへ来るために乗った時の何か物淋しい顔。見ている自分まで憂いを誘われるような……。

「ゼクスくんは真っ暗でも見えるでしょ」

「えっ」

 突然のリタの言葉にゼクスが驚く。だが返答をする前に彼女が話し始めた。

「実は私も見えるんだよね。父が訓練をしてくれたお陰で。部下の君に言うのもなんだけど、私、夜が好きじゃない。ううん、多分怖いんだと思う」

 勇気?いや、そういうものじゃない。もっと、こう、言葉では表現できないものだ。とにかく得も言われぬ感情が動かしたのか、ゼクスは夜風によってすっかり冷たくなったリタの手を握り、囁くように言った。

「ここからの景色を見てください。夜に差す光は予想以上に明るいものですよ。それに空。今は曇ってますけど、夜空を見るだけでも外に出る価値はあります。怖くなんかありませんよ」

 陳腐も陳腐、言った本人が後で恥ずかしくなるような台詞だったが、

「そうだね。夜よ、来るなら来い……か」

 …そう言ってリタが握られた手を振り解くことなく握り返すこともなくそのままに、力強く頷く。これを聞いたゼクスは、彼女が“何か”を取り戻したような気がしてほっとするのだった。

 その後零時四十五分、 リタとゼクスは来たる戦闘に備えテンプル騎士団が支給する白銀の防具を装備し、邪教の集会が行われるという場所へ向かった。


 同時刻、情報屋チャベスは息を切らしながらも人気の無い二番街の街中を、忍び寄る魔手から逃れるため懸命に走っていた。

 その前の彼は表向きの顔である辻馬車の御者としての仕事を終えて、ギルドにその日稼いだ運賃を納めると、秉燭夜遊を気取り、一杯ひっかけるためにぶらぶらと幹線通りを歩いている所だった。それは一見すると何気ない日常であったが、情報屋稼業から培われた経験と勘、それに元々備わっている用心深さがいつもとは異なる夜、即ち、他の通行人に混じった追跡者の存在を彼に感知させたのである。

 追跡者は衆目を避ける様子もなく、不即不離を保ちながらかれこれ三十分ほど尾行を続けている。その執拗さから、チャベスは最近自分が情報屋としてのビッグジョブを掴んだことを顧みるにあたり、己の生命の危機を予感した。

 チャベスが人夫風の通行人二人組にぶつかる。

「おっと、ごめんよう」

「バカヤロー。気を付けろ」

「へっへっへ、悪い悪い」

 二人組からは酒の臭いがしたが、おどけた態度のチャベスにもそれ以上揉めるつもりまでは無いようで、そのまま歩き去ってゆく。これはチャベスが故意に行ったもので、人夫たちにぶつかるアクシデントに乗じて追跡者の姿を確認しようとしたのである。

 追跡者は長身痩躯の男。暗闇にも浮かび上がるような白い頭髪をしており、この熱帯夜だというのに外套を身に着けている。足が不自由なのか、杖を持っていた。僅かな間なので得られた情報はこの程度だが、それだけでも十分。追跡者が周囲の通行人に溶け込むことをしない所を考えると、例え雑踏の中でも、その時が来たら躊躇なく牙を剥くことだろう。そこでチャベスは人気の居ない場所を求めて歩いた。だが、それがいけなかった。

 追跡者はどんなに素早く角を曲がり影に身を潜めても、確実に探知してやってくる。しかも、幹線通りを歩いていた時よりも距離を縮め、すぐ近くまでその存在を確認出来るようになってきた。こうなると愈々チャベスは身の危険を感じ、焦慮に耐えられなくなって、ついには走り始めた。

 街頭が寂しく灯る通りを汗だくになりながら走り続け、背後に迫る追跡者の長く伸びた影がもう少しで触れそうになるという所で、角を右に曲がる。だがそこには、どうしたことか長身痩躯で白髪、それに外套を着た男……追跡者が待ち受けていた。追跡者は不思議な青白いオーラのようなものをゆらゆらと立ち昇らせており、その幽かに発光する光から、ニヤリと残忍な笑みで唇を歪めているのが見て取れた。

「ギャーッ」

 チャベスが叫ぶのと同時に追跡者が手にした杖を振るう。そのスピードは常人では計り知れず、間一髪、被っていたハンチング帽を失っただけで済んだ。はらりと落ちた帽子を見ると、今の一瞬で四つに切断されている。帽子と追跡者がゆっくり歩み寄るのを見比べると、どうも足が不自由であるために杖をついているのではなく、武器として持ち歩いている事が分かった。しかも相当な達人だ。

 いいや、そんなことはどうでもいい。逃げなくては……!

 チャベスは尻餅をつきながら後退ると、振り向き様に右脚で思いっきり地を蹴る。……が、間に合わなかった。痛みというよりは、火を誤って触れてしまった時に感じる鋭い熱。その避けようもない熱が、背中の右肩先から左の横腹にかけて走った。熱は意識を混濁させるほどのもので、どのような仕組みか理解出来ないが、とにかくあの杖によって、チャベスは自分の体が鋭利な刃物にように斬られたのだと察した。

 ……大丈夫、傷は深くない。まだ走れる。

 そう信じて立ち上がるが、脚がもつれて上手く動けない。そうしている内にふらふらと石の外壁にぶつかると、それを背にへたり込んでしまった。真夏の気温による発汗と負傷による油汗を混じらせ、荒い息をしながらチャベスがゆっくり見上げる。そこには既に杖を肩に担いだ追跡者が立っており、見下ろすその顔からは左頬の大きな傷がやたら目に入った。

 こんなはずではなかった。

 あの時……スェーミが初めて連れてきた客、嬢ちゃんにも情報屋は廃業することはあっても始末されることはないと説明したではないか。それがなんて様だ。

 嬢ちゃん…!

 この絶体絶命の窮地に、チャベスは女神イリスへ祈るのではなく、ぷぅと頬を膨らますゼクスが脳裏に浮かぶ。それが機となって、生命を繋ぎとめるため、正体不明の追跡者に抗うため、彼は力を振り絞る。

「い、一体どいつの差し金なんだ。何故俺が――」

 チャベスは自分の命を狙う追跡者に必死の形相で問うたが、追跡者はそれに耳を貸すことなく杖を振り下ろす。振り下ろされた杖はチャベスの頭部をバターのように容易く分断し、右半分の頭部はびちゃっと水音を立てて敷石の地面に平たく叩きつけられた。無惨にも左半分だけになった相貌には、彼の特徴であるにょきっと伸びた顎髭が残されていた。

 大量の血を撒き散らして動かなくなった標的を杖で突っつき、確実に絶命した事を確認すると、追跡者――いや、殺人者は青白いオーラを消し、ふぅ、と息をつく。次に外套の内ポケットからすっかりくしゃくしゃになった紙箱を取り出すと、そこから煙草を一本抜き取り、口に咥えてマッチ棒で点火した。

「日付が変わっちまったが……まぁ、セーフって事で」

 殺人者がくるりとチャベスの死体に背を向けて、ゆらりゆらりと煙を吐きながら気怠く歩き出す。

 非情なる殺人者に安らぎの休日は無く、また死者を悼む心も無かった。


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