第四話

 了解しました総督、命令の通りにします。雇った人夫も絵描きの者もこちらの指示通り作業を進めており、鏡の間の仕掛けを悟られることはないでしょう。全く、民衆の総意を得ているとはいえ、あんなにバカ高い聖堂を建築するなんて、フュトレ様は何をお考えになっているんでしょうかねえ。

 ときに総督は覚えてますか。イリス様がいなくなる前、いつも憂い顔だった事を。侍従だった者から聞いた話によれば、なんでもイリス様がこれまでのことを思い出す際に、必ず胸に重いしこりとなって残る事があったそうです。一つはイリス様が涙を零されたことによって天地開闢を迎えたとき。二つ目はフュトレ様がイリス様にをした時だそうで。これに新しく追加した三つ目の仕掛けを考えると、あの“救世神話”って話から抜粋したみたいですね。

  ――ジバナーツァル大聖堂の設計に携わった男の書簡より

 …………

 ………

 ……

 …

 イリスの形像が見下ろす聖ロスタインの聖堂。

 学士が論じ合って研鑽を重ね、教母の説教をイリス教徒が謹聴し、修道士・修道女らが日々の務めをする中で、白髪の少女タルが拝跪の姿勢から立ち上がる。彼女はその後イリスの形像に背を向けて颯爽と歩き、振り返る事なく聖堂敷地から出た。次に門を出てすぐ隣にある、テンプル騎士団第二騎士隊支部前で辻馬車を拾う。御者に中心街正門へ行くよう伝えると、ちらりと支部の入り口で立哨している若い青年騎士に目をやった。直射日光の中で警備任務に就いているせいもあってか、真っ黒に日焼けをしている。加えて重そうな防具を身に付けているので勇猛な騎士といった様子だがそれも束の間、彼は何とも間の抜けた顔で大欠伸をかいた。訓練所を卒業したら、弟のゼクスはここに配属されるのだろうか。そんなことを考えていると、タルを乗せた馬車が出発した。目的の場所は中心街にあるジバナーツァル大聖堂。特徴的な二つの尖塔によってヴィリエに訪れる誰もが圧倒される、古代建造物だ。

 タルを乗せた馬車は、三番街の幹線通りに出ると六番街まで進み、中央通りと観戦通りが重なる大広場に差し掛かるとそこを右折した。その後真っ直ぐ行った所で次第に中心街へと入場する大扉が見えてくる。大扉と言ってもヴィリエの外円入口のものと比べればずっと小さく、代わりに扉や鋳造門、それに小高いアーチはヴィリエの発展を象徴するかの如く豪華であり、入場が出来ないと知りつつ、観光目的に訪れる者も少なくない。

 中心街は平民や物乞いといった身分の低い者が容易に入場出来ないよう円形の高い壁で仕切られているが、衛兵隊による警備も厳しい。中心街の警備任務にあたるエリート隊員は、鎖帷子の上にロイヤルサーコートという特別に仕立てられたものを身に付けており、これはヴィリエ常駐テンプル騎士団の制式装備であるローブと同じ魔法効果が具わっている。意匠は黄乱綿を真っ白に染色しそれを清涼感のあるライトブルーで縁取り、動物革の二重ベルトで固定し、左胸に銀色で衛兵隊章が刺繍されている。一般の衛兵隊員と違ってベレー帽でなく兜を装備している。

 タルは中心街へのアーチ、それに門扉を見上げながら馬車から下車すると、警備する衛兵隊員に右手の甲を見せた。すると白き衛兵隊員は直立不動になって敬礼をした後、どうぞお通り下さい、と静かだが隙を感じさせぬ声で言い、鋳造門をゆっくり開く。ヴィリエの入口検問所を管理する下っ端衛兵隊員とは言葉遣いや態度からして違う。それもそうだ、ここはヴィリエの中枢へと入る唯一の場所。当然貴族や高級役人、政治家、高位の教会関係者に他国からの要人も通る。訓練の内容からして違うのだろう。

 タルを乗せた馬車がゆっくり中心街へと入場する。

 この中心街は旧文明時代に内壁が建造された後、怪物との戦闘用に考案された造りから、トゥインドイフスの鏡が安置されているジバナーツァル大聖堂を真ん中に、中心街を八つに区分するよう設計を見直した。その形は真上から見るとピザに似ており、時の人々は“ピザの切り分け”と呼称していた。この設計の狙いは平民たちが暮らすヴィリエの外円によって作り出された精神力、それに六番街の検問所を通って入って来た自然や生物の魂から流れる氣を中心街へ向けて通し循環させ、最終的にトゥインドイフスの鏡に集約させるため。旧文明時代からこの鏡への神格化は広まっていたが、時の人らは鏡に拘泥するあまり、街の設計までこのような技巧と案出を加え、消失した女神イリスを呼び出そうとしていたのだ。

 さて、このヴィリエの霊妙たる中心地・ジバナーツァル大聖堂へは、中心街の入場門から“ピザの切り分け”によって造られた道をそのまま真っ直ぐ進めばよい。この道は全て長方形に成形された石が敷かれ、古代の設計図によれば道の幅は二十二メートル。馬車の走行を認められてはいるがそれも大聖堂の外周公園手前まで。外周公園は“ピザの切り分け”の先端部分に位置し、同じく敷石が地面に敷かれている。他には石造りの噴水、灯火具、聖イリス教会の紋様を描き掲げられた旗がどの場所からも、大聖堂へ向けられた道標のように等間隔で配置されている。明るい内は中心街に住む貴族や役人のイリス教徒たちが大聖堂へ向かうため足繁く通い姿が見られ、暗くなると夜警のため篝火が灯される。

 ジバナーツァル大聖堂前の外周公園までやって来たタルが、二つの尖塔が特徴的の同聖堂を見上げる。だが高すぎて麓からはその全貌を把握することが出来ない。現代の計測方法によれば、地上から尖塔の頂点までおよそ三百三十三メートルあり、尖塔は聖堂の構造上、東と西側に分けて見ることが出来るという。タルがいる位置からは、フランボワイヤン様式の非常に繊細な飾りとトレーサリー、それに葡萄のようにも見えなくもない、やはり繊細な彫刻を多数見ることが出来る。いつ来ても、いつ見ても、ここは荘厳の一言だ。

「おい。誰がこいつの姉ちゃんだって?」

「……ごめんなさいっ」

 タルが大聖堂へ歩こうと足を踏み出した時、恫喝的な声で質す女の声が聞こえたのでそちらに目をやる。そこには堅い敷石の上にひとまとめして正座をさせられた身なりの良い四名の少年たちと、その場で立ち尽くす少年一人、それに噴水の腰掛けに足を組んで座る褐色肌の少女がいた。その少女はクロークコートを初夏の風に揺らし、襟元、裾、袖口がフリルになった丈の短いブリオー、ショートパンツにニーソックス、革製のブーツを身に付けており、色はどれも純白で統一されていた。白以外の色といえばクロークコートの背に黄色で繍されている聖イリス教会の紋様。武装もしており、腰には細みの剣を帯びていた。

 少女が恫喝を続ける。

「目を反らさないでこっちを向いて。こいつとボクが姉弟だって?本当にそう見える?」

「見えません」

 少年たちは全員顔に殴られたような痣が出来ており、少女の一挙一動に哀れなほどびくびくと反応している。通行人は沢山いるというのに、誰一人としてこの暴挙を咎める者はいなかった。

「そうだよね。この美しいボクがこんな奴と血が繋がってるわけがないんだ」

 ……そしてタルは、この女悪党を知っていた。

「おいコレット、何をやってる」

「何ってこいつらが……タル、久しぶりだね!」

 少女がその笑顔と同じように黄金の短髪を煌めかせながら振り向く。

 彼女の名はコレット。素っ気ないタルを気にせず、顔を合わせれば抱きついてくるほどの距離感の無さで話しかけてくる、タルの大事な仲間。見た目は化粧けがなくタルより歳下の十五歳かそこらの娘にしか見えないが、彼女も祓魔神官で、若輩ながら数々の呪病者を葬ってきた手練である。

「こいつらがこの子をいじめていたんだ。だからちょっと教育をね」

 コレットがそう言って指差す。白いフリルの袖口、彼女の手首、指、ラメの入った爪先の順に、一人だけ立っていた少年がタルの目に入った。次に正座させられている少年たち。正座の少年たちは皆腫れた顔を涙で濡らしていた。その身なりから生まれも育ちも上等な少年たちに相違なく、中には権力者の子供も含まれているかもしれない。後々の事を考えると面倒なことになりそうだが、それでも単に少年らへ教育を施すためと言うにはやり過ぎだった。

「それだけか?」

 訝しげなタルの様子に気付いていないのか、コレットがふふんと鼻を鳴らし揚々と質問に答える。彼女の動作はまるで小動物のように愛らしく、多くの人を心地よくさせる魅力があった。

「もちろん続きがある。こいつらはこのいじめられっ子とボクが姉弟みたいだって言ったんだ。許せないよね……お前たち、もう行け」

 解放された少年たちが足をもつれさせ、怯えながら走る。コレットは青い瞳でその後ろ姿を見ていたが、興味は直ぐ別に移ったのか、くるりと向き直る。そこには両手を腰に当てじっとりとした視線を送るタルがいた。

「タル、神には逢えた?」

 寄り添うようにやってくるコレットをタルが肩で押し退けて、二人は並んで大聖堂へ向かって歩く。彼女たちはお互いの事情を知っており、コレットが自身の生まれた土地である、南方への路銀を集めていることをタルは知っていた。他にもコレット自身が知りうる限りの出生についても聞かされている。それによれば、南方には父と兄がいる。母は自分を連れてヴィリエに来たのだが、それは物心がつく前で、母が病床に伏せた後に他界し、その後は母の友人の伝てに頼ったため、どうして南方からヴィリエへやってきたのか、どうして家族が離れ離れにならなければならなかったのか、といった事情についてはよく分からないらしい。どこかに居るやもしれぬ父と兄を訪ねるために南方へと望みをかけるコレットだが、任務の最中に何人もの仲間を失っている以上、祓魔神官の仕事が明日の見えぬものだということもまた理解している。そのため、本当に仲の良い、信用の出来る者しか自分の身の上を話さないし、またその他の者も互いに深く詮索をしないのだった。

「神なんているわけないだろ」

 揚々と尋ねるコレットにふぅ、と軽い溜め息をつきながらタルが答える。

 タルが話している、祓魔神官になった理由。それは神と呼ばれる存在と対面し、自分の不死の身体と決着をつけること。“決着”といっても、この能力にまつわる物語がどんな終着点となるのかはタル自身も分からない。死なのか、能力からの解放なのか、それともまた別の何かなのか。

「それが神官の言うことかぁ?」

 訳が分からない、といった様子でコレットがいかにも怪訝そうな顔をした。いや、きっと笑いはしないものの、彼女は本当にタルが珍妙滑稽な事を話していると思っているに違いない。タルはそんな裏表のないコレットの人柄が好きだったし、仲間としても信用していた。接し方はドライだけれど。

「神官は子供を殴って正座させたりしない」

「それは仕方がないよ。神より尊い、このボクを侮辱したんだからね」

 横髪を耳にかけ、コレットが澄んだ青空を見上げる。だがそれ以上は相手にせず黙って歩くタルに、再びコレットが尋ねる。

「いつ戻ったの?」

「ついさっきだ。これからカサノヴァに報告をしに行く」

「それは丁度いいね。ボクもカサノヴァの所へ行く途中だったんだ」

 カサノヴァとはタルをルーティングテーブルの村へと遣わした人物で、ヴィリエ周辺にて活動する祓魔神官たちを束ねる者。タルが不死という能力を認知するきっかけとなったのもカサノヴァだ。タルとカサノヴァの出会いは、タルが孤児院を出たあと修道女となり、その後直ぐにトゥインドイフスの鏡を拝跪する幸運に恵まれた時に、カサノヴァによって呪病者の疑いを見出されたことから端を発する。カサノヴァはタルの不死の能力を高く評価した上で、呪病者として処理されるか、それとも祓魔神官として生きるか選択の余地を与えた。その後は任務に就くためにタルへ武器の扱いや魔法を教えている。そんなカサノヴァと会うのは孤児院へ向かう時以上にタルの心を靉靆させていたが、同時に敵へ剣先を向けるような凛とした思いもあり、それらが渾然としているため彼女の口数を減らすのだった。

 タルとコレットが、他のイリス教徒と混じって静かなる鋳造門をくぐる。するとすぐに目に入るのは尖塔アーチである。それから特徴的に交差したリブヴォールトが尖塔アーチと共に続き、聖堂に入ると表から見れなかったバラ窓、天窓、トレーサリーなどに貼られた煌びやかなステンドグラスが確認できる。天井は聖ロスタインよりずっとずっと高く、聖堂正面から見れるのは、流れるように櫛比する柱の列、祭壇の上に女神イリスを象る偶像、その後ろにステンドグラスの貼られた巨大なトレーサリー。まさに荘厳流麗の極みといった光景だ。聖堂内は中心街の住民で身分の高いイリス教徒たちと、修道士・修道女の上位存在である神官たちが混じって祭儀が行われている。神官たちは黄乱綿の白いローブを着用し、その上に紺色の生地を金襴生地で縁取った、レグレティカというフードの付いた貫頭衣型のエプロンを羽織っている。胸と背中にはいずれも大きく朱色で聖イリス教会の文様が刺繍されていて、一般にローブとレグレティカ併せて神官服と呼んでいた。彼らは一様に背もたれのある長椅子に着席し、祭壇上に上がる司祭の言葉を謹聴していた。

 タルとコレットは聖堂に集まる人々の隅を歩いてそっと奥の回廊へと向かう。回廊は等間隔に部屋があって、樫の木で作られた各部屋の扉には多種多様な巻貝の絵が彫られているが、これは知恵を意味し、主に神官たちの居住部屋となっている。このようにジバナーツァル大聖堂では扉に彫られた絵柄によって部屋の用途を示しているのである。回廊を更に進んでゆくと、砂時計が彫られた扉を確認で出来る。この扉を開けると、十六階もの階床数からなる螺旋階段が目が回るように続く。タルとコレットはこの階段を四階まで登ると、再び砂時計の扉を開けて回廊に出る。そこでまた少し歩くと一部屋分だけ装飾が無く目立たない扉があって、二人はそこで立ち止まると、コンコン、とノックをした。周囲には人気がなく、静まり返った回廊に乾いた音が反響した。そして少し間を置き、

「入れ」

 …と、部屋から声がしたのでタルは遠慮なく扉を開けた。

 扉の先は採光用の窓と机、椅子があるだけの殺風景な部屋で、そこに二人の女がいた。渦巻き状の木彫りがされた机の前に立つ女は、白いローブと瑠璃色に染色された鮮やかなレグレティカを着用し、その上から革の胸当てを装備しベルトを巻き付けて固定している。レグレティカには聖イリス教会の文様が黄色く刺繍されており、腰に下げている剣はテンプル騎士に与えられる洗礼の剣とよく似ている。この剣士風の女神官はどういう訳か両瞼を閉じていて、それでもタルとコレットが入室する様子をしっかり感知しているようだった。もう一人は机の向こうに座り手を組んでいる、黒いローブに黒いレグレティカを着用した大柄な女。顔立ちは整っているが表情は無く、神官服と同じ色の目は暗く乾ききった、人の温かみを感じさせないものだった。彼女こそタルとコレットの目当ての人物である、カサノヴァだ。

「生きていましたのね」

 剣士風の女神官が、艶のある黒いロングヘアを手でサラサラと払いながら言う。その口調は丁寧で内容も安否を気遣うものだったが、声色には多分に皮肉が込められていた。どういうわけか、タルはこの女神官と馬が合わずしばしば対立している。

「残念だったな」

 大仰に両手を広げて、“お前が俺を殺してみてはどうだ”と言わんばかりにタルも返す。これに反応した女神官は、腰にある剣の鍔に親指をかけ、僅かに抜き身を見せて威嚇した。

「ええとても。不死身の人間が死んだなんて聞いたら、これ以上ない冗談ですのに」

 室内に一触即発の空気が充満しオロオロするコレットだが、カサノヴァが仲裁することでそれは収まった。

「タルにコレット、よく戻った。シイラ、その辺にしておけ」

 シイラと呼ばれた女神官が面白くなさそうに腕を組む。彼女はその身なりの通り剣術に長けた、タルやコレットよりひと回り歳上の祓魔神官。麗しき立ち振舞いと優雅な微笑みを絶やさないが皮肉屋な所があり、また任務に対しては彼女の様子からは想像がつかないほど苛烈で、獅子奮迅たる戦いぶりを見せる。詮索を嫌い、自身も話さぬことから彼女の出生等については誰も知らない。

 シイラはぷいっ、とタルからカサノヴァへ身を向けると、任務の話を始めた。

「タルが戻ったのなら問題ありませんわよね?」

「ああ。お前が適任だろう。鎮圧して来い」

「承知しましたわ」

 タルを一瞥すらせず、シイラがふわりと香水の香りを残して部屋を出る。その後ろ姿を見送ると、カサノヴァはほっと胸を撫で下ろすコレットに次の任務を与えた。

「コレット。戻って早々に悪いが、お前には呪病者の調査を任せる。探索魔法によってヴィリエのどこかに二名の呪病者がいることが分かった。パトリーキィ枢機卿のヴィリエ入場が決まった以上、奴らを放っておくわけにはいかん。処理しろ」

 枢機卿のヴィリエ入場は半年ほど前から決定していたが、それがおよそ二ヶ月後に迫っているとなると、祓魔神官としても可能な限り準備をしなければいけないのは当然のことだろう。それにしても、このヴィリエに呪病者がいるのはタルにとって意外だった。教会の本部に代わるほどの機能を持つヴィリエなら、怪物や呪病者といった人の仇となる存在はとうに駆逐されているはずだと思っていたからだ。そして衛兵隊やテンプル騎士団、祓魔神官との遭遇すらも恐れず何食わぬ顔で街を闊歩しているような相手だとすると、これはかなり危険な任務だった。

「ヴィリエのどこかって、すっごく広い範囲なんだけど~」

 砂場の中から砂粒を探すような任務を言い渡され、うんざりした様子でコレットが言う。枢機卿の入場には更々興味が無くとも任務の危険性を察知したタルは、いつも通りの任務であるという認識のコレットに一抹の不安を覚えた。

 彼女なら、問題なく対処出来るはずだ。

 彼女なら、また笑って自分の前に現れるはずだ。

 そうだ、そうに違いない。しかし……。

「必要ならテンプル騎士団や教会の施設を使っても構わん。任務の補助態勢は整えてある」

「……分かったよ、行ってくる」

 遺漏のない状況に断れないと知ったコレットは、大きく溜め息をつき扉を開けて立ち去ろうとする。この時、タルがはっ、と悪夢から目覚めたように目を見開く。そして慌ててコレットの後ろ姿に向けて、

「気を付けろよ」

 …と、注意を促した。

 それを聞いて足を止めたコレットはウィンクをして返すと、今度こそ扉の向こうへと消えた。彼女の足音も次第に遠ざかってゆく。

 ヴィクトリア、それにコレット。タルにとって妹のような存在のこの二人とは、もう二度と会えない気がする……。先が見通せず暗晦な運命の先見はタルに深い憂惧をもたらし、眉を曇らせた。けれども、ここで彼女は自問自答する。一体、自分たちの運命の糸というのは誰が引いているのだろうか?もし手を放したらどうなると思う?

 そうだ、運命が自分たちの進む糸を引っ張っていると思うなんて、なんとも単純だ。

「どうした、タル」

 カサノヴァの呼び声にふとタルが我に帰る。同時につい先程の不快なやり取りを思い出すと、タルは暗澹たる思いを振り払うように尋ねた。

「シイラはまた異教徒狩りか?」

「ああ。北方から救援の要請があってな。向こうも化け物との交戦に加え異教徒共の対応と苦労しているようだ」

 間もなく盛夏を迎えるヴィリエとは異なり、常冬と呼んでも過言ではない北方では、今も飢えと寒さに苦しみながら、人類は怪物との生存競争を行っている。そんな土地が自分の故郷であると知っていても、タルはなんの感慨を受けたことがない。コレットのように、自分の両親や、いるかどうかも分からぬ兄弟姉妹を求める気が起きないのだ。タルは、北方へ自分の代わりにシイラが行くということについての言及をすることなく会話を続けた。

「あいつはまたやりすぎるぞ」

「かなりの規模の暴動らしい。適材適所というやつだ。それより、遺恨なく片付いたのだろうな」

「全部あんたの計画通り進んだよ。カサノヴァ」

「それは重畳だ」

 カサノヴァは女にしては低すぎる声で、にこりともせず眺め見透かすように言った。

「神を殺して村人に見せつければ良かったんじゃないのか」

 哀れにも恐怖で包まれたルーティングテーブルの村を想起しながらタルが言う。村が神と崇めていた呪病者の成れ果てである蛇を殺すことで、その先の未来がどうなるか、全く考えなかった訳ではない。だが、タルの考えた以上のものが村に残されることとなった事実について、この時はまだ知る由もなかった。

「そう単純なものではない。長年続く因習というものはな。コレットやシイラでは村に浸透した儀式までは解決できなかっただろう」

「そうかい、ほら」

 タルがカサノヴァに向けて目を瞑り右手の甲を差し出す。その手にカサノヴァも右手を当てると、重なり合った二つの手がぼんやりと青白く発光し始めた。二人の右手には荊を振るう魔女の紋様がある他に、祓魔神官たちが“呪いの石”と呼ぶものが埋め込まれている。石といっても道を歩く時に目にするあの石ころではなくて、半透明で大きさは卵より小さく、宝石のように六角形になったものだ。それが今、二人の祓魔神官の力に呼応して肉眼でも視認出来るようになっているのである。この石はカサノヴァが作り、魔女の紋様が描かれている者、つまり祓魔神官に対してだけ埋め込むため、それだけで身分証明の役割を果たす。埋め込む部位は右手と決まっているが、右手が欠損している祓魔神官はそれ以外の場所に埋め込まれる。埋め込まれた場所には異物感が残り、超常的な力で意思疎通が可能となるが、これに慣れぬ者には四方八方から来る大量の“声”によって発狂してしまうこともある。石の他の機能としては、今二人が行っているように情報伝達も可能である。任務によってタルたち祓魔神官が体験したこと、見聞きした内容をカサノヴァに送信し、それを受信したカサノヴァは次に教会へ報告する。教会はこの記録を更に嘱目し、場合によってはテンプル騎士団を派遣したりする。

 発光が徐々に止み、それが完全に消えると二人が手を離す。タルはふぅ、と息を吐き、カサノヴァもタルに遅れて目を開いた。

「ご苦労だった。ゆっくり休むといい」

「俺に休暇は必要ない」

 労いを堂々と断って早々に次の任務を要求するタルへ、カサノヴァはやはり表情を変えぬまま次の指示を出す。仕事はいくらでもあるらしい。

「ではフラメの任務を手伝ってもらう。彼女は鏡の間にいる」

「何の任務だ?」

「……詳細はフラメに聞け」

 タルはカサノヴァから何やら不穏な空気を嗅ぎ取ると、分かった、とだけ言って退室した。ドアを閉めると直ぐに螺旋階段へと向かい、その途上でタルは再度ふぅ、と息を吐いた。カサノヴァと話す時は精神力を必要とする。ヴィクトリアとコレットが心配な今のタルは、余計にそれを必要としていた。

 祓魔神官カサノヴァについては誰も知らない。常に表情が無く話をしても思考が読めず、それでいてあの重々しい異様な存在感は、他者に近寄り難い雰囲気を与える。いつも抜け目なく任務の手筈を整えている所は彼女の辣腕ぶりや教会における存在感や影響力を知らしめているが、なによりあの外見だ。タルよりもずっと大きい体に紫色の刺繍が施された黒い神官服。黒くて長いざんばらの頭髪に低い声。タルは最初に出会った時から現在に至るまで、カサノヴァが男ではないかという疑いを払拭できていない。能力も生い立ちも一切合切が不明だが、呪病者を殺す任務は自身も就いているらしく、コレットやシイラも彼女にスカウトされるような形で祓魔神官になったという。

 さて、タルは螺旋階段を神官たちとすれ違いながら一階へ降りると、祓魔神官フラメがいる聖堂一階の奥、鏡の間へと向かった。

 …………

 ………

 ……

 …

 九番街連続殺人事件のおとり捜査から四日後。そこには沢山の見物人が集まっていた。彼らは人の丈ほどの高さまで張られた鉄条網によってその先の進入を阻まれ、見ている事しか出来ない。そしてこの物々しい壁の先にあるものは絞首台と断頭台、磔台といった、人の嗜虐心をかき立てるような刺激的なもの。ここは聖ロスタインの庭先と同程度の広さを誇っておきながら、人を処刑する為だけに整地された二番街名物・公開処刑場で、この日はヴィクトリアの亡骸を磔にして公開される初日だった。五人もの人間を猟奇的な方法でもって殺害したとされるこの殺人鬼は、衛兵隊とテンプル騎士団の合同捜査の最中に死亡し、解剖が終了した後、荼毘に付され異教信者らの共同墓地で埋葬されるはずだった。だがそうはならず、既に腐敗の始まっていた彼女の亡骸は、権力者にとって不都合な、民衆の積りに積もった鬱憤の捌け口として利用するために回収された。昨今、犯罪者の処刑や亡骸を公開する事が増え、それにつれて二番街の人の流れが多くなった。けれども人の死体や処刑を公開する場所である。近辺に住む住人が目を向けないようにしているのは、その心中を推量するに容易いことだろう。

「ひでぇ。あんな気持ちの悪い化け物に殺されたってのか」

「あれは元々は小娘だったらしいぞ」

「どう見ても化け物じゃないか。あんな化け物をどうして見つけられなかったんだ?」

「怖いわねえ、邪教徒ですって」

 赤茶けた液体が大量に飛散した跡のある断頭台の左横に、いくつもの十字型磔台がある。その内の真新しい磔台に、人の形をした何かが磔にされていた。それを見た見物人らは権力者の思惑であると知りつつ、虚実こもごも、勝手な妄想を話してはさも現実にあったかのように身震いし、慄き、唾棄せんばかりに罵る。こうして九番街連続殺人事件の犯人とされる、“稀代の毒婦”を餌に政治への不満は一時的に反らされているが、そんな大勢の見物人の中に、一人のテンプル騎士が混じっていた。周囲に人がいるというのに憚ることなく煙を吐く彼は明らかに浮いていたが、当の本人はその事を承知しているのかいないのかすらも分からない。ただその茫洋たる目は、かつての面影のない、磔にされたヴィクトリアだけを捉えていた。

 灰色の男スェーミ。仕事に命を賭す男。

「騎士様、ここで喫煙は控えてくださるかしら」

 淡いピンク色のゆったりしたワンピースを着た勇気ある婦人が、スェーミにしかめっ面で抗議する。婦人は街ですれ違っても振り返ることもないごく普通の人相だが、如何なる姿形をした人物であろうとも、今のスェーミは一瞥すらしなかっただろう。しかし抗議を受けてかどうかは判然としないが、彼はくるりと公開処刑場に背を向けると、怠そうにゆらりゆらりと歩き去って行った。

 ………

 ……

「お願いです、どうかお恵みを…もう三日も食べていないのです」

「先行きを案じる者たちのために祈りましょう、騎士様」 

 物乞いやイリス教徒の懇願を無視し、スェーミは歩き煙草で漫然と道を歩く。だがそこには有無を言わさぬ凄味を利かせており、マナー違反のこの男を咎める者もいなければ、テンプル騎士だとして噛み付こうとするならず者もおらず、通行人は皆それとなく道を開けた。今、彼の目に映るものは全てが灰色に見える。そしてジラーニィの煙が人を寄せつけなくさせ、彼をいつも以上に深い深い思考の淵へと誘うのだ。

 近頃スェーミが思考対象とするものは勿論先日の九番街連続殺人事件についてである。それは仕事に関わることが半数を占めていたが、残りの部分はヨアヒムと取っ組み合いをした時であったり、ゼクスの事についてであったりと、彼らしくもない内容であった。スェーミは元々他人を信用せず単独行動を是とし、黙っている事が多い分思考をする時間も多く、就寝前も、起床時も、着替えの時も、食事の時も等しく論理的に思考をしている。移動中の時間は特に思考にはもってこいで、しばしば彼は辻馬車を使わず徒歩で移動していた。それを今思考する時間を事件についてでないことに向けさせるのは、彼の変化でもあった。

 そうだ。どんなに最悪な悪党でも小さな善の灯を持っているように、人という生き物は、生きて誰かと関わり合いを持つからには、感情を捨てきれぬものなのだ。

「ちっ……」

 おとり捜査の夜、ヨアヒムの言った言葉がスェーミの心に小さい棘となって突き刺さる。それは少しチクリとする程度の取るに足らぬ痛みだったが、いちいちその痛みに意識が向き彼を苛立たせた。そこでスェーミはこの雑念を払拭するために、自分がいる今、この時を集中した。事件を、仕事を完遂させる者として優先順位を決めるのだ。そのためには過去を振り返らず、当惑の霧から抜け、寂寞たる荒野を一人で歩く必要がある。感情をコントロールするのだ。

 こうしてスェーミは表情にこそ出してはいなかったものの、悶々と歩いていた。ところで、彼が徒歩を選ぶ理由がもう一つある。それは煩わしい用事に対する時間稼ぎだった。彼は今、二騎へと向かっていた。

 スェーミが二騎の入り口までやって来ると、いつも警備をしている隊員に敬礼され、それを適当に返しそのままエントランスへ向かうとローズと鉢合わす。特に会話をするでもなくそれぞれ横を通り過ぎようとすると、意外にもローズから口火を切った。

「彼は今日も来ていません」

 それを聞いたスェーミは足を止め、ゆっくりローズへ顔を向ける。

 “彼”とはゼクスのことだろう。表情はいつも通り無かったが、この直前のローズは、スェーミがゼクスについて話す時のことを思い出していた。スェーミとローズ、二人共誰かと進んで会話をする方ではないが、その時は彼からやって来て、僅かに微笑まで作りながら次のように述べていた。

『訓練生にしては出来るが、直ぐ調子に乗る』

『あいつとコンビを組む奴は必ず苦労する。気の毒な事ではあるが、その分退屈はしないだろう』

 他人事の彼だったが、本採用となった新人は実戦任務考査で担当となった隊員とコンビを組むのが慣例となっているのを知らないはずがない。ローズからすれば、今のスェーミの心境を薄らぼんやりではあるが分かるような気がするのだった。その肝心のゼクスは九番街連続殺人事件のおとり捜査の夜、彼への簡単な聴取を行った後から自室に篭ったきりで一切動向を見せないでいる。こういう話題は吹聴を重ねて直ぐに広まり、二騎では入隊した翌日からやって来なくなったゼクスを案ずる声が出ていた。

 スェーミはローズの憂慮を察してか興味がないのか、再び正面を向いて歩き出すと階段を二階、三階と登り、最奥の隊長室へと進んだ。二騎でスェーミの顔はかなり知られているのか、挨拶をする者や敬礼をする者様々だった。また支部の規模の割には人の密度が高く内勤者や現場の隊員らが入り乱れており、少しくらい肩がぶつかった所で誰も文句を言わない。スェーミは往来する者たちを器用に避け、挨拶や敬礼をする者らへ適当に返しながら隊長室のドアの前までやってくると、

「入るぞ」

 …と、ノックもせずにドアを開けた。

 よく磨かれた床に応接用の黒いソファー、テーブル。そして部屋の奥にある隊長用の机と肘掛け椅子。そこにはウッドブラインドの隙間から入った日差しを遮るようにして座り、いくつもの書類を手に取って目を通す男がいた。男は黒縁の洒落た眼鏡をかけていて、短めでクセのある黒い頭髪を下ろしており、ローブを取ってジャケット姿だった。胸には第二騎士隊の長であることを示す、交差した二つの剣とゼラニウムの花を模して意匠されたという黄金に輝く隊長章を佩用している。彼こそ、ヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊長ナハルヴェン。支部内では隊長、ナハルヴェンさん、ナハルさんと略したり呼称様々で、本人も穏やかで豪放磊落なために人望が厚い。膂力に優れ、教会が特別に拵えさせた洗礼の剣は両手剣と同等のサイズであり、彼はこれを片手で自在に振り回すほどである。またテンプル騎士団の幹部から中心街にある騎士団本部の管理職を指名されている優秀な男だが、二騎での仕事に拘りと愛着があるためにそれを頑なに断っている。“今が最高”と豪語する彼に最近第三子である女の子が生まれた。平等に子供を愛しているのは勿論だが、娘の存在はやはり特殊のようで甚く愛でているという。家族を愛し愛され、部下に慕われ、時には峭刻たる決断も辞さない厳しさを併せ持つ男。それが第二騎士隊長ナハルヴェン。スェーミとは同期の人物でもある。

 いきなり入室した無法者に対しナハルヴェンはよお、と返事をしただけで書類に目を通しており、スェーミはというとさっさとソファーへ向かい、どかっと音を立てて腰を下ろすと、換気がされているのかも確認せず煙草に火を点けた。支部内では基本的に禁煙だが、ここ二騎の大将が鎮座する部屋は別だ。様々な匂いが染み込むこの部屋にスェーミがやって来るのは、最早数え切れない。

 ナハルヴェンはゆっくり椅子から立ち上がり目を通していた書類を机に抛ると、入口ドアから向かって左側の壁に設置してある、松の木で作られたシェルフへと歩く。そこの壁には本人、彼の細君、三人の子供たち計五人が一緒になった肖像画が飾られている。またシェルフにはコーヒー抽出器具が置かれていて、ナハルヴェンはそれを見ながら良い豆を取り寄せたんだ、と言ってコーヒーを淹れる作業を始めた。

「お前も飲むよな、コーヒー」

「……」

 返事の無いスェーミを無視しナハルヴェンは作業を進め、やがて室内に芳ばしい香りが漂い始めると、上機嫌に鼻歌を歌い出した。彼は少々無理して入手したお気に入りのコーヒー抽出器具でもって、お気に入りの豆でコーヒーを淹れ、それを自身と来訪者に振る舞うのが楽しみだった。

 鼻歌が最高潮を迎えたあたりになって淹れ終わると、ことり、と音を立てて二人分のコーヒーカップをテーブルに置く。ここでようやくナハルヴェンも百八十センチメートルある身長と隆々とした筋肉に包まれた体を遠慮なくソファに預け、ゆっくりコーヒーを口にした。勿論味はブラックだ。彼の部屋に砂糖やミルクといったオプションは置かれていない。

「ショーはどうだった」

 上機嫌なナハルヴェンが言うショーとは権力者が用意した稀代の毒婦の公開のことだが、それをスェーミは、

「盛況だ」

 …と、何でもないいつも通りの出来事のように返答した。だがナハルヴェンからすれば、そう答えたスェーミの様子には僅かだが感情の色が見え隠れしている。それを見て何かを察したナハルヴェンは短くそうか、と相槌を打ち、その後に訪れた沈黙の中、コーヒーをまたひとくち口にした。コーヒーの湯気と煙草の煙越しから見えるスェーミを観察すると、目の下に薄らとクマが出来ており、青白い顔をしていて窶れても見える。睡眠不足と栄養失調気味なのは明らかだった。

 やはり伝えなくては、と決意したナハルヴェンが、彼を呼び出して聞かせる話をするために沈黙を破る。

「随分と人気者になったじゃないか。え?疲労困憊といった様子だぞ?一体何人の女を取っかえ引っ変えしたんだ」

 少々間を置き灰皿に灰を落とすと、スェーミが気怠く答える。

「オレの仕事に関係のある話なら聞くんだがな」

 摯実なるナハルヴェンと目を合わさず、スェーミが隊長席のすぐ横の壁に収められている、幾多の怪物、異教徒を蹴散らしてきた大剣に目をやる。飾りとして見れば大きくて長い剣だが、ナハルヴェンが手に取るとそれは洗礼の剣となり、生命を刈り取るだけの恐ろしい武器となる。全長二メートルを超える二足歩行で猪のような化け物を、真一文字に薙ぎ払って胴体を上下に分断したことがある。縦に振り下ろせば人を正中線に沿って真っ二つにしたこともある。大剣を操る彼へ迂闊に近付こうものなら手足の一本二本は軽く失うことになるだろう。これらは全て人伝てでなくスェーミ自身の目で見た事実だ。あれよあれよと昇進した同期にして友人との過去を思い出しながらスェーミはぼんやりとしていたが、その一方で、ナハルヴェンは重要性の低い話だとして真剣に取り合わないスェーミを憂慮し、なんとか傾聴してもらいたく話を続ける。

「十分に関係がある。お前がそんなに夢中になってるんだ、パーティーには余程の美女と酒が――」

「よせよ」

 スェーミのそのひとことで隊長室に再び沈黙が訪れる。それは先程までとは違い、緞帳のように重いものだった。

 ナハルヴェンは手にしたカップをテーブルに置くと、スェーミと同じように足を組み、胸ポケットから煙草とマッチ箱を取り出し点火する。次にゆっくりと煙を吐いて、スェーミの全身を改めて観察した。寝食は忘却の彼方のようだが、不思議なことに入浴や洗濯はしているようで彼の身だしなみはこれといった乱れを感じさせない。付き合いの長いナハルヴェンでも、彼のこういう生活感があるようでないようなちぐはぐな所がつくづくおかしな男だと思っていた。

 今度はスェーミが出されたコーヒーを飲みながら口を開く。

「言いたい事があるならはっきり言え。オレが人気者だと?そっくりお前に返してやる」

 ナハルヴェンが凝った肩をごきごきと鳴らす。次に首。彼が直接現場に赴き任務をこなしていた頃、先ず姿勢には気をつけた。次に肛門括約筋に力を入れるようにしていた。それは一弾指の間にパワーを要する彼の技には必要な心得だったが、結果として身体の不調を予防し良好な状態で任務にあたる事が出来た。隊長になってからは肩こりや首の痛みに悩まされているようだが。

「食え。そして寝ろ」

 スェーミに言われ、ナハルヴェンが簡潔に伝える。地の底から湧くような力強さがあって、どんな愚か者でも理解出来るシンプルさ。それに彼を知る者ならばそのシンプルさが人情の機微にも触れるような言葉だった。対するスェーミはコーヒーをもうひとくち喉に通すと、カップから立ち上る湯気を少し虚ろな目で見ながら、ぽつりと呟いた。

「お節介な野郎が淹れたコーヒーで十分だよ」

 ――ああ、そうだった。こいつは俺と味の趣味が合うんだよな。

 言い方はぶっきらぼうだが、スェーミに自分が淹れたコーヒーを肯定されてナハルヴェンは少し気を良くする。しかし伝えたい事はまだ残っているし、問題は解決していない。目の前の男を刺激しないよう、ナハルヴェンは二つ目の話を始める。

「九番街でのおとり捜査の報告書を見た。お前、コンビを組んでいる新人に休暇の許可を与えたそうだな。どうしてそんな事をした?」

 この質問に対し、スェーミは何でもない事のように即答した。

「必要だと思ったからだ」

「何言ってんだよ」

 ナハルヴェンが煙を吐くと灰皿に灰を落とし、足を組み直す。次にすぅ、と大きく息を吸って気怠そうなスェーミを見据えた。

「お前は任務中、新人や見習いを何人も死なせた。それについて、これは何度も何度もお前には話したが、周囲がなんと言おうと俺は咎めない。経験の浅い者を守りながら任務を遂行しようとベストを尽くした結果なんだからな。いいか、お前には俺の後ろ楯があるんだ。ならば万難を排して任務を遂行しようとするお前の背中を新人に見せてやるのが、本来の対応なんじゃないのか?」

 最近二人が話す内容といえば隊長としての立場、隊員としての立場のもので、いつも穏やかに終わらない。今回も同様の雰囲気になりそうで、ナハルヴェンの言葉を聞くとスェーミは眉を顰め、不快感を露わにした。

「本当に報告書を見た上で言ってるんだろうな。このヤマは邪教が絡んでるんだぜ。それもそんじょそこらのクソ共を寄せ集めたものじゃない。南方の邪教だぞ」

「南方だろうがクソ共の集まりだろうが、俺たちのやる事は同じだろ。なら、それをお前が新人に見せればいいだけの話だ」

「何を馬鹿な事を。女を殺して腑抜けになったあいつを同行させても、邪魔な上にあいつ自身が危険な目に遭うだけだ」

 ふぅ、と煙を吐く二人。やはり話は平行線でコンセンサスや解決の糸口は見えそうになかった。ここでナハルヴェンが思うのは、スェーミが部下や後輩想いの優しい男であるとかそうでないとか、そんな単純なものではなく思いやりというものについてだ。真の思いやりを持つことは、自分を受け入れることに繋がる。スェーミが純粋に思いやりという形で新人に休暇の許可を与えたのなら、まだ良かったのだ。ナハルヴェンは、予てより察知していた、スェーミの精神的な問題に踏み込む形で言及した。

「人は不安が膨らむと自信を喪失する。お前は新人を失うかもしれねえ不安に駆られ、甘っちょろい事をしたんだ。それを少しは自覚しろ」

 果たしてどのような反応が返って来るか、と刺激を与えるような言葉だと思うナハルヴェンだが、意外にもスェーミは先ほどと変わらぬ様子で駁した。

「それで死んだ奴らは何人いると思ってるんだ?お前こそケツを叩く事しか頭にねえことを自覚するんだな」

 そう言うとこれ以上意見を戦わせるのは無駄とみたのか、スェーミは煙草の火を消すと早々に立ち上がる。だがそれを話はまだ終わっていない、とナハルヴェンが呼び止めた。かつてのように中々分かり合えない二人は互いに苛立たしさを覚えていたが、ナハルヴェンはある事情により、スェーミ以上の憂悶を抱えていたのである。

 ソファーに再び背中を預けるスェーミを確認した後、ナハルヴェンが話を続ける。

「九番街の事件、捜査は進んでいるのか」

「白紙じゃねえ報告書なら満足なんだろ?」

 事件について触れたせいか、幾分かはいつものスェーミに戻ったようで、彼はソファーの肘掛けに寄りかかりそっぽを向きながら、さっさと要件を話せ、と言わんばかりに皮肉った。だがナハルヴェンの次の言葉を聞いた瞬間、再び彼は表情を固くした。

「九番街のヤマから手を引け。騎士団は捜査を打ち切る決定をした」

 有無を言わさぬ、二騎の隊長として下す厳命だった。ただこれはスェーミにとって隊長室にやって来る前から予見していた事でもあった。捜査を進める内に、徐々に徐々にと権力者の存在が見え始めてきたからである。ナハルヴェンはそういった者たちによる恣意的な発言の犠牲者なのだ。

 “本当はこの事を一番伝えたかったのだろう”と、スェーミがナハルヴェンの心中を察したのかどうかは分からない。ただ問わずにはいられなかったのか、壁にかけてある五人の肖像画を見ながら彼は言う。

「どいつの差し金だ」

 ナハルヴェンは一旦スェーミから視線を外してカップを手に取りひとくち飲んだ後、少し間を置き低く唸るように答えた。

「本部長だよ」

 ヴィリエ常駐テンプル騎士団本部長。本部勤めのエリートたちを統べる最高指揮官。肩書きは絢爛たるものだが、その姿はつるりと禿げあがった頭に皺と老人斑が目立つ顔、神経質な印象を与える眼鏡をかけ、でっぷりと肥えた腹を短い足で支えた醜い小男である。現場を離れて久しく、本部長の身分を手に入れてからは権力とカネに溺れ、専ら私利私欲の赴くままに行動する男らしく、昨今では政治にも介入するという分不相応な行いもしてみられるという。腰に下げた洗礼の剣は部下に磨かせているため鋭い刀身が光を反射させているが、きっと抜くことは出来ないだろう。刀身が磨かれていても、彼の心は錆び付いているのだから。

 スェーミがもう一本煙草を取り出し点火する。そして先程から続く居心地の悪さ故か、溜め息と同時に煙を吐くと、深く視線を落とした。ナハルヴェンは実際のところ、スェーミがどこまで捜査を進めているのか詳細の所までは知らない。だが、今彼が何を思い描いているのかは分かる気がした。そうだ、彼は察してくれているのだ。組織の上と下とで板挟みになった自分の苦悩を。

 殺人犯であるヴィクトリアから邪教の痕跡が見つかったからには、これを壊滅するのが騎士団の通常の動きだ。それをこともあろうに今回は拱手傍観であれ、と述べているのである。また、権勢を振るう本部長がわざわざ九番街の事件に狙いを定めて嘴を入れるのは、近しい権力者が本部長に上意下達の指示を飛ばしたからに違いない。その権力者とはおそらく……。

 我々はなんだ?テンプル騎士団だ。

 テンプル騎士団は聖イリス教会が組織した戦闘部隊だ。その役目は人類の脅威となっている怪物や異教徒らと闘い、イリス教徒の苦慮懇願に教会の命令によって応えるのが真実のあり方であり、本懐ではなかったのか。今の騎士団は教会を袖にして権力者の顔色を伺い右顧左眄し、怯懦の虫と成り果てている。ああ、嘆かわしい!

 ナハルヴェンが先遣隊、それに邪教の存在が確認された折に拡張した捜査隊へ、捜査打ち切りの旨を伝えた時の事を思い出す。彼らは一様にこの決定に対し抗議したが、最後には命令に従うという形で了承してくれた。過去、大なり小なりこのような事は起きてはいたが、テンプル騎士としての本懐、それに矜持と己自身の観念に反する本件に関しては、豪胆なナハルヴェンでも煩悶懊悩させるほどのものだった。そこで彼はこの葛藤を打開するために、野心を持った。

 俺には向いてねえ。

 この組織の全てを一度ぶっ壊してやる。

 そして本当の、女神の騎士団を作るんだ。

 怒りとも諦念とも取れる感情がナハルヴェンの心に暗く渦巻く中、睨むようにスェーミを見る。今の彼は宙を浮く煙を捉えているようで感情が読み取れない。こういう時、彼は煩わしい話に対して惚けているのだという事をナハルヴェンは知っていた。間違いない、スェーミに掣肘を加えたところで動じることは決してないだろう。それに九番街の事件の捜査をしているのは、もう彼だけだ。

 ならば、と思う。

 この男にしか九番街の人々を苦しめた邪教の壊滅、事件の真相を突き止める事が出来ないのだとしたら、いっそそのまま好きなようにやらせてみてはどうだろうか。ナハルヴェン自身が正しいと思う事、すべき事をまさに実行し、それを意地でも成し遂げようとする最後の人間を、上官の命令で唯々諾々と葬る事など出来ようか。

 ナハルヴェンが悲痛な覚悟をしようとする中で、スェーミが言う。

「で、どうするんだ?オレの考えてることは言わずもがなって所なんだろ?」

 その言葉に、ナハルヴェンが深い思案の淵から目覚める。スェーミはいつもの気怠い様子にすっかり戻っていたが、視線は鋭く向けられていた。

 ……穏やかながらも野心に燃える男の目と、不退転の決意を宿す灰色の男の目が、宙でぶつかる。もしここで戦闘になったらスェーミが有利だろう。彼は帯剣している上、隊長に就任したことによって現場の任務から離れたナハルヴェンは実戦のブランクがある。この時、二人は同じ戦士という側面から、殺し合いをする自分たちの姿が脳裏を掠めた。

「捜査委任章を寄越せ。それで手を打つ」 

 スェーミはナハルヴェンの命令に煙草の灰が落ちそうになるのを気にするようでもなく、黙って懐から同章を取り出すとテーブルの上に置いた。その様子から、彼は元より教会の威光に縋るような捜査をしていなかったとみられる。

「話は終わりか?」

「ああ」

 ナハルヴェンの返答を聞くと、スェーミは煙草の火を消し、無言のまま退室した。後に残ったナハルヴェンは、コーヒーをもうひとくちするとテーブルに置かれた捜査委任章に視線を落とす。これで二騎の体制として、名目上、誰一人として九番街連続殺人事件の捜査をしていない事になる。本部長の命令には従い、確かに完遂したのだ。

 それはいい。それはいいのだが……。

「全く、仕方ねえなあ」

 ナハルヴェンが重く沈痛さに満ちた溜め息を吐きながら、自分しかいない静かな隊長室で呟く。今の彼の頭脳は、詰まりに詰まったスケジュールを空きそうな時間や省けそうな予定を洗い出し、高速で組み直していた。

 ………

 ……

 隊長室を出たスェーミは二階、一階と階段を下りて、二騎を出るため真っ直ぐローズのいる受付横を通る。そこでエントランス側に設置された、二騎の門扉の上にある時計を見た。時刻はおよそ午前十一半時。捜査をするにしても、何をするにしても、明るい内に事を済ますに限る。

 門扉を押し開けると庇が影を作っていたが、それ以外の場所は魔法効果のあるローブを装備しても感じる程の、じりじりと焼け付くような日差しが降り注ぎ、敷石の地面を眩しく反射させていた。スェーミは仏頂面のまま暑さを感じている様子を出さず、二騎へやって来た時と同じように、ゆらりゆらりと漫然たる足取りで歩き始めた。

 さて、今回もただ思考のためにぶらぶらと歩くわけではない。彼は自身の持ちうるコネクションを最大限利用して九番街の事件を追っているが、その最中、有力な情報を入手したという人物の元へ向かっているのだ。場所は六番街にある、ヴィリエ常駐テンプル騎士団第三騎士隊支部(三騎)。“根絶やし”と呼ばれる者達の拠点である。三騎はスェーミの足で二騎から一時間半程の場所にあり、衛兵隊が管理するヴィリエの検問所にも近く、彼らの主任務である異教徒の処理、ヴィリエ近郊で発生した怪物の対処に即応出来るようになっている。また三騎は聖イリス教会第五代教皇トゥリナーンが建設した、トゥリナーン聖堂、人々からは聖トゥリナーンとも呼ばれている場所と併設されており、その規模は聖ロスタインより劣るが聖堂の儼乎たる造りは決して見劣りさせない。三番街から六番街にかけては幹線通りを外れてもごみごみとした雑踏に大小の建築物が建ち並び迷いやすいが、もし初めてヴィリエにやってきた者が三騎へ向かうなら、この聖トゥリナーンを目印に歩けば迷う事はないだろう。

 時間を考慮し、今回は辻馬車を利用したスェーミが三騎の入口前に立つ。二騎と違う点は、通常の入り口の他に併設された聖トゥリナーンの門扉、その広い公園敷地があること。他には異教徒たちを連行する尋問部屋兼留置所の地下室があり、計三つの門扉が訪れる者を出迎える。地下室へは教会関係者や三騎の者でしか自由に出入り出来ないが、スェーミは関係者外だというのに、真っ直ぐ地下室への入り口へ向かった。そこで地下室入り口を警備する若い隊員と対峙する。彼はゼクスよりも身長が低く頭髪も丸めてこじんまりとした男だが、身の丈ほどの棍を持ち、鋭い視線と共に周囲を威嚇していた。

「あっ…スェーミさん」

 丁度逆光でよく見えなかったのか、若い隊員は前に立つ者がスェーミだと分かると敬礼した。

「クレメントはいるか?」

 その名を聞き若い隊員がはっ、とした表情になる。彼はスェーミに在所の有無を問われ、いらっしゃいます、と返答した。その後クレメントなる人物の居場所を伝えると、直立不動でスェーミが地下室へ入ってゆくのを見送った。

 地下室へと続く階段を下りる度にカツン、カツン、と踵が石造りの階段を叩く音がする。照明は疎らで薄暗く、それに特別な用事がなければ先を進むのを躊躇うほどの強い悪臭がした。階段は古く、僅かな照明でも分かるほど壁が煤けたように黒ずんでいる。これは毎日のように沢山の異教徒やテンプル騎士団、教会関係者が壁を手にしながら階段を下りて出来た、夥しい人間の手の皮脂による汚れだ。スェーミはこの場所が好きになることは絶対にないと自信を持っているが、果たして異教徒たちは、この暗くて不衛生で悪臭がする地下室へ連行される時、一体どのような気持ちになるのだろうか。

 少し長めの階段を降りきると、すぐに三騎の単純な造りの地下が眼前に広がる。まず廊下が真っ直ぐに伸びており、それが三十メートル程で壁にぶつかって地下二階は存在しない。廊下の左右には等間隔で扉があって、どれも鉄製で防錆加工がされた頑丈なものだ。連行した異教徒に脱獄させないための措置なのだろう。

 スェーミは先程警備の隊員に聞いた通りに、階段を背にして左手側にある五つ目の扉をノックせず開ける。扉の先はカンテラの明かり一つだけでぼんやり照らされた、石造りの部屋だった。広さは大人が一人で使うには不便しない程度だが、目に付くものはまず天井。そこから吊るされた血痕付きフックと輪っかのあるロープは一体何を吊るすものなのだろうか。次に壁。石の壁から木の板を介してぶらぶら揺れる鎖の手枷、それに用途不明の器具を収納する棚。他には血の付着した鋏、メス、プライヤー、鋸、注射器などが散乱した作業台、姿見がある。部屋は飾り気が無くごつごつした石が剥き出しになっており、天井、壁、床には乾いたどす黒い液体が飛沫となって飛び散っている。中には真新しいものもあり、それを見ると血液なのだと理解出来る。楽しい戯れが行われているなどとても想像出来ず、何か生理的に嫌悪感を与えるこのおどろおどろしい部屋に、二人の人間がいた。一人は大の字で磔にされた腰巻きだけの男児。もう一人はくねくねとウェーブのかかったブラウンの頭髪を腰のあたりまで伸ばし、丈の長い貫頭衣を身につけて背を向ける人物。貫頭衣はヴィリエ常駐テンプル騎士団の装備であるローブと同じ意匠で、それを腰からベルトと帯紐で固定していた。

「さぁ坊や。次は何をしようか」

 貫頭衣を着た人物が言う。華奢な体格と後ろ姿は女性に見えるが、今聞こえた声は間違いなく低くて甘ったるい、男性の声だった。

「待たせたな、クレメント」

 クレメントと呼ばれた人物がゆっくりと振り返る。身長はスェーミと同じくらい、くねくねとウェーブがかかった前髪と横髪を揺らしながら、左目にかけられたモノクルの位置を直す。その人物は暗い部屋の中でも分かるほどの凄艶たる美貌の持ち主で、中性的な顔立ちをした男だった。

「やあスェーミ。君もこの玩具で遊ぶかい?ぞくぞくするような声で鳴くぞ」

「貴様と一緒にするな。それよりそのガキは何だ」

 クレメントの後ろにいる、磔にされた男児をスェーミが瞥見する。男児は異常とも思えるほどぶるぶると震えており、全身から汗を吹き出して濡れていた。四肢と首を固定している物は皮のバンドといった一般的な桎梏ではなく、青く発光する拘束魔法の応用。まさに今、クレメントの趣味であり仕事でもある“尋問”の最中だった。彼はペドフィリアの噂もある倒錯した性癖の持ち主で、その証拠にこうして子供の犯罪者や異教徒を寄越してはいたぶり、その命を玩具のように弄んでいる。三騎の中でもとりわけ奇人変人であるとして恐れられているクレメントだが、実は三騎の副長を勤めており、加えて異端審問官の資格を有している。スェーミとは打算的な理由で仕事の付き合いが長く、二人の仕事の特性上、互いに情報を共有し合い、過去、最終的にバディのいない二人が組んで任務にあたることも少なくなかった。三騎があのルーティングテーブルの村へ出動する情報をスェーミに提供したのもクレメントだった。同村での虐殺については直接関わった訳ではないが、神官タルの記録を閲覧した後、邪教の村と仕立て上げたのは他ならぬ彼である。

「ふふふ。この子は窃盗の常習犯でね、しかも異教徒なのだよ。残念ながら明朝にでも串刺し刑に処される予定なので、その前に少し遊んでおこうと思ってね」

 注射器に透明の液体を注入しながらクレメントがケラケラ笑う。串刺し刑とは、橙色に焼けた鉄串を肛門から少しずつ少しずつ刺し貫いてゆく極刑のひとつ。哀れにも男児の未来は完全に閉ざされていた。スェーミは開きっぱなしの扉に寄りかかると、短き命であることが決定付けられているからといって何をしても良いのかと、もしゼクスがこの場にいたならそう批判したかもしれないな、と考える。異教徒の子供がどのような方法で刑を執行されるのか興味がないというのに、ゼクスが何を思いどうするのだろうかと考えるのはスェーミ自身奇妙な感覚だった。

 今日の俺はどうかしているようだ、とスェーミが溜め息をするのを他所に、クレメントが尋問を続ける。刑が決まっているのに“尋問”とはおかしな話だが、男児を弄んで昂った性的興奮を慰撫出来れば彼はそれで良いのだった。

「う、ううー」

 注射器を見た男児が、首を振り身体をばたつかせて過敏に怯える。

「ふふ…そんなに反応して、これが気に入ったのかね」

 スェーミが正視に耐えぬほどクレメントの行為は目に余るものがあり、男児は顔面の耳を除く全ての穴から汁を垂れ流し、失禁もしていた。薬物を投与されて心身に何らかの作用が働いているのか、呼吸が荒く錯乱状態にもなっているようだった。左腕には無数の注射跡があって、その周囲の皮膚は腫れ上がり紫色に変色していた。外傷も沢山あり、左の目は瞼を何針も縫い合わせられて完全に視界を遮られた状態だった。拘束された手指はどちらも爪は全て引き剥がされ、小指、親指が欠損している。その部分はよく見ると焼き跡があって、止血されていた。

「いつまでそのガキを凌辱するつもりなんだ?オレは貴様の趣味を見学するために来たわけじゃねえんだぜ」

 辟易したスェーミが尋問を止めようとしないクレメントにそろそろ仕事へ戻るよう打診する。言われた本人は分かっているのか分かっていないのか卑しい笑みを浮かべたままだったが、次のように述べた後、注射器を置いた。

「うっふっふ。相変わらず仕事熱心だな、君は。勿論私とて仕事を優先に構えているつもりだよ」

 稀代の毒婦は処刑ではなくただの公開に過ぎないが、それでもセンセーショナルな出来事として平民らの関心を集めており、それに加え、昨今では子供の処刑も行われるようになった。異教徒で犯罪の常習者や重要犯罪人であるならば、子供とて問答無用で処刑にされることにも、平民は関心を集めているのだ。そこでヴィリエの行政は死刑囚の私的な殺害を禁じる法令を発布しており、これにより死刑囚は刑を執行されるまでの間は命の保証がされる事となった。クレメントはこの法令を歓迎していて、子供を合法的に“生かさず殺さず”の状態で弄ぶ事にサディスティックな悦楽を感じているのである。

「表に出るぞ。ここは臭くてかなわねえ」

「了解だ。…待っててね坊や。また可愛がってあげるから」

 スェーミの提案に了承したクレメントが、磔にされた男児の耳元で、ゆっくり咀嚼して味や香り、食感を楽しむように囁く。男児はうー、うーと首を振って何かを必死に訴えているようだが、“拘束魔法”による猿轡のせいで何を言っているのか分からない。男児は二人が退室するまでずっとうー、うー、と何かを訴え続けていた。

 ………

 ……

 地下室を出て真夏の日差しを浴びながら、スェーミとクレメントは三騎の敷地でもある聖トゥリナーン公園へとやって来た。聖トゥリナーンの公園敷地は蔓植物を多用した造園により、訪れる者に水彩画を彷彿させる情緒的な光景を見せ、周辺住民の憩いの場となっていた。公園の入口から聖堂まで続く長大なアーチは蔓日々草の葉に覆われ、夏の日差しをも遮断する緑の日陰を作る。その中に咲く小さい薄紫色の花は、スェーミの灰色の世界でも捉えているようだった。

 アーチの下を歩きながら暑い暑い、と手をぱたぱたさせているクレメントの横で、花を見ていたスェーミが仕事の話を切り出す。

「それで……進展があったそうじゃないか」

 九番街で起きていた連続殺人事件の犯人が死亡したことにより、事件は一応の終止符を打った。だが謎は多く残っている。スェーミにとって一番大きな謎は、犯人が邪教徒であるという痕跡を残していた以上、今もどこかで暗躍している邪教の拠点を知ることだ。他にも無視出来ぬ事柄があって、それも併せて彼は追っている。そこでまず、ヴィクトリア周辺の人間関係を洗い出し、彼女が邪教徒になった原因を知る者、或いは引きずり込んだと思われる人物を見つける。次にその人物から邪教の居所を掴む……それが今のスェーミの捜査方針だった。そして捜査は難航していたものの、遂にその重要な人物をクレメントが、衛兵隊よりも早く特定出来たというのだ。

「ああ、勿論だとも。私の情報源は教会関係者だからね、間違いない」

「どういった内容だ」

 間を置かず情報を求めるスェーミに、クレメントがふぅ、と息を吐き、大仰に身振り手振り合わせて、カフェで涼みながら話そうと持ちかける。

「六番街の幹線通りにとあるカフェがあるのだが、あそこは私のお勧めでね。特にアップルティーは良質な林檎を使用していて、天然の果汁と茶葉から来る味と香りは優雅な午後のひとときを約束させてくれる。更にフィナンシェも焼き加減が丁度良く、名産地のバターによる芳ばしい香りといい絶品なんだ。是非あそこで過ごす事をお勧めする」

 クレメントは食通としても知られ、ヴィリエの飲食店には詳しい。スェーミは仕事の都合上、こうしてしばしば彼の趣味に付き合わされていた。またこの状況に慣れてもいるスェーミは、無表情のままお手上げポーズをして、

「好きにしろ」

 …と、大人しく提案を飲むのだった。

 その後、聖トゥリナーン公園の南側出入り口を出た二人は、そのまま南に向けて歩くと六番街の幹線通りにぶつかる。そこで辻馬車を拾うと、六番街でも中央通りと検問所の喧騒から離れた、七番街寄りの商店が建ち並ぶ通りへと進む。ぐっと静かで落ち着いたこの通りに、二階のバルコニーと一階の軒先にテラス席、店内にテーブル席とカウンター席が用意されたカフェがある。開放的な一階と二階のテラス席に設置されたパラソルは季節ごとに色を変え、瀟洒な店内はドルテクノロジーによって夏は涼しく冬は暖かい。紅茶と茶菓子に注力しており、閑雅なる貴族の婦人ですら足を運び舌鼓を打つという。その店こそ今二人が向かっている場所で、名を“カフェ・カリタ”。同店に到着する頃には午後一時を経過していた。

 スェーミが太陽に向けて手を翳しカフェ・カリタを外側から眺めると、一階と二階のテラス席はいずれも若いカップルや夫婦、女性客らが占め、一見したところ満員のようである。店内も客で賑わう声が道まで聞こえ、大変な盛況ぶりだった。

 本当にこんな所で仕事の話をするのか、とスェーミはクレメントを睥睨するが、当の本人は何食わぬ顔、寧ろ微笑すら浮かべ店内へと足を進める。それにスェーミも続き二人が入店すると、

「いらっしゃいませ」

 …と、白いワイシャツに黒のスラックス、黒のソムリエエプロン姿の若いウェイターが穏やかな笑みを湛えながら出迎えた。クレメントはウェイターに問われるまでもなくテーブル席を希望し、僅かな空席に案内され二人が着席する。この時、衛兵隊やテンプル騎士団の正式装備姿のままやってくる利用客が珍しいのか、多少の視線を集めた。店内はざわざわざわざわと、まぁ女たちの談笑の声で騒がしいこと。普段、カフェなどロクに行かないスェーミが居心地の悪い思いをする中、クレメントは上機嫌そうにそれもすっかり慣れた様子でおごりだ、と言うので、スェーミも彼の注文に倣ってアップルティーとフィナンシェを注文した。

 オーダーを受けて去るウェイターの後ろ姿を見送りながら、スェーミが周囲を見回す。やはり店内は女ばかりで、まれに一人で読書をしながら時間を過ごしている者もいるが、大抵は誰かを連れ立ってお喋りに興じている。店内は涼しく、ダイニングチェア、壁際の二人掛けソファはいずれもシンプルな木製の構造だが、座面や背もたれは低反発で座り心地の良い材質が使われており、騒がしくさえなければつい長居したくなるのも分からなくはない。テーブルはどれも四角形になっており、カウンター席用、スェーミとクレメントが着席している二人用、少し大きめの四人用と色々あるが、どれもよく磨かれており小綺麗で清潔感のある印象を持たせる。店内の照明は明る過ぎず暗過ぎずバランスの良い照度で、白い壁には等間隔で様々な油絵が飾られている。また壁の窪みには壺型の陶器に大輪のガーベラ、グラジオラス、クルクマといった花々が楚々と活けられている。特にクルクマはトケイソウと活けられており、スェーミの目からすれば芸術的にも見えた。難を挙げるならば、隣の席の客と距離が近いこと。左右いずれも女性客に挟まれ、彼女たちの会話の内容が丸聞こえだった。女ばかりがこうして来店する理由はスェーミには分からなかったが、クレメントの言う通り良質な商品が提供され、居心地の良さもあって人が集まれば、更なる人を呼ぶのだろうと納得した。

「どうだね、気に入ってもらえたかな」

 店内の観察に飽きたスェーミを見計らったかのように、緑色の瞳を卑しくニヤニヤさせながらクレメントが尋ねる。

「ここは吸えるのか?」

 答える代わりに煙草を取り出して質問するスェーミに、クレメントは即答した。

「駄目に決まっているだろう。窈窕たる淑女の集う場所で喫煙など愚な事だよ」

 丈の長いエプロンドレスを着たウェイトレスが、ガラス製のティーポットとカップを運んで来た。ポットの中には砂糖水を焦がしたような色の液体が静かに波打っている。ウェイトレスが去ってもポットの中身が揺蕩う様子を見ていたスェーミに、クレメントが飲んでみよ、とカップにティーを注いで促すので、スェーミは仕方なくゆっくりと口にした。すると茶葉のかぐわしい香りとほんのり感じる酸味、林檎の甘い果汁が口に広がるバランスが丁度よく、優しい味わいが喉と心を癒す。しかし、なによりも冷たいというのが真夏の今としては有難く、ナハルヴェンの淹れたコーヒーも悪くないがこちらも悪くないな、とスェーミは続けてもうひとくち口へ運んだ。その様子を見ていたクレメントは、また大仰な身振り手振りを交え、我が意を得たりといった様子で次のように言うのだった。

「君も時々こういう場所に足を運び、美味いティーでも飲んでそのささくれ立った心を鎮め給え。美味いものを口にした時、人は何でも許せると聞くぞ。食べ物の恨みは恐ろしいと云われる所以だね。あっはっは」

「うるせえ。笑ってないでさっさと仕事の話をしたらどうだ」

 捜査に関わる重要な話をするというのに、このような場所を選ぶクレメントの非常識さに苛立つスェーミから言われ、やっとその気になったのか、クレメントが優雅な笑みを湛えながら仕事の話を始めた。

「ええと、稀代の毒婦…ヴィクトリアといったね。あの娘は、今はもう無いが“道草”というカフェで勤務していて、ある男と交際していたらしい。常連客の一人で同じくヴィクトリアを狙っていた修道士からの情報さ。全く、修道士が聞いて呆れるよ。信仰に身を捧げるのでなく恋に身を捧げるのだからね」

 やれやれ、と情報源である修道士の皮肉を言うクレメントを無視し、スェーミはこの情報と自分の捜査状況を整理した。彼は初め、ヴィクトリアとは実の父親のように接し、共に店を切り盛りしていたカフェ・道草の店主が邪教徒とにらみ、具に捜査をしていた。しかし店主は事件発覚後に店を畳んで首吊り自殺を図っており、本人から直接話を聞くことは出来なかった。尚、その遺体を調べたが死因は頸部圧迫による縊死。口蓋垂の異常が無く、邪教徒であることを示す鳩尾の刺青が無く、人肉を引きちぎるような牙も無い。特筆すべきことも無く、ごくありふれた首吊り死体だった。また店主の住居を兼ねた店舗も捜査したが、ヴィクトリアの自宅にあったような決定的な証拠はおろか、その痕跡すら見つからなかった。これらの事から、店主は邪教との関わり合いが無いのは分かったものの、邪教とヴィクトリアを結ぶ捜査の足掛かりはここで無くなってしまっていた。

 その後は連続殺人事件によって多くの人が流出してしまった九番街での聞き込み捜査が続き、アテも無く途方に暮れつつある中で舞い込んだ有力な情報であるためスェーミの心は急いたが、それを抑えて交際していたという男について質問した。ヴィクトリアは孤児で、出身は聖ロスタイン付属の孤児院。そこでは当然聖イリス教会の教えを学ぶ。つまりこの場合、その交際相手の影響で邪教に改宗したかもしれないのだが……。

「それが分からないのでこれから調査するんじゃないか」

 ふふふ、と笑みを浮かべてクレメントが言う。黙ってさえいれば息を呑むほどの美しい彫像のようなこの男に、スェーミが焦燥を掻き立てられ、その都度自制心を働かせた場面は数知れない。クレメントは有力な情報を握っていて、それをゆっくり彼のペースで話そうとしている。そこには自分が情報を持っているという心理的優位性を楽しもうとしている背景があるのを、スェーミは知っているのだ。加えて、彼のペースに乗らなければあっさり協力関係を打ち切る時もあるため、気に食わぬ男だと思いながらも仕方なく、ここは合わせるしかなかった。

 スェーミがアップルティーをもう一口しながら、溜め息混じりにどこをどのような方法で調査するのか尋ねると、クレメントは口角を上げながらも少し表情を引き締めて話を続けた。

「まぁ待ち給え、こちらが分かっている範囲内で交際相手の男について話そう。その男の年齢は二十代前半、いや、もしかすると十代かもしれない。カフェ・道草の常連だったのは間違いなく、必ず平日に現れた。平日に現れるといっても時間帯にばらつきがあって、朝か若しくは午後になる一、二時間前。厨房で作業するヴィクトリアにコーヒーの淹れ方をレクチャーすることもあったらしい」

「何が言いたい?」

 カップにアップルティーを注ぎ足しながらスェーミが結論を求める。クレメントもここでひとくち喉を通すと、得意そうな顔をして言った。

「つまり、その男はヴィクトリアと同じ飲食店などで働いている可能性があるってことさ。土日は忙しいので朝から勤務、平日が休日で、仕事があるなら時差式勤務。コーヒーの淹れ方に詳しいのは職業柄ってところかな」

 右隣の席にいた女性客の二人組が甲高い声で笑う。この場にいない人物への恋愛の失敗に対する嘲笑のようで、こちらの話に耳を傾けている様子はない。スェーミは女性らを不快そうに一瞥した後、質問を続けた。

「その野郎は何処で働いているんだ?」

 クレメントはこの問いに関しては何故か答えず、その代わり頬杖をつくと莞爾として笑いながら、テーブルを右人差し指でとんとん、と突っついた。

 ……まさか、ヴィクトリアと交際していたという男は、この平和な女ばかりが集まるカフェにいるのか。その意味に気付いたスェーミに、少しだけ緊張が走った。

「今、いるのか?」

 質問に答えずまだニヤニヤと笑うだけのクレメントを、スェーミが鋭く睨む。この不穏な空気を感じ取った左隣の女性客がちらりと視線を向けたその時、来店時に対応したウェイターがトレイを片手にやって来た。

「お待たせしました、フィナンシェでございます」

「やあ、待っていたよ。このご時世に名産地のバターを使っている所は少ないからね」

 クレメントの賞賛にウェイターが少し気恥しそうに笑みを浮かべ、ありがとうございます、と会釈する。この闖入者のお陰で危うい雰囲気が雲散霧消したが、それでもクレメントの挙動をずっと見ていたスェーミは、彼がまたとんとん、と指でテーブルを突っつくのに気付いた。その間にことり、とテーブルに音をさせて現れた、純白のプレートに乗る小麦色をしたフィナンシェ。それをウェイターがそれぞれ二人の手前に配膳すると、ピカピカに磨かれた銀色のフォークがキラリと光を反射した。

「焼菓子は当店自慢のメニューでございます。どうぞごゆっくりお楽しみ下さいませ」

 スェーミがクレメントに“こいつだ”と告げられた、目の前にいるウェイターの男を見る。年齢は少年といっても差し支えないほどの若い男だが、どういう訳か老成した雰囲気を持ち、歳の離れたスェーミやクレメントとも対等に話せるような、泰然自若とした男だった。またツーブロックの爽やかな髪型に端正な顔立ちと柔和な物腰は、数多の女を虜にしたに違いない。客の女たちの中にはこの男を目当てに来店している者もいることだろう。スェーミはヴィクトリアを邪教に引き摺り込んだのはこの男だと嗅ぎ取った。

 何かを言い出そうとするスェーミを手で制止し、ウェイターが去ろうとする所を自然な笑みを浮かべたクレメントが呼び止める。

「君、ちょっといいかな」

「あ、はい。追加でしょうか?」

「いいや、違うんだ」

 首を振るクレメントを見て、オーダー伝票を手にしたウェイターが少し怪訝な顔をした。

「はぁ…」

 若者にしては応対が丁寧であることを除けば、邪教徒の痕跡は一切認められない。痕跡といっても少し話をしただけで感知するほど容易いものではないし、相手が殺人犯のヴィクトリアと交際していたという参考人であるなら、猫を被ることは当然するだろう。スェーミはウェイターが本性を表すまで、クレメントに任せることに決めた。

「私たちは少し君と話をしたいのだが、時間をもらえないかな」

「すみません、仕事中なもので…」

「なに、いくつか質問させてもらうだけだ。構わんだろう?」

 一度断りはしたものの、微笑みつつ穏やかに食い下がるクレメントにいよいよ困り顔になるウェイターだが、やがてかしこまりました、と了承した。

「それではバックヤードに来て貰えますか」

 焼きたてのフィナンシェを手付かずのまま、ウェイターの言葉にスェーミとクレメントが立ち上がる。これと同時に、厨房で作業していた何人かの男たちも奥の扉に消えてゆくのをスェーミは見逃さなかった。

 店内は相変わらず女たちの話し声で賑わっている。その影でこれから起こるであろう、血腥い出来事を知らずに。

 ………

 ……

 花めくカフェ・カリタの舞台裏は石造りの壁が剥き出しになっているが、冷却装置はそのまま効いているようで涼しい。洒落た店内と違い、雑然と積み荷や調理に使用する食材、飲料などが置かれた通路が続いており、人気が無く客の賑わう声を除けばしん、と静まり返っている。通路は真っ直ぐに伸びたあと左に折れており、その先は建物の構造上、厨房や裏口に通じているようだった。

 ウェイターが真っ直ぐに伸びた通路の右側にある、手前から二番目のドアを開けるとどうぞこちらで伺います、と先に入室するよう促す。促された先はあまり使われていない、奥行きのある倉庫のような埃っぽい場所。何が入っているのか分からないような薄い埃が被った木箱が整頓されずに置かれていて、什器、木製の棚、机、椅子も蹴り倒されたかのように放置してある。倉庫というよりはただ使われていない部屋、といえば正解だろうか。

 壁を背に、スェーミとクレメントがウェイターと対峙する。いや、室内は三人だけではなくなった。ぞろぞろと、先程厨房から消えていった男たちも現れたからだ。しかも彼らは全長六十センチメートルほどの剣を持ち武装をしている。その数、件のウェイター含め五人。予想通りの胡乱なる展開にスェーミは洗礼の剣の柄頭に手を当てて警戒した。

「名をアダロ。比較的裕福な平民出身で教養もある、恵まれた環境で育つ。誰に教わることなく備わった人心掌握術を得意とし、若くしてカフェ・カリタの店長になる。 女に目がなく数多の人物と交際してきた好色漢で、こういったカフェで働くのは客として来店する女に手を出すため……合っているかね?」

 クレメントが知っている情報を並べ、本人確認をした。一度目をつけられるとこうして徹底的に調べられる所は流石三騎の情報網だとスェーミは感心するも、アダロと呼ばれたウェイターは全く動じる様子を見せず、寧ろクレメントの問いが本当に可笑しかったのか、あっはっは、と笑い煙草に火を点けた。

「一箇所だけ間違ってるな。僕がカフェで働くのは女が目当てなのもあるけど、カフェそのものが好きだというのもあるんだ」

 ほう、と言いクレメントが左目にかけられたモノクルのズレを直す。

「それで、僕に何の用?テンプル騎士のおっさん方」

「……」

 アダロの言葉を聞き、スェーミは元より、クレメントも芝居で用いる面具のように表情を消失させた。二人は一時互いを見合わせていたが、やがて質問は再開された。

「稀代の毒婦は知っているね?邪教徒である彼女は交際していた人物がいて、我々はそれが君であるという情報を入手した。実際の所どうなのか聞きたくて今日は来たんだが……?」

「あっはっは、やっぱり足がつくものなんだなぁ」

 アダロが黒であるのは“兵隊”がいる時点で分かっていたが、スェーミとクレメントはこのアダロという男がヴィクトリアと邪教を結びつけるのに何らかの関わりがある事をこの時確信する。最早まどろっこしい前置きや配慮は不要だと判断したクレメントは言った。

「アダロ君。参考人として第三騎士隊支部へ同行願う」

 場に緊張が走る。だがアダロは悠然たる態度を崩すことなく、煙を吐きながら答えた。

「お断りします」

 真実の一端を知る者の強み、それにいざ戦闘になった時の優位さを心得ているのか、接客時と違いアダロの言い方はまことに不遜であった。三騎への同行は決して応じないだろうし、状況からして戦闘は免れないと悟ったスェーミは、アダロを誤って殺害してしまう前に、少しでも情報を引き出そうと、やや強気に出ることにした。

「ならばここで話を聞こうじゃないか。それでいいだろう、小僧」

 クレメントが目でどういうつもりだ、と問うが、それを無視しスェーミは相手の出方を伺う。アダロは少し意外そうな顔をしていたが、この提案を了承した。

「何か聞きたい事でもあるんですか?騎士様」

「稀代の毒婦をどうやって邪教に引き込んだのか聞かせてもらおうか」

 間を置かずにスェーミが問う。ストレートな質問に流石のクレメントも少しだけ眉を顰めたが、九番街連続殺人事件の犯人とされるヴィクトリアと邪教を繋ぐものがアダロならば、普通に考えて彼は邪教の何らかの情報を持っている筈だ。それに能弁多弁、口賢しい彼ならば聞いてもいない事を滔々と話すであろうと踏んでのことだった。

「ええ、そんな野暮な事を聞くんですか?まぁいいですよ、聞きたいならね」

 ……何か特別な事情でもあるのかと思いきや、アダロからは本当に次のような野暮な話を聞かされた。

「大股おっ広げて嬌声をあげながら、一生僕に連いて行くとか愛してるとか、そういう気持ちの悪い事を言うんですよ。それならば、と新種を植え付けてやった。結局新種は失敗作だったけど、稀代の毒婦なんていう大衆ウケの弄物が出来たのは傑作だったね」

 スェーミとクレメントが静聴する中、アダロが面白おかしく話を続ける。

「新種を植え付けた後、血反吐を吐いて随分と悩ましげにしていたなぁ。寄生生物によって徐々に正気が失われてゆくのを嫌悪や後悔もしていたみたいでしたよ。どうも殺人に走る自分の事を認知しているらしいのか、自責の念にも苦しんでいました。あっはっは」

 ここでスェーミが、腹を抱えて笑うアダロを無視し事情を整理する。

 先ずアダロについてだ。この男は寄生生物の新旧を把握していることから、おそらく邪教の寄生生物を用いた秘術について知っている。しかもその邪教徒らを隷従させていることから、確かな証拠はまだ無いが、アダロは邪教に通じそれなりの役職に身を置いているのだろう。次にヴィクトリアだ。彼女はやはりアダロと関係があった。しかも邪教に通じたアダロに唆されるような形で魔に堕ちた。南方に駐留するテンプル騎士団からの情報によれば、南方出身の“本場”の寄生生物を植え付けられると、二ヵ月ほどかけて徐々に正気が失われてゆき、やがては完全に支配される。ヴィクトリアは殺人に及ぶほど支配されていたのでその期間を到達していたと考えられるが、ゼクスの証言によれば彼女がカフェで働いていた時、別段気に留めるような様子はなかったらしい。ということは、寄生生物の支配の期間には顕著な個人差があったり、宿主の精神力によって支配を抑える事が出来るのかもしれない。失敗作だったという新種と既存種の差が如何なるものかは、アダロを囲む四人の兵隊を見ればある程度窺い知れる。体内に寄生生物を宿しているので外見に変化がなく、支配者に付き従い、人間社会に溶け込む為の知能や習慣を持つのが既存種。新種は既存種が持つ特徴の他に口から管を伸ばし吸血を行うような肉体に変異を起こすタイプだが、この新種は管を出す際の出血が肉体へ大きなダメージを及ぼした。また知能の低下が見られ、迅速な対応が出来ず動きも緩慢だった。邪教からすれば、使いづらかったのだ。

 これらの事を踏まえ、スェーミが更に思考を巡らす。

 理由はまだ判然としないが、おそらく邪教は急いでいた。急いでいたので、出来損ないのヴィクトリアを“何も知らない蜥蜴の尻尾”のように利用した。何に?血液の採取だ。ではこの血液を一体何に使うのか?アダロが如何にして新種の寄生生物を入手したかなど、この際どうでもよい。衛兵隊やテンプル騎士団の捜査当局が“邪教徒の単なる奇行”として結論づけたこの血液の採取は、やはり何らかの意味が隠されている。それは異端な教義を是とする彼らを考慮すれば容易に想像出来そうなことではあるが、ひとまず次の質問は決まった。

「採取した血液は何に使うんだ?飲むのか?」

「知りませんよそんなこと。血を飲むだなんて、騎士様は冗談が悪趣味ですね」

 スェーミの問いに、アダロが整った顔を露骨に歪める。それにしてもアダロが邪教徒だったとして、この違和感はなんだろうか。この男が邪教徒か邪教に通じている者ならば、血液の使用用途を知らないはずがないのではなかろうか?

 いや、きっとそうではない。アダロ自身が邪教とは一歩引いたスタンスを取っていると考えた方が、彼の一連の発言や態度が当てはまる。そのような事が可能だったとして、では一体どうやってアダロと邪教は歩み寄ったのか……?

「他に質問は?」

 スェーミとクレメントは互いに目配せをした後に首を振る。実際は聞きたいことが山ほどあるが、聞いた所でアダロは答えようとはしないだろう。やはりここは三騎まで同行してもらい、クレメント監修の元、尋問する他あるまい。

「それでは悪いけど、ここまで知られたからにはおっさんたちには死んでもらう」

 アダロの言葉を合図に、彼を取り巻く四人が邪教徒の証である紅い瞳をギラリと光らせた。それらしく手にした武器を構えて戦闘の体勢をとっている。これに対し、スェーミとクレメントは涼し気な目をして敵を観察した。

 前衛の二人は半袖の汚れた白いコックコート、白い作業ズボンを着用しており、頭髪を短く刈り込んでいて、腕の太さが人の首ほどもありそうな厳つい顔立ちをした巨漢。カフェ・カリタのイメージにそぐわぬこの二人は血縁関係者なのか、体格も顔立ちも酷似している。向かって左の男は腕に一つ目の羊の刺青をしており、右の男はとぐろを巻く蛇の刺青をして剣を持ち、羊と蛇、二人揃って壁のように立ちはだかっている。後衛に中肉中背で剣を持つウェイターの男が二人。アダロはその二人に挟まれた形で腕を組み、悠揚な態度でいる。

「ふふ、残念だよ。まさか君たちが女神に仇なす邪教徒だったとはね」

 楽しそうにクレメントが言うと、蛇と羊の男二人組が今にも飛びかかからんとしてじりじりと間合いを詰め始めた。奥の三人は余裕があるのかこちらを視界にすら入れておらず、事後の処理について話し合っている。恐らくこの大男のコンビが大概の敵を葬ってきたのだろう。

「おい、クレメント。こいつらやる気満々のようだぜ。戦闘は避けられそうにねえな」

 そう言いながら、スェーミが顎の無精髭を指でジャリジャリなぞって考える。

 ここでは剣を振り回したくない。埃が舞い上がるし、それほど広くない部屋なので下手に立ち回るとクレメントに当たるかもしれない。また逃走されるのも困るので、一刀の元に敵を討とうとした。クレメントはというと、敵を前にしても微笑みを絶やすことなく、大仰な身振り手振りを交えて次のように話し始めた。

「うっふっふ、やむを得んな。しかしこの状況、先日の出来事にそっくりだ」

「先日の出来事だと?」

「ああ。君が小旅行をしている間、任務中に行商隊を襲う食屍鬼の集団と遭遇したのだよ。彼らは死体から腕や足をもぎ取り、ローストチキンのように火で炙っていた。周囲にはたんぱく質の焼ける酷い臭いが立ち込めていたが、こんがりと焼けていて見た目は案外悪くなかった」

 クレメントの目が獲物を狙い最も的確な方法で捕食する蛇のような目になる。その目は大男らの四肢にも向けられていた。スェーミは彼の殺人を楽しむような調子が好きではないが、この場合、敵の気勢を削ぎ落とすには充分効果があった。現に彼のニタァと粘りつくような笑みはその残忍な性格と嗜虐性を全面に表しており、勝利を確信する敵対者たちを怯ませている。スェーミもこの流れに乗る事はあったが、さすがに今回は難しかった。

「ちっ、止めろ」

「うっふっふ。食屍鬼たちは一斉に私へ飛びかかってきたが、一匹残らず返り討ちにされた。何故だか分かるかね?」

「食屍鬼共が集団戦を得意とする貴様の事を知らなかったからだ」

「ご名答。それと言っておくが、事後チキンの美味い店に足を運んだ……などという下品なオチはないよ。ふふふ」

 いいや、この男ならしかねない。スェーミはそう見透かすと、横目でクレメントを見つめた。

「ふん、そういう事にしておいてやる」

 話の終わりが戦闘開始の合図だった。

 クレメントの身体の輪郭を縁取るように、青白いオーラがぼんやりと静かに発光を始めた。それが次第に大きく強くなり、遂にはゆらゆらと揺動しながら立ち昇ってゆく。そして掲げられた右前腕の手先に、炎にも似た青白い光のゆらめきの中から、ぼぅっ、と一本のナイフが現れた。ナイフは全長およそ二十センチメートル、鍔に天使の翼を模された装飾がされており、立ち昇る青白いオーラを反射し刀身も青白く見える。ナイフを片手に怪しい笑みを浮かべオーラを反射して炯々と目を光らすクレメントは、テンプル騎士団の装備をしてさえいても、この場の誰もが狂った殺人者のように思えた。

「さて……君たちが注目してくれていたお陰でこちらはすっかり準備が整ったワケだが?」

 クレメントがとんとん、と左足の爪先で二回地面を叩くと、右手に掲げられたナイフが二本目、三本目とゆらめく光と共に現れた。同じく青白いオーラを立ち昇らせたスェーミがこれを見て、怠そうに釘を刺す。

「尋問のためにあの小僧は生かしておけよ」

「勿論だ。合法的な殺人に尋問……ああ、胸が高鳴るね」

「勝つ気でいるのかよ、おっさんたち」

 アダロがそう言った瞬間、スェーミが抜剣した。いや、ただの抜剣でない。半透明状に青く発光した、物体を切り裂く剣風を同時に飛ばしたのである。それを前衛の大男らは身を反らして躱すも、アダロの右隣、向かって左側の出入口ドア近くにいるウェイターへ飛翔すると、アダロの黒い頭髪をふわりと扇ぎながら、回避をしなかったウェイターに直撃した。剣風の直撃はウェイターの体を“く”の字に曲げて後方へ吹き飛ばし、ぐしゃっ、と音を立てて壁に叩きつけた。恐る恐る振り向いたアダロは、思わず咥えていた煙草をぽろりと落とす。先程まで忙しく接客をしていた彼の部下は、壁に血の飛沫と凄まじい斬撃痕を残し、頭部をスッパリと斜めに切り裂かれ、びくん、びくんと痙攣しながら壁にもたれかかり坐っていていた。ドアの前は血溜まりが広がり、外の通路に届きそうだった。

「(浄化ひとつ完了)」

 スェーミはそう心で唱えると洗礼の剣を一旦鞘に戻した。

 ……カチン。

 鞘に収まる音が部屋に響く。すると窓が閉まっているというのに風が吹いた。しじまなる風はスェーミたちが身に付けているローブをひらりひらりと揺らし、頭髪を揺らし、やがて周囲に青い光芒が軌跡を伴い飛び回る。光芒は直線ではなく弧を描き、ひゅう、ひゅう、と身を切るような鋭い音を立てていた。

「前の二人は私がやる」

 クレメントの言葉に、蛇の男が獣のような咆哮をあげた。そして紅い目をギラギラとさせながら手に持った武器を振り下ろそうとクレメントへ一歩二歩と足を踏み出した途端、何故かバランスを失いごろん、と前方に倒れてしまった。後からやってくる激しい痛みと、立ち上がろうとしてもそれが出来ない不可解さの原因は左足にあるようで、蛇の男が目を向ける。そこには青白いオーラを揺動させた先程のナイフが膝に突き刺さっており、白い作業ズボンをぐっしょりと赤い血で濡らしていた。クレメントは敵の影に反応してナイフが射出される、“罠魔法”をいつの間にか仕掛けていたのである。

 苦悶の表情を出しながらも尚攻撃的に睨む蛇の男を、クレメントがニタァと楽しそうに見下ろす中、羊の男が負傷した相方の前に躍り出る。この時、アダロが逃走しようとドアへ後退りしたのと同時にスェーミが横を駆けてゆくのを視界に捉えたクレメントは、敵を嬲り殺しにするのではなく短期決戦に思考を切り替えた。

 可能な限り翻弄し、苦しませ、絶望させ、最後には瞬時に命を奪う方法――。そんな事を考えながらふわりと後方へ音も無く跳ねると、クレメントは人差し指、中指、薬指の間に挟まれたナイフを、サイドスローでしかも三本同時に投げつけた。投擲されたナイフは通常、時速八十から九十キロメートル程の速度で回転するなど、その技量に応じて物理的に正常な動きをする。だが、クレメントが投擲したナイフは常軌を逸していた。彼が投擲した三本のナイフは次第に全長が青白く発光して軌跡を残し、一本の光の矢となって直進するのである。しかし矢自体が飛ぶ光景は普通でなくとも、そのスピードは常人でも追う事が可能だった。

 一、構えて。二、振りかぶって。三、……降ろす!

 三つの呼吸で羊の男が矢を叩き落とそうと剣を振り下ろした瞬間、矢が爆発するように一際大きく輝いた。爆発した光は小さな光となって周囲に散らばり、それが青白い光をキラリと反射するナイフに姿を変えると、自由な軌跡を描いて再び元へ戻るように集合した。羊の男はこのあまりの光景に傍観したままで、全方位からやってくるナイフが身体に突き刺さり、罠魔法によって膝も貫かれ、首、眉間、その他部位への致命的なダメージにより為す術もなく倒伏した。

「うーむ……今の君、ソーイングセットのアレに似ているね。しかし名前が思い出せない」

 腕を組み思案顔になりながら物言わぬ敵の亡骸に向けて言うクレメントだが、青白いオーラを立ち昇らせた彼の背後には、後光のように無数のナイフが控えており、主の命令を待っていた。本人は自分のナイフを“インテリジェンスナイフ”と呼ぶが、この神出鬼没にして千変万化の動きを見せるナイフこそ彼の洗礼の剣。教会がテンプル騎士へ与える洗礼の剣は、一般には近接戦闘用武器としてオーソドックスな両刃の直剣を与えられるが、ナハルヴェンの両手剣のように、装備者の特性に応じて教会が特別に拵えさせた武器を与えられることがある。中には斬撃武器でなくメイスのような打撃武器、ポールアームのような長柄武器も与えられることがあるという。また、洗礼の剣は使用者の練磨と使用癖によって、形状そのものが生き物のように変化してゆく。実際、スェーミのものは片刃で独特な反りのあるものになっており、鍔の意匠も翼が折りたためられた形状に変化していた。

「うう~っ」

 蛇の男が片足で立ち上がる。手には剣を持っておりまだ戦う意思があるのだろう。相方を失ったがために激情する心が深紅に染まる目より涙を流させ、耐え難き痛みによって汗まみれになりながらも憎悪と共に暗い殺気を発している。そんな敵を前にしてもクレメントはまだ思案顔になっていたが、彼の後ろに控えさせていたナイフの三分の一ほど……それでも二十本はくだらない数を、一斉に蛇の男へ向けさせると、放った。

 雄叫びを挙げながら剣を振り回す蛇の男だが、ナイフたちはそれをひらりひらり躱し、羊の男と同様、最後には集合するように全身に突き刺さった。

 同時間、スェーミが大男二人の横を抜けて、アダロと兵隊のウェイター、計二人に迫り寄る。ドアの前には頭部の断面を露わにした死体が坐しており、容易に開けることが出来ない状態で、二人が逃走するには僅かだが時間が必要だった。スェーミはこれを狙い、まずドアの近くにいるウェイターを殺害し、逃走する時間を与えないようにしたのである。

「やれ!あいつらを殺せ!」

 アダロに背中を押され、最後の兵隊が手にした剣でスェーミに切りかかる。敵は大きく振りかぶって上段からの袈裟斬りをしたが、これをスェーミが躱すと、敵は躱されるという結果が想定外だったのか、前のめりになる。この瞬間、スェーミは体を反らした回避動作と併せて、後頭部まで見せる敵の首へめがけて抜剣し、青い光芒を纏いながらバックブローの姿勢になって旋回、斬りつけた。光芒によって青く染まった洗礼の剣による一撃は日輪のような軌跡を描き、敵の皮、頸部筋肉、骨、脊髄と次々に寸断し絶命させることに成功する。更に背中を見せたまま敵が膝を突くと、スェーミは一歩踏み込み足刀蹴りをした。蹴りは敵の頭部に命中し、斬りつけた首がぱっくり割れて血を周囲にまき散らすと、後ろにあった棚にそのまま雪崩れ込んで強かに倒れた。一緒に棚も大きな音を立てて倒れ、それはカフェ・カリタの客席にまで響く。客の女たちの中にはこの音に気付く者もいたが、大部分はお喋りに夢中で気付いていなかった。

 四人の兵隊が全滅するといよいよ分が悪いと思ったアダロは、グロテスクな死体を見ないようにドアを無理矢理開けて逃走を試みるが、スェーミとクレメントがそれを許すはずがない。突然ドアに二本のナイフが突き刺さり、一瞬足止めを食らったアダロは肩を鷲掴みにされ、振り向く。そこには少し離れた所に手首だけでナイフを投げたクレメントがいて、肩を掴むスェーミがいて、その拳が眼前に迫っているところだった。

 ………

 ……

 さて戦闘は終わった。鼻から血を流し拘束魔法によって手足を動けなくされたアダロを、頬に返り血を付着させたスェーミとニタニタと笑うクレメントが見下ろす。

 カフェ・カリタもこれで終わりだ。人死があった場所で飲食をしたり時間をゆっくり過ごそうと思う人間などそうはいないし、ましてやスタッフに邪教徒が紛れていた。衛兵隊とテンプル騎士団の調査、それに教会による土地の浄化が完了するまで、暫くこの場所は封鎖されるだろう。それにしても、スタッフや客の中にまだ邪教徒がいるかもしれないことを考慮すると、カフェそのものを包囲した方が良いと思うスェーミだが、クレメントは全て先手を打っていた。テーブル席での“合図”はスェーミだけでなく、私服でカフェ・カリタを偵察している三騎の隊員へ向けられたものでもあったのだ。

「あっはっは、見くびってもらっては困る。我々はプロなのだよ」

 モノクルのズレを直して愉快そうにクレメントが笑う。今の彼は叩けばいくらでも埃が出そうなこの参考人に、これからどのような尋問という名の拷問をしようかあれこれ思案をしている。一方アダロは、戦闘前からクレメントが外見とは裏腹に危険な人物であると予想をしていたため、実際それは正しいのだが、生まれて初めての本能的な恐怖と己の未来を案じるあまり、余裕の態度はすっかり雲散霧消し、震えて言葉も発せない状態だった。

「こいつは直ぐに口を割らねえだろうな」

 戦闘後の気怠い雰囲気の中、スェーミが敵の衣服で洗礼の剣に付着した血を拭きとりながら言う。そういえばあれだけ囂しく女たちが賑わっていた店内が今は静かだ。三騎がとうとう動いたのだろう。

「ふふ……その希望が絶望へと変わった眼差し、えも言われぬ背徳感、それに…ああ、征服感……。楽しみだよ、待ちきれない」

 クレメントに情欲の目で見下ろされたアダロは、ついに恐怖が頂点に達した。

「や、止めてくれっ。僕は邪教徒なんかじゃない。胸に刺青も無いし寄生生物だって植え付けられていない。立派なイリス教徒だ!」

 そう言うアダロだが、彼の体からは微弱ながらも邪な赤いオーラが発光しているのをスェーミとクレメントには見えていた。テンプル騎士からすれば、彼は間違いなく邪教徒なのである。そしてアダロの懸命な訴えに耳を貸すつもりはないクレメントは、次のように指摘を加えた。

「アダロ君。我々がプロである他に、君はもう一つ知らないことがある。我々は“おっさん”ではない。“おっさん”とは汚らわしく醜いものだ。スェーミはともかく、少なくとも私は“おっさん”ではない。覚えておき給え」

「うるせえんだよ、テメエは」

 そう言ってスェーミは剣を鞘に収めると、これからの捜査について考えた。

 ……

 女神イリスは言った。

 人を陥れても何ら痛痒を感じない者には、陥れられた者たちの苦しみを知る権利があると。その時は本人が知らずにおのずとやって来るだろう、とも。

 権利は咎となっていつまでも離れることなく、決して逃れることは出来ない。自分がこれまで行ってきた結果というのは、必ず自分に返って来るのだ。

 ………

 ……

 …

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 ……うるさいな。

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 …なんだよ。僕をひとりにしてくれ。

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 部屋のドアをノックする音が、執拗に新しい部屋の主であるゼクスを呼び立てる。彼はスェーミに休暇の申請をして許可を得た後の計五日間、満足に飲食をすることなくただぼんやりと過ごしていた。そのため、真夏の気温上昇によって軽度の脱水症状に陥っており、喉の乾き、食欲不振、若干の眩暈に倦怠感を起こしている。今、衰弱した彼はどうして自分がこの部屋に閉じこもっているのか、と想起すらも億劫であった。

 ……だというのに。

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 コンコンコンコンコンコンコンコン。

 エントランスから声が聞こえて来る。

「さっきから誰?……ちょっと。ここは女子寮なんですが!?」

「あ、どうもお世話になってます。ここの住人に用がありまして」

 管理人刀自と聞いた事のない男の声だった。どうやらノックを繰り返しているのはその男らしい。男子禁制の女子寮に堂々と進入するその男の気が知れないが、誰であろうと応対するつもりがないゼクスはそのままベッドの上へ横になり、エントランスから響く声にぼんやりと耳を傾けていた。

「用って言われても……」

「うちの隊員の住居ですので……本当にすみません、直ぐに終わりますから。それとこれが、です」

「え?貴方、一体何を――」

 管理人刀自が息を飲む様子が思い描かれる、その刹那だった。入口ドアが部屋中を揺るがす振動と共にばりっ、と大きな音を立てた。慌てて重い上体を起こして見ると、ドアノブ付近が突き破られ、そこから人間の腕が延びており、がさがさと周囲をまさぐっている。ドアは木製で古びているが、決して人の拳で鑚孔するほどヤワではない。ゼクスの常識では到底考えられない、凄まじい力だった。まさぐっていた手は錠を外すとエントランス側へと吸い込まれてゆき、今度はゆっくりドアノブが回された。ドアが開かれると、先程の衝撃によって歪んでしまった蝶番の鈍い音、それにコツン、コツン、と重厚なブーツの音と共に一人の男が入室してきた。ゼクスよりも一回りは大きい男で、テンプル騎士の制服を装備し、洗礼の剣と思われる巨大な剣を背負い、左肩からはその剣の柄が見える。左胸には騎士団の役職者と思しき徽章を佩用しており、かけられた眼鏡の先にある黒い瞳はゼクスだけを捉えている。そこから感ずる無言の気迫が、これから良くない事が起きようとしていることを直感が教えてくれた。だがゼクスはあまりのことに全く身動きが取れない。それをお構い無しに男は、ベッドから動けずにいるゼクスを見下ろしてお前が新人か、と尋ねた。

「そ、そ、そ、そうです」

 よれよれの修道服姿にぼさぼさの髪。げっそりと痩せてしまい、睡眠不足だというのもあって目が充血しているが、それでもテンプル騎士である自覚はあるのか、ゼクスがそう答える。それを聞いた男は、目にも止まらぬ速さでゼクスの首を掴むと、その全体重を持ち上げた。

「う、がっ……」

 それから更に男が締め上げる。宙に浮くその高さは地上五十センチメートル、このままだと縊死、若しくは男の膂力を考慮すれば首の骨をへし折られるのも有り得た。本能的に死を予感したゼクスは、男の胸にめがけて何度も蹴りを入れるが効いている様子はなく、抵抗は全くの無力だった。

 殺される!そう思った時、鷲掴みにされた首が放され、同時にベッドへ投げ飛ばされた。その後組み伏せられて犯されるかもしれない恐怖よりも、まずやっと酸素を得られた体が反応し、ゼクスを激しく咳き込ませた。

「全く、バタバタと死んでる現場もあるってのに……」

 そう言って、男が部屋の窓へ歩み寄り外の景色を眺める。背後を見せているので逃走するチャンスだったが、簡単に逃がすほどこの男は甘くないだろう。それにどういう訳か、ゼクスはその気にはならなかった。

「スェーミは休暇を許可したが、二騎としては許可なんざしちゃあいねえ。理由もなく何日も無断欠勤しやがって……お前、テンプル騎士をナメてんのか?」

 男は不届き千万な新人に憤慨し刺客として訪れたかのような無情なる態度をとったが、今の言い方は怒りの中にもどこか穏やかさが同居しているようにも思える。これに違和感を覚えたゼクスは、怠い身体をなんとか起き上がらせ、気を確かに持ち、男の目的を探ろうとした。一方、男はそんなゼクスの様子を感じ取ったのか、外の景色を眺めたまま次のように話し始めた。

「九番街で起きた事件、報告書を見させてもらった。お前、犯人を仕留めたそうじゃないか」

 その時の記憶がゼクスの脳裏に、映像のようにスローモーションで再生される。自分の体の一部のように研ぎ澄まされた感覚を持つ、あのチープな護身用のナイフが、ゆっくりとゆっくりと、ヴィクトリアの衣服、皮、肉、臓器と順に突き刺す様子が。今なら、自分を守ろうとする本能に従った行為が客観的に見ることが出来る。

「止めてください。僕はやりたくてやった訳じゃないんです」

 ゼクスは自分がおとりになって恐るべき犯人を討った、事件を未然に防いだ、と周囲が賞賛すればするほど、胸中に黒い靄が広がり気分が優れなくなった。それは何故かというと、彼が幼馴染みを自らの手で殺害した時の激しいショックがおさまらないまま未だ真実を知らずにいるからであるということと、自分のしたことを周囲が言うほど自信が持てなかったからにある。加えるなら、こうして過去に目を向け続けているために決断や行動に迷いが生じていることもあるだろう。今の彼はそれらがない混ぜとなって暗く湿った感情の穴へと転落している状態にあるのだ。

「何でだよ?報告書の通りなら、あれはどっからどう見ても化け物だ。その化け物をお前は殺した。違うか?」

 この人も分かっていない……ゼクスはそう思った。そうだ、誰も何も分かっていないのだ。ヴィクトリアは自分にとって妹のような存在で、あの時、話をしながら自分の髪を結ってくれた。昔のように。化け物ではない、化け物であるはずがないのだ。

 そのように考え黙り込むゼクスに、男が続けて言った。

「お前が今、何を考えているのか分かるぞ。あの化け物を幼馴染みだとか大切な友達だとか、そう考えているんだろう。じゃあ聞くが、何故その大切な人はお前を殺そうとしたんだ?お前がやらなければやられていたんじゃないのか?」

 図星だった。確かに彼女を殺さなければ自分が殺されていた。ヴィクトリアが寄生生物によって正気を失い、血を求める怪物となっていた事実を知らぬゼクスは、この手痛い指摘に対してしどろもどろに答えることしか出来なかった。

「な、な、何か事情があった。そうに決まっとる!それでヴィッキーは僕を呼び出したんや」

「“何か事情があった”だと?馬鹿かお前は。では聞くが、何故事情があると思うんだ?相手は化け物だぞ。人間のお前を殺そうとして当たり前だろう」

 男の次なる質問はまさに自分自身も知りたい事だった。あまりに突然で、自分の身を守ることしか出来なかったあの夜の出来事。一体ヴィクトリアは何故あのような人気の無い場所に自分を呼び出したのか?………いや、この疑問は男の問うものと意味が違う。男は、と質問しているのだ。これは難問だった。難問だったので、前の問いと同様にゼクスは答えにならぬ答えで取り繕った。

「そ、そ、それは僕とヴィッキーは兄妹みたいな関係で……」

「何故だ?何故兄妹みたいに思うんだ?」

 答えを言い終える前に更なる難問が襲いかかった。ゼクスとヴィクトリアは血の繋がった本当の兄妹ではない。経緯は違えど二人は孤児で、その出自が分かれば兄妹でなく姉弟に逆転するかもしれない。………違う、男の質問はそこではない。幼い頃から共に時を過ごしお互いの事をよく知っていたのは事実だが、ずばり実の家族のような思いを抱く心情を何故と問われれば、返答に窮する。これは感覚の問題だからだ。

「こ、こ、こ、子供の頃から一緒やったから……」

 充血した目を潤ませてゼクスは答えるが、男は続けざまに質問をした。

「何故子供の頃から一緒だったというだけで、兄妹のような関係であると結び付けるんだ?何故兄妹のような関係だから、何か事情があって呼び出したのだろうと思うんだ?」

 窓の外を眺めていた男が、今度は本棚の内容を見ながら言った。これに対しゼクスは……

「そ、そ、そ、それは……」

 答えられなかった。これ以上は苦し過ぎた。男の質問によってゼクスは、自分は一体何を信じて生きているのだろうと、何を考え何を理解しているのだろうと、何故こんなことをしているのだろうと、客観的に今の自分を捉えてしまうのが悲しくて、目に零れそうなほど溜めた感情の粒が、遂に頬を伝って落ちた。だが男は構うことなく畳み掛けるように言った。

「よく聞け新人。お前は何を見て周りの出来事を認識している?何を指針に考えて行動を起こしているんだ?この世のあらゆる物事には設計図がある。手順がある。データがある。俺たちはそれを基にして日々生活しているんだよ。そしてそれらは全て根拠があってこそ成り立ち、形を作るんだ。お前の言っていることは論理性に欠け、しかもひとりよがりの勝手な思い込みで堂々巡りしている。その結果がこの数日に渡る無断欠勤だ」

 吐き捨てるように男がそう言った。

 ドアは壊れても、窓は開かれても、周囲の空間と隔絶してしまうほどの沈黙がゼクスを苦しめる。ガラガラと荷馬車が通過する音、エントランスからヒソヒソと聞こえる話し声、自分が鼻をすする音、それら全てがここでは大音量で聞こえる。その中で、男は更に厳しくゼクスに言った。

「記憶というものはお前の個人的な歴史だ。そしてどの記憶を残しどの記憶を忘れるかフィルタリングするのは過去の自分ではなく現在のお前だ。自分にとって都合の良い記憶だけを残し、勝手なことをするお前のような使えない奴は要らん。クビだ。今日にでも除名処分する」

「………!」

 この男はただものでは無い。隊員の人事権を持っているほどの役職あるテンプル騎士だ。それを改めて知ることとなったゼクスだが、なによりも自分がテンプル騎士団から解雇されてしまうという事に、脳天に楔を打ち込まれたようなショックで言葉が出なかった。動機は子供らしい単なる憧れではあったが、非凡なる能力を発揮し、やっとつい数日前にテンプル騎士に本採用されたのだ。しかしその当日、躓いて二度と起きれないような出来事が起き、こうして解雇通告をされてしまうとは……。

 ゼクスは嗚咽こそ堪えていたが落涙は止め難く、悄然と頭を垂れる事しか出来なかったが、男は静かに泣くゼクスをちらりと見ると、はぁ、と溜め息をつき、今度は語気をずっとずっと弱めて言った。

「……だが俺は悪い奴じゃねえから、化け物を始末した手柄としてお前にチャンスをやる。俺はな、お前とあいつ……スェーミはいいコンビだと思ってるんだよ。何せあいつが誰かに心を開こうとしているんだからな。たまげた話だ」

 今、スェーミはゼクスのことで煩悶している。それは彼が使いそうな言葉で言うなれば“乳臭くて反吐が出るような事”なのだが、何故か鼻について臭いが離れず、ゼクスに何か言葉をかけてやるべきだと、目下対処すべき問題として間断なく眼前に突きつけられているのだった。スェーミは冷酷非情なリアリストで必要とあらば仲間を見捨てるし、平気で武によって事を成そうとする男だ。しかし、それは完全ではなかった。明後日の方向を向きながらも、手を差し伸べる内面を有していたのだ。

「スェーミさんが……?」

 本棚にあった図鑑をぺらぺらと捲っていた男が頷く。

「ああ、そうだよ。だからお前はスェーミの仕事を手伝え。そこで奴がどのような決断を下すかは分からんが、もし奴からも要らんと言われたらお前は本当にクビだ。悪い話じゃないだろう?」

 怒気すらも感じた雰囲気が一転、この意外な事実を語る際、男が笑みを浮かべて穏やかになった。ここでゼクスは先程の違和感を理解する。怒る時も、穏やかに笑う時も、全て引っ括めたものがこの男の本当の姿なのだ。

 話を終えると、男はベッドのゼクスに視線を向けずゆっくり入口へ歩き、おもむろに壊れたドアへ肘からもたれると背中越しにまた言った。

「今のお前ではハッキリ言ってこの仕事には向いてない。だが、堂々巡りを繰り返す曇ったその心の中にも、“真実を知りたい”っていう気持ちはあるみたいだ。それを奴に感じさせる事が出来れば……拾ってもらえるかもな」

 そう言い残し男は部屋を出た。寮を出る途中、エントランスには管理人刀自と眼鏡をかけた若い修道女がおり、それを見た男がぺこりとお辞儀をした後、

「お騒がせしました、苦情でしたら第二騎士隊へどうぞ。それでは」

 …と、愛嬌の良い笑顔を浮かべて辞去した。寮の入口直ぐ傍には辻馬車が控えており、その客席にはローズが待機していた。彼女は、男が背負っていた大剣を外して乗り込むと、じろりと睥睨した。

「出してくれ」

 男の指示に辻馬車が動き出す。暫く走行した所でローズが切り出した。

「隊長、どうでしたか?」

 ローズが隊長と呼ぶ男・ナハルヴェンは質問に答えようとせず、ひと仕事終えた後の余韻に浸りたく煙草を取り出そうとしたが、それを途中で止めた。彼女は煙が嫌いなのだ。ここで機嫌を損ねられては困る。

「ん?ああ」

 ナハルヴェンが逃げるように視線を馬車の窓へと移す。目に入ったのは物乞いをする二人の子供たち、客を呼び込む露天商、二階の窓から植物を活ける女性といった、ヴィリエのごくありふれた風景だ。だがそこからはローズの質問を反らす話題性のあるものを見つけられなかった。

「……泣かせたりはしてませんか?」

 少しの沈黙の後、ローズが言った。彼女も欠勤を続けるゼクスを案じる者の一人だ。ナハルヴェンがスケジュールギリギリの都合を捻出し、自ら新人を立ち上がらせる役目を買って出ることを告げた時、流石の彼女も言葉を失くし驚いていたものだ。そのため、ゼクスがどうなったか気になるのは当然のこと。そんなローズの心情を理解していたナハルヴェンは自分のした事を思い出し、少し悩んだ後、結局糊塗するのだった。

「うーん、ちょっと自信ないな。寮のドアもぶっ壊しちまったし……」

 ナハルヴェンは言った後にしまった、と後悔した。ゼクスを心配するローズに“大船に乗った気でいろ”、“問題ない”、“俺に任せろ”……などと今となっては大言壮語になった言葉を伝えた手前、実は泣かせてしまいました、物を壊して脅かしました、などと言えない。……だが彼は言ってしまった。

「隊長。事を荒げるような行いも慎むようにと言いましたよね?音が外まで聞こえましたよ?」

 冷たく尖ったローズの声がナハルヴェンの罪悪感を痛烈に刺激する。自分の考えた以上のフォローは一切するつもりはないが、新人に大切なことを伝えるための演出は少々、いや、かなりやり過ぎてしまった感は否めない。ナハルヴェンはバツが悪そうな顔をしながら口をもごつかせ、言い訳を懸命に模索した。だがその場しのぎの答えはローズには言えない。言っても認められやしない。

「ごめん……」

「謝るならゼクス君にしてください」

 二騎までの道のりがいつも以上に遠く感じるナハルヴェンだった。

 ………

 ……

 一方ゼクスは、エントランスでナハルヴェンの詫びる声が聞こえてきた後、一人残された部屋で鷲掴みされた喉をさすりながらこれからの事を考えた。あの男はゼクスの勤務態度に対し、あくまで条件付きの解雇という厳しい戒飭を譲らなかった。つまり、それだけ課された“スェーミの仕事を手伝う”という任務は重要なのだ。ゼクスの心はまだ暗い感情の闇に転落し続けているが、彼はテンプル騎士になろうと思い憧れて、それを見事実現させるほどの忍耐と努力を続けた者である。本採用されて短い期間ではあるが、彼の心にはヴィリエに常駐するテンプル騎士としての自覚が確かに刻まれていた。

 そう、彼は目覚めなければいけない。立ち上がらなければいけない。テンプル騎士であり続けるために、ひとまずは。

 ベッドから下りると、突然腹の虫が鳴った。ゼクスは元々食欲旺盛で好き嫌いせず何でも食べる。当然今回のように絶食を続けたことなどこれまでの人生で一度もなく、何もしなくても食事にありつける孤児院時代、訓練生時代のありがたみが空腹という形で骨身にしみた。またぐぅ、と鳴ったところでさて、どうやって食料を調達しようかと思案を巡らせていると、次は自分のぼさぼさの頭髪、それに体の臭いも気になり始めた。おかしなもので、塞ぎ込んでいた時、こういった身の回りの事は一切気にすることはなかった。ただただ部屋に閉じこもっているだけというのは外界と隔絶されるのと同時に、五感、それに精神や肉体の働きまで遅緩させるのだろう。今のゼクスは気持ちが外へ向き、日中の日差しが届いて周りを見渡せる場所へやって来た気分だった。そう、何かをするには日が昇っている内に限る。早く外に出たいが、その前に風呂だ。

 入浴を終えたあと新しい修道服に着替え、頭髪を櫛でとかしていると、傾いて閉まらなくなったドアをコンコンコン、と三回ノックされた。

「はい?」

 ずるずると床を引きずりながら開けたドアの先には、管理人刀自とその後ろに眼鏡をかけた若い修道女がいた。管理人刀自はまだ湿って乾ききっていないゼクスの長い頭髪をちらりと見た後、これを食べなさい、とパンが乗ったバスケットを渡してきた。ライ麦パン、小麦パン、混合麦パンといった庶民が日常的に食べるものだ。これは今のゼクスにとって非常に有難かった。

「大丈夫?怪我はない?」

 後ろの若い修道女が尋ねる。標準的な体格に年齢はゼクスより少し歳上といったところで、目を惹くような美貌の持ち主ではないが、素朴な人相と柔和な雰囲気が自然と親しみを感じさせる人物だった。しかし、質問の内容が解せない。

「……え?見てたんですか?」

「ドアが開けっ放しだったからね」

 管理人刀自と修道女が一緒に頷く。どうやら話は全て聞かれていたようだ。自分の行いをつい先程厳しく叱責され、再び彼女たちに非難されると思うと、ゼクスの心中は靉靆した。ところが管理人刀自は、

「私たちはあなたの味方だから、何か困ったら言って頂戴」

 …とだけ言い残し、左隣の自室へ戻った。ぽかん、とその姿を見送っているゼクスに、今度は修道女が話を始める。彼女は右隣の住人でクラーラと名乗った。北方の修道院から昨冬ヴィリエにやってきたらしく、慣れないこの暑さに毎日苦しい思いをしているとか……。その後、クラーラからスープの入った木の器を受け取る。器からは湯気が立ち上っているが、程よく温度が調整されているようで熱過ぎない。固いパンのお供としてこれもゼクスには有難かった。これらの食事はゼクスのために用意されたもので、遠慮なく食べてもらって構わないという。この好意に対し感謝の気持ちを伝え、併せて自己紹介をしたゼクスは、支度を進めるために頃合いを見てお暇しようとすると、クラーラが尚も話を続けた。

「あの、スェーミさんはどちらに?」

 彼が外側から鍵をかけられる状態だったこの部屋を明け渡してから、その後どこで寝泊まりをしているのかなど考えもしなかったゼクスは、そういえば…と、ここで初めて思考を巡らす。まさか物乞いのように野宿同然の生活をしているのではなかろうが、しかしそれでも彼の所在は検討もつかない。このままではテンプル騎士として首の皮を繋ぐ話が困難となってしまうが………。

 ゼクスがそのようなことをまだ濁った頭で考えているよそで、クラーラが聞いてもいないことをぺちゃくちゃと話し始めた。

「スェーミさんがこの部屋に来なくなってもう五日経つんですけれどね…」

 ああ、良かった、とゼクスは思う。どうやらカレンダーを見間違えているだとか自分の時間感覚がズレているだとか、そういう事はなさそうだ。

「あの人、いつも夜遅くに帰って来て、その後に外側から鍵をかけられるのが不憫で…。きっとお腹も空かせているだろうから、お料理した残り物ですけれど良かったら…と差し上げたんです。そうしたら翌朝、手紙と一緒に洗浄された空の容器が私の部屋の前に置いてあって、その手紙の内容といったらもう、私嬉しくて嬉しくて……」

「は、はあ」

 クラーラは手紙の内容については述べず、うっとり頬を染めて陶酔し、心ここに在らずといった様子だった。この困った隣人にゼクスは対応を苦慮したが、

「あら、いけない」

 …と、彼女から話を切り上げ、スェーミの新しい居住場所が分かったら教えて欲しい旨を言い残し、右隣の自室へと戻った。

 ゼクスは管理人刀自とクラーラにもらった食べ物を残さず平らげると、身支度を開始した。戦闘服などを着用しブーツを履いたらサイドのジッパーをきっちり上まであげる。オープンフィンガーグローブを手に馴染ませると、壁に掛けてあるローブを手に取り袖を通す。梔子の留め具とベルト、それに帯紐でローブを固定したら、ベッドの横に置いてあった洗礼の剣を腰に下げた。仕上げに後ろ髪を自前の緑色の紐できゅっと結ぶ。

 さて、支度は整った。

 準備を終え数日ぶりに部屋の外へ出る時を迎えたゼクスだが、彼が入居する前から備え付けられている牡丹の花が描かれた壁のカレンダーが、ふと目に入る。この時、どうしてか意識だけが時間を跳躍し、五日前のあの時あの場所へと戻った。

 ……ああ、そうだ。大切な妹、大好きなヴィクトリアを僕は……。

 ゼクスは再び足元に現れた、黒く底の見えない穴へ転落しそうになったが、今度はそうはならなかった。まだ蝋燭の火のように小さいが、分からない事に対し“何故”と思う純粋な気持ち、それにテンプル騎士であり続けようとする意思が、彼の進もうとする道を照らすのだ。そうして歩むための勇気を得た彼は、こちらに背を向けてずっと遠くを歩く、ある男を思い浮かべる。それがスェーミだった。五日も経てばもしかすると事件は解決しているのかもしれない。解決してないとしても、あの男ならきっと何らかの真実を掴んでいるのかもしれない。そうスェーミを想うと、ゼクスの中で蝋燭の火のようだった探求心が急速に燎原の火となって燃え上がる。もう、じっとしてはいられなかった。

 会わなくては、スェーミに。そして真実を追うんだ!

 ゼクスはばん、と勢いよくドアを開けると施錠せずにエントランスへ走り、おもてに出た。その瞬間、厳しい夏の日差しが降り注ぐかと思いきや、空は今にも降ってきそうな雨雲が広がっていた。ゼクスは衣服が濡れるのが好きではなかったが、抑え難き気持ちをそのままに、ひとまずスェーミがいるであろう二騎へ走った。

 ………

 ……

 …

 ヴィリエが殷賑極まる都へと発展するにつれて、問題も増す。その内のひとつが死者の弔いである。円形の高い壁に囲まれたヴィリエは、人口が増え続けると共に使用出来る土地が制限され、墓地を造るための土地を確保するのが困難になってくる。これは救世神話の時代、人類がヴィリエ周辺の土地、海を跳梁跋扈していた怪物たちを退け、旧文明時代へと突入した頃に想定されていた。そこでヴィリエから馬車を乗り継いで南へ二時間ほどの距離に、教会が派遣した墓守が管理する大きな公園墓地を建てた。この公園墓地は海から反対の山の麓にあり潮風を防ぐ。そのため、塩害の影響によって墓石が劣化したり植物が枯れる心配が無かった。

 名も無きこの公園墓地は季節ごとの姿を見せ、梅雨時は静かに爛漫と紫陽花が咲き、その見事さに拍手するかのように蛙たちが鳴く。夏は向日葵が咲き、墓地に訪れる者を歓迎する。無垢なるその花言葉は弔問者にとって喜ばしいものなのか、忌避すべきものなのかはそれぞれだが、公園墓地にいる全ての命あるものは、死したものを歎じ、弔うことは尊い事だと説いているようだった。

「ここだったか。全く広い場所だ、随分探したぞ」

 雨が地面を打つ音がし出す中、クレメントがスェーミの後ろ姿を見つける。彼は整然とならぶ墓石、それとしっかり手入れがされた植樹に囲まれ、濡れるのも構わずじっと何かを見下ろしているようだったが、クレメントは気にも留めずに用件を伝えた。

「アダロを吐かせたよ。邪教の根城が分かった。奴らのボスも君の言う通りの人物だった。うっふっふ、彼はで音を上げたね」

「……」

 無言。その無言が“三本”とは何の事かと問われていると勝手に解釈したクレメントが、面白可笑しく身振り手振りを加えて続けた。

「うっふっふ、肛門に何本の指が入るか試してやったのさ。勿論自分の指を入れるなど不衛生な事はしない。あの筋肉ダルマのものをちょっと拝借してね」

 筋肉ダルマとはカフェ・カリタで排除した、蛇、それに羊の刺青をしたあの大男、どちらかのことだ。残忍なるクレメントは、本当はもっと様々な手法の尋問を行ったのだが、それは常人なら耳を塞ぎたくなるような内容であると本人も心得ており、尋問の内容についてそれ以上の事は語らなかった。しかし問われれば嬉々として答えるだろう。彼は自分の趣味について語るのが大好きなのだから。

「……それで奴らは何処にいる?」

 背を向けたままようやく口を開くスェーミに、クレメントは楽しそうに答えた。

「驚くなよ?だいぶ前に私と君とで調査したことのある、九番街の岩石海岸地帯、そこの地下古道だ」

 かつてヴィリエの地下には、現代人が“地下古道”と呼ぶ、救世神話の時代に造られた穴と道が広大な範囲で広がっていた。古代人と怪物の戦いは熾烈を極めたらしく、地下道の存在は人類の敗走が度々あったことを示し、逃げ道として利用したり潜伏してゲリラ戦を展開したりと、様々な用途で使われたようだ。生存競争は陽の当たらぬ場所でも行われていたのである。そしてこの地下古道は過去、死んで白骨化した人間が死の間際の断末魔と無念を抱えて起き上がり、生者を襲う場所として恐れられた。旧文明時代まで人は近付かず、只々古代人だった者たちのなれ果てが現れては蹂躙されるだけだったが、現代になってテンプル騎士団が編成されると、十死零生と呼ばれるほどの危険な戦いによって多くの犠牲を代償に、地下古道全体が浄化され、大半の穴・道が土で埋められ塞がれた。今は意図的に残された僅かな数しか残されていない筈なのだが…。

 雨足が強くなってきた。クレメントは持参した傘を差すと続けた。

「場所の特定は出来ているからあとは突入のタイミングだね。それともう一つ、アダロ自身についてだ。彼は“貧民街のあの男”と通じていた。分かるだろう?“あの男”だ。どのようにして繋がりを持ったのかはまだ分からんが、カフェ・カリタで提供される品々の材料は全て貧民街ルートで納入していることが判明した。勿論、出処が出処だからね、不正に入手したものだろう。今こちらで捜査をしている」

 貧民街のあの男……。

 スェーミの頭脳には直ぐにその男の名が浮かび上がった。狡知に長けた、海千山千の強大な敵。いや、それだけではない。アダロは邪教徒だった。ということは、“貧民街のあの男”も邪教と繋がりが…?

 闇に包まれた盤根錯節たる事件の全貌を灯りで照らしてみると、どうやら自分たちの手に余るほどの大きさであることが分かってきた。流石のスェーミも、今、この時は拳を握りしめることしか出来なかった。

「アダロはどうする?」

 尋ねられ、スェーミはカフェ・カリタで起きた出来事を思い出す。誰にも分かるような確かな証拠がまだ無いとはいえ、邪教に与する者を野放しにするわけにはいかない。それはクレメントも心得ている事だろう。ならば、答えは一つだ。

「二度と女遊びを出来ないようにしてやれ」

「ふふ……分かった。最後に例のことだが…驚いたよ。まさかね」

 クレメントが珍しく険しい表情になる。しきりにモノクルを触り、緊張もしているようだった。その様子を見てスェーミも全てを悟ったが、その先を聞かずにはいられなかった。

「どうなんだ?」

「間違いない。昨夜のことだ、ウチの隊員を張り込ませていたら――」

 クレメントの説明を聞きながらスェーミは腕を組み、これからのことを思案した。

 彼は九番街連続殺人事件を複雑にする、ある事柄を三騎と共同で追っている。そしてクレメントの言が確かなら、ついにその謎を解く事実を掴めたのである。だが一つ謎を解けばまた新たな謎が現れるために、事件の全貌は未だ完全には解明していない。これまでの捜査で確実に言えるのは、この事件は“犯人”という個人が起こしたものではなく組織的な犯罪であるということだ。スェーミとしては喉に小骨が刺さったような不快感を残すことになるが、自分たちは今も何処かでのさばる邪教を一日でも早く叩き潰さねばならないのだから、捜査はもうこれくらいでいいだろうと結論付ける。それでどんな結末に向かうのかは分からないが、どこへ向かうにしても、この先待ち受ける恐ろしい出来事に負けず、強くあれ。

 ……スェーミは意を決すると、言った。

「クソ共の根城を叩くのと同時に、そのもう一方もやるぞ。だが突入の折をつけるには人手がいる。三騎の人員は上手く回してくれ」

「うっふっふ、了解。では私は失礼するよ。お客さんも来たことだしね」

 そう言うクレメントの背後には憂い顔のゼクスが立っていた。あれから寮を出て二騎へと向かったゼクスは、スェーミの居場所を知っていそうなローズに訊ねると、ここ数日は公園墓地へ足を運んでいるという話を聞く。その後は走って走って、馬車の中では焦慮に駆られ、息が絶え絶えになって到着した頃にはすっかり雨が本降りとなっており、洗髪したばかりのゼクスの髪を再び濡らすのだった。

 クレメントがゼクスに挨拶をせず、一瞥もすることなく去ってゆく。一方、ゼクスはスェーミと会話していた見知らぬテンプル騎士が降りしきる雨の中へと消えてゆくのを見送ると、スェーミへ向き直った。

「スェーミさん……」

 ゼクスは背を向けるスェーミの様子を確かめるため隣に並び、その横顔を見た。彼の何を考えているのか分からない目は、ただ一点を見つめている。その先にあるものは、名前が彫られていない墓石とそこに添えられた幾輪かの友禅菊だった。

「これは……誰のですか?」

 そう尋ねるゼクスだが、いざ再会するとこれまで塞ぎ込んでいた手前、後ろめたさや気まずさ、一体スェーミは自分のことをどう思っているのか知りたい気持ち、自分は要らぬ者として扱われるのではないかという不安、そういった憂いや悲観的な見通しがゼクスの胸中に広がってゆく。その一方で、スェーミはゼクスの質問に少し間を置いた後、いつものように気怠く答えた。

「“クラゲの海”を覚えているか?」

 ゼクスが同店の事を思い出す。スェーミの背中を目印に、危険な夜のヴィリエをちょっとした冒険気分で歩いた先にあった、貫禄のあるドアとピンク色の文字看板が印象の、ぽつんとしたバー。あの後は酷い二日酔いに苦しめられたが、大人たちが嗜むものを初めて口にした時には気分が高揚したものだ。ゼクスにとって良い思い出も悪い思い出も、等しくある場所だ。

「そこのマスターだ。奴は殺された」

「殺された…!?」

 この事実はゼクスを瞠目させ更なる物案じを誘うものだったが、それに構わずスェーミが独白するように話し出した。

「今から三日前の事だ。営業時間になっても開いておらず、入り口ドアから血の匂いを感じ取った常連客が不審に思いドアを破って入ってみたら、全身の肉を抉るようにして喰われた死体が横たわっていた。判別は容易ではなかったそうだが、それが後日マスターだと分かった。この事は情報統制をして一般にはあまり知られていないようだが、その翌日、五番街でもう一人同じようにして殺された件については駄目だったみたいだな。あとで新聞を読んでみろ」

「全身の肉を…?それってつまり…」

「ああ。九番街連続殺人事件の犯人は、もう一人いたんだよ」

 九番街連続殺人事件のおとり捜査を実施したその二日後、つまり今から三日前、バー・クラゲの海のマスターが殺害された。そしてその翌日、今から二日前に何者かがまた同様の手口で殺害された。まだ死体の主が明らかになっておらず衛兵隊が調査しているが、今のところ物乞いが犠牲になったとみているらしい。マスターが殺害された周囲の状況は、店の入り口ドアは施錠されていたが、二階は換気のためか、窓を開けていた。犯人はこの場所から侵入し事に及んだとみられる。またもう一人の被害者は人気の少ない路上で殺害されていた。スェーミは、解剖の結果でヴィクトリアから鋭い牙などが見つからなかった事にいつも三思九思していた。解剖で見逃すような場所に牙を掩蔽していたのか、或いはもう一人別の誰かがいて事に及んだのかは彼の悩ましい問題だったが、奇しくもマスターの死によってそれは明らかとなったのである。

「今回は脈にぶっ刺した痕跡が無い事が分かっている。ということは、これまでの殺しと違って、マスターともう一人は食い専野郎が単独でやったと考えられるな」

 犯人は吸血するヴィクトリアと、死体を喰らう者とで二人いた。そして死体を喰らう者は今もヴィリエのどこかに潜んでいる……。これらの新たに分かった事実はゼクスを戦慄させるのに十分だった。しかし、他にも彼がこの事件について思考を巡らす内に必ず行き当たる事がある。それは……。

「ねえ、スェーミさん。まだ分かっていない事ありますよね?最初に殺された漁夫の件とか。ほら…あそこは密室だったやないですか」

 この蠱惑的な出来事は本件の片隅にひっそりと佇み、こうして謎へ挑む者たちを翻弄させている。その代わりこの問題が解決した時には犯人が何者なのかという謎を併せて突き止められると、誰もが確信する重要な事柄であった。だがスェーミはこの問題に対し興味関心が無いらしく、何でもない事のように答えるのだった。

「密室…?あそこは密室なんかじゃないだろう。天井の所に窓があるんだからな」

「でも、衛兵隊の調べで周辺にはあないに高い所へ登る道具とか見つからなかったて言うてたやないですか。道具を持ち歩く人間の目撃情報も無いって。道具が無ければ密室同然ですよ」

「まだそんな事を言ってんのか?お前には先入観を捨てろと言ったはずだぞ。あそこはのっけから密室なんかじゃねえんだ」

 “先入観を捨てろ”。そうしたいのだが、それは何に対しての事なのか分からず、ゼクスは自分の愚かさに苛立ちを覚えた。併せて、スェーミの言動からこの謎を既に解き明かしているのだという事も察する。いや、彼はどうも思考や実地検分すらせずに、最初から決まりきった事であると捉えているようすら思える。もしかすると、彼の言おうとしている事はあまりに単純で、答えは目の前にあるのかもしれない……。

 再び沈黙が訪れる。ゼクスは、次第に強くなる雨に打たれるのも気にせず、スェーミと共に名前が彫られていない墓石を見下ろした。当然だが墓石そのものは新しい。材質はおそらく石灰岩で基部は直方体状、頭頂部は楕円型をしたごくありふれた形のものだが、

『………、ここに横たわりぬ』

 と、不自然にも墓碑銘だけ彫られ雨に濡れていた。

 それにしても、マスターが殺害され荼毘に付された後、その墓がここにあるのは分かる。けれども、どうしてスェーミがその墓を見下ろしこうして佇んでいるのかが分からない。若く、それにスェーミとの会話に窮していたゼクスは、黙して語らずにいる彼の心情を慮ることをせず、この墓は誰が建てたのですか、と尋ねた。するとスェーミは長い長い沈黙、質問を捨て置かれたのかと思い始める程の間の後に、やっと口を開く。その声は先程事件について言及していた時と変わり、か細く言い知れぬ危うさが同居していた。

「こいつは身寄りが無い。だからこいつが死ねばあのバーも死ぬ。それがなんだか不憫でな、こうしてオレが墓を建てたんだが……奴の名前を知らないんだ。笑えるだろ?名前すら知らねえ奴の墓を建てるなんてよ」

 これを聞いた時、ゼクスの意識だけが、訓練生時代のある冬の日に跳んだ。そこは暖房の効いた講義室で、風邪をこじらせた老教官が時折咳をして教壇に上っている。訓練生の席は各々固定されていて、ゼクスの席はちょうど他の訓練生に囲まれるように真ん中辺りにあった。受講する当時の自分を俯瞰していると、近隣の女子訓練生らの私語雑談に加わらず、咳混じりの聞き取りづらい講義に辟易しながらも真面目に聞いているようだった。この時の老教官は人間ひとりひとりが生きてきたこれまでの足跡を、糸に例えた。曰く、もつれた糸の端は無数にあり、これを解くには正しい糸を辿らなければならないが、それがどれかは実際に辿ってみないと分からない。正解の糸をみすみす逃すくらいならば、とにかく試しにどれか辿ってみるべきだ。仮に間違った糸であったとしても、もつれた糸の足掛かりは沢山あるのだから。また、過去をもっと掘り下げてそれらがどのように紡がれてきたのかを思い出すべきだとも主張している。そしてゼクスたち訓練生には、その糸を辿って自分自身を理解し、これからどこへ向かうかを知る必要がある……と述べていた。

 縁も所縁もない人間の墓を建てようなどと普通は思うまい。スェーミの行動はマスターの死を悼んだ結果、即ち我欲によるものではない。彼はそれを実感として理解するために、一度辿ってきた糸を振り返るべきだ。ゼクスはそう思うと、今度は自分はどうなのか考えた。いや、考えるまでもない。彼は既に辿るべき糸を掴んでいると確信していた。

 今だ。言おう、言うんだ。

 テンプル騎士であるために。

 忌まわしき事件を解決するために。

「スェーミさん、僕も行きます。連れて行って下さい」

 雨音にかき消されるのではないかというほどの声量。けれども揺るぎない信念と強く固い意志――。あの実践任務考査からまだ半月も満たないというのに、彼の飛躍的な成長を聢と思わせる言葉だったが、

「駄目だ」

 ……既にスェーミの意志も決定していた。だが、この時彼は改めて思う。ゼクスがこうして再び立ち上がりやって来たのは、自分を失意のどん底へ陥れた憎き事件の解決と真実の追求のためではないか。そうだ、ゼクスにも真実を知る権利があるのではないか。彼を連れてゆくべきだと叫ぶもう一人のスェーミが決断を揺さぶるが、しかし出来なかった。彼は、ゼクスをどうしても死なせたくなかったのである。

「どうして?僕たちはコンビやないですか!」

「言う事を聞け。支部でもやることは腐るほどある」

 同行を却下されたゼクスにスェーミの心が揺らいでいることを知る筈もないが、少なくともまだ彼が自分を必要としてくれているということは理解する。これで寮に現れたあの男の条件をクリアし、テンプル騎士を解雇されることなく続けられるが、代わりに決して楽観視出来ないこの状況に、煮え切らない思いを抱くのだった。やりたいことを全て出来るわけではない。何処にでも行けるわけではないし全てを見ることも出来ない。そうだ、出来ることは限られている。けれど、この気持ちはなんだろう……と。

「(僕は諦めへん……諦めへんで、スェーミさん)」

 ――ゼクスの意志は強く固い。

 スェーミには捜査の同行を認められなかった。ならば単独で事件の捜査をしようにも、どこからどう手をつけてよいか自分には分からない。悔しいが、今は指示に従う他ないだろう。だがこれで引き下がるわけではない。ゼクスの非凡なる能力の中に、強運がある。彼はもしその強運が働いた時には必ずチャンスを呼ぶと心得ていた。

 今は待つ。待ってチャンスをものにして必ずスェーミさんに追いつくんだ……!

 ゼクスはそう心に強く念じ己を説き伏せると、分かりました、と言って背を向ける。そして振り返ることなく足早に立ち去った。

 雨足が、強さを増してゆく。

 ………

 ……

 ゼクスの気配が完全に消えると、今度は植樹に潜む、もうひとつの気配が大きく感じられるようになった。忌々しくもその男は、去ったように見せて実はスェーミとゼクスの様子を見物していたのである。

「おい。いつまで隠れているつもりだ」

 言われてクレメントが植樹の幹の裏から姿を現す。幹の太さと彼の纏う貫頭衣型ローブ等を考慮するとスェーミ側からはみ出して見えるはずだが、彼はまるでその場に居なかったかのように現れた。これは“透明魔法”の応用で、敵に見つからぬようにするための防御系魔法に該当する。熟練度の高い者になると、暗殺や敵地への潜入といった任務のために自身へ施すこともある。クレメントの場合は専ら己の好奇心を満たすために練磨されていた。

「うっふっふ、見つかってしまったか」

「悪趣味な野郎だ。人の会話を盗み聞きしやがって」

 露骨に不快感を示すスェーミに対してクレメントはニタァ、と笑って意に介することもなく、彼はそのまま自身が抱く興味をぶつけた。

「まぁ良いじゃないか。それにしてもあの娘、君の事を随分思慕しているようだが。年齢差を考慮するとあまり感心しないな」

 何が思慕だ。何が年齢差だ。

 スェーミはゼクスと関わることで起こる誤りに再び巻き込まれたが、今回は相手が相手だ。迂闊な発言をして揚げ足を取られては煩わしいので、言葉少なめにして真実を伝えた。

「あいつは男だ」

「どう見てもあれは若い娘ではないか。ありもしない事実を捏造して私を瞞着しようとしても無駄さ。仮に君の言う通りだとしても、男と男が愛し合うのは大いに結構、寧ろ推奨すべきだね。あっはっは」

 クレメントが大仰な身振り手振りを交えて声高らかに笑う。いよいよたまらなくなったスェーミは“本当に困った時のポーズ”をして、苛立たしげに言うのだった。

「ちっ、貴様と話しているとあれこれ考えるのが馬鹿らしくなってくるぜ」

 ……………

 …………

 どうか名を知らぬ魂に女神の加護があらん事を。オーファム。

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