第三話

 夜に活動を始める野鳥の鳴き声が時折聞こえてきます。

 既に寝息を立てている他の仲間に気付かれぬよう、魔女フュトレは黄乱綿の外套に短剣を隠しました。彼女は師であるイリスに衷心より屈したわけではありません。自らが“女神”となるため、イリスを抹殺しようと予てから画策していたのです。

 魔女フュトレが焚火の近くで寝ているイリスに物音を立てず近付き、短剣に手を忍ばせます。

「あなたは親しい人に向けて剣を抜く事が出来ますか」

 目を閉じたまま、イリスが突然口を開きました。魔女フュトレは喫驚し、動けません。

「でも、もし自身の過ちに気付いて、それがすっかり手遅れになってしまっていた時、お願いするかもしれませんね。さぁフュトレ、こちらへ」

 ――救世神話 第六巻十一章八節「姦計の刃、抜き難し」より

 …………

 ………

 ……

 …

「おい起きろ。もうすぐ着くぞ」

 鳥の囀りだけが響く長閑な街道を、馬車の車輪がガラガラと音を立てて通り過ぎた。

 髭だらけの痩せた行商人が背後の荷台に目をやる。所狭しと積まれた商品の隙間には、一人の乗客が横たわっていた。

「君、通行証は持っているのか?」

 陽の光が当たってキラキラと銀色に反射するハンサムショートの白い髪、そこから覗く眼つきの悪い切れ長の瞳を怠そうに擦りながら、乗客は体を起こした。出で立ちはグリーンの半袖チュニックに黒い七分丈パンツ、キャメルのヒールをした白いサンダル、そして左足首に銀色のアンクレット。誰の目からしても若い娘、少女と写るその人物は一切の荷物を持っていなかった。

「問題ない」

 少女が気持ち良さそうに伸びをして空を見上げる。

「今日も晴れそうだな」

 今は晴れるどころか夏の始まりを感じさせる気候。それをさも涼し気に言うこのおかしな乗客に、汚れた手拭いで滴る額の汗を拭きながら行商人が首を傾げた。

「見ろ、ヴィリエだ」

 言われて白髪の少女タルは、緩やかな勾配を下る馬車に揺られながら懐かしくもない街の光景を眺める。紺碧の海から吹く潮風と橙色の屋根郡、埠頭に停泊する沢山の白い船。高い高い尖塔がいくつも聳え立ち、それを覗き見るかのように水平線と陸繋島の背後からもくもくと立ち上る入道雲。これら全てを大いなる太陽が見下ろしていた。

 ……救世神話の時代から幾星霜、人類が数を増やし文明を発展させ、生活を豊かにしながら築いた世界の主要都市のひとつであるヴィリエは、大量の船舶が停泊出来る海岸に恵まれ、海上、陸上の旅客と物流の拠点として発展した港湾都市である。加えて、怪物による侵略や人類同士の争いからも守るよう高い壁で囲まれた城郭都市としても知られ、それら壁、堡塁、臺といった防御施設は未だ堅固に残り機能を維持している。街の中央は議事堂、裁判所、衛兵隊の本部といった政治・経済・治安と司法の心臓部である他、救世神話の時代を生きた古代人達が時の技術の粋を結集して建造したジバナーツァル大聖堂があり、特有の異彩を放った二つの尖塔が天を貫く。そこには女神イリスが残したと云われる聖遺物“トゥインドイスフの鏡”が安置されており、厳重な警備体制の元、聖イリス教会の神官達が管理している。同聖堂周囲にはいずれも背の高い建物が立ち並び、訪れる者は発展を続ける都市の威容を見せつけられることになる。街の北から西にかけては海に面し、交易の要衝地点である他に遊泳の出来る海水浴場や商店が並ぶ、観光地にもなっている。街の東側は主に平民らの居住地区で、その城壁を隔てた先は壁にへばりつくようにして貧しいイリス教徒や異教徒、犯罪者集団に不法移民者などが許可なく住居を築いている。この場所は粗末な建築物が乱雑に広がっており、それに加え治安が悪く衛生観念にも乏しい危険な場所なので、ヴィリエの住民達は“貧民街”と呼んで近付かない。

 ヴィリエの入口である検問所に近づくと、沢山の人だかりを見ることが出来る。その多くは、聖遺物を拝むため連日各地から訪れる敬虔なイリス教徒たちだ。何故彼らが聖遺物に拘泥するのかというと、全てのイリス教宗派がこの鏡を突然姿を消してしまった女神イリスの化身であるとして神格化しているからだ。この鏡の持ち主が女神イリスだとしている経緯は、聖イリス教会初代教皇ロスタインが師であるイリス教宗祖フュトレにより伝えられた事による。証言者が救世神話の登場人物や古代の人間であったりと鏡の真偽を確認することは最早不可能となってしまっているが、それでもイリス教徒は怪物が蔓延る危険な道中であるのを顧みずに、その尊顔を拝するべくヴィリエに訪れるのである。だが流れる水を塞き止める栓のように、屈強な衛兵隊員がそれを阻む。

「頼む、入れてくれ。我々は拝みに来ただけだなんだ」

「通行証が無ければ金を払え。それも無いなら大人しく国へ帰るんだな」

 衛兵隊員は疲労の色が濃い襤褸を着たイリス教徒達の懇願にも耳を貸さない。ヴィリエの陸路による玄関口は、街の南側にある天然と人口の城壁に守られた検問所の一箇所しかない。またその場所はヴィリエに常駐し治安を維持する衛兵隊によって管理されている。入場するには通行証を提示するか衛兵隊が要求する金銭を支払わなければならず、入場出来ない者たちは途方に暮れ、検問所の近くにはその者達の野営地が出来ていた。ヴィリエの行政は貧民街にこの野営地と、これら目障りな存在の対応に手を焼いているのだった。

「止まれ。通行証を見せろ」

 タルを乗せた馬車が検問所に近づくと、若竹色のベレー帽にサーコート、黒い皮のブーツに帯剣をした、ごく一般に見られる衛兵隊員が指示する。行商人は馬車一台がやっと通れる程しか開いていない大きな引き鉄扉の前で指示通り停車し通行証を見せると、タルも衛兵隊員に向けて右手の甲を差し出した。そこに刻まれているのは荊を振るう魔女の印、彼ら衛兵隊員ならば誰でも知っている紋様だった。

「…通れ、さっさと行くんだ」

 嫌なものを見てしまったかのような表情をした衛兵隊員が、よほど暑いのかベレー帽で煽ぎながら急き立てる。行商人は訳も分からず戸惑いながらも、馬車を走らせた。

「その刺青は何だ?」

 対向する馬車や歩行者に気を付けながら商人が問う。タルは怠そうに欠伸をした後、少し間を置いてこれは祓魔神官の証である旨を伝えた。

「祓魔神官……悪魔を殺す天使様だったか」

「天使なんていない、悪魔もな。ほらっ」

 嘆息を漏らす行商人を無視してタルが小銭の入った小袋を投げ渡す。だがそれを受け取った行商人はすぐに投げ返した。訝しげな顔をするタルに、行商人が言う。

「てっきりただの家出娘かと思っていたが、神官様なら金を取るわけにはいかない」

「馬の餌代だよ」

 タルが前髪をかきあげ飄々とした様子で言うが、彼女は人からの恩義を決して忘れるようなことをしない。態度こそ素っ気ないものの、あくまでお礼の気持ちを形として表したかった。だが、行商人の意思も固かった。

「やめてくれ。この街で神官様から金を貰ったなんて知れた日には俺の商人人生もお終いだ」

「そうかよ。それじゃあ商売繁盛を祈ってるぜ」

 タルは馬車の荷台から飛び降り、悠然とした足取りで検問所を抜けると、その先の人ごみに紛れた。

 ………ヴィリエは時計を位置に準えて街が区分されており、それぞれ一番街、二番街、三番街…十二番街と名前が充てられているが、九番街の右端から一番街の左端までは海中に位置するため、事実上九番街が区分された数字の最後の街ということになる。これはヴィリエを海上、或いは海よりやって来る敵から防衛するための古代人の名残りであるが、現在も海路の発達に伴ってそのまま名前だけ残し利用されている。またジバナーツァル大聖堂などがある“中心街”という場所は、旧文明時代に奴隷を労働力に建設した更に円形の高い壁に覆われていて、つまりヴィリエは真上から見下ろすと、ちょうど二重丸になった構造と思えば分かりやすいだろう。この場所へも特別な通行証を提示しないと入場出来ず、イリス教徒たちは何とかヴィリエに入場出来たとしても、このもう一つの検問所によって聖遺物の拝跪を断念せざるを得なくなるのだった。

 街の入口で六番街に位置する検問所を通過すると、直ぐ目の前にある“中央通り”と呼ばれる、馬車を横に四台ほど並べられるほどの広い通りがあって、これは内壁に囲まれた中心街までに続く唯一の道。この通りは物品店や飲食店が軒を連ねいつも込み合っているが、最近は間もなくやってくる女神イリスの感謝祭に先走りいつも以上の賑わいを見せている。またこの中央通りをそのまま真っ直ぐ進むと、“幹線通り”という、円形の街ヴィリエの一際賑やかな街並みが一番街から九番街までぐるっと繋がった通りとぶつかる。この通りは馬車二台が余裕を持って擦れ違う程度の広さで、どの番数街も商店が並んで人々の賑わいを見せる。最も賑わいを見せるのがやはり前述した中央通りのある六番街で、中央通りと幹線通りが重なる場所となれば商いの一等地だ。両通り共に道の真ん中は馬車道にもなっていて、住民に商人、観光客、イリス教徒らの集団に馬車と、現在のヴィリエは喧噪を極めている。

 タルが目的とする場所へは、今歩いている中央通りの先にある、幹線通りを伝って三番街方面へしばらく歩くことになるが、馬車や人の往来が激しい通りを歩くのは煩わしいと感じた彼女は、横道に逸れて人通りの少ない路地へと移った。

 目指すは聖ロスタイン。正確には、そこに付属する孤児院である。何故タルがそこへ目指すのかというと、それには彼女の出生について知る必要があるだろう。

 タルはある春麗らかな日に聖ロスタインの門前で、古びた大きい籠の中に乳児の状態で遺棄されているのを修道女によって発見、保護された。すくすくと成長するにつれて陽に当たると銀色に光る白い頭髪を生やすようになり、それは怪物との交戦地域で危険な土地とされる、北方の人間が持つ特徴だった。孤児院で暮らすようになると男言葉を使いぶっきらぼうで取っ付きにくい印象を与えるようになったが、院長夫人の薫陶をしっかり受け、“タル”という北方人の名前を与えられた。彼女が人から受けた恩義を忘れないのも、院長夫人の教えである。

 両親には捨てられた。

 孤児院の仲間たちが、自分の家族。

 孤児院が自分の家、帰るべき場所。

 明日から生きてゆくアテもなかったタルは、それは必然的ではあるが彼女なりに自分の居場所を見出し、本来ならば許されないと知りつつも、帰るべき場所として大切にしようと考えていたのだ。とはいえ、その軽い足取りに反して気持ちは靉靆して優れなかった。何か後ろめたさがあるわけでも、自分の育った場所に帰りたくないというわけでもない。人が聞けば他愛もない理由を彼女は依怙地になって隠そうとしており、結果、睡眠から目覚めた直後に浴びる朝陽のような穏やかな気持ちと、それをどこか否定したいという気持ちが混在し、こうしてむず痒い思いをしているのだ。

 さて程なくしてタルは、慣れ親しんだ街につき迷うことなく目的地に到着した。聖ロスタインの門構えは広く、高さ約三メートルの引き鉄扉が大きく手を開けて来訪者を迎え入れている。門の両脇にあるスペースには青々とした観葉植物が植えられ、その中に“ロスタイン聖堂”と彫られた長方形の置石が設置されている。聖堂庭は教会関係者による植樹や手入れにより自然豊かで、一般開放されて誰でも利用出来る公園となっている。聖堂へは門から直線で、その真っ直ぐな道に沿って花壇と石畳が続き、花壇には赤、橙、黄、緑といった色鮮やかな花が植えられていて、訪れる者の目を楽しませてくれる。建物自体は石造りで元々エメラルドグリーンのような色だった面影を残しているが、経年によりだいぶ白っぽく変色している。この様子を見ると、自身の育った場所なだけに物悲しさを誘われるが、それを気にするな、とでも言うかのように穏やかな風が吹いて、頬を撫でるのと同時に屋根の突端に設置されている風見鶏をくるくると回していた。

 聖堂入口の巨大な鉄扉は常に解放されており、廊下を真っ直ぐ進むと聖堂に突き当たる。そこではガラスに描かれた女神イリスの形像に見下ろされながら、一般のイリス教徒、学士達、修道士・修道女等といった者達が活動している。タルはそれらの人々を素通りし、聖堂の横にある階段を居住階層の三階まで上って、回廊を歩き、貫禄のある木製のドアが並ぶ通路までやって来る。そして一番手前の見慣れたドアを二回ノックした。ドアには“ノックを忘れずに!”と看板が貼りつけてある。

「どうぞ」

 女性の声だった。ドアの隙間から良い香りが漂ってくるのを感じると、ああ相変わらずだな、とタルは思う。そして遠慮がちにドアを開けると、そこには木製で四人掛けの、アガパンサスが生けられている花瓶が置かれた四角いテーブルがあって、そこで中年の女性が上機嫌そうにパイを作っていた。香りからして、これはバターシナモンパイだ。

「先生」

「あら、タル。久しぶりね」

 タルに先生と呼ばれたこの女性は、聖ロスタインに付属する孤児院の院長夫人。院長である夫とは早くに死別し彼女には子供がおらず、夫との愛の誓いを今も守り続け、教会の援助を受けながら夫が切り盛りしていた孤児院を引き継ぐ高潔な女性である。子供たちに明かしたことは一度もないが、年齢は五十代半ば。趣味はこうしてパイを作り、人に、特に子供たちへ振る舞うこと。タルにとって母親同然である院長夫人にこうして会うのは、概ね十二、三歳という自分たちが働ける年齢に達し孤児院から送り出されて以来、祓魔神官となった時に送付した一度きりの手紙を含めなければ、およそ五年ぶりになる。

「うん、久しぶり…」

 しばらくぶりに帰宅したタルはどうにも照れ臭くて、院長夫人の顔をまともに見れず視線を宙に漂わせてばかり。頬、それに耳までほんのり赤く染めているのを本人は気付いていない。そんなタルを見て、院長夫人は一段と成長した娘の初々しい様子にそっと微笑むのだった。

「髪型を変えるんじゃなかったの?」

 問われてタルは、ここで暮らしていた時によく短い頭髪や喋り方を理由に他の孤児から男、男、と揶揄されていた事、それにルーティングテーブルの村での一件の後に散髪した事を想起しながら答える。

「うん、伸ばしてたんだけどやっぱり短い方が良いと思って」

「そう?伸ばしても似合うと思うけど」

 髪型について女同士の会話を少しした後、タルが椅子に腰掛け机にもたれる。使い込まれた机の木の匂いを感じているとうたた寝を誘う事を思い出し、そうしていると過去のとりわけ重要でない出来事が連鎖的に彼女の頭の中で再生された。タルは少し潤みを帯びた目で、今度はパイ作りをする院長夫人の後ろ姿を見る。ずっと以前から掛けているお馴染みのエプロン、花柄の腕カバー、縦縞模様のワンピースにグレーのレギンス。髪型は今も昔もショートカットで、何も変わっていない。

「そうだタル、ヴィッキーも今帰ってるから、後で挨拶しておきなさいな」

「ヴィクトリアが?…うん、分かった」

 乳児の時に拾われたタルもそうだが、当然ながら孤児たちは正確な生年月日や年齢が不明だ。したがって個々の体と精神の成長度合いから院長夫人が判断し、年齢を決めてゆく。タル達が孤児院から送り出された時のメンバー、つまり同い年とされているのは三人。タル、ヴィクトリア、そして…。

「先生、あいつはどうしてるの?」

「ゼクっちゃんのこと?」

「うん」

 ゼクス。彼がテンプル騎士団の訓練所へ入所が決定した時の喜びようといったら騒々しい程だったが、いざ孤児院を離れる当日、泣きべそをかいてなかなか出発が出来なかった家族。そう、タルにとってヴィクトリアは妹、ゼクスは弟のような存在だ。

「気になるの?」

「え?別に。ただ訓練所の奴らに迷惑かけてないかなと思って」

 壁のカレンダーへ視線を移し興味の無さそうに装うタルだが、弟が今どんな姿をしているのか、訓練所ではどんな生活を送っているのか、遊び呆けてはいないか、など本人と話したい事がたくさんあった。つまり、気になっているのだ。

「あの子はズボラだから手紙を全然寄越さなくて、私心配しているけれど」

 バレていた。むくむくと膨らむ羞恥心を誤魔化すように頬杖をつき余所見をする。母はなんでもお見通しなのだなと、タルは思う。

「去年の今頃かな?テンプル騎士団の偉い人が来て、幼い頃のあの子の様子を聞きに来たのよ」

「なんて答えたの?」

「元気で明るい、普通の子だったって」

 院長夫人によればゼクスは成績優秀で、その非凡なる能力が騎士団の本部にも耳に入り、訓練所の卒業が大幅に早まったらしい。卒業まであと一ヶ月程に迫っており、その後は形式的な試験を経て、テンプル騎士として正式に採用されるのだとか。

「へぇ、あいつやるじゃん。まあ、祓魔神官の俺には敵わないけど」

「二人とも教会関係者だからどこかで会うのかもね。会ったらどんな様子か聞かせてね」

 タルがぼんやりと、自分から手紙を出せば良いのに、と生けられたアガパンサスを見ながら思う。だが母も忙しい。毎年孤児を引き取っては送り出し、毎日のように幼い子供たちの面倒をみる。気にかける子供は自分達だけではないのだ。

 どのような形になるのかは想像もつかないけれど、母の言うようにもしゼクスと会ったらたまには帰れ、と伝えることを心に決めたタルは、次に仕事先へ向かうため椅子から立ち上がる。

「行くの?パイはどうする?」

「俺はいいよ。子供たちにあげて」

「そう。またね、タル」

 母が変わらぬ様子だったので、タルは心から安心する。

 各地を転々とし呪病者を殺す仕事というのは、人間の泥臭い暗部に常時触れるのと同じであり、例え不死身の肉体であるとしても次第に身を窶し、精神を疲弊させる。ホームシックにもなっていたタルは、帰る場所があるということの大切さ、そしてその暖かみを実感として知る事となる。

 院長夫人の部屋を後にし回廊を聖堂へ向かって歩いていると、身長がタルよりもすらっと高く、赤毛の頭髪をセミロング程の長さにし、ライトブラウンの半袖リブニットと白いパンツをいずれもタイトに着用してベージュのヒールサンダルを履いた女とばったり会う。最後に見た記憶とは随分変わっているが、タルにはその人物が直ぐにヴィクトリアだと分かった。相手もこちらが何者か一目で分かったらしい。

「タル?タルだよね?」

「元気そうだな、ヴィクトリア」

 笑顔で歩み寄る二人。

 年長の孤児から虐められそうになった時、ヴィクトリアはいつもゼクスの後ろに隠れ、その二人をタルが一人で守った。この構図は遊びにしても学びにしても同様で、タルにとって妹には控えめで大人しい、守るべき存在とでしか印象がない。だが今、目の前にいる彼女は服装といい服装から浮き出る体の線といい、その淑やかな雰囲気も合わさって、タルに“大人の女”と印象を改めさせるものを感じさせた。良い意味で変わった妹を前に柄にもなく気後れするタルだが、母の時とは異なりまだ平静を装う余裕は持っていて、簡単な近況報告から始まり世間話、そこから昔話に花を咲かせ、二人は立ち話だというのに時間を忘れてお喋りに興じた。

「そろそろ俺は行くけど、ヴィクトリアは?」

「私も先生に挨拶して帰るよ」

 それじゃあまた、とお互い背を向けて歩き出すと、タルがふと言い忘れていた事があって、ヴィクトリアを呼び止める。

「あ、そうだ――」

 ヴィクトリアがタルの言葉に反応して振り向こうと、横目になったごく僅かな時間。彼女の瞳が紅くなったような気がした。

 見間違い…?

 そうかもしれない。今は元のグレーの瞳だから。

 紅い瞳の意味について様々なものが頭を駆け抜ける中、ヴィクトリアがどうしたの、と首を傾げる。その様子がタルを我に返させ、都合がついたらゼクスも呼び三人で食事でもしよう、と伝えた。

 ヴィクトリアと分かれ階段を下りている間も紅い瞳の事が頭から離れなかったタルは、聖堂の一階に下りるとイリスの形像を見上げ、他に祈りを捧げる者達に混じって跪き、祈った。

 天に授かりし己の身体を呪い、自らをイリスの神官と名乗りながらもその存在を信じぬ程度の信仰心。神を信じぬ祓魔神官が祈るなど珍妙にして滑稽だと笑う者もいるだろう。それでも彼女は祈らずにいられなかった。

 どうか全て自分の危惧でありますように。

 どうか妹が道を外していませんように。

 …………

 ………

 ……

 … 

「着いたぁ!」

 二頭の白い牝馬に引かれた幌馬車が、衛兵隊員らの監視の元、指定された場所に停車した。その直後にゼクスが元気な声をあげて荷台から飛び降りる。それに続きスェーミもゆっくりと降りた。

 三週間ぶりのヴィリエ。見上げると夏の太陽はすっかり傾き、西に僅かな橙を残すだけで、藍色の空が広がっている。

 ルーティングテーブルの村を発ったスェーミ、ゼクス、御者の三人は、先ず隣村のハザの村へ二日かけて歩き、そこで馬車の手配をしようとしたが如何せん路銀が心許なく、またこの時同村で起きていた事件の解決にあたっていた為、当初の予定より一週間の遅れをとった。同村での事件とは如何なるものであったかはまた別の機会に触れるとして、そう長くもない期間の旅だというのに、点灯夫によって灯される街灯が、なんとか帰還した三人に思った以上の照度を感じさせた。ドルトル粉が錬金術により発明されてからおよそ三百年、ドルテクノロジーによって人類はこれを気体化させ点火する事で照明として利用する技術まで手に入れたが、ヴィリエの外はまだまだこのような文明の利器が行き届いておらず、松明やランプといった照明が主流だ。ヴィリエに住む者達は、文明の中心地にいる事にそれほど気付いていないのである。

 衛兵隊員をよく目にする検問所付近では、治安がしっかり維持されているのか人の往来がまだ激しい。近くには夜の装いとなった繁華街があるという事情も大きいのだろう、酔っ払いが大声で話す声やキャバレーから漏れる軽快な音楽が聞こえてくる。犯罪を影に偲ばせながらも、秉燭夜遊のヴィリエは毎日人々の前に姿を現すのだった。

「騎士スェーミ殿ですか」

 街灯の影から、ゼクスと同年代ほどのテンプル騎士が歩み寄ってきた。小柄でそばかす顔のおどおどした彼が身につけているテンプル騎士団制式装備である腰巻きの色は黄色。黄色は騎士団本部の人間が身につけるもので、本部務めということは、形式的ではあるが若輩ながらもスェーミを凌ぐ能力があることを示している。

「そうだが」

 直ぐハザの村を発つ前に放鳩した伝書鳩が無事届いたのだと察するスェーミの前で、少年騎士が見ている側からしてももどかしくなるような様子で懐から紙を取り出すと、震える手でそれを両手で持ち直し、次のように読み上げた。

「本部から伝言です。先ず、任務完遂ご苦労である。次に予定通り貴殿らの装備、道具類は御者が第二騎士隊支部へと運搬する。次に任務遅延により新任騎士の隊舎手配が出来ていないので、暫く個人で対応するように…以上です」

 本部務めの少年騎士は、仏頂面で話を聞いているのかどうかも分からないスェーミにやりづらさを覚える。だがなによりも、幾多の任務に関わり数多の怪物を、時には人をも殺してきた人間の発する無言の凄みが、彼に何か問題はなかろうかと鬼胎を抱かせるのだった。

「了解した。ときに聞きたいんだが」

「は、はい。なんでしょうか」

 直立不動となって聞く姿勢になる少年騎士。立場上彼の方が位は高いが、スェーミはいつも通りの様子で言いたい事を言った。

「金をくれ。自前も支給された路銀も尽きかけてるんだ」

「は、はい。後で任務完遂による特別報酬が支給されます」

「ほう、そうかい。でもオレは後でじゃなくて、今欲しいんだけどよ?」

 にやり、としたスェーミが、がしっと力強く一方的に少年騎士と肩を組む。その笑みは一見友好的なものだったが、恐喝のような嚇しが多く含まれているのはこの二人だけにしか分からない事だった。

 一方ゼクスと御者は……。

「旦那、旦那」

「何、なんか用?」

 旅の経験が豊富な男から気持ちの悪い男へと凋落した小太りの御者は、ゼクスに軽蔑と不審の眼差しを向けられ、且つぞんざいな態度で扱われていたが、当の本人は気にも留めておらず、こうして気さくに話しかけてくる。ゼクスは御者の人の好さは本物であると心得つつ、一時の、それも本人の意図せぬ夢を見ながら言った寝言の内容というだけで人を決めつけるのは愚な事であると頭では分かっていたが、彼の若さが邪魔をし、むず痒い思いが晴れぬまま態度を改めるに至らずいた。

「あちらのベテランの旦那が吸っている煙草なんですけれどね」

「ああ、あれ。僕、煙草の臭いってほんま苦手やわ。服にも髪にも臭いが付くし。まあそんな事スェーミさんに言われへんねんけどな」

「私も商品に臭いがね…ってまあそれは置いといて。あの煙草の銘柄、ジラーニィっていうんですけれど、とんでもないものなんですよ」

「とんでもないもの?」

 本部務めの少年騎士と話すスェーミを見て、聞かれていないことを再度確認すると御者が声を潜め神妙な顔をして語る。

「ええ、ジラーニィはそもそも毒草でそれをタバコ葉に品種改良したものなんですが、吸うと甘ぁ~い味がして、ぼーっとするというか、とにかく落ち着くんだそうです。でも依存性が高く止められない上に、身体中に毒素が周りやがては死に至るという、自殺願望者が吸うような代物なんですよ。旦那は若いんだから気をつけて下さいね。勧められても断るんですよ」

 スェーミが自殺願望を…?

 ゼクスがこの旅での出来事を大雑把に思い出す。そういえば、スェーミはキノコが嫌いである以外は自身の話を殆ど話さなかった。もし彼が厭世的な人生観を持っているのならば自殺願望を持つことも有り得なくはないが、そうでなかったとしても、吸っている本人が危険な銘柄だと知らない筈がない。もしスェーミが知らないのであるなら、この事実はきっと知らせるとゼクスは誓った。

「はいはい、気ぃ付ける。気ぃ付ける。所でおっちゃんはなんでそんな事知ってんねん」

 ゼクスの問いに御者が即答する。

「当然です。商人たるもの、世間の事には飛耳長目していなくてはならんのです」

 御者が当然の事であると胸をどん、と叩き主張する。旅の経験といい、ジラーニィといい、この情報に対する意欲といい、ゼクスの心中ではようやく御者の名誉を取り戻そうとしていた。

「ときにあちらの旦那、なにをしているんですかねぇ?」

「え?」

 御者に言われてゼクスもスェーミのいた方を見る。彼は親し気に本部の少年騎士と肩を組んで話をしているが、どういう訳か、ゼクスにはそれが恐喝をしていると直ぐに把握することが出来た。

「ちょ、スェーミさん。カツアゲはあきまへんで!」

 ………

 さて、スェーミとゼクスは装備品を洗礼の剣のみを残し御者に預けると検問所を抜けて直ぐ目の前にある、中央通りへと進む。通りの入口は街の人間が二本の木を利用して装飾した大きいアーチがあって、そこに“ヴィリエの華・六番街”と木彫りの看板が設置されている。夜の中央通りは馬車の往来が減っているため、沢山の人が堂々と道の真ん中を歩いていた。

「へいらっしゃい。お客さん寄ってかない?」

「兄ちゃん、今夜はサービスデイだよっ」

 呼び込みの声が飛び交い、どの店で過ごそうか嬉しい悩みを抱えて歩く沢山の人々に混じって、スェーミとゼクスが漫然と歩く。街灯と店の明かりによって中央通りは通り過ぎる人々の顔がはっきりと確認出来るほど煌々と照らされ、ドルトル粉の発光現象を利用した文字看板は各々の店の個性がよく表し通りを彩らせる。中には文字だけでなく、猫や馬といった動物が描かれているユニークなものもあった。ザワザワとした通りに時折店の外まで笑い声が聞こえてくる。宴も酣といったところなのだろう。

 孤児院は勿論のこと、訓練所でも厳しい門限が決められていたため、ゼクスは夜に街を歩く経験があまりない。夜の闇に浮き出る色とりどりの看板や照明、音楽に人々の夜ならではの賑わいに、彼もどこでどう過ごそうか悩んでしまう。夜のヴィリエは多くの人を惹きつけるのだ。

「テンプル騎士の兄ちゃん、いい娘揃えてるよ………って女連れかよ」

 煙草を取り出してマッチ棒で点火、用済みのマッチは指で弾いて道に捨てて、歩き煙草のまま無言で歩くスェーミの瞳をゼクスが横から覗く。

 街灯の光を反射する黒い瞳。その感情が読み取れぬ茫洋たる目は、これから何処へ向かっているのかなど想像もつかない。楽しそうではなさそうだが、怒っている様子でもない。ただ気怠そうにゆっくり歩いているのが今の彼だ。ジラーニィを吸っている事で、御者の言っていた作用が働いているのだろうか。けれど、旅の道中で彼を観察する機会は沢山あったが、今の様子は普段の彼のようにも思える。

「ねえ、スェーミさん」

「なんだ」

 煙を吐くスェーミの周りを、通行人を避けながら仔犬のように飛び回ってゼクスが尋ねる。そういえば彼は訓練所が課した実地任務をこなしたことで晴れて正式なテンプル騎士となるのだが、その儀式がいつになるのかを気にかけていたのだ。その事をスェーミに問うと、

「馬鹿野郎、そんなものはねえよ」

 …と、なんでもない事のように言われた。呆気にとられたゼクスが通行人とぶつかりそうになるので、スェーミにぐいっと腕を引っ張られる。

「ええっ。でも“入団の儀”っちゅうのがあるはずじゃあ?」

「忙しいのにやってられるか。洗礼の剣を受け取った瞬間からお前はもうテンプル騎士のヒヨっ子なんだよ。今回の仕事はもう終わりだ、帰って明日また支部に来い」

 そう言ってスェーミは、歩き煙草のままヴィリエの夜と人々の賑わいに溶け込んでゆく。

 “帰る”…。ゼクスにとって帰る場所というのは特別な意味があった。

 孤児院で育った彼はどういう訳か、それ以前の過去の記憶が一切無い。気付けば他の孤児達と寝食を共にし、読み書きを学んでいた。帰る場所と呼べる所のひとつとして孤児院を挙げられるが、訓練所へ入所する時、孤児院の仲間達と院長婦人には彼なりの別れの挨拶を交わしてきた。なので、“帰る”というには孤児院は違うのかもしれない。まさか訓練所に再び戻る訳にもゆくまい。スェーミの言によれば、どうやら無事卒業を果たして正式なテンプル騎士となったのだから。

「スェーミさん、待ってください!僕は何処に帰ったらええんですか!?」

 人ごみの中でなんとかスェーミを見つけたゼクスは、彼に何処へ行くのか聞いても答えてくれなさそうなので、取り敢えず黙ってついて行くことにした。

 施しを求める物乞いを無視して六番街の迷路のように複雑な路地裏を歩き、屯するゴロツキに睨みをきかせながら角を何度も曲がり、夜空を眺めるほどの勾配な石の階段を上って、気怠そうな背中を追い歩き続けた終着点。辺りは静まりかえり人の気配がなく、寂しく外灯が灯っているだけの狭い路地裏だが一箇所だけ、ピンク色の文字看板が暗がりにぼんやりと浮かび上がっていた。看板には“クラゲの海”とある。その看板のある建物の前でスェーミが煙草の火を足で踏み消し、なんの躊躇もなく古ぼけた木製のドアを開けると、そこは十数名入るのがやっとの狭くてチープなバーだった。その中へ吸い込まれるようにスェーミが入ってゆくのでゼクスも慌てて続く。店内は暗く、石の壁が節くれだった木のようにごつごつしていて、行燈による照明が壁の四隅にひとつずつ、天井にひとつ。スェーミ達がやって来るまで人の話す声が聞こえていたが、今はこちらの様子を伺うようにしぃん、と静かになっている。

 スェーミとゼクスの他に客はカウンター席に男性客二名、二つしかないテーブル席に男性客が二名ずつ。どの客も平民でそれも日銭暮らしの低所得層、継ぎ接ぎだらけのみすぼらしい服装に生気の乏しい目をしている。初めてやって来た人間なら少し怖い印象を受ける店だが、慣れるとカウンターや椅子がよく磨かれていて、中央通りの文字看板のように様々なラベルデザインのボトルが棚に並んでいる所を見ると、一見感じるチープさと相反して店全体が拘りのあるものになっているのが見て取れた。

 スェーミとゼクスはカウンター席の艶の入った丸椅子に二人並んで座ると、スェーミがいつものをくれ、と注文した。だがカウンター越しの白いワイシャツを肘まで捲り、シンプルなボタンを第二ボタンまで開けていて、ひょろりと身長が高く痩せた丸刈りのバーテンダーの男が、

「帰れ。ウチには“いつもの”なんてのは扱ってねえんだよ」

 …と、スェーミの注文を拒否した。どうやら口ぶりからしてバーテンダーは店主も兼ねているらしい。

 仕事と旅のせいで疲れていたのかスェーミは店主と言い争う気は無いようで、素直に“ルイーブイをくれ”と頼む。すると承知したのか店主が無言で準備にかかった。ゼクスが後で聞いた話によれば、この“クラゲの海”の店主は常連風を吹かせた客の注文は一切受けないのが主義らしく、どんな客でも初来店のように対応させるのだとか。そのルールさえ遵守すれば手際良く商品を提供してくれる。またスェーミが注文したルイーブイという酒はアルコール度数の高い蒸留酒で、寒冷地の人間が好んで飲む酒だった。

「お決まりの会話にお決まりの台詞。どうしてオレの行く先々の人間は頭の固え奴らばかりなんだ…」

 スェーミが呟く。尚店内は禁煙で、商品が提供されるまで彼は口寂しそうだった。一方ゼクスは、目の前で繰り広げられるやり取りに大きい瞳をぱちくりさせながら感嘆の声を漏らした。

「マスターめっちゃカッコイイわ~。あんなやり取り、小説や歌劇の中くらいか思うとった。こういうの憧れとったんですぅ」

 店内は暗いので誰も知ることは出来ないが、ゼクスの言葉を聞いて少しだけ店主は頬を染めていた。そして仏頂面のままそのゼクスに向き直り、注文を聞く。

「連れのお嬢さんは何にする?ソフトドリンクも用意出来るが」

「お嬢さん?こいつがか?…ふん」

 いつもより早めのペースでグラスを傾けるスェーミが頬杖をつき鼻を鳴らす。ゼクスはまたか、と思いつつも初めてのバーの雰囲気に飲まれ、愛想良く実は男であるということを伝えた。

「っ!?」

 店主が目を見開き絶句する。余程意外だったのか、仕事の手を止めてまじまじとゼクスを観察していた。

「酒すら飲んだことがねえんだとよ。だからオレと同じルイーブイをこいつにくれてやってくれ」

 まだ口を開けて驚いている店主を無視しスェーミがそう注文をする。方法はえげつないが、これは彼なりに行うゼクスへの“入団の儀”、つまり歓迎の意であり、任務を予想以上に補佐してくれた礼であった。何も知らないゼクスは、初めての経験に只々胸を高鳴らせていた。

「そのルイーブイっちゅうのもカッコイイ名前やなあ。あー、どんな感じなんやろ」

「ああ、カッコイイだろ?ほら来たぞ。オレの奢りだ、飲めよ」

 コトリ、と音を立てて置かれたショットグラスには無色透明の液体が注がれている。ゼクスがつんつん、とグラスを人差し指で突っつくとその度にグラスの水面が小さく揺れた。スェーミと店主は、そんな彼の様子を優しい目で見守っていた。

 そしておよそ一時間後、ゼクスは潰れた。当然の結果だった。

 スェーミはハザの村で手に入れたなけなしの銭で会計を済まし、カウンターに寝そべっているゼクスの右腕を引いて自分の肩に組ませると、店を出た。外が暗いのは来る時と変わらないが、夜は治安が悪く程よい感じに酔いが回っているので、いつも以上に注意しなくてはいけない。

「(それに今日はでけえ荷物も一緒だしな)」

 スェーミが潰れたゼクスの横顔を見ていると、後ろから店主が問う。多分変わらず仏頂面なのだろう。

「何処で休ませるんだ?」

「オレの部屋しかねえだろ。旅程が狂った関係でコイツの部屋は手配できなかったんだ」

 スェーミは決してゼクスを放置してクラゲの海に来るつもりはなかった。彼なら必ずついてくるだろうと思ってこうしてやってきたのだ。彼がついて来たとなれば、バーでの一人酒に付き合わせるしかなかろう。

「妙な気を起こすなよ。…その子は男なんだからな」

 店主の言葉に、妙な気を起こしているのはあんただろう、と喉から出そうになるスェーミだが、適当に相槌を打ち帰路に着いた。

 楽ではなかった仕事と短くもなく長くもない旅はこうして終わった。

 ………

 ……

 翌日昼をとうに過ぎた頃、ゼクスは酷い吐き気と頭痛に叩き起された。特に胸がもやもやむかむかする吐き気に苦しめられ、これが話に聞く“二日酔い”というものである事を彼は痛く実感する。この時同時に思い出すのである。孤児院時代、院長夫人が酔っ払って帰宅した際はめちゃくちゃの一言で、朝はとても辛そうだったという事を。今のゼクスの頭の中は、二日酔いの苦しみと、昨夜格好つけながらどんどん口へ流し込んでいったルイーブイに対する憎さと後悔しかない。

「うえええ、気持ち悪っ。それにここ何処?」

 ゼクスが今いる空間は彼が横になっているベッドの他に粗末な木製のテーブルと椅子、窓の近くに置かれた本棚という目移りの順番に家具が配置されている。窓は開け放たれており、そこからは時折おもてを歩く人の話し声が聞こえる。本棚には図鑑、特に植物に関するものが多く、他には魔導書、イリス教本などといった、思春期の少年が興味を持ちそうな内容のものが認められず、二日酔いの頭痛を促進させるようなものばかりだった。壁は白いクロス一面張りで飾り気がなく、時計、それにカレンダーといった生活に欠かせないものも無かった。どうやらここは誰かの居住部屋のようだが、寒々しいほど無駄がなく綺麗に整頓されている。訓練所で貸し与えられたゼクスの部屋は、ルームメイトと合わさってそれはだらしないものだった。

 ゼクスは察する。この殺風景な部屋は恐らくスェーミのものだと。どんなに辿ってもこの部屋にやって来た記憶が無いということは、彼が自分をここまで連れてきてくれたのだ。そこで一番気になるのは、頭痛と吐き気を除けば衣服の乱れや身体の異常が無いことだ。スェーミは無防備なゼクスに欲望をぶつけなかったのである。

 男同士で…と思うだろうが、実際ゼクスは幾度となく一晩いくらかなどと値踏みされたことがあるし、世相の乱れと同時に性的なモラルの乱れも起きているこの世界で、衆道に走る者もいる。そういう意味でもスェーミが信用の出来る人物だと改めて知ると、ゼクスは、

「う、吐きそう」

 …と、本格的な二日酔いに苦しめられた。

 使用感の全く無い炊事場でおえっと嘔吐くままに吐き出し続けると幾分か楽になり、しばらく休んだ後、憔悴した顔で身支度を始めて部屋を出る。

「(あ、あれ?鍵が…)」

 どういう訳か鍵が外側から施錠されるようになっている。これには首を傾げる思いだったゼクスだが、気にせず部屋を出ると、そこで夏用のローブを着た老女とばったり出くわす。老女は小柄だが凛とした表情をしていてとても気が強そうだった。そんな人物がゼクスを興味と警戒の眼差しで上から下まで見ると、貴方がゼクスか、と問うた。

「あ、はい。ここはどこなんですか?ここに来た記憶がのうて困ってるんです」

 今度はアルコールの臭いをぷんぷんさせながらゼクスが問う。これに対し老女は、パーソナルスペースを維持しながらもその外見に似合わぬ口臭に遠慮なく眉を顰めて答える。

「ここは教会関係者向けの宿舎で、訓練所の近くだけど。あ~あ~、真っ青な顔をして、スェーミの言う通りね」

 ぐいっとゼクスの手を引き、無理矢理布袋にたくさん入った錠剤を持たせてくれた。老いているとはいえ矍鑠とした人物で、ゼクスは二日酔いなのもあってされるがまま。だが悪い人間ではないらしいく、老女の善意を感じられた。

 ところで、スェーミの部屋が施錠していないことを伝えると、驚くべき返答がされた。

「ああ、スェーミの部屋だけはそうなってるからね」

「ええっ。スェーミさんの部屋だけって…なんでですか?」

「何でもなにもないでしょう、ここは女子寮なんだから。あいつが夜這いでもしたらどうするの」

「は、はぁ」

 軟禁状態の部屋などであのスェーミがよく納得するものだ。それにどうして彼が女子寮に住んでいるのか…など様々な事が浮かび上がっては不思議に思うゼクスだが、この癖の強い管理人刀自と話をしている場合ではない。第二騎士隊支部へと向かわなければ。

「おばちゃん、薬ありがとう!行って来ます!」

 スェーミの住んでいる宿舎のエントランスを出ると、閃光のような強い日差しがゼクスに降り注ぐ。テンプル騎士団の制式装備に具わる魔法効果ではこの強い日射しまで遮ることは出来ず、あまりの眩しさにゼクスは思わず手を翳した。真っ白な光に慣れると、眼前にはカンカン照りの自然石で作られた敷石の道、それに木と石造りの街並みが広がる。街ゆく人々の誰もがこのうだるような暑さに苦しそうだ。

 ゼクスは手を翳しながら凡その現在地を知るため、周囲の建物を見回す。彼は孤児院で暮らしていた頃、仲間と共に探検と称してアテもなく街を歩いたし、訓練所にいた頃も中央通りや幹線通りをよく遊びに歩いたので、自分が今現在、ヴィリエのどの辺りにいるのか直ぐに把握することが出来るのだ。それらの経験によればこの場所は概ね二番街寄りの三番街住宅地。管理人刀自の言によれば訓練所の近くという事だが、訓練所は三番街と四番街の境目にあるので、実際は結構距離があった。目的地のヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊(以後、二騎)は三番街の幹線通りから少し離れてその喧噪が和らいだ場所にあって、訓練所へ行くよりずっと近い。ゼクスは二日酔いの怠さを残しつつ、少しでも早く二騎に到着するため早歩きで同地へ向かった。

 ヴィリエ常駐テンプル騎士団は四つに分かれていてそれを騎士団本部が統括しているが、この四つの騎士隊は街の形に合わせて位置が決められている。第一騎士隊が一番街、第二騎士隊が三番街、第三騎士隊が六番街、第四騎士隊が九番街といった具合だ。そしてこの四つの騎士隊が線と線で合わさる中心街に、ヴィリエ常駐テンプル騎士団の本部がある。二騎の主な任務はイリス教徒の依頼を受理した教会の命令により、様々な場所へ出張し教会に代わって依頼をこなすというもの。その役割の特性上、他の騎士隊からは“外回り”と呼ばれている。単なる怪物退治の他に邪教徒の殲滅、殺人事件の捜査から迷い子の捜索といった種々雑多な仕事も多く、取るに足らぬ原因からの殉教者が絶えない。その分、テンプル騎士を志す者達からは最も人気のある隊でもあった。

 人の往来を避け街ゆく人々と周囲の景色を見ながら歩いていると、不意に目的地周辺の地理が再び頭に浮かぶ。まだ一度も中に入ったはないが、二騎は綺麗に剪定されたコニファーの花壇に囲まれていて、その花壇と付近の住民が利用する生活道を隔てて聖ロスタインがある。そう、あの孤児院がある場所だ。彼が訓練所で生活していた時は仲間たちと寝食を共にしながら学ぶ毎日が楽しくて露聊かも孤児院の事を思い出すことはなく、こうして五年ぶりに近くを通るとなると、それはタルほどではなかったけれど、ゼクスにとって感慨深いものを胸中に抱かせた。そして時間が出来たら母を尋ねよう…と、距離はとても近いのに気持ちの中では何故か遠い孤児院に思いを馳せるのだった。

 ゼクスが目的地に到着する。こうして正面から見ると、左から聖ロスタインの敷地の壁、細い生活路、コニファーの花壇、そして二騎という位置付けになっているが、二騎はかなり老朽化していて、地を揺るがす天変地異でも起きればまず倒壊するであろう佇まい。どうしても聖ロスタインや周りの新築された家屋とで見比べてしまうからだろうか。二騎は木と石で造られた三階建てで、後に聞くところによれば、一階はテンプル騎士達の職場の他に食堂、休憩室、仮眠室、更衣室、倉庫といった業務上必要とされる施設があって、二階は隊長室、副長室、総務室がある。三階は広い会議室と屋上の空きスペースとなっているらしい。先程から二騎を出入りするテンプル騎士達の姿を見ていると、廃屋に身なりの良い者達が出入りする様子が日常として溶け込んでいて、しげしげと眺めているゼクスには滑稽な風景に映った。建物正面の石造りアーチには“テンプル騎士団第二騎士隊支部”と彫られた石看板があって、その石看板を見上げると同時に目に入ってくるのが、屋上スペースから少し下に設置されている、菱形上の石に彫られた聖イリス教会の紋様。これはどの支部にもあるらしく、テンプル騎士団の拠点のひとつであることを示すため。またこの石造りの紋様は、旧文明時代に組織された最初期のテンプル騎士団が作ったものだという。アーチをくぐるとコニファーの花壇で囲まれた広くもない敷地があり、そこは全て自然石による石畳になっていて、その先に建物入口の大きく開いた大人三人分ほどの広さの鋳造門がある。ここでは若い青年騎士が、この暑さだというのに兜以外の防具をしっかり装備して警備任務に就いていた。

 二騎の関係者であることを証明するものは無いが、自分も立派なテンプル騎士だ。そう奮起させ、ゼクスは堂々と胸を張ってその横を通る。だが案の定、声を掛けられてしまった。

「ちょっと待って、君みたいな子はウチにはいないぞ。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだが」

 伊達に警備任務に就いてはいないようで、彼は二騎の人間の顔を全て把握しているらしく、精悍な面構えになると本日初めて訪れるゼクスに誰何した。けれどもゼクスは相手がこういう若い男である時に限り、楚々とした笑みを浮かべて対応すれば大概の事は切り抜けられることを経験上、知っている。

「僕、スェーミさんに呼ばれて来たんですけどあの人いてます?それと僕も一応昨日からですけど、二騎のテンプル騎士なんですよ~」

 そう愛嬌よく言うと、青年騎士が頬を染めて陳謝する。やはり効果覿面だった。

「(僕っ子来たぁ!)スェーミさんなら事務所にいるよ。昨日から入隊したのかぁ、君みたいな子は大歓迎さ。よろしく、俺の名前は――」

「あ、急いでるんで。ほなさいなら!」

 ナンパをされそうな空気を敏感に察知したゼクスはこの青年騎士を適当にあしらい、トントントン、と鋳造門の先にある階段をかけ上る。エントランスホールに入るとひやっと涼しい冷気が。ドルテクノロジーの最新技術だという冷却装置が稼働しているのだろう。そのままエントランスを進むと、三角席札に“受付”と表示されたカウンター、そしてその奥の通路を隔てた先の部屋では机に座って仕事をしているテンプル騎士達が見える。上の看板には“事務所”の文字が。スェーミがいる事務所はすぐそこのようだが、受付カウンターで書き物をしている受付嬢が見えない壁を作り立ちはだかっていた。恐るべくはこの受付嬢、本人が意図せずイリスの御力を借りる事すらもなく斯様な壁を作っている。これでは敵も味方も近付けない。いや、近付けるはずがない。先へ進むには彼女にひと言声をかけた方が良いだろうが、ゼクスはこの期に及んで先程奮起した気持ちがすっかり雲散霧消してしまった。受付嬢は二十代から三十代位で細身、浅黒い肌をしておりテンプル騎士の内勤者用に用意されたジャケットとブラウスを着用している。頭髪をすっきりと結い上げ眼鏡をかけている顔立ちは知的な印象を持たせながらも、ヒト以外の生物で例えるならば蛇や蟷螂のように近寄り難い雰囲気を醸し出しており、それが先に述べた見えない壁を作る要因となっているのかもしれなかった。

「どうしましたか」

 さて如何に声をかけるべきかと対応に窮していたところを、なんと受付嬢から声をかけられた。とんでもない早口で、感情を読み取れない声だった。救われたような気持ち半分、蛇に睨まれた蛙のような気持ち半分、即刻返答に追われることとなったゼクスは、この場合単刀直入に要件を伝えた方が良いとみえて、緊張と不安を覚えながらスェーミに会いに来た旨を伝える。すると受付嬢は羽ペンを持ったまま、

「禁煙である支部の中でも平気で喫煙するスェーミのことですか?人が相談に乗って欲しいのに他を当たれ、と突き放すスェーミですか?掃除の当番をいつもサボるスェーミですか。それとも――」

 …と、無表情のまま一気呵成に捲し立ててきた。

 出会って日の浅いゼクスからすればスェーミの勤務態度は一緒に旅をしていた時の様子から想像をするしかないが、今受付嬢が言った内容は彼ならば甚だありうることだ。ゼクスは次から次へと浴びせられる言葉を振り払うかのように、

「ぜ、全部同じスェーミさんや思います!僕が探してる人もその人です!」

 …と、大声で答えた。すると正解だったのか、彼は奥の事務所にいる、と答えが返ってくる。どうやら彼女の横の通りを通過しても良いらしい。しかし、この受付嬢がスェーミに相談とは一体どのようなものなのだろうか?

「今は机に向かって仕事をしているはずですよ」

「ど、どうも……」

 やれやれ、と這う這うの体で受付嬢の横を抜け、事務所に入りスェーミの姿を探す。事務所はエントランスから見ただけでも分かる通りたくさんのテンプル騎士が仕事をしており、机で書き物をする者や仕事のことで立ち話をしている者、歩いて移動する者などと広い事務所で誰もが忙しそうにしている。彼らにとって何も分からず立ちん坊でいるゼクスは邪魔になるか好奇の目を向けられるか、または興味対象にならないかのどれかで、誰も声をかける者はいない。この状況にゼクスは、本当にこれから自分はテンプル騎士をやっていけるのだろうかと先行きを憂慮する。孤児院や訓練所とは違って、ここは給料を貰いながら命を懸けて仕事をするテンプル騎士団の拠点のひとつだ。憧れから由来する目的はこうして果たせたものの、忙中にある事務所の雰囲気にゼクスはいつもの調子が出ず、その場でたった一人の人物を探すことしか出来なかった。そして彼は、その人物をようやく見つけた。

「あっ、スェーミさん!」

 ちょうど椅子から怠そうに立ち上がり書類を持ってこちらに歩いて来るところのスェーミを見つけると、彼もゼクスを認め、おう、と微笑を浮かべ挨拶した。こうして合流するのに随分と時間がかかったし苦労もしたが、本当に信用のおける人物とまた会えて心からほっと息がつけるというものだ。ゼクスは思わずスェーミの元へと駆け寄った。

「ティーブレイクでもしてきたのか?もう四時を過ぎてるぜ」

 そうスェーミは言うがどういう訳か今の彼は穏やかで、ゼクスも二日酔いでなければ何か良い事でもあったのかとつまらぬ詮索をしたことだろう。寡黙な男の貴重なひとコマだった。

「は、はい。すみません」

「いいって。ガツンと効く酒だったろう?」

「はい…めっちゃ効きました」

 額に手を当てて今もずきん、ずきんと痛む二日酔いに苦しみながら、ゼクスは全く酒の影響を残していないスェーミを不思議に思う。どうも自分には酒というものが合わないのか、或いは酒を飲むにあたって何か特殊な技能やその鍛錬が必要なのではあるまいか、などと料簡して考えているとスェーミが唐突に、しかし穏やかにあっはっは、と笑った。

 まだ少しだけ口角を上げているスェーミが問う。

「それにしてもまだ顔色が悪いな。ババアから薬を貰わなかったか?」

「(ババア?)ああ、管理人の。貰いました」

「ならここで飲むといい。その後出るぞ」

「出る?何処にですか?」

 ゼクスの腕を引きながらスェーミが伝える。彼が立つ位置は往来するテンプル騎士達の邪魔になっていた。

「オレの机の上にある、九番街で起きた事件の資料を読んでいろ。それとこいつはお前がゲロを吐いている時に預かった辞令だ」

 そう言ってスェーミが事務所から出てゆく。残されたゼクスは先ず渡された辞令に目を通した。内容は自分をヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊員として採用すること、当面はスェーミとコンビを組み任務にあたってもらうこと……それだけが記載されている。入団の儀が完全に省略され文書のみの略式であることにゼクスはもの悲しい思いをしたが、それはそれで仕方がないので辞令をポケットにしまう。次にスェーミから言われた通りに九番街で起きたという事件の資料を閲覧するため彼の机へ向かうも、その資料とはどれなのか検討がつかずに愕然とする。何故なら机はお世辞でも片付いているとは言い難く、書類が山積みで筆記用具と同時に散乱していたからだ。他に目のつく事といえば書き置きと貼り紙がいくつもあって、貼り紙の中には達筆な女性の字で、机を片付けなさい、と注意するものもあった。その貼り紙すらも無視をして、スェーミは一体机で何をしていたのだろうか。

「(あかん、あの人。彼女や奥さんに世話を焼かれるタイプや)」

 その割には自室は綺麗に片付いていた。いや、単に物が無いから片付いているように見えるのか。

 ゼクスはスェーミの言う資料の閲覧を諦め、まずこの机を片付けることから始めた。生来片付けるのが苦手なゼクスだが、スェーミの机ということでどこか献身的な気持ちになって作業を進める。机の上に置かれた書類の山で最も高いのは、主に彼が関わったか関わっているであろう任務の資料についてのものだ。薄っぺらいものから厚みのあるもの様々で、中にはあのルーティングテーブルの村についての資料もあった。どうやらスェーミは任務について入念に下調べをするようで、彼の仕事に対する姿勢が伺える。他には白紙状態の任務の報告書の山。これはスェーミが多くの任務に携わっている事を意味しており、多忙故に事後報告が白紙なのだという背景も見えてくる。それに彼の性格からすれば、このような事務仕事をしているイメージは湧かない。

 書類に混じって週刊誌もあった。最も大きい見出しは“スクープ!マルセル子爵の息子、またもや暴行事件か”…とある。子爵の息子もまた隠れの無い政治家で、六番街の中央通りと幹線通りの合わさる大広場で、衛兵隊に依頼し馬車の往来を止めて、街頭演説を度々行っている。政治に疎く興味も無いゼクスですらその顔を知っているかなりの有名人だが、苛烈なほどの意思表示は稀に暴行にまで発展することもあるらしい。ゼクスは少し興味を持ったので試しにぺらぺらとページをめくってみるが、僅かに挿絵があるだけであとは文字ばかりなので、ちっとも面白くない。

「何だお前、座らないのか」

 スェーミの声がしたのでゼクスが振り返る。彼はシンプルな透明のコップを手に持ち、大きな木製の水筒を脇に抱え、往来するテンプル騎士達を右に左にと器用に避けてやって来るところだった。

「あ、スェーミさん。どれが資料か分からへんし、とりあえず机を片付けてます」

「片付けなくていいんだって。全く、どこにどれを置いたのか分からなくなっちまったじゃねえか」

 どうやら彼なりに、狭いデスクの中に置き場所があったらしい。無造作に置かれていた資料や途中で終わっている報告書、筆記用具は目印か何かの意味もあったのだろう。まずいことをしてしまったかと後悔するゼクスだが、スェーミはそれ以上咎めることはせず、片付けたお陰で出来たスペースにコップを置き、水筒から水を注ぐ。水筒は大きいだけでなく水も入っているのでかなり重そうだ。

「自分でやりますよ」

「構わねえよ。クソッ、どこかのバカが取っ手をぶっ壊しやがったから持ちづらくてかなわねえ」

 スェーミは水を注ぎ終わると水筒をどすん、と床に置き、ゼクスを椅子に座らせ机の上を漁り出す。折角片付けたのにまたごちゃごちゃになってしまったが、目的の資料は見つかった。そしてスェーミは誰もいない右隣の机に寄りかかって腕を組み、資料に目を通すゼクスを見ながら気怠そうに話を始めた。資料の見出しは“九番街連続殺人事件初動捜査資料”とある。

「簡単に概要を説明するぞ。四日前の朝、九番街にある港の倉庫で全身の肉を抉られた漁夫の死体が発見された。また翌朝に幹線通りから少し外れた路地裏で、同じような状態の水夫が見つかった。次に物乞いが見つかり、物乞いの方が仕留めやすいと覚えたのか、その後二人、一晩に一人の割合で物乞いが同じように殺された。犯行は全て九番街に集中している」

 資料によると、血しぶきの痕と血だまりだらけになった倉庫、それに住宅街や商店街の路地裏で、一日に一人ずつ、計五人がスェーミの言う凄惨な状態で発見された。衛兵隊の解剖によれば、その抉った痕というのは獣が持つ鋭い牙などで噛み千切ったもので、死体損壊を行ったのではなく食害の可能性が高いという。更に遺体には頸動脈に丸い一センチメートル程の刺し傷があり、詳細な解剖の結果、犯人は吸血して殺害した後に肉を喰らっているらしいことが分かった。このことからテンプル騎士団は肉食で吸血性の怪物による犯行とみているが、九番街周辺を衛兵隊と合同で調査したものの、その怪物の存在を示唆する確かな痕跡は発見されなかったという。九番街は港があり、沢山の船舶が運航し人の出入りも激しい。そんな環境でもし怪物がいれば直ぐに発見されるはずで、状況的に犯人は人の姿に擬態した怪物とみられている……。その他資料にあるのは五人の遺体が発見された詳細な場所・時間、遺体発見者の氏名、年齢、職業、住まいなど。衛兵隊が設置した捜査本部なども記載されていた。

「めっちゃきしょいわあ…。犯人ってほんまに人に化けた怪物なんかな?」

「分からん。だがそのクソ野郎を探し出して始末をつけるのがオレ達の仕事なんだよ。衛兵隊も動いちゃあいるみたいだが、事件の猟奇性からして奴ら向きじゃねえな」

 怠そうに天井を仰ぎながらスェーミが言う。彼の口ぶりからして、やはり人に化けた怪物が関与した事件と考えているようだ。

「僕たち二人でその犯人を探すんですか?」

 そう問いながら、繰り返しゼクスが推測する。今回の任務で相手にする怪物は、ルーティングテーブルの村に現れたあの肉塊とは違い、異常な方法で人を殺めることを除けば殷賑極まる街の社会に溶け込み普通の生活を送っているとみられる。そんな相手を一体どうやって見つけ出そうというのか?ゼクスの問いは的確なものだったが、スェーミは以下のように大雑把にでしか答えなかった。

「先遣隊がいて、今日見つかった新たな死体とその発見現場の調査をしている。薬を飲んだならもう行くぞ、奴らと合流する」

 その言葉にゼクスも椅子から立ち上がる。苦い薬を飲んでもまだ二日酔いの頭痛はおさまらないし、正直なところ怖くて掌に薄ら汗ばむほどの緊張をしているが、訓練所では教えられていない怪物の登場はいかにも“現場”らしく、彼の女に見間違えられるような美貌にも凛とした強い決意の表情が表れていた。それは偏にスェーミという大先輩の存在が一番強い。ゼクスのスェーミに対する敬慕の情はそれだけ揺るぎないものだった。

 防具類の装備はせず帯剣しただけの二人。堂々と先を歩くスェーミと、まだ落ち着かない様子でその背中を追うゼクスが事務所を出て受付を横切ると、先ほどの受付嬢が呼び止めた。

「スェーミ、伝言です」

「なんだ」

「副長からで、机を整理するように。しっかり食事を摂るように。最後に、支部内の喫煙ルールを守るように……との事です」

 これを聞くとスェーミが大きく溜息をつき、左手は腰に、右手は頭を抱える“本当に困った時のポーズ”をとった。本人からすれば口の五月蝿そうな副長とやらの小言に辟易しているのだろうが、ゼクスの目には、ドライなスェーミがこうして困っている様子が妙に調和して見える。もしかすると、副長の小言に困るスェーミの図は過去に幾度となく繰り返されているのかもしれない。

「行くぞ」

 一方、スェーミは“本当に困った時のポーズ”を解くと、何もなかったかのように先を促した。

 二騎のエントランスを出ると、スェーミとゼクスに再び盛夏の厳しい日差しが降り注ぐ。ゼクスは手を翳すが、スェーミは全く動じることなく、先ほどの警備任務に就く青年騎士に敬礼されながら、どこかへ向かってゆらりゆらりと歩いてゆく。

 ゼクスは眩しさに慣れるとスェーミの隣に並び、今しがたの受付嬢とのやりとりについて興味を抱いたので、彼女について尋ねてみようと考えた。正式な入隊初日、これからスェーミとコンビを組むのだから彼の周りの人間関係を把握したいというのも彼の思うところだ。

「ねえ、スェーミさん。あの受付の人ってどういう人なんですか?」

「受付?ローズの事か」

 ゼクスが腕を組み、うんうん、と頷き納得する。成程、確かに棘のある女性だ。名前は人物を的確に表している。尚、スェーミのローズに対するコメントは、内勤の経歴は長く大変仕事の出来る人物で、支部内の事ならなんでも彼女に聞くと良い、との事だった。ああ見えて案外優しいところもあるらしい。スェーミはローズを肯定的にとらえているようだが、ローズからしてみればスェーミとは色々と悶着があるように思える。人間関係とはなんと難しいものなのだろうか……ゼクスは再び腕を組み、沁々と今後のローズの扱いについて案じた。次にゼクスは自分の上官でもある、伝言を送った副長について問うが、そのうち嫌でも顔を合わせることになる、と控えめで簡単な返答がされた。ローズの時はまさか褒めるといった、彼にしては殊勝な所を見せたというのに。これは何かあると思ったゼクスは、もう少し掘り下げて尋ねてみる。

「そらそうやけど、事前にどういう人か多少は知りたいです。教えてくださいよぉ、スェーミさん」

 上目遣いで更なる副長の情報をねだるゼクスに、スェーミが歩く速度を落とさぬまま睥睨する。よほど副長の話題に触れてほしくないらしいが、間を置いてようやく以下のように答えてくれた。

「他人のメシの事まで首を突っ込みたがるお節介な奴、これでいいだろう」

「えー、それだけですか」

「……」

 無言の威圧によりこれ以上は聞かせてもらえそうにないと感じたゼクスは、副長の話題を締めることにした。それにしてもこの副長、“机を片付けろ“だとか“しっかり食事を摂れ“だとか、伝言の内容がまるで母親のようで、それを聞くスェーミは“本当に困った時のポーズ”をしながらも、小さい子供のようだった。きっと彼は日頃からこの副長にこってり絞られているのだなと思うと、ゼクスはついクスっと笑ってしまった。

 どん。

 よそ見をしていたせいでゼクスはいつの間にか前を歩いていたスェーミの背中にぶつかった。身長差が十センチメートル以上あると体格差も重なって前が見えない。ローブの背には聖イリス教会の紋様が大きく描かれているが、これではまるでその壁だ。

「わっ。すみません」

「ぼさっとするな。馬車に轢かれてえのか」

 ちょうど前の通りをガラガラと音を立てて駅馬車が通過して行く。御者、乗客の身なりの良い夫婦、護衛らしき帯剣した男二人の順で目に入り、それが通り過ぎると再びスェーミが無言で歩き出す。どうも副長についてしつこく尋ねたせいか、いつもの彼にすっかり戻っている。

「スェーミさん、どこに向かってるんですか?」

「三番街の幹線通りだ。そこで辻馬車を拾う」

 どの番数街も幹線通りは多くの馬車が運行しているが、特に辻馬車が盛んだ。辻馬車は運賃を払えば指定した場所へ移動出来る街や個人の有料サービスで、平民でそれほど裕福な世帯でなくとも利用されており、裕福な世帯は馬車の装飾や乗り心地をグレードアップしたものを選び乗車している。尚、テンプル騎士は教会の命により任務にあたっているため運賃の支払いは免除されていて、そうなると辻馬車側の収益が減ることになるようだが、実は教会から一定額の給付金が支給されているため、過去に彼らの蓄積された鬱憤が爆発したことはまだない。因みに街の治安維持を担う衛兵隊は、組織性のある展開と機動力を重視するため独自で所有する馬車がある。円形の街ヴィリエに住む者達にとって、馬車は単なる移動手段だけでなく物流や戦闘用の騎馬、或いは儀式的な要素の一つとして、時にはステイタスとして様々な面で関わりを持っているのだ。またこれから二人が乗車しようとしている辻馬車と先日のルーティングテーブルの村へ向かう時に乗車していた馬車とでは、乗用と貨物用との違いから当然その乗り心地は大きく異なる。同村への旅で二人が乗車した馬車は、荷馬車という特性上、積荷や車輌の床をベッド替わりにしたり寄りかかったりして過ごしていた。その時のゼクスの感想は、“固い”の一言。付け足すならば意外に揺れもあり、乗車環境の悪さはなかなか慣れるものではなかった。

 孤児でありながら都会っ子のゼクスが辻馬車に乗るのは、上流階級さながらの生活を模倣するのに一番近いものとして、幹線通りを歩く度に憧憬の眼差しを送ったものだが、その辻馬車にこれから乗る。彼の性格を考慮すれば抑え難い気分の高鳴りを覚えるのは必定というもので、それを直ぐに察知したスェーミは仏頂面ではあるが、穏やかな口調で若きお調子者の後輩に伝えるのだった。

「この格好なら乗りたい放題だぜ。ウザってえ人混みも避けられるし、便利快適なことこの上ない。お前も早く活用出来るようになるんだな」

「はい!」

 そうこうしている内にスェーミとゼクスが幹線通りに到着した。通りは迫る感謝祭の為の装飾が開始されていて、先ずは垂れ幕からなのか、通りを挟む建物の二階からは幅一メートルほどの幕が垂れ下がっていた。デザインもヴィリエ常駐テンプル騎士団正式装備にそっくりで、紺色の生地に茨を模した金襴生地で縁取り、朱色で聖イリス教会の紋様が描かれている。この垂れ幕が等間隔で通りの前も後ろもずっと先まで垂れ下がっている様は、見知ったはずの通りなのに壮観たる眺めだ。

 幹線通りの両端には真ん中の馬車道と縁石で区切られた歩道帯があって、そこは多くの平民やイリス教徒が歩いて混雑している。スェーミが辻馬車を利用するのも頷けるというものだが、辻馬車を拾うと言いながら彼はイリス教徒の集団を右に左に避けて、物乞いが請うのも無視して歩き続ける。スェーミなりに何か考えがあっての事なのだろうが、無口であったり秘密主義であったりする点が、いざコンビを組むとなるとゼクスにとって苦労の種となりそうだった。

「ねえ、スェーミさん。辻馬車ならそこら辺にたくさんありますよ?」

「……」

 返答がないので、仕方なくゼクスはスェーミの歩く度に揺れ動くローブの縁を見ながらついて行く。縁は時折ギザギザになって傷んでいる箇所も見られ、折角の金蘭生地が無惨なものになっている。本人は不要だと突っ撥ねるだろうが、機会があれば修繕してあげないとな、と思う。そこで今度は自分の縁はどうなっているのか歩きながら摘んで見てみる。予想通り一部のほつれも無い金襴生地の輝きがあるのを見て、ゼクスはえへへ、と満面の笑みを浮かべた。何せ孤児院でのみすぼらしい布の服、訓練所での修道服と違って、今はテンプル騎士の制式装備という出で立ち。スェーミがどこへ向かっているのかは気になるけれど、住み慣れたこの街がまるで別の世界のようで、もし煩わしくイリス教徒に祈りを捧げましょう、などと頼まれても喜んで応じるようなこの高揚した気分はなかなかおさまりそうになく、二騎に向かっていた時とは違い、ゼクスはとても誇らしげな気持ちで街を歩いた。

 前を歩いていたスェーミが突然幹線通りの馬車道を横切る。ゼクスもそれに続き、二人は反対側の歩道にある、フラワーショップの看板の前で立ち止まる。軒先の什器に並んだ鉢植えには青い花々が植えられていて、それらは空の色と合わさりとても鮮やかに見えた。店内にも様々な植物が販売されていて、こういった商品を陳列する店のセンスも目を見張るものがあり、花のことはからっきしなゼクスでも心を和ませる。日影で腕を組み壁に寄りかかるスェーミとフラワーショップで物色するゼクスは、その場所で各々待機した。

 十分程だろうか。一台の辻馬車が近くにやって来て停車すると、スェーミがその馬車に歩み寄った。

「ようよう。今日も暑いなぁ」

 御者が乗車したまま馴れ馴れしくスェーミに話しかける。嗄れ声だというのに、幹線通りの喧騒でも何故かよく聞こえた。

「それにしちゃあ涼しげだな?」

「まぁね。なんたってお馬さんが風切ってくれるからさぁ」

 どうやらスェーミはこの御者に用があるらしく、慣れた手つきで深緑色に塗装された木製のドアを開けると、ゼクスに乗り込むよう親指を乗車スペースに向けて指示した。ゼクスが慌てて乗り込んだ後にスェーミ自身も乗ると、九番街だ、と短く御者に伝える。

「あいよぉっ」

 御者の威勢の良い声と共に馬車が走り出す。辻馬車は個人所有のものなら大きさも形も違い、スェーミとゼクスが乗り込んだ辻馬車は御者台と車内が同じくらいの高さで、御者台の下には乗車賃を保管する金庫が、上には雨避けの油引きした革製の幌がある。車内と御者台の間には両開きの小窓があってそれが仕切りになっているが、夏場はほぼ解放状態だ。

 さてこの辻馬車、ルーティングテーブルの村へ向かっていた時の荷馬車よりも軽量な上に同じく二頭の馬が引くので、スピードがぐんぐん上がってゆく。しかも開かれた仕切り窓と御者の背中を通して、二頭の鹿毛馬が走る姿が見える。ゼクスにとって馬のような大型動物の躍然たる姿をこれほど近くで見るのは初めてだった。

「乗り心地はどうだ」

 尋ねるスェーミは前を見たまま座席に深く腰を下ろし足を組んで寛いでいる様子だが、ゼクスはそれどころではない。外から入り込む風、それに車内に施されたドルテクノロジーの冷却装置と装備品の魔法効果によりちょうど良い按配で涼しいし、加えてこの座席シートの座り心地といったらない 。ふかふかしていて、座席にするには勿体ない素材なのではなかろうか。隣のスェーミが退きさえすれば、横になって昼寝でもしたくなりそうだ。

 辻馬車の感想を聞かれたゼクスが風に靡くブロンドの髪を直しながら、すこし遅れ気味に爽快といった心地で感想を述べる。

「辻馬車ってめっちゃ早いんやねえ。風も気持ちええわぁ」

 白い歯を見せながら言うゼクスをちらりと横目で見たスェーミが、誰にも分からないような小さい小さい笑みをそっと浮かべる。その貴重な笑みは、昨夜のバーで彼を見守っていた時と同じで優しいものだった。

「スェーミ、いつからそんな若い娘を引っ掛けたんだぁ?」

 御者が手綱を引きつつチラチラと背後を見ながら言う。また性別を間違えられてしまったゼクスだが、目にうつるもの全てが早く動いてゆくこの体験を前にして、耳に入っていない。一方スェーミは御者の問いを無視し、ポケットをじゃらじゃらといわせながら銀貨を四枚、小窓から差し出した。

「ほら、受け取れ」

「お、悪いねえ」

 御者が銀貨を見てにやにやと邪な笑みを浮かべた後、遠慮なくそれを受け取る。この様子から、日頃二人がこうして金銭のやり取りをしているのは明白で、新人のゼクスからすればどう見ても異常な光景だった。

「ええっ。スェーミさん、教会は賄賂を禁じてるハズじゃあ…」

 ゼクスが非難めいた発言をするも、スェーミは仏頂面のまま前を見た状態で、御者も何事も無かったように運転している。次第にゼクスがこの車内で今行われた事に、教会の許可を得られた正常なものなのではあるまいかと錯覚してきたところで、面白そうに御者が言う。

「お堅いねえ、お嬢さん。の方もお堅いのかい?」

「はあ?」

 車内に吹き込む風は気持ちいいが、御者の軽薄で人を小馬鹿にするような態度には若いゼクスが腹を立てずにいられなかった。御者はこういう激情に駆られる客、特に女性を相手取って面白おかしく話しかける癖があるらしく、時に危険な橋を渡る事もあればオイシイ思いをしていた。

 そんな御者をゼクスが観察する。

 薄汚れたグレーのハットをかぶり黄ばんだ白いシャツを腕まくりしている。こちらへ振り向く度に見せる、いくつも開けられたボタンのシャツからは広く胸元が露出していて、そこからはもじゃもじゃした体毛と金のネックレスが見える。口髭は薄いが顎髭はにょきっと伸ばした、何処にでもいるような人相の痩せた中年の男。だが目は油断ならぬ眼光を放っていて、もしかすると軽薄な態度は人を欺くための仮の姿なのかもしれない。ゼクスはそうまとめると、御者には注意を払うことにした。

「彼氏はいるのかい」

 注意すべき人物として心に決めた直後の御者による唐突で的外れの質問に、ゼクスは呆気に取られひとまず否定する事しか出来なかった。

「おるわけないやろ」

「それは寂しいだろうに。世の男連中が女を見る目がないか、高嶺の花だってんでビビってやがるんだろうな。あっはっは」

「あのねえ、おっちゃん。僕は――」

 男だ。ゼクスが仕切り窓まで身を乗り出してそう言おうとした瞬間、馬車に制動がかかった。慣性の法則が働き危険な体勢となるが、スェーミが素早く反応し腕を掴んだため、幸い車外に飛び出すような事には至らなかった。

「おっと。どうどう」

 襤褸を着たイリス教徒の母子がこちらにお辞儀をしながら横切ってゆく。子供はまだ幼く、母と手を繋ぎ歩いている。どうやら歩行者は無事だったようだ。

「何処見て運転しとんねん。危ないやろ!」

「あっはっは、悪い悪い」

 御者の奇癖は例に漏れずゼクスの容姿と直ぐに感情的になる性格も目がないようで、スェーミにしては相方の精神的な未熟さや外見が今後仕事のやりづらさをもたらすのは間違いなかった。現に危険な目に遭って助けてくれたスェーミへ礼を言うのを忘れている。

「ときにお嬢さん、テンプル騎士になってどのくらい経つ?」

「きょ…昨日からや」

 御者はゼクスの返答から今日から入隊したのが真実なのに昨日から入隊した、と一日鯖を読んだことを察する。次に一日でもテンプル騎士としての経歴があると思わせたいゼクスの窮策に失笑しそうになる御者だが、それは彼の名誉に関わるとして何とか堪えた。

 五番街に差しかかってもこうしてゼクスと御者の野卑滑稽な会話が続くので、流石に辟易したのか、ずっと黙っていたスェーミが珍しい客人にいちいちちょっかいを出す御者に注意を促し、ゼクスにもお前は黙っていろ、と釘を刺す。つまらぬ茶番の仲裁役にならざるを得なかったスェーミが、本当に辟易としていたり関心や執着を持っていなかったのかはその場の誰もが分からなかったけれど、渡した銀貨の対価を要求するところから彼が仕事について考えていたのは確かなようだった。

「こいつの事はもう放っておけ。それよりオレ達は九番街に向かっているんだ、こちらの聞きたい事は分かってんだろう」

 抑揚の無い声で言うスェーミに対し、横断する歩行者らのために徐行しながら御者が答える。

「はいはい、仕事熱心だなあスェーミは。その前に新しいお客さんも出来たことだし自己紹介だ。俺はチャベス、見ての通りしがない辻馬車の御者さ」

 運転中なので背は向けているが、チャベスと名乗る御者が親指を自身に向けて胸を張り自己紹介をする。これへ付け加えるようにスェーミが言った。

「情報屋っていうのが抜けてるぞ」

「“情報屋”さん…ですか」

 スェーミがゼクスに説明する。

 チャベスはテンプル騎士団非公認の情報屋で、辻馬車の御者を表向きの職業としながら情報を集め、それを売買して生活を補っている個人の情報屋だ。テンプル騎士団非公認ということは当然教会非公認であるため、彼の情報は眉唾ものとされている。ただ二騎に限り彼を公認としている。それは何故かというと――。

「オレがこいつの情報を元に仕事をする時があるからな」

 とりたててなんでもない事のように言うスェーミに、チャベスがははっ、と笑った。二人の様子からどうも長い付き合いであるらしい。

「非公認の情報屋を、ですか?」

 大きな目と長い睫毛をぱちぱちとさせてゼクスが問う。これに対しスェーミがやはり変わらぬ調子で淡々と答えた。

「マスコミのように得られた情報を不特定多数の人間に発信するのとは違い、こいつは裏の情報屋だ。表向きの仕事を利用して色んな奴と接触しながら、信用の出来る人間だけに情報の売買をしてんのさ」

 “裏の情報屋”。

 ゼクスはこういうアウトローでアングラなものに憧れていて、チャベスに関してはいけ好かないものの、非日常として見ていたものがこれからスェーミを通じて日常として触れることに内心歓喜した。だがふと彼は思うのである。チャベスは非公認の情報屋で、スェーミはテンプル騎士で、もしこれが発覚した場合、色々とまずいのではなかろうかと。それに裏の世界に関わると、闇に葬られる可能性だって考えられる……。そんな事を怖々と話すと、スェーミには芝居の観過ぎだとコメントが、チャベスには馬車上でなければ言葉通り抱腹絶倒したことだろう。彼らの言によれば先ず処罰される可能性は非常に低いのだとか。というのも、非公認とはいうが禁じている訳ではなく、実際はこの解釈によって教会関係者も彼ら裏の情報屋を利用しているのである。また情報屋のような裏家業の人間が、闇に葬られるように廃業することはあっても、殺されるなんていう話はなかなか聞かないらしい。情報屋をはじめとする裏家業の者達とそれを利用する者。持ちつ持たれつつの関係を、この円形の街ヴィリエのように循環しているのだ。

「そういう事。俺の事を覚えておいてね、お嬢さん」

 そう言ってウヒヒと鄙猥な笑みを浮かべるチャベスとは対称的に、今度のゼクスはジットリと軽蔑、それに不審の意が込められた眼差しを向けるだけ。スェーミに言われた通りゼクスは黙して語らずにいたので、やっと本題の九番街で起きた連続殺人事件についての話に移った。

「一人目の被害者、漁夫の件はどの程度知ってる?」

「漁夫の簡単な身の上話、それに死体の状態と発見時間。あとは発見者とその情報だ」

 無表情・無感動で答えるスェーミに、Y字型サスペンダーの位置を直しながらチャベスが呆れたように言う。

「なんだい、そりゃ。殆ど初動捜査の情報じゃないか」

「オレ達は昨日帰ってきたばかりなんだぜ。この件についてよく知らないのは当然だろう」

「全く、ヤバい事件に首を突っ込もうとしているのによくそんな調子でいられるな」

 チャベスが前を走行する辻馬車を追い越しながら、声のトーンを落として語り始める。そこから得られた新しい情報は次の通り。

 一、一人目の被害者を主とした被害者達の詳しい死体の状況。

 二、二人目と三人目の被害者の、最後の目撃情報。

 三、容疑者の逮捕。

 四、衛兵隊とその他の動向。

「ちょっと待て。犯人は見つかったのか?」

 流石のスェーミも訝しげな顔をして質す 。チャベスはというと、前を向いているので表情は分からない。だが声の感じからして彼も不可解に感じているようだった。

「……らしいんだが、まあ、順を追って説明するからさ」

 チャベスの説明の前に、先ず衛兵隊について知っておく必要があるだろう。テンプル騎士団が教会によって組織されたのに対し、衛兵隊はヴィリエなどの領地を統括する本国の軍によって組織された。したがって超法規的措置を除きヴィリエの行政が直接指揮命令することはなく、あくまで本国の軍の命令に従って動く。衛兵隊の拠点が中心街にあることは前述した通りだが、その正式名称をヴィリエ守衛監督局(以後、局)という。局はヴィリエ全体の治安維持を担っているが、その対置として三つの隊を組織し、それぞれ管轄区域を持たせることで街の隅々までに治安の目を行き届けさせ、且つ滞りなく情報伝達をできるようにしている。これが衛兵隊である。呼称は専ら“衛兵隊”であり、この時、局・衛兵隊を含めての意味を指す。衛兵隊は局の連絡・指示に従って動き、反対に局は衛兵隊によって得られた情報により、次なる連絡・指示を出す。局には検察部があって、検事には公訴権が与えられている。衛兵隊の管理が及ばぬ場所での刑事事件については、例外的に二騎の隊員にも衛兵隊同様の権利を与えられている。これは教会と本国との取り決めによるもので、互いの権利の行使によって被疑者や被告人に不当な処分が生じないようにしなければならないとしている。ヴィリエの大概の事件は衛兵隊が扱うが、今回のような重大事件と目されるものに関しては局自ら割って入ることもある。衛兵隊は主に一般の平民らによって構成された者達だが、局は本国の士官学校出といった、とりわけ裕福であったり教養のある者達で構成されている。

 さて、その衛兵隊による最初の被害者の解剖結果によれば、死亡したのは五日前の深夜から未明にかけて。遺体からは大量のアルコールが検出され、被害に遭う前は泥酔状態だったと思われる。従って犯人に突然襲われてもそれほど抵抗出来なかったのではあるまいか。遺体はほぼ全身の肉が抉るように噛みちぎられ当初誰のものか判明出来ずにいたが、ある漁船で点呼時間となっても現れぬ者がおり、遺体に残された僅かな身体的特徴から、遺体の主がその漁夫であると断定された。また漁夫の死因は失血死だという。そこで浮かび上がったのが頸動脈にある丸い刺し傷だが、遺体の損傷が激しく頭部が胴体から引きちぎられた状態であったため、漁夫だけ刺し傷を確認出来なかった。この後の四人の被害者と同じで漁夫も頸動脈に刺し傷があったと仮定して、犯人は同一で且つ血液に何らかの執着を持っているとした上で、テンプル騎士団は“犯人は怪物で血液を吸いその後食した”としているのに対し、衛兵隊は“犯人は人間で血液を抜き取りその後食した”と、血液に関する見解が分かれている。犯人は血液を吸っているか、抜き取っていると考えられているが、その用途は不明。勿論、頸動脈の刺し傷に関してどのようなもので出来たのかも不明。犯人が同一なら一日に一人ずつ、五人も殺害していることになり、非常に凶悪である。この殺人鬼を一刻も早く見つけなくてはならないが、手掛かりは依然掴めていない。また凶悪犯というイメージが強く忘れがちとなっているが、最初の被害者である漁夫は当直勤務で、倉庫は施錠された状態だった。つまり死体発見現場は密室で、犯人は密室から姿を消したのだ。倉庫内には潜伏したり他に外へ脱出する場所は無く、犯人は煙のように姿を消したのである。いや、そもそも犯人が施錠された場所にどこからどうやって来たのかも分かっていない。

 ところで倉庫は密室であると述べたが、厳密にはそうではない。この倉庫は地上四階建ての高さで、その天井の近くには窓がある。窓はガラスなどがはめ込んでおらず、大人が出入りできる程度の大きさ。興味深いことに被害者のものらしき血痕も発見されており、状況からして犯人はこの窓から逃走したと考えられるのだが、何せ地上四階建ての天井付近にある窓だ。現場は遺体があるだけで、何らかの道具を用いた状況は認められなかった。

 これらの事は、容疑者の逮捕で全てうやむやのままの状態だ。

「それにしても…酩酊して千鳥足で歩いとったらぶすーっ、ですか。おちおち外を歩けへんなあ」

 初動捜査の資料と合わせてチャベスの話を聞き、ゼクスが眉を顰める。その気持ちは他の二人も同じだった。

 血を入手するための殺人なのか。

 食事のための殺人なのか。

 それとも両方?

 三人の間に不気味な雰囲気が漂う中、チャベスが死体について語る。

「死体を食いちぎった痕だが、歯形からして“人間と同じくらいの大きさの獣”ではないかって話だ。全く馬鹿らしいったらないさ、そんな化け物が九番街を闊歩しているとでもいうのかねえ。人間が失血死する血の量を考えて、殺される時のことを想像してみろよ」

 ゼクスが訓練所で教えられた、人体と血液の関係について思い出す。先ず、体重五十キログラムの人間にはおよそ四リットル程度の血液が流れている。失血により心停止となるには、半分の血液が失われなければいけない。頸動脈を切り裂かれ失血死に至る時間は十二秒ほど。

 これを考慮すると犯人は、先ず頸動脈に何かを突き刺した瞬間、凄まじい勢いで噴出する血液を吸うか抜き取るかして、やがて被害者が死亡するとその肉を喰らった。犯人は噴出する血液の全てを回収出来なかったと思われ、真っ赤に染まるほどの返り血を浴びた状態で逃走したとみられる。だが九番街の夜の賑わいを考慮すれば血まみれの怪物が歩いていれば見つかる筈で、見つかれば当然大騒ぎだ。チャベスの言うように怪物による仕業とは考えにくい。だがそれは人間も同様ではなかろうか……。

 こうして殺人の風景を考えるのはぞぉっと身震いがする。特に死肉を喰らうという行為は本能的に恐怖させるものがあるが、なによりゼクスを恐怖させたのは、犯人が鋭い牙を持ち且つ血液に執着する獰猛で残忍、狂気の怪物でありながら、犯行現場から忽然と姿を消す知恵または能力を持っているという事だ。犯人は衛兵隊とテンプル騎士団の懸命な捜査を嘲笑うかのように殺人を犯す、狡知に長けた恐るべき敵なのである。

「それで犯人の動機なんだけどよ、何せ死体が死体だから化け物の仕業とも、邪教徒やイカれた趣味の野郎による仕業とも見て取れるし判然としないんだ。まあ逆に考えれば、そもそも犯人が分からないんだから殺しの動機なんて分かる訳もないよな」

 衛兵隊はその動機の観点から被害者の漁夫と水夫を殺害した犯人の洗い出したものの、挙げられる犯人の候補は職場の同僚が多かった。被害者は海に出て仕事をする人間であり、犯人がその同僚であるならば陸から遠く離れた沖で殺害した方が圧倒的に効率が良い。何故なら、殺害後に一番処理の困る死体は海に捨てれば良いのだから。死体が無いという事は、死んでいるのかどうかも分からない。死んでいるかどうかも分からないのであるならばテンプル騎士団や衛兵隊が捜査に乗り出すことはしない。わざわざ陸地で殺害する必要が無いのだ。他に殺害された三人の物乞いに関しては、その流動的な人間関係から殆ど洗い出しが進まなかった。いつ、どこで、誰が彼らを殺害してもおかしくなく、それだけ彼らの存在を気に留める者は少ないのだ。

 チャベスが続ける。

「それで九番街じゃあ、どいつが犯人か分からねえってんで、お互いが疑心暗鬼になって外にもあまり出歩かない。そのうちあそこだけゴーストタウンみたいになるんじゃないか?」

 ここまで聞いて、ゼクスは心の中で舌打ちをした。彼としては犯人の動機や九番街の現在の状況といった話などどうでも良いのだ。もっとこう、直接犯人の手がかりとなる情報が欲しいのである。シンプルに犯人を確保、若しくは命を奪いさえすればこの連続殺人事件は解決するのだから。テンプル騎士になったばかりのゼクスが功を焦るという事は無かったが、この時短絡的で慎重さを欠いていた彼は思ったことをそのまま発言してしまうのだった。

「おっちゃん、犯行に及んだ動機なんて聞きたないねん。僕達はズバリ犯人はこいつやー!…っちゅうのを聞きたいねん」

 ゼクスの発言に対するチャベスの反応は、これまでの軽薄な態度からは想像もつかない、意外なものだった。

「チッチッチッ、甘い甘い。いいかい、こういう訳の分からん事件は、捜査の過程で浮かび上がる有力な情報やデータに間違いがないか裏付けをするっていう作業を繰り返し、それを集約させる。そこで集まった結果が真実で、その真実に応じて動かないといけなのさ。つまり焦っちゃダメって事」

「は、はあ…」

 これはゼクスにとって耳の痛い話だった。それに本来ならばスェーミが指導しなければならない内容を情報屋、それも非公式扱いの者に教えられるなんて、なんだかむず痒いような思いもした。けれどもチャベスの言う事は訓練所の老教官より受けた指導と一致するものであり、なるほど、訓練所で教えられることは間違っていないのかと当たり前のことをここで実感することになる。それにしてもゼクスにとって意外に思ったのは、教会が設立したプロのテンプル騎士を養成する訓練所の教えを情報屋の男が語るということだ。きっと情報屋などという裏稼業に生きる者というのは独特な五感の働きをするのだろう。例えば視覚ならば相手が何を思い考えているのかを見破る慧眼を持っていたり、聴覚なら異常な音やどんな小さな音でも鋭敏に察知出来るように研ぎ澄まされていたり。だがチャベスの言うような捜査をするには組織力が要るし、資料によると衛兵隊はかなりの人数を動員して捜査にあたっている。それにもかかわらず満足な結果が得られず、チャベスのような裏の情報屋を利用しているのではないか。

 居心地の悪くなったゼクスがチャベスに続きを促す。馬車は六番街を出て少しの辺りだった。

「ええと、目撃情報だな。これについてなんだが、実は容疑者の逮捕と連動した話なんだ」

「どういう事だ」

 スェーミがドアのでっぱりに肘をつき視線を歩道帯に移しながら問う。歩道帯はヴィリエの平民、イリス教徒で溢れ、その中に紛れて衛兵隊員が立哨警備をしている。営業している飲食店や露店、物品店は何処も盛況そうだ。

「二人目の被害者と三人目の被害者の、最後の目撃者。それと今回捕まった容疑者は同一人物なんだよ」

「ようある話やわ。もうそいつが犯人でええんちゃうん?」

 ゼクスが靡く髪を直しながらつまらなそうに言い捨てる。そんな様子がチャベスにはよほどおかしかったのか、彼は声を上げて笑った。

「あっはっは、そいつぁ~厳しいねぇ。でも衛兵隊はその線で証拠集めに腐心しているんだとさ。だから最後の目撃情報とやらは聴取していないらしい」

「その不憫な奴と面会は出来ないか?」

 気怠そうなスェーミの問いにチャベスは首を振る。

「無理だろうな。この件はテンプル騎士団の出番はない、とでも言いたいかのように衛兵隊がガッチリ固めている。五つの発見現場も見れるかどうかってところだ」

 テンプル騎士団と衛兵隊の役目は二重している部分があるため、こうして勢力争いのような事がしばしば行われている。勿論スェーミが衛兵隊との不和に興味関心が無いのは間違いないが、組織同士のぶつかり合い故に一個人の彼にはどうする事も出来ず、切歯扼腕、仕事のやりづらさを与えている要因の一つであることもまた疑いようのない事だった。因みにテンプル騎士団の捜査が加わったのはスェーミの睨んだとおり死体の状態があまりに異常だったから。衛兵隊によるテンプル騎士団との合同捜査依頼は最初の遺体が発見されて二日目の夜、つまり二人目の遺体が発見されてからだ。

「何故そんなに出たがる?人手不足なのは奴らとて同じだろう」

 スェーミの問いに一呼吸置いて、そこが面白いところなんだけどよ、とチャベスが長い顎髭をなぞってニヤリと笑う。スェーミの経験上、彼の“面白い”は面白くない。

「今回の事件が、二人目の被害者を出した時に子爵の耳に入ったんだよ。それで局に厳命した訳さ、何がなんでも犯人を捕らえろって」

 チャベスが自分の頭に両手の人差し指を立てる。典型的な悪魔の姿を見立てた様子から、子爵が怒っている、ということか。

「マルセル子爵がそないに怒るって、なんでやろ?」

 ゼクスが考える。

 九番街はヴィリエのいわば海の玄関口。ということは、そんな化け物だか連続殺人犯だかがいるような物騒な場所とは誰も貿易をしたがらない。それに、海を渡ってはるばるやって来る政府の要人や賓客だって九番街の港にやって来る。彼らが万一襲われたり殺害されたとなれば、外交問題に発展するやもしれない……。それがゼクスの考えた事だが、こと子爵となれば、民衆には及ばぬ理由だってあるはず。そこが、チャベスの言う“面白い”所なのだった。

「知ってたか?このヴィリエにパトリーキイ枢機卿が来るって」

「猊下が!?」

 瞠目するゼクスに気を良くしたチャベスが話すところによれば、ヴィリエは聖イリス教会第二の拠点とされているのに対し教会の要人が一度も訪問した事がなく、今回の女神イリス感謝祭に伴い聖遺物・トゥインドイスフの鏡の拝跪をするためパトリーキイ枢機卿のヴィリエ訪問が決まったらしい。枢機卿自らがヴィリエを訪問し拝跪するという事は、民衆の間で広まる鏡の神格化を、聖イリス教会のトップで現教皇アシュロアが正式に神格化する事を認めた事と同義であると言ってよい。加えてこの決定は、ヴィリエが人類の築いた名だたる都市の中でも、女神(の化身)が鎮座する、まことの京邑と示すものである。子爵としては枢機卿がやって来るということで、ゼクスの考えた通り少しでも治安の良い街であると見せたい狙いもあるし、聖職者の要人を迎えるにあたり感謝祭で毎度のお祭り騒ぎを起こすのでなく、神聖な行事だという事を民衆に理解・浸透させていると顧慮するものもある。ともかく“京邑ヴィリエ”の領主となるビッグチャンスを確実なものにしようとして、子爵が苛立ち攻撃的になっているのは間違いない。

「最後に、“敏腕捜査官”も捜査に参加しているぞ」

 これを聞いて今度はスェーミが眉を顰める番だった。

「何……まさかヨアヒム?奴も首を突っ込んでやがるのか」

 スェーミがヨアヒム捜査官について思考を巡らす。

 彼は没落した貴族の出身で、次男。少年の頃、本国の先行きを案じた父の計らいにより、母と共にヴィリエにやってきた。兄は怪物に占領された土地を奪還すべく組織された本国の遠征軍に所属し、戦況思わしくない中で戦いを続ける兵士。一族再起に燃える兄と違って弟のヨアヒムは興味が無く、移住先であるヴィリエの衛兵隊に入隊する。勇猛で正義感があるのは兄弟揃った特徴だが、凡人の兄と違って有智高才のヨアヒムはあれよあれよという間に局勤めとなり、それから局次長を補佐する次長補捜査官までになった。スェーミが最後に彼と会った記憶はまだ新しく、ルーティングテーブルの村へ行くことが決まる直前だった。

「そう、ヨアヒムさ。敏腕捜査官とベテランテンプル騎士の対決、面白そうじゃないか」

「あっはっは、なんか小説みたいな展開やな。スェーミさん、頑張って!」

 親指を立てて鼓舞するゼクスの頭を、お前もやるんだよ、とスェーミが小突く。その様子を後目に、チャベスが今までの雰囲気とは打って変わってしんみり言うのだった。

「今回は敵の正体が分からんばかりか、厄介な衛兵隊、それに政治も動いている。気を付けた方がいいぞ」

 ………

 チャベスの馬車を降りたスェーミとゼクス。二人の眼前に広がる九番街の幹線通りは、三番街と比べると歴然と人通りが少ない。人は疎ら、その疎らな通行人も足早に移動している。正体不明の連続殺人犯に怯えてのことだろう。勿論、九番街として働きかけている事もある。現に街の掲示板には連続殺人事件の旨と、夜間の外出を控え、なるべく二人以上で行動するように注意を呼びかける張り紙がされている。

 九番街は船の往来と人の出入りが盛んで活気のある場所だけでなく、潮の香りと砂浜から見える風光明媚な陸繋砂州の島々、それにサンセットは観光客に好評であり、街の商工会による幹線通りの植樹、計画的且つ芸術的に建てられた住宅街は白い外壁に橙色の屋根で統一し、住宅街でありながら彎曲した勾配のある斜面には独自に発展する商店街が並ぶ。また八番街寄りの自然海岸や礫浜では海浜植物が群生し、自然環境がそのまま保全されている。

 ……このように九番街とは自然と人工物の調和が見事に合わさった美しい街並みなのに、それらを踏みにじるようにして出現した見えざる敵、連続殺人犯は一体どこで何をしているのだろう?人々の恐れ慄く様を見てほくそ笑んでいるのだろうか?それとも、次の標的を探しにどこかを歩いているのだろうか?

「僕、こないに寂しい九番街を見るの初めてやわ」

 隣で呟くゼクスの言葉に、スェーミは何を考えているのか分からない目が虚空を睨むようになったがそれも束の間、さっさと彼は歩き出した。

「あ、スェーミさん。どこへ行きます?」

「捜査本部だ」

 スェーミの机で斜め読みした資料の内容が瞬時にゼクスの頭に浮かぶ。衛兵隊は死体発見現場から比較的近く、且つ拠点となる建物を一時的に徴発した。それが埠頭の近くにある海運局事務所である。一般的には海運局と略される。海運局では往来する船舶の出入管理、積荷管理、運行計画管理、免許交付等々、海に関する業務の一手を担い、海からヴィリエに訪れた者達が必ず通る場所だ。元々衛兵隊の管理下にあったが海路の発達と船舶の性能向上、そして怪物の脅威が薄くなった結果、現在はヴィリエの行政に管理を移譲され、中には民間委託までされている業務もある。また海運局の通りを隔てた所に、木造二階建てのヴィリエ常駐テンプル騎士団第四騎士隊(四騎)の支部がある。彼らの役目は、二騎が陸の“外回り”なら四騎は海の“外回り”。つまり離島防衛や船舶を利用しての怪物退治専門で、他には密航した異教徒の処置、衛兵隊と協力しての海上警備など。隊員数は五十五名で四つの支部の中では下から二番目の人員数。尚、今回の事件に関しては管轄外として、彼らは拱手傍観の姿勢をとっている。

 スェーミとゼクスが海運局の前にやって来た。

 黒の御影石で出来た外壁正面には、同じ材質の石看板で“海運局事務所”とある。普段ならば人の列が出来るほどの盛況ぶりを見せるこの場所も、今は指を追って数える程度の人が出入りしているのが物悲しい。正門からの敷地は菱形の石が石畳となって敷き詰められ、それがアーガイルチェックを模してエントランスまで続いている。防錆加工が施された蔓植物を模したであろう豪華な鋳造門の周囲には衛兵隊の見張りがおらず、二人は邪魔されることなく海運局のエントランスに入った。

 スェーミは灰色を基調とした大理石のエントランスにも見張りがいないのを確認すると、普段のゆらりゆらりした歩き方から、肩で風を切るような威風堂々たる歩き方に変えた。潮風によって茶色くシミになってしまっている大理石の床をカツ、カツ、とブーツの踵で音をいわせ、それに合わせてローブが揺れる。彼の茫洋たる目が見る場所はたったひとつ。エントランスの先にある事務所の、更に奥にあるドアだ。きっとその先に衛兵隊が徴発した捜査本部がある。

 ところで、チャベスの話ではこの事件は衛兵隊が実質執り仕切っており、テンプル騎士団が介入するのは難しいとの事だった。しかもヨアヒム捜査官が現れたのが確かなら、局の者が直々に捜査指揮を執っている事も意味している。そこでゼクスは一体どうやって捜査に加わるのか、凛とした何の躊躇いもない姿勢のスェーミに問う。彼のことだから何かしら策があるに違いないのだろうが、ゼクスもテンプル騎士団と衛兵隊のどこか穏やかでない空気は感じ取っていて、これから起こるであろう紛擾、それに対するスェーミの行動が破天荒なものでないか疑懼の念を抱かざるを得なくなっているのだ。

「通常なら門前払いされてお終いだろうな」

 前を見て歩きながらスェーミが答える。不安になればなるほど、何故か彼のぶっきらぼうな態度が頼り思えるから不思議だ。だが不安は完全には払拭されない。

「通常なら?あの……僕はどないしたらええですか」

「黙って見ていろ」

 スェーミとゼクスの姿を確認した海運局の窓口業務の女数名が、あっ、と驚いた顔になる。中には思わず立ち上がる者も。スェーミとその後を早足で追うゼクスはそんな事を気にすることなく真っ直ぐに関係者以外の立ち入りを禁じる、奥のドアへと進んだ。ドアを開けると直線状の廊下と左右に四つずつのドアがある。そのまま真っ直ぐ進んで最奥右手にある、警備中の衛兵隊員がいる場所へ向かって歩くが、ドアの前では衛兵隊員の他に二名のテンプル騎士がいて何やら揉めていた。

「よう」

 スェーミが声をかけると二人のテンプル騎士が向き直る。一人は口髭と顎髭を蓄えた白髪混じりの強面の男で、堂々とした様子からかなりの経験を積んだと思しき騎士。もう一人はその相方なのか、眼鏡をかけてひょろりと細く、どこかおどおどした様子の青年騎士。“外回り”のテンプル騎士よりは修道士として教会に従事した方が良さそうな男である。

「おおスェーミ、来たか」

 二人は本件の先遣隊で、しかも彼らだけで初動捜査を行っていたらしい。これはゼクスからしては想定外で、凶悪事件の捜査であることだし、先遣隊などというからもっと人手があるかと思っていたのだ。経験の浅いゼクスはこれから何が起こるのか改めて憂懼したが、そんな彼の心境など知らず、スェーミと強面の騎士とで話が進む。

「何かあったのか?」

「ああ。衛兵隊が突然我々テンプル騎士を締め出したのだ。後はこちらでやる、と一方的にな」

 強面の騎士が警備に立つ衛兵隊員を睥睨し、吐き捨てるように言った。言われた衛兵隊員はまだ若い青年で、決まりが悪そうな顔をしている。しかもテンプル騎士が増えたので一層苦しい状況といったところだろう。彼はこの立場を払い除けるように大きな声で、だが愁眉のまま次のように言った。

「ですから、私も命令なんでここを通すにワケにはいかないんですよ。お願いします、分かってください」

「(ああ、またか)」

 チャベスの情報は、時間差を考慮すると衛兵隊がテンプル騎士団を袖にする直前に入手するほどタイムリーなもので、スェーミはそれを関心したが、テンプル騎士団と衛兵隊との不和に改めて倦厭もした。それでも表情を変えずにスェーミがカツ、カツ、と音を立てて少し強引に強面の騎士と眼鏡の騎士を避けると、衛兵隊員に歩み寄る。いきなり殴りかかるのではあるまいかと肝を縮めるゼクスだが、流石にそうはならなかった。

「まあ、こいつを見ろよ」

 衛兵隊員にスェーミが見せたもの。

 長方形で、大人の掌に収まるほどの大きさの、紫色で聖イリス教会の紋様が表面に描かれた、“捜査委任章”と呼ばれるものだ。同章は特に、教会が重要事件などの捜査にあたれるようテンプル騎士に送られるもので、これを持つ者は捜査のために一定の権限を与えられる。発行の流れは先ずテンプル騎士団の要請や教会の自発的な判断により、教会組織の総務院にて発行の審議がなされる。審議が通過すると各教会支部長である神官長の元へ送られ、ここで改めて許可が下りるとテンプル騎士団本部へと同章が初めて形となって発行される。これが本部から各支部の要請により、現場の騎士達に配布される……という流れ。当然同章を持つ者は相応の人格者であり、経験と知識を備えた人物であるはずだが…。

「こ、これは教会の…!失礼致しました」

 捜査委任章を見せられると衛兵隊員の態度が変わり、挙手式敬礼をするほど慇懃になった。その後どうぞお通りください、と言ってドアの前から退く。後ろでその様子を見ていたゼクスも瞠目した。彼はその存在こそ訓練所で教えられて知っていたものの実際に見るのは当然初めてで、ましてやスェーミが所持しているなどと想像もしていなかったのだ。

「よし、我々は支部に戻り状況を報告してくる。ここは頼んだぞ」

 そう言って先遣隊の二人が去ってゆく。スェーミはそれを見送る事なく、さっさとドアを開けた。室内は元々会議室など業務用で人が集まる部屋のために作られたのか、飾り気の無い壁、窓とカーテン、調度品の代わりに置かれたであろう観葉植物、それに四角形を作るように長机と椅子が備え付けられていた。特に注目すべき部分は見当たらない空間が広がっているが、そこには十数名の衛兵隊員と、赤いベレー帽に黒いサーコートを着た衛兵隊長が見守る中で、黄乱綿の青、橙といった色鮮やかで上等な夏用ガウンを纏う頭髪の禿げた老人と言い争う男がいた。二人とも左胸に小さい衛兵隊章のバッジを佩用している。

「――しかし、これは誤認も良い所です。どう考えても冤罪だ」

「君も分からん男だな。また子爵御身自ら怒鳴りこんで来るような事になったら、いよいよ我々の立場が危うくなるのだぞ」

「犯人があの男ではないと知ってそんな事を仰るのですか。真犯人をどうにかしなければまた残忍な殺人が続くのです。殺された者達、これから殺される者達はどうなります」

 スェーミの背中越し、それから更に千日紅が生けられた花瓶のある台の先にいるその男を、ゼクスが観察する。

 中肉中背の体格に茶色で短い頭髪を整髪料でしっかり整えた、端正で凛々しい顔立ちをした好男子だ。言い争う相手の老人とは反対に、彼の全体の雰囲気から感ずるものは温柔敦厚、きっと誠実さと慈愛の心を持っていて、多くの人に慕われている人物に違いない。スェーミと違い髭もしっかり剃っていて清潔感もある。だが服装は白いワイシャツを腕捲りしてノーネクタイ、グレーのスラックスに黒の革靴。これにはゼクスも不思議に思ったが、後でスェーミから聞くところによれば、局の者はこのような私服で職務にあたるという。

 彼ら衛兵隊がスェーミとゼクスが部屋に入ってきたことに気づくと、一斉に注目する。

「テンプル騎士…?おい、どうして部屋に入れたっ!」

 衛兵隊長が恫喝的な声を挙げて警備に立っていた衛兵隊員に質す。局が配置した三つの隊は一番街から三番街、四番街から六番街、七番街から九番街をそれぞれ管轄しており、各隊を指揮する三人の衛兵隊長がいる。ここ七番街から九番街を担当している彼はゼクスより小柄なのに胴回りはそのもう一人分はありそうな肥えた体格で、そばかすと顔の形から蝦蟇蛙を彷彿とさせる、ドスの利いた声の割には滑稽な姿をした男だ。巷間伝うる所によれば、涙脆いなど意外な一面もあるという。そういう事を露ほども知らずに、ゼクスはこの“蟇隊長”を見て次のように思った。

「(ふええ~…なんやこの人。めっちゃきしょいわぁ……)」

 蟇隊長に続き、その場にいた衛兵隊員による刺すような視線がゼクスの気を萎縮させるが、スェーミは全く臆することなく、こちらへやって来る時の足取りと同じ凛とした様子でいる。ゼクスはこの大先輩の後ろに隠れるようにして事の展開を見守った。

「何の用だ?テンプル騎士団とは捜査はせんと伝えたはずだが」

 私服の男と言い争っていた身なりの良い老人がスェーミに凄む。ゼクスはこの様子を見て、老人の鋭い眼光から湿った傲然たる人格の持ち主であり、それに佞奸邪智を兼ね備えた危険な人物だと察する。その一方で、スェーミがこの難敵をどう対応するのかゼクスとしては気になる所だった。

「そう怒らないでくださいよ、次長殿。彼はコイツを見たから私らを通したんです」

 捜査委任章をスェーミが見せる。すると次長と呼ばれた身なりの良い老人、つまり局次長は忌々しそうにぷい、と視線を外した。だが他の強い視線はまだおさまらない。

「スェーミ……やはり来たか」

「揉めているみたいじゃねえか、ヨアヒム」

 局次長と言い争っていた私服の男はチャベスの情報でもあった敏腕にして次長補捜査官・ヨアヒムだった。茫洋たる目と清流のような目とで放たれる視線が、宙でぶつかる。少し長く感じる沈黙が、二人は単なる既知の仲ではない事をその場に居る者達へ知らしめていた。そしてこの紫色の沈黙を苛立たしげに切り裂いたのは、先程から鼻息の荒い蟇隊長だ。彼は唾を飛ばしながら激しく息巻いた。

「血を吸う化け物の仕業などと世迷言をほざく、お前達テンプル騎士団が何の用だっ!」 

 そう罵声が飛ぶも、スェーミは歯牙にもかけずヨアヒムに視線を向けている。というより、まるで蟇隊長などの存在を初めから認知していない印象すら受けた。無視された蟇隊長はそれこそ蟇のように頬を膨らませ顔を赤くさせるが、これ以上怒鳴らせまいとして、場を制するようにヨアヒムが尋ねる。

「スェーミ、何の用だ」

 ゼクスには何故捜査本部へ直行したのか図りかねたが、スェーミにとっては知れたこと。彼はヨアヒムから視線を外すと、千日紅の花が生けられた花瓶を見ながら答えた。花瓶は赤と青のギヤマンで彩られ、その煌びやかさが可憐に咲く赤紫とピンクの千日紅を台無しにしている。

「容疑者と面会したい」

「駄目だ」

 局次長が言下に回答する。老人とは思えぬ炯々とした鋭い目がスェーミへと向けられていた。

「何故です」

「“何故”だと?それを一介のテンプル騎士が私に問うか。立場をわきまえよ」

 ヴィリエのような大都市で、その治安維持を管理する拠点の次長となると相当な傑物が任官されるはずで、実際この老人は貴族の家柄で本国の士官学校では大変に優秀な成績を修めたという。士官学校を出てヴィリエの衛兵隊長になってからも数々の功績を残して今の地位を手に入れたそうだが、権謀術数、陰謀の噂が絶えぬ男とされていた。

 スェーミが局次長に応酬する。

「一日一人のペースで五人も殺されているのですよ?立場だのなんだのと仰っている場合ですか。御自身の保身へと走る前に、まず職務を全うするべきですな」

「保身?何の事か分からんな。容疑者は確保した。そして今確かな証拠を集めている所だ。貴様にとやかく言われる覚えはない」

「ほう。では冤罪などという聞き捨てならぬ言葉が、どうしてこの場から出てくるのです?」

「そんな事は言っておらん」

 ヨアヒムに代わって今度はスェーミが局次長と言い争うが、流石の彼も老獪な局次長に押され気味だった。この様子を見ていられなかったヨアヒムが改めて場を制するように言う。

「次長、私も同席しますので話をする程度なら許可をしても良いでしょう」

 納得のいかない様子の局次長だったが、捜査委任証をヨアヒムの後ろでチラつかせるスェーミを見ると、忌々しそうな顔をして五分だけだ、と面会を許可した。彼らはマルセル子爵の怒りも買ってしまい戦々兢々としながら事件解決に躍起となっているが、しかし教会の力も絶大だ。局次長は多少なりともテンプル騎士団に協力する他ないのである。それにしても、事件の猟奇性からかテンプル騎士団に合同捜査を依頼しておきながら、マルセル子爵が現れた後になって再び独自捜査に切り替えるという衛兵隊の迷走ぶりといったらない。テンプル騎士団への依頼とマルセル子爵の登場が二人目の被害者が出た時というタイミングと一致していることから、名目上の合同捜査は殆ど行われていないのではあるまいか。それにもかかわらず先ほど先遣隊の二名と会ったのは、おそらく局と衛兵隊の情報伝達が滞っているからだろう。なかなか捕まらない犯人と政治の力によって揺り動かされ、衛兵隊が混乱しているのは誰の目にしても明らかだった。

 さて、スェーミとヨアヒムは時間が惜しいのか、局次長の許可を得ると足早に、ゼクスも慌てて後を追うように部屋を出る。そしてヨアヒムを先頭に一旦海運局を出て、敷地入口から見て右側の離れにある、海運局付属の事務所へと向かう。海運局と同様に外壁が黒の御影石で造られたこの事務所は、ヴィリエの行政から委託された業務を民間企業が請け負っている場所で、船舶、海難事故、海での怪物や犯罪による被害などの保険に関する業務を行っている。入口の鋳造扉を開けて中に入ると、塩害で赤茶けたシミのある大理石の内装が目に入ってくる。規模は海運局よりは少々小さく、件の事件故に仕事が薄いのか、窓口の多くが閉鎖している。僅かに残っている事務員は現在女性二名しかおらず、二人はお喋りに興じていた。だがヨアヒム、スェーミ、ゼクスの順に三人が現れると彼女達はやはり驚いたような顔をし、その後ろにあるドアの中へ三人が消えてゆくまで黙って見送った。

 ヨアヒムがドアを開けるとその先も海運局と同じ造りで、真っ直ぐ廊下が延びており、左右に三つずつ部屋がある。その左側の真ん中のドアの前に警備している衛兵隊員二名がいて、ヨアヒムを見ると敬礼した。そして、

「容疑者と面会する。開けろ」

 …と命令すると、衛兵隊員は速やかに左右へと分かれて警備を解いた。にぃっ、と蝶番が音を出すドアを開けて三人が部屋に入ると、目に飛び込んでくるのは壁へ乱雑に立て掛けられた長机と椅子、それに棚。棚には収納用の木箱が載せられ、綺麗に管理されているようだった。それら倉庫然とした佇まいを背景にいる容疑者の男は、椅子に座らされ手足を拘束された状態でぐったり項垂れている。ヨアヒムによれば、この男が逮捕されたのは一昨日の昼で三人目の被害者が発見されてから。善意に駆られてか、目撃情報の証言をするために海運局へやって来たが、そのまま暫く待たせた後局次長の命令で緊急逮捕された。しかし昨日の早朝に四人目の被害者、今日の明け方に五人目の被害者を出している事から、少なくともこの男が二人を殺害した犯人であることはあり得ない。男は粗末な布の服を着た平民で職業は水夫、身長が高く真っ黒に日焼けをし、体格は筋骨隆々として逞しい。年齢は四十代といったところか。体格の精強さとは違って顔は汗にまみれすっかり憔悴しており、よく見ると殴られた形跡が認められる。衛兵隊はこの男に自白を強要したのだろう。

「おい、起きろ」

 ヨアヒムの言葉に男がゆっくりと顔を上げる。次に突として怯えたような表情になり、喚き散らし始めた。ヨアヒム自身は決して自白を強要させるためにこの男へ暴力を用いたわけではないが、その現場に立ち会っていたのは事実だった。男はそれを記憶していたのである。

「お、俺じゃない。俺はやってないんだ。頼む、ここから出してくれっ」

 男が無罪を訴える。その様子から錯乱しているのは疑いようもなく、五人もの人間を異常な方法で殺害した罪とあっては、この男も自分が今後どうなるか予想がついているのだろう。哀れな程に必死だ。

「落ち着け。俺はお前を殴ったりはしない、だから落ち着くんだ」

「うわぁーっ」

 ヨアヒムがそれこそ子供を宥めるように物柔らかく言うが、男は全く話を聞かない。しかも縛られた腕・足をめちゃくちゃに振り回して暴れるので、愈々手がつけられなくなった。この騒ぎを聞きつけてドアの前にいた警備の衛兵隊員もやって来るような事態となるが、ゼクスを安全な後方に下げさせ、前にいるヨアヒムをずいっ、と退けて気怠く最前へ出たスェーミは、男の抵抗を器用に躱すと顔面を強かに殴打した。男は激しく床に倒れこんだが、頑強な肉体のお陰か直ぐに上半身を起こす。だが表情は怯えの一色だった。

「スェーミ、何をするんだ!やめろ!」

 ヨアヒムの言葉に睨むスェーミだが、再び男に向き直り胸ぐらを掴み上げると殴打した。暴れる猛牛の沈静化は完全に成功したが、どういう訳かスェーミはまだやめようとはしなかった。

「やめろだと?既に衛兵隊おまえらも手ェ出しといてやめろはねえだろ。それにこの野郎がマジに犯人かもしれないんだ、もう少し痛めつければゲロするかもしれないぜ。殺しの手口をよ」

 スェーミはそう言って蹲る男を冷たく見下ろしながら、今度はその横腹を蹴り上げる。ぎゃっ、と言って男が床をごろごろと転がった。その後寸刻の間、スェーミは男に殴る蹴るの暴行を加え続けた。

「スェーミさん、もうやめたって下さい!このおっちゃん、ぐったりしてるやないですか」

 男が抵抗する力を無くしサンドバッグのようにされるがままになってきたところで、初めて目にする生々しい現場の出来事に言葉を無くしていたゼクスがスェーミの腕を掴み止めた。スェーミは無言のまま腕を振り払おうとするがゼクスも放そうとせず、やがてゼクスのコバルトブルーの目に涙まで溜めた必死の訴えが通ったのか、スェーミは胸倉を掴む手を放した。

「やり過ぎだぞ!」

「うるせえ。これがオレのやり方だ」

 背後で言い合うスェーミとヨアヒムを無視し、ゼクスが床に崩れた男の状態を見る。男の顔は血と汗が混じり合いぐしゃぐしゃの状態、しかも虫の息でとても面会など出来る状態ではなかったが、幸い聞けば返答できる程度の意識はあった。だがこの猛暑に食事を摂らさず、死に至らぬ程度の水分を与えられるだけだったために、危険な状態だった。そこでゼクスは…。

「おっちゃん、今助けたるから。僕の“治癒魔法”は効くでぇ」

 ゼクスは膝をつき両掌を男に向けて精神を集中させると、やがて嫋やかな紺碧のオーラが発生した。オーラは採光のあまりされていないこの部屋では非常に良く見え、オーラに混じって同色の光の粒が生き物のようにふわふわと舞っているのも確認することが出来た。“治癒魔法”の効能は術者の素質や錬磨、その時の状況によって変化し、概ね病気などよりも怪我などで負傷した部位に使用される。効能の順序は切傷の場合なら、先ず止血をし、出血した分の血液を精製する。その後負傷部位を塞ぎ切傷した時の痛みを無くし、皮膚を元の状態へ戻す。最後に負傷した事による精神的ショックを和らげ、平常時の状態に戻す。これが治癒魔法の“外から内へ”効能が作用する基本的な流れだ。近年、治癒魔法を操る人間が減少の一途で、教会の神官らが修行により身に付ける魔法と位置付けられているものとして知られる。従ってゼクスのように一般のテンプル騎士がこれを操るのは稀である。

「おっちゃん、平気?」

 床に倒れていた男がむくりと立ち上がり、何が起こったのか分からないといった様子で自分の身体をぺたぺたと触る。腫れた顔や口の出血が無くなり、顔色も最初に見た時と違って断然に良い。本人にも確認出来ないが、治癒魔法の効能が確かなものなら拘束された両手両足の内出血も回復している。

「こ、これは…信じられない…」

 驚愕する男に、ゼクスがそっと歩み寄り優しい微笑を湛えゆっくりと穏やかに伝える。

「大変やったねえ、イリス様の御力がおっちゃんの傷を治してん。もう心配せぇへんでもええで。イリス様がきっとおっちゃんを救うてくれる。な~んも心配いらへん」

「本当に?イリス様が?」

「うん。イリス様は嘘を言わへん、やからな~んも心配せんでええねん。落ち着いて。ね?」

「ああ、ああ…!イリス様!」

 元々の容姿に加え、普段決してしない清らかで楚々としたゼクスの微笑に、男がまるでゼクスが女神イリスであるかのような錯覚をし感極まる。治癒魔法の効能を差し置くとしても、たった微笑むだけでこの男をころっ、と信仰の塊にしてしまうのはスェーミとヨアヒムにとっては舌を巻く思いではあった。けれどもこれから殺人事件の目撃情報を聴取するというのにその相手が熱い信仰心に燃える人物となると、これまた中々にやりづらさを禁じ得ぬ二人だった。

「あー…盛り上がっている所悪いんだが、オレ達はあんたに聞きたいことがある」

 “イリスの微笑”にむせび泣く男がようやく椅子に腰かけ顔を上げる。その様子を見たスェーミも壁に立てかけてある椅子を持ってきて、男の前に座る。これでようやく面会が出来そうな状況になった。

「さっきはすまなかった。少しやり過ぎたと思っている」

 背もたれに深く腰を掛けたスェーミが事務的に言った。この時、本当にそう思っているのか、と声が。言われたスェーミは面白くなかったのか、じろっと右手に立つ声の主のヨアヒムを睨む。対するヨアヒムも腕を組んで睨み返すので、左手に立つゼクスは冷や冷やとしながら危うい聴取の様子を見守った。

 気を取り直して、スェーミが聴取を再開する。

「あんたが目撃したという、第二の被害者と第三の被害者の様子を話してもらえるか?」

「うっ、うっ…イリス様は本当にいるんですね…うっ、うっ」

 つい今しがたの睨み合いはどこへやら、スェーミとヨアヒムが顔を見合わせると、話にならぬと首を振る。

 五分はとうに過ぎていると確信はしているが、それでもこんな事をしている内に五分が経過した旨をぴしゃりと言われた時には、スェーミは椅子を男に向けて投げつけてやるつもりだった。けれどもそうはならなかったのは、ヨアヒムの計らいに他ならない。衛兵隊が今回のような迷走をしている原因は、彼らが目撃情報の聴取を行おうとした矢先に子爵が本件を直ちに解決させよと局に怒鳴り込んで来たのが原因で、局次長が急遽この男を容疑者に仕立て上げたためだ。結果、目撃情報の聴取が行われることなく、ヨアヒムたちはあるはずもない証拠の収集とその捏造に走らされ、ついには更に三人の犠牲者を生むこととなってしまった。ヨアヒムはこの不正に強い反感を持っていて、事件解決への強い使命感に加え、錯乱するまでに動揺したこの容疑者の男に対し憐憫の情も抱いていた。五分などと言わず気のゆく所までスェーミにやらせようというのが、ヨアヒムの考えなのである。

「ああ、イリスはいる。話してくれさえすりゃあ助けてもくれるだろう」

 男の対応に辟易としたスェーミが怠そうに答える。

「はい…うっ、うっ…どこから話しましょうか」

「二人目の被害者から頼む」

 スェーミ達が聞き取れた事は次の通り。

 場所は幹線通りの道端。この男も目撃当時はしこたま酒を飲み酔っていた。そのため時刻については判然とせず、だが被害者の水夫は男の同僚であったため誰なのかが直ぐに分かった。当時の被害者は何者かを連れだって歩いており、その人物は肩と背中を大きくあけたキャミソールドレスを身に着けていた。タイトなデザインなので全身の線がくっきりと出ていて、街灯に反射した白い肌といい、その婀娜たるや多くの男を放蕩しようとするような娼婦風の女だったという。

 アイツ、安い稼ぎのくせに女を買ったのか。どこの娼館の女かな。そんな事をぼんやりと思いながら後ろ姿を見送ったのだとか。翌朝同僚が殺害されたのを受け、あの娼婦風の女がやったのかと考えはしたものの、巷で聞いたその殺され方から察するに目撃した女がやったようには思えなかったのだという。尚、被害者と同伴していた女は一見目立つ格好をしているようだが、九番街で働く者たちの付近には娼館やキャバレーがあって、暗くなる時間帯になって女がナイトドレス姿で歩く風景はそれほど珍しくない。夜、女が一人で歩いていても誰にも怪しまれないのだ。

「顔は見なかったのか?」

 スェーミの質問に対し、男でなくヨアヒムが答える。

「いいや、服装の背中について言及しているのだから顔は見ていないはずだ。彼は後ろから見ていたんだ」

 確かにその通りだと思うスェーミが質問を続ける。

「じゃあ頭髪はどんな感じだ?」

「それを聞いても意味がない。切ったり結んだりすればどうにでも変われる」

 再び男の代わりにヨアヒムが答えるが、しかしこれも彼の言う通りだった。どうやら被害者が同伴していた人物は若い女であることとその時着ていた服装以外は見い出せそうにない。けれども目撃当時の周辺は暗かったが、女の頭髪は少なくともブロンドではなく、長めであったと記憶しているのが男の話だ。

「ふむ、女か」

 ヨアヒムが尖った顎に手を当てて思案顔になる。スェーミはというとせっかちになっており、直ぐに次の質問へと移った。

「二人目の被害者については分かった。それでは次の三人目の被害者について聞きたい。前回の水夫とは違い、あんたと面識のないそこら辺にいる物乞いが殺されたんだが」

 三人目の被害者の目撃情報については次の通り。

 場所は海水浴場前の通り。その夜、前夜の内に同僚が異常な方法でもって殺されたとなれば流石に酒も進まない。なので男は早々に切り上げると酒場を後にした。時刻は二十二時、昨日殺された同僚を最後に見かけた時刻よりはずっと早い時間だったと男は断言する。被害者についてだが、先ず襤褸を纏った姿であることから物乞いで、話し声から賭け事を通じて既知の仲である男だということが分かった。次に同伴者の存在だ。その物乞いは修道女の姿をした人物と一緒だった。また修道女の顔は見ておらず今回も後ろ姿だけ。話し声も物乞いの声だけで修道女の声は聞いていない。今思えば、女の体格は概ね前日に見た娼婦風の女と変わらない印象だったとか。

 はて、説法を聞かせる時間にしては遅すぎるなと不審には思ったが、施しか何かを受けるのだろうと結局気にも留めなかったらしい。勿論、九番街には平民が訪れるような小さい教会がいくつもある。修道女がいてもおかしくない。

「また女か」

 うぅむ、とヨアヒムが唸る。

「しかも修道女だと?修道士・修道女はイリス教の教えと教会の規律を遵守するのが仕事みてえなものだ、どう考えてもおかしい」

 彼らは十七時には帰宅し、女神イリスに祈りを捧げなければならない。それにヨアヒムが先程言った通り、修道女の姿ならば頭髪を短く切っているのかもしれず、見た目の体格が似ている事を合わせて考慮すれば、この女が最初の目撃情報でもあった娼婦風の女と同一人物の可能性はあるのかもしれない。同一人物でないとしても最後に同伴していたこの女こそが今、最も有力な容疑者なのだ。

「めっちゃきしょいわあ…。なんかさっきから聞いてると、被害者達がその女に魔法か何かで誘われているように思えますね」

 魔法…。

 殺害された水夫、その後の三人の物乞いも、魔法によって吸い寄せられるようにして女に連れてゆかれたのだろうか。

 一時ゼクスの言葉に妖しく不可解な出来事として連想するスェーミとヨアヒムだが、直ぐにそれをきっぱり否定した。先ずは論理的に犯人像を導き出すのが二人の共通したやり方だからだ。

 ここで得られた情報は、最後に目撃された二人は謎の女と一緒だった事。これを踏まえ、今考えられる犯人像は、まず若い女で、倉庫の高い天井付近の窓から出入りする知恵や能力を持ち、血を吸うか抜き取って全身の肉を喰らう習性の持ち主だということ。この女は何者なのか?同一人物なのか?そこを調べる必要がある。

「ところでゼクス」

「はい」

 ゼクスは確信していた。スェーミが続けるこの後の言葉は、自分が痛めつけ過ぎた容疑者の男を治したことに対する礼であったり、或いは錯乱し暴れ回る男を宥め賺す事に成功したことの褒め言葉であったりと、仔犬が尾を振るような心嬉しいものだと。しかし、そうではなかった。

「お前、治癒魔法が使えるなら、ルーティングテーブルの洞窟でオレが負傷した時どうしてやってくれなかったんだよ」

「え!?あ、あの時は気が動転してて……」

 スェーミがゼクスの頭を目にも留まらぬ速さで脇に抱える。躾の仕方はいつも同じだ。

「い、痛い、痛いですよスェーミさぁん」

「馬鹿野郎、しっかりやれっ」

 ………

 ……

 街灯と一緒に備え付けられた時計が十八時と少しを回った頃、容疑者が確保されている部屋を後にした三人は、海運局の外壁で出来た日陰に避難しつつ一旦話を整理しようと集まった。強い日差しと身体を撫でる潮風、それに海鳥が縦横無尽に夏空を飛翔する風景は何も変わらないが、停泊している船の数はあまりに少ない。九番街に停泊する船舶の多くが予定を変更し引き返したり、寄港する場所を変えているのだ。接岸すればいつ正体不明の殺人犯が入り込むか分からないとなると、そのように判断するのもやむを得ないだろう。このように犯人は殺人だけでなく、九番街を正視に耐えぬほど凋落させたという罪がある。子爵の政治的な思惑とは別に、九番街を、いや、ヴィリエを愛する者ならば一刻も早く元の姿に戻したいと思うに相違ない。その人間の一人であるゼクスは、きっと犯人を捕らえてみせると固く心に誓った。

「――それにしても、犯人がもしその女なら最初の殺人で、一体どうやって現場から忽然と姿を消したのだろう?」

 ヨアヒムが腕を組み、独り言のように呟く。

 犯人は何者なのか、という謎もあるが犯人はどうやって痕跡を残さずに犯行現場から逃走したのか、という謎も残されている。犯行現場はどういう訳か、最初の漁夫以外は全て屋外。漁夫は天井の高い倉庫で殺害されており、出入りが可能なガラスの入っていない窓があるも、そこは高い脚立を用いなければ手すら届かない。道具を持たない人間からすれば密室も同然だ。尚、衛兵隊の調査によればそのような脚立は発見されなかった。仮に脚立が見つかった場合、複数の者が事件に関与している可能性も考えなくてはいけない。大きな脚立を二人ないし三人で運んでいる姿を、夜に賑わう漁夫や水夫、九番街の住民らの目を搔い潜り、誰にも見られずに事を完遂出来るだろうか?犯人は間違いなく異常な方法で殺人を犯し、普通でない方法で倉庫から抜け出したのだ。ヨアヒムは最初の殺人が起きたこの倉庫を詳らかに捜査することで、何らかの犯人像が浮かび上がるかもしれないと考えていたが、衛兵隊は捜査の途中から目撃証言の為に現れたあの男こそが犯人だという、あるはずもない情報や証拠を集めていたので真犯人に関する捜査があまり出来ていなかった。その為、ヨアヒムは状況から推察するしかなく、この事に彼は苦心惨憺していた。他方、ゼクスもヨアヒムを真似るように腕を組み、小首を傾げて呟く。

「空を飛べたりして?」

 これを聞き流石にそれはなかろう、とゼクスの発言とテンプル騎士団の考えに批難の意が湧くヨアヒムだが、ゼクスの物言う花の如き美しい横顔と新任の初々しさに毒気を抜かれたような思いになり、思わず咳払いをしてしまった。そしてここであれこれと想像を張り巡らせても仕方がない、と肩の力を抜くのである。

「魔法でどうにかしてたりな」

 頬を薄ら染めながら言うヨアヒムだが、それを案外真剣にゼクスが受け止める。

「ないない。空を飛んだりとか、そういう物体を移動させる系統の魔法は旧文明時代の更に前から廃れ始めとったらしくて、今ではほんの一部しか残ってないんですよ」

「ははは、それなら君は犯人がどうして空を飛べると思ったんだ?」

 微笑むヨアヒムの問いにゼクスが顎に人差し指を立てて思案する。しきりに瞬きをしてうんうんと唸っている所から沈思黙考を重ねているようだが、結局彼の導き出した答えは次のようなものだった。

「ほ、ほら。イリス様もばびゅーん!と空から降ってきたちゅうやないですか。そうやって倉庫の窓から入って来て、ぶすーっと刺したんです、きっと」

「はっはっは、苦しいな。二人目と三人目の被害者は真犯人と思われると一緒だったんだぞ。仮に最初の被害者も同様だとして、空からわざわざ飛んで来る必要があるかい?それに女は一見商売女だったり修道女だったりしているから、羽なんて生えていない。羽根があったら被害者たちはついて行こうとせず逃げようとするだろうしね。加えるなら、君が言うところによれば物体を移動させる魔法は廃れているというじゃないか」

 ゼクスが一生懸命に導いた非論理的な謬見にヨアヒムがコメントした。全く彼の言う通りで、論駁の余地がないゼクスは苦虫を噛み潰したような顔になるが、直ぐに顔を明るくさせる。ヨアヒムは組織が違っても物腰穏やかで言い方もぶっきらぼうでなく、歳の離れた優しい兄と話している感じがするからだ。ゼクスはコンビを組んでいるスェーミにもこうであってほしいと願いながら先程から黙っている彼に目をやるが、自分とヨアヒムとの話など聞いていないのか、彼は気怠そうに何を考えているか分からない目、つまりいつもの様子で壁に寄りかかり遠くを見ていた。

「スェーミさん、喉が乾きましたね」

 ゼクスが休憩を訴える。自然にポーカーフェイスを決め込むこの男の考えを推し量るためでもあったが、スェーミは三十分後に戻ってこい、と短く言うだけで事件に関する考えや今後の捜査方針などについては触れなかった。

「了解、三十分したらまたここに来ます!」

 元気よくそう返事をすると、ゼクスは幹線通りのある方面へ歩いて行った。残った二人は、ゼクスの姿が見えなくなったあたりから徐ろに煙草を口に咥える。スェーミはジラーニィ、ヨアヒムは“ユスティーツ”という甘さの後にすうっとした清涼感のある、主に三十代男性に人気のある銘柄だ。ヨアヒムはマッチ棒で煙草に点火すると、水平線へ沈みゆく太陽が眩しく感じたので、それに背を向けて煙を吸う。彼の持つマッチ箱の絵柄は衛兵隊の隊章だった。スェーミは残り僅かとなったマッチ箱の中身を見て小さく舌打ちをした後、そこから一本取り出して煙草に火を点けた。ゼクスがいなくなって場は静かになったが、それはそれで二人に無言の安息をもたらした。

 長い沈黙の後、スェーミが問う。

「最近どうだ」

「見ての通りさ、上司があれで困っている」

 本当に辟易した様子でヨアヒムが溜息と共に煙を吐く。丁度その時、同感の意を表するかのように海鳥が鳴きながら近くを滑空していった。

「どうにかなんねえのか、あのハゲ」

「なるものか。自分の出世と保身しか頭にない」

「だからハゲてるのかね」

「…かもしれんな」

 また少しの沈黙。今度はヨアヒムが問う。

「“彼女”はどうしている」

 使われなくなった古い係船柱に腰掛けたスェーミが、海を見ながら答える。海は太陽の光を直線状に反射しており、雲と雲の間から差し込む橙色の光芒が眩しそうだった。

「相変わらずだ」

「相変わらずって、どんな感じなんだ」

「仕事の鬼だ」

 こうして二人は言葉少なげに、だが二人だからこそ通じる会話をしながら時間を過ごした。

 一方、ゼクスはというと……。

「えっへっへ。実は訓練生の時から行きつけのカフェがここらにあんねんけど~…。あいつ、今日おるかな」

 幹線通りで営業している“カフェ・道草”。確かに九番街は連続殺人事件によって閑散としてしまっているが、陽が暮れない内はこういう飲食店を利用する客はまだまだおり、その一人がゼクスなのであった。彼は沈んだ雰囲気の九番街に似合わぬ、小躍りでもしそうな笑みを浮かべてカフェ・道草へ入店する。そして目当ての人物は直ぐにいた。

「いらっしゃいませ…あっ」

「オッス。“ゼクっちゃん”やで」

 ゼクスがキザに敬礼をする相手とは、コック帽子をかぶり赤毛の頭髪を一つ結びにし、白いコックシャツ、黒いスカーフ、黒いパンツに黒いパンプスを着用した、給仕係の女性。女性といっても身体の輪郭は女性らしさがはっきりと出ているが、顔立ちに関しては化粧をしてもまだ子供のあどけなさを残す、ゼクスと同年代程の少女だった。彼女はゼクスを認めると本当に驚いたという様子で、目を丸くさせた。

「どないしてん、そないに驚いて」

「あ、ごめん。ゼクっちゃんが来るなんて思ってなかったから」

「あっはっは。ヴィッキー、幼馴染が働く職場やで?僕が贔屓にせえへんなんてあるわけないやろ」

 ヴィッキーの愛称で呼ばれるゼクスの幼馴染、ヴィクトリア。そう、あの聖ロスタインに付属する孤児院仲間にしてゼクスと神官タルの年の近い妹。彼女はこのカフェで給仕係として働いている。

 ヴィクトリアはゼクスのいつもと変わらぬ調子の良い言葉に釣られてついフフっと笑った後、業務の姿勢に戻り、窓際の海を見渡せる一番端のカウンター席へ案内した。この席は窓際だけあって外の景色が良く見えるが、真夏の厳しい直射日光に晒されるのが問題だった。だが軒先に張られた縞模様のサンシェードによってそれは遮られ、またドルテクノロジーの恩恵である冷房装置の効果も合わさって涼しく、心地良いひとときを約束させてくれる。つまりこの店で一番良い席だった。

「何にする?」

 伝票を持ったヴィクトリアがお調子者の兄に尋ねる。

「ブラックコーヒーを頼もかな」

「えーっ、オレンジジュースじゃなくてこの暑いのにコーヒー?それもブラック?」

 また驚いた様子でヴィクトリアが目を丸くさせる。そんな彼女にいよいよ気を良くしたゼクスは、よせばいいのに飲んだことすらもないコーヒー、それもブラックを改めて注文した。

「チッチッチッ。コーヒーをブラックで飲まんようでは、真の男子とは言えへんで」

 足を組み、頬杖をついて余裕たっぷりに言うゼクスだが、本当のところフルーティーなオレンジジュースやアップルジュースを頼みたくて仕方がなかったし、二日酔いが治まった今、治癒魔法を展開したのもあって空腹すら覚えていた。彼が何故コーヒーに拘るのかというと、先日の旅先で立ち寄ったハザの村で、スェーミがブラックコーヒーを単品で注文しそれをゆっくり飲んでいる姿が渋くて渋くて、そこで幼馴染の、妹の手前もあり格好つけようとしての事だったのだ。

「ふ~ん、変なゼクっちゃん。ちょっと待っててね」

 厨房の中へ入りヴィクトリアが背中を向けて準備をしているのを確認した瞬間、ゼクスはガッツポーズをした。

「(やった!ついに注文した!)」

 注文の品が来るまでの間、特にやることがないのでゼクスが見知った店内を観察する。カフェ・道草は幹線通りにあるが、カウンター席八つにテーブル席三つと、知る人ぞ知る隠れ家のようなこじんまりとした佇まいだ。現在の客はカウンター席に男性一名、テーブル席にも男性二名。窓からはビーチと指を折って数えられるほどのパラソルが見える。ゼクスが二騎で見た資料によれば、連続殺人犯が海からやってくる化け物だという説は否定されているが、それでも恐ろしいのだろう、夏のビーチを満喫する人は疎らだ。店内の内装は石造りの外観なのにどうしてか天井、壁は木目調のタイルが貼られている。最近はこうして敢えて木造である事を見せるのが流行りらしく、訪れる者に安心感や居心地の良さ、垢抜けた印象等を与えるためだというのが、訓練所仲間の話だ。

 ゼクスが三十分という期限があるにも関わらずカウンターテーブルに突っ伏しリラックスをしていると、厨房から声をかけられた。声の主は身長がスェーミより少し低いくらい、コック帽に黒のスカーフ、貫禄のあるコックシャツを着ており、それら服の上からでも分かるほど痩せていて、優しい瞳と人懐っこい笑顔を湛えた中年の男。彼はこの店の店主だ。

「おう、ゼクス。いらっしゃい」

 店主は食材の仕込みをしているのか、包丁で作業をしながらゼクスに話しかけているようだった。当初、カフェ・道草は店主、店主の細君にヴィクトリアと三人で業務を展開していたが、闘病虚しく細君は先立ち、ヴィクトリアも厨房に立つようになった。それからは更に忙しい毎日を送っているはずだが、ふらりと来訪したゼクスの目には二人に疲労の色は見えず、その躍然たる動きは注文した品が確かなものであると誰もが期待することだろう。

「あ、おっちゃん。えへへ、またお邪魔してまぁす。景気はどう?」

 ゼクスにぼちぼちかな、と答えながら浮かべる店主の笑顔は、目尻の笑い皺もあってなんとも愛嬌があり、来店客に“来て良かった”と思わせる家庭的な微笑だった。だが、この店の微笑はそれだけではない。

「その恰好をしてるってことは、テンプル騎士になれたんだ?」

 店主の問いに、ゼクスはよくぞ聞いてくれましたとばかりに揚揚と椅子から立ち上がり、

「ふふん、訓練所のアトミックマンはもう卒業!今は“二騎のマジックドリーマー”や」

 …と、大仰にシャドーボクシングをしながらテンプル騎士として正式採用されたことを伝える。そんなゼクスの素直な喜びようと元気な様子を見て、店主は失笑した。

「笑わすなよ、手元が狂うだろ」

 えへへ、と笑いながらゼクスが着席した矢先に、ヴィクトリアが白い皿に乗るコーヒーカップを持って来た。カップの中には湯気立つ黒い液体が注がれている。

「はい、どうぞ」

 テンプル騎士の制式装備より得られる魔法効果は、装備者に任務を遂行する上で最適な体感温度を与えてくれるが、失うものは失われる。喉だって当然乾く。カップの黒い液体が自分の喉を潤すか否かは見ただけでも察せるゼクスだが、愚なことに彼はあくまで格好つけた態度を崩さなかった。

「ふっ、大人の嗜み、午後の優雅なる一時。僕は毎日これが楽しみでね」

 ゼクスが長くてサラサラな横髪をふわっと払い、嘘偽りを言う。それを見抜いてか見抜いてないのか、ヴィクトリアはそうなのね、と言って微笑むだけ。この微笑こそカフェ・道草の第二の微笑、いや、今となっては彼女の微笑こそ同店の微笑と言うべきか。来店客、特に男性は、決して派手ではないがヴィクトリアの幽邃閑雅なる笑みによって祝福を受け、これといった用がないのに来店してはその都度魅了されるのである。ヴィクトリアは密かに看板娘となって業績に貢献していたが、今の暗澹たる空気に包まれた九番街になってからは、カフェ・道草に訪れる者たちの雰囲気も沈んでおり、接客する彼女も伝染病に感染したかのように気分が暗くなっていた。ヴィクトリアにとってゼクスの登場は、まさに闇を切り裂く光だったのだ。

「そうそう、この間孤児院でタルと会ったよ」

 およそ一ヶ月半以上前の出来事を想起してヴィクトリアが言う。彼女は暇が出来る度に孤児院へやって来ては、年々増えてゆく孤児たちの面倒で手に余る院長夫人の手伝いをしており、ゼクスもその事を知っていて、稀に来店しては孤児院の話を聞いて過去を懐かしんでいた。だがタルが孤児院に訪れた話はかなり意外であり、今度はゼクスが驚き目を丸くさせる番だった。

「ええっ、タル坊と?どんな感じやった?相変わらずなん?あいつ、今何してんねん」

 孤児院を出るとタルは修道女として教会に仕える身となったが、ある経緯から祓魔神官となり、祓魔神官という身分は母の院長夫人にしか打ち明けていない。またルーティングテーブルの村での任務ではスェーミからは“ある祓魔神官が~”…と名前を端折って説明を受けていたため、ゼクス、そしてヴィクトリアも同様に、タルの本当の身分を知る機会がないまま現在に至っている。そんなタルについてのヴィクトリアの記憶では、ヘアスタイルがハンサムショートで夏用の私服姿、まだ身体に女性的な特徴を表しておらず、最後に見た時とあまり変わらない印象だった。それをゼクスが聞くと、ふふん、と鼻を鳴らす。

「なるほど。どうやら僕はタル坊より身長が上のようやな!もうチビ、チビとは言わさへんでぇ」

「う、うん。そうだね」

 苦笑するヴィクトリアのタルと再会した時に感じたものといえば、外見は幼さを残しているものの、会話の仕方に関してはゼクスと比べ物にならぬほど落ち着いたもので、ヴィクトリア自身気後れをした。タルもヴィクトリアを見て気後れしつつゼクスを気にかけていて、ゼクスもまたタルを気にかけている。三人はお互いを意識し合い、一日一日を懸命に生きているのである。

「いやあ、タル坊とは是非会いたいわぁ。まあ僕はテンプル騎士になったし、ちょいせわしなくなるからなあ」

 忙しいのは同じだというのに、ゼクスがさも自分が一番忙しく大変であるかのように言う。だが気持ちはタルと同様で、三人揃ったら食事でもしよう、という提案には大いに賛同した。ヴィクトリアも、ゼクスのその回答に満足気な笑みを浮かべた。

「ときにゼクっちゃんはどうしてここに?」

「え?ああ、ヴィッキーも九番街の何処かによう分からへん殺人鬼がおるって知ってるやろ?そいつをこうやって――」

 頬杖をついたゼクスが、ぴん、と中指を弾く。

「軽うしばくために来てん。要は化け物退治ってやっちゃな。えっへっへ、腕が鳴るわあ」

 作業をしながら二人の会話を何気なく聞いていた店主だが、ゼクスの指を動かしたのに腕が鳴る、という発言に再び失笑した。一方ヴィクトリアはそのようには捉えなかったようで、ゼクスが現れた時とはまた違った驚き、他にも別の感情が混在したような、形容し難い複雑な表情になっていた。

「化け物退治?ゼクっちゃんが…?」

 ヴィクトリアの何か曰く言い難い表情に、ゼクスは心配性の妹が気遣っているのだなと慮る。これは孤児院時代の名残りで、彼はわざとらしく大仰に平気なフリをして自分を奮い立たせるよりも、先ず妹を安心させようと、わざとコーヒーの湯気を見ながらしんみりと言うのだった。

「ヴィッキー。僕はテンプル騎士、化け物退治が商売みたいなもんやで?イケるイケる、それに僕はめっちゃ強いねん」

 本当の所、犯人が血を吸い肉を喰らう純然たる化け物なのか、或いは容疑者の男の証言通り被害者と最後に一緒だったという女なのか判然としない現状、いざ戦闘になった時どうなるか想像すら出来ない。怖くない、と言えば嘘になる。

 この会話に店主も加わる。

「なんでもかなりの人数の衛兵隊員が動員されてるらしいな。全く、九番街はどうなるんだろうねえ」

「だからそいつを僕が――」

 店主はまたゼクスが中指を弾くので、今度は遠慮なく笑った。

「あっはっは、無理無理。ゼクスが弱いと言っているんじゃないぞ?新人のテンプル騎士がそう危険な任務にいきなり就くかってこと」

 一般的には店主の言う通りで、厳しい訓練と試験をパスしたテンプル騎士といえど、新人は所詮警備、持ち物運び、先輩や上官の後を付いて歩き下男下女と同等の仕事をさせられるのが関の山だ。しかし第二騎士隊は慢性的な人手不足である。例え新人であろうと思わぬ任務に駆り出されることは珍しくなく、本日のように辞令が出て正式に入隊したばかりのゼクスでも、容疑者の聴き取り現場に顔を出し会話までしてしまう例は少なくない。この実状が多く殉教者を出してしまう一因となっていた。

「いらっしゃいませ~」

 ヴィクトリアの声に二人の会話が中断される。気付けば、狭い店内は客で却々に込み合っていた。

「話し過ぎたか。ゼクス、そのコーヒーは俺のおごりだ。まあ化け物退治頑張れよ」

 店主はそう言って余程可笑しかったのか、中指で弾く動作を見せて厨房の業務に戻った。ゼクスは店主の好意を有難く受け、もう少しゆっくりすることにする。視線をヴィクトリアに移し、彼女が他の客の注文を受けたり厨房に入ってゆくのをぼんやり見ていると、さて、そろそろこの黒い液体に挑もうかと身構えるが、コーヒーカップの乗った皿の下に紙片があるのを見つけた。元々は客の代金支払い時に使用する伝票だが、問題なのはその裏だ。裏は白紙でメモ用紙等にも利用出来るようになっており、そこには次のように記されていた。


『 今夜二十三時、倉庫通りにて待つ』


 殴り書きで女の筆跡だった。倉庫通りとは九番街の漁夫や水夫達が使用する、文字通り倉庫が並んだ十番街寄りの通りの事で、普段は活気に満ち溢れてるが、現在は件の事件によりすっかり人通りが無くなっているというのがチャベスの話だ。そんな場所に今夜来てくれ、というメモの不可解さにゼクスは首を傾げた。

「なんや、これ?ヴィッキーが置いたんか」

 そうだとしか考えられない。この席にメモを置ける距離までやって来たのは彼女しかいないし、来店して着席した時はこのようなメモは無かったのだから。ちらりとヴィクトリアを見るが、彼女は店主と忙しく厨房で調理作業をしており、とても話しかける状況ではない。仮に話しかけられる状況だとしてもその内容から、これは君が置いたのかい、などと問えるはずもない。これは明らかに密会の申し出だ。そこでゼクスは、密会の内容についてあれこれと次のように想像をたくましくさせた。

「え、どういう意味……はあっ!ま、まさかこれは」

 …愛の告白というやつでは?

「マジかぁーっ」

 天にも昇るような気持ちとはこういうことをいうのだろうか、思わずメモを両手で掲げてしまう。ゼクスは異性と交際した事がないので、ヴィクトリアとのひとときを更に更にと想像をたくましくさせていった。

 デート、語らい、同じ目的のために同じ場所へ歩くだけなのに沸いてくる幸福感。時には価値観の相違故に痴話喧嘩をすることもあるだろう。だがそれは二人の絆をより高みに昇華させるための試練。

「えへへー…」

 口元が緩むような妄想は止まらない。ある夏の夜、ヴィリエでも特に有名な九番街のデートスポットに連れ出す。そこで心地よい潮風を感じつつ、満天の星空を眺めたり静かなさざ波を聞いたりしながら、ムーディーな会話を繰り広げる。砂場に落ちた一粒の真珠を探るようにタイミングを見計らい、周囲に同じ目的の男女がいるにも関わらず逆にその雰囲気の後押しもあり、さぁ、自分とヴィクトリアがチョコレートよりも甘い接吻を交わそうと唇と唇が合わさるその直前!……妄想の世界がガラガラと音を立てて崩壊した。

「そんなわけ、ないよな~……」

 ゼクスががっくりと頭を垂れる。

 推定年齢が近いタルとヴィクトリアとは直ぐに意気投合し、そうでなくとも孤児院では生活を共同して行なうようになる。性を意識しない年頃では一緒に裸で入浴をしたし、距離が近過ぎても気にもしなかった。成長するにしたがってそれは次第に無くなるが、共同生活の最中、洗濯当番の時などに生々しいものを見る事が何度もあった。入浴のタイミングを誤り浴室で鉢合わせる事もあった。ゼクスにとってヴィクトリアは血縁関係がないとはいえ、妹。あまりに知り過ぎている。けれども、年頃になってからもこうして会っているのは二人の絆が深いことを意味し、ゼクスとしては非常に複雑だった。

 本当に無理なのか…?

 いや、やはり無理だ。ゼクスは悲愴感を胸にそう結論付けた。それにしても、このメモがヴィクトリアからのものであるのが濃厚で且つ重要な意味が込められているとしても、内容の真意が遠回しな艶書だと直結するゼクスの思考は、メモの送り主にとっては大きな想定外といえるだろう。

「あー…ヴィッキーを悲しませたない。せやけどこればっかりはせんないわ」

 そう言ってゼクスがコーヒーをゆっくり口に運ぶ。この時、彼はブラックコーヒーの事を完全に忘れていたため、手痛い油断を呼んだ。カップのコーヒーはまだ湯気立っており、淹れたてと呼んでもよいほどの熱を保っていたのだ。

「熱っ、それに苦っ!スェーミさんはこんなに不味いのを飲んどったんか」

 小さく咳き込むほどブラックコーヒーとは何たるかを知ったゼクスは、同時に三十分をとうに過ぎていることを思い出す。彼がカップに注がれた黒い液体を舌をひりひりさせながら飲み干してカフェを後にした時には、一時間を過ぎていた。

 ……

「(はぁ、大人って訳分からへん。なんであんな不味いの飲もう思うんかな)」

 背伸びをしようとした結果が手痛い代償になってしまったゼクスが元の場所へ戻ると、そこにはヨアヒムが居らず、係船柱に腰を下ろすスェーミがいるだけだった。彼は横目でゼクスを一瞥した後、沈み始めた太陽に照らされる海へと視線を移した。

「遅えぞ、この野郎」

 その割には待たされた、という様子が見て取れない。気怠そうなその言い方が推量を掴みきれないものにしているのだろう。ゼクスはスェーミの心中を探りながら慎重に会話を進めた。

「すみません。ヨアヒムさんは?」

「奴は今夜実行する捜査の許可を得るために、ハゲの所に行った」

「捜査?ハゲ?」

 ハゲとは先刻捜査本部にいたヨアヒムの上官、局次長のこと。捜査とは今夜にでも九番街の連続殺人犯を捕らえるために大規模な捜査作戦を展開し、その中でもスェーミはおとり捜査の任務に就くということだった。

「お、お、おとり捜査ですか?僕、今日正式に入隊したばかりですよ」

 彼は今日入隊したばかりのルーキーの中のルーキーであって、決して臆病な若者ではないことを踏まえつつも、そういう人物がおとり捜査という危険で重要度の高いチャレンジングな任務に尻込みするのは致し方ない話ではなかろうか。そんなゼクスの人格を心得てかそうでないのか、スェーミは突然の任務に窮する彼に対し、突き放すような事を言った。

「別にやりたくねえならいいぞ。帰ってマスでも掻いてろ」

「何ですか?その“マス”って」

 海へ視線を移していたスェーミが、怠そうに再びゼクスを一瞥する。つまらない事を皆まで言わせるな、というゼクスの問いに対する無言の返答だが、彼はきょとんとしており、本当に何の事か分からない様子だった。

「うるせえ。やるのかやらねえのか、どっちだ」

「も、勿論やります。やらせて下さいっ」

 決意したゼクスの活きの良い返事を聞きスェーミが街灯の時計を見ると、十九時を少し回った所だった。おとり捜査の件はヨアヒムが都合をつけるとして、そろそろ一旦戻り報告しなくてはならない時間だ。その事を念頭におき、スェーミは今後の展開としてゼクスとは一旦別行動を取ろうと結論を出した。

「よし。オレは時間までヨアヒムとこの話を練り込んでいるから、お前は支部に戻って報告書を書け。その後二十二時までに捜査本部に戻って来い」

 カフェ・道草でのメモがゼクスの頭をよぎる。確か約束の時間は二十三時だった。

「ええっ、報告書ですか?でも僕、どう書いたらいいか…」

「ローズかそこら辺にいる奴を捕まえて聞け。時間には遅れるんじゃねえぞ、これは作戦なんだからな」

「あの、それと僕はこれからどこに帰えればええですか?」

 いざテンプル騎士になれたのは良いものの自分の身の回りの事がおぼつかないこの状況に、せめて安心出来る寝床が欲しい、とゼクスは憂慮していた。ところが、スェーミからその憂いを一気に払拭する返答を得ることが出来た。

「オレの部屋をお前にやる。今頃ババアが鍵を内側から掛けられるようにしてあるだろう」

 それでは、スェーミは今後一体どこで寝泊まりをするのか?…そんな疑問すら浮かばずに、ゼクスはこれからの生活を想像した。

 あの殺風景な部屋が自分の新しい寝床。いや、殺風景な部屋になるのかどうかは自分次第なのだ。それにあの集合住宅は教会や教会の関係施設で勤務する者、他に修道士・修道女向けにも貸し与えられる単身世帯用住居な上に、なんと女子寮だ。粗暴で危険な人間が住む場所とは縁遠く安全だし、ラッキーな展開があるかもしれない。そして何より完全に自分のプライバシーが守られた部屋というのが素晴らしい。訓練所ではどうしてもルームメイトがいて、なかなか一人になれる機会が無かった。しかも、やたら触ってくる仲間がとうとう自分に欲情し、いつの間にか布団の中に入り込んでいたなどという身の毛もよだつ恐ろしい事もあったが、そういう貞操が脅かされるような事も今後起こることはなかろう。

 ゼクスは心の中でガッツポーズをした。ひどい二日酔いと熱くて苦いコーヒーを飲んで舌をひりひりさせるという災難には見舞われたけれど、それも部屋が手に入るという吉報に比べればどうという事はない。

「おい、何をしている」

 …心の中だけでなく体もガッツポーズをしてしまっていた。半目になってじっとりとした眼差しを向けるスェーミへ適当に挨拶をした後、ゼクスは幹線通りへと歩き、辻馬車を拾って二騎へと戻る。到着時刻は、支部のエントランスにかけてある時計によると十九時と半分を経過しようとしていた。

 ………

 ……

 …

「遅いっ」

 ごつん、という音がゼクスの頭の中に鳴り響く。

 仔犬の躾も仕事の内であるとはいえ、スェーミは眉間に皺を寄せて本当に憤慨した様子で捜査本部の入り口で待っていた。

「あ、あの、スェーミさん聞いてください。あの後僕、二騎に戻って残業中のローズさんに報告書の書き方教えてもろうて、四苦八苦しながら、まぁ腹ごしらえもしつつなんとか書き終えて二騎を出たら、まだ二十時半を過ぎたところやったんです。それでああ、これならなんとか間に合うなぁ~って思て辻馬車拾うたら、御者がナンパしてきよったんです。いつもやったらちゃっちゃと断って相手にせえへんのやけど、なんかいつもみたいにならんで、僕が指定した場所とは別の場所に行こうとするんですよ。僕、ほんまにこれまずいんちゃうかって…」

 ゼクスがしどろもどろになって説明する中、再び彼の頭の中で鈍い音がした。

「何を言っているのか全然分からん。いいから早く来い、この馬鹿野郎」

「いたたた、す、すみません」

 ゼクスの身に何があったのかは機会があればその時に述べるとして、腕を引いて引かれて二人が捜査本部へ足を運ぶと、そこにはヨアヒムと三名の襤褸を纏った物乞いがいて、そのヨアヒムも襤褸に着替える所だった。物乞い達はよく見ると先刻目にした蟇隊長と衛兵隊員らしく、やって来た二人を物珍しそうな目で見ている。捜査本部は彼らしかおらずガランとしていて、その様子が今夜展開される大規模な捜査作戦が既に決行されている事を教えてくれた。

「そんな娘にやらせて大丈夫なのか?」

「テンプル騎士団はよほど人手不足とみえる。あっはっは」

 腹を揺らして笑う蟇隊長らの揶揄と嘲笑が二人を不快にさせる。ゼクスが苦々しく上目遣いでスェーミの反応を見るやいなや、彼はちっ、と舌打ちをして、直ぐ近くの長机に散乱している傷んだ襤褸をゼクスに手渡した。

「これに着替えろ」

「ええっ、こ、これにですか?」

 継接ぎだらけで灰色に変色した襤褸を受け取る。徐に臭いを嗅いでみると、今まで嗅いだことの無い、独特な汗の臭いと体臭がゼクスの鼻腔を痛烈に刺激した。これを着たら体調不良を起こしそうで触れることも躊躇われるが、それをさも当然のようにヨアヒムや蟇隊長らが着替えている。

「くさっ、めっちゃくさっ!スェーミさん、ほんまにこんなん着るんですか?」

「当たり前だ。おとり捜査がどんなものなのか知らねえのか」

 呆れたようにそう言うスェーミもさっさとローブを取り、戦闘服の釦も外し始め、細くはあるが堅そうな上半身が露わになる。腹筋は割れているが隆々という程でもないバランスの取れた筋肉量は、戦闘向きでしなやかで力強い動きが出来ることだろう。他には、複数箇所に大小の傷跡も見ることが出来た。特に大きな傷跡は右の脇腹にあるもので、きっとその時、相当の重症を負ったに違いない。

 そうやってゼクスはスェーミの着替える姿をまじまじと見ていたが、

「ぼさっとするな。お前も早く着替えろ」

 …という言葉にいい加減、着替えなくてはならない状況に陥った。だが着替えを終えたヨアヒムがスェーミの言葉を聞き、流石にそれは可哀想だろう、と苦言を呈す。

「スェーミ…お前がそこまでデリカシーの無い男だとは思わなかったぞ」

 心底呆れた様子でヨアヒムが言った。スェーミの発言はよほど冷酷に聞こえたのか、先程は嘲笑していた蟇隊長らも加わる。

「そうだそうだ。せめて別の部屋で着替えさせてやれ」

「テンプル騎士団は気遣いも出来ないのか、バカヤロー」

 ああまたか、とスェーミは思う。

 事情を知らない衛兵隊の彼らはゼクスを女だと思っているのだ。今後、本人の代わりに説明をするのは何度目になるのだろうか、などと辟易するのがスェーミにとって日常化してゆくのだけれども、まだまだそれは先の話。この時の彼は衛兵隊の非難に対して反駁する気概は十分にあった。

「おい、言っておくがな、コイツは――」

「ほな直ぐ着替えて来るんで待っとってください」

 男だ、と言い切る前にゼクスが部屋から出ていった。スェーミからしてみれば彼がわざわざ部屋を変えて着替える必要があるのか不思議に思うところだが、ふと気づけば、衛兵隊の男たちによる沈黙と、男性が女性に対して行う配慮の欠如という一般常識の観点、それに教会の騎士という自覚の欠如から来る軽蔑の眼差しがスェーミの全身をぶち抜いていた。

 ……

 …

 九番街連続殺人事件。

 静謐なるさざ波の音と夜に光る碧落の星々に紛れ、血を吸い取る、若しくは抜き取り、その後全身の肉を喰らうという、残忍且つ不可解な方法で五人もの罪なき人間が連日殺害された事件。

 犯人の主な犯行現場は海側にある路地裏の特に入り組んだ場所で、土地勘の無い者からすればまさに迷路である。そのため、衛兵隊の捜査方針として犯人は九番街に住む人間と考えていた。これを考慮しつつ今夜も犯行に出るとにらんだ衛兵隊は、捜査本部長である局次長による指揮の元、幹線通りから海側の方面に警備を強化し、目撃証言に期待を懸けて、真犯人と思しき“女”の係わる娼館やキャバレー、それに教会とその周辺を満遍なく警備監視する。それ以外にも人が集まって出入りが多い施設も監視対象とした。衛兵隊は制服・私服隊員合わせて三百五十名を動員し、テンプル騎士団は二騎より三十名を動員。九番街は既に人気が無く、観光向けにデザインされた街灯や夜の海辺のムーディーな通りも凄々切々、蕭条たる荒野の如し。捜査本部のある海運局周辺も街灯以外の照明は落とされ、暗く静かな夜となった。

 そんな中、着替えの終わったスェーミとゼクスは既に捜査を開始している衛兵隊とテンプル騎士団を他所に、海運局の前で一旦自分達の捜査内容を確認をするため足を止めていた。スェーミはいつも通りの様子だったが、ゼクスはというと不健康なほどに心臓をどくどくと打ち、緊張と憂慮が渾然一体となって彼を攻めたてていた。

「いいか。お前は犯人とみられる野郎と出くわしてもどうにかしようとせず、自分の身を守る事を最優先に考えろ。その次に照明魔法でオレ達に知らせろ」

 煙草を海運局の壁に擦り付けて消した後、頬の汗を拭いてスェーミが言う。今夜も熱帯夜で、海の湿気も合わさり不快な汗が顔を、腕を、背中を伝う。テンプル騎士の装備を解いた二人は今、真夏の暑さに苦しめられ、魔法効果の恩恵を改めて実感させられていた。

「は、は、はひ」

 緊張のあまり声が裏返るゼクスに、それは暗闇故に誰にも確認出来なかったけれど、スェーミが少しだけ微笑む。そしてゼクスの背中をぱん、と軽く叩いた。

「心配するな、大丈夫だよ」

 スェーミにしては珍しく緊張する新人を落ち着かせようとする粋な計らいだが、彼の裏返った声と吃りは変わらずまるで効果が無かった。

 そのゼクスはゆったりとした襤褸に着替えてみたが、彼の外見が外見なので変装の意味がなく、むしろ目立ってしまう。仕方がないので長い頭髪は彼が所持している緑色の紐ではなく急遽用意したどこにでもあるゴム紐でまとめあげたが、知識や経験の無い男達が試行錯誤してやったのでへんてこな感じに仕上がっている。後はフードを被り鼻と口を覆うマスクを付けて顔を隠し誤魔化した。また洗礼の剣を持ち歩くことは出来ないので、これは全てのおとり捜査員も同様だが、護身用にしては心許ないナイフ一本を携帯している。新人がおとり捜査を実行するのに緊張が伴う要素が見事に並んでいた。

「ねえ、スェーミさん。犯人は捕まりますかね?」

 ゼクスの問いに、夜の海に浮かぶ陸繋島を見ていたスェーミが答える。

「今日が駄目でも近々捕まるだろう」

「そうやとええねんけど…」

 お調子者然としたゼクスがなかなか愁眉を開かない。経験上、任務に憂えるよりもまだ思案した方が良いと知っているスェーミは、それはゼクスの為なのかは分からないけれども、少しだけ自分の考えを話し始めた。

「オレが思うに犯人は鉄砲玉…いや、蜥蜴の尻尾だな」

「え?どういう事ですか」

 一面に緊張を表すゼクスの顔を一瞥した後、再び夜の真っ黒な海に視線を移したスェーミが答える。

「犯人は一日一人、五日間連続のペースで殺してるんだぜ。仮にお前が五人殺すとしたら、そういうやり方をするか?」

「しません。間置いて、油断してる所をぶすーってやると思います」

「…だろ?焦慮に駆られてヤケクソになってるなら目撃証言にもあったみたく誘い出すような事をせず、通り魔みてえに襲ってもいい。捕まらねえ自信があるにしたって、今夜のようにオレ達が動けばリスクが高まる上に、イカれた手口の殺しなんざ一層難しくなる。多分犯人は、なんだよ」

 それっきり黙ってしまったスェーミの言葉を要約すると、恐らく犯人は交渉や説得に応じず規定通りに殺人を犯すだけの捨て駒。だとすると、この事件の背景には“犯人と主従関係にある者、若しくは組織的な何かの存在”を彼は考えているのか。そうなればこれはただの殺人事件ではない。仮に今夜犯人を捕らえたところで、また次の連続殺人犯が生まれるかもしれない。

「それにあの最初の殺しだ。どうも犯人は犯行現場から忽然と姿を消す知能や能力を持っているようだが、その後の殺しを考えると、そもそも密室にする必要があったのか考えちまうんだよな」

「どういうことですか?」

 次の煙草に火を点けたスェーミが言う。

「密室状態で殺しをするには理由があるんだ。意味無くする奴ぁ、小説の読み過ぎか快楽殺人。まぁイカれてることに変わりはねえな」

 そう言った後にスェーミがふん、と鼻を鳴らす。ゼクスは密室殺人をする意味について考えるが、喉元まで出かかっているのにそれを的確な言葉で言い表せず、やきもきした。

「密室殺人ってのは他殺を自殺に見せかけたり、自分が殺人に関与していない事を証明するために行う偽装工作だろ?今回の件を見ると死体からして殺人だってのは明らかだし、具体的に誰がやったかなんて目星すら付いていない状態なんだ。だからわざわざ密室で殺す意味なんて無いんだよ。仮に密室でなければならない理由があるとして、後の四人は普通に屋外で殺されているが、さて…どうしてだろうな?」

 ゼクスはスェーミの言う不可解な話にすっかり黙り込んでしまった。否、ただ黙っている訳ではない。ゼクスも必死に考えているのだ。

「そ、そうですね…急いどったんちゃいますか?犯人は被害者を食べてるっちゅうし、めっちゃお腹が空いとったのかも」

「……」

 一見直感による貧相な発想だが、スェーミは意外にも否定をせず無言だった。そうかもしないしそうではないかもしれないと彼自身答えを出せていないのだとゼクスは察するが、“犯人は空腹だったので屋外での殺人に切り替えた”というのは、理由として成立するものなのだろうか、とも思った。それに密室状態だった倉庫から犯人はどうやって逃亡したのかも分かっていない。

 …ゼクスは何も喋らない先輩の代わりに改めて密室に関する様々な事について考えたが、やはり答えを出せなかった。

「ゼクス。この事件の事象は意味が無いようで意味があると考えた方がいい。それと先入観を捨てることだ。オレ達は恐らく何かを見落としている」

 スェーミの言うことを参考に、ゼクスはもう少し知恵を絞って考える。“何も知らない蜥蜴の尻尾”、“意味が無いようで意味がある事象”。そして何かを見落としている…?

 スェーミの狙い通りゼクスは思考を始めているが、街灯に添え付けされた時計は既に二十三時を過ぎている。捜査を開始しなければいけない時間になっていた。

「よし、オレは犯行現場周辺を見て回るからお前は埠頭の倉庫通りの方に行け。あっちの方はまだ入り組んでいないから何かあっても逃げやすいし、比較的安全だろう」

「りょ、了解」

 危険な犯人が徘徊しているかもしれない中での単独行動。それをついに実行するとなると愈々緊張が高まる。ゼクスは懐のナイフを手で探り、確かに携帯していることを確認した。

「だが油断するなよ。犯人は“女かもしれない”ってだけで、実は男かもしれん」

 スェーミが返す返す警戒するよう言い残し、九番街の夜の闇に溶け込んでゆく。残されたゼクスはスェーミの気配が完全に消えたのを確認すると、全速力で倉庫通りを目指して走り出した。その時に彼が思い浮かぶものは、おとり捜査とはなんたるか、と問う時のスェーミの冷たい目と自分の話を楽し気に聞き微笑むヴィクトリアの目。ゼクスの緊張は入隊初日にして行う事となったおとり捜査によるものだけではない。夕方、カフェ・道草で入手したメモの事もあったのだ。結果的に仕事においてもプライベートにおいても倉庫通りへ行く事になってはいるものの、彼はプライベートを優先したのである。でなければ、被っていたフードが取れても直さず、付けていたマスクを外してまで全力疾走はしない。もし犯人が走る彼を見たら、何かしら不審に思うことだろう。

 海運局の前にある、時計が添え付けされた街灯が見えなくなるまで走ると、遅刻はしているがとにかく一歩一歩確実に、それも速いスピードで向かっている事から、ゼクスに周囲の状況を観察する余裕が生まれる。海側からしきりに生温い潮風が吹き、星の瞬きが海面を反射し、それに呼応するかのように水面の揺れが広がっている。ちゃぷん、ちゃぷん、と古代に造られた石積みの波止場に小さい波がぶつかる音も聞こえていた。

 ゼクスは走りながら思う。

 今夜のような明日の見えぬ動乱に紛れ、屋根の上に登って恋人と愛を語り合えれば一生忘れることの出来ない記憶となるに違いない。訓練生時代、仲間を連れだって六番街にある歌劇場に訪れたことがあったが、愛や恋といった演目のものを観ても、その手の教養が無い自分達にはぽけっとただ観ていただけで、内容に関してはてんで頭に入らなかった。けれど、憧れはした。特に自分の胸中を伝える、愛の告白のシーンなどだ。

 複雑な思いを胸に、倉庫通りがあと少しまでになってきた。訓練所の指摘するゼクスの欠点は、落ち着きの無さと体力の持久力の無さを挙げており、この時もそれが祟り彼を苦しめた。だがゼクスは正確に時の刻みを計る事ができ、約束の場所である倉庫通りへは、二十三時十五分を伝える街灯の時計から十分と少しを経過した所で到着したのを彼は知っていた。

 倉庫通りは海運局周辺、海水浴場等と違い、画一的な造りの建物が立ち並ぶ。違いがあるとすれば古い・新しいくらいのもので、街灯も遠間隔で配置されており暗い。普段のこの時間の倉庫通りは漁夫や水夫達が酒盛りをしたり、酔っ払いや物乞いが屯し賭け事に興じるような少し危ない場所だ。今のこの人気の無さから、彼らは少ない日銭を賭して遊ぶことはあっても生命までは賭けない、懸命な者達らしい。そんな場所に、ゼクスはぜいぜいと息を切らし、変装用のボロボロになった革靴をぱたぱたと周囲に足音を反響させながらやって来た。愛の告白が行われるとなると秘密が保たれるという意味では都合の良い場所だが、今の彼にそこまで思考を働かす余裕はなく、おとり捜査中である立場も忘れて声を出して呼んだ。

「ヴィッキー、どこー」

「ゼクっちゃん」

 ヴィクトリアの声だ。平時でも女性がこの倉庫通りを一人歩きするのは危険なのに、彼女は街灯から離れた暗がりで一人そこにいた。あのメモを置いていったのはやはりヴィクトリアだったのだ。ゼクスはまだ彼女が待ってくれていた事に安堵するが、今度はヴィクトリアが何のために自分を呼び出したのかを想像する。その想像はどうしても気まずい内容となってしまい、彼女へ進む足を鈍化させていった。

「待っとってくれたんやな。もうおらへんか思うとったわ~」

 ゼクスはそう平静を装うが、明らかに夕方会った時の余裕ある態度とは違い、よそよそしくなっている。ヴィクトリアはそのことに気付いてか気付いていないのか、とにかく暗がりの中でもゼクスであると確認出来て安心したのか、今度は彼女からも歩み寄って来た。そして互いの距離およそ一メートル、暗がりでも十分にお互いを視認出来る距離になって、ゼクスは愈々妹に対し強く意識してしまっていた。

「どうしたの、その恰好?それにその髪型は?」

「あ、これ?」

 ヴィクトリアの問いにこれ、などと言うが、変装をした姿の自分を鏡などで見ていないので、実際にはどうなっているのかは分からない。ただ彼女の視線が自分の目より上へ行っているので、おそらく頭髪が余程おかしなことになっているのだろうという事は理解出来た。ゼクスは、火急とはいえヘアアレンジをスェーミとヨアヒムに任せて後悔するのだった。

「ちょっとこっちに来て」

 ヴィクトリアに続き、ゼクスも街灯の下へやって来る。旧型ガス灯の頼りない燭光によって照らされた彼女の姿は、半袖の白いブラウスにミモレ丈の黒いサーキュラースカート、それに黒いアンクルストラップパンプスといった彼女らしい清純な印象を持たせる服装だった。孤児院を出てその後の、年頃になった妹の普段着を見た感想を伝える前に、後ろを向け、と言われゼクスが背を向ける。

「せっかく綺麗な艶のある髪なんだから…」

 そう言ってヴィクトリアがもぞもぞとゼクスの髪を触り、何かを始めた。手慣れた様子で、どういう訳か男達にやられていた時と違って不快ではない。くい、くい、と時折首を後ろに引っ張られるもそれが痛くなくて、すっかりされるがままになっていた。

「なんかさ、こうしてると子供の頃を思い出すね」

 ヴィクトリアの言葉にゼクスもああそうだね、と微笑む。子供の頃といえば彼らの場合は十歳前後を連想し、当時のゼクスは頭髪を結ぶ時、院長夫人かヴィクトリアに頼んでいた。

「あの時も結んであげてたよね」

「あの時?」

 …………

 ………

 五年前、春。聖ロスタインの屋根。ここは孤児達の密かな遊び場となっているが、その遊び場を院長夫人が関知しないはずがなく、危険なので孤児達には遊ぶことを禁じている。それにもかかわらずゼクスは訪れていた……この新しい門出も例外なく。

「ゼクっちゃん、もう行かないと遅刻しちゃうよぉ……」

 聖ロスタインの庭先とその周囲の街並みを一望出来る場所で、膝抱えの姿勢のまま動かない修道服姿のゼクスにヴィクトリアが言う。

 ………呼び起こされる記憶は得てして連続性が無く、テーマに絞られた大雑把なものなのは誰もが思うところだろう。それにほんの数年前だとはいえお互いの立場が変わり毎日を忙しく過ごしていれば、どういう訳か記憶の中の色彩が風化し、実際もきっとそんな色をしていたに違いないだろうけれどもそれは知識としての色彩であって、本当にその時目に映るものがどんな色をしていたのかは、もう忘却の彼方だ。この時、ゼクスとヴィクトリアの記憶の中の色彩はセピア色やモノクロームだったり、二人の記憶が一致すれば正確な彩色が施されたりと変化して覚束無いものだったが、本人がその場にいる事で、声に関しては正確に再現することが出来た。もしこの場にヴィクトリアがいなかったら、ゼクスを呼ぶ彼女の声はくぐもったように聞こえていただろう。

『ゼクっちゃん、本当にダメダメだったよね』

『あー、止めて。あの時の話はほんまに止めて~』

 この日、ゼクスにはテンプル騎士団訓練所へと入所する式典があり、その時間は刻一刻と迫っていた。彼は時間にルーズでものぐさな性分であったが、この時は別れを惜しむあまりに感傷的にもなっていて、面倒見の良い妹をいつも以上に困らせていたのだった。

「僕、行きたない、行きたないよ…」

「そんな事言ってもしょうがないでしょう?」

 ヴィクトリアが鼻をすすりながらぐずつくゼクスの後ろに腰を下ろし、もう数え切れないくらい触ってきた、彼のブロンドの直毛を結び始める。これで兄の頭髪を結ぶのは最後になるのかもしれぬと思うとヴィクトリアも目を潤ませるが、色々とだらしない兄の手前、彼女は泣く事を忍ぶのだった。

『あー、そうやった、この時もヴィッキーにやってもろたんやった。せやけどどんな感じかよう覚えてへんわ』

『ゴムとかピンとか使って一生懸命やったのに~。確か、こんな感じだったんだよ』

 …やがて直毛を巻かずに作ったシニヨンヘアが完成すると、いつも屋根へ上がる時に利用する窓から二人を呼ぶ声がした。

「ゼクス、いい加減にしなさい。ヴィッキーもいるなら連れてきて頂戴」

 院長婦人だ。もう時間が無い。

 ヴィクトリアはゼクスを引きずるように聖ロスタインの門前まで連れてくると、そこには待ちくたびれた様子の院長夫人、来年に孤児院を出るのを控えた孤児達、それにタルがいた。

「やっと来たかよ——って、なんだその髪型?もう女そのものじゃないか」

 訝しげな表情をした後にタルがけらけらと笑う。当のゼクスは悄然としたまま反応は無かったが、周囲や院長夫人にはウケが良く、あら可愛いじゃない、とヴィクトリアの腕前を褒めた。

 ヴィクトリアは明日、タルは明後日に孤児院を出る関係でこうして見送りに来ているが、やはりこのお調子者で騒々しい家族がいなくなるというのは、いざその時になると寂寥感が際限なく広がってゆき、目を潤ませる。必要な別れであると知りながら本当は“行くな、残ってくれ”と思うのは、それは愚かではない。別れを惜しむこと、別れを拒否することをその時のみ心に思うだけならそれは美徳にもなる……院長夫人の薫陶を受けた孤児達は、皆同じ思いだった。

 そのゼクスが、目と鼻をぐずぐずさせてタルの方へ向き直る。

「タル坊……」

「なんだよ?早く行け、遅刻するぞ」

 そう言った瞬間、ゼクスがタルの貧しい胸元に埋もれて泣き叫ぶ。予想だにしない行動に流石の彼女も回避出来なかった。

「ああっ、お、おい!」

「タル坊ー、行きたないよぉ。僕、どないしたらええねん。タル坊ー」

 歌うように春鳥が囀り、人々が優雅に笑いながら近くを通り過ぎた時、静かに風が吹き、風の動きに合わせて桜の木々が揃って肩を揺らす。モノクロームの花弁が舞うと穏やかな香りが鼻腔をくすぐり、未来への限りない希望と夢を持った草花が目覚めて息吹く。

 さあ、旅立とう。今こそその時。

 聖ロスタインの全てがこの門出を祝福しているようだったが、当の本人は未だに飛び立てずにいる。観念したタルは、この出来の悪い愛すべき弟のために手を差し伸べるのだった。

「……全くしょうがない奴だなぁ、一緒に行ってやるよ」

 こうしてゼクスは皆に見送られながら、タルと手を繋ぎ訓練所へ向かった。

『ねえ、聞きたいんだけど…ゼクっちゃんは訓練所を卒業する時もあんな感じだったの?』

 …………

 ………

 聖ロスタインの屋根で過ごす時のように、岸壁の縁に並んで腰掛け、足を宙ぶらりんにさせる二人。千古不易の潮風と波止の音を感じながら、気温によるものではなく嘘をつく後ろめたさから出る汗を拭いてゼクスが答える。

「も、勿論。孤児院の時はまだ子供やったからなー、あっはっは」

 彼はこれまでに、一体どのくらい妹に嘘を言ってきたのだろうか。実際の所、あの時スェーミが現れなければいつまでもだらだらと訓練所を離れられなかったかもしれない。それに訓練所へタルと手を繋いで向かっていた時は途中でうら恥ずかしくなり、彼女には礼を言ってちょっとした用事のために席を外すような形で別れた。この二つの経験をしてもまだ、ゼクスは別れが苦手であるということに気付いていなかった。

 この後もヴィクトリアが話を振っては二人で昔話に花を咲かせるが、その最中にゼクスは、どうもヴィクトリアは愛の告白などで自分を呼び出したわけではないということに直感で気付く。それは彼に安堵を呼びいつもの調子へと戻させるが、今度は妹が自分と人気の無い場所で会おうとする真意が気になった。まさか昔話をする為に呼び出したわけではあるまい。

 ゼクスの思考が仕事のものへと変化してゆく。

「ヴィッキー。僕、実はおとり捜査でこんな格好してんねんけど、夜は危険やからもう帰ろう。僕が家まで送るで」

「おとり捜査?」

 ゼクスが立ち上がると、ヴィクトリアもゼクスの手を借りてパンプスのヒールによろめきながら立ち上がった。

「うん。今夜も犯人は動く!ってテンプル騎士団と衛兵隊は思うとって、めっちゃ気合い入ってんねん」

 それを聞いたヴィクトリアの表情がカフェ・道草で見た時と同じ、形容し難い複雑な表情になった。

 あっ、まただ、と思ったゼクスは、もしかすると彼女は事件について何か知っているか、或いは関与しているかもしれぬという、振り払っても振り払っても立ち込める暗い靄が胸中に広がる。

 どうか君と事件とは無関係であってほしい、いつものように微笑んでいてほしい。

 君が笑えない要素があるならば、それを除去すべく兄として立ち上がらくちゃいけないじゃないか。

 以前困った顔をして僕を脅かしたことがあったよね。そうだ、きっとそうやってまた僕の反応を見ているのだろう?

 ………女神イリスは嘘をつかない。そして自身の心も、嘘をつかない。だがゼクスはどうしてもこの不快な気持ちを払拭したく、妹の目を直視しながらそれこそ告白のように真剣に、注意深く質した。この時のゼクスは、入隊したばかりだというのに一人前のテンプル騎士の顔になっていた。

「ヴィッキー、なんか事件のことで知ってることあるの?もしそうなら僕に教えてくれへんかな。犯人はほんまに危険——」

「ゼクっちゃん、あの!」

 何かを訴えたい気持ちが前面に出てか、唐突で、それも彼女らしくない叫びにゼクスは発言を抑えとどめられてしまった。和やかな雰囲気から一転、急迫した危ういものに変化する。

 ゼクスの直感が言う。

 彼女は、ヴィクトリアは、愛の告白でもなく昔話をするためでもなく、非常に重要な何かを決意し、その決意を成就するために自分を呼んだのだ。そして決意は固く、自分ごときが、いや、親・兄弟姉妹といった立場の人間だからといってどうこう出来るようなやわなものではない。彼女の決意は固くなくては、強くなくてはいけなかったのだ。それが今回の事件と関係があることだとすると——。

「しっかり聞いてね?私、実は…」

「ヴィッキー、僕、聞きたない。その先の事、怖うて聞きたない!」

「ダメ!聞いて!私は——」

 逡巡と決意の末に紡ぎ出した言葉を兄へ伝えるその瞬間、何かがそれを遮らんとしてか、ヴィクトリアが咳き込み始めた。初めはこんこん、と軽い感じだったが段々げほげほ、と苦しそうになっていき、ついにはごぼごぼと何かを地面に吐き出す。頼りない明かりでもそれが何なのかが分かった。血だ、それも大量の。

 突然…。そう、何もかも突然だった。淑やかな彼女が話を聞いてもらいたくゼクスに叫び、そして意を決して何かを言おうとした矢先、彼女の容態が急変する。この連続にゼクスはパニック状態となり妹の名前を連呼することしか出来なかった。しかしその最中もヴィクトリアは膝をついて蹲り、尚も咳き込んでは吐血する。

「ゼクっちゃん、私…」

「だ、だ、大丈夫かヴィッキー。病気に罹ってるんやったら早う言え!今助け呼ぶからな!」

 ゼクスが照明魔法を唱える。青白く光る光球が倉庫通りの屋根を一望出来る高さまで瞬時に上昇すると、光球がぱっと輪状に広がる。光の輪は地上に向けて無数の光芒を作り出し、光芒と光芒の間隙から光の鱗粉がゆらゆらと舞っているのがはっきりと見て取れた。この時ゼクスは治癒魔法の展開も検討した。検討したのだが、治癒魔法は外傷に対して効力を有するのは確かだが万能ではない。時に思わぬ作用をもたらし、かえって状態を悪化する事もある。ゼクスは、ヴィクトリアの身に起きていることが判然とするまでこの魔法は使いたくても使えなかったのだ。

「しっかりな。頑張れ!」

 蹲るヴィクトリアの背中をさすっているとやがて咳き込むのが止まり、血を吐き出すのも治まった。地面には血だまりが出来ていたし、咳き込んでいる時は非常に辛そうだったが、それでも彼女はすぅっとゆっくり立ち上がる。

「良かった、もういけるんやな。全く…心配かけさせんといて」

 口の周りを血でべっとりさせたヴィクトリアがゼクスに向き直り、ここでようやく目と目が合う。

 …おかしい。

 何が?彼女はグレーの瞳だが、今は真紅に染まっている。先天性の疾患以外でこれを意味するものといえば、怪物に使役される事を選んだ、人類と人類が信仰する神々に寇する南方の者達の特徴である。彼らは怪物によって体の一部を変形させ、人の住処を襲っては鏖殺して血肉を貪り、そうして奪い取った土地の偶像等の信仰対象となるものに糞尿をかけるなどして冒涜する、人に非ざる魔に堕ちし者達だ。だが南方人の特徴を持つ者は他にもおり、それが邪教の信徒達である。邪教とひとことで言っても多種多様で信仰する対象が違えば教理も異なったりするが、“邪なる教えを是とし、それを我らの信徒に強要し破滅へと導く宣教師ら”と恐れられる、南方から海を渡ってやって来た者達の伝える邪教を、教会はとりわけ危ぶんでいる。彼らは怪物に使役する南方人達と同様の特徴を持たせるのが目的で、その人物の意志を問わずに人体変形の儀式を行って教理に従わさせる。もしヴィクトリアが邪教の信徒であるならば、紅き瞳をしていてもおかしくはないだろう。

「お、あ、あ、あ」

 ヴィクトリアが紅い瞳でゼクスを凝視したまま、絞り出すような声を出す。いや、口の奥から別の何かが異音を発しているのか。その度にどろりと血液が流れ、白いブラウスを汚した。

「ヴィ、ヴィッキー。様子が変やで?」

 後退りしながら言うゼクスの言葉が耳に入っていないのか、ヴィクトリアは凝視したまま両手で彼の肩をがしっと鷲掴みした。少女とは思えぬ怪力で、みしみしとゼクスを締め付ける。

「あ、あ、あ、あ」

 今度は血まみれの口を大きく開く。そこから、直径およそ二センチメートル、長さおよそ五十センチメートルの赤い触手、いや、管のようなものがゆっくり姿を現した。管は独自の意思を持っているのか、先端を尖形状にさせたり、粘性の糸を引きながら丸い孔を空けたりと形状を変化させ、しゅるしゅると蛇の蛇行のように動き回った。ヴィクトリアの口から現れたこの管にゼクスはただただ唖然とするばかりだったが、管はゼクスとの距離がいよいよ近くになると、狙いを定めているのかぴたりと動きを止めた。

 この瞬間、秒を一つ数える前に、ゼクスの本能が死ぬぞ、このままでは確実に死ぬぞ、と報せる。その自身も感知せぬ見えざる意思は、ゼクスに具わる優秀な戦士としての能力を即座に引き出す事に成功した。

 それからは完全に無意識だ。柔軟な動きで抑えられていた両肩を振りほどくと、懐の護身用ナイフを逆手で鞘から抜き出し、今、まさに自分の首に突き刺さろうとする管を斬り払って、間髪入れずにヴィクトリアの急所を突いた。幼馴染という関係、二人の間にある過去の記憶、そして絆。そういった感情に訴える要素を切り捨てるような、瞬刻の出来事であった。

 ヴィクトリアは管を激しく暴れさせて深々と突き立てられたナイフを抜こうとするがそれは叶わず、またごぼっと血を吐くと膝を付き、管の動きも緩慢になると、やがて横向きに崩れた。

「あ、あ、あ、ヴィ、ヴィッキー!」

 己の本能に従い行った結果を悔いるよりも、先ず幼馴染の身を案じたゼクスは彼女を抱き起こし、全身を見る。真っ赤に染まってしまったブラウス、突き刺さるシンプルな柄のナイフ。スカートとパンプスは素材ごとの濡れ光を放ち、まるで失禁したかのようだが勿論そうではない。全て血だ。

「ゼクス、何があった!大丈夫か!」

「お前達は警戒を続けろ!この機に乗じて何かをしでかす輩がいるかもしれん!」

 その時、スェーミとヨアヒムの声、他にも二人の声に混じって何人もの人間による、ばたばたと駆け足する音が聞こえてきた。ここでゼクスは任務を思い出すが、混乱していた彼は正常な思考が出来ない状態に陥っていたため、ただ動かなくなったヴィクトリアの顔を見ているだけだった。そうしている内に足音の主達がやって来て、ゼクスを囲む。

「な…これはっ」

 蟇隊長が息を呑む。それは他の者達も同様で、状況が読み込めないようだった。

「ゼクス、説明しろ。何があった」

 問いつつスェーミが状況を分析する。

 真紅の瞳に血だらけの口から伸びる細い管、血だらけの衣服から突き出たナイフの柄。ピクリとも身動きしない若い娘を抱き起こすゼクス。この娘こそ口の細い管で被害者達を吸血し殺害した連続殺人犯に違いなく、その犯人をどうもゼクスが殺害したらしい。その殺害した娘を前にしてゼクスが目に涙を溜めている所から、彼と犯人と思しきこの娘とは昵懇だったことも窺い知れる。

「こ、こ、こ、この子は…ぼ、僕の幼馴染です」

 ヨアヒムがしゃがんでヴィクトリアの脈を測る。測定を終えると立ち上がり、スェーミに“絶命している”と目配せした。これを見た蟇隊長は機転を利かせ、衛兵隊並びにテンプル騎士団へ連絡させるために同行していた部下を走らせた。

「退けゼクス。お前にも見せてやる」

「な、何をするんですか」

 スェーミはゼクスを退けて先ずヴィクトリアの目を見た。完全に生命の光を失っており、頬に涙を伝わせて虚空を見つめている。念のため急所に刺さったナイフを更に深く抉るように力を込めるが、その動きに合わせてぐらぐらと人形のように動くだけ。絶命を改めて確認したスェーミはヴィクトリアを横抱きにして、街灯の真下で地面に仰臥させた。そして自分の護身用ナイフを取り出すと、ヴィクトリアの衣服と下着を真ん中から切り裂く。それを剥ぎ取るときめ細かい肌と乳房が露わになるが、それよりも更に目を引いたのは、乳房よりやや下、丁度鳩尾の部分だった。

「こ、これは…こんなものは見た事がない」

 ヨアヒムが慄然とした様子で言う。照明魔法の効果はすっかり消失し辺りは寂しい街灯の明かりだけだったが、それでもこの場の全員が瞠目しているのが分かった。

「お前ら衛兵隊がこれを見るのは初めてかもな。これは邪教の、それも南方の紋様だ」

 その紋様は小さかったが、山羊と蛇、それに人間の目を模されたようで、見ようによってはただの刺青と思えなくもない。だが南方・新興問わず、邪教の信徒が必ずシンボルマークとして模す紋様の共通点として、山羊、それに人間の目がある。ヴィクトリアの胸に描かれたそれは、人間の目をした単眼の山羊に蛇が絡みつくという、見る者に不気味で歪曲した危うい狂気を印象に与えた。加えるなら組織性も挙げられる。シンボルマークの存在は他の信徒の存在を顕示しているのだ。

 スェーミが表情を変えず、いつもの冷たい目で言う。

「見ろゼクス。邪教の紋様は邪教の数だけあるが、お前の幼馴染は教会が最も危険視する南方の邪教徒だったんだ。つまりお前は仕事として、テンプル騎士として、幼馴染を特に殺す義務を負っていた」

「なんで?なんでヴィッキーが邪教徒に」

 この時のゼクスには何故スェーミが己に課せられた義務について述べるのか分からなかったし、何故ヴィクトリアが女神イリスを裏切ったのか、それに自分へ何を伝えたかったのかも分からなかった。彼は今、ぽっかりと空いた大きく底の見えない穴に転落し続けているのである。

 …僕は何も分からない。

 ヴィクトリアが居なくなってしまったら、あのお店はどうなるんだろう?

 タルや院長夫人には何と伝えたらいい?僕を責めるだろうか?

 そうだ、僕はヴィクトリアを愛していないわけではなかった。けれど恋人とかそういう意味でじゃなくて、兄妹愛として好きだったんだ。

 ああ、ヴィクトリア!どうして!

 涙をぽろぽろと流して嗚咽を漏らすゼクスだったが、スェーミは構うことなく言った。

「この――」

 化け物は、と言おうとしたが流石にそれは今のゼクスに酷であるとみえて、言い換える。

「娘は、体の一部を変異させている。これを見ればお前にも分かるだろう?九番街の人間を脅かしていた一連の連続殺人事件は幼馴染によるものだと。その幼馴染の凶行をお前が止めたんだ。“連続殺人犯”という化け物を殺すことで、これから殺される運命にある人間を救ったんだ。しかもお前は自分の身を守りつつ照明魔法でオレ達に報せるという、指示通りの仕事を完璧にこなした。それを咎める奴なんていやぁしねえ、だからもうめそめそと泣くな!」

 スェーミが声を荒らげる。

 人類に仇なす化け物を殺すことは、即ち人類の利に直結する。それは邪教徒もまた同じ。結果的にゼクスは名誉あることを成したのであるが、それでも黙っていられなかったヨアヒムが毅然とスェーミに抗議した。

「もう止めろ!この子は昵懇だった人を自らの手で殺めてショックを受けているんだぞ。それだけじゃない、邪教徒――」

 ヨアヒムが話すのを跳ね除けるようにスェーミが反駁する。

「生憎だがオレはそういう感情論を二の三の次に置く主義なんだ。それに今話して聞かせているのは一般論であって、欠伸が出るぐらいに当たり前の話なんだぜ」

 スェーミが立ち上がり、汚いものを見るかのような目で言う。その視線の先はヴィクトリアの亡骸だった。

 ヨアヒムは理性的でどちらかというとスェーミと考え方が類似しているが、今のゼクスの心情を慮ればこの亡骸へ唾棄すらもしそうなスェーミの態度に対し到底諾うことの出来ぬもので、重ねて断乎たる抗議をするに至った。ゼクスもそうだが、同様にヨアヒムもどうしてスェーミがこのような言行をするのか理解出来なかった。しかし如何なる理由であろうとどうだって良い。彼はどうしてもこの非情な男を許せなかったのである。

「貴様の冷然とした考え方にはウンザリだ!何故幼馴染を失ったこの子の気持ちを忖度しない!何故そこまで人の感情を無視した捜査をする!人の成すことには何事も動機がある。そこを突き詰めれば必ず感情があるんだぞ!」

「やかましい!オレ達テンプル騎士は常にクソ共との偶発的な戦闘が付きまとう!それを感情に流されず、どんな局面でも合理的且つ的確な判断をしなければ早死にするだけなんだ!…ふん、テメエは机にふんぞり返ってりゃいいんだよ。所詮現場向きじゃねえんだ!」

「貴様!」

「来いよ。今度という今度は分からせてやる!」

 二人は仕事を共にする事が度々あって、両者とも物事をクールに対応する傍らこうして意見の不一致により言い合う事も無くはなかった。ただ、内心お互いに対して煮え切らない思いを腹に溜めていたものがあるのだろう。そのボルテージが急上昇し、ついには爆発した。取っ組み合いを始めるスェーミとヨアヒムを、蟇隊長他その場にいた衛兵隊員らが止めに入るが、それでも取っ組み合いはおさまらなかった。

「二人共止めてください。もう、ほんまにお願いやから止めてください!」

 びりり、と音を立ててヨアヒムが着ていた襤褸の上衣が破れ右の鎖骨から肩が露出し、愈々二人の間に殺気がぶつかりそうになった時、ゼクスが突然叫んだ。するとスェーミとヨアヒムはバツが悪そうな顔をして互いの襤褸を掴む手を離し、周囲に気まずい雰囲気を残しながらも、なんとか二人の爆発した怒りはおさまった。

 こうして、犯人と思しき人物が死亡する事で、今夜の大規模な捜査作戦は成功したと言えるだろう。事件の早期解決を厳命したマルセル子爵や事件の舞台となった九番街としては大団円といった所だろう。だが、親しい人間を自らの手で殺めた衝撃を抱える人物を知る者達には、愛別離苦を眼前にして、喜ぶことなど出来る筈がなかった。

「確かにこの子は邪教徒で、体の一部を変化させた化け物で…しかも何人もの人を手に掛けた連続殺人犯。こんな死に方をして当然の子や思います。それでも僕の幼馴染で、妹みたいな子なんです…」

 そう言うゼクスに、ヨアヒムら衛兵隊員達は言葉も出ずその場で立ち尽くし、蟇隊長に関してはもらい泣きをしていた。スェーミは背を向けておりどのような表情をしているのか分からなかったが、彼も言葉を発することなくゼクスの歔欷の声を聞いているだけだった。

 ゼクスは衛兵隊によってヴィクトリアの亡骸が運ばれるまで、いつまでもいつまでも、ずっとその死に顔を眺めていた。

 ………

 ……

 …

 謎は多く残された。

 だが、手掛かりはまだあるはず。

 足掛かりはまだどこかにあるはず。

 そう女神イリスは仰られている。

 ………連続殺人犯の容疑者として、衛兵隊とテンプル騎士団合同でヴィクトリアの家宅捜査を行った結果、彼女の部屋から複数の血まみれの娼婦と修道女の衣装が発見される。更に邪教の痕跡を示すものを多数発見、他にも部屋からはこれまでの被害者のものと思しき瓶詰めの血液が大量に発見され、その用途の解明を急いでいる。これにより、彼女が邪教徒で且つ連続殺人犯であることは疑いのない事実となった。

 口内から触手のような管を生やし血液を採取していたであろうヴィクトリアの亡骸は、入念に解剖される。特に頭部を執刀し、彼女の顔は二目と見れぬものとなってしまうが、管の正体は明らかになった。管はヴィクトリアの口蓋垂に寄生した生物で、種によっては宿主の精神を意のままに操る危険なものもあるという。この寄生生物の管は伸縮性があり、吸血した血液を管の中で一時的に溜めることが出来る。ヴィクトリアはその溜めた血液を吐き出しては瓶に詰め…を繰り返し、血液を収集していたと予想される。

 寄生生物を摘出し解剖が終わったヴィクトリアの亡骸は、連続殺人事件の犯人として“稀代の毒婦”なる触れ込みの元、二番街にある公開処刑場にて磔にされ、その身が人の形を成さぬほど朽ちるまで大衆の目に晒され続けた。また彼女の職場であったカフェ・道草も連帯責任を取るような形で九番街から姿を消す。人目のつかぬ街角で、同店の店主が首を括って死んでいるのを発見されるのはその数日後である。

 ゼクスはスェーミに休暇を申し出た。スェーミは何を考えているのか分からないいつもの目で好きにしろ、とだけ返答し、爾来、彼は新しく手に入れた部屋に籠る日々が続いた。

 衛兵隊とテンプル騎士団はヴィクトリアを操っていた唾棄すべき南方の邪教を追うため、この後も捜査を続けた。その裏で事件は解決したと主張しヨアヒムの捜査を妨害する局次長の存在があったが、彼はそれを振り切り、我が身を賭してでも事件の全貌を明らかにする事を心に誓いながら、捜査の指揮を執った。

 スェーミは南方で戦うテンプル騎士団の知人に今回の捜査資料を含めた文を送り、ある調査を依頼した。北方同様、南方戦線は厳しい状態だったが、後にその調査結果が無事彼の元に届く。灰色の男が明確な意思を持って動き出す時だった。

 孤児院の院長夫人がこの一連の出来事を知った時、暫しその場で絶句していたが、孤児達が彼女の周りに集まると、何事も無かったかのようにいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。

 神官タルが妹の事を知るのは、任務故に事後数週間が経過してからになる………

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