第二話
一寸先も見えない闇の中、どこからともなく声が聞こえます。
「何故そんなに泣くのだ?」
「だってこれではあんまりではありませんか。一体貴方は何度黒く塗りつぶしたというのです」
「期限を与えるというのは大事なこと。そして今回は最も酷い結果となった」
「もう耐えられません」
「泣けばいい。その涙が全ての始まりだと、ゆくゆくは破滅へと向かう道であると気付くまで」
「ただ泣くだけではありません。今度は彼らを導きます」
「では見せてくれ。黒く塗りつぶされるという運命から抗う姿を」
二人の声が木霊します。
片方が泣きます。
七日間泣き続けます。
八日目になった時、涙がこぼれました。
涙は小さい小さい、とても小さい穴を開け、開いた穴は闇を切り裂いてどんどん広がってゆき、やがて周りが見えるようになりました。
——救世神話 第一巻一章一節『フュトレの創世記』より
女神イリス。遥か遠い遠い時代から信仰されている、この世界で最も尊ばれる神の一柱である。
彼女を研究する識者達の間では、太陽の光に照らされた月の神、原初の火の神、この世界を創った創造神などと諸説あるが、人類のイリス研究の発展状況、時の政治や世相によってイリスに対する見方を変化させていて、真の結論を出せていない。
今もなお覚束無い最先端のイリス研究では、概ね太陽神説と創造神説とで絞られてきており、次のように考えられている。
もし太陽神ならば、彼女が光を与えた世界以前に人類や動植物といった生物が創られた経緯が残される筈なのに、それが無い。一方、創造神と呼ぶには該当する情報が少なく、イリスに関する集められた資料を考察してゆくとどうもそうではなさそうだ、と解釈するのが自然な流れとなっていて、つまるところイリスは、学説的には世界に光を齎した太陽神として考えるのが最も定着した説となっている。ただ、『フュトレの創世記』にもあるように、光や創造を司ると考えられているイリスと相対する、破滅を司る男神の存在が示唆されている。これがイリスを創造神として考える有力な根拠として挙げられているため、イリス研究は燻り続けているのである。それにしても『フュトレの創世記』から、地上のあらゆる生物は過去に幾度となく絶滅しては産まれ絶滅しては産まれ…を繰り返されたことを窺えるが、もし破滅の男神がその名の通り生物の絶滅を担っているのだとすれば、創造神説の根拠の一つとして見るよりも、今後私たち人類の未来が危ぶまれると予言される出来事の方が興味深い。破滅の男神は後述する救世神話にも殆ど語られておらず、未だ謎のヴェールに包まれ推測の域を出ずにいる。
斯様にイリスは目下研究・調査中ではあるものの、どの説でも一致して考えられているのは、先ず彼女の姿である。イリスの姿は、今に残る遺物、口伝や史跡の調査から、多くが人間でいう少女のような姿で表現されている。異教徒や預言者が信仰する神々もはっきりと性別、姿形が表されているように、イリスにもこれが表れているということは、古代人が、太陽神であるイリスが私たち人類と同じような姿を模倣したか、若しくは創造神であるイリスが人類を自分に模倣したと考えていたからであろう。
次に、創造や太陽、火といったどれも事象の根源的な役割を持つ神と考えられ、加えてそれを母神信仰と混合して解釈していることだ。
この世界における人類の歴史は、幾度となく疫病や飢餓、天災に人類同士の戦争、山野を跋扈する怪物により苦しめられており、その都度数を減らし文明が失われてきたという過酷なもの。これにより、学説上のイリスとの相違点として、信仰対象としてのイリスは太陽神説、創造神説、その他様々な根源的な特徴や側面を持つ神々と全て一緒くたにして捉えられていて、母神信仰については、一・種の存続に係わる女性の受胎や出産を神聖視する象徴としての見方、二・人が分娩されて初めて感じる陽の光を、正常な知覚を持った胎児を授かったとして感謝される安産の象徴としての見方……等が人々に浸透している結果、イリスは多産をもたらし生命を作りだす母神としての見方も唱えられている。
この二つの考え方からまとめると、信仰対象としてのイリスは生命誕生の瞬間が事象の根源とするという見方を強く表している傾向にある。他方、農村地域においては豊穣の神として信仰され、漁村では豊漁と無事帰港出来るよう祈願される海の神として、人間はその生活様式に応じてイリスの信仰の仕方を変えている。
さて、この女神イリス。
一般的に知られる『フュトレの創世記』後の彼女は、自らが与えた光によって世界はどうなっているのか、それをより多く知ろうと、より多くの生きとして生きるものの希望になろうと、より良い世界を作ろうと、旅をする。これが後に語り継がれる、『フュ トレの創世記』も記された全十七巻からなる“救世神話”である。これによれば、最初に地上へ降臨したイリスは荒涼とした大地、寂寞たる砂漠の風景を目の当たりにして大いに嘆いた。そんな彼女へ追い打ちをかけるかのように一陣の風が吹き、砂が舞う。だがイリスはその風を左手で払うと砂粒が水滴になり、水滴はどんどん増えていってそこは水の大地となった。所謂海の起源と考えられる表現の一節である。
イリスは世界を巡って奇跡を起こし、襤褸を纏い辛うじて生き残っていた人類や動植物を絶滅から遠ざけ、導く旅を終えると、眠りについたという。その場所は資料に値する文献、時の公会議文書や関わりのある人物らの伝承、彼女の残した遺物や史跡からは今も尚手がかりすら掴めていない。後世、人はこれを“イリスの消失”と呼ぶ。“イリスの消失”の謎を突き止める為に、その信仰心もあって現在も懸命な調査が続けられているものの、人類の科学と学術発展により次第にその熱は冷めてきている。
というのも、救世神話自体が話を多分に脚色された、元々は全く違う複数の伝説や民間伝承が混ぜ合わさったものであったり(何処かで似たような物語を聞いたことがある感覚がするのもそれが理由)、“イリスの消失”に至っては、当時話題に上った人物の単なる叙事詩であったり、実際は史実では語られなかった天災や、人類が起こした悪罪などの暗喩なのではないかという見方が出てきているからだ。
しかしこれに真っ向から異を唱えるのが後述する聖イリス教会である。イリスには使徒または魔女とも呼ばれる三人の弟子がいて、救世神話の時代、各地で恐れられていた魔女達はイリスの霊験に感化され、彼女に付き従い共に旅をしたという。女神イリスを信仰するイリス教は彼女の弟子の一人である魔女フュトレが宗祖であり、またそのフュトレの弟子にして聖イリス教会を設立した初代教皇ロスタインが、自身の述懐書によりフュトレが確かに実在したという記録を残している。それによればフュトレも少女のような姿をしており、イリス教を開いて師との出来事や教えを救世神話に記し伝えたのだと語られている。
フュトレの実在こそ“イリスの消失”が確かに起こって、女神イリスが今も尚世界のどこかで眠っている根拠としているのが同教会の主張であるが、ロスタイン自身は古代の人物であり、彼が生存していた時代からおよそ三千年が経過しているため、信憑性に欠けるという反論は否めない。こうして“イリスの消失”を巡っては、教会と反対の立場を取る学会や国家、他宗教とでしばしば舌戦を繰り広げている。
救世神話と呼ばれる時代から気の遠くなるほど時が流れ、初代教皇ロスタインの時代から更におよそ千五百年後。人類社会に貧富の差が生まれ、与えられた身分によって生業を決められていた旧文明時代と呼ばれる頃に、古代から興っていた試みである錬金術から、ドルマイトスシシトル粉(ドルトル粉)が発明される。このお陰で化学を初め様々な学問に革命を起こした。ドルトル粉が発明された経緯は、魔法、魔導、法術などと呼ぶ自然界で人為的に超常現象を引き起こす、人間の精神エネルギーを卑金属に当てたことによる。物質の三態も認められ、更に鉄や銅などと組み合わせることで全く異なる性質も得られるという。ドルトル粉はその後、人類の社会生活にも大きな影響を与え、ガス灯、冷却装置、着火装置、畜音装置など様々なものが発明され(“ドルテクノロジー”と呼ばれる)、生活が便利に豊かへとなってゆく。ただこの粉は、驚嘆すべきことにどの人間からも同じ性質を持つものが採取されるのである。これにより、ドルトル粉こそ究極物質である賢者の石とする論や、人類は肉体だけでなく精神も祖があるという論も唱えられた。これはイリス研究と並び依然人類が結論を出せていない課題であって、今の所、人類は己の信仰する神に真実を委ねている。
現在、人類は救世神話の時代よりも、旧文明時代よりもその数を増やし活動の域を広げ繁栄しているが、破滅の脅威は未だに去ることはない。北方、そして南方と呼ばれる極地より出し怪物とで、生存競争が行われているのだ。
前述の通り、人類は有史以来幾度も怪物との戦争に大敗を喫し絶滅の危機に陥ったとされるが、遺憾なことに、怪物との争いにより勝ち取った狭い領地の奪い合いで、人類同士の殺し合いもしばしば行われている。
この終わりなき殺し合いの連鎖に絶望した人類の間で、精神世界の思想や宗教が発達した。その中でここ数百年の内に政治的・経済的な影響力を持ち、人々の心の拠り所ともなり、強大なパワーを持つに至った、女神イリスを信仰するイリス教の一派・聖イリス教会(単に教会と呼ばれることが多い)は、世界中の主要都市に独自の指揮権を持つ武力組織を配置する。それがテンプル騎士団である。
配置された目的は、教会と教会関係の施設、イリス教徒の守護。しかし実際は権威の誇示、異教徒の殲滅・抑止、更に紛争地域への軍事的な介入である。これらの背景には全て怪物との戦争があり、人類同士の争いが結果として怪物の利となるのを防ぐ目的があるが、同時に、人々の教会への信仰と忠誠を高める狙いがあった。
テンプル騎士は元々敬虔なイリス教徒であったが、教会の命であったり志願であったりと、武芸の世界では素人同然で構成されていた。その為、主要都市の本国から招いたプロの軍事教官による指導を行う訓練所が、騎士団の支部と本部の他に設けられた。訓練所では、戦闘技能や知識を学ぶ他に、イリス教の教えを学びながら霊妙たる特殊な能力を付与され、それを鍛錬する。彼らは訓練中の見習いとはいえ非常に多忙な毎日を送ることになるが、これを乗り越えなければもっと過酷な実際の任務をこなす事は出来ないだろう。任務をこなせないという事は、場合によっては死を意味する。テンプル騎士の仕事は、過酷でいて命懸けなのである。
この物語のテンプル騎士は、“ヴィリエ”と呼ばれる世界有数の港湾都市に常駐し、四つの騎士隊に分かれて所属している。そして彼らは、今日も一つでも多くの笑顔のために働く。安い月給で。
…………
……
…
燦々とする夏の白い太陽。
緑を駆け回る野生動物。
二頭の鹿毛馬に引かれて走る馬車。
穴を補修されたばかりの幌。
ぬかるんだ土の馬車道。
馬が駆けるごとに飛び散る泥。
ある暑い夏の日、一台の幌馬車が少し急ぎめに走行していた。
荷台から見れる風景は昨日の降雨であちらこちらに出来た水溜りとぬかるんだ泥、太陽の光を吸収し眩しいばかりに繁る緑。そして盛夏の強い日差しが、これらをキラキラと反射させていた。
休憩と馬の交替を挟みながら二頭の馬が引く幌馬車に揺られて六日目。荷台には積荷の他に、二人のテンプル騎士が乗っていた。
ヴィリエに常駐するテンプル騎士団第二騎士隊所属のスェーミは、ドルトル粉が塗布されたマッチ棒を擦り点火すると、咥えた煙草に火を点け、大きく煙を吸い込みそして吐いた。マッチ棒の残り火は消すことなく幌馬車の外へ投げ捨てる。
無精髭を生やし、少しクセのある長めの黒い頭髪を無造作に流したヘアスタイル、そして何を考えているのか分からない茫洋たる目。体格は細めだがその分がっしりとしていて、身長は百七十八センチメートルほど。気怠そうな態度のこの男からはいつも煙草の臭いがした。巷間伝うるところによれば彼はかつて修道士であったらしく、無頼漢の如く立ち振舞いと冷血なる言動が人を遠ざけ、一人でいる事が多かった。
別に特別な使命を帯びている訳ではない。
人に話すような過去がある訳でもない。
気付けば教会の命を受け騎士となり、便々たる時を過ごしていたら古参と呼ばれる存在となっていて、同期の大部分は除隊したか殉教したので、汚れ仕事をはじめ新人や見習いの世話係を任されるようになった。
それだけ。それだけの、なんの見所の無い灰色の男。それがスェーミ。
もう一人は訓練所を卒業したばかりの若い見習い騎士。名をゼクス。
コバルトブルーの大きな瞳に白い肌と長い睫毛。身長百六十五センチメートルと小柄だが、腰より先に届きそうな長さの、よく手入れがされた直毛のブロンドヘアを靡かせる、女性的な顔立ちをした美少年。家柄は孤児院育ちではあるが、成績優秀で将来を嘱望される訓練所きっての見習いエリート騎士。この初陣に彼を後押しする騎士団の幹部が戦果を楽しみにしているという。
任務中に間違っても死なせてはならない人物だが、現場のスェーミとしては一端の騎士となってもらうために“お手柔らかに”という訳にはいかない。
スェーミとは真逆の、光に包まれた男。それがゼクス。
彼らテンプル騎士は、教会の規律と説法を是としそれを日々学び広める修道士でありながら、戦闘技能の鍛錬と戦闘そのものを生業とする武人という特殊な立場にある。そこで教会は彼らの存在を世に知らしめるべく、特にヴィリエ常駐の騎士団の身なりには拘った。政治的経済的なめざましい発展並びに聖イリス教会第二の拠点として選ばれたヴィリエの環境から、“教”と“武”の性質を併せ持つテンプル騎士団の背後には教会があると顕示する狙いがあるのだ。
その拘りの身なりとはどんなものかというと、まず上衣は丈の長い折襟のローブで全体が紺色の生地。これを荊を模した金襴生地で縁取り、襟、袖は朱色に染め、また両肩から袖までのラインも巾三センチメートルで朱色に染めている。生地も上等なもので、
インナーの戦闘服も同じく紺生地で折襟の七つ釦で長袖。襟、ヨーク、袖を朱色に染め、前立てと両肩から袖までに巾三センチメートルで朱色のライン。手には黒い動物皮製のオープンフィンガーグローブ。下半身は紺生地の軍袴でその脇縫いにローブと戦闘服同様に朱色のライン。最後に黒の脛丈サイドゴアブーツ。尚、襟には朱色の他に騎士団の役職に応じたカラーのラインが入り、ローブを固定する帯紐もそれと同色で、これが階級章の役割となる。更にテンプル騎士の装備は、通常なら本日のような猛暑では汗だくになり装備者に著しい体力の消耗があるはずだった。それを涼しげにしていられるのはドルトル粉の恩恵である。装備品の製造時にこの粉を含める特殊な加工技術によって、装備者の体感温度に応じて装備時の感じ方が変わる。つまり、寧ろこのような装備をしている方が真夏は涼しいのだ。この効果を単に魔法効果と呼んでいる。
斯様にヴィリエ常駐テンプル騎士の制式装備は、決して派手ではないが一目で分かるようデザインされたもので、彼らの姿を見かければ物乞いは施しを受けようとするし、信心深くない者は距離を置こうとする。中には彼らを目の敵にして突っかかろうとする者もいる。一般の人々が受け取る印象はそれぞれではあるが、多くは教会が民間人の実生活にまで影響が及ぶ権力と武力を見せつけるような、どこか高圧的な印象を与えている。
さて、スェーミとゼクスは特にすることが無いので、荷台からの風景を眺めていた。
自分達のやって来た道がどんどん遠ざかってゆき、先程見かけた標が今やちびた鉛筆のように小さく見える。その周りは緑が生い茂り、清水が流れ、街の外側はたくさんの自然に囲まれているのがよく分かった。
ヴィリエが最も賑やかになる暑い夏がやってくると、人々はヴァカンスの他に、神話の時代、混沌と闇に覆われていたこの世界に光を与え、その後数々の奇跡を起こして多くの人々を救ったとされる、女神イリスへの感謝祭が行われる。その時のスェーミとゼクスは衛兵隊の応援として駆り出されるのか、僻地に出向き人非ざるものの退治か。
「はあ…これからどうなるんやろ。無事に帰って来れるんかな?」
まだ声変わりのしていない幼子のように高い声のゼクスがしきりに溜め息を付き、嘆息を漏らす。スェーミも初めの内は励ましていたが、繰り返されると面倒にもなってくる。彼の経験上、これほどの度胸や勇気に欠けた意気地のない見習いは初めてだった。
「ねえ、スェーミさん。僕達生きて帰って来れますよね?」
「お前次第だな」
ぶっきらぼうにスェーミが答えると、ゼクスは縋るような目で「そんな事言わんで下さいよ」と泣きつく。この時、スェーミは成績優秀なエリートとは思えぬ発言に情けない野郎だな、と心の中で呟くと同時に、ゼクスと初めて会った時の事をぼんやりと思い出す。それは六日前、ヴィリエを発つ当日の事――。
太陽が一日分の陽射しを降り注ぎ、夜の帳を下ろす直前。暗くなると街の治安がずっと悪くなるため、訓練所正門前を通る人々は皆どこか足を速めている。見習いも宿舎に戻って体を休めたり座学に勤しむ時間帯が近付いているにも関わらず、この日の正門には多くの見習い達が一人の若者を見送るために集まっていた。
「さっきは凄い音したぞ」
「調子に乗りすぎちゃ駄目よ」
修道服姿の仲間たちが、一様にゼクスの身を案じる。
洗礼の剣を授かりテンプル騎士団の制式装備を受け取って有頂天になったゼクスは、喜びのあまりはしゃいで飛び跳ね、その際天井に頭をぶつけて僅かな間だが気を失ってしまったのである。彼は本当に本当に、はしゃぎ過ぎてしまった。
それでもまだ痛む頭をさすり、ゼクスは最高の笑顔で見送りに来てくれた者達に謝意を伝える。これは照れ臭さと名残惜しさを隠す為で、彼の本心としては、巣立つ日は仲間と同じでありたかった。
「皆ありがとう。せやけど心配ご無用!なんかよう分からへん化け物なんてぐうの音もでえへんようにしたるわ。この“訓練所のアトミックマン”と呼ばれる僕がな!」
ゼクスが通常よりずっとずっと早く、本来なら二年後の春に卒業するのを、本年の夏という中途半端な時期に卒業する事となったのは訓練所にとって想定されており、それには彼に天賦の才が備わっていたことにある。ゼクスの担任である老教官は訓練所での伝手を利用し、特に厳しいとされる第二騎士隊を指名、そして最後の課題である実戦任務考査を与えた。その任務を修了しさえすれば、彼は正式なテンプル騎士となる。尚、多くの才気ある若者がこの実戦任務考査で命を落としたり、重症を負った。ゼクスが見習いとして実践任務考査を受ける第二騎士隊は、それほど危険な任務が多いのだ。そして彼がもし生きて数々の任務をこなすことが出来る“戦力”として扱われるようならば、比較的早く騎士団本部での勤務という栄転も検討されていた。
「ふん、何がアトミックマンだ」
そんなゼクスの門出に、いつの間にか正門の壁に寄りかかり、咥え煙草をしたスェーミが紛れていた。これが二人のファーストコンタクト。
この時の二人の状況は最悪で、時間にルーズなゼクスは指定された時刻に指定された場所へ向かうのを忘れてしまっていて、更にお調子者といい加減な性格が祟って、後にその事を思い出してもまぁいいか、と放置していたのである。一方スェーミは教育係として見習いの面倒を見るよう上官にも命令されていたので、その命令と今回の任務通り指定された時間と場所で待機していた。ところが一向にやって来ないゼクスに痺れを切らした彼は、億劫ながら久々に訓練所へと赴いたのである。そう、静かにだがスェーミは怒っていた。
ゼクスはスェーミの出で立ちからテンプル騎士であることは分かったが、訓練所では一度もすれ違ったことすらない顔だと優れた記憶力から察する。だが彼はお調子者なので次のように解釈した。
「なんやおっちゃん?あ、分かった。僕の勇ましき初陣を御出迎えする人やな。まあもうちょい待って」
上機嫌なゼクスの言葉を無視し怠そうにゆらゆらと歩み寄るスェーミから、見習い達は何処か不穏なものを感じ取り、調子に乗るゼクスを窘めようともせずに押し黙る。この時の彼等には成り行きを見守るしかなかった。
「ん?新しく面倒を見る奴は男って聞いたが女か?」
スェーミがそう言って少しだけ訝しげな顔をした。ゼクスの外見は錯視のように女と見間違えるほど美しいもので、なけなしの小遣いでカフェに行けば同性からナンパをされたり、同じ訓練所内では同性に愛の告白をされ青い顔になって自室に逃げ帰ったこともある。また彼のような悪ガキは貧民街でアウトローでアングラな雰囲気に憧れを持つもので、テンプル騎士の見習いであるというのに仲間達と危険な夜の貧民街を歩いていると、いつの間にか後ろを付け狙われ、助けがなければ攫われていた…という事もあった。訓練所内で恋人を作ることも出来なかった。ユニークで楽しい気分にさせてくれる男だが、女達に交じっても映えるその外見を理由に、異性とは思われていなかったようだ。
要は、ゼクスにとって女と見間違われるのはコンプレックスなのである。
「ちゃうで、おっちゃん。僕は男や。よう見て言うてや、全く」
例に漏れずスェーミにも見間違えられてカチンときたゼクスは、少し強い口調で言った。だがこの場の闖入者であるスェーミは眉一つ動かすことなく、有無を言わさぬ態度で言い返す。
「まあどっちでもいい。こっちはお前に待たされているんだ、早く来い」
そう言ってゼクスの右耳をぐいっと引っ張る。怠そうな雰囲気から想像もつかないようなスピードと動きによって、訓練以外のスパルタに慣れていないゼクスはこの突然の暴挙に抵抗することが出来ず、口しか動かせなかった。
「いたたたた、何すんねんこのおっちゃん。ちょ、ほんまに痛いから止めて!」
スェーミは煙草の煙をゼクスの顔に思いっきり吹きかけると、目にも止まらぬ速さでガッチリとヘッドロックを固める。当然訓練所では体術指導を行われておりゼクスも抵抗をするが、ゴホゴホと咳き込むだけで全く歯が立たない。エリート騎士が形無しだった。
「おい小僧、まずテメエには口の利き方から教えねえとな?いや、その前にこのウザってえ髪を丸刈りにすることから始めるか?」
ヘッドロックをしながらわしゃわしゃと髪を掻き乱すスェーミと、痛い痛いと訴えながら何処かへとそのまま引っ張られるゼクス。それを見送る若き見習いテンプル騎士たち。これが二人の出会いと今回の旅の始まりだった。
――旅の道中何度も頭を小突き、ようやく言葉使いを多少は矯正させることに成功。つまらない事で苦労したとはいえ、今の二人の関係は犬の躾が上手くゆきその犬が懐くような感覚と似て、お互いに愛着のようなものが出来た。そうして本人に気付かれぬようそっと心中で苦笑するスェーミだが、その苦笑すらも打ち消すような叫び声が、彼の思考を仕事へと引き戻した。
「て、て、テンプル騎士の旦那方。出ました、化け物ですっ」
馬車の御者であり行商でもある小太りの中年男が、幌の小窓から荷台へ顔を出して叫ぶ。
反射的にスェーミとゼクスは荷台から少し体を乗り出して御者のいう化け物を確認した。
二十体ほどの泥で出来ているであろう不細工な人形が道を塞いでいる。動きは緩慢で、うぉーん、うぉーん、と呻き声のようなものをあげてゆっくりこちらに近づいて来る。
これらは一言で“化け物”といっても本来は自然界に存在しない人工的に造られた生物である。そしてその製法は人形を構成する素材と少しの念を込めれば簡単にでき、他には周囲を浮遊する低級霊を呼び出して作ればより高度なものが作製可能だ。今道を塞いでいる人形は前者で、脆い上に思考能力が乏しく単純な命令しか遂行出来ない。つまり、ゼクスのような見習いには丁度良い相手だった。
「おい、お前。行って来い」
「ええっ、僕一人でですか。無理や、絶対殺されてまうっ」
泥で作られたとはいえ、袋叩きにされれば命の危険もありうるし、扼殺だってされかねない。しかし、だからといって怪物退治の専門家であるテンプル騎士が泥人形如きに狼狽されては沽券に関わるというもの。訓練所の前で大見得を切っていた、成績優秀のエリート騎士殿のお手並み拝見といったところのスェーミは、少しばかりの意地悪のつもりで、表情一つ変えずにもう一度行け、と短く指示した。
「ええっ、そんなぁ」
煙を口から立ち上らせ冷たい目で言い放つスェーミに、ゼクスが眉を八の字にさせて抗議するが、一切の妥協を許さない……そうするつもりだったが、仕方がないので彼を奮い立たせるため、スェーミは例えを変えてもう一度言った。
「さっさとあのお嬢さん方にお引き取り願え。女の扱いはお手の物なんだろう」
「あんなん女の子ちゃう。ただのデク人形や!」
「ほう、分かっているのならさっさと行って来い。最後まで全員しっかり見送るんだぞ。いいか、全員だぞ」
ゼクスは渋い顔をしながら後ろ髪を緑色の紐できゅっと結び、それをふわりといわせて荷台から降りると、テンプル騎士の証である洗礼の剣を腰の鞘から抜く。刀身は周囲を反射するほどよく磨かれており、天使の翼を模した柄は金銀細工の装飾が散りばめている。何も知らぬ者からすれば実戦用ではなく儀式用の剣にも見えるだろう。
「忘れもんだぜ」
カチャン、と音を立てて剣を地面に落とし、スェーミが放り投げたものをゼクスが両手で受け取る。鋼鉄製のテンプル騎士団章が刻まれた盾だった。
「あ、あ、あ、ありがとうござぁあいます」
声が裏返っている。それでも剣を拾い訓練通りしっかり盾を構えると、ウオオオ、と勇ましい声を上げて走って行く。未使用の剣全体がキラリと陽光を反射するのを、スェーミの目に入った。
そんなゼクスを見送りゴロンと横になったスェーミは、煙草の煙が荷台の天井へ立ち上るのを見ながら、さて、と思案に耽る。
雑魚とはいえ、化け物と遭遇するには早過ぎる。この辺りはハザの村とヴィリエの交易路からそう離れていない上に、駅馬車の拠点だってある。人口の化け物も、謀の一端を担うために生み出されたのならば人目を避けるはず。
そういえば海を股がった隣の港湾都市に常駐しているテンプル騎士団の小隊が、警邏中行方が分からなくなり、捜索隊を出したところ文字通り八つ裂きにされた死体となって発見されたとか。小隊を皆殺しにした化け物は今も見当つかずで、死体は時間が経過していたのもあり、無数の蛆と蠅が群がり、暫くは忘れそうもない強烈な腐敗臭が辺りに立ち込めていて酷い有様だったらしい。化け物共は間違いなく我々人間の住処に近づいて来ている上に、凶暴で残忍な個体も増えてきている。
「うわあ、こっちに来るなこのドアホ。誰か助けてぇ!」
情けない声の叫びを無視し、スェーミは今回の任務について思考を移す。
任務はヴィリエからかなり離れたルーティングテーブルの村で起る怪異の調査と、可能であるなら解決へと導くこと。
任務の資料によれば、今からおよそ一ヶ月前、同村を苦しめていたという大蛇を、“ある教会関係者”が屠り、その後村に安息が訪れるはずだった。ところが、今ゼクスが相手にしているような下等な人口生物の出没が村の近隣で後を絶たぬという。辛うじて村独自の対策で安全が保たれてはいるものの、それがいつ決壊するか不安は募るばかり。この毎日に耐えかねた村は、教会を通じてテンプル騎士団に事態の調査と解決を依頼してきたのだった。報告にある村に起こっているという怪異とは今の所この程度だが、どうも根深い原因があるのではないかと騎士団は推測しており、そこでスェーミにお鉢が回ってきたのだ。
前述の通りあの泥人形は、自身の構成する物質を維持するのが困難な自然環境、戦闘による損耗、術者の死亡という要因がなければ、仮初の生命を与えられた時に受けた命令をそのまま遂行し続ける。それを踏まえ、現在地は件のルーティングテーブルの村まであともう一日ほどと思われる距離。雨季乾季がはっきりしているこの地域は泥人形の製作に適していることから、術者は比較的近くにいるような感じがする。性能が粗雑なものなら、高度な術者であれば遠方からでも泥人形は作れる。
「(もしあの小僧が今相手をしているのと同じ術者のものだとすると、相当広範囲に渡ってやりたい放題しているな。調子に乗りやがって)」
任務に関係有る無いにせよ、スェーミはこの場に不釣り合いな化け物との遭遇に様々な想像を加速させていった。
「あのぅ…旦那」
幌の小窓から、御者が申し訳なさそうな顔をして覗かせている。
「どうかしましたか」
スェーミが事務的に返事をすると、お連れさんが化け物に囲まれています、と伝えてきた。
麗しきエリート騎士殿が早くも絶体絶命らしい。
上体を起こし火が点いたままの煙草を馬車の外へ放り出すと、むくりと起き上がり剣と盾は置いてけぼりのまま、スェーミも荷台から降りた。さっきは気付かなかったが、幌馬車を引く二頭の馬のけたたましい鳴き声が聞こえる。泥人形達の禍々しい邪な念を、動物は敏感に感じ取っているのだろう。
「どう、どう」
狂ったように暴れて鳴く馬を制御しようと御者が懸命になっている横を通り過ぎ、スェーミはゼクスの様子を見た。
彼は湿った土の壁を背に泥人形達と対峙しているが、滅茶苦茶に剣を振り回すだけで致命傷を負わす事が出来ていない。そこらに散らばったものを見る限り、ゼクスのした事といえばせいぜい腕や首を刎ねる程度。泥人形に部位の欠損は意味が無く、動けなくなるまで術者の命令を遂行し続ける。そんな事を繰り返した結果、今こうして追い詰められているとスェーミは目した。肝心のゼクスはというと、今は壁をよじ登ろうとしそうな程の逃げ腰で、髪を振り乱し目を赤くさせている。彼に期待を寄せる者達がこの様子を見れば、きっと落胆する事だろう。
こいつらの対処法は訓練所でも習ったのではないのか、と打ち遣る気持ちはあれど、結局それ以上見ていられなかったスェーミは、あくまで彼自身の力で窮地を乗り越えさせる為に短く叫ぶ。
「ゼクス、浄化!」
スェーミの声で我に返ったゼクスは、咄嗟に剣を抜剣時の敬礼のように剣先を上に向け、柄を体の中央に寄せて構える。
すると白い光がいくつもの輪状になって剣に集まってゆき、今度はそれが青い光となって、ゼクスを中心に音の無い爆風が起きる。太陽の下を飛ぶ鳥を数えるような耐え難い眩しさが一瞬駆け抜けると、泥人形達がいた場所には盛土が出来ていた。
「浄化完了。女神イリスよ、貴女様の助力に感謝致します…オーファム」
「…オーファム」
ゼクスがそう唱えると、スェーミも続く。
二人の間に厳かな雰囲気が漂うがそれも束の間、スェーミがやれば出来るじゃねえか、とその場にへたり込んだゼクスに手を貸す。二人が出会ったのはつい六日前の事だが、ガシッと力強く互いの手を掴む様は、傍から見れば熱い友情のような好意的なものに見える。コンビを組んでの任務は、二人の相性も重要な要素になる。ましてや見習いで実戦経験の無いゼクスには、スェーミと上手くやってゆく事は、生きるため、課題修了のためにひとつの大事な仕事だった。本人は全く心配をしていなかったが、ゼクスが癖の強い人物であるために、訓練所の教官や彼の仲間達はこの事を憂慮していた。
スェーミはひょいとゼクスを立たせると、この泥人形程度であれば、テンプル騎士に備わる力を使えば武器など必要無い、また使いようによっては自らの命をも繋ぎ止める…と教えた。それを聞き、ゼクスは目を赤くしたまま微かに頷く。
今回はもう少し自信を持って冷静に立ち回れば見習い一人でも楽勝だったが、スェーミとしては駁することなく素直に聞き入れるゼクスの様子を見て、実戦による初心教育の滑り出しとしてはまあ、悪くないのではなかろうかと評価する。また少しして落ち着けばヴィリエを出る前のように軽口を叩くようになるだろうが、この小さい経験の積み重ねが彼を肩書通り本物のエリートに仕立て上げ、ゆくゆくは自分達を駒のように動かすテンプル騎士団の大幹部になるのかと思うと、スェーミは少しだけ、本当に少しだけ自分の仕事に情熱を見出すのである。
「そちらは問題ありませんか」
抑揚の無い声で安否を問うスェーミに、御者が問題無いと答える。
「馬もさっきの青い光を浴びた途端、嘘のように大人しくなりました。旦那方、あの光は一体…」
「テンプル騎士団はいわゆる企業秘密というのが多くてね、あれもその一つですな。まぁ、酒の肴にする程度ならいっこうに構いません。あっはっはっは」
何が面白いのか、スェーミが一人笑いながらさっさと荷台へと乗り込む。御者がゼクスに目をやると、彼も涙で濡れた目を拭き、近くに転がっていた盾を回収して駆け足で荷台に乗り込んだ。
御者はそれを確認すると、テンプル騎士の人って変な人たちだなあ、と首を傾げる。だが腕は確からしいので、次の行商先ではテンプル騎士を雇おうか検討しつつ、目的地へ向けて再び馬車を走らせた。
「ねえ、スェーミさん」
“使用後の装備品は必ず手入れすべし”という訓練所の教えを守ろうと、ゼクスが胡座をかいて盾をラム皮で磨いている。これは面倒でいて地味な作業なので、彼は先ほどから横になり宙を見つめて何か考え事をしているスェーミに、重要度が低く関心の持てない内容の話ばかりを振っていた。当然スェーミにとっては煩わしく、ああ、そうか、などといった専ら生返事なのだが、話主のゼクスはそんな事を気にも留めない。どうやら彼は泥人形との戦闘による緊張がすっかり解けたらしく、スェーミの予想通り元のお調子者の性格に戻っているようだった。
「なんだ」
「祓魔神官ってどんな子達なんやろう思て。可愛いんかなぁ…」
それだけではない。異教徒たちの大規模な暴動が発生した場合、これを鎮圧するために祓魔神官自らが動く事もある。この時、前線の者達は直ちに彼女達の指揮下に置かれ、自ら戦闘に参加する際は一騎当千、敵の集団を木の葉のように蹴散らし、凄まじい炎を巻き起こして全てを焼き付くし敵を圧倒するのだとか。そして事が済んだ後は死屍累々、寂寞たる死の大地が広がる。この時テンプル騎士団は、改めて祓魔神官の恐るべき力に慄然とするのである。
祓魔神官は爆肉鋼体、怪力の持ち主でゴリラのような女だったり、魔術に精通した老婆に違いない…というのが同僚の談であるが、実際の祓魔神官を見た事がないスェーミとしては眉唾ものの話だった。彼女達に関する逸話は多分に妄想が含まれているのではないか、というのが彼の率直な感想だ。如何せん、派手過ぎる。それをゼクスはまるで若い娘であるかのように妄想しているので、馬鹿な野郎だ、とスェーミは思うのだった。
「可愛かったら祓魔神官を口説くのか?」
「い、いや、そんな恐れ多い事出来へんっスわ。せやけど、どんな感じなんかなー思て」
薄らと頬を染めるゼクスが、盾をさっきから同じ場所ばかり磨いている。祓魔神官らの鮮やかで優美なる活躍を、今、彼の頭の中で繰り広げられているのだろうか。
「丸めた紙を元に戻したような女かもしれんぜ」
「いやいや、僕はなんとなしにですけど、可愛い女の子やと思うんです。あ、そうか~」
何かを察したゼクスがぽん、と手を叩く。
「スェーミさん位になると流石に十代の若い子は無理や。そもそも犯罪やしね」
スェーミが苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気付かず、うんうん、と一人で腕を組みゼクスが納得する。
「まあストライクゾーンが法律で制限されるのは仕方ない事やわ。やっぱ僕らはテンプル騎士やし。それに女の子の立場を考えると~」
すっかり盾を磨く手が止まっているゼクスの背後に、角材が小山のように積まれているのをスェーミの目に留まる。そして教育タイムをまだまだ設けなければならないな、と彼は思うのだった。
「おい、そこの角材を取ってくれ」
「え、これですか?」
「あー、やっぱり痛そうだからそこの板でいい」
「?」
ゼクスが角材の横にあった薄い木の板を手渡す。直後、その木の板で叩かれた。ごん、と意外に鈍い音がした。
「え、何で?何で僕はしばかれるんですか?」
大きな目をくりくりさせて、何が起こったのか分からないといった様子でゼクスが問う。スェーミの手にはまだ木の板があり、いつでも叩く姿勢になっていた。
「図に乗るな。それとうるせえんだよ、騒ぐんじゃねえ」
「ええっ。そ、それじゃあスェーミさんはええ歳して十代の女の子も有りなんですか?そらあかん。あかんで、スェーミさん!」
瞠目するゼクスがまたごん、と叩かれる。
「うるせえつったろ」
「あっはっは、私はうるさくても全然構いませんよ」
幌の小窓から御者がそう言うと、同時にキャンプを提案してきた。彼の話では、あと一日もあればルーティングテーブルの村に到着するという。かれこれヴィリエを出て六日目、ようやく前半の旅が終わろうとしている。現地での仕事の他に実戦任務考査を兼ねているというのに、ゼクスの感覚はただの旅行程度にしか思えなくなっていた。
スェーミが御者に問う。
「馬の状態はどうですか」
「え、ええ。旦那がこちらの提案通りにしてくれているので問題ありません。途中ハザの村でも補給させてもらいましたし」
御者が少しやりにくそうに答える。スェーミの冷たく何を考えているのか分からない目と抑揚の無い話し方は潜在的に人を不快にさせ、結果、本人の意でなくとも人を遠ざける。そんな御者の様子を気付いていないのかそれとも興味が無いのか、スェーミはキャンプをする周囲の状況の方が気になっているようで、しきりに周囲を見回していた。
「キャンプのロケーションは良いとまでは言えませんが、仕方ありませんな」
「そうですか?近くに泉があるし、結構良いところだと思うのですが」
一行がキャンプする森林地帯は人の営みを感じさせない寂しい森で、御者の言う泉といった水源があるとすれば、午後に遭遇した泥人形やまた別の化け物に襲われても不思議ではない。すっかりその数は減ったが、野盗の襲撃も警戒しなくてはならない。そんなスェーミの憂慮を他所に、旅をする中で誰もが楽しみである食事の準備を御者とゼクスが始める。
「さぁ、そうと決まれば食事の準備をしますよ。今日は野菜とソーセージの入ったオニオンスープを作ります」
「よーし、僕も手伝うでぇ!」
「あっはっは、旦那は若いからよく食べるでしょう。沢山作りますね」
御者に何度も女と間違えられたゼクスだが、今ではすっかり打ち解けて二人で一緒に食事の準備を行っている。これは決して悪いことではない。御者も教会に雇われた商人に過ぎず、テンプル騎士との間に上下関係は無い。どちらも教会の命により動いているのだから、ルーティングテーブルの村で起きているという問題解決のため協力しなければならないのだ。それに気の合わない者同士で旅をするよりも、気の合う者同士で旅をした方がずっと楽しい。旅は、仕事目的であろうと楽しくあるべきだ。今も御者が旅の経験を話しながら、人懐っこいゼクスがうんうん、と興味深そうに頷いて準備を進めている。仏頂面で話しかけ難いスェーミ一人ではありえない旅のひとコマだ。
キャンプをする森の中にまで差し込む西日の中で、そうやって食事の準備をする二人をぼんやり眺めていたら、ふと周辺の地理について調べなければと、スェーミも自分の役目を果たすべく歩き始めた。
日没から更に小一時間後、スェーミが戻ると既に火を起こしゼクスと御者が食事をしているところだった。お先に頂いてますよ、と御者。ゼクスは口いっぱいに頬張り何を言っているのか分からない。
仲良く倒木を椅子代わりに並んで座っている二人の前に、スェーミがどかっと胡坐をかく。それを見て御者が粗末だが丈夫な木製の容器にスープを注ぎ渡してくれる。
「どうも」
「スェーミさん、何処行ってたんですか?」
ゼクスの問いに散歩だ、といつもの調子で答えるスェーミだが、容器の中にある傘状で胞子によって繁殖する、グロテスクでいて不快な歯ごたえの食材を見た瞬間、彼は凍りついた。
「なっ、どうしてキノコが!今日はオニオンスープじゃなかったのか?」
「いやあ旦那。私も旅をしているとどうしても食料に困ることがありまして。大丈夫、そのキノコは毒なんてありませんよ。私が保証します。あっはっは」
「そうじゃなくて、なんでキノコなんだっ」
「つまりアレですよ、食料の節約です。若旦那は満足してますよ。ねえ?」
また口いっぱいに頬張るゼクスが、親指を立てて肯定の意を示す。それを見て溜め息をつくスェーミ。焚き火の明かりによって照らされた彼の顔は、落胆せし表情を象る仮面を付けたように凍りついている。
「覚えておいてくれ。オレはキノコが嫌いなんだ」
山の幸より海の幸が好みであったスェーミにとっては少々気まづい食事だが、それを終えた後、初の実戦を経験したゼクスには休ませ、スェーミと御者が交代で夜の見張りをする事に。
照りつける昼間とは反対に夜はぐっと気温が下がるので、寝具が欠かせない。旅人たちの夜は静かに更けていった。
………
……
…
その夜、ゼクスは夢を見た。彼のこれまでの人生で、夢など見た事がなかったのに。
『おれは昨日、ビーフシチューを食う夢見たよ』
『わたしは美味しいお菓子を食べる夢を見た』
孤児院で生活していた時からの違和感。仲間達は楽しげに夢について語り合うのに、自分だけそれに加われないでいる。
嫌い、という訳ではなかった。
夢について考えるのは、自分の生い立ちについての記憶を辿るような気がしていたから。けれど、どんなに思い出そうとしても思い出せない。
孤児院の院長夫人に問うも、ゼクスは気付いた時には他の子供達と一緒にいたというのだ。それは他の子供も同じ。彼らの多くが、物乞いの女性による望まぬ子なのだ。
罪深い母親らは生活の為に身を売り、孕んでしまった子を産み落とすも養えるはずがなく、教会や孤児院に託す。彼女達の行いに対する謗りは免れないにしても、中には苦渋の選択を強いられた者もいるかもしれない。ゼクスはその事実を聞かされた時ショックではあったが、それでも自分の母親は、父親はどんな人物なのかと思いを馳せたものだ。
「うぅ~ん…」
己を抱きしめるように寝具を抱えて眠っていたゼクスは、強い視線を感じて目を覚ました。
「ゼクっちゃん、まだ寝てるの?早くおいでよ」
そう言ってぱたぱたとかけて行く女児。
眼球だけで辺りを見回す。
どこかの部屋の一室。
窓から差し込む陽の光。
絵本や子供向けの図鑑が収納された小さい本棚。
鈍色の取っ手が付いた、エメラルドグリーンの塗装が剥げたクローゼット。
「あ、あれ?ここは…聖ロスタインの、僕の部屋やん」
ゼクスが幼児から少年時に育った孤児院は、聖イリス教会初代教皇ロスタインが建設させた聖堂に付属されたもので、建物自体は三千年の歴史がある古いものだ。聖堂の名は時の教皇の名を充てられ、人々からは単に“聖ロスタイン”と呼ばれることが多い。また荘厳たるこの聖堂には歴史的な価値と宗教的な価値も相交わって、訪れる信者や学者、学士、物乞いや修道士、修道女といった人々が後を絶たない。尚、ゼクスが生活していた孤児院は聖堂の三階にあって、ここは人の居住スペース。流石に立ち入りを禁止されている。
とりあえず、ベッドから起き上がり身を確認する。自分の服装は就寝した時のテンプル騎士団制式装備のままで、つまり孤児院にいた頃呼ばれていた、“ゼクっちゃん”ではない。
今の女児は何者なのか?
ゼクスは部屋を出て確かめることにした。
部屋を出て廊下を歩くと、聖堂中央の広間が一望出来る、吹き抜けに出る。そこには星々を見るかのような位置に、ガラス窓へ描かれた女神イリスの像がある。大変歴史的な価値があるとかで、神学だの人類学だのにも影響があると、訓練生時代の担任老教官が教鞭を垂れていた。だが、おかしな事に人の気配がしない。聖堂の中央ではいつもざわざわと人の往来があったものだが、今はしぃんと静まり返っている。
「きゃっきゃっ」
「あははは」
聖堂入り口の方で子供のはしゃぐ声が聞こえたので反射的にそちらへ目をやる。大きな鉄扉は開放されていて、そこから外の光が入り込んでいる。
もしかしてこれは夢なのか?夢というのはこれほどリアルで即物的なものなのだろうか。人の往来やざわめき以外は、聖ロスタインの傷やへこみといった細かな部分、匂い、音の反響度合いまで忠実に再現されている。
「意味分からへん…」
ひとまずゼクスは、子供たちの気配がする方へと向かう。
ブーツの踵の音が聖堂に鳴り響く。耳が痛くなるほどの静寂と人っ子一人いない伽藍堂な聖ロスタインは不気味で、警戒をしながら大鉄扉の外へ出ると、そこは本来なら石畳の道に樹木の繁った広大な庭が目に飛び込んでくるはずが、見慣れぬ景色が広がっていた。
ピンク、ピンク、ピンク。
目が覚めるようなピンク色の花々が一面に咲き乱れ、時折吹く穏やかな風がその花弁を高く舞いあげては花吹雪となってひらひらと落ちてくる。頭髪の横髪に付いた花弁を手に取ると、何の花かは分からないが、確かに本物の花弁である。空は曇っているが、異常なまでに明るい光芒によって雲そのものが淡く黄色に光り、付近は晴天時と同様の明るさを保っている。ゼクスはこの世の果てを見るような幻想的な光景にしばし言葉を失っていたが、遥か地平線まで続く花絶景と光が降り注ぐ空の下で、四人の子供が手を繋ぎ輪になって遊んでいるのを見つけた。
「ゼクっちゃん遅い~」
「なにやってんだよ、ゼクっちゃん」
花吹雪の中、男児二人、女児二人の顔を確認するも記憶にない。だが別段妖しい雰囲気もなく無邪気に遊ぶ彼らを見て、ゼクスはこの際旅のことを忘れ、自分も夢に乗じて一緒に遊ぼうと、微笑みを湛え輪に加わる。
「遅れてかんにんな。それで何して遊ぶ?」
「ゼクっちゃんも来たし、“イリス様ごっこ”しようよ」
聖ロスタインで自分を起こしに来た女児が提案する。罰当たりな遊びをするものだな、と苦笑をするゼクスを他所に、子供たちはあれがいい、これがいいと揉めるが、最終的に“イリス様ごっこ”という遊びに落ち着く。
さて、いざ決まったのは良いが、ゼクスはその遊びがどのようなものか知らない。その事について問うと、
「じゃんけんをするんだよ」
と、返ってくるだけだった。
「じゃんけん?ええで、ほなやろか」
最初はグー、じゃんけん、ぽん。
グー、チョキ、グー、グー、グー。
口裏でも合わせていたのか、ゼクスは子供たちに敗北した。
「あははー、兄ちゃん負けちゃったわ。それでどうすればいいん?」
「あー、ゼクっちゃん、負けたね?」
「負けた負けたー」
「本当、負けちゃったねー」
じゃんけんに負けた。これは事実だが、何か様子がおかしい。
何が?子供たちの様子だ。
「じゃんけんに負けたら、イリス様をやらなきゃいけないんだよ」
「え…?」
「ゼクっちゃん、イリス様な」
「や~い、イリス様」
「ちょ、待って。イリス様をやるってどういう意味や!」
子供たちが散り散りになって花畑の中を駆け出す。皆すばしっこくてあっという間に距離が出来てしまうが、ゼクスはそれどころでは無かった。彼らの様子から一見“イリス様ごっこ”は鬼遊びのような印象を与えるが、そうではないと直感で理解する。途端に激しい衝戟が襲い、茫然自失となって思わず膝をつく。このあまりに重い重責はゼクスに眩暈と吐き気を与え、ついにはピンク色の絨毯の上に倒れ伏すのだった。
視界が暗転してゆく。子供たちの笑い声がどこからともなく聞こえてきて、それが反響する。花絶景と光の雲が完全に黒く塗りつぶされる頃には、ゼクスは思考が出来なくなっていた。
………ガツッ。
頭部に鈍痛が走る。そして、
「やっと起きやがったか。何が“スェーミさぁ~ん”だ気持ち悪ィ」
…と、暗闇からスェーミの呆れたような声が聞こえてきた。辺りは何も見えず、声の主であるスェーミすらも確認出来ない。どうやら焚き火が消えてしまったようだ。
「あれ?僕…」
「ハーピーだ。面倒な事になったぜクソ」
「はぁぴぃ?」
「訓練所で習わなかったのか?女の体をしていて鳥のような翼を持つ化物だ」
ハーピーによる襲撃よりも、痛む頭部よりも、先程の天啓とも神託とも違う夢の方が気になるゼクスは、夢の意味について自問自答してしまう。だがそれをなんとか抑え、スェーミの話を聞くよう努める。声からして自分は幌馬車、彼は幌馬車の前、つまり外にいるようだった。敵襲に備え、出来るだけ彼とは距離を詰めておきたい。
「あ、あの、スェーミさん」
「なんだ」
この時のゼクスは、己の顔が真っ青で、早鐘を打つ心臓にも意識を向けることが出来なかった。だがこの火急の事態に夢の内容がどのような意味があるのかなどとスェーミに問えるはずがない。心模様は暗澹たるもので気分は優れぬものの、本件については自分の胸の内に閉まっておくことに決めた。
そんなゼクスの思案など知る由もないスェーミは、御者の安否を問おうとしているものと思い、あいつは無事だ、とだけ答えた。すると荷台の中で、くぐもった声が聞こえてくる。
「ぐふふふ、マリンちゃん可愛いね…ぐふ、ぐふふふ…」
御者の声だった。きっとろくでもない夢を見ているのだろう。妻子有りとの事だが、どうもその影で邪な事を考えているようだ。ゼクスは先程の夢も重なって、この暗闇から聞こえるくぐもった卑しき笑い声にしかめっ面になるのを禁じえず、ゼクスの御者に対する印象は、旅慣れた行商人というイメージから気持ちの悪い小太りの男へと凋落するのだった。
「ほんま、きしょいわあ。なんでこの人も馬車の中におんねん」
「放っておけ。それよりハーピーだ」
そう言うスェーミの言葉でようやく本題に入る。テンプル騎士団はイリス教徒を守る義務を負っている。義務を全うする為にも、旅を円滑に進める為にも、この気持ちの悪い御者と二頭の馬をハーピーから守らなければならない。
そのハーピーだが、最も知られているのは空を縦横無尽に飛び回り、鋭い爪で獲物を切り裂いては殺し血肉を貪る化物であるという事。人型の化物としては飛行能力が高く、ヴィリエの尖塔(およそ地上十階建て)ほどまで飛べて急降下時の飛行速度は駿馬ほど。集団で襲われればたちまちズタズタにされることだろう、それが対抗手段を持たぬ動物や民間人であるならば。また特筆すべきは“歌”である。彼女達の独特な発声によって、聴く者に超自然的な睡眠がもたらされる。ゼクスと御者はその歌にやられたのだ。どうやらそれは動物も効果があるらしく、馬車の外からガサガサと藪をかき分ける音がしたり、キェー、キェー、と何かの鳴き声がするというのに馬の反応がない。馬も寝かされているのだ。
「スェーミさん、どないします?このままやと殺されてまうで!」
ゼクスは昼に交戦した泥人形とは違い、本格的な化け物との遭遇にパニックになりかけていた。頼りに出来るのはスェーミだけだが、そのスェーミが暗闇ではっきり見えないのでますます彼を不安にさせる。
一方スェーミも、見習いが交戦する相手としてはかなり危険な相手だとは承知していた。彼は過去に一人の訓練生をハーピーによって失っているのである。
「うるせえな。幸い今の奴らはこちらを視覚でなく聴覚で感知している。静かにしてりゃあ時間は稼げる」
焚き火を消したのはスェーミだった。確かにこれで敵の目を一時的に欺けるが、夜明けの恩恵を受けるのはこちらだけでなく敵も同じ。辺りが見えるようになったらこちらが危うくなる。
やけに冷静なスェーミに我慢できず、ゼクスは訓練所で習った、対ハーピーの交戦術を思い出す。いや、その前に夜間戦闘の基礎だ。担任の老教官が汚い字で書いた、黒板の内容に記憶を辿ると…。
『避けるべし』
駄目だ…このままでは!
頭を抱えるゼクスを他所に、暗闇からスェーミの穏やかな声が聞こえてきた。
「敵は三匹。奴等にしちゃあ数が少ない所を見ると、どこかで交戦して数を減らしたようだな。かなり腹を空かせてんのか、連中の奥の手である歌を使ってさっさとオレ達を仕留めたいらしい」
また冷静にそう分析すると、スェーミが取り敢えず降りろ、と指示した。ゼクスが言われた通り荷馬車を降りると、すぅっと夜の冷たい空気が彼を包む。ローブや戦闘服の魔法効果もあまり働かないようだ。外は真っ暗だったが、空を見上げると木々と木々の間隙を縫って星が瞬くのが見える。その僅かな明かりでスェーミの輪郭を捉える事が出来た。今の彼は煙草を吸っておらず、じっとして動かない。彼の言うとおり、ハーピーが小さい火の光や物音を逃さず感知し狙ってくるからだろう。
「おい。訓練所で習ったハーピーとの交戦術を言ってみろ」
「は、はい。まず距離をとって、遠距離からの火炎魔法、それか弓矢や投擲武器が相場や思たけど…」
「まだある。お前にやれとは言わないが、奴等が急降下した時にそれを躱してぶった斬るんだ。飛行型の化物に近接武器による戦闘なんて意外だろ?」
「こんな真っ暗なのに敵の攻撃を避けるなんて至難の業でっせ?敵かてこちらを捕捉出来るとも限らへんし」
「まあ訓練所はマニュアル戦闘しか教えねえんだからお前の発想もそんなもんだろう。いいか、こっちは丸腰じゃねえんだぜ。洗礼の剣っていう得物があるんだ」
だが困った時は基本に戻るのも手だ、とスェーミは付け加えた。
「ぼ、僕にはスェーミさんが何言うてるのかいっこも分からんわ…」
「あぁ、そうだな。今のお前の頭ん中は無数の蜂が五月蝿くブンブン飛び回ってる、クソみてえな状態だからな。理解しようと思うな、全てが終わって生きていたら丁寧に説明してやる。そして生きていたかったらオレの言うことを聞け」
「は、は、はひぃ!」
はい、と返事をしようとしたのだろう。どうやらゼクスは緊張が高まると声が裏返ったり吃る癖があるようだ。成績優秀で街を歩けば振り返ってしまうほどの美しい外見の持ち主だというのに、こういう欠点があった。欠点があるからこそ、人は人に人間味というものを見出す。スェーミはこの時、危険な状況であるにも関わらず、暗闇で見えないのをよいことにニヤリと笑った。
さて、気を取り直しスェーミが作戦の説明を始める。
敵の強靭な足と鋭い爪による急降下攻撃の精度は個体差があるが、概ね攻撃方法の特性と動物的な勘が合わさって高めである。スェーミはそんな敵の攻撃に注意しつつ“照明魔法”を展開し、先程ゼクスに説明したハーピー交戦術の応用編である、地上での近接攻撃を行う。要は飛行中や急降下攻撃時のハーピーにカウンターを喰らわせ迎撃しようというのだ。
一方ゼクスは、照明魔法により照らされた位置からハーピーを捕捉し、それを遠距離攻撃で仕留める。一見テンプル騎士は剣による近接攻撃しか出来ないようだが、実はそうではない。遠距離攻撃の術は見習いの訓練所でもしっかり教えこまれる。尚、遠距離攻撃はゼクスの得意分野でもあった。
「スェーミさんが囮になるんですか?あかん、危険でっせ!」
「じゃあお前が囮役になるか?」
「は、は、はひ」
「馬鹿言ってんじゃねえ。やるぞ」
心の準備が出来ていない、と訴えるゼクスを無視してスェーミが走る。彼は夕食を摂る前にキャンプ周辺の地理を調べ、不測の事態に備えていた。それが彼の、この旅の役目なのだ。
スェーミは走りながらハーピーの気配を感じ取ると、薮を掻き分け倒木や岩といった障害物を飛び越えながら、木々などの無い狙いが定まれ易い場所を目指す。背後からはキェー、キェーと鳴き声が聞こえてくるので、敵が確実に追跡しているのが分かった。ゼクスが今どこでどうしているのか、という懸念はあったが、陽動に乗じて逃げるならそれでも構わなかった。初めから、もし自分がやられたらゼクスだけでも逃げてもらう腹だからだ。勿論、そうなるのは真っ平御免なので、ゼクスを信じ敵が彼の存在を気取られぬよう、陽動役としてガサガサと音を立てて走る。
森にある泉の傍を抜けてなだらかな坂道をしばらく走り続けると、幌馬車のある森を見下ろせる、荒涼とした小高い丘が見えてくる。スェーミはここまで来るのに、沢山の障害物を越えて走ったので息が上がりそうで、しかし危険が今まさにそこまで迫っているというのにどういう訳か、ああ運動不足だな、と自分に対し嘲笑するのだった。
馬車のある所では僅かだった星々の輝きが、今は遮るものがないので空一面に広がっている。これだけの光源でもスェーミの力量からすれば十分なのだが、ゼクスの為にも、イリスの霊験(自然界に超常の現象を引き起こす自身の精神力を比喩している)を借りた照明魔法を唱えるため、そちらに少しだけ集中する。
この魔法は自分がいる場所の空間により照明範囲が大きく変化する。例えば家屋のような室内であれば殆どを照らす事が出来るし、洞窟のような狭く奥行きのある空間は効果が限定的なものとなってしまう。したがって、最も照明魔法の効果を出すには屋外、それも周囲には何もない場所が望ましい。尚、照明を発する時間は個人の能力や練磨によって変動するが、最短でもおよそ五分ほどとされる。スェーミは照明魔法の熟練者で、ただ辺りを照らすだけの魔法でも、彼は様々な使い道でもって活路を見出してきたのである。
「女神の光よ、道を照らせ…オーファム」
スェーミの右手から青白く光る光球が飛び出し、物凄いスピードでそれが頭上に上昇すると、それが静止したかと思えば、今度はパッと輪状に広がる。その範囲は直径三十メートルほど。輪状の光からは空に劇場のスポットライトのような眩い光が幾つも降り注ぐ。これのお陰で三匹のハーピーがスェーミの周りを円を描き飛び回るのがよく見えた。
「(お膳立ては終わった、しっかり狙えよな)」
ゼクスへの鼓舞とも願いとも取れる言葉を胸に、スェーミが洗礼の剣を抜いた。そしてハーピーの急降下攻撃を受けつ躱しつつ、的確なタイミングを狙う。
一方、逃げずに茂みの中へ身を隠していたゼクスは、局地的に周辺がぱっと明るくなる照明魔法を確認した瞬間、交戦するスェーミとハーピーを見た。ゼクスの視力は非常に優れており、僅かな明かりさえあればかなり遠方のものまで視認出来る。それによると交戦状況はスピーディーで、ハーピーは三匹によるフェイントを交じえた攻撃を仕掛け、それをスェーミが右に左に前に後ろにと鮮やかに躱している。けれども照明魔法の効果時間もあるしスェーミの体力の事を考えると、長くは持ちそうにない。
意を決したゼクスは洗礼の剣を抜き、剣先をハーピー達に向けるよう意識して精神を集中した。すると洗礼の剣が次第に青白い光を帯びてきて、それが剣全体を包み青く発光すると、今度はぐにゃーっと剣そのもの形が変わった。
テンプル騎士に与えられる洗礼の剣は、持ち主の精神力に呼応してその姿を変えることが出来る。ゼクスの剣は今、青い光を放つ大きいクロスボウの形に変化していた。これを両手でしっかり握り構える。
「ハーピーだかなんだか知らんけど、僕らの旅を邪魔するのはあかんなぁ。二度と悪させえへんように浄化したるから、向こうでイリス様によろしくな!」
この時ゼクスはハーピー達と自分との位置関係を立体的且つ正確にとらえ、針の先に針の先を当てるような集中力でクロスボウ発射のタイミングを狙った。そして、そのタイミングは直ぐに訪れた。
幾度目かというほどのハーピー達の猛襲を躱し反撃のチャンスをスェーミが窺っていると、青い閃光のようなものが横を通り過ぎたかと思えば、飛行中のハーピーを一匹、二匹という風に次々と貫き、三匹目は羽を掠り飛行姿勢を崩した。
「(あいつだ。あいつがやったんだ…!)」
時間にして秒にも至らぬ極々短いものだったが、スェーミの脳裏には笑みを浮かべてブイサインをするゼクスの姿が浮かぶ。彼は先ず第一にスェーミに当てることなく、次にハーピーに確実に命中させるよう、且つまとめてハーピーに命中出来るようなタイミングを狙った。一切の迷いもなく、焦りも無く、感情も無く、シンプルに。この時のゼクスには不可解な夢や死の恐怖によるパニックなどは雲散霧消していた。
ゼクスによるクロスボウの一撃は、掠ったとはいえ飛行能力が生命線であるハーピーに致命的な傷を負わせた。そんなハーピーに最早未来はなく、ひらひらと体勢を立て直そうとしているところをスェーミによってバッサリと空中で二つに斬り裂けた。その後直ぐ貫かれた二匹のハーピーがどうなったのかを確認すると、一匹は完全に絶命しており、もう一匹はまだ息があった。冷たい目で見下ろすスェーミに、僅かに残った力で威嚇してくる。
こうして見てみると人間の体をしているというが、控えめに言っても人と同型と呼ぶには程遠い。現にこのハーピーは単眼で口が大きく開いており、悪息と同時にそこから赤く長い舌が飛び出している。
…化け物め。
スェーミは剣先を下に向け大きく振りかぶると、喉を狙って一気に突き下ろした。
「ギエーッ」
断末魔と共に喉から赤い血液が噴出し、びちびちっと顔に返り血を浴びるが気にしない。無表情のまま剣を更に奥まで抉るように突き刺し、貫通する頃には最後のハーピーも絶命した。気付けば照明魔法の効果も切れていた。
「…浄化完了。オーファム」
スェーミが事後についてすぐ頭を働かせる。このような広い所で照明魔法を使ったら、それを目印に他の化物や野盗を呼び寄せかねない。早く戻ってゼクス達と合流しなくては。それに剣の手入れも。
ああ、やる事や考える事が沢山あるな、と剣を鞘に納めて返り血を袖で拭き取る丁度その時、
「スェーミさーん」
…と、旅の相棒の声が聞こえてきた。どうやら彼も無事らしい。人の心配を他所になんとも間の抜けた声だが、なにより彼の表情だ。星々の輝きだけでもどんな様子かが分かる。
破顔一笑、喜色満面、会心の笑顔ただ一つだけ。見えているというよりは想像が形となって表れたというべきか。この結果であの性格から他にどんな表情があるというのだろう?加えて彼は飼い主が数日ぶりに帰宅して喜ぶ仔犬のように、飛び跳ねて抱きついてきた。
「どうです、見ましたか僕の天才的なセンス!一発で三匹落としたったでぇ」
「ああ、そうだな」
「スェーミさんのピンチを僕が救うたんでっせ、凄いやろ!」
「ああ、そうだな」
「えへへー。訓練所のアトミックマン、怪物を鮮やかに撃退せり!」
「暑いんだよ、いい加減に離れろ」
抱きつくゼクスを振り払い、まだ上機嫌な彼を放ってスェーミが幌馬車へと歩く。だがそこで考えるのである。さっきの一撃は果たして偶然なのかと。偶然だと思えなくもないが、成績優秀、将来を嘱望される人物という事から、“実力”という言葉が見えてくる。彼は経験が少なく、本番に弱かったり少し不器用だったりするだけで、本当は即戦力に相当する能力を持っているのかもしれない。だとすれば、スェーミがこれまで面倒を見てきた見習いや新米と比べれば、かなりの実力を持っているようだった。
「真面目やなあ、スェーミさんは。もう少し勝利の美酒を味おうてもええ思いまへんかぁ?」
美酒も何も、先ほどの狼狽ぶりからすれば快勝という結果は十分な報奨だと思うスェーミは、すぐ図に乗る彼の性格を考慮して、勝った時こそ厳しく接するのが調度良かろうと、今後の考えなくてはいけない事の一つに彼の教育方針も含めるのだった。
「お前みたいな小僧に酒はまだ早ぇ」
「なるほど、それで美酒もまだ早いちゅう訳やね。…って、なんも関係ないやん」
ハーピーの急襲を退け馬車へと歩く二人の背には、彼ら殺す者、殺される者のやり取りが何事でもない日常であるかのように、東の空から僅かに太陽が顔を覗かせていた。地上の生物は、自然の理に対して平等なのである。
幌馬車に戻ると、全てが無事だった。二頭の馬は主の起床を待ち侘びており、その肝心の主はというと…。
「ぐふふふ…かぁわぃんだぁ~マリンちゃん…」
スェーミとゼクスが顔を見合わす。
彼はまだ淫夢の中にいた。
翌日、無事に迎えた朝。
昨夜の戦闘により負傷したスェーミの手当てをしたいとゼクスが申し出る。かすり傷だと本人は言うが、上手く立ち回っているように見えたのに、一夜明けて見てみると意外に傷が多い事が分かったのだ。
「包帯は邪魔で動きづらい。だから手当は要らん」
拒否するスェーミに腕を出してください、と言って倒木に座らせ、ゼクスが半ば強引に手当てを始める。ローブと戦闘服は破れ、袖を捲ると浅いが生々しい傷がいくつもあった。
「手当てをせえへんでバイ菌入ったらどないするんですか。いざちゅう時はスェーミさんが頼りなんですよ?」
チッ、と舌打ちして顔をそっぽ向けるものの、スェーミは大人しく手当てを受ける。そこでふとゼクスの手元に視線を向けた。
白くて細長い指。楕円型で桜貝のような艶のあるピンク色の爪。そんな手で、馴れた様子とまではいかないが、傷の箇所を薬草で消毒した後に包帯を巻いてゆく。
太陽が登り初め朝焼けが枝葉の間から木漏れ日となって辺りを照らす中、密集した樹木特有の香りが漂う森の心地良さを感じながら、目を細めて今度はゼクスの表情に目をやる。
彼は疑いようもなく真剣そのもので、長い睫毛をぱちぱち動かしながら作業に集中している。不思議と彼の手当のおかげで傷の治りも早い気がした。
「(何だかな…妙な気分だ)」
喉に小骨が刺さったような不快な違和感でなく、もっとこう、優しい違和感。母のような気がしたのに祖母だった。ブラックコーヒーを頼んだのにミルクと砂糖が入っていた。バーボンを頼んだのに苦手なワイン、それも赤が来た…。連想する方向性が段々と反れてしまっていたが、少なくともスェーミは悪い気分ではなかった。
「これでもういける思います。怪我の手当と武器の手入れを怠ると後で泣きを見まっせ?訓練所でもそう教えてます」
「そうだな」
ぶっきらぼうにスェーミは答えるが、それにすっかり慣れたゼクスはにこっと悪戯っぽい笑みを浮かべ、親指を立てて言う。
「えへへ、これで借りが一つ出来ましたな!」
「ああよくやったな」
任務の途中であるにも関わらず、先ほどの違和感や生き延びた安心感、ほぼ寝ずの番をしていたからか、スェーミはつい転寝をしてしまう。そしてその時零れた小さい小さい呟きは、しっかりゼクスの耳がとらえていた。
「ええっ、スェーミさんが褒めてくれた…?明日は雪になるんちゃいますか。あの、もういっぺん聞かせてくれまへんか?」
お調子者ゼクスの大仰なリアクションに辟易しているスェーミは、耳をそばだてる彼にうるさい、の一言。加えて頭を小突いた。
二人と旅をしている御者にとってもこのやり取りは見慣れた光景で、平和だなあ、と旅の支度を始めながら思う。
「あっはっは、お二人共仲良くて微笑ましいですなあ。私はお陰様でぐっすり眠れましたよ」
御者がしょうもない寝言を言っていた事を、スェーミとゼクスは敢えて言わないでいた。そんな何も知らない御者は穏やかに笑いながら、冷たい水に濡れた手拭いを二人に渡す。
「スェーミさん、もういっぺん言うてください。お願いしますよぉ」
「うるせえ。オレは馬車で寝るから下らねえことで起こすなよ」
なおも続く二人のやり取りを聞きながら御者が空を見上げる。
…今日も猛暑になるな。
厳しい夏の陽射しが降り注ぎ始める前に、一行は出発した。
「見て見て、スェーミさん。動物の群れが道を横断してまっせ。あれは鹿みたいやけど、なんていうんかな」
虹を見つけた子供のように動物を見かけたゼクスがはしゃぐ。物心がつく頃にはヴィリエの孤児院で生活をしていて、こうして外に出るのは初めてという彼にとって、外の世界は見るもの全てが珍しいのだろう。スェーミも適当に相槌を打ちながら、ゼクスの言うモノを目で追う。
荷台から遠ざかってゆく景色をずっと見ていると、まるで自分達が過去だけを見ているようだ。
止めようとしても止まらない現在と決して見えない未来。どうしてか、全ての過去を見ようとしても、通り過ぎたばかりの現在が鮮明に見え過ぎて、現在から離れた遠くの過去はよく見えない。これは幌から見える景色と同じだ。ゼクスはこの景色をいつまでもいつまでも、時折入ってくる風で長い髪を揺らしながら見ているが、スェーミは見るのを止めた。
過ぎ去る景色だけを見ていると、どこか合わせ鏡を見るように奇妙な感覚を与えるからだ。過去を見続けるという事はおかしいことだと示唆するように。
馬車が一際ゴトゴトと揺れながら進むので、やや不安をかきたてる。幌から見える景色には木製の欄干が見えた。これはルーティングテーブルの村が近い証拠で、近辺は山間部となり、橋の下は水流の早い川とゴツゴツした突き出るように転がる水に削摩された岩場。Vの字状に形成されたこの峡谷は、見る者に風光明媚な場所として印象を与えるが、橋が倒壊しここから落ちたらひとたまりもない。
物思いに耽けるスェーミと外の景色を楽しむゼクスに、御者が幌の小窓から村が見えてきた、と伝える。
ようやく仕事の時間だ。
ローブの上にテンプル騎士団章の彫られた鋼鉄製のチェストガード、肩当て、肘当て、ヴァンブレイスを装備。どれも白銀色に光っている。それに標準装備であるサイドゴアブーツの上に膝当て、グリーブといった脚部を保護する防具も装備。二人共慣れた手つきで動きが素早い。
帯剣し、背中のベルトに盾をかけて背負い、必要な道具を揃えて準備を整えると、胡座をかき無言で到着を待つ。五分ほどで到着した旨が知らされると、互いの目を見て頷き合い、スェーミ、ゼクスの順で荷台から降りた。
まず目に入ってきたのは、陽射しの厳しい夏の青空、次に茅葺きの屋根で出来た家屋に穀物や野菜を生産する畑。そして木彫りのアーチで造られた村の入り口に集まる村人達。どうやら出迎えてくれたらしい。
彼らの一番先頭には村の代表者と思しき白髪の老人が立っている。主に村の男達が集まっているようだが、村長含め一様に表情が暗く、どことなく生気に乏しい。正体不明、目的も不明の化け物が村の近隣で出現するというのだから無理もないのかもしれない。
スェーミがルーティングテーブルの村について、出発する前に調査した内容を思い出す。
世帯数二十五~三十世帯、一世帯あたりの平均世帯人口が三~四名。人口およそ百名程の規模の村で、村人全員がイリス教徒。豊穣や狩猟の女神として信仰している。
山林に囲まれ農耕に適した肥沃な土地故に農業が盛んであり、それを補うように狩猟で村全体の食料をまかなう。正式な記録ではないが、最後に行商団が訪れたとされるのは五年ほど前。村独自の特産品や民芸品がある訳でもなく、交易は盛んではない。村の代表者選定は世襲であったり村の総意によって選ばれたりと明確な決まりは無く、現在の村長は村人の総意で選ばれたという。それがかれこれ数十年続いている。
「ようこそお越しくださいました、騎士様」
村長が深々と頭を垂れると他の村人たちもそれに倣って続く。これに対しスェーミはニコリともせず、またそういう雰囲気でないのもあって、いつもの仏頂面のまま返した。
「初めまして。ヴィリエ常駐テンプル騎士団第二騎士隊所属、スェーミと申します。で、こちらが…」
「どうも~。ぴちぴちの見習い、ゼクスっちゅう者です。よろしくぅ!」
元気いっぱいに挨拶をしても村人の反応はいまいち鈍い。それでも各々会釈をすると、早速本題に入るため村長が移動を促した。同時に集まっていた村人も解散してゆく。
村長が前を歩くのをついて行きながら、スェーミは村を観察した。
良く言えば静かで落ち着いた村。悪く言えば活気が無く、廃れゆくであろう村。先ほど出迎えた村人以外にもやはり生気に乏しく、元気があるといえば戯れる幼い子供くらい。それでも細々と生活を営んでいるようで、十分に働ける年齢に達した子供が山羊の乳を搾っていたり、散り散りになる鶏を一箇所にまとめようと青年が追い回していたり。収穫した野菜をたくさん並べてなにやら仕込みをする老婆がいれば、赤子をあやしながら洗濯物を干す女性もいる。村の中央広場には、この村で最も立派な建築物であろう木製の小高い監視台もあって、そこで青年が見張りをしている。ここから馬車が近づいているのを事前に察知したのだろう。尚、この監視台は村に怪異が起きるようになる前は無かったものだ。
皆、物珍しそうにスェーミとゼクスを眺めており、視線を浴びている二人も村人の陰気な視線を感じていた。教会がその権威を見せつけるために目立つ姿をしているのもあるし、他の土地からやって来た人間が珍しいというのもあるのだろう。村は決して閉鎖されてはいないが、村人一人一人が人間関係と共同生活という鎖で結ばれ、良くも悪くも身動きを取れない状態にあるので、村を出るという発想がそもそも無い。だから外から来た人間が珍しいのだ。
「それにしてもノリ悪いなあ…なんか僕、空気を読まんでまずいこと言うてもうたんかな?」
ゼクスが口を尖らせ小声でボヤく。更に、
「この村、なんもないでスェーミさん。僕やったらこんな所ちゃっちゃと出て行きますわ。それか、なんかおもろい事を考えたり作ったりします」
…と、何が可笑しいのか、くすくす微笑みながらスェーミに耳打ちしてきた。これに対しスェーミは、酒もアソビもねえような場所で暮らすなんざ正気の沙汰じゃねえな、と無言で同意する。実際は酒くらいはあるのかもしれないが、この村で生活していると、娯楽が少ないせいか感情表現というものが乏しくなってゆくのかもしれない。彼らの日常と非日常とは一体どのようなものなのだろうかと、都会に住む二人は村人と同じ人間だというのに、まるでそうでない別の生き物のような違和感を隠しきれないのであった。
気を取り直し仕事へと思考を移すスェーミは、ゼクスの耳打ちに適当な相槌を打った後、村の外周に結界を張るよう、他にも諸々の指示した。ゼクスはそれを聞き、何故?と言わんばかりの物言いたげな目をするが、どの道問えば言う通りにしろ、と返ってくるだけなので彼は大人しく了承して別行動に移る。
これは村人を少しでも安心させるための応急処置でもあるが、村中に広がる陰気な雰囲気の正体を掴むためでもある。一度取り去られた問題が別の形で再燃した理由が、村そのものにあるかもしれない。そして村人はそれが何かを知っているのだ。
「こちらです」
村長の家は他の村人らと何ら変わりない様子で、家屋と家屋の間に建てられていた。また同じ茅葺き屋根の家屋で、とりわけ広かったり高かったりするわけでもない。ただ良く手入れはされているようで、雑草や家屋の崩れた箇所が見当たらず、屋根の形も整っている。きっと雨漏りもしていないのだろう。入り口ドアの上部には村長宅である事を示す植物を模した紋様が描かれている。こうして細部に目をやるとやはり一般の村人と比べ生活の質は高いようだ。
入り口ドアを潜ると直ぐにキッチンがあって、そこで調理中だったのか村長の細君らしき老女がおり、スェーミを見ると一礼した。また近くに一輪の金盞花が生けてある四人がけのテーブルがあり、そこに茶褐色の頭髪を一つ結びにした若い娘が着席していた。寂れた田舎村の娘にしてはなかなか器量がよく、彼女もスェーミを確認すると起立し一礼した。
一方スェーミは会釈をしただけで着席を促されてもしようとせず、若い娘に関しては一瞥しただけ。細君が調理を終え木製の容器に注がれたカボチャの煮汁を馳走になるが、それをひとくちも口にすることなく本題に入った。
冷たく無礼な男。この場の誰もがそう思った。
「それで、この村近隣に現れるという化け物ですがどのようなものでしょうか?」
「はい…泥で出来た人形のようなものなのですが、頭部や胴体を粉砕してもなお動きを止めようとしない恐ろしい怪物が、“神官タル”が蛇神様を退治なさった後に現れるようになりまして」
「(やはりあのデク人形共か)」
ここでルーティングテーブルの村と神官タルなる人物との間に何があったのか、よく理解しておかなくてはならない。
今からひと月ほど前、祓魔神官である神官タルが、この村の近くにある河川の橋の下で気を失っているのを村人が発見した。ゼクスの勘はあながち間違ってはいなかったようで、神官タルは銀色の頭髪と白い肌をした少女であるという。その彼女を介抱したのが今テーブルに着席している若い娘。娘の名はニーナ。
神官タルはその夜のうちにニーナによって殺害される。この村には月夜の晩、十八年に一度村が“蛇神”と崇める白い大蛇(以後、蛇)に、村の若い娘を捧げる儀式を行っていた。神官タルが村にやってきた丁度その日が儀式を執り行う日で、彼女を生贄にしなければニーナが生贄にならなければいけなかった。村は、本来ならばいつの頃からかある“掟”に則り、村の出身である娘を蛇に差し出さなければならない。それが破られたことで村は蛇によって壊滅されるはずだったが、蘇生した神官タルが蛇を殺す事で壊滅を避け、何代にも渡って続けられてきた村の因習は幕を下ろした。
これがひと月前に神官タルとルーティングテーブルの村の間に起きた出来事。神官タルは河川の橋の下に倒れていたという事だが、実は村へ自然に入り込むための策で、彼女は自分が再び蘇生すると知って意図的に生贄として殺害されたのだ。また村へやって来た目的は、女神イリスを差し置き神として崇める蛇の正体を掴むためと、それを屠るため。祓魔神官たち、即ち教会はこの村の因習をかねてより察知していたのである。
村が生贄の儀式を続けた事、そして神として崇めていた理由は単に蛇を恐れるあまりだったが、実はこの蛇こそ、村人にしか発病しない奇病から守る“呪病者”だった。呪病者とは“神に呪われし者”という意味で、何かのきっかけで精神が臨界に達した時に、ある確率で発現する超常的な性質と定義付けされているが、実の所詳しい事は分かっていない。これは人の精神力を卑金属にして生まれたドルトル粉と通ずるものがあり、人の精神がいかに複雑で判然としない、神秘的なものであるかが伺える。呪病者たちの特徴で、彼らは一様に何らかの能力を持っており、本件の場合、神々しさすらも感じる巨大な白い蛇の姿形と、ルーティングテーブルの村人にしか罹患しない“奇病”の抑制がある。
奇病とは手足が動かなくなり、皮膚が白く硬くなり、やがては蛇そのものとなる病で、これはヴィリエやその他の大陸、地域で確認された事のない未知のものだ。そしてこの奇病の根絶は呪病者である蛇の存在を抹消する事だった。そもそも蛇は村に奇病が蔓延するのを抑制するために、掟と称して生贄の儀式をさせていたが、掟を守らせつつ生贄を殺すことで奇病が抑制されるという蛇の思い込みが、儀式そのものまで呪病、つまり蛇の呪病者としての能力の一部とさせていた。本件のキーとなるこの蛇が呪病者となったきっかけも複雑らしく、神官タルは蛇の出自を多くは語ろうとしなかった。けれども蛇と村との密接な関係、それに呪病者であったことを考慮すると、元々は蛇も村人だった事が分かる。
これは余談だが、実は祓魔神官も呪病者で、彼女達は教会の対呪病者案件の諮問機関としての役割も担っている。だが教会の神官、それも上層部に発言力のある人物が呪病者であるということを、教会関係者の幹部は快く思っていないという。それでも“呪病者は呪病者にしか殺せない”という原則に則り、呪病者を殺し続ける彼女達が教会に与する理由は様々だ。“神に呪われし者”でありながらその能力を完全にコントロールしている祓魔神官こそ、神と呼ばれるに近い存在なのかもしれない。
神官タルは己に宿す不死の能力を駆使して最終的に蛇への生贄と奇病との関係を見出し、それを村人たちに説明するとその場に現れた蛇と共に去り、二度と姿を見せることはなかった。神官タルは、実は蛇に喰われてしまったのではあるまいかと危惧する村人もいたが、多くの村人は蛇の落ち着いた様子から、無事屠られたと信じている…というのが村長の談である。実際神官タルはヴィリエに帰還しているし、彼女の記録によれば蛇は全てを納得・了承した様子で死の間際まで終始大人しくしていたという。
さて、村を困らせているのはやはり昨日道を塞いでいた泥人形程度のものだった。性能が粗雑で泥人形を作れる者はそうはいない事から、術者は同一人物である可能性が。しかしこれだけでは相手の目的がはっきりしない。何故ルーティングテーブルの村なのか?比較的近くにハザの村だってある。尚、ハザでは平和に営まれており件の泥人形が出現したという話は聞かなかった。
「もう一つお伺いしますが、あなた方民間人が頭や胴体を粉砕しても動きを止めない怪物、泥人形ですが…一体どうやっていつも退けているのです?」
「それが、ある程度の数を動けなくさせると泥人形たちは何処かへ去ってゆくのです。村の者達と何度も話し合いましたが、奴らが去ってゆく共通点を見出せず困っておりまして」
村人の装備や能力を考慮すれば、泥人形達とは本当に小競り合い程度に済んでいるのだろう。しかし何か目的があるのならばいっそ本腰を入れて叩けばよいものを、毎度小競り合いの嫌がらせ程度で寄越すところがネチネチしている。それとも理由など無いのではないか?
ただ村にやって来た。しかし追い返された。それが現在も続いている…そうは結論付け出来ないだろうか。
スェーミは敵の目的が推測出来ず、質問を続けた。
「村人に実害は出ていますか?」
「泥人形の出現以外は何も。奴らは鈍いので…」
ということは、村人と泥人形との交戦がどのようなものであるか伺い知れる。怪我の処置のために治療薬などを馬車に積んではいるが、必要は無いようだ。
「改めて確認したいのですが、その蛇神…つまりこちらに届いている記録でいうところの白い大蛇ですが、確かに神官タルが屠ったのですね?」
「はい、おそらく。今は神官タルの指示通り岩戸を閉じて封印しています」
封印している、とは神官タルが蛇を屠った洞窟で村が蛇に生贄を捧げていた洞窟でもある。近隣に住む人間が全く立ち寄らない場所なので、洞窟周辺の自然はそのままの状態で保全されていて、清水は流れ、野生動物も頻繁に見かけるという。神官タルが残した記録によれば、洞窟は概ね水平方向に伸びており、豊富な水源と硬い岩盤で覆われた自然洞窟であるらしく、その最奥には地底湖と儀式の行われた場所がある。地底湖は別の場所の湖に通じており、神官タルが蘇生した後、そこから洞窟を出て蛇と共に村へ戻ったのだとか。蛇は神官タルが村の者ではないと分かると、手に掛ける事はしなかったようだ。
「白い大蛇が屠られた経緯から、何か原因等は思い当たりませんか?」
「それは……」
沈黙。場に重苦しい空気が漂う。
スェーミは“蛇”が屠られた後、若しくは蛇自身に纏わる話に何かあるのではないかと推察していたが、それは当たっていたようだ。そこで歯切れが悪くなる村長を見て、もう少し様子を見ようとひと芝居を演じる事にした。
「ときにあなた達は大昔から生贄を捧げていたようですな?イリスの神官、祓魔神官でさえも手に掛けて」
「それはタルも許してくれました!」
彼らにとって“生贄”について触れるのは腫れ物に触れるのと同じ。それについて無遠慮に言及するスェーミの言葉に、突然ニーナが叫んだ。本件に関係があるかもしれぬという事と、耄碌寸前と揶揄される村長では頼りないという事で、彼女自身が自ら同席するよう名乗りを上げたのだ。
そして神官タルを手に掛けた事にこうして過剰な反応を示すのは、やはり本件には“生贄”というキーワードが見え隠れてしている。
「おおニーナ、憐れな子よ。騎士様、どうかお許しを。あの時神官タルを生贄にしなくては、この娘が生贄にならなくてはいけなかったのです」
村長の言葉に聞いているのかそうでないのか、スェーミは彼らに背を向けて窓から外の景色を眺めているだけ。何を考えているのか分からないこの男に、村長、その細君、ニーナは困惑する。
神官タルは村の行ってきた事、自らを殺害し生贄に充てようとした事を全て許し、月の夜の晩、十八年毎に必ずやってくる、村人を煩悶懊悩、輾転反側させてきた因習から解き放ったのだ。彼女自身は単なる一宿一飯の恩義と祓魔神官としての仕事の一環だと述懐するが、村としてはこれ以上ない恩寵だった。
それらを踏まえ、スェーミは彼らが考えている事を推測し、それをちらつかせることで反応を見る。
「あなた方は何か勘違いをしておられるようですな。我々は教会が禁じている人身御供について調査をしにやって来たのではないのですが」
「なら生贄の事はよいでしょう、もう終わった話なのですから。それと今、村が抱えている問題と関係ない発言は慎んで頂きとうございます」
弱腰の村長に代わり、ニーナが毅然とした態度でスェーミに要求した。だがスェーミは一歩も引かない。彼個人の本心としては、彼らが恐怖心から崇めていた蛇、それに神官タルの事などどうでも良かった。テンプル騎士としての立場すらもまた、二の次と言っても過言ではなかった。
スェーミが一気呵成に言う。
「関係ない?宜しいですかな、お嬢さん。確かに生贄の問題は祓魔神官が許した事でお咎めを受けずに済むかもしれない。しかし祓魔神官への殺人若しくは殺人未遂、それに死体遺棄はどうですか?このルーティングテーブルの村もヴィリエの領主マルセル子爵の領地であり、その法によれば立派な犯罪ですよ?これも一応申し上げておきますが、我々第二騎士隊は衛兵隊の権限だって与えられているので、証拠があれば立件出来るのですよ。それと、相手の蛇が神だのなんだのといったものでなく単に呪病者であったにせよ、とにかく村の存続の為には生贄が必要だった。それは分かります。だが生贄の娘らはどうですか?“村を守る為に選ばれた”という名誉だとしても、やはり彼女達は嫌だったんじゃないですかねえ?怖かったんじゃないですかねえ?これはね、ヴィリエの法では強要罪にもなるんですよ」
十八年に一度行われていた生贄の儀式は、ニーナの年齢ではその歴史を伝聞という形でしか知らないが、彼女自身生贄に選ばれた経験から、手足を縛られ、己を捧げる洞窟奥深くに一人置かれて殺されるのを待つ立場というものは、言語を絶する恐怖と絶望に支配されるだろう事は想像にかたくない。
しかし今のニーナは村長に代わり村を、この何を考えているのか知れぬテンプル騎士から守る為に対峙するのである。これはスェーミのような村とは関係ない部外者からすれば滑稽な様子だった。
「で、でも…タルは許してくれたのよ。教会が擁するテンプル騎士団なら、祓魔神官の決定や判断に異を唱えられないはず」
「(タル、タルってうるせえ小娘だ)」
先述の通り祓魔神官は上級神官であり、彼女達の行いは教会の決断を覆すほどの意味を持つことがある。それは教会の命で動くテンプル騎士団とて同じ事。教会組織の中で、祓魔神官と一介のテンプル騎士とでは次元が違うのである。
勿論スェーミはこれを承知している上で揺さぶりをかける。“自分達のしてきた行いが教会に許された”、というのが彼らの総意であるとしても、果たしてそれは本心なのか?この村の雰囲気からすれば答えは簡単だ。
「いかにも。我々は教会の命により教会の代表としてこの村にやって来た。だが、これはあなた方による立派な犯罪です。そして我々は仕事で来たのですよ。祓魔神官の決定やその時々の判断、忖度などといったものは関係無いのです。村を困らせる原因の解明、そして解決するという仕事。その矢先に犯罪を目にしたのです。我々は犯罪を目にしたら仕事をしなければいけない。仕事と信仰をない混ぜにするのは愚な事ですな」
「では、貴方はテンプル騎士であるというのに、仕事、仕事、と言って教会の教えに従わないのですか。イリス様を信じないとでも言うのですか!」
小馬鹿にしたような言い方のスェーミにニーナがヒステリックに叫ぶ。ルーティングテーブルの村は確かに村を守る為幾度となく生贄を捧げてきたがそれは決して本意ではない。それに女神イリスとイリス教の教えを信じ尊ぶのは彼らも同様で、イリス教徒であることには変わりないのだ。
しかしスェーミは一刀両断、次のように切り捨てた。
「当然です。仕事をこなしてゆく上で死んでいった同僚は、果たしてイリスを信じる事で救われましたでしょうかね?イリスを信じる事で、今後の我々に身の安全が保証されるのでしょうかね?生憎こちらも命懸けなものでしてね、お嬢さん」
「そ、それは…」
天に唾棄するような言葉で淡々と答えるスェーミに、ニーナは何も言えなくなってしまった。それにあくまで教会に命じられた任務の為にやって来た立場を崩さず、生贄の調査と非難をしにきた訳ではない事を繰り返す反面、生贄について言及するスェーミの目的も、斯様な田舎村でもかなりの女傑であるニーナですら皆目見当がつかなかった。
更にスェーミが畳みかけるように言う。
「話を戻しますが、報告では確かにこの村を半ば蹂躙していた蛇は複雑で、伝染と思い込みによって生贄の儀式そのものまでが呪病のきっかけとなっていた。でもね、生贄になった彼女達のお陰で村が今日も存続出来ている事をあなた達は何も思わないのですか?謝意や同情は抱かないのですか?」
生贄の儀式がいつの頃から始まったのか不明だが、村には生贄を弔う墓碑が無かった、代わりに蛇神の御神体が祀られている…というのが神官タルの証言である。スェーミはこれの確認の為もありゼクスに村を周回するようにして結界を張らせたのだ。もしこれが事実なら異教、いや、人心御供を行っている事から邪教崇拝の疑いがある。そして過去に少なくとも一度、蛇が退治された事をも意味する。この事から呪病者は別の呪病者に伝染していたという事と、年代を遡れば神官タルが屠った蛇の出自が分かるのかもしれない。だが、今となってはもうそれらはどうでもよかった。
堪らなくなった村長が、スェーミに慈悲を請う。
「騎士様、もう私達を苦しめないでくだされ。一体何を仰りたいのですか」
今度は惚けたような表情をして、尖った顎の無精髭をジャリジャリ言わせながらゆっくり話すスェーミ。少なくとも、彼は村人に対して憐憫の情は無いらしい。
「ええと祓魔神官…タルとおっしゃいましたか。神官タルは確かにあなた方の蛇に纏わる恐怖を取り祓った。しかしあなた方が抱える問題はそれだけではなかったのです。神官タルは事前か事後、それを察知して許したのか、それとも気付かなかったのか、それは分かりませんが」
「い、一体なんだと言うんです。勿体ぶらずに仰ってください」
ニーナが苦しそうに言う。だがそんなニーナを意に介さず、しかしスェーミは即答した。
「“罪悪感”ですよ。貴方たちは村の娘を蛇に捧げる因習を守ってきたが、その都度苦しんだ。そしていざ蛇が屠られた後も、因習を守り続けてきたという事実から目を背け、自責の念に苦しんでいる。これはなんとかしなくちゃいけないんじゃないですかね?」
この言葉を聞いてガックリと力無く頭を垂らす村長。
「ああ!ごめんなさいごめんなさい…」
その場で泣き崩れる村長の細君。ニーナも目を赤くさせている。
膨張した腫れ物を突っつきそこからどろりと膿が流れ出るような、痛々しい感情の波。
スェーミは彼らを苦しめるつもりはなかった。犯罪の事も咎めるつもりはない。
ただ、自らの運命を決めるもの、それが人間だ。それは人間の集まりである村という社会だって同じ。何かを変えるというのは確かに精神力や勇気が必要だが、立ち向かわなければならぬ時に妥協し続けた、村の退嬰的な姿勢がこうして悲劇と苦悩を産んだのだ。これについてスェーミは同情など一切感じなかった。ただ粛々と仕事をこなすだけだ。
村を包む陰気な雰囲気の正体はこうして明らかになったが、まだ問題は何一つとして解決はしていない。それに分かっていない事もある。泥人形を作った術者とその目的だ。なぜルーティングテーブルの村なのか?
今後の展開として、選択肢は一つと言っていいだろう。
“蛇”、“生贄”、“罪悪感”のキーワードから、神官タルが封印させた洞窟。生贄という因習が始まって以来、村が目を背け続けてきた場所。そこを調査する必要がある。
「村長、生贄を納めていた場所を教えていただけませんか」
生贄が捧げられていた場所を今もなお項垂れる村長に教えてもらうと、スェーミは立ち去るべく入口ドアへと歩くが、
「騎士様、私達は一体どうすれば」
…と、絞り出すような声で村長が問う。
この老人も幾多の苦渋の選択をしてきた男で、その苦労は皺の数だけという訳ではないはずだ。そんな彼の立場からすればスェーミのような若造に村の今後すべき事を聞く。村長は藁にもすがる思いなのだ。
「墓碑を建てて生贄になった娘達を弔うのですな。あなた達の気持ちを確かに示すこと、それが肝要なのではないでしょうか。それと終わった事はもう仕方がないのですから、気をしっかり持ち村の者達一丸となってこれから先の事に臨みなさい。死んだ者を悼む心は尊いが、今を生きる者達も大事ですよ……それでは、失礼」
スェーミはそう言って辞去した。
………
……
…
時間を遡ることおよそ半時間、ゼクスはスェーミが村長と歩いて行くのを見送ると、村の大まかな外周を掴み、“歩導結界”を展開した。彼の歩く後には青い半透明状の膜が現れて、それが今度はすぅっと消える。
これはイリスの加護を得つつ歩いた道をそのまま結界とする簡素なものだが、術者の能力に応じて堅牢な壁にすることも可能である。すうっと消えても視覚的に消えたように見えるだけで、実際は邪なる者らを近づけさせない。ゼクスは特に結界の質に関して指示を受けなかったので、僅かな集中によって生み出された結界を作りながらのんびりと村を歩いていた。
「自然が多いのを除けばやっぱりなぁ~んもないで、ここ。ここで暮らせ言われたら全力で断るし。もしどうしても住めっちゅうんなら、とりあえず村の子供たちを全員かき集めて――」
…と、呟きながら歩いていたら、年齢五歳程で頭髪を短く刈り込み薄汚れた布の服を着た男児が、木の棒を振り回し遊んでいるのを見かけた。ゼクスと男児はお互いをほぼ同時に認めると、ゼクスはニコリと屈託の無い微笑を浮かべ、男児は目を輝かせた。そしてタッタッタッ、とすばしっこくかけ寄って、
「お姉ちゃんテンプル騎士の人でしょ?」
…と言って木の棒を構えて振り回す。大人に間違われるとカチンと来るゼクスだが子供には寛容のようで、穏やかな微笑を湛えたまま僕は男だよ、と言って聞かせる。残念ながら、絵としてはどう見ても女テンプル騎士が子供と話しているようにしか見えないが。
「ほんで僕こそ訓練所に稲妻の如く現れたアトミックマン、ゼクスや!良う覚えておくんやで、ボウズ」
「あとみっく…?」
キョトンとする男児を無視し、ゼクスは自身が見習いという肩書きを伏せて、確かにテンプル騎士である事を明かす。
「何?ボウズはテンプル騎士になりたいん?」
「うん。それか衛兵隊」
ヴィリエの衛兵隊はヴィリエ出身の者でしかなれない。すると彼の目指す先はテンプル騎士になるが、テンプル騎士も来る者拒まずという訳ではなく教会に認められた者が任命される。よってこの男児がテンプル騎士になるには伝手が必要になってくる。男児が狭き門に挑むかどうかは別として、この陰気な村に元気な子供がいるのはゼクスにとって嬉しい事だった。なので、仕事の合間で男児の遊びに付き合う事に。
「ちょい待っとって。兄ちゃん今仕事中やから、それ終わったら一緒に遊んだるで」
「えぇー。おれ、女とは遊びたくないよ」
…と、性を意識するような発言をして拒否されてしまった。どうやら彼はまだゼクスを女と思っているらしい。確かに孤児院での生活でゼクス自身がそうだったように、この位の年頃の男児は同性と同じように走り回って遊ぶのが断然楽しい。けれど、そういえばこの男児は何故か一人だ。男児と同年代程の子供は、村を歩いている途中何人も見かけている。少し気になったゼクスは、男児について尋ねてみる事にした。
「ボウズの名前なんていうん?」
「おれはサット。姉ちゃんと二人で暮らしているんだ」
「おとんとおかんは?」
それを問うと、サットは俯き寂しそうな表情になる。だが返答を拒む事はなく、次のように答えた。
「父ちゃんと母ちゃんは、おれと姉ちゃんを置いて村から出ていった」
サットの姉の名はニーナ。村長の家で同席している、あの若い娘である。この姉弟の両親は、理由はともかく家族の絆を捨て、村の共同体意識という鎖を断ち切り外の世界へと飛び出した。
親にとってはそれで良かったのかもしれないが、残された子供達の運命は過酷だ。親としての義務を全うせず放棄したのも言語道断だが、この村で生活を維持するのに重要な共同体意識を犯したのは村で孤立する事を意味する。誰一人として助ける者が居ないのだ。
親の身勝手な行動でいわば村八分となったこの姉弟だが、これを不憫に思ったのが村長夫妻だった。周囲の反対はあったが村長夫妻は元々子供がおらず、村八分となる前は家族ぐるみでの付き合いもあった為、掟やルールといった理屈を超越した心情がこの姉弟を迎えるに至った。
けれどもこれで姉弟が抱える問題を完全に解決される訳ではない。ニーナは恋人との逢瀬を楽しむ事が出来ず、サットは子供達に仲間外れにされ遊び仲間がおらず、いつもこうして一人で遊んでいるのだった。それがかれこれ一年続いている。
ゼクスは全てを理解した訳ではないが、直感的にサットの立場を察し、この仕事の合間があれば出来るだけ彼の遊びに付き合おうと胸に誓った。
村を一周したら歩導結界を閉じて、結界を完成させる。その後サットに向き直ると、彼は退屈そうなのか興味深そうなのか黙ってゼクスの様子を見ていたが、向き直るゼクスを見て表情を変えた。勿論、それは笑顔だ。
「よし、兄ちゃんが遊んだる!何して遊ぶ?木登りでも虫捕りでもなんでもええで」
「チャンバラ!」
即答だった。ゼクスはサットと共に近くの森でチャンバラをするのに適した安全な木材を探し、その後監視台のある広場に行くと、遠目から村人の視線が集まる中で、チャンバラを始めた。
眩しい太陽の下、カン、カン、と木と木がぶつかり合う音が響く。汗を流しながら棒切れを振るサットとそれを涼しげに受けつ躱しつ、まるで舞踏のように立ち回るゼクス。同時刻、村長の家で起こっている事とは反対に、二人が戯れる村のこの場所にだけ、活気が満ちる。
「よう飽きんでチャンバラやるなぁ。兄ちゃんはもう飽きてきたで?蝉でも取ろうや、色んなのがぎょうさんおっておもろいで」
剣術訓練を辟易する程やったゼクスが慊焉たる面持ちを隠さぬままそう言ってよそ見をした瞬間、
「隙あり!」
「危なっ!」
…サットのまさかの一撃を間一髪避けてヒヤリとさせられてしまった。子供相手とはいえ油断大敵とはまさにこの事で、これがもし実戦だったら…と生唾を飲み込むような事はなかった。丁度その時、スェーミに後ろから声をかけられたからだ。彼は眉間に皺を寄せ、いつもより険しい様子でゼクスに問うた。
「遊んでんじゃねえ。結界は張り終わったのか」
「あ、はい。村は低級霊くらいなら入る事は出来へんハズです」
つまり、泥人形達は村に近寄れないという事だ。更に蛇神の御神体を祀る小屋の存在を発見した事も耳打ちすると、スェーミはゼクスの仕事に無言で満足するが、サットとしてはこの闖入者を恨めしそうに見るだけだった。そこでゼクスはスェーミとサットにお互いの事を説明するが、スェーミは険しい表情を変えずサットを一瞥しただけで、行くぞ、とだけ言い残しその場を離れてゆく。その言葉に従いゼクスも後について行く事で、二人のチャンバラは唐突に幕を下ろした。
生贄が捧げられていた洞窟は村から奥地の山間部にある森に囲まれた場所にあり、付近には立ち入りを禁ずる立て札があって、人の出入りがある形跡は入り口の松明他見当たらない。スェーミとゼクスは湿った松明になんとかマッチ棒で火を点けて、重い岩戸をどかして洞窟へと足を運ぶ。ここで“照明魔法”を使わないのは持続性の問題と先述した通り良い効果が期待出来ないため。神官タルの報告によれば、入り組んでいるのは見た目だけで基本は水平に一本道。ただしかなり奥行きがあるらしい。
二人が洞窟に入ると、直ぐに伏流水が滔々と流れる音が聞こえてくる。また地下水によって冷やされたのか冷たい空気も立ち込めていて、入り口での印象は成程、この場所に立ち入るべからずといったところ。確かに、色々な意味で長居をしたくない洞窟だ。
「キキーッ」
「おわっ、蝙蝠がおるんか」
この洞窟が、実際のところ水の削磨によるものなのか、古代人による採掘で形成されたものなのかは不明だが、どこの岩肌も硬い岩盤なので軽装では危険だ。壁、地面を血管のように枝分かれした溝に、山から浸み出た水がとめどなく流れ、松明の火で照らされた岩肌はテカテカと光って見える。この浸み出る水や伏流水は、おそらく洞窟のどこかに別の地下水路があってそこから来ているのだ。脇道のようにあちらこちらに穴が空いているのはその地下水路で、その内のどれか洞窟の外に繋がっているのではと推測される。それが村の生活水となっているのだろう。目指す生贄の儀式が行われた場所には地底湖があるそうだが、一体如何程の規模なのか。
――洞窟を進む二人の声が反響する。
『罪悪感はクソやゲロに似ているな』
『嫌な例えやなあ。なんでそう思うんです?』
『クソやゲロは自ら進んで直視しようとは思わねえし、罪悪感だって良心の呵責から目を背きたくなるだろう』
『うーむ、例えはあれやけど分かる気ぃする』
『おそらく村長達の話にあった泥人形ってのは、生贄として死んだ娘達の亡霊なんだよ。可哀想だが浄化してやる他ねえな』
『成程。その女の子達こそ村人の罪悪感であり、クソであり、ゲロなんやな。元を絶たな、村は永久的に悩まされ続けるっちゅうことか』
ルーティングテーブルの村人がずっと目を背き続けてきた、抗い難い罪悪感を封印してきた場所。クソやゲロを放置してきた場所。村の歴史は生贄の歴史といっても相違なく、きっと怨念渦巻く不浄な場所となっているに違いない。これに対し自分達だけでなんとかなれば良いのだが、とスェーミは思う。そこはすぐ後ろに続く見習いのゼクスも、多少はアテにしなければならなかった。
丁度洞窟の真ん中辺りだろうか。洞窟に入ってから時間にして十分から二十分といったところで、緊張が続き辛くなったのかゼクスが休憩を提案してきた。了承したスェーミはその場の岩に胡坐をかいて座り、ゼクスもそれに倣い隣に腰を下ろす。
松明が照らす周囲の状況を改めてよく見ると、川の清流のように静かに流れる水音と湧き水、ぽたぽたと滴る水…と相変わらず水が確認出来る。壁の岩盤も濡れて光っているし、足元も時折滑る。洞窟全体が一度水に浸されたかのようだ。
「ねえ、スェーミさん。村長の家でどんな話をしたんですか」
「仕事の話だ」
「それにしてはさっき、ごっつ雰囲気違うてましたよ。なんか怒ってるような感じやった」
お前には関係ない――そう言おうとしたスェーミだが、見習いとはいえ彼も任務に同行している以上そうは言えない。それに訓練所からは実践任務考査として同行せよとしか聞かされていないらしく、あまり事情を知らないのだ。加えて本人が任務について聞かないので、結局話さずじまいになっていた。
少し事情を話しても良いだろうと思い直したスェーミは、私見を交えることなくこの村の因習について説明した。
「それで罪悪感ちゅう言葉が出たんですね。村の人はもやもやした気持ちをすっきりしたいって思わへんのかいな」
「この村の奴らはどいつもこいつもイカれてるんだ。気にするな」
洞窟に入ってからゼクスの口数が少ないし、お調子者然といった様子も控えめだが、スェーミはあまり深くは考えず、洞窟について思考を巡らす。
この洞窟は人間が幾度となく死を迎えた場所である。それには村人が事前に手を掛けたり、蛇自身が生贄を殺したりと様々なケースで洞窟に死体が出来ることになるが、特に人骨が転がっているだとか、腐臭が漂っているだとか、気になるような様子はない。蛇が生贄をしっかり丸呑みして消化し糞尿としてどこかに排泄しているのだ。それに十八年に一度の、一人だけの犠牲なのだから死体による水質の汚染は殆ど無いのかもしれない。けれども、この洞窟の水がいかに清水であろうと、休憩がてらに洞窟の水を飲むことはないだろう。何故なら、洞窟の奥へと進むにつれて次第に不浄な場所へ近づいているのを感じるからだ。どんな風になっているのか想像もつかないが、とにかくそこから来たかもしれない水なんて飲めたものではない。教会も訓練所も、水は生物の起源であり、水の性質によっては心身を狂わすと説教している。
口数が少ないというよりは体調が優れないのか、なかなかゼクスが立ち上がろうとしないので、スェーミが彼を急かし先に進むよう促す。
「そろそろ行くぞ。ここは涼しいがあまり気持ちの良い場所じゃねえ」
「は、はい」
洞窟を慎重に進んでゆくと、開けた場所に出た。その中央には角柱状になって突き出るような岩場がある。まるで“ここに生贄を捧げろ”と言わんばかりの、天然の祭壇だ。きっとこの場所なのだろう、生贄の最後は。
奥には地底湖が見えて、この地底湖の何処かに外へと通じる穴があり、蛇はそこからこの洞窟と外の山野とで出入りしていたのだ。
しかし、それら地形の様子よりも凄まじい光景に、スェーミとゼクスは暫しその場で立ち尽くし息を飲むしかなかった。
洞窟の最終地点にして生贄の娘達が最後に訪れた場所は、彼らテンプル騎士からすれば、純然たる“不浄な場所”だったからだ。場所全体がドルトル粉を気体化させたガスというものが発生しているようになっていて、それが紫色になって充満しているのだ。ドルトル粉が発明される前の旧文明時代だったなら、病気を蔓延させる瘴気と呼んでいただろう。
「凄いな」
「はひぃ…負の感情の溜まり場やで、ここ。こんなになるまで放ったらかしてどないすんねん」
「さっさと“浄化の儀式”を始めた方が良さそうだな。準備するぞ」
「了解っス。サットと遊ぶ約束をしてるんで早う終わらせな!」
テンプル騎士達は、各々の能力にもよるが、今のスェーミとゼクスのようにその場にあるエネルギーの性質や感情を感知する能力を持っている。これは訓練所で重要科目として訓練されるが、訓練を促進させる為に、教会が“精霊の水”と呼ぶ液体を飲む。一見無味無臭のただの水だが、実は水溶性の麻薬成分が含まれているのだという。テンプル騎士はこれを一定期間毎に飲み続け、不浄の存在や常人には視認出来ない死霊・悪霊に対応出来るようになる。また浄化の儀式とは、イリス教の経典を唱え、テンプル騎士自身が宿す力に加えイリスの力(経典を唱えることで信仰心と精神力を高めた自身の力の比喩とされる)を借りて、場を神聖なるエネルギーで満たすこと。邪悪なエネルギーで充満した場にこれを行うと中和され、空間は元通りになる。スェーミは、恐らくだが人心御供によって死んだ娘達の負の感情で溢れるこの場所を無くす事で、村が抱える問題を対処しようとしたのだ。
…にしても、疑問が湧く。
最後の生贄が捧げられた十八年前もこのような状態だったとすると、洞窟は危険で、蛇の脅威も合わさって、もっと早くこの村は壊滅しているか教会に助けを求めていただろう。それに神官タルの記録にもこのような状態だと報告は無かった。ということは、この状態にはここ一ヶ月かそこらになったのだ。いまいち判然としないが、もしかすると神官タルが屠った蛇の死がきっかけとなって、このような事を引き起こしたのかもしれない。
予想以上の状態の悪さに少し焦ったスェーミは一刻も早く儀式を行おうとしたが、彼の想定を覆す事が起きた。この場に充満した紫色の気体が、まるで意思があるかのように突如一箇所に集合を始めたのだ。それらはやがて形を持ち始め、紫色で半透明状の、人の形をした姿になった。これはスェーミの豊富な経験でも厄介だとしか記憶に残っていない、不浄なるものだった。
「ファントムだ!クソッ、この野郎が泥人形共を造り村に呼び寄せていたんだ」
「ふぁんとむ…?」
ぽやっとした様子で聞き返すゼクスに苛立ちを覚えながらも、スェーミが答える。
「訓練所で習わなかったのか?こいつは――」
スェーミが何かを言いかけた時、二人の間を紫色の何かが駆け抜ける。説明をしている場合ではなく、説明を受けている場合でもなかった。
ファントム。控えめの表現をすれば幽霊、地縛霊とも呼ぶこの化け物は、半透明状の姿から分かるように物理的な攻戦は意味を成さない、霊体と呼ばれるものである。従って精神力と精神力とのぶつかり合いとなるが、スェーミはそういうまどろっこしいやり方が好みでなかった。またファントムのような霊体との戦闘は専門の術者かその監督下で行うのが望ましく、ゼクスはそもそも経験が無いし、スェーミもやや苦手という事もあり、二人は危険な状態にあった。
ファントムがかん高い悲鳴のような声をあげながら、紫色の軌跡を残して洞窟内を飛び回る。大きさは人の丈より上回り、中型の草食動物ほど。空中をホバリングしている際は四肢を確認出来るが、宙を飛行する際は頭部と胴体のみになり、スピードは街で一般的に見られる鳥の飛翔程度といったところか。目で捉えられなくはないが、決して遅くはない。
「ゼクス、油断するんじゃねえぞ。こいつは生贄になった娘達の霊、その集合体だ」
「は、はひぃ!」
「憑かれて殺されたくなかったら、オレに続いてマニュアル戦法でもいいから本気でやれ」
「は、はひぃ!」
「(大丈夫かな…)」
松明を消えてしまわないような場所に置き、今も洞窟内を飛び回るファントムにスェーミが狙いを定めると、照明魔法を唱えた。すると急な発光によってなのか、一瞬ファントムがたじろぐ。それを見逃さずスェーミが距離を一気に縮めると、腰を低く落として洗礼の剣を抜き、ファントムの動き出す瞬間とその動く先の方向を読み、左下から右上方向に斬り払う。
だが確かに命中したはずなのに、まるで手応えが無い。空振りした訳ではないのはこの場にいるゼクスの目からも分かる。スェーミのタイミングは完璧だった。
今度はファントムがゼクスに向かって突進する。これはまさに直線で、ゼクスはタイミングよく体を反らせて躱しつつファントムを斬りつけるが空を切るが如し、手応えがない。やはり昨夜対峙したハーピーのように、単に空を飛ぶ敵とみて交戦するのは現実的ではなさそうだ。
「ちっ、不味いな…」
スェーミが交戦しているのを他所に、ゼクスが訓練所で担任老教官より習った、霊体の化け物との戦術を思い出す。
『イリスの御力で以て討つのは真にこの難敵を挫くとは言い難く、イリス御自身も望まれぬ。従って敵が霊体である事を利用し、我らの肉体に一時宿させ――…ゼクス君、私語を慎みなさい』
「やかましい、あのボケジジイ。聞いとるわ!」
要約すると、自らの肉体に憑依させ、そこで文字通り精神と精神とでぶつかり合い、敵を討つというもの。この方法は心得が無い者が行うには非常に危険で、当然精神が破壊されれば肉体は機能しなくなる。敵が高い能力を有しているのならば、肉体だけになった者 傀儡のように朽ち果てるまで使役されてしまう場合もある。
ただ訓練所がこの方法を推奨しているには理由がある。わたし達生者の精神は、死んだ者達の精神と比べものにならないほどのパワーがあって、それに加え日々鍛錬しているテンプル騎士ならば尚更強力なのである。
慣れ不慣れ、敵の能力、己の鍛錬状況、そして運…といった要素で生存率が変わるという事だが、前述の通りスェーミはこのまどろっこしい方法が嫌いで、いつも力でねじ伏せていた。
「ぐうっ」
ゼクスが訓練所の教える方法と少しばかり過去の事を思い出していると、スェーミの苦しむ声が聞こえて我に返る。
見るとスェーミの体から紫色のオーラが発し、いつも気怠そうにしている彼が苦悶の表情を浮かべているではないか。彼自身が自分のスタイルと異なる方法で撃退しようとファントムに宿させているのか、それともファントムが無理矢理スェーミに取り憑こうとしているのか。
いずれにせよ、ゼクスは考えるより走った。
「スェーミさんっ」
スェーミに飛び跳ねて突っ込むと、その勢いで二人はゴロゴロと組み合うように硬い岩盤の上を転ぶ。テンプル騎士団の防具を装備しているとはいえ身体中に痛みが走るが、スェーミから立ち上っていた紫色のオーラは消えた。
「いけますか、スェーミさん」
「…この痛みとお前が乗っかっていなければな。いいモン貰っちまったぜ、クソッ」
仰向けになっているスェーミの上に馬乗り状態だったゼクスが慌てて退けると、そこでようやくファントムが何処にいるか探す。
「どこや!今度は僕が相手になったる」
まだ辛そうに起き上がれないでいるスェーミを見て、ゼクスが勇気を奮い立たせて叫ぶ。声が洞窟中に響き渡るが、ファントムの姿が嘘のように雲散霧消してしまった。霊体の化け物は物理的な影響を受けないばかりか、その意思でもって姿を見えなくさせる事も出来るのだ。
このまま姿を表さなければテンプル騎士団が仕事を失敗することを意味し、それは即ち教会の名誉にも直結するが、この時のゼクスはテンプル騎士としての肩書きや使命は毛頭なく、“早く戻ってサットと遊ぶ”、“負傷したスェーミを守る”という理由で、コバルトブルーの瞳を凍てつかせて暗い殺気を放つ、彼のこれまでの人生で一度もしたことのない事をしていた。同時に何か策でもあるのか、険しい表情の中にも余裕を感じられる。
「僕をナメんといてや。アトミックマンの知られざる力、みせたるわ」
意思に燃えるゼクスは洗礼の剣を胸元に構え、剣先を天井に向けると集中した。
まだ頭の中がチカチカと明滅するスェーミにはゼクスが何をしようとしているのか見当がつかなかったが、とにかく、ごく短い時間の集中で彼は紺碧のオーラを纏い、美しいブロンドヘアは発光により銀色の糸のようにゆらゆらと戦ぎ始めている。
「イリスは見ておられる…正邪美醜問わず、地上の形あるもの全てを平等に。イリスの愛はのべつ幕なしと知れ」
洞窟の最終地点はファントムが見えなくなった事で、紫色の邪悪なエネルギーが確認されない。代わりに、ゼクスの発する嫋やかな紺碧のオーラが場に満ちる。
そして、それは起こった。
ファントムがパチン、パチンと音を立てながらぼんやりと霧状になって地底湖の水面上から姿を現した。更に弱体化しているのか、姿を消す前の活発な動きが見られない。今はその場にホバリングしている、というよりはただ浮いているようだった。
ゼクスは“探索魔法”と呼ばれるものを展開した。これはテンプル騎士に備わる超人的な感覚と精神力を霧やオーラのように具象化させ、主に変装したり潜伏したりする敵を発見する目的で用いるのだが、ただ単に索敵を期待するだけでなく、高度な術者ならば今のファントムのように弱体化や無差別な攻撃も行える。
ゼクスは敵の再登場に「逃さぬ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべる。姿を強引に出されたファントムは人の姿を形成することも叶わなかったが、素早く飛翔する力はあるようで、場に広がる紺碧のオーラを切り裂きながらゼクスに向かって一直線に突進してきた。
「お前にはまだ早ぇ。止めろっ」
直感的にゼクスが何をしようとしているのか理解したスェーミが制止の声を挙げるが、当の本人は突進するファントムに対し仁王立ちをしたまま。ゼクスは己の身に敵を宿させ、精神と精神との戦いに臨もうとしているのだ。加えてやってやる、やってみせる、とスェーミの想像以上にその意思は固かった。
敵を迎え撃つために目を閉じ両手を大きく拡げ、その後時間にして一秒、二秒と経過するかしないかの時に、ゼクスがファントムと重なる。突進による衝撃は殆ど無く、そのままの姿勢で彼が紫色のオーラを纏い始め、やがて、精神の奥底で対峙するのである。
ファントムと。生贄となった娘達と。ルーティングテーブルの村の歴史と。
………
……
…
ゼクスがはっ、と目を開ける。
周りは真っ暗だが、それを埋め尽くすかのように割れたガラスの形をした、沢山の画像映像に上下左右囲まれていた。当然今まで目にした事の無い光景で、ガラスに映る内容をよく見ると一人称視点でゴロゴロと転がるスェーミや、ファントムが洞窟を飛び回りそれを追うといった、自分がごく最近に見た記憶が映像として再生されているもの、馬車の荷台で怠そうに煙を立ち登らせているスェーミの横顔の画像などもある。
ゼクスはしばらく己の記憶の断片と思しき画像映像に見入っていると、見慣れない断片が出てきた。この風景はルーティングテーブルの村で、様々な人の生活の営みを見る事が出来る。それが次第に自分の記憶のものより多くなり、代わりに、他の人の記憶が多くなって、ガラスから見れる画像映像は様々な人のものに増えてゆく。
そう、沢山の、ルーティングテーブルの村人の…。
ゼクスはまたしばらく現実からかけ離れた光景に目を奪われていたが、何らかの気配がしたからなのか、後ろを向け、と言われたのか、ふと振り向く。
背後にはガラスの記憶らと闃として物音しない眞闇な空間と一緒に、見上げるほどの大蛇がいた。
ただの大蛇ではない。村が生贄を捧げ続けた白蛇でもない。
一糸纏わぬ人間の肉体が重なり合って出来た蛇だった。この蛇の形を形成した人の集合体は、よく見ると全て女性の肉体であるようだった。
これは生贄となった娘達だと察したゼクスは、大蛇と目が合ったような気がした瞬間に剣を抜き構えるが、蛇は動こうとしない。しかもなんと、蛇が語りかけて来るのである。
『イリス様、お救い下さい』
大勢の女性が同時に同じ事を話すような、世にも不気味な声だった。その不気味さが、否が応でも昨夜の夢を思い出させる。あの花絶景と光芒の下で遊んでいた子供たち、そして“イリス様ごっこ”をつい先程起こった出来事のように思い出したゼクスは、剣を構えながらも、ファントムを打ち破ろうとする気概をすっかり失い、後退りした。
「な、な、何言うてんねん…ぼ、僕はイリス様ちゃうで」
『イリス様、お救い下さい』
「だ、だ、だから!イ、イぃぃイ、イリス様ちゃう言うとるやろ」
だがここでやっとゼクスは思考を働かせる。ひょっとすると、生贄となった娘たちの霊であるファントムは、長い年月をこの地に囚われ続け、ただただ解放を願っているのだと。テンプル騎士としては、それは浄化、即ち滅せられることを望んでいるのかと解釈するが、彼の場合は違った。
『イリス様、お救い下さい』
蛇を構成する娘達がいっせいに救いを求める。これに対しゼクスは観念したかのように苦笑し、洗礼の剣を構え直す。今の彼は全身から探索魔法を展開した時のように嫋やかな紺碧のオーラが立ち昇り、表情は穏やかな微笑を湛えるほどの余裕と、そして慈愛を感じられた。
「僕はイリス様ちゃうけどその気持ち、なんとなしに伝わった。ちょい痛いけど我慢してや」
ゼクスは蛇に突進し、胴の部分…人の背中の部分でもある場所に洗礼の剣を突き立てた。
「ギャーッ」
ゼクスの体から立ち上っていた紫色のオーラが消え、断末魔と共にファントムの姿も完全に姿を消す。洞窟は松明の炎がめらめらと燃える音が聞こえるだけで、暗く静かな空間だけとなっていた。この気配から察するに、生贄が捧げられていた洞窟は正常の状態に戻っているようだった。
「大丈夫か、ゼクス」
動悸と息切れで膝をつくほど苦しむゼクスを、スェーミが労る。
「は、はい。ファントムは…?」
「消えた。完全に気配はない。浄化は成功だ」
スェーミは肩を貸してゼクスを立たせると、具合が落ち着いた彼に、自身に起こった事を話して聞かせる。
ファントムは己の精神へ強引にアクセスし、攻撃をしかけてきた。その時彼があのおぞましい“蛇”から感じた感情は、只々憎悪、それに恐怖にかられた衝動的な抵抗のようなものであると語る。スェーミは、憎悪は当然自分を生贄にするという村の決定に対するもので、恐怖は蛇に対する生贄の娘達が残す感情の残滓と分析する。憎悪と恐怖の感情をぶつけるように問答無用で襲いかかるあの蛇の恐ろしさといったら、古参のテンプル騎士といえど凄まじいものがあっただろう。
一方、ゼクスは次のように答えた。
「僕はなんちゅうか、そういう憎悪やら恐怖やらは感じませんでした。あの子達は、僕に救いを求めてきて、襲うたりもせえへんかったんですわ」
「救いだと?あの気持ち悪ぃ化け物がか」
「あの子達はきっと村に帰りたかったんやと思います。それなのにこんな場所に縛られて…」
ゼクスが苦しそうに言う。彼はそれ以上、人と人で出来た蛇について語ろうとはしなかった。
これを聞いて、洗礼の剣を鞘に収め、スェーミは考える。
生贄として死んだ娘達は、この場所に縛られ身動きが取れずにいた。目に見える感情といえば、掟や村の決定は絶対であるなどととして強引に生贄を命じた村への憎悪だったが、そこには恐怖もあった。これは神官タルに屠られた白い大蛇に対してだ。だが救いを求める意思もあったとすると、ゼクスの言うように生贄の娘達、正確にはその霊は、自分たちが死んで役目を終え、その後単に村へ戻りたかった、或いは同じ村の墓地で眠りたかったのかもしれない。
そこであの泥人形だ。ファントムと化した生贄の娘達は、泥人形を作るほどの力を持っていた。それはこうして対峙したことで確信が持てる。そして村は泥人形との間では小競り合い程度に終わっているという証言もあるし、実害も出ていない。
では、泥人形は何故ルーティングテーブルの村近辺にだけ現れ、同村だけを襲うのか?それも実害を殆ど出さずに。
実は襲っているのではなかった。憎悪とは別に、生贄の儀式を終えて村へ帰ろうとする気持ちの表れが、泥人形という形で具象化していたのだ。
スェーミからすれば救いを求めるという事は即ち浄化を意味するのではないかと考えたが、ゼクスの言うように“村へ帰る”という発想をした方が、なんというか、優しくて人間味があるし、この場合的を射ている気がする。
では何故昨日、村人ではない自分達をあの泥人形たちは襲ったのか?
襲ったのではないのだ。不器用な方法ではあるが、地に縛られし霊・ファントムとなってしまった自分たちを解放・浄化してもらうために、救いを求めたのだろう。これは恐らく村の近隣を訪れる者無差別に行われていたに違いない。
結論を出そう。
泥人形の発生原因であるファントムの出現は、神官タルによる蛇の退治が起因している。蛇は生贄を肉体だけでなく魂をも喰らっていたのだ。蛇の死により解放された魂、即ち生贄達の霊は、罪悪感にかられた村に迎えられることなく、この洞窟にとどまるしかなかった。
「(チッ、なんて事だ…これが真実だとしたら、ここでも村人たちの罪悪感が邪魔してやがる)」
スェーミは今後の対応に忙しく思考を働かせていたが、ゼクスは孤影悄然とした様子で俯いているだけだった。彼の体験が本件を真実へと導いたというのに。
「スェーミさん、僕なんだかめっちゃ嫌な予感がしまんねん。村に早う戻りまへんか?」
「どうしたんだ」
「いえ、ほんまに僕のただの勘なんやけど、これで終わりちゃう気ぃしまんねん」
今のゼクスは普段とは明らかに違う雰囲気で、何か霧に包まれながらも直感的だが確信めいた発言をする。しかもファントムとは自分と全く別の接触の仕方をした彼の言だ、急な胸騒ぎを覚えたスェーミは早々の撤収準備を指示した。
「撤収する。戻るぞ」
「は、はい…」
尚も暗い表情で返事するゼクスにスェーミは、
「テンプル騎士団では勝手に死ぬことや一人で悩むことを禁じている。話す気になったら話すといい」
…と、ぶっきらぼうに背中越しで言う。
暗澹たる胸中はまだ優れぬものの、スェーミなりの気遣いの言葉に、蛇を討つと再度決めた時の苦笑とはまた違った苦笑を浮かべるゼクスだった。
スェーミとゼクスが洞窟を探索中、村長宅を辞去したニーナは、自宅に居ない弟のサットを探すため村を歩いていた。近頃、サットが村の同じ年頃の子供にイジメを受けているようだからだ。
しかし先程のスェーミとのやりとりでまだ火照る頭が、彼女を物思いに耽けさせるのだった。
「(やっぱり、外から来た人からすれば村の雰囲気だけで分かるものなのね。それかあの男が切れるのか)」
自分達は村に住んでいて、日々日常を送っている。その日常を外部の人間が非日常と感じるのは尤もな事だと思う。ましてやテンプル騎士ならば、生贄の儀式や屠られた蛇の事、神官タルの事などの背景も知っているのだから、村全体の感情を掴むのも容易いのかもしれない。
けれど、両親は違った。時々母が「こんな村なんか」と感情的になって言うのを、父が止めさせる場を何度か目にした事がある。両親は村の隠隠滅滅とした雰囲気を感じ取っており、それを唾棄するが如く嫌っていたのだ。両親は早くに結ばれ自分と弟を作った。つまり親としてはまだ若かったのだと村長の細君から聞いた。それ故に感じ取れたのかもしれない。
生贄の儀式で誰が生贄になるか、村の中央広場で会議が行われる。当然自分が第一候補に挙がった。村はさぞ鼻つまみ者を体良く処理出来てご満悦といったところだったろう。流石の村長も村の多数の意見には何も言えなかった。恋人のオクタヴィオだって。
タルのお陰でこうして生きているけれど、村の中では死んでいるのと変わらない。
両親に捨てられたというのに、今は気持ちが分かる。こんな村なんて、出ていってしまいたい。
「姉ちゃん!」
サットの呼ぶ声でニーナが我に返る。彼女は弟を探しているというのに、逆にその弟に探し出される羽目になってしまった。
「サット、何処に行ってたの。家で留守番していなさいと言ったでしょう」
「おれ、テンプル騎士の人に遊んでもらったんだよ!チャンバラごっこしたんだけど、すげ〜上手なんだ」
興奮気味に喋る弟。村の情報伝達は早く、テンプル騎士が二名やって来て、一人は男、もう一人は女という話も周知されている。ニーナは弟がその女テンプル騎士に遊んでもらったのを知ると、先程の無礼な男テンプル騎士とは別種の人物であると読み取る。そして弟の輝く笑顔に釣られて自身も微笑みが浮かび、謝意を伝えたく思うのである。
「そう、良かったね」
「それとさ、ほら、見てよ。蛇神様の小屋」
「えっ…?」
いつの間にか蛇の御神体を祀る小屋の前にやって来ていたニーナは、弟の指さすその小屋に目をやる。
その道の心得が無い者でも分かるほど、小屋全体から禍々しい、赤黒いオーラを放っているではないか。そしてニーナが事態を理解する前に、小屋の扉が破られた。
小屋の中も盛夏の陽光を通さぬほど赤黒いオーラで渦巻いており、そこからピンク色の、軟体動物が有する触手のようなものが這い出てきた。
ニーナが反応するより早く、サットが叫ぶ。
「姉ちゃん、逃げよう!」
ニーナとサットが逃げる頃には赤黒いオーラは収束し、代わりにある物体を生み出した。“それ”は初め蛇の姿をしていたが、今はもう原型を留めていない。そして“それ”が小屋を完全に破壊しゼクスの張った結界を消し去ると、世にもおぞましき姿を露わにした。
ルーティングテーブルの村に泥人形を造り寄越していた者の正体。
圧倒的な存在感の化け物。
その後、村が本当の意味で蹂躙されるのに時間はかからなかった。
「私の子がぁーっ」
「嗚呼、女神よ。我々に何故このような試練を」
混沌とした村。
逃げる者の方が多かったが、失意のあまりその場にへたり込んでしまっていたり、泣き崩れているままで逃げようともしない者もいた。そういう者達は、順々と化け物に喰われていった。
化け物の外見は、ひとことで言ってしまえば“肉塊”である。
凡そ芸術的とは程遠く、見る者を不快にさせる毒々しいピンク色の体皮。目や鼻、口は無い。いや、頭部と思しき部位も四肢も見当たらない。何かの集合体に思えるが、元が何だったのか判別するには容易でなく、粗末で不細工で、グロテスクという表現がピッタリくる、家屋を縦に二軒分ほど並べた大きさの化け物が、突如姿を表したのだ。
ぐにゃぐにゃ、ぶよぶよと妖しく蠕動した肉塊が、ゆっくり移動しながら大小長短の触手で周囲をなぎ払って人工物を破壊し、村人を捕獲しては貪欲に喰らってゆく。どうやら生物が肉塊の体皮に触れると溶解する液を分泌するようで、大口を開けて喰らうのではなく少しずつ少しずつ、胃で消化するように溶かして吸収してゆく。溶かされている生物は体皮と融合して、徐々に肉塊の一部となる。食事の仕方も見た目同様にグロテスクだ。
既にかなりの村人がこの身の毛もよだつ運命にあったようで、上半身だけや下半身だけ、腕だけ、頭部だけ…等といったかつての姿を残している者もいる。喰われた者達で確認出来る中でも、全員目に光を宿しておらず、この醜怪な肉塊に取り込まれるという事は喰われるのと同じであり、捕獲されると死が待っている事を意味していた。
「私の馬…私の馬がぁ」
幌馬車の御者が膝を着き頭を抱えている。肉塊は馬を首から喰らいついたのか、胴体だけの馬が二頭いてどちらもぐったりしておりピクリとも動かない。
肉塊が、逃げようとせず途方に暮れる御者に向けて触手を向ける。――が、濃藍色の稲妻が寸での所で触手を切断する。切断された触手はミミズのように暫くその場で蠕動するが、やがて動かなくなった。
稲妻の正体であるゼクスが洗礼の剣を構え、武者震いが止まらない中、肉塊と対峙する。
「なんかもう、のっぴょっぴょーんな事になっとるで!洞窟に入った時からしよる嫌な予感、これだったんや。なんでこんな化け物がおんねん!」
洞窟から村へ撤収する道中、スェーミとゼクスは、村に何事かが起こっているのを感じ取っていた。二人と関係のある人物や場所、それ程遠くない距離に負のエネルギーが由来する出来事が起こると、テンプル騎士は敏感に感じ取ることが出来る。これは直感に似た部分もあるのだが、個人の能力と騎士団の訓練による効果、練磨による経験等様々な要素が絡んでこのような結果を結ぶ。
肉塊は際限なく肥大し続け、最後には祓魔神官に任されるほどの強大な力を身に付けるだろう。その頃にはこの辺り一帯の生物は食い尽くされ、何も残らなくなる。村を縛り続けてきた“掟”よりシンプルで、それでいて恐ろしい化け物が、今この場所に姿を現した。肉塊の姿を遠くから確認したスェーミは、何としてでもこの化け物を処理する事を心に決める。今この場で対処しなければ、更に多くの人が死ぬ。
一方ニーナは、この混乱の最中、物陰に隠れて若い男と抱擁していた。近くには肉塊が、辺りにはそんな二人に気付くことなく構うこともなく逃げ惑う人々、敵に挑む者、喰われる者がいるという中ではあまりに不釣り合いだったが、それは行われていた。相手は恋人のオクタヴィオで、二人は村人たちの目があって避け続けていた逢瀬を、今、神すらも見落とすこの瞬間、貪るように楽しんでいた。
「ニーナ、サットと一緒に逃げるんだっ」
「駄目よオクタヴィオ。貴方も他の人と同じように…!」
後ろ髪を結び、斯様な田舎村には優男の部類に入るオクタヴィオと呼ばれた青年が、俺の目を見ろ、とニーナの両肩を力強く抑えて言う。だがニーナは見ようとしない。彼の言わんとする事を察しているし、彼の言う通りにしてしまえば未来も知れているからだ。
「俺は村の男だ。だから村を守らなきゃいけない。俺だけおめおめと逃げる訳にはいかないんだ。分かってくれ」
「確かにそうだけれど。あれは今までの泥人形と訳が違うのよ。死ぬ、絶対に!」
「俺は大丈夫だよ。愛してる」
そう言ってオクタヴィオは、この不測の事態に備えて用意していた鉄製の剣を構え、肉塊へ走る。その入れ替わりに今度はスェーミがやって来た。彼は息を荒くしており、村中を走り回って避難誘導をしているようだった。
「どうして村の男連中はああして死に急ぐんだ?太刀打ち出来るわけねえだろうが」
そう落ち着いた様子で言うものの、肉塊と小競り合いを開始しているゼクスとオクタヴィオを同時に確認したスェーミは、いよいよ事態の緊急性と良からぬ状況に頭を悩ませる。一体何人の村人が喰われただろう?考えるより行動する方が先決なのは重々理解していたが、それは出来ない。何故なら、考え無しに行動すれば自分の身まで危うくなるからだ。
「男達は、村の危機に対し団結して解決にあたる義務があるのです。だから…」
触手を危なっかしく避けては切り、避けては切り、を繰り返すオクタヴィオを見守りながらニーナが言う。彼女の心中は気が気でないはずだが、オクタヴィオに助太刀するために、こうしている今もお俠な彼女は武器になりそうなものはないか目を走らせている。
「オレとゼクスに任せて君も逃げろ。弟はどうした?こっちは見かけてねえぞ」
「(サット…!)」
弟とは村の混乱が高まる中ではぐれてしまっていた。ニーナはそれに気を揉んでいたが、混乱に乗じたオクタヴィオとの僅かな時間に逢瀬を楽しんだことよって、正常な判断に霞がかかる状態となっていた。それを村中を走り回っていたスェーミが弟を見かけていないと聞き、突然冷たい水をかけられたように、はっ、と正気に戻った感覚に陥るのである。
弟と彼を天秤にはかけられない。だがしかし…。
「あーっ」
叫び声というよりも、断末魔に等しい声の方へと向くスェーミとニーナ。二人が目にした光景は、オクタヴィオが下半身からあの肉塊にずぶずぶと取り込まれ、やがてぐったりと動かなくなる所だった。
言葉よりも先に体が動いたニーナだが、それをスェーミによって阻まれる。腕を痛いほど強く握って離さないのでニーナが平手打ちをして離すよう要求するが、それでもスェーミは離さなかった。
「諦めろ。彼は死んだ」
「貴方には関係ないでしょう。離して!」
「もう一回言うぞ。あのブタ野郎はオレ達に任せて弟と一緒に逃げろ。死んだ奴の事を想うのもいいが、今は生きている奴を優先にしろ!」
スェーミの真剣な表情と言葉に、再び冷水を浴びたような思いをさせられたニーナは、今は弱く握られている彼の手を振りほどくと何処かへ走り去っていった。
その背中を見送りながらスェーミは、この肉塊の正体について考える。
ファントムは消滅したのではなかった。
何故かは判然としないが、とにかく洞窟の深くに潜む地縛霊だった状態から解放されたファントムは、村にゆき村人たちの恐怖の対象だった“蛇”に取り憑いた。そう、いつぞやかに屠られ今は神体と村が崇める、あの“蛇神”だ。村人と元村人の恐怖の対象である蛇とひとつとなった後、する事といえば…。
「憎悪に駆られての、村の壊滅…か。やれやれ、やろうとする事は掟に縛られた“蛇”と変わらねえな」
柄にもなく人助けをしてしまう上に、敵が敵だ。今回もまた給料と割に合わぬ難仕事に辟易するスェーミだった。
肉塊が村の破壊を続ける。中には炎上している家屋もあった。無数に生えている触手は一見無差別に動いているようだが生物を優先的に狙っているようで、逃げ惑う村人、無謀にも挑む村人を爬虫類の舌のように至妙な技で絡め取っては喰らってゆく。
その触手が馬を失った事に未だ諦めきれていない幌馬車の御者に向けられるが、ゼクスによる空中で体を回転しつつ斬りつけるというアクロバティックな剣術によってそれは切り落とされる。御者は再び彼によって助けられたが、それでもまだ馬を諦めておらず、めそめそと泣いていた。そんな御者の丸い背中に、ゼクスが乱れた頭髪を直しながらどすん、と足蹴りをして活を入れる。
「アホ!馬はもう諦めて、自分の命大切にせえ。ほら、あっち行って!」
ようやく御者が肉の塊と距離を取りどこかへ走り去ってゆくのを確認すると、ゼクスは改めてこの醜怪な化け物と対峙する。
…とはいえ、どうすればいい?
こんな凄いのは訓練所では当然教えてくれなかったし、訓練所だってこの化け物を認知していないだろう。これは何が起こるか予想出来ない現場での出来事の一つであり、教会に派遣されたテンプル騎士はそういったことを踏まえ的確に判断し対処しなければならない。つまりは、この肉塊に対し今のゼクスには経験不足で判断をしかねた。
ゼクスが自分に伸びる触手を右に左に避けると同時に剣で切り落とす。ファントムの時のように俊敏な動きではなく案外簡単に斬れるが、蚊ほどにも感じていないのかまた新たな触手が彼を襲う。敵はゼクスが得意とする剣術や洗礼の剣を変化させた武器特性による攻撃も意味をなさない。シンプルな大きい肉塊、ただそれだけなのに、後退しながら無尽蔵に生えてくる触手を切り落とすだけで、全く太刀打ちが出来なかった。
焦りと疲労が、徐々にゼクスの闘争心を奪ってゆく。テンプル騎士はイリスを信仰する、強くてカッコイイ者達のはずではなかったのか。
孤児院で生活していた頃、聖ロスタインに訪れるテンプル騎士達が跪き、イリスの形像へ祈りを捧げるのを見ては、彼らが身に纏うあの制式装備がカッコ良くて、よく真似をしたものだ。ヴィリエの外で跋扈する化け物を退治したと聞けば、テンプル騎士とは強い存在なのだと憧れもした。単純だが、それがテンプル騎士になろうとした理由だった。
だが現実は違うのだ。テンプル騎士は、一人養成してはまた一人殉教し…というような円環を繰り返している。それがイリスへの信仰と挺身を誓う彼らの運命なのである。
「こんなん無理やぁ、おしまいやぁ」
彼の浅い経験と訓練所で教えてくれるどんなタイプの敵にも属さぬ強敵を前に、エリート騎士は跪くしかなかった。本当なら逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、テンプル騎士の制式装備を身につけているという事実が、かろうじて任務と彼をつなぎ止めていた。
情けない声を出して泣きそうになるゼクスの背中がぱん、と軽く叩かれる。
「しっかりしろ、アトミックマン」
スェーミ。
彼は急迫した事態であるにも関わらず抜剣していない上に、いつもの気怠く落ち着き払った様子でそこにいた。彼の茫洋たる黒い瞳は肉塊を捉えているのか、それとも夏の青空を捉えているのか、やはり分からなかった。
だが、そんなスェーミの様子を見るとゼクスに熱い勇気とガッツが湧いてくる。スェーミは化け物との戦争でたくさんの功績を持つ歴戦の勇士ではないし、武と魔道に精通するテンプル騎士として名を馳せる男でもない。ヒエラルキーの底辺に位置する、どこにでもいるごく普通の人間である。けれど、二人が出会ってたったの一週間、たった三回の実戦を経験しただけというのに、ゼクスはこの無愛想な先輩に敬慕の情を抱いていた。一介の、何の特徴もないただのテンプル騎士であるスェーミでも、ゼクスにとっては誰よりも頼りになる騎士なのだ。
火の粉が舞う中、穏やかな口調でスェーミが言う。
「野郎の触手を斬っても秒単位で再生するぞ。だから全力で一気に浄化してやるんだ。言っている意味、分かるな」
村への道中で遭遇した泥人形達を、一瞬で無力化したあの青き聖なる光。テンプル騎士のみに与えられた奥義であり、切り札。それを洗礼の剣に全てを込めて、一刀の元に切り伏せようというのだ。この必殺剣は不浄なる存在にとって文字通り必殺をもたらすはずだが、敵は強大で失敗の可能性も十分ありうる。もし失敗したら村人を救えないばかりか、自分達も危険な状態になる。よって覚悟を求められる方法だったが、今のゼクスにそれを問うまでもなかった。
「はい!」
吃ることなく一片の曇りも無い返事を聞いたスェーミは、ゆっくりと剣を抜く。そして彼の援護する、という言葉を機に、二人は肉塊へ決意の眼差しを向けた。
最初に行動を起こしたのはゼクスだった。彼はまず背中の盾を放り投げた直後、身を低くして地を駆けた。すると背後から目で視認出来るほどの半透明状の青い風が、音も無く飛翔しては、ゼクスに向けて伸びる触手を的確なタイミングでもって切り刻む。
スェーミだ。彼の技がこの恐るべき敵の尖兵を薙ぎ払っているのだ。一体どのような様子で技を繰り出しているのか?
いいや、振り向く事は出来ない。失敗したら、全て終わりなのだから。
洗礼の剣を己の肉体の一部とイメージし、心臓から流れ出る青い光を早いスピードで全身に循環させる。それを燃えるように熱くさせたら、今度は剣へと流し込む。今にも爆発しそうに滾り発光する剣を、循環させた他の青い光によって抑え、体に繋ぎ止める。
女神イリスよ、御力を…!
並み居り伸びる触手をひらりひらりと落葉の如き立ち回りで回避し、スェーミの援護に合わせて最高のタイミングを狙うゼクス。彼が持つ洗礼の剣は、オーラのような青い光がハッキリと浮かび上がっており、剣が動く度にぼんやりとした光の軌跡が生じる。帯電しているのか、パチン、パチン、と音も立てている。
全霊を込めた一撃を放つ準備は整い、後はこれをぶつける瞬間を見定めるだけだが、敵の触手がしつこく伸ばされ、なかなか必殺剣を繰り出せずにいた。
「(スェーミさんはゲロやクソなんて言うてるけど、僕はそうは思わへん。この生贄になった女の子達かて救いを求めとったんや。ただ浄化をするんちゃう、この苦しみの連鎖を終わらせるんや。祓魔神官が出来へんかった事を、ただするだけや)」
触手を右に回避しそれを後ろのスェーミが切り裂くと、肉塊との間合いであれだけひっきりなしに伸びてきた触手が無く、豁然と視界が開けた。
その瞬間。時間にして秒、いや、それ以下かもしれない。
ゼクスが電光石火の速さで肉の塊に突進し、大きく跳躍した。この時の彼の目は、敵は勿論のこと倒壊して火の手が上がる家屋、逃げる村人、生贄の洞窟がある森のざわめきといった背景もスローモーションで捉えていて、肉塊にゆっくりと接近し手に届きそうな位置までピンク色の体皮が近付くと、それに向けて洗礼の剣を全力で薙ぎ払った。
青く縁取られた閃光が左から右へ駆け抜ける様は見る者に流星の煌めきを印象に与え、それを追尾する光の尾とで、周囲に焼き焦げた臭いを放ちながら、敵をバターのように切り裂いてゆく。
仮にこの敵が村に現れた直後だったならば、見事に両断していたことだろう。だが、村人を喰らい肥大した敵には致命傷に至らなかったのか、両断することなく青い光が収束を始めてしまう。
「(あかん、仕留めそこなってもうた!)」
直感で失敗を悟るゼクスだったが、更にもう一つ、跳躍した自分の頭上、いや、肉塊よりも更に高い位置から、静かに光る一筋の“青”の存在に気付くと、思わず目を見開いた。自分の繰り出した技が大雑把なのに対して、こちらは無駄も隙もない。それでいて整った印象を受けるそれは、安直に表現してしまえば一本の線である。青い線は肉塊の頂点、有すればだが頭の頭長部から股の部分にかけて、ゼクスの鼻先を掠まぬ程度の幅でもって、今度は間違いなく縦に両断した。
ゼクスの横一文字と合わせて十の字に裂かれた肉塊の中心から、くらむような眩しい光、けれども不思議と心が安らぐような発光と無音の爆風が起こり、周囲を照らす。テンプル騎士の二人の様子を見ていた村人達はあまりの眩しさに顔を背けて手を翳してしまい、当然光の中心にいるゼクスと肉塊がどうなったかは知る術もない。
暫く続いた発光が止むと、微かに残る焦げ臭さと尻餅をついたゼクス、それに未だ青い光を帯びた剣を持つスェーミが立っているだけで、圧倒的な存在感とパワーで村を蹂躙していた肉塊が、犠牲になった消化中の村人も共に影も形も無くなっていた。
何事も無かったかのような様子のスェーミは剣を収めると、先ずゼクスに大丈夫か、と声をかけた。
「はい。それにしてもあの青い線はスェーミさんやったんですね。めっちゃ無駄がのうて、洗練されとって…」
それを聞いたスェーミは無言でゼクスに手を貸し、無事に何ともなく立ち上がるのを確認した後、年季が違ぇんだよと、やはりいつもと変わらぬ様子で返す。
ぶっきらぼうなのはスェーミのトレードマークのようなもの。それに慣れていたゼクスは、頼り甲斐のある先輩の存在と無事に敵を浄化させた事の安心感とですっかり気が緩み、じわっと目を潤ませてしまっていた。
「あの化け物は?」
いつの間にか集まっていた村人達の一人で、まだ緊張している様子の青年が尋ねた。戦おうとしたのか、鍬を右手に持っている。残念な事に失禁していたが、もし彼がほんの少しだけ運が無かったり勇敢であったならば、あの肉塊と一緒に雲散霧消していたことだろう。
「もう大丈夫です」
スェーミの返答に歓声の声は無かった。
後の報告によれば犠牲者は計二十九名、倒壊家屋数は十三世帯と村の被害は甚大で、労働力の要である若者が中心に犠牲となり、建物も村のおよそ半分が倒壊してしまった。半分になったのはそれだけではない。非力な老人と女子供ばかりが残った村で、これからどうするのかと悲観する者と、希望を持ち早くも復興を始めようとする者とで、村の現状の捉え方が分かれた。悲観する者は、概ね老人が多かった。
この一連の出来事をスェーミが考察する。
神官タルが蛇を屠りその後封印された洞窟は、生贄になった娘達に対する村の罪悪感からそのまま放置されており、結果、死した生贄らの負の思念が充満しファントムまでが出現するようになっていた。そのファントムが、村に泥人形を寄越していた。ファントムの出現は、蛇が屠られたことが起因している。
そしてあの肉塊の正体は、地縛霊であるはずのファントムが何らかの理由で洞窟から抜け出し、村で神体として崇めていた白い大蛇の骸に取り憑いたもの。村には霊体であるファントムが物質を帯びる依り代となるものが他に無い以上、そう考えるのが自然である。崩壊した蛇神の神体が安置されていた小屋からは、それと思しきものは発見されなかったのもこれを裏付ける証拠だといえる。どうしてあのような世にも醜怪な姿となって現れたのか搔暮知れぬ所であるが、肥大して更に多くの人間が犠牲になるのを防いだとあれば、それは最早知るべき事ではないだろう。
何はともあれ、これでこの村の過去の因習が端を発する理由で困る事はない。蛇の恐怖から解放され、罪悪感と向き合いながら、本当の意味で村は歩み始めるのだ。
一番不憫なのは生贄の娘達である。
この狭い村の中でも、本当はもっとしたい事があった筈だ。同年代の仲間とたくさん話したかった。趣味を共有し合いたかった。恋仲だった村の男と永遠の別れをしなくてはならない娘もいただろう。村を出て自分の可能性を試したい野心的な娘だっていたかもしれない。それを“村の存続の為”という理由で命を取る。確かに仕方がないのかもしれないが、村は蛇に慄き生贄を捧げる事しか出来なかったのか?そして教会はもっと早くこの村の因習に気付けなかったのか?生贄の娘達は泥人形を作り使役するほどの怨嗟と呪詛の叫びに支配されていた。彼女達の無念は、我々生者には計り知れない。
神官タルは何を思いどんなやり取りをして蛇を屠ったのか。村の先行きを憂える事は無かったのか?それともその必要すら感じなかったのか。もしそうなら…。
「(詰めの甘い神官サマだぜ)」
村人の様子を見ながら煙草へ火を点けるスェーミは、やるせない思いばかりが募った。
ゼクスと御者の二人は、倒壊した村の入り口に集まっていた。ひと仕事を無事に終えてすっかり自信がついたゼクスと、馬と積荷を失い悄然と佇む御者は、小用があるというスェーミが戻って来るのを待っているのだった。村は復興作業中だが、彼らの仕事は村の要請に教会が応え、教会が下す命令と義務を遂行することなので、村の復興を手伝う事は出来ない。
「はあ…私の馬…」
溜息をつく御者を、ゼクスが腕を組み半眼に閉じた目で見る。
「まだ言うてんで、この人。もう諦めなって、馬はイリス様の元へ行ったと思えばええやん」
「そうは言っても馬は家畜ではなく資産なんです。二頭も失って大損害ですよ、全く」
「資産言うたって、命あっての物種やで。それに冒険も出来たし良かったやん。あんな化け物見た事ないやろ?」
「私は冒険なんてしたくありません。稼ぎたいんです!」
二人が価値観の相違故のやり取りをしていると、スェーミが戻って来た。彼の行くぞ、という言葉を合図に、馬を交替させながら馬車で一週間の距離を、徒歩にてヴィリエを目指す。徒歩だと、下手をすれば到着までひと月を要することになるだろう。
途中にあるハザの村へ立ち寄り、可能なら馬車を再手配する形で調整するよう話し合うと、村を背に歩き始める。こうして後半の、男三人での旅が始まった。
「おいゼクス、金貸してくれ。今無一文なんだよ」
「嫌でっせ。僕のは孤児院が支度金としてくれたものやから、いかがわしい事には使えへんのです」
「いかがわしいとは何だよ。ケチ臭ぇ野郎だな」
「商売人に向いているのかもしれませんね」
御者が意外そうに言う。ゼクスが金の話を避けようと思ったのか、それともふと思っただけなのか、サットと別れる際の事を思い出す。
孤独だが元気なあの男児は無傷無事だった。彼もスェーミとゼクスが肉塊と対峙する様子を見ていたようで、普通なら他の子供たちのように化け物の襲撃によるショックで大人しくしているのを、彼はゼクス姉ちゃん凄いね、と興奮気味だった。ゼクスは“兄ちゃん”だろ、と訂正させるが、同時にこんな時でもタフで元気なサットに苦笑してしまう。短い時間ではあるが、ゼクスはサットとその同年代の子供たちを集め、一日でも早く元気になってもらいたく、救世神話の物語を話して聞かせた。
「――そこでイリス様がバビューン!と空からやって来て、魑魅魍魎どもを片っ端からぶっ殺してくださった!それ見たフュトレが、こらあかん、こんな人には絶対勝てへん…と痛烈に実感して、急遽イリス様に弟子入りする事になったんや!」
「あの…なんか昔母ちゃんに教えてもらったのとは違うような…」
ちょっと呆れたような顔をしたサットを気にせず、ゼクスは集まった子供たちに話を続ける。評判は上々で、笑顔を取り戻す子供たちに村の大人らは感謝するのだった。
犠牲になった村人に対しては心中痛み入るものがあるけれど、とにかく子供たちが全員無事だったというのはゼクスにとって吉報だ。早く元気になって、ゆくゆくは村の担い手になって欲しいと彼は願う。一行が村を離れる際、サットはひと月前に出会い仲が良かった神官タル、そして今回のゼクスとも別れることとなり、流石の彼も表情を暗くさせていた。
陽がじきに夕焼けと変わる時刻。
往来する人の姿は無く、とぼとぼと三人並んで歩く。
蝉は煩く鳴き、荷物は重い。村がハザまでの水と食料を提供してくれたのだ。
初め、せめて一泊してから発ってはどうかと提案されたが、スェーミの案で丁重に断った。肉塊は消滅したが、村は酷い有様だ。その逆恨みをテンプル騎士に向ける者だって恐らく居るはず。寝首を掻かれては堪らぬ、という事だ。
御者が無言で歩くスェーミとゼクスに気を使い、彼も陽気になれぬ事情もあって、沈んだ雰囲気で呟く。
「あの村はどうなっちゃうんでしょうねえ」
暫しの沈黙の後、溜め息をついてゼクスが言う。
「まあ、今回の件は土着信仰みたいなのが生んだ、ようある悲劇の話やね」
「ああ、本当によくある話だな。本当に…」
生贄の娘達が自分を喰らった白い大蛇を依り代にして村を蹂躙する。こんな皮肉な話に、スェーミも何を思ったのか、歩く自分の足が見えるまで視線を落としぼんやりとそう呟いた。
「そういえばスェーミさん、さっき用があるって言うてましたけど、どこに行っとったんですか?」
「つまらん野暮用だ、気にするな」
「ええー、そんな事言われると知りたなるやないですか。教えてくださいよ」
スェーミが先ほどゼクスと御者を待たせていた時のことを思い出す。あの時、彼はニーナを訪ねていた。彼女とサットが無事かどうか確かめるためだ。そして話すことも二、三あって。
結果、スェーミの目からしても、サットは元気で無事だった。この姉弟にはスェーミも気にかけていたのだ。
ニーナも無事だったが、目に涙を溜めて茫然自失、心ここに在らずといった状態だった。オクタヴィオとの間柄はどれ程のものか二人だけにしか知らないことだけれど、ニーナの様子からしてかなり親密であった事が伺える。
「無事だったか」
はっ、とした表情をした後涙を拭い、ニーナが形式的な挨拶をする。
「騎士様達が何とかしてくれなかったらこの村は本当に壊滅していました。村長夫妻は怪我の治療中なので、私が村を代表して御礼申し上げます。本当にありがとうございました」
まだ成人にもなっていない若い娘が村を代表して礼を言うとは、無表情ではあったもののスェーミは感心した。同時に、彼女にはやはりあの事を話さなければならないと決心するのである。
「彼の事は残念だった」
「はい。でも騎士様があの時止めてくれなければ、私も同じ運命を辿るところでした」
少しの沈黙。
もしかすると、本心はそうではないのかもしれない。もしかすると、彼女は失意のうちに自ら死を選ぶ事で、恋人の元へと旅立とうとするのかもしれない。ニーナが今後どう生きてゆくか、どんな選択をするかは彼女次第であるとしても、スェーミとしては彼女にこのまま立ち止まっていてほしくなかった。
沈黙が長く感じ始めた頃、意を決したスェーミが話し始める。
「君に話しておく事がある」
「はい、どのような」
「この村は数日後に壊滅する。残った村人も、鏖殺される」
「なんですって!?」
神官タルによって村の生贄の儀式が白日に晒された今、教会はルーティングテーブルの村人に対して見る目を変えている。イリス教では如何なる理由であろうと生身の人間を用いて事を成そうとする術を禁じており、もし発覚した場合、邪教徒であるとして即刻処刑される。
処刑を行うのはヴィリエ常駐テンプル騎士団第三騎士隊。通称“根絶やし”などと呼ばれる彼らは、初めは穏やかに目標へ近づき、その後最も確実で効率良く且つ逃走されないよう周辺を包囲してから処刑を実行する、虐殺のプロだ。殺人を主任務とする彼らに良心の呵責は不要であり無駄な要素であるため、無抵抗の人間を殺害することに悦びを感じる者、イリス教の教えと教会の命令を履き違えて妄信する者、質の良い人形のように唯々諾々と従う者等で構成されており、決して説得や交渉に応じない。
わなわなと慄然とした様子でニーナが問う。
「では騎士様達は一体何のために?」
「村長の家でも話したが、オレとゼクスは君達村の要請に応えて、教会が派遣させたに過ぎない。テンプル騎士団による処刑はオレ達がヴィリエを発つ直前に聞いた。数日後に奴らが来るというのは長年の勘だよ。こういう悪いことだけは研ぎ澄まされているんだ、オレの勘は」
冗談を言う雰囲気ではないが、冗談を言いたくなるほど残酷な現実が迫っている。下唇の厚い口を真一文字に閉ざして視線を落とすニーナに、スェーミは少しだけ気後れしたが生憎時間が無い。手を出してくれ、と頼むと、ニーナの差し出した掌に金貨の入った布製の子袋を渡した。ズシリと重みを感じる小袋の中身をニーナが確認すると、スェーミの予想した通り受け取りを拒否した。
「こんな!受け取れません」
小袋を強く突き返すニーナの手を、スェーミがまた更に、しかし優しく突き返す。
「いいから取っておけ。それだけあればヴィリエの検問を楽に通れるし、当分は食うに困らねえ額だぜ。それに弟はどうする?君が死ねば弟も死ぬのと同じだぞ。自分の可能性を信じろ、君は若いしこの村と一緒に終わっちまうには惜しい人間だ」
「弟についてはそうですが…でも受け取れません。お返しします」
「今後どうするかは自由だが、もし村を出るなら今日にでも行動に移した方がいい。奴らは舌をなめずりまわしてコソ泥のようにやってくるからな」
これ以上ニーナに何も言わせないよう、ゼクス達をあまり待たせないよう、スェーミが背を向けて歩き出す。
木材を運ぶ女達を避けて歩きながら、無一文となってしまったため金策を練っているスェーミを、ニーナが呼び止める。
「どうして私達に?困っている人は他にも沢山いるではありませんか」
「あいつと仲が良かったからな」
“あいつ”…。
気怠そうに答えるその様子から、彼がそれについてあまり話をしたくないのと、先を急いでいる事をニーナは察する。けれど、ニーナからすればどうしてもこの無礼でお節介な男に頼みたいことがあった。それは小さな事ではあったが、小さな事でも時に大事な意味が込められていることもある。そんなニーナの気持ちを知らず、スェーミはまた歩き出す。
「あの…もうお一方の騎士様に、弟と遊んでいただきありがとうございます、と伝えてください」
背を向けたまま“分かった”と答えるように手を挙げるスェーミ。彼は振り返ることなく、そのまま歩き去って行った。
………
……
もし神がいるのなら、遠くから見守る神ではなく、近くにいて手を差し伸べてくれる神の方がずっと信じるに値する。そんなことは出来ないから、そんな神はいないから、運命だとか偶然と呼び言葉で都合よく片付ける。
テンプル騎士が自在に操る青い光がもし神によるものであるならば、それは“近い神”だ。神を信じぬ者でも、信じざるを得ないだろう。
村人が夏の空に輝く太陽の日差しを浴びながら、今は老人も女も子供も、一丸となって懸命に復興作業をしている。
きっと元に戻る筈だ。恐怖と罪悪感の無い村に。
ルーティングテーブルの村人たちに女神イリスの加護があらんことを……オーファム。
その後。
スェーミとゼクス、そして御者の三人は無事ヴィリエに到着。期待通りの働きをしたゼクスは彼を後押しする騎士団の幹部に大変喜ばれ、晴れて見習いから正式なテンプル騎士となり、スェーミとコンビを組んで任務にあたることとなる。
教会によるルーティングテーブルの村の処遇だが、生贄になった娘達には「衷心より哀悼の意を表する」とした上で、異教信仰と人心御供の罪は教理に基づくままの裁定を下すこととなった。
肉塊による被害に遭って翌々日、村はスェーミの予想通りテンプル騎士団第三騎士隊により占拠され、形式的な裁判の後、一人残らず処刑された。その裁判の調書によれば、生贄の因習を語り継ぎ事実上の強要をしてきた老人達が最も重罪であるとして、彼等は火刑に、女子供は絞首刑に、若い男達は死刑の準備とその後の処理をしたのち、斬首刑に処された。
邪教徒・異教徒の埋葬は教会の判断によってごく簡素なものとされているが、例外として疫病や
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます