第2話

世界から色が消えた時のことを、昨日のことのように覚えている。


小6の終わり頃、間も無く卒業という頃に、両親が離婚した。

あの頃の僕にとって、両親は神のような存在だった。両親がいつか自分より先に死ぬ可能性が高いことに気づいた日、僕は夜通しひっそりと泣いて、眠れなかった。

両親の言うことは絶対的に正しくて、言うことを聞いてさえいれば、いつまでも安全で、安心であるはずだった。


今思うと、絶対で、安全で、安心な世界が少しずつ崩れていくことに、僕は子供ながら気がついていた。気がついていたのに、気がついていないふりをして、家族の太陽であり続けた。


その年はじめての雪が降った日、学校から帰ると、父が家に存在しなかった。

文字通り、はじめから存在しなかったかのように、父の持ち物が全てなくなっていたのである。歯ブラシから、ヒゲ剃り、会社に持って行くカバンや、パジャマ、父が1番大事にしていたアトリエの絵の具などの道具やキャンバスまで、全てがなくなっていた。

そうして、母の目から光が消えた。


僕にとっての神のうちの1人が消え、もう1人は、神ではなく、ただの女の人になった。

それから僕は、太陽を辞めた。

外で遊ぶのを辞め、家に籠りがちになり、父の残したアトリエで、何かに取り憑かれたかのように絵を描いた。父のことを思い出すからか、僕がアトリエに入ると母は嫌な顔をした。その顔を見ないようにして、アトリエに隠れるようにして、家にいる時はほとんどの時間をアトリエで過ごすようになった。



あれからもう、5年がたった。

高校生になって、背が伸びると同時に何もしなくても女の子の方から寄ってきてくれるようになった。何人か付き合ってみたけれど、だんだん僕の中に彼女たちのスペースがなくなっていって、いつもすぐに別れてしまう。


僕は、授業が終わるとすぐに美術室に逃げ込むようになった。僕の居場所にはいつも色とりどりの色彩がある。

色を失った自分を取り戻すかのように、僕は絵を描き続けている。


今日もいつものように授業がおわるなり、美術室に向かう。

通りすがりに、この春の美術部のコンクールで最優秀賞をもらった彼岸花の絵が横目に入り、なんとなく誇らしい気持ちになった。

彼岸花の花言葉は、「情熱」「あきらめ」「悲しい思い出」など、多岐にわたる。情熱と、あきらめ、というどう考えても対比する花言葉が僕には好ましく思えて、この花が好きだった。

悲しい思い出、という意味を打ち消したくて、華々しく、できるだけ楽しそうに花が踊っているように描いたことが功を奏し、ダイナミックで鮮やかな作品と評された。


彼岸花から意識をそらし、窓の外を見やるとグラウンドでは野球部の男子たちが、白い息を吐きながら走り込んでいた。


今年も雪が降るだろうか。

廊下を歩きながら、ふと思った。

雪、といえば、いつも思い出す色がある。

まだ僕が太陽だった頃、世界に色が溢れていた頃に見た、忘れられない色、真っ白だ。

天使の羽が空から降ってきたのかと思ったよ、とあの子は言ったのだ。

強くてキリッとして、滅多にはしゃいだりしない彼女に、あの頃仄かな恋心を抱いていた。



渚という名の彼女はいつだって、僕よりもかっこよかった。僕のように、嘘で塗り固めたかりそめの笑顔ではなく、本物の表情をもっていた。楽しい時は本当に楽しそうに笑い、楽しくない時は、眉毛が下がるのですぐにわかる。渚のそういう、素直ところがすごく好きだった。


小学生の頃はそこまで意識にのぼらなかった男女の差も、段々と気になるようになり、僕たちは徐々に疎遠になっていった。寂しい気持ちもあったが、永遠なんてない、ということが身に染みてわかっていたので、辛くはなかった。


ただ、あの時の真っ白が、目に染みて痛いほど鮮やかだったから、忘れられないだけだ。美しい天使の羽のような、雪の色。渚の顔。全てが美しく、僕の世界が正常に動いていたころの、記憶。反芻する度に美しさを増していく映像に、しばし溺れる。


もう、とっくの昔の過去の記憶でしかないのが少しさみしくて、考えないように心に蓋をして僕は再び今に戻って歩きだす。


美術室に入ると、誰もいなかった。だいたい美術部に入っている人で真面目に活動しているのは数人しかいない。

僕はいつもの場所に腰掛け、いつものように静かに筆を持ち、絵の中に入っていくかのように色彩の中に没入していく。全ての感覚がキャンバスの中に集まり、筆を持つ手とキャンバスの境目が曖昧になる。ただ、キャンバスにのせる色だけが自分の全てで、他に何も見えなくなる。


ガラリ、と音がなったのを遠くの方で感じて、意識がキャンバスの色彩から、美術室に戻る。

音の方を見やると、美術室の扉が開かれていた。そこには、赤があった。


「邪魔して、ごめん。あの、むすび、私、渚。覚えてる?」


頬を真っ赤に染めてたっているのは、紛れもなく渚だった。

先程ちょうど思い出していたから、覚えているも何もない。覚えているに決まっている。


沈黙をなんと捉えたのか、渚はさらに顔を赤くして、ごめん、と謝った。


「突然なんなんだって思うだろうけど、私はむすびとまた親友になりたいってずっと思ってたんだ。昔みたいに。それだけ言いたかったの。ほんとに、邪魔してごめんね」


渚は息つく間もなくハッキリと言い切った。

渚は渚のまんまだな、と思った。

渚がここにいることと、渚が何も変わっていないことになぜかとても安心して、しばらく言葉を忘れた。


今、僕の目の前で、たしかに過去のものだと思い込んでいたものが、動き出した。

永遠などないと、諦めていた物語が再びはじまるのを肌で感じる。

渚の頬の赤が、僕の目の中にいっぱいに広がっていく。



「むすび、笑ってるの」


うかがうような表情で、遠慮がちにこちらを覗き込む渚が見えて、はっとした。


笑ってるのか、僕。

確かに笑えるくらい、嬉しい再会に違いない。


もっと早く話せば良かったね、とか、あの時はごめんだとか、どうして今話しかける気になってくれたのかとか、聞きたいことは山ほどあったけれど、あいかわらず僕は満足に話せない。

ただ、肌寒かった美術室があたたかくて、居心地がよくて、心の底の方がむずがゆくなるような嬉しい気持ちが無限に湧き上がってくる。


「渚、今日は雪が降りそうだよ」


僕は、やっとの思いで語り始めた。


勝手に想像して蓋をした過去は、今鮮やかに蘇り、再び巡り出す。諦めに似た気持ちを抱えて生きてきた今日までが演劇のように思えて、僕は僕の太陽を取り戻す。

そんな簡単に取り戻せるわけはないことは重々承知している。こんな些細なきっかけですぐにハッピーエンドになるわけがない。そんな甘いものじゃない。

でも、僕の中の時が実際に動き出し、キャンバスの外に色が溢れるのを、今はっきりと感じている。

これからだ。これから、ここから、再び始める。語りかけることをやめない自分になる。

僕はそう、決意した。


窓の外を見やると、曇天であった。

校庭の裸の木々が寒々しく揺らめいている。

もうまもなく空からは真っ白な雪が粉になって零れ落ちるだろう。

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むすび/むすばれ あやん @ayaka_2_4

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