第三話(1)

「ただいま…」

「おかえり智。どうだった?」

 僕が玄関の扉を開けると、母が待っていた。

「…楽しくなりそうだよ」

 普通の家なら、当たり前の光景。でもうちは…


「また、作り笑顔かよ。」

「うるさいひじり

 母と挨拶を交わした後、僕の部屋に続く階段に差し掛かった時、ある人物に出くわした。

 聖は僕の顔を見ながら、いつも言うんだ。

「楽しくねーだろ」って

 そりゃ、楽しくはない。だって母からは、良い息子とは思われていないから…

 別に良くしようとしてるわけじゃない。ただ…この家に居ると、母は僕と聖をよく思っていないから、息がしづらいんだ。

「風呂空いてるけど入る?」

「ん、入る」

 僕が暗い顔をして居たからか、聖は時々優しく言う。


「はぁ…」

 湯船に浸かりながら、大きくため息をついた。今日はまた色々あった。

 僕は一人で居る時思い浮かべるのは、いつも明希の過去の話。


 少し、昔話をしよう。

 僕と明希は幼い頃からずっと一緒にいた。

 明希がまだ、広い家に住んでいた頃。

 今もまぁまぁ広いんだけどね…

 明希のお父さんの趣味であちこち改造しまくられた家の中を、良く2人で探検した。

 明希がその家から逃げる様に引っ越したのは、小学3年の秋の事だった。僕らはいつも通り学校から帰った。いつもだったらそのまま遊びに行くけど、その日僕は習い事で、遊ばなかったんだ。今でもその事を少し後悔しているよ。

 さて、これは後から明希のお兄さんに聞いた事だから、本当の事は明希しか知らないけど…

 あの日、明希は学校から帰った後。いつものように広い家の中を走り回っていた。お父さんの造った隠し通路を迷路の様に進んで行って。

 辿り着いた場所は、使用人の部屋の近くだったらしい。あのお城の様な広い家だ。使用人くらいいてもおかしくない。

 そこで明希が見たものが、更には巻き込まれたものが、明希の人生を狂わせた。使用人の部屋の廊下を歩いていたら、仕事中で居ないはずの使用人の部屋から男女の声がしたらしい。隠れてやる事が何かって?そんなの決まってるだろ。

 僕の口からは言えないけど…

 当時の明希は、好奇心を抱いてしまい。中で何をやっているのだろうと、覗いてしまった。そこで見てしまったのだ。男女が裸で重なり合う姿を。

 あー、言っちゃった…


 驚いた明希は、慌てて逃げようとして、近くに落ちていた何かにつまづいて転んでしまった。

 当然物音がする。そして、慌てた様に出てきた女の方に、口封じの為、中に連れ込まれた。

 午後3時くらいの誰も居ない廊下。当然みんな仕事をしているから、助けを呼んでも誰も来ない。明希は女に足をつかまれ、引きずられながら、部屋の中へ…

 中にいた男に、何やら薬らしき物を吸わされそうになり、恐怖で体が勝手に、渾身のキックを男に喰らわせ間一髪で逃げる。

 いや、恐怖で体が勝手に動くって…普通ありえないよって僕は思うけどね…


 それから逃げる様にして入った部屋が、お兄さんの部屋だったらしく、不幸中の幸いか、男の方の記憶は少し緩和されたらしい。

 泣きながら飛び込んできたんだって…

 この時から明希の記憶には、女の使用人に掴まれた記憶だけが残っている。

 そして使用人達を全員解雇にし、逃げる様にして、小さな家へと引っ越した。そこなら使用人なんて要らないしね。

 まぁこれでも小学校の時は、まだまだマシな方だったんだよね。でもその前に、少しだけ僕の思い出を話そうかな。


 これは確か小学4年生。あの事件が起きた後だね。

 僕は昔から身体が弱くて、今でも風邪をひくとこじらせちゃうんだけど、昔はもっと弱かった。

 その日、僕は病み上がりからか、少し血圧が上がらなくて、遅刻ギリギリになって家を出たんだ。まだ体が動きにくくて走るのは無理だから、遅刻かなって思ってた時に、たまたま、朝の弱い明希が家から出てきた。

「あれ?智おはよー。こんな時間にいるなんて珍しいね」

「おはよ。ちょっとね…」

「何、また血圧上がんなかったのか?大変だな」

「本当やだよこの身体」

 と、そんなたわいのない会話をしたんだ。明希は僕が体調が悪いとすぐに気付いてくれる。

「明希、こんな時間に家出て間に合うの?」

 歩きながら聞いた。僕も遅刻する時間に出てきたし。明希も間に合うはずがないのだ。

「んー。俺だけならまだギリ間に合うんだけどな」

「え、じゃあ行ってていいよ!僕に合わせなくても…」

「んー。よし決めた!智…は走れないよな」

「え、うん」

「じゃあ、担いでく!」

「…えっ!?」

 明希はこんな事を突然言い出す人だ。今ではもう慣れたけど、この時はまだ慣れなかったんだよな…

 僕が返事をする間も無く、明希は僕の事を軽々しく持ち上げ、走った。実の所…明希は物凄く運動神経が良い。小さくて病人みたいな軽さの僕なんか余裕で持ち上げる。

 これは本当に病気の人に失礼か…

 それに、走ってもすぐには疲れない。そのまま学校の近くまで一気に来てしまった。

「明希、送ってもらって悪いんだけど、もう間に合わないよ。」

「いや、まだ行ける」

 明希は諦めてなかった。何をするのかはわから無いけど、明希は確信を持たないと、決め事は言わない性格だ。多分大丈夫なんだろうと、明希に全てを任せた。


「んしょ」

 突然地面が遠のいたので、ビックリしたが、すぐに分かった。明希が木を登ってる。しかも僕を担いだまま…

「えっ…とぉ」

 何も考えられないまま、ただひたすらに明希の服を掴んだ。落ちたら終わる。そう思ったからだ。

「よし、着いた。」

 明希がやっと僕を下ろした。目の前には僕のクラスのベランダが見える。いつもここから入っているのだろうか?上履きが置いてある…

「ちょっと待ってろ」

 そう言って明希は僕に木をつかませた。当の本人はというと、ジャンプをする姿勢である。

「ん、しょっと。よし、今日も上出来」

 ベランダは思っているより狭い。なのにこの高さから飛んで怖く無いなんて…流石だ。

「よし智。飛んで良いぞ。」

「いや、そんなこと言われても」

「受け止めてやるから」

 明希ならしっかり受け止めてくれると分かってる。だから飛ぼうとしたその時だ。

「あ…」

 ガラガラッと扉を開けて、女の先生が顔を出した。

「佐倉くん。これで何回目ですか?」

「えへへ。まだ遅刻してないからいーじゃん」

「良くないです。怪我したらどうするんですか?」

そんな会話をしている。そんな事より早く下ろしてー!そろそろ手が限界。

「そろそろ生徒指導に引っかかりますよ」

「分かったから…智、下ろしていい?」

 明希は先生を軽くあしらって、僕の方を見た。

「え?鈴村くんもここから来たのですか?」

「あの、僕は…」

「智は俺に引っ張られて来ただけだ」

 僕が先生に怒られるのを感知したのか、明希は声を低くして、先生を威圧した。小学生の威圧なんてたかが知れてるが、それでも先生は少し、明希に怯んだんだ。


「智。飛べっ!お前の運動神経なら出来る!受け止めてやるからさぁ!」

 僕は明希にそう言われ、自分を信じる事にした。あまり動かない身体を無理やり動かし、木から飛び降りる。

 …っ!このままだと壁にぶつかる!僕は明希みたいに止まれない。

 そう思った瞬間。壁にぶつかる寸前で、硬いものに当たった。

「んっと…あっぶね」

 明希だ。僕をしっかり捕まえてくれている。

「ほら出来ただろ?これで遅刻もしてない」

 口角を上げて、ニッと笑う明希を見て、僕はほっとした。そうだ、彼は受け止めてくれると言っていた。そんな彼を信じないなんて、僕はなんて愚かなんだろう…。

「明希…ありがとう」

 僕がお礼を言ったその時


「今後こういう事はやめて下さいね。今日は指導をするので放課後、職員室に来なさい。」

 と、先生は僕らに言った。

「先生…智は俺が無理やり連れて来たんだ。怒られるのは俺だけで良い」

「明希…」

 僕が明希を見上げると、大丈夫だ。とでも言うように、僕に微笑みかけた。

「…分かりました。今日はそう言う事にしましょう。佐倉くんはちゃんと放課後来て下さいね」

「わかってますよ」


 僕らが教室に入ると

「明希、またやってんのか?」

「今日はバレちゃったね」

 と、クラスのみんなが明希に言った。

「あははっ。今日は本当にギリギリだったからな」

 明希は元気で活発でクラスの人気者。あまり学校に来ない僕とは違い。みんなに話しかけられるんだ。

「あ!今日は智くん来たんだね!」

「う、うん。」

 僕は明希程ではないが、よく女の子達に話しかけられる。でもそれは、異性としてでは無くて、可愛い男の子として見られているのだと思うと、なんだか悲しくなってくる…


 今日はそんな慌ただしい朝から始まって、すぐ放課後になった。

 僕が明希のいるクラスに行くと、帰る支度をした明希と、朝の女の先生がいた。

「佐倉くん。来ないので迎えに来ましたよ」

「今行こうと思ってたんです。」

 明希と先生は、何か言い合いをしているみたいだ。

「言い訳ですか?ほら、行きますよ!」

 先生は明希の腕を掴んで引っ張った。

「…っ!」

 明希は咄嗟に先生の手を振り払う。

「反抗ですか?自分のした事が原因で指導を受けるんですよ?分かってます?」

「分かってます。引っ張らないで下さい」

 小学生相手に、先生は意地になって居た。相手が明希だから、自分のしている事が分かっている明希だから良いものを。他の子だったら何も理解しないで帰るよきっと…

「あなたが行かないから連れて行くだけです」

 そう言って先生はもう一度明希を掴んで引っ張る。


「…っ!離せって言ってんだろ!」


 教室中に、明希の怒鳴り声が響いた。友達と話していたクラスの子もみんな明希と先生を見る

「あの先生何やってんの?」

「え、何?体罰?」

 と、言う子もいれば。最初から見ていた子は

「明希、大人しく行けって。女の先生に触れられて嬉しくないのか?」

 とか言うふざけた男子も居たり。

 誰も明希の味方をしない。かく言う僕も、教室の扉から動けないでいた。

「大人に向かってなんて事を言うの!」

 先生は明希を怒ったが、当の明希はそれどころではなかった。

 額は汗で濡れ、顔は青ざめ、息が上がっていた。さらに先生に怒鳴ってしまった罪悪感が、その顔に現れていた。

 そんな明希の姿に気づかず、先生は強引に明希を引っ張って連れて行く。

「つべこべ言わずに来なさい」

 明希はとうとう黙って連れて行かれてしまう。


 僕は明希が心配になり、職員室までついて行った。ところが、入ったのは隣の会議室。

 中には頼りなさそうな校長がいた。

「校長先生。彼が朝の件の子です」

「そうですか。座りなさい」

 明希は校長に指示された椅子に座る。今の明希には、気力がない。さっき連れて行かれる時に諦めたからか、何も考えられなくなっている。

「ほら佐倉くん。君の言葉で説明してみなさい」

 女の先生に言われ、明希は口を開いたが、その口は言葉を発する事なく、再び閉じる。

「ちょっと!だんまりですか?」

「こらこら、生徒を虐めては行けませんよ」

 怒る先生を校長が押さえるが、先生は収まらない。

「さっきから何なのよ!そんなに文句があるならさっさと言いなさい!」

「俺は…」

 明希は言葉を発したが、頭が真っ白になっていて、何も出てこない様子。

「本当に、舐めてるんですか!?早く言いなさい。」

 先生はまた、明希の腕を掴んで持ち上げた。

「ひっ…!」

 明希は恐怖の顔に染まる。

「こら先生。怖がらせてはダメですよ」

 そんな明希を校長は、先生が怖いのだと思ったらしい。

 違う…あれは怖がっているんじゃない。

 僕はこれから起こる事がなんだか怖くなって、明希のお兄さんを呼びに帰る事にした。

 急がなければ…今お兄さん居るかな?

 と、体力のない身体を無理やり動かし、とにかく走る。


「はぁ、はぁ…っはぁ…」

 やっとの思いで着いた頃には、息が途切れ途切れになっていた。

 ピーンポーン

 インターフォンの音が響く。


 ガチャ

「あれ?智くん。どうしたの?明希は?」

 出て来たのは明希のお兄さんだ。

 良かった…もう帰って来てた。

「明希が…学校で…」

 途切れ途切れに説明すると、お兄さんは顔を引きつらせた。


「それはやばいな…教えてくれてありがとう」

 お兄さんは自転車を取り出し、またがる。

 僕も行かなければ…明希が心配だ。

「僕も行きます」

「でも……分かった。うちの中にランドセルを置いて来なさい」

 僕は急いでランドセルを放り投げ、お兄さんの自転車の後ろに跨った。

「しっかり捕まってるんだよ」

「はい!」



 明希のうちは今、両親が居ない。なので一番年上のお兄さんに来てもらったのだ。

 僕はお兄さんを会議室へと案内する

「明希っ!」

 入ってすぐ、お兄さんは明希の名前を呼ぶ

 会議室に校長は居なかった。電話がかかって呼ばれたらしい。

「なつ兄…」

 明希はもう少しで倒れそうなほど弱っていた。

「先生…これはどういう事ですか?」

 お兄さんの顔は、怒りで満ちながら先生に問い詰める。

「えっと…お兄さんですか?」

「そうですが。」

「佐倉くんがベランダから登校したので、生徒指導をしていたんです」

「生徒をこんなに弱らせる事が生徒指導なんですか?」

「それは…佐倉くんがなかなか自分の言葉で言わないからです」

「無理やりやる事に何の意味があるのでしょう?」

「佐倉くんがベランダから登校しなければ良かったのでは?」

「それは俺から言って聞かせます。ですが、先生が生徒を虐めるのはどうかと思いますよ?」

「虐めては居ません。佐倉くんが私が手を掴むと拒むので、ちょっときつく引っ張っただけです」

 そんな言い合いをしていたら

「一回じゃない…」

 明希がやっとの思いで、言葉を口にできた。

 それから…

「うぇっ…」

 何と!あまりの不快さに、会議室で吐いてしまったのだ!

「えっ!ちょっと、明希!?」

 僕はびっくりして、慌てて彼の名前を呼ぶ

「はっ…!」

 お兄さんはそんな明希に気づいて、明希を僕に預けた。

「ごめんね智くん。しばらくお願い」

「はい…」

 それからお兄さんは先生に

「すみません。すぐに片付けます」

 そう言って、会議室を出て、トイレに行って紙をとって来た。

 いくら兄弟とはいえ、自分の物ではないのに、気持ち悪くはないのだろうか…そんな事を思いながら、僕の腕に倒れ込む明希を支えていた。

 明希は先生から解放されたかのように、青ざめていた顔が、いつもの顔色に戻っていった。

 僕は明希の汗で濡れた額をハンカチで拭きながら

「もう大丈夫だよ」

 と、励ましてあげる。

 そう。この時から明希は、女性恐怖症という症状が出始めたのだった。

 とは言っても、近づかれるのまでは平気なようで、触れられるとダメなようだ。

 なぜあの事件から一年たってこの事が分かったのか…それは簡単な事だ。

 あの事件の女は、大人の女性。小学生の僕らにとって、同じ年頃の女の子は何の脅威もない子供。だから分からなかったのだ。


 それから、お兄さんが床を片付けてたり。

 校長が戻ってきて、色々説明したり。

 女の先生は校長にもう来るなと言われたり…

 そんな事があって、自分が女性恐怖症だと分かった明希は、その次の日から、女の子と会話をする事が減っていった。

 明希の姉二人は平気なようで、いつも楽しそうにしているのを良くみたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る