魔法の言葉

三浦航

魔法の言葉

「おはよう。」

6時30分、母の声で私は起きる。

「もうちょっと寝てたいんだけど。」

私の不機嫌なセリフにも母は気にする様子はない。なんなら笑みさえ浮かべている。私は不思議だ。

 嫌なこと言っちゃったな、と毎朝のように反省する。

 いつから母に「おはよう」と返さなくなったのだろう。思い出せない。


 高校生の時ってみんなこんなもんでしょ?



「おはよう。」

8時15分、いつもの時間に学校に着いて彼が言う。

「おはよう。」

さすがに起床して数時間経つので、母の時より格段に機嫌よく返せる。いや、そんな理由ではなく、大好きな彼の声が聞けて嬉しいのだ。

 さっきまで色味がなかった景色が色づき始める。



「おはよう。」

10時過ぎ、彼が遅めのあいさつをする。

「おはよう。」

少し遅い時間でも変わらぬ1日の始まりの言葉を交わして私たちは笑みを浮かべる。

高校を卒業し、たまにしか会えなくなった私たちはこうして週末のデートを楽しむ。



「おはよう。」

6時30分、母とリビングで会って声をかけられる。母はおそらく22年間、変わらず言葉をかけ続けてくれていたのだろう。違うのは今日だけやたら元気さを強調していることだ。

「おはよう。」

私はすっきりした顔で返事をする。

 今日私はこの家を離れる。就職するために遠い場所へ行く。この言葉を言って寂しい気持ちになるのは初めてだった。明日から「おはよう」という相手は家にいない。母の言葉に勇気づけられていたことに、幸せにしてもらっていたことに気付き涙が零れる。



「おはよう。」

6時、目が覚めて彼が言う。

「おはよう。」

ほぼ同時に目が覚めて私が言う。

 大人になった私は毎朝早くに目が覚めるようになった。いや、ほんとはそんな理由じゃないのかもしれない。

 大切な人と、また今日という1日を迎えることができた。朝起きて一番最初に顔を見れて、声を聞ける相手。このご時世に、マスクをしていない顔を見て話しができるのは彼ぐらいだ。口が動くのが見えて、聞き慣れた声が聞こえる。それで私の心は落ち着き、そして幸せな気持ちになれる。彼のその1日の始まりの言葉は魔法の言葉だ。

 もう一人、私たちがおはようと言う相手がいる。

「おはよう」その声に反応して喜ぶ時もあれば泣くときもある。本人からしたら自分のタイミングというのがあるのだろう。そんなことはおかまいなしに私の心はさらに幸せになる。

 今なら母の気持ちが分かる。

 どんなに嫌がられようと、冷たい言葉が返ってこようと、我が子の顔を見るとそんなことはどうでもよくなる。

「おはよう。」

私たちは優しい声で囁くように言う。景色が色づいていく。


「おはよう」いつかその言葉を話せるようになったら、朝、お父さんとお母さんに言ってほしい。それは1日を幸せに過ごせる魔法の言葉なのだから。

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魔法の言葉 三浦航 @loy267

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