誰がために③
相手は将軍だ。面を上げよと言われたところで、本当にがばっと顔をあげるわけにはいかない。さくら達は「ははぁっ」と返事をし、視線は畳に落としたまま僅かに体を起こした。
「ふむ。まあ、そのまま聞くがよい」
これが将軍の声なのだ。さくら達と同年代だという慶喜の声は、若々しさの中にも深い落ち着きがあった。
さくらは信じられなかった。非公式とはいえ、今自分たちは将軍に謁見している。四年前、こんなことが想像できただろうか。
もう、十分じゃないか。今日この場でどんな沙汰が降りようと、一介の浪人が将軍に相まみえたのだと、その誇りを胸に死んでいける。さくらは、腹をくくった。
「そなたらの働きぶりは余の耳にも聞こえておる。
「ははっ、ありがたきお言葉、痛み入ります」
勇が代表して返事をした。その声は僅かに震えており、勇も同じ気持ちなのだろうとさくらは思った。
「そこでだ。単刀直入に申すが、新選組の者らを、幕臣として取り立てようと思う」
一瞬の沈黙。勇が身じろぎする音がやけに大きく聞こえた。
「今、なんと、仰せになりましたか」
勇はさくらの思ったことを代弁した。思わず顔を上げてしまったようで、「近藤、頭が高いぞ」と容保にたしなめられる始末だった。
「肥後守、構わぬ。三人とも、余にしかと顔を見せい」
三人は、おずおずと顔をあげた。正面に座っていたのは、品と貫禄を兼ね備えた、まさしく将軍その人であった。
「今申した通り。そなたらは、誠の侍になるのだ。余の手足となり、幕府を支えて欲しい」
「それは、誠にございますか」
「近藤。何度も言わせるでない。余が嘘をつくと申すか」
「いえ、滅相もございません」
「……そうじゃのう。嘘というわけではないが、正式に沙汰する前に、ひとつ聞かせよ」
慶喜はすっと立ち上がると、一歩、二歩、ゆっくりと三人に近づいてきた。あまりの恐れ多さに、三人は再び視線を畳に落とした。
「……島崎というのは、そなたか」
勇の後ろにはさくらと歳三が横に並んでいたというのに、慶喜は迷うことなくどちらがさくらかわかったようだ。その声は、明らかにさくらに向けられていた。
「はっ、いかにも。左様にございます」
さくらは震える声で返事をした。将軍が、自分の名を呼んだ。
「
一瞬でも、幕臣に、名実ともに武士になれるのだと、舞い上がった自分が愚かだった。慶喜はとっくに知っていたのだ。会津藩にも、見廻組にも知られている。慶喜の耳に入らないという保証など、どこにもなかったのに。
「仰せの通りでございます」
さくらは、正直に答えた。
――ここまでか。私は、私だけは、女であるからという理由で、切腹を言い渡されるのだ。勇たちの足を引っ張るわけにもいかぬ。私ひとりの命で勇たちが幕臣になれるなら……
「面をあげよ、島崎」
さくらは黙り込み、微動だにしなかった。慶喜がもう一度「面をあげよと言っておる」と言うので、さくらは顔を上げた。想像よりも近くにきていた慶喜に、さくらはどきりとしたが、つとめて冷静を装った。
「何の因果かは知らぬが、女子が頭を剃って裃を身に着け、
なんと返答したらいいかわからず、さくらは「ははっ」とお辞儀をするにとどまった。
「渋沢が申しておったぞ。新選組の島崎朔太郎、気力胆力十分な
「は、恐れ多きことにございます」
「その渋沢がの、我が弟の
さくらは渋沢の屈託ない笑顔を思い返した。あの歳で将軍の弟に随行して洋行するなど、もとは同じ武州の庶民だったというのに雲泥の差だ。さくらは少々惨めな気持ちになってきた。それにしても、慶喜は何故そんな話をするのだろうか。どうせ切腹にするつもりなのなら、一思いにさっさとそう告げてほしいところだ。
「昭武や渋沢がフランスから寄越した文には、こう書いてあった。『彼の国では、武士や農民といった身分の別はなく、また
慶喜の「はっはっは」という笑い声が、静かな部屋で奇妙に響いた。さくらは通り一遍に「お、恐れ多きことにございます」と返事をした。
「余はそちのような
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