第27話 最後に怖い人が

 本日の公演はこれで終了しました云々のアナウンスが、ゆったりとしたメロディの音楽と共に流れてきた。ざわざわとした場内、帰り支度を始めた三井さんが「面白かったね」と言った。

 そのときの表情が、心底楽しんだという満足そうな笑顔だったので、僕は単純に嬉しくなる。

 いや、さっきの涙の意味を念のために確認しておこうと思ってたんだけど、きっかけをなくしてしまった。後回しだ。

「帰る時間を遅らせた甲斐があったって感じ」

 通路を行きながら、前を歩く三井さんがまた嬉しいことを言ってくれる。こちらとしては、浮かれるよりも先に、まず謝らねば。

「無茶なスケジュールに付き合わせて、ごめん」

「うん? いいのよ。私が自分で決めたことだから」

「それはそうやけど。でもな」

「なーに? 岡本君まで、私を子供扱いするのかな」

「そんなん、せえへんて。したら、同い年のこっちも子供になる。ただなぁ、最初っから時間に収まるようにしとったら、余計な気遣いさせんかったのに。お詫びの意味で、何かおごる。お腹空いとらへん?」

「え?」

 振り返った彼女の歩みが遅くなり、僕はすぐ追い付いた。ちょうど通路を抜け、広いスペースに出たこともあり、横に並んでから会話の続きを。

「小腹空いとるんとちゃうか思って、言ってみたんやけど。ちなみに僕は、ぺこぺこです」

「それはまあ、時間も時間だし……」

「ちなみにツー。高いもんは無理。帰りながら食べられるような、お持ち帰り品に限定。かまへん?」

 おどけて(というか、財布の中身が厳しいのは事実だが)言った僕に対し、三井さんの返事は、僕以上におどけていた。

「かまへんかまへん!」

 それじゃあ、どこかファーストフードの店か、あるいはたこ焼きの類でもと話がまとまり、劇場の建物を出る。

 左右を見渡し、右手の方に数歩行き始めた。途端に、「こら」という声と共に、頭をぽかりとやられた。

 丸めて筒にした紙でやられたらしい。全然痛くない。が、ただただ驚いて振り向く。

 知っている顔に、すんごい目つきで睨まれていた。

「誰かと思ったら、蓮沼さん」

 そう、蓮沼さんが何故か――何故ってことはないか――立っていた。腰の両側に手を当て、仁王立ちだ。オーラでも出ているのか、みんなよけて行く。

「そんな挨拶みたいな反応するよりも先に、言うことがあるでしょ」

「はあ」

 僕のとぼけっぷりが気に入らなかったのか、彼女は真っ直ぐ指差してきて、鋭く言った。

「君はルール違反!」

 色々言い訳することならできる。たとえば、六時までは擬似デートで、それ以降は友達として一緒に観ていただけ、とか。だが、当然、そんなことは口にしないし、思ってもいない。

「ごめん。つい、面白くて。それに、まさか蓮沼さんが見張っているなんて」

「私は企画実行委員長として――」

 いつそんな役職に。

 訝る僕のすぐ横を蓮沼さんの視線が通り抜けて、三井さんを捉える。

「――万里が無事に帰宅するまで、見守ると決めてたの。幸か不幸か、私には門限ないからね。まったく、携帯電話は通じなくなるし、私もここの入場券を買って、中に入って連れ出すべきだったわ。でも、どこにいるか分からないあなた達を捜して、場内をうろうろするのは無理っぽかったから、じっと待ってたの」

「見張るのなら、最初に言ってくれよ」

「言ってたら、勝手に延長しなかったとでも? その代わり、本性が出なかったでしょうね――」

 これには頭にきたので、声を少々荒げる。勝手に延長したのは悪いと認めるが、誤解も甚だしい。

「ちゃう。そんなんやなくて、蓮沼さんが危ないやろ」

「あん?」

「こんな暗ぁなるまで、こんなとこで一人で待っとったら、危ないやろ言うとんねん。分かっとったら、六時でやめとった」

「……」

 ぶすっとしたまま、言い返さなくなった蓮沼さん。なーんか、変な空気が流れる。

「二人とも! その辺りでストップ!」

 三井さんが唐突に割って入ってきた。文字通り、僕と蓮沼さんとの間に立つと、両腕を横に広げる。

「終わりよければ全てよしじゃないけれど、結果的に何事もなかったんだから、もういいじゃない? ね、幸」

「結果論だけじゃ……」

 顔をやや背け気味にして、蓮沼さん。彼女の立場上、簡単に折れるわけに行かないのは、僕にだってよく分かる。

 三井さんは優しい調子で続けた。

「それに、私も途中で席を立つのが惜しくて、こうなったの。無理強いされたんじゃないんだからね」

「ほんとに?」

 まだ五割方疑っていそうな口ぶり、目つきの蓮沼さんに、三井さんは「本当よ」と、大きくうなずいた。

「だったら……」

 許してくれるのか、と思いきや、そんなにストレートではなかった。

「万里っ。あんたもあんたよ。今年中に人妻になるって人が、そういう風に簡単に転んでいいのかっての。まったくもうーっ!」

 蓮沼さんはひとしきり喋ると、きーって感じで地団駄を踏む。三井さんも、これにはしゅんとなった。俯いて、小さな声で一言。「ごめんなさい」

 蓮沼さんは息を整えると、僕と三井さんに背中を向けた。

「ま、いいわ」

 やっと穏やかな声になってくれた。思わず、僕と三井さんは顔を見合わせ、安堵していた。

「確かに、何事もなかったようだし。判定は六時までの分だけを考慮するってことで。万里、いいわね?」

 向き直った実行委員長に、三井さんはこくりと首肯した。

 満足げに笑みを覗かせた蓮沼さんは、次に僕を見やってきた。

「さて。何やら、食べ物の話をしていたようだけれど、当然、私にもおごってくれるんでしょうね?」

「あー、それは……」

 仕方あるまい。僕は尻ポケットの財布を、布地の上から触った。


「――ドーナツもおいしかった。ありがとうね」

「いやいや」

 中年のおじさんみたいな応対をしてしまったのは、朝、いきなりお礼の電話が掛かってきて、動揺していたからということにしておこう。

 擬似デートの翌日の日曜、三井さんはわざわざ電話でお礼をくれた。

 ドーナツは、最後に買ってあげた食べ物のこと。M.D.のアメリカンオールドファッションとフレンチタイプが好物だという、いつぞやの妹からの情報が役立った形だ。

 ちなみに蓮沼さんには、スペシャル何ちゃらクレープという、色んなフルーツやチョコやクリーム、それにポッキーなんかもゴージャスに詰め込んだ、重たそうなクレープをおごらされた。ドーナツ二個より圧倒的に高額だったぞ。「それで?」

 急に聞かれて、僕は電話口で戸惑った。何のことかと問い直すと、三井さんは、

「昨日の岡本君、何だか私に聞きたいことがあるみたいに見えたから……。違った? 違ってたら、さっきの言葉、撤回」

 と早口で言った。僕も負けないくらいの早口で、否定に掛かった。

「い、いや、違ってない」

 劇のクライマックスで泣いた意味の確認。これが後回しになったままだったのだ。昨日聞けなかったのは、言うまでもなく、蓮沼さんという第三者の存在のおかげ。そんな経緯で、聞くなら、今がちょうどいいだろう。

「あのさ、昨日の最後、ちょっと泣いてたやん?」

「あ、気付いてたの? やだ、ばれてないと信じてたのに」

 真実、恥ずかしそうな声になる三井さん。でも触れられたくないというわけではあるまい。

「結構びっくりしたで。あれって、笑いすぎて出たんか、それとも、何ていうか、劇の内容に刺激されたっていうか……。後者なら、悪いことしたかもしれへんなと思って」

「……岡本君てさ、心配性なところがあるなって、言われない?」

 質問返しできたか。まあいいけど。

「言われたことないな。あったとしても、覚えてない」

「そう?」

 もしも心配性な性格に映ったとしたら、それは泣いていたのが君だからだよ――てなことを真正面から堂々と言える立場に、ワタシワナリタイ。今でも、関西弁でなら言えるかもしれないが。

「あれはねー」

 間が空く。きっと、思い起こし、考えているのだろう。本来、感情の動きをあとから正しく説明するのは、とても難しい作業のはず。得てして、造り物の説明になりがちだろうし、それはそれで仕方ない。そのときの感情にどれだけ近付けるか、の問題。

「笑いすぎて出た涙とは、ちょっぴり違うかな。涙が出るほどおかしかったっていうのも、多分あったんだろうけど」

 再び沈黙。考え考え話しているのが分かる。

 それはかまわない。ただ、こんな質問に何故そこまで慎重になるのかが、気になり出した僕。焦れったくなる自分を抑え、言葉を待つ。

「ああいう内容だったから、特に後半の方、観てる内に、涙が段々溜まってくるのが意識できたわ。このときのは、感情移入しちゃった涙。そこからハッピーエンドになって、一気に開放されて……うれし涙になった」

 納得。

 少なくとも僕は、納得させられた。期待していた答――「そうよ、おかしくっておかしくって、涙が出ちゃった」的な答とは異なっていたけれども、彼女を一番理解できる返事だ。

 僕は、三井さんがまだ言葉を付け足したいかもしれないと思い、しばらく待ったが、それ以上はないらしかった。そう判断して、口を開く。

「それほど感情移入したのは、やっぱり、結婚のことが頭にあるから?」

「多分」

 この答には、結構打ちのめされる気分。あの劇を観ている間中、三井さんは由良の存在を頭の片隅(だか中央だか知らないが)で意識していたってことになるじゃないか。

 僕があの劇の内容に関して抱いた懸念が、的中していたわけだ。

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