第22話 一度目の別れの裏に
「……須藤との別れ方がよっぽどひどかったんだな?」
覚悟の上乗せをした僕に、またもや知念さんの深い吐息の音が届く。
「絶対に他言無用よ」
「ああ。世界一口の堅い関西人だぜ、安心しろ」
少しでも雰囲気を明るく、軽くしようと思って冗談を飛ばしてみたが、効き目はほとんどなかった。知念さんは重ねて念押ししてきた。
「万里本人にも、言わないで。クラスメートに知られたと分かったら、あの子、きっと傷つく」
正直、この段階で、聞きたくない気持ちが高まっていた。聞かない方がいいんじゃないかという嫌な予感すらある。
だけど、ここまで来て、やっぱり話さなくていいわと言えるほど、僕の三井さんに対する関心は弱くないし、僕自身の人間だってできていない。
「分かった。誰にも言わない。知念さんこそ、早く言って気を楽にしたいんじゃないのか」
これ以上ないほど真摯な口ぶりで先を促す。
うなずいたような気配があった。そして彼女の声が語り出す。
「あのときの須藤は、外見は優等生で二枚目だったけれども、中身は平凡な中学生だったのよ。並の中学生男子が持つ欲望そのままに……万里の身体に手を出した」
「――」
頭ん中が一瞬で真っ白けになる。
突如発生した濃い霧をかき分け、振り払い、知念さんが言ったことを、直接的な表現に置き換えてみる。それってもしかすると……レイプ? 何やそれ! 知念さんの話は、前置きがあった割には短いらしい。気付くと、電話は沈黙していた。切れたのかと思い、慌て気味に呼び掛ける。
「おい? 知念さん」
「何?」
「その、三井さんは正式に須藤と付き合っていたと聞いたんやけど」
「須藤が独りで勝手に、一線を越えた。それだけよ。付き合っていても、合意じゃないといけないのよって言わなきゃ分からない?」
「いや、そうじゃなくて。ただ、確かめたかっただけや」
僕は変に饒舌になっていた。僕の身体が自動的に動揺を隠そうとしているのかもしれない。意識して抑制を掛けねば、止まらなくなりそうだ。今すべきは、根掘り葉掘り聞き出すことではないはず。
だが、ただ一つ、これだけは聞いておきたい。
「須藤の奴はどうなった?」
知念さんは一拍置いて、ふん、と鼻を鳴らした。
「表沙汰にならなかったんだから、お金か何かで丸め込んだんでしょうね。親戚筋に市議会議員がいてね、圧力掛けられたなんて噂も影で囁かれていたけれど、真相は薮の中。普通に中学卒業して、どこかのいい高校に進学してたわ。あとは知らない。まあ、広まらなかったのが唯一の救い」
救いかもしれないが、それでも三井さんは相当なショックを受けたはずだ。
「三井さんが立ち直れたのは、時間が経過したからか? それとも誰かが支えてあげたから?」
「私も本当のところは知らない。でも、その頃よ。万里の人生に由良がはっきりと登場したのは」
そういう風につながってくるのか。もしも由良が当時の三井さんを支えたのだとすると、三井さんがひどい別れを経験したことも知っているに違いない。知ってて全てを受け入れ、婚約したのなら、最強ってやつだ。遅れて登場した関西人のために、潜り込む隙間がどこにあるというのだ。
「最初は、由良兄……由良光一が関わったみたい。医者だからね。内密に検査したい万里ん家は、親しい由良病院に依頼した訳」
何の検査なのかは、僕にも分かる。
「いつ、どうやって、兄から弟の方に移ったのかは知らない。私は、心の底では、由良長太郎がいい人間であってほしいと祈ってるわ。そうじゃなきゃ、また万里が傷つく」
「三井さんなら間違いなく、相手を選べる立場や。なのに、よりによってあんな年上の男なんかと、しかも結婚しなくちゃならんのや。そんなに思い入れるほど、支えてもらって感謝しているとは、全然信じられん」
「検査時に秘密を握られて、無理矢理結婚させられようとしている、ってんじゃないと思うけど。さすがにね」
これは冗談ですよというサインなのか、軽薄な調子で言った知念さん。
「むしろ、つけ込まれたんじゃないかって睨んでる。弱っているときに優しくしてもらうと、そっちに転んじゃうのは、誰にでもあることじゃない?」
「誰でもかどうかはともかく、あり得る話やな」
答えてから、僕は大きく息を吐いた。心労を覚える。知念さんが、由良がいい人であってくれと願う気持ちも理解できた。もし、いい人でないのなら、傷ついて別れるか、傷つく前に別れるか。僕らがやろうとしている(していた?)後者の方が、少しましという程度のこと。
これまでの由良の評判を聞く限り、相当な遊び人と見なさざるを得ない。結婚を機に心を入れ替えるとは、考えにくい。どちらかっていうと、三井さんみたいな世間知らずで大人しい子を妻に据えることで、かえって安心して好き勝手するんじゃないかと、楽に想像できてしまう。
……想像と言えば。
僕は電話を握る手のひらを拭った。こんなこと尋ねたら、どやされるかもしれない。だけど、結構重要な気もするし。せめてオブラートに包もうと、ここは一つ、おどけた関西弁で。
「なあ、知念さん。ひじょーに聞き難いんやけど、三井さんと由良は、すでに、そのぉ、婚前交渉ちゅうか――」
「してる訳ないでしょ、ばか」
ばかと来たか。しかし、予想していたより遥かに穏やかである。字面だけならきついが、知念さんの物腰は落ち着いたものだった。ただ、ちょっとばかり冷たさが滲んでいる。
「万里が須藤からされたことを考えたら、分かりそうなものだわ。たとえ由良と結婚しようとしまいと、当分、男性と関係を持つことはできないんじゃないかしら。今だって、男子と接近して話すのさえ、凄い努力を必要としているのかもしれない」
「……すまん。考えなしで」
「反省できるんなら、それでいいわよ。でも、万里の前では言わないこと。しつこいようだけど」
「もちろん」
請け負って、あとは一分ほど雑談に費やし、電話を切った。
よく教えてくれたと思う。信頼されているってことなのか。だとしたら、何としてでも期待に応えたいところだ。
だが一方で、絶望的な気分も味わった。何故って、三井さんに男性恐怖症の気が僅かでもあるとして、それにもかかわらず婚約者になった由良は、三井さんにとって特別な存在と言える。その牙城を崩すのは、並大抵の努力では足るまい。
そもそも、努力してかなうレベルなのかどうか、怪しいものだ。最悪のケース、三井さんを心理的に説得しなければならない訳で。由良に全幅の信頼を置いているとしたら、確実に手間取る。
こりゃあ、ますますもって、文化祭の寸劇で由良を引っかけて面白がっている場合じゃなくなったような気がする。
これまでは婚約破棄しか眼中になかったが、由良に改心させることも視野に入れざるを得ない……のかな。癪だけど。
いやいや。だめだだめだ。僕の個人的思惑により、それは許容できない。汚いやり方は取らない、とまで譲歩したんだ。これ以上、譲ってたまるか。一目惚れってのはそんなに安っぽくないぞ。
よし、じゃあ改めて婚約を白紙に戻させる手段を、真剣に考えてみようじゃないか。それも、なるべく三井さんを傷つけずに済む方法を。
まず、三井さんの両親に、考え直してもらうっていうのがあるな。娘の結婚に表向きは賛成していても、心中には残り火があるんじゃないか。この婚約は時期尚早ではないかという迷いの残り火が。それが高校生の娘を持つ親ってもんだと思う。
問題はその残り火の勢いを、どうやって復活させるかだが、汚い手の封印を誓ったもんだから、結構難しい。未成年者の結婚の失敗例を引き合いに出すとか? どうやって聞いてもらうんだか。あんまり現実味がないよな。
まあいい。細かい段取りは後回し。
次に考えられるとしたら……反対に、由良の両親はどうなんだろ? 仕事面では輝かしい実績を上げるも、異性関係では遊び人の息子が落ち着いてくれるってことで、諸手を挙げて賛成しているんだろうか。相手は未成年とはいえ、“先生の家系の娘さん”であり、体面上、何ら不都合はなかろう。
むしろ、年齢などの条件面で三井さんよりも似つかわしい女性を、由良に宛ってやることができれば、案外、簡単に婚約解消になるんじゃないか? ならないかな?
と、ここまではいい線行っていると自画自賛していたのだが、ちょっと考えてみれば困難さが分かる。由良の家族にどうやって接触するのだ。三井さんの両親以上に接触しづらい。加えて、どっからその宛う女性を連れて来るのだ。さっきよりもさらに非現実的な案になっている。没。これは諦めた。
三つ目。いつか剣持の奴が言ってたように、映画よろしく、式場から花嫁を連れ出す。挙式の日までに、三井さんの気持ちを僕に向けさせることができれば、充分にあり得る……ねーよ! そんな過剰なまでの自信があれば、一目あったその日から猛烈にアタックしている。
このあとも、急に妙案が浮かぶはずもなく、時間だけが過ぎて行った。
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