第8話 流血祝辞

 休み時間になっても知念さんは姿を見せなかった。

 こっちも当てられるのが確実な問題の予習やら、体育の着替えやらで忙しく、足を運ぶことはなかった。

 代わりに、その体育の授業中、剣持から少しだけ話を聞けた。

「三井さんは、先生の家系なんだよ。聞いただけだから、詳しくは知らないけどさ」

「先生の家系ってのは、つまり、家族や親類親戚に先生や教授助教授やってる人がたくさんいるって意味だな」

「そう」

 それで医者の由良光一とやらも、三井さんの家に出入りしていておかしくないって訳か。由良長太郎の方は、兄に引っ付いてきていただけ……そう考えると、いくらか気が楽になった。

「……ひょっとすると、三井さんも将来、先生志望なのかな」

 教壇に立つ三井さんを思い描きつつ、口に出してみた。

「そこまでは知らんよ。まだあきらめられないよーだね、岡本」

 からかい半分に大げさな動作で肩をすくめる剣持。答えないでいると、重ねて言った。

「転校してきた早々、いいなと思った相手が他人のもん、しかも絶対に手の届かない立場なんだから、ショックなのはよく分かる。でもこんな特殊なケースは、あきらめが肝心じゃないかな。おまえだったら、もてない訳じゃないだろうし」

「物珍しがられてる内に、他の女子に愛想振りまいとけってか」

「そうそう。うまくすれば、相手から告白される」

「けど、好きになってからじゃないと付き合えないタイプなんだよな、俺」

「それは難儀な」

 二日前に知り合ったばかりの相手と、こんな馬鹿話をしながら走ったり跳ねたりしていたせいか、右肘を擦り剥いた。


 この日は朝からぬくかったので、教室では上着を脱ぎ、白シャツでいた。昼前には陽射しが射し込んできて、さらに暑く感じるようになった。だから、昼休みになって両袖を捲ったのは、決して怪我を見せびらかすためではなかったのだけれど。

「大変っ。血が出てる」

 隣の席にいた三井さんが急に声を上げたものだから、びくっとしてしまった。

「ああ、これ」

 と、僕は自分の右肘を見た。大した怪我じゃないと思って、保健室に行かずに放っておいたが、皮膚を変に引っ張ってしまったか、再び血が滲んでいる。

 心配顔の三井さんに、さっきの体育でどじったんだと照れ笑いを浮かべたら、そんなことよりも保健室に行った方がいいわとたしなめられた。小学生じゃないので、保健委員の類は置いてなくて、委員長か副委員長が付き添う決まりになっているらしい。

「万が一、悪い菌が入りでもしたら、酷いことになるわ」

 脅かすようなことを言う三井さん。先生の家系だと聞いたばかりあって、なおさらだ。

 とは言え、こんな軽傷で大げさに着いて来てもらっても困る。恥ずかしいだけだ。そりゃ、三井さんが着いてくれるなら恥ずかしさを上回る嬉しさがあるけれども、男の僕には男子、副委員長の渡辺が着くもんだろう。たかが肘を擦り剥いたくらいで、男が二人、保健室まで仲よく行くのは滑稽だ。

 三井さんは不安そうに眉根を寄せ、僕が保健室に行くのを見届けない限り、弁当箱を開かないつもりでいる様子だ。仕方ない、と僕が腰を浮かしたとき、

「渡辺君は……いないみたいだから、私が」

 と、三井さんも席を立った。慌てて両手を振って、押し止める。

「いいよ。ほんと、大したことないから」

「気になるの。とにかく止血しないと、服も汚れる」

「それは分かってるって。ただ……一人で行けるから」

「だめ。委員長の役目よ」

 手を掴み、引っ張ろうとした三井さん。柔らかい感触が、肌を直に伝わってくる。これはこれで、天にも昇る心地なんだが。

「いいって。がきじゃあるまいし」

「そんなこと言わないで、岡本君。素直に」

「三井さんが優しくする相手は、昨日の男だけで充分だろ」

「えっ」

 つい、言ってしまった。あまつさえ、手を振り払った。まずかったと思ったときには、もう遅い。

「そんなこと言わなくたって……」

 悲しそうに声を掠れさせ、潤んできた目を伏せがちにする三井さん。

 うっ。

 だめだ。こういう仕種をされると。

 とかなんとか言う前に、悪いのは明らかに僕の方だ。これで彼女に泣き出された日には、ますます悪者度がアップする。何としてでも避けねば!

「ちょ、ちょっと」

 焦りが自分を大胆にさせる。僕は三井さんの手を取ると、「さあ、保健室まで案内して」と、我ながら空々しくもごもごと言いながら、教室を出た。

 皆の目が届かなくなった地点――階段の踊り場――で、相手を立ち止まらせ、僕は真正面に立った。

「ごめん。許してな」

「……」

 三井さんが面を起こす。さすがに涙を流してはいなかったものの、少々目が赤くなっているのには正直、ぎょっとさせられた。この程度のことで目を赤くするほど思い詰めるなんて、今まで僕の知る範囲にいなかったタイプだ。想像していた以上に繊細。いや、もしかしたら、女の子はたいがいこうなのかもしれないけれど……現在の僕にその判断が下せるはずもなく。

「さっきのは、心にもないことを言うてしもうたんや。何ちゅうか、気恥ずかしゅうて。一人で行きとうて、思わず言うてもた。そんだけ。三井さんを傷つけるつもりなんか、全然あらへん」

 必死に語り掛ける内に、三井さんはまた顔を伏せる。その上、今度は肩まで小刻みに震え始めたじゃないか。

 焦りが最高潮の僕は、早口になり、呂律が怪しくなってきた。

「せ、せやからな。悪いんは僕で、三井さんは何も悪うない。い、いや、こんなことは、言んでも明らかっちゅうやつやけど。結婚相手に向ける優しさとクラスメートに向ける優しさは、そりゃもう別もんや。とととにかく、謝るから。この通り!」

 何人かの喋り声や足音が近付いてくるのを察して、最高潮に達したはずの焦りに拍車が掛かり、これまでの人生にないほどまでになる。折角人目に付かない空間だった踊り場も、十五秒後には、行き交う生徒で満ちるに違いない。

「……っ」

 三井さんの沈黙の中に、小さな声が聞き取れた。笑いのように聞こえたのが、自分自身、信じられなかった。

「あ、あのー、三井さん?」

「――あはは。あぁ、おかしい!」

 三井さんが辛抱しきれずに笑い声を立てたのと、どこの誰とも知らない生徒のグループが階段に差し掛かったのは、ほとんど同時だった。

 ざわめきが浸透する。

 三井さんは、僕に言った。まだわずかに掠れた声は、それでもよく通った。「岡本君、どんどん関西弁になるんだもの。何ていうのか、素が出た感じで、すっごく真面目なのに、どこかおかしくて……。あ、ごめんなさい。方言を馬鹿にしたんじゃないのよ」

「あ、ああ……分かってる」

 僕は口元を拭った。

「それで結局、許してくれる……?」

「え? それはもちろん」

 何を今さらとばかり、意外そうに目を見開いた三井さんはしっかりと首を縦に振った。歯の白さとともに笑みがこぼれる。

 ああ、よかった。

 この笑顔だけで、僕は救われた。つられた訳じゃないけれど、こっちも笑顔になれた。焦りに焦っていた気持ちが、水に投じた粉末洗剤みたいに、すーっと消えていく。

「ああ、よかった」

 感じたままを声にも出す。そのあと、胸をなで下ろしてみせたのも、ほとんど無意識の内の動作だ。

「私こそ、無理強いしちゃったみたい。ごめんね。子供扱いする気は全然なかったの。ただ、岡本君は転校生だから、保健室がどこにあるのか、うろ覚えじゃないかしらって思って……」

「そこまで記憶力悪くないよ」

 関西弁の気配をなくし、僕は言った。やっと余裕ができたよ。

「それじゃ、改めて、保健室まで着いて来てくれる?」

「はい」

「次からは、もっとひどい怪我のときに頼むとします」

「その前に、怪我をしないようにしてね」

 また笑い合った。悪くない雰囲気。これで三井さんに婚約者がいないのなら、文句ないんだけれども、まあ、友達の関係は切れなかったのでよしとせねば。

 一階まで降り、何度か角を曲がって保健室が見えてきた。この頃には、右肘の血は止まり、固まりかけていたかもしれない。

「ありがと。ここでいいよ」

「――あのね、岡本君」

 教室に引き返しかけた三井さんは、ふっと足を止めた。僕の方に向き直り、

「岡本君も、私達の結婚をお祝いしてくれるよね?」

 と言った。

 僕は、肘の具合を気にする素振りで、時間を稼ぐ。答を決める時間を。

「……当然だよ」

 今、この状況で、僕に言える答は一つしかなかった。たとえ嘘だとしても、祝福するとしか。折角取り戻したばかりの笑顔を、本当の気持ちを答えることで、壊したくはない。

 そして三井さんは、僕の期待通り、ほっとした表情を浮かべる。

「よかった。岡本君もそう思ってくれてると分かって。昨日はどうしたのかと凄く心配で、胸が痛くなっちゃった」

「昨日のは、感情のちょっとした行き違いや。三井さんの花嫁姿を想像したら、こいつが世界一の幸福者になるんかあと、ちょっとばかし腹が立ったってところやね」

「お世辞、上手」

 三井さんは無邪気に喜んでいるように、僕の目には映った。今度こそ教室に戻り始めた彼女から、穏やかなメロディのハミングが聞こえてきたことでも、それは証明された。

「……はあ」

 三井さんの姿が視界から消えたあと、僕は嘆息し、肘の傷をもう一度見た。たったこれだけのことで大騒ぎした挙げ句、結婚祝いの台詞を吐く羽目になるなんてな。予想の遥か彼方だったよ、まったく。

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