第3話 ライバル?は特許持ちの工学博士

 僕は抜け殻のようになっていた、と思う。

 いつ家にたどり着いたのか、いつの間に着替えたのか、晩飯が何だったのか、テレビ番組は面白かったのか……さっぱり覚えてない。気が付くと、自分の部屋で、大の字でうつ伏せになっていた。

 絨毯に頬ずりするような格好で、目を開けたまま、ぼんやり思い出す……。

「何やて?」

 三井さんが結婚するのだと聞かされた直後、僕は聞き返した。転校初日、無意識の内に関西弁が出たのは、このときが初めてだった。

 剣持は人差し指を立てて唇に重ね、「しっ」と言うと、三井さんの方を僕の肩越しに見通す。つられて、僕もちょっと振り向いた。

 三井さんは窓の外に意識を向けているようだった。と、そのときちょうど、彼女の表情に変化が。

 ……これは何なんだ? 今日一日、三井さんのそばにいたつもりだが、こんな表情、見せなかった。見せてくれなかった。

 極上の笑顔だ。

 全身から嬉しさを発散させながら、三井さんは鞄を手に取るや、一目散に教室を駆け出していった。

 待ちぼうけを食らっていた子犬が、飼い主の姿を見た途端に元気になる、そんなことを想起させる。

「な。見たろ?」

 剣持が微苦笑を交え、僕に気の毒そうな目を向ける。続いて蓮沼さんが、さらりとした調子で加える。

「お迎えが来たのよ。だから三井さん、あんなに喜んで飛んでいったのよ」

「お迎え?」

 僕がおうむ返しすると、解説者は再び剣持になった。

「ああ。さっき言った、三井さんの婚約者が来たんだ。ほぼ毎日、送り迎えしているんだぜ」

「車……って、つまり、そのこにゃくしゃ」

 婚約者と言おうとして、舌がもつれた。でも、言い直さなかった。

「大人なのか」

「そりゃそうよ」

 蓮沼さんの声が、何だか小馬鹿にしたように響いたが、これは気のせいだったろう。僕の被害妄想だ。

由良ゆらなんとかさんと言って、工学博士で、いくつか特許を取ってて、結構お金持ちみたい。会社からも引く手あまたで、有望株よ」

「三井さんのお父さんの教え子なんだとさ。そのつながりで――」

「教え子? 三井さんのお父さんて、先生なのか」

 衝撃の話を聞いてからだいぶ経ち、僕はようやく思考が回り始めていた。ひょっとしたら、この期に及んで、三井さんのことを知りたいという気持ちが、けなげにも働いたのかもしれない。

「大学教授よ」

 蓮沼さんが教えてくれた。

「私も何度か見たことあるんだけれど、渋くて、物静かな雰囲気の紳士ってイメージ。髪の毛がロマンスグレーがかっていて、男なら、ああいう風に歳を取るのが理想だろうねってところ。岡本君も剣持君も、参考にしたらいいわよ」

「へいへい」

 剣持が呆れたように受け答えしていた。こちとら黙り込み、人の気も知らないでお気楽なことを……と内心むかむか。

 それからすぐ下校し、ショックを抱え込んだまま、帰宅したという次第。

 疲れたな。だいぶ、平常心を取り戻せたみたいだけど、神経が疲れ切ってる。たった半日の間に、とてつもない落差を味わったのだから、当然だよなと納得。観覧車に乗って、ゆったりと気持ちよく上昇し、てっぺんに着いた途端、一気に突き落とされた感じと来たら、ジェットコースターかフリーフォール、はたまたバンジージャンプか……どうだっていいけどさ。

「女は結婚できるんだよな。高一でも。できるんだよな」

 独り言を繰り返したあと、身体を裏返して仰向けになり、ため息をついた。

 と、突然、ドアが開く。

「お兄ちゃん」

 普通に喋っているのに、ばかでかい声の主は、我が妹のいずみ。小学……三年生だよな、確か。

「泉。入る前にはノックせえと、何度言ったら分かるんや」

 僕は、胸に手を当てながら起き上がった。驚きのあまりどきどきと激しい鼓動を、妹に感づかれやしないかと、変に気になる。いや、心音よりも、さっきの独り言の方を聞かれたとしたら、説明しにくい。

 泉はそんな兄の懸念などつゆ知らず、つかつかと目の前までやってくると、こっちをびしっと指差した。

「そんなことよりも、お兄ちゃん、学校でいじめられたの?」

「はあ?」

「帰ってきてから、ずーっと目がうつろだったし、何を聞いても生返事ばっかり。お父さんもお母さんも、ちょっと心配してたよ」

 “生返事”とは、この年頃にしては泉のやつ、難しい言葉を知っているなと感心してから、僕は頭を振った。

「誰がいじめられとるって? そんなことないない」

「本当? いじめられたと思いたくなくて、無理矢理、自分はうまく行っていると信じ込もうとしてたりして」

「おまえね、今の内からそういう複雑な考え方をするんは、やめておけ。精神年齢、早く老け込むぞ」

「でも、気になるんだもの。兄がいじめられっ子という立場に置かれちゃあ、私だって、立つ瀬なくなる」

「けったいな心配、せんでいいっての。帰って来て元気がないように見えたとしてもだ、それには別の理由があるんや」

 言ってしまってから、口を押さえる僕。これは余計なことまで喋ったなと後悔した。

「何なに? 別の理由って? 聞きたい」

 ほら来た。お下げを左右に揺らしながら、泉が顔を寄せてくる。僕はその両脇に手を入れ、持ち上げるようにして押し戻した。こうしないと、つばきのシャワーになりかねない。

「子供には関係あらへん。僕も子供だが、おまえよりは大人だからな」

 先手を打って釘を刺すと、泉は困った風に黙り込んだ。その口が、波形になっている。ちょうど、「~」こんな感じだ。

「他人のことを気にする余裕があるのなら、泉はさぞかし順調にスタートを切ったんだろうな」

「それはもう、順風満帆よ」

 笑顔に戻り、胸を張る泉。妹は元々、僕ほどは関西弁口調を使わないが、こっちに来てから、磨きが掛かったように思う。きっと、意識してセーブしているに違いない。

「早速、クラスのボスキャラ、じゃなくて、リーダー格に接近して、取り入ったわ。懐柔成功」

 難しい言葉を知っているのは悪くないが、意味を分かって使っているのだろうか。リーダーに対して懐柔成功ということは、つまり泉自身がリーダーになったのか? いくら何でも変だ。

 その点を問い質すと、泉はあっけらかんとして応じた。

「私がオンリーワンのトップとは言わないけれども、リーダーの神原かんばらさんとはツーカーの仲になったよ」

「……女上位か」

「そうそう。神原さん、私達の中では頭一つ背が高いのよ。それで運動神経がよくて、私と互角」

 なるほど。初日から体育の授業があったんだな。それならまあ分かる。何はともあれ、泉の方は順調そうで、よかったよかった……。

「あとねえ、割と格好いい男子が多いんだよ。やっぱり、こっちは洗練されてるのかなあ」

 聞く気を段々失っていた僕は、適当に相槌を打った。泉は知ってか知らずか、嬉々として話を続ける。

「同じクラスだけでも、五人はいい感じのがいる。特に目に着いたのがね、えっと、三井君と由良君」

「ふんふん」

 そういえば宿題をやらなくてはと起き上がり、机に向かいかけた僕の足が、ぴたりと止まる。首から上だけ、妹へと振り返った。

「三井に由良、だって?」

「何よ。お兄ちゃん、急に怒ったみたいな声を出して、変なの」

 これから空手の試合を始めるみたいに、腰を落として身構える泉。僕は完全に向き直ると、短絡思考に走った。

「――その二人、兄貴や姉貴がいると言ってなかったか?」

「ええー? そんなことまで、話せてないよ。今日会ったばかりで、男子と親しくなれるはずないでしょ。はしたない。そのぐらい、分かって欲しいわ」

 泉はかわいくない形に顔をしかめ、軽蔑の眼差しを作る。どこで覚えてくるんだ、こんな仕種。

「だったら、明日聞き出せ。命令だ」

「うーん。これ次第ね」

 右手の親指と人差し指で円を作った泉。我が妹の将来を思うと、頼もしさと不安を同時に覚える。

「他のことはないんか。宿題を見て欲しいとか、おやつがおまえの好物だったときは俺の分を全部そっちにやるとか」

 しかめっ面になりながらも水を向ける。泉は鼻で笑うような仕種を見せた。

「がきじゃあるまいし」

 お子さまは言った。

「お金が一番便利なのよ。たいていのことに代用がきくから。今の私なら、愛は買えなくても問題ないしぃ」

 よくないテレビ番組を見ているに違いない。両親に言って、やめさせよう。

 何故、僕が直接注意しないのかというと……泉の要求に応じる決意を固めたからだ。

「なんぼ欲しいのか言ってみ」

 こういう場合、こちらから額を提示すると、間違いなく、その一割分ほどを吊り上げられる。相手に言わせるのが賢明だ。高けりゃ値下げ交渉となる。

「千円でいいよ。それだけあれば、前から欲しかったおもちゃが買える」

 おまえ、指で硬貨の形を作っておいて、札を要求するのか。不条理に首を傾げつつも、僕は学生ズボンのポケットに手を伸ばした。

 財布を取り出すと、泉の目尻が下がった。

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