第2話 始まると思ったら終わりだった

 昼休み、僕と三井さんは二人並んで歩いていた。

「ここがコンピュータ室よ」

「へー。近代的。SFみたいや」

 と言っても、校舎内を案内してもらっているだけだけど。弁当をさっさと片付けた僕を、三井さんが誘ってくれた。僕からではなく、彼女から。

「生徒手帳の番号が、そのままIDなの。岡本君は明日の授業の最初に、パスワードを設定することになると思うわ。今は鍵かかっていて、入れないからね」

「なるほど」

 適当にうなずいてから、パスワードをMITUIにしようかなと思い付いた。そう言えば、下の名前をまだ聞いていない。教えてもらいたいのだが、なるべく自然に聞き出したいな。

「隣がプリンター室。コンピュータ授業の結果の印刷だけじゃなく、家庭科室や美術室ともつながっているのよ。服や絵のデザインをプリントできるように」

「三井さんも、誰かのために、服なんか作ったことある?」

 家庭科室と聞いて、すかさず尋ねる。チャンスを逃すべからず。三井さんは訝しむ様子もなく、答を返してきた。

「服って、セーターとか? ないなあ。あんまり得意じゃないもん、編み物って。でも、マフラーならある」

 これは聞き捨てならない。誰にあげたんだ?

 と、僕が聞き返すよりも先に、三井さんが笑いながら答える。

「昔、お父さんに誕生日プレゼントでね。喜んでくれたけれど、あれ、お世辞だったんだろうなあ」

 思い出す風に、天井を見やる三井さん。小さくえくぼを作って苦笑を浮かべた横顔が、僕をどきどきさせる……なんちゃって。

「そのマフラーには、やっぱりハートマークとか入れたん? ローマ字で、mituiハートpapa、なんて」

 冗談めかして聞いたら、三井さんは目を丸くして、大真面目に答えてくれた。

「すごーい。どうして分かるの?」

「え」

 意外な返事に絶句。僕の目も、きっとまん丸になっただろう。

「いや、何となく言ってみただけ」

「ふうん。読心術みたいに思えちゃった。あ、でも、ローマ字でmituiっていうのは、完全な間違い。だって、私もお父さんも同じ三井なのに。当然、mariにしたわよ」

「まり、っていうんだ?」

「あれ? あ、そうか。岡本君、知らないんだよね。私の下の名前は、万里まり

 そう言ってから、思案げに小首を傾げ、そしてはたと思い付いたみたいに、生徒手帳を取り出した。その一挙手一投足、何もかもがかわいらしくて、胸がどきどきしてきた。

「こういう字を書くの。見て、覚えてね」

 生徒手帳を開いた第一ページ目にある欄を示す。そこにある顔写真も、いい写りだった。ちょっぴり今より若い三井さんが、澄まし顔でいる。撮影はほんの数ヶ月前程度に違いないのに、幼く見える気がするのは、何故だろう。

「なるほど。ばんり、と書くんだ?」

「あー、ひどい。それ、中学校のときのあだ名だったんだよ。ばんりちゃん、ばんりちゃんて。万里の長城に、バンビを掛けたものなんですって。ストレートすぎてつまんないわよねえ」

 彼女の声の質が、若干変化した。甘えた感じになって、僕に同意を求めてくる。僕は当然、何度もうなずき返した。

 あまりにも調子よく進むので、ついつい、きざな台詞も出るというもの。

「確かに、ひどい。バンビよりもかわいい人に、そのあだ名は似合わないね」

「えー? 岡本君て、そういうお世辞も言うんだ?」

「お世辞だなんて、とんでもない」

 東京弁も関西弁も似合う男は、そうざらにはおらへん。今の自分は、格好よく映っているだろうか。

 ……ま、焦ってもしゃあないわ。

「僕は嘘をつかない――って言うたら、信用してくれる? くれへん?」

 僕は話ぶりを転調させ、相好を崩した。三井さんは呆気に取られた表情から、不意に吹き出す。こんなときでも上品な笑い方をする。ああ、前の学校の大勢の女どもとは全然違う。

「あはは、それってさあ」

 ころころ、鈴の音のような笑い声を立てながら、三井さんが言う。

「いきなり目の前に立って、『私は人間です』って言う人と似てない?」

「あん? ああ、そうやな。『私は人間です』って急に言われたら、そりゃ人間やないもんな。恐いわ」

 関西弁を続けたことに、たいした意味はない。ただ、三井さんには、僕のあらゆる面を見てほしいと思ったけれども。

 それから僕らは、学校内のあちこちを回って、昼休みを終えた。

 僕は教室に戻る間際に、クラスメートから冷やかされるんじゃないかな、と変な期待を伴う予想をしていたのだが、それは見事に外れた。だーれも、なーんにも言ってこなかった。唯一、三井さんに駆け寄ってきた女子が、「宿題のノート、借りてたよー」と言った。


 放課後になっても、僕はすぐには教室に出ず、剣持や蓮沼さんと喋りながらぐずぐずしていた。こうして三井さんが帰るのを待っているのだ。一緒に帰れたら言うことないが、いくら何でもそれは無理だろう。せめて、家がどちらの方角にあるのかだけ、確かめたいと思っていた。ストーカーの趣味はもちろんない、故にあとを尾ける気は毛頭ない。

 それにしても、三井さんはなかなか席を立たない。一人でいて、特に用事を残している風でもないのに。

 隣同士だから、僕が目に入るに違いない。不審に思ってるんじゃないかな。

「あのさ、岡本」

 真ん前に立つ剣持がしゃがみ込み、声を潜めた。僕の机に左前腕を載せ、右腕は垂直にして、人差し指を立てている。

「いいか。三井さんを狙っているのなら、悪いことは言わない、あきらめろ」

「はあ? 何を言ってんの?」

 こういうことをずばり言われても、自分の本心を隠すだけの機転と度胸はあるつもりだ。実際、ごくごく普通に受け答えできていたはずだ。

 ところが剣持は、蓮沼さんと目を合わせ、互いにうなずくと、改めて僕の方を向き、そして言った。囁き声で、僕を最高に驚かせる話を。

「三井さん、今度結婚するんだ」


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