紛らわしい名前

朝倉亜空

第1話

 サングラスを買った。真夏の強い日差しが目には良くない、というのもあったが、前々から男として憧れていたアイテムだったのだ。

 ぼくは近眼なのでサングラスにも眼鏡と同じく度付きの物を選んだ。何だか嬉しくて、早速、掛けてその辺をぶらついてみた。

 何時も通っている同じ道の同じ景色が、薄グレーの中に現れて、これがサングラスを掛けた時の大人の雰囲気か、と悦に入っていた。

 どんっ、と肩に強い衝撃が走った。前から歩いてきた人物と、肩と肩がぶつかったのだ。

「オイこら、どこ見て歩いてんだよう!」いかにも悪ぶれた風貌の男が言ってきた。

 普段なら、はいすみませんと即座に謝っている筈なのに、なぜかおれは相手に言い返していた。「それはこっちのセリフだろうが!」

 言うが早いか、おれは相手の顔面へパンチを放っていた。二発、三発とお見舞いした。

「す、すみません。アニキ、御勘弁を……」男はおれの剣幕に押され、その場を走り去った。

 相手も驚いていたが、おれ自身がもっと驚いた。いつも気弱なこのおれが、ケンカなんて怖くて出来ないこのおれが、今日はなぜ……。

 部屋に戻り、サングラスを外して、ぼくはケースにそれを仕舞った。その時、ケースの中に一枚の紙が入っているのに気付いた。眼鏡に掛け直し、そこに書いてある文字を読んだ。「この度は当店のド突きサングラスをお買い上げ頂き、誠に有難う御座います。……」

 ド突きサングラスだって! 度付きじゃなくて? いや、ちゃんと度は付いている。けど、このサングラスの特徴は度付きの方じゃなく、ド突きなんだ。これを付けると、何だか気持ちが荒ぶって、ド突きたくなるんだ。そうかそれでか。世の中には何とも紛らわしい名前の品物があるもんだ。ぼくは合点がいった。

 しかし、これでこのサングラスの使い時が難しくなったなと、ぼくは思った。大人の気分を味わいたい、その程度の動機で買っただけなのに、使用する度に暴力オトコになるとあっちゃ、あまりに物騒だ。仕様がなく、ぼくはこのサングラスをシャツの胸ポケットに刺し、見せアイテムとして使うしかなかった。

 そんなある日、その日は土曜の休日で、夕方まで部屋でゴロゴロしていたぼくは、飯でも食おうと繁華街へ足を向けた。胸ポケットには使わずのサングラスを引っ掛けて。ぼくは一人気ままにぶらつきながら、今まで行ったことのない細い路地裏に入り、面白そうな店がないか探していた。すると、路地の突き当りに一軒の居酒屋を見つけた。看板には「呑み処どんつき」とあり、幻のうまいさけあります、と手書きで付け足されていた。ぼくはこの店を選んで、入っていった。

 いらっしゃい、と板前さんの声が店内に元気に響いた。ぼくは刺身の盛り合わせとビールを頼んだのだが、これは新鮮で美味しかった。まだ宵の口なのに結構なお客の数なのは、料理の味の良さが一役買っているのだろう。

 腹は満たされたのだが、実は幻のうまい酒とはどんなものか、ぼくは気になっていた。

「あの、あなたが飲んでいるのは幻のお酒ですか」ぼくは隣の席の初老の男性に訊いた。

「ああ? そうじゃよ、ヒック」その人は真っ赤な顔で答えてくれた。もう、相当、出来上がっている。

「さぞかし美味しいんでしょうね。一体、どんなお酒なんですか」

「ヒック、どんな酒かじゃと」

 味もええ酒でのう、イヒヒと、笑いながら、男性はコップの酒に自分の指を浸し、ぼくの顔にその指をピンピン弾いてきた。

「わっ、止めて、止めてくださいっ」

 とんでもない悪酔いだ。しかも、何度もそれをやって来る。だんだんと腹が立ってきた。

「ほーれ、飲め飲めー、ヒック」そう言いながら、爺さん、コップの中身をぼくの頭に振りかけた。ぼくは頭から顔から、酒でびしょびしょになった。これはもう許せる範囲じゃない。

 眼鏡を外し、サングラスに替えたおれはジジイめがけて殴りかかった。手加減抜きだ。

 だが、それはヒラリとジジイにかわされた。何ぃ。次の一発。これもヒョイ。三発目。かすりもしない。くッ。格闘映画で見たことがあるぞ。酔うほど強くなる、このジジイ、酔拳を使うとは。おれは諦めた。眼鏡に掛け直し、ぼくはお代を払って、店を出ていった。チクショー、あの酔っ払い、悔しいなぁ……。


「ヒック、本当にうまいのう」格闘経験など無い赤ら顔の初老の男性は言った。「これを飲んだら見事に相手のすべての攻撃をよけきったぞい。ケンカがケンカにならずに済む、不思議な酒じゃ。ヒック、大将、もう一杯っ」

 板前は半ばあきれ顔で「まいったなぁ。ちょっと無茶しすぎじゃねえか。あれで今のお客さん、もう来ないかもな」と言いながら、「銘酒うまいさけ」とラベリングしてある一升瓶の酒を取り出した。

「いやぁ、あの兄ちゃんがどんな酒かって言うもんでよぉ、教えてやったんじゃわい。ヒック」初老の男性は言った。

「おかげでこっちはお得意さん一人、損しちまったよ」その一升瓶のラベルを見やりながら、板前はさらに言った。「この、うまいさけって、美味しいお酒って意味よりも、相手の攻撃を上手によける『上手い避け』って意味なんだろうな。出入り業者が言ってたんだが、酔っ払い同士のケンカが絶対に起きない酒を、どこかの酒蔵が作ったんだって。ったく、紛らわしい名前だぜ」

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紛らわしい名前 朝倉亜空 @detteiu_com

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