芸術の灯火 ファイアー・ランプ 10
猛獣使いゲラップは、プライベートタイムを自室で過ごしていた。彼は一冊のノートに、勢いよく文字を書いている。
服装はショーに出る時のような道化師ではなく、動きやすさを重視したジャージだった。先ほどまで、猛獣たちと稽古をしていたのだ。
彼がノートに何かを書きなぐっていると、部屋のドアが優しくたたかれた。手を止めたゲラップは、扉を開けにいった。
「ごめんね、忙しいのに」
そこにいたのは、仕事仲間であるヴィトゥだった。彼女がわざわざやってくるなんて、今までほとんどなかったことだ。
「なんだ、ヴィトゥか。まぁ、入れよ」
訪問者に驚きはしたが、とりあえず部屋に上がらせた。この部屋には椅子がひとつしかないので、それに彼女を座らせ、ゲラップはベッドの上に腰を掛けた。
「茶菓子とかなんもなくてすまんな」
「気を遣わないで。ちょっと、話に来ただけだから」
ヴィトゥはテーブルに置かれたノートを発見すると、そこに書かれた文字を覗いた。あまり上手とは言えない文字だったが、大量に書き込まれていた。内容はどれも、ゲラップが飼っている猛獣たちについてだった。
「これは?」
「あー、それはネタ帳みたいなもんだよ。動物たちと練習して、新しい芸が思いついたらとりあえず書いとくんだよ。すぐに忘れちゃうからな」
ノートの表紙を見ると、でかでかと「動物ノート No.52」書かれていた。
「こんなに書いたの?」
「子供のころからだからな。まぁ、落書きにも使ってたし、内容はそんなにないけどな」
彼は謙遜してそういったが、少なくとも先ほど書かれた内容は、どれも画期的なアイディアだった。
「ねぇ、ゲラップはどうしてこの世界に入ろうと思ったの? 誰かの影響?」
「ああそうだよ。ドリップスターって道化師、知ってるか?」
「もちろん」
彼の言ったドリップスタートとは一世代前のパフォーマーだ。どこかに所属しているわけではなく、世界中を飛び回っていた大スターだ。ジャグリングや空中ブランコ、綱渡りなど、多彩な芸を身一つでこなしていた。
しかし、彼はすでに引退していた。それがきっかけでサーカス業が衰退していったといわれるほど、革命的なパフォーマーだったのだ。
「ちっちゃい頃、ドリップスターが出てたショーを、親に連れられて見に行ったんだよ。そしたら鉛を頭にぶち込まれたみたいな衝撃がはしってさ、そこから俺の夢になったんだ」
全く売れていないころ、何度もこの業界から姿を消そうとしたことがあった。そんな時にゲラップを支えたのは、憧れの存在だった。諦めずに努力した結果、猛獣使いとして実力を伸ばし、今に至るというわけだ。
「そっか。きっかけは一緒なのにね……」
熱い思いで綴られたノートを再び読みながら、寂しそうな表情をヴィトゥは浮かべていた。
「お前もドリップスター見たことあったのか。憧れが一緒だったとはな」
高笑いしながらゲラップは寝ころんだ。憧れを共有していた人物が、こんなにも近くにいたことを知って、嬉しそうだった。
「どこで道が分かれたのかしら」
「そりゃあ分かれるだろう。人にはそいつにあった芸がある。俺は猛獣芸、お前はファイアーダンスだった。ただそれだけのことだろ」
ゲラップはあくびをかきながら、適当に答えた。当たり前のことを何を今さら、といった態度だった。
「……そうね」
彼女はわびしそうにしながら席を立った。
「もう帰んのか?」
ゲラップは勢いよくベッドから起き上がった。今日はもうショーがないので、もう少しくつろいでいくのかと思っていたようだ。
「少し喋りたかっただけだから。じゃあね」
「ああ、おつかれ」
ヴィトゥは部屋のドアの前に向かうと、その手前で足を止めた。そして、ゲラップの方へ振り返った。物悲しそうな、そんな虚ろな目をしていた。
「これかいろいろ迷惑かけると思うけど、サーカスのことよろしくね。今までありがとう、ゲラップ」
「え? おい、それどういう意味だよ」
ヴィトゥは彼の返事を聞かずに、部屋を出て行ってしまった。
彼女の言葉の意味は、ゲラップには理解することができなかった。けれど、何かとてつもないことが起きるような、嫌な予感だけはしていた。
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