芸術の灯火 ファイアー・ランプ 9

 コーヒー豆の苦みを含んだ芳醇な香りが、店内中に充満していた。この喫茶店は特に豆にこだわっており、コーヒー好きならば一度は訪れたことのある名の知れた人気店だった。 


 現在は、昼のピークタイムを過ぎた平日の午後三時ということで、お客はそれほどいなかった。ちょっとした小腹を満たしにくるものや、夕方まで時間をつぶしたいなどの理由を持ったお客が、数人入店しているだけだ。


 その喫茶店の一番端のテーブル席に、一人の男が座っていた。彼は一人で入店しており、カウンターではなく自らテーブル席を選択した。店員には待ち合わせをしていると言っていた。


 テーブルに置かれたブラックコーヒーを、一滴一滴味わうように口へ運んで行った。一口飲んだだけで癖になる渋みが、口いっぱいに広がった。それとほぼ同時に、内側から濃厚な香りが押し寄せてきた

 文句の付け所がない美味なコーヒーの余韻に浸りながら、のんびりと人を待っていた。もうすぐ約束の時間になるようだ。


 喫茶店の入り口につけられらたベルが「カランコロン」と陽気にないた。誰か新しい客が店へやってきたようだ。


 店員が挨拶をしながら、入店してきた女性のお客と話し始めた。そのあと、店員は一番端のテーブル、つまりさっきの男が座っている方角に手を向けた。


 女性は会釈をすると、そのテーブルへ歩いていった。どうやら彼女が男の待ち人なようだ。


「どうも、こんにちは」


 女性はひまわり柄の白いワンピースをきており、口にはマスクをつけていた。


「こんにちは。わざわざお越しいただいてすいません」


「いえ、大丈夫ですよ」


 女性は空いていた男の目の前の席へ座った。席につき周りに客がいないことを確認すると、つけていたマスクを外した。


「来てくれるとは思いませんでした。ヴィトゥ・フォーティアさん」


 男の前に座っているのは、今を時めくトップスターだった。都内最高峰のサーカス団に所属しているダンサーだ。


「それはこっちのセリフですよ。ローゼさんでしたっけ、あなたから個人的に連絡が来るとは思ってもみませんでした」


 魔薬取締係のアリス・ローゼは、事前に彼女の連絡先を調べ、電話をかけていた。断られるのを覚悟で連絡を取ったが、意外にも二つ返事で彼女は来てくれることを約束してくれた。


「本当に急な連絡失礼しました。お越しいただいてなんですが、どうして私に会おうと思ったのですか?」


「深い意味はありませんよ。もし理由をつけるとすれば、数日前に廊下で出会った時に、あなたのことが気になったから、でしょうか。それほど歳は離れてはいないはずなのに、妙に達観とした姿が記憶から離れなかったんです。一度、ゆっくりお話をしてみたかったんですよ」


 彼女の言葉が真実か嘘か、アリスは疑っていた。普通なら。捜査官であるアリスと会話することはヴィトゥにとってメリットはない。彼女が違法魔薬を所持しているならば、情報を流さないために会うことを拒否するはずだ。しかし、彼女が白だったとしてもアリスと会う理由は特にないように思えた。魔薬について何も知らないなら、捜査に協力しようとは思わないはずだ。


 それとも、言葉通り「なんとなく」会う約束を承諾したのか。アリスには彼女の心を理解することは不可能だった。


「それで、私に話したいこととは? あいにく、あまり時間がないもので」


 どうやらこの後、雑誌の記事の取材があるようだ。特集はパープル・ダンサーの知られざる素顔、といった内容らしい。彼女の女性らしい部分をピックアップするらしく、それに合わせて清潔感のある服装をしていたようだ。


「お忙しいのは百も承知ですが、コーヒーを飲む時間ぐらいはあるんじゃないでしょうか? ここのブラックは飲みやすくておすすめですよ」


 テーブルに置かれたメニューを、ヴィトゥが見やすいように向きを合わせて渡した。二人の間に流れる妙な緊張感を取り払おうとしてか、アリスは穏やかな笑顔を浮かべた。


「そうですね。時間が許す限り」


 ヴィトゥは店員を呼び、ブラックコーヒーを注文した。その際、店員に握手を求めれられていた。マスクを外していたため、店員が彼女の存在に気付いたのだった。


「確かに、おいしいです」


 コーヒーが届くと、ヴィトゥは香りを楽しみながら飲んでいった。苦いのが得意ではなくあまりコーヒーは飲まないらしいが、ここのは酸味が強く飲みやすいと満足していた。


「それでは、本題に入りましょうか」


 そういってアリスは、お馴染みのコートから一枚の写真を取り出し、ヴィトゥの前に差し出した。


「この写真は……」


 彼女は写真を受け取ると、それをまじまじと見つめた。その写真は十代の見知らぬ少年が笑顔で映っているものだった。ヴィトゥはその少年を思い出そうと記憶を探ったが、同じ顔をした人物は脳内検索にひっかからなかった。


「この子は誰なんですか?」


「彼の名前はジーン・ペトグリフ」


「聞いたことないですね」


「そうでしょうね。彼はただのあなたのファンの一人です」


 アリスは二口ほどコーヒーを飲み込んだ。この写真は、ジーン・ペトグリフの身辺調査をしていたときに入手したものだ。公園の近所に住んでいるといっていたので、探し出すのにそれほど時間は割かなかった。


「ファンですか」


 なぜそんな写真を自分に見せるのか、ヴィトゥは不思議で仕方がなかった。面識があるならまだしも、今日初めて見た少年だ。これが今日の話と何の関係があるというのか。


「彼は夜な夜な公園に訪れては、ある魔法の練習をしています。その魔法は、炎を操る魔法。しかも、彼は火の玉を作り出し、それと共に軽やかに踊って見せてくれました」


 秘密の練習のことは誰にも明かさないと思っていたが、早々にその誓いを破ってしまったことに、アリスは申し訳なくなった。けれど、憧れの人ということで許してくれることを願った。


「火の玉とダンスですか」


 彼女は若き日のことを思い出した。初級編として火の玉を操る練習をしていた頃が、彼女にもあった。徐々に火力を増やしていき、渦のような形にすることに成功した。周りが見えなくなるぐらいに、炎に夢中だった頃が懐かしかった。


「その動きはどこかで見たことがあるものでした。炎とのダンス、どこかで聞いてあることのある響きです。そして、その元となったであろうダンスは、数日前に見たあるパフォーマンスのものだということに気がつきました」


 アリスは、彼女の表情を事細かにチェックしながら、反応を窺った。ヴィトゥは話の途中で、若干細眉をあげていた。


「回りくどい言い方をするんですね。それは私の踊りのことなんでしょう?」


 ヴィトゥを真似して練習をしている熱心なファンがいることは、噂がちらほら耳にはしていた。それはこの写真の少年だけではなく、他にも大勢いるだろう。人というものは、魅力的なものに刺激をうけると、自らの手でやりたいと欲がでるものだ。


「おそらくは。彼はあなたのことを、天才とまで尊敬していましたよ。時間があれば魔法の研究をしているようで、その模倣をした動きは、あなたそっくりでした」


「そうですか」


 ヴィトゥは、自分のダンスが決して難しいものではないと考えていた。練習を積めば誰でも、ある程度のレベルまでは再現可能だろうと。実際に、そこまで真似をできている者がいることは、今日初めて知りえた情報だった。


「このままいけば、完全なコピーにも成功すると感じました。それほどに才能あふれる若者だったのです。」


「ぜひ、見てみたいですね。ファンの方と触れ合う機会はあまりないので」


 サーカスの芸は、毎日欠かさず練習を続けなければ、衰えていくものだ。体を動かす以上、魔法だけではなく肉体も鍛えなくてはならない。さらに定期的なショーと、このあと行われるような取材によって、彼女はファンレターを読むことさえ難しかった。もしかしたら、読み切っていない手紙の中に、ジーン・ペトグリフという送り主がいたかもしれない。


「彼に会ったらなんと言うのですか? 彼の踊りを見て、このまま続ければ私のようになれる、とおっしゃるのですか?」


 急に冷ややかな声のトーンで、アリスは疑問を投げかけた。その問いとともに、一瞬だけ二人の間に緊張が走った。


「それは見た後でないと答えられない質問ですね。私は一度も彼に逢ったことがないんですから」


 ヴィトゥの顔は、少しだけ強張っていた。できるだけ冷静に会話を続けようとしていたが、その荒ぶる感情を完ぺきに抑えられていなかった。


「もっともなご意見だ。しかし、実際に彼と触れ合った人はどうでしょうか。あなたを思い浮かばせるダンスを見た人は、このまま練習をすれば近づける、とそれほど深い意味は込めずに言う可能性があるのではないでしょうか。

 私の察しが悪ければ、もうすでにあの場で言っていたかもしれない」


 彼女の静かな苛立ちを煽るように、あえて挑発的に話していた。その成果はあったようで、清らかだった彼女の態度が、攻撃的なものに変貌していた。鋭くとがった目つきで、アリスを睨むように見ていた。


「別にそのまま練習を続けることは、個人の自由ですよね。ローゼさんに、それを拒む権利はないはずです」


 話し始めた時とは全くの別人のように、ヴィトゥの声は低く怒りがこもっていた。


「権利などありません。ただ私は、少年を心配して言っているだけなのです。あなたの背中を追い続ける彼は、おそらくこの先、とてつもなく巨大な壁にぶち当たります」


 にらみを利かすヴィトゥの目力にめけずと、アリスは一呼吸おいて、言葉をつづけた。


「炎に鮮やかな色を施すという、決して超えることのできない果てしない壁に」


「……」


 ヴィトゥは何も言葉を発しなかった。怒りをどこかへ忘れ、アリスと顔を合わせるのをやめて、うつむいてしまった。


「彼の思考は、フォーティアさんとほとんど一緒です。でなければ、一目踊りを見ただけでは、誰を見本にしているかまではわかりません。となるとです。彼が行きつく先は……」


「もうやめてください」


 怒鳴るとまではいかないが、彼女にしては大きめの声だった。これ以上、アリスの話を耳には入れたくないようだった。彼女は手提げカバンから財布を取り出し、お金を出そうとした。コーヒー代を払って、すぐにでも帰りたいといった行動だった。


「あなたは先日、私に質問されましたよね。違法魔薬を使用しても、それは自己責任だと。もし、その魔薬を使って人々を喜ばしているのなら、それは悪なのか、と。」


 慌てて出ていこうとする彼女に全く動じずに、アリスは喋り続けた。その態度をみて、彼女はいったん動きを停止させた。


「ええ、覚えてますよ。今もそう思っています」


「誰かを喜ばすということは、誰かを魅了するのと同じことです。その魅了された人の中には、自分自身で体験しようとするものもいるでしょう。このペトグリフ少年のように。

 彼がもし悪に手を染めたら、自己責任でしょうか。欲望に負けた彼の罪ということに変わりはないですが、彼をそこまで追い詰めた人物に全く責任がないと、断言できるのでしょうか。悪の道へと人々をいざなうものは、悪とは言えないのでしょうか?」


 アリスはもう一度、少年の写真を彼女に渡した。


 写真に写った少年は、純粋に笑っていた。歯を見せながら笑うその姿は、汚れを知らない子供だった。


「……こんな笑顔、何年もしたことないな」


 そういって彼女は立ち上がり、代金を払って帰ってしまった。


 そこにはコーヒーの苦みのある香りだけが残っていた。

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