第伍話 その家出、憂慮につき。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。


 雨に濡れた服はぴったりと張り付き気持ち悪さを覚える。雨が入ってくるため目も開けずらい。


 「これからどうしようか。」


 和州は雨に降られ、体と一緒に頭も冷えたところでこれからのことを考える。


 6月で初夏に入っているとは言えど夜は冷え込む。そん中で雨に濡れたまま外にいれば低体温で死んでしまうだろう。


 これに誇張表現はなく、早くどこか雨宿りでも出来る場所を見つけ、暖まらなければいずれ命を失ってしまう。今日はそんな気温だ。


 「流石に何か持って来れば良かった。」


 和州は勢いだけで飛び出してきてしまった為、財布ひとつ持ってきていない。着の身着のままで家を出てきた状態だ。


 それでも和州には家に戻るつもりなどさらさらない。


 それもそうだろう。


 和州は家を出る前にかつてない程までに歩矢と喧嘩をした。そして「ずっとあんたのことが嫌いだったんだよ、歩矢さん。」こう言って飛び出してきたのだ。


 それで何事も無かったように戻れるのは無神経な人間だけだ。もし歩矢がこの立場にいたらどうなっていたかは分からないが、和州には到底無理なことだった。


 「ふふっ」


 家出前の歩矢とのことを考えていると、いつものだらしない姿が唐突に思い浮かび、思わず笑みが零れる。


 「いや、何笑ってんだよ………。あの人は父さんと母さんを殺したはずなんだ。寂しい訳なんかないじゃないか。」


 自分に言い聞かせるようとしてしまう。和州はそれに気づき、またもやため息を漏らす。


 このままでは思考は泥沼にはまってしまう。一度歩矢のことは忘れた方が良い。


 「今はそんなことよりもどこか探さないとな。」


 今考えていたことを忘れるように雨宿りの場所を考え始める。記憶を総動員し、雨宿りが出来て休める場所を記憶の中から引っ張り出す。


 「あそこにするか。」


 そうして臨時の休憩場所候補へと足を向けていった。


 途中こじんまりとしたボロ屋がある前を通り歩いて行くと公園が見えてくる。


 その公園にはこの辺りに住む人たちのためのの集会場がある。集会場の中には鍵がかかっていて入ることは出来ないが、入り口の前には屋根付きでそれなりの広さがある場所がある。意外とそこは休む場所に適しているのではないかと考えたのだ。


 和州は公園に入り、ブランコや鉄棒,雲梯,滑り台が目に入るとふと足が止まってしまう。


 そこは和州の記憶通りの場所で、子供の頃、それこそまだ両親が生きていた頃に遊んだ思い出が甦る。


 「懐かしいな。」


 あの頃は両親に色んなことを教えられ、父さんとかあさんに一緒に遊んで貰って楽しかった、と子供の和州には当たり前だったことに懐かしみを覚え頬を綻ばせる。


 「それなのに今は……」


 昔と対比させるように今を恨めかしく思い、激しい感情が荒れ狂う。1つ1つ吐き出して整理しようとしたが、それは許されなかった。


 「和州っ危ないのじゃっ」


 和州は緊迫した叫び声と共に突き飛ばされた。


 何も警戒していなかった和州は激しく転倒し、水たまりの中に倒れこんでしまう。


 泥水が飛び散りただでさえ濡れていた服がさらに悲惨なことになってしまった。


 「痛いな、いきなりなにす、ん……え?」


 機嫌の悪さに任せ、いきなり危害を加えてきた相手に文句を言ってやろうとする。が、その言葉は最後まで言われることはなかった。


 「え……?」


 和州の視線の先には2本の傘が放り投げられ、その近くには血だまりが出来ていた。血の流れを辿っていくと立ち尽くした歩矢の腹部へと辿り着き、ナイフが生えていた。


 「歩矢、さん……?」


 ナイフを持つのは全身を真っ黒のレインコートで身を包み、顔はフードで隠れていた。レインコートのせいで体型も判然とせず性別すら断定できない。


 目の前で歩矢が窮地に陥り、流石はこれまで探偵に育てられてきたとでも言うべきか、和州の判断力が火を噴いた。


 あの犯人を捕まえなければいけない。身柄の確保は冷えすぎたため体の動きが悪く、達成は厳しい。


 ならば一番優先順位が高いのはあの凶器だ。あれさえあればまだ犯人を捕まえられる。


 和州はそう判断し、凶器を引き抜こうとしている手に向かって全力で飛びつく。


 犯人の体は衝撃で吹き飛び尻餅をつく。


 歩矢を庇うように両手を広げて仁王立ちになると、もう無理だと判断したのか舌打ちをして逃げ帰って行った。


 「歩矢さんっ」


 それを見届けると歩矢の下へと駆け寄る。


 ナイフは半分ほど突き刺さったままで血が止め止めなく溢れ出てくる。見るにも痛々しい様子だ。


 「良かった。無事じゃったか、和州よ。それにしても何じゃ、傘も差さんで。風邪を引いてしまうじゃろうが。」


 震える手で近くの傘を拾い、差しだす。


 「そんな状態で何を……傷が……」

 「何って、お主を心配して探しに来てやったんじゃぞ。少しは感謝せい。」


 痛みで苦しいはずの歩矢に笑みを向けられ、和州は声も出なくなる。


 「何じゃ泣きそうな顔をしよって。儂のことは嫌いじゃったんじゃろ?なら気にせずしゃんとせい。そして儂のことは忘れ去るのじゃ。」

 「そ、それ、は……」


 それはただの勢いで言ってしまっただけで本心じゃない、と言おうとしたが声が震えて上手く喋れない。


 そう思っていないことは当然だ。10年も近くにいたのだ。嫌いでそれほどの期間の間、一緒にいられる訳がない。


 和州も歩矢が両親を殺した犯人ではないことをどこかで気付いてはいたのだ。


 もし歩矢が犯人で和州の持つ道返玉が目的だったのならあの日に襲われていたはずだ。そこで襲わなかったとしても他の機会なんていくらでもあった。


 それに、歩矢は和州が探偵のサポートをしたいと言った時は本心から喜んでいたし、稼いだお金で10年間も養ってくれていた。


 和州といる時は楽しそうでその中には悪意なんてこれっぽっちも感じられなかった。


 和州が体調を崩した時は本気で心配していた。現に今もこの雨の中、和州のために傘を持ってきている。これは和州を追うための言い訳でもあるのだが。


 そんな歩矢が悪人であるはずなんかないとは、和州もどこかで気づいてはいたのだ。


 だが、それでも歩矢が両親を殺した犯人だと信じて疑わず、そうだと決めつけていた。


 そうでもしないとどこにもやり場のない恨みは幼い和州の心を侵食し、壊してしまっていたであろう。だからこそ無意識的に気づいたことに蓋をし、目を背けていたのだ。


 本当に和州の心が壊れてしまうその前に。


 仕方ないと言えば仕方ないのだろうが、それに気づいた和州はたまらなく辛くなってしまう。


 外で歩矢の顔を思い出して微笑ましくなってしまった時に帰る決断をしておけば良かったと激しく後悔してしまう。こうなる前に気付けるタイミングはいくらでもあっただろと自分を責めてしまう。


 それらの感情に涙腺が決壊し、止め止めなく涙が溢れ出す


 「何を泣いておるのじゃ。儂のことは忘れろと言ったばかりじゃと言うのに。」


 歩矢は和州の頬に手を伸ばし、震える手で涙を拭ってやる。


 「儂はの、お主が儂を嫌いじゃと言うのなら別に出て行っても構わん。お主を苦しめたくはないからの。」

 「ぼ、ぼの゙や゙ざん゙」


 和州の涙は一層激しさを増し、もはや上手く発音出来ていない。


 「じゃがの、儂には1つだけ心残りがあっての……」


 和州は滂沱する涙を隠しもせず、そのまま静かに聞き入る。


 「お主の両親のことを話してやれなかったことじゃ。儂は『不慮の事故に遭ってしまった』と言ったはずじゃの。確かにあれはお主も気づいた通り嘘じゃ。じゃが、理由が間違っておる。それも分からんとはお主もまだまだじゃの。そんな我が弟子に最後の施しでもしてやるかの。」

 「ざ、ざい゙ごだな゙ん゙で……」

 「これ、うぐっ、静かに聞いておれ。」


 歩矢は一瞬だけ苦痛に顔を歪めたが直ぐに消し去り、両親の真実について話し始めた。




 歩矢が和州の両親に初めて出会ったのは15の時で、探偵としてはまだまだ駆け出しだった。





 その日、歩矢が受けた依頼は失敗しそうになっていた。


 「俺がいつ、どこで、悪事をしてたってんだよ?あぁ?言ってみろよほらぁぁぁ」

 「ぐっ……なぜ証拠だけ出てこんのじゃ。こ奴が悪事を働いておるのは確実じゃよいうのに……」


 醜男は寒い頭を振りかざし唾を飛び散らせながらぎちぎちとジュエリーが付けられた指を歩矢に突きつけ喚き散らす。


 歩矢は責め立てられても証拠がないため何も言い返せず呻き声を上げるしかない。


 この醜男は、当時勢いに乗っていた中小企業の社長だ。


 つい数日前、とある大企業の重役が事情聴取で資金の横領を認め、醜男と密に関わっていたことも白状した。重役は、今歩矢の目の前にいる醜男も資金の横領に一枚噛んでいただけでなく、接待を受ける代わりに色々と便宜を図っていたということだった。


 それでこの醜男にも調査が入ることになり、歩矢に依頼が入ったという訳だ。


 歩矢が新米の探偵だがこういった大きい依頼が入ってくることがままある。その要因は歩矢の母親にある。


 歩矢の母が経営していた获掛留かがる探偵事務所はそこそこに有名だった。だが、母が亡くなり歩矢が事務所を引き継ぐことになった。


 結果として母の名声だけが残り、新米の歩矢の元にも大きい依頼が入ってくるようになったという訳だ。


 「謝罪が必要だよなぁ?他ならぬこの私にあらぬ疑いをかけて貶めようとしたんだからなぁ。」

 「ゔっ」


 醜男は舌なめずりをしながら気持ち悪いと言う他に表現のしようのない笑みを浮かべ、歩矢の頭からつま先までの全身を舐めまわすように見る。


 歩矢は全身に鳥肌が立ち、悪寒が走った。体が拒絶反応を起こしたのか急激に体が震えだし顔色が悪くなる。まるでアレルギー物質を摂取したみたいだった。


 これが生理的に無理というものなのだろう。歩矢はそれがただ不快さを感じるだけのものではないとこの時に初めて知った。


 震える体を守るようにきつく抱き、足もぴったりと閉じて隙を見せないようにしながらもどうしたものかと思案する。


 もしここで歩矢が謝罪でもして自分の非を認めようものなら歩矢の母が築き上げてきた信頼を失ってしまうことになる。そんなことになってしまっては事務所を引き継いだ意味も母に合わせる顔もなくなってしまう。


 それに、乙女的にNOだ。


 こんなことをしてはいるが、歩矢はこれでもうら若き乙女なのだ。こんな気持ち悪くて不快感の塊で思わず体が拒否反応を起こしてしまう醜男が強引に迫る要求を聞けるはずもない。


 どこにそんな乙女どころか人間がいるものなのか?もし存在するのなら見てみたい。たとえドМの属性をその身に宿していても嫌悪感に苛まれ拒否してしまうのではないだろうか。


 「だ、誰が貴様の要求など。犯人は貴様で間違いないのじゃから、さっさと非を認めんかっ。」


 歩矢は感情に流されてしまい、証拠もないのに犯人だと決めつけるという探偵にはあるまじき発言をしてしまう。こんなことでは火に油を注ぐだけだ。


 「何を言うかっ。私が犯人だという証拠はどこにあるのだ。見つからないではないか。非を認めるのはおまえの方だろう。」


 醜男が歩矢に手を出そうとし、もう駄目だと歩矢が諦めようとする。


 「早く謝罪をするんだね。そうすれば今のは見逃してやろうじゃないか。」


 だが、新たな女の高圧的な声が横合いから入り込み、醜男の手が止まる。


 「そうだ、謝るなら今のうちだぞ、小娘。」


 醜男はその声が言う通り最後忠告とばかりに歩矢に再度謝罪を要求する。歩矢は自分の見方がいない事実に絶望し、崩れ落ちそうになる。


 「あたしはねぇ、あんたに言ってんだよ。豚野郎。」


 同じ女の声が冷たさを伴って再び醜男に投げられる。その声の主は勝気な表情を浮かべた女性で、隣には地味目の優しそうな顔つきの男が立っている。


 「あぁん?豚ぁ?お前は誰に向かって口を利いてると思ってるんだっ。お前ら、この痴れ者どもをつまみ出せ。」


 醜男は顔を赤くして控えていた使用人に指示を出す。だが、彼らは次に発せられた言葉によって誰一人として動けずに終わる。


 「おい、豚。さっきから聞いてれば証拠々々って五月蠅いけどねぇ、これでいいのかい?」


 そう言って手に持った所々に擦り切れた跡があるA4サイズの茶封筒を掲げる。それは中央にデカデカと㊙と書かれ厚さも中々なものだ。



 「そ、それは……何故お前たちが……」

 「あたしら泥棒の手にかかればこんなの見つけることくらい造作もないんだよ。」

 「泥棒、だと……!?」


 女は泥棒の介入に驚く醜男と何も言えないでいる歩矢を余所に、歩矢の下へと近づいていき手に持った書類を手渡す。


 「これは、確かに……」


 歩矢が確認するとそこには確かに証拠となる書類が入っていた。


 件の先方に口を利いて貰うためにお金をどれだけ払い、接待をするのかといった内容がずらりと並んでいる。


 醜男が慎重を期して重役相手だからと書面を作っていたのがここにきて仇となった。


 「だが、お主ら」


 どうして泥棒がここにいて歩矢の見方をするのかを聞こうとした所に、証拠を見つけられたことに怒りが沸点を通り越した醜男が殴りかかろうとしてくる。


 「はぁ~~~~~~~~~あたしは豚なんかには指一本触れたくないからねぇ。京谷、頼んだよ。」

 「全く、相変わらず人使いが荒いなぁ、響香は。まぁ、そんなところも良いんだけどね。」


 醜男からは歩矢の姿を隠すように女、響香が立つとずっと傍に控えているだけだった地味な男である京谷が動き出す。


 その動きは見た目からは想像できない程に俊敏なものだった。醜男は何の抵抗も出来ずに鮮やかに床に転がされ、あっさりと取り押さえられた。


 どう見ても荒事には向いてなさそうな顔が相手を圧倒する光景には歩矢も目を見張る。


 「す、凄い……」

 「あれでこそあたしの旦那ってものよ。」


 かっかっと笑う響香の先では逃れようと藻掻く醜男はそのまま床に押さえつけられていた。こうして醜男は証拠となる書面が詰まった書類と共に依頼主へと引き渡さされ依頼は無事解決した。


 だが、歩矢はただ醜態を晒し守られているだけで何も出来なかった。なのに、響香の口添えで証拠を見つけたのが歩矢の手柄として扱われてしまった。


 後にも先にもこれほど惨めで無力に感じたことはなかった。

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