第8話 還元と酸化とメンヘラの化学

 手元が橙色に照らされる。これがマッチに灯された微かな炎なのか、もしくは地球が焼かれているかのような夕焼けなのか、今の僕には分からない。

 その日僕が読んだ、差出人不明の小説は、反吐が出るほど現実的で、僕がかつて感じ得たことがないほどまでにニヒルで虚無で暗黒だった。

 だから僕はマッチを買い、火をつけることで、己の世界に今一度、光をもたらし、神の蘇生を行おうというのである。


 モノを燃やす際に面倒なのは、燃え広がることよりも、他人に感ずかれるこの煙に他ならない。戦乱の始まりを民草に伝え、その無残さを詩人に嘆かせるのは百万体の遺体ではなく、ただひとすじの煙なのだ。

 火のない所に煙は立たぬではなく、我々は往々にして煙しかみようとしないという本質。

 人間の目には3つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされている、という脳の働きであるシミュラクラ現象。ニーチェの言う遠近法的思考から脱するのは困難を極め、それ故に彼は超人という平凡だが崇高な人間モデルを発狂してまで思想したのである。


 そして僕もまた、人目につかなようにこっそりと、しかし必ずやり遂げねばならぬという信念と共に、いざ原稿用紙を灰へ還していると、さびれた公園には、似合わないようで実はそうでもないような、真っ黒パーカーに、真っ黒ショートパンツを着た少女、と言っても年恰好はそう離れていないはずの女性がどこからともなく、ペットボトルの天然水片手に走ってくる。

 勢いとは裏腹に細い脚ではスピードはあまり出ず、青色に染められた元黒髪のショートボブが揺れるのを、こちらは見続けていた。


 よそ見している内に火は指先まで迫っており、反射によってそれらが地面へと落とされるのと時を同じくして、彼女の持つ自称天然水が僕を濡らす。

 なるほど、どうやら彼女の目的は孤独なブランコ遊びではなく、レスキュー精神をたぎらせ、火遊びに夢中な若者が放火魔へとエスカレートしないよう、心身ともに消火しようという勇気あるメンヘラコーデ女子なのだった。


「ひどいよ!」

 第一声は、ビンタと共に目を醒まさせる熱いメッセージではなく、むしろ予想だにしないベクトルからの語彙センスで思わずひるむ。


「ボクの想いを唯一分かってくれる存在だと思ったのに!」


 僕は自身の勘違いを修正した。つまり彼女は本物の―――


「あ、名前書くの忘れてたよね、ごめんなさい! 本当にごめんなさい、いつもそうだから……だからお願いですあき君、嫌いにならないで」

 馴れ馴れしいのか、うやうやしいのかハッキリしないが、久方ぶりに名前で呼ばれたことに気づく。見知らぬ女に。秋人あきとではなく秋君とかいうあだ名で。


「私、かの」

 完結極まりない自己紹介で、とうとう僕はマッチの火よりも儚い走馬燈を頼りに、どこから間違ったのか、深く自省することにした。


 本物のメンヘラだから。

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