第二話04 空耳流し  <言槻千咲 編>

▼雨文


「ぺろ、ぺろり、ぺちょり」


舌に感じる感触はなんだか甘辛く感じた。

けれどまだその味に慣れていない所為かあまり美味しいとは感じなかった。

でもなにもないよりは良い。

まだ空は影に包まれたまま冷たいものが堕ちてくる。


あぁ…もう一度唄わないといけない。

そんな儚い期待を抱きながら紅く染まった紙飛行機を鏡張りに映る群衆へと飛ばした。

ゆらゆらと揺れて落ちていく。

いつだれの手に渡るんだろう。

ただその光景を眺めるだけで少し気分が楽になった。


この気持ちもいずれ不幸と姿を霞め、やがては幸福へと成る。

喪失と獲得は交換され、死は生へと転じ、絶望は希望を生む。狂気は正常へと繋がり、破壊は再生と化す。

そんな見たことある無意味な言葉の羅列。

そこに不幸と幸福は廻転する。

それを加えて赤く染まった影を眺めた雨女はフードを取った。


「ばさっ、すぅー」

――――――――――――――――――

▼自宅


リビングでのんびりしていると2階からトットットと軽快な音が聞こえた。

キツちゃん顔を出してきた。


「お腹空きました。お風呂も入りたいです」


そんな要望付きで。

さっきまでの仏頂面は何処かへ跳んでしまっかのように寝癖を直そうとしている。

やっぱ寝ていたのか。

勉強していると思っていたのは裏切られた。

宿題もやらないって言ってたもんな。

叱ろうにも課題を忘れた自分が言える立場じゃなかった。


「どっちが良い?」


「お風呂がいいです。ご飯食べてからじゃあ寝てしまいそうなので」


「じゃあ自分で沸かして」


「そんなー」


落胆するキツちゃん。

寝癖でバサバサになった髪が鬱陶しいらしくゴムでまとめようとする。


「その代わりにユーフォーさんは夕食の準備お願いしますね」


「僕の姿は確認出来てるよね?」


返答はなかった。

キツちゃんは素直にお湯でも溜めているのか、それともシャワーだけで済ましているか。

この歳で妄想なんて、ありきたりなことはしないけどあんな身体【第一話 言訳紡ぎ <久槻月深 編> 参照】でシャワーを浴びて痛くないのかな。

まぁ今は他人の心配よりも夕食の準備でもするか。

まずは皿にレトルトカレーを注ぎ混んで、あらかじめ炊いてあったご飯を盛り付る。

隠し味を振り掛けて、後は電子レンジで2分弱で完成。

簡単過ぎてで時間があまりに余りすぎた。

それが欠点であり利点なんだけど。


さて、温めているこの空白の時間。

アナログ時計の本当に1秒なのかどうなのか危ういスピードで時を刻む音が聞こえるだけ。

鈴虫の鳴き声もひぐらしの鳴き声も耳には一切入ってこない。

まだ時間があるので審議の結論が出なかった課題に捻子ねじを戻す。

幸福の後に不幸があってこそ幸福の有り難みが理解できる。

不幸の後に幸福がくることで不幸だったのだと過去を振り替えられる。

そもそも過去を振り返る必要があるのか。

これが論点になるし有り難みは理解出来ても必ずしも不幸の後に幸福が来るとは限らない。


『前門の虎、後門の狼』

そんな言葉もあるくらいだ。

つまり不幸の上に不幸が重なる。

いつ幸福が来るのが分からないのに不幸を受け入れざるを得ない。

来るか来ないか不確定要素、不幸重ねの幸福。

そんな不安定な上に成り立つ人生。

そりゃあ死にたくもなる。

でも生きたいと思う人も居るんだろうな。


『うちはうち、よそはよそ』

こんな『空耳流し』にも満たない言訳事いいわけごとを些細な音で電子レンジがさえぎってくれた。一口喰べてみると冷めていたのでもう一度温め直したところで扉が開く音がした。


下、スウェット、上、Tシャツ。

相変わらず可愛さも色気もなにもない格好で風呂上がりのキツちゃんが現れた。肩甲骨より少し長い髪をクシでとぎながら「ご飯できました?」と僕の顔も見ずに言った。


「後2分ぐらい待ってくれないかな」


「またカップラーメンですか?」


「んいや特盛りカレー」


それだけ答えるとまたバスルームに戻って行った。

でもすぐに戻ってくる。

サイドの髪を赤いピンでいくつか止めていた。

毎朝、寝癖の酷い自分から見たらそこまで気にすることはないと思うんだけど。

それとは違うことを訊いてみる。


「ねぇ、背中のきずは大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。背中だけは洗ってませんから」


苦笑いに近い表情でとんでもないことを言いだした。

背中だけ洗わずにどう頭を洗うのか気になったが乙女には秘密にしていることがあると『溜息殺し』から聞いた覚えがある。

今はとやかく言わないことにしよう。過保護にならない程度に。


「ご飯はまだですか?」


僕は電子レンジからカレーを取り出した。

素手で持つには熱いけれどこれくらいが食べるにはちょうどいい温度になってる。

テーブルに置いた。

キツちゃんも髪を気にしながらもちょこんとイスに座った。テレビを付けながら僕は自分の分のコーヒー持って対面に座る。


「カレーですか」


「何か文句でもある?」


「いえ、予想通りだと思って」


「僕がカレーを作るのが?」


「ええ、まぁ…そうですね。あれ、モップさんの分は?」


「僕は皿洗いでもしていればいいのか」


「お嫌いですか?カレー」


「まぁ、ちょっと良い思い出がなくてね・・・」[第零話 溜息殺し <霧霜霖・霧霜雫 編> 参照] 


思い出したくもない記憶を思い出すところだった。

頭を振って空耳として流した。

キツちゃんがカレーを一口入れる。僕はコーヒーをすする。


「しょんなにょ、は、にゃめ、にぇすぅよ」


口に物を入れながら喋るなと『あの方達』に言われなかったんだろうか。

あの人からは『過保護』だと聞いていたのに。

これも溜息を吐くほどの嘘なのか。

溜息を殺してテレビ番組に集中していると悲鳴が聞こえた。


「ふゅぃがぁぁぁ!」


見てる番組は、旅番組だ。

どこにも怖いところはないし、トラウマをえぐるようなものもない。

横を見るとずいぃぃっと前倒まえのめりになったキツちゃん。

乾いたばかりの茶髪と口元に付いたルーと驚きの顔がマッチし過ぎて口内のカフェインを吹き出しそうになる。

その時Tシャツの隙間から見えてしまったもの。

今は成長期なんだしこれから。

そうこれから。

「あのっ!このカレー、隠し味何入ってます?」


「色々」


「その色々とは?」


「醤油とかソースとか焼肉のタレとか粉コーヒーとか」


一旦スプーンを皿に置く。

驚きと歓びの表情で応えてきた。

眼は大きく開いているのに口は酸っぱそうに細めている。

笑顔なのに驚愕も入っている顔。

おもしろい。

色んな感情を出せるようには回復したようでこちらとしても笑顔が零れてしまう。淹れたコーヒーがいつもより少し美味しく感じてきた。


「せっかくの味が…。そんな隠し味で」


「おいおい、キツちゃん。うちの伝統の味に文句をつけないでくれる?そこは譲れないから」


今更、譲るも譲らないのもない。

そんな名家ですらない一般家庭だ。

家だけは。

しかし、カレーに醤油やソース等を適度に混ぜてやるとこれが案外いける。もちろん入れすぎてしまうとカレーとは全く別の悪魔の料理ができあがる。

でも香辛料の入った本場のものに比べるとだいぶ劣る。

前に『溜息殺し』が作ってくれた香辛料がバリバリ入ったカレーは忘れられない。【第一話 言訳紡ぎ <久槻月深 編> 参照】

ただ、そこに良い思い出がないだけ。


「これはプリンに醤油をかけるとメロンの味がするというやつですか」

「それはウニじゃなかった?でも味は保証できるでしょ?」


「はいっ!めちゃうまうまです」


ルーを口元につけてパクパク喰べる女の子。

コーヒーだけ飲んでるのにお腹がいっぱいになってくる。

スプーンで救っては口に含み「おいしいです」と言葉にする。この子の持っているトラウマにさえ背景に置かなければ、ただのかわいい女の子だ。

咀嚼そしゃくする度に表情筋が豊かになり感情度合いも増していく。その相乗効果によって笑顔が作られる。


かわいらしい。

そう素直に思えた。

僕は女性が食べ物を美味しそうに喰べている姿が一番好きだ。

あの『溜息殺し』は例外だけど。

また一口カフェインを啜るとさっきよりも濃い味。

温かい黒い液体が舌に残り続けて余韻よいんをくれる。

するとキツちゃんは一旦スプーンを皿に置く。

僕のマグカップを一点集中してきた。

凝視される。


「ん?どうしたの?」


「それ苦くないですか?」


「苦いと思ったら飲んでないよ」


「私コーヒー飲める人ちょっと憧れます」


「でも、どっかで飲んでなかった?」


「初めて会ったときに行ったじゃないですか、あの喫茶店です。あれからもう飲めなくなりました」


「あーあそこね。ロングをベンツとかいう」


「ベンツではなくベンディです」


どうやら良くない思い出を思い出させてしまったようでせっかくの可愛らしい顔から眉を「へ」の形にして落ち込む。

目の前に美味しいものがあるってのに羨ましそうな妬ましいような表情で僕のマグカップを再び注視した。


「飲んでみる?なんなら淹れてあげるけど」


「カレーに合うと思いますか?」


「合わないね」


それからはマグカップからテレビ画面へと視線を移した。

ほどなくして喰べ終えたらしくキツちゃんは席を立った。

皿とスプーン、僕のマグカップまでも律儀に洗い場まで運んでくれていた。その光景をテーブルに肘を付いて見やるといぶかしげに疑問符を付けてきた。


「どうかしました?」


「いや、何でもないけど」


「もしかして私がここまでやるなんて意外だ!なんて思ってます?ということは私はワッキーさんのメイドさんですねー」


「わ、分かったよ。手伝えば良いんだろ。それから僕はあんな胸毛濃くないから」


仕方なしにキッチンまで行く。

キツちゃんが洗剤つけて僕が水で流す。

こんな風景を端から見たら―――。


「私達、新婚夫婦みたいですね」


思わず滑って皿を三角コーナーに落としてしまったじゃないか。

もう一度洗わないといけないじゃないか。隣を見るときまぐれ猫のように試すような笑い方をするキツちゃん。


「もしかしてー?照れてますー?」

エイエイとエプロンもつけてないのに腰をこっちにぶつけてくる。

とんでもない子を預かってしまった。

まだ最初の方はいい。

それが後々にストレスとなってくる。

この子の両親が虐待をした原因のそれだったのかもしれない。

幸いながら僕は今まで人を殴ったことも無いし、喧嘩という喧嘩もしたことがないので

暴力なんかを与える気もない。

それは何故かと高校生の時に出した結論。

『人を支配することができない』

それを『溜息殺し』に話したときは腹を抱えてわらわれたっけ。

お前は低すぎると。


「どうしました?もう洗いものは終わりましたけど。最近、ナッシーさん、変じゃありません?私が話しているのにも関わらず前をボォーと観たりしてさっきもお皿を渡したのに手を水に浸しているだけでしたし…」


いつの間にか洗いものは終わっていた。

逆に迷惑をかけてしまった。

カツアゲのこととか、あの人から請け負った仕事とか、自分の弱さとかばかり考えてしまっていた。

ナッシーって。

僕は植物じゃない。

ここはお得意の言訳で済ませよう。

「ごめん」


「何で謝るんですか?謝る方は私です。多分、私がこの家に来たから色々ご迷惑を掛けてるんですから」


「そんなわけないじゃないか。僕はキツちゃんがここに来てくれて感激の極まりだよ。君が来るまでは独りだったし」


石鹸で汚れた手を蛇口から出る水で流す。

そう、独りだった。独りだった?でも、あの『溜息殺し』ともう一人ぐらい居た気もする。


「そうですか…。私もその気持ち少しわかります」


分かる?

こんな子に分かるものか。なんてまた怒りが襲ってきたが表には出さない。

窓の外を見る。

外はまだ橙色。この空気では少し間を置いた方が良さそうだ。


「あのさ、ちょっと疲れたから寝ていいかな?キツちゃんは?」


「私は先程、寝たので今はいいです」


遠慮なく寝室へ。

果たしてキツちゃんは僕の姿を見て何を想っただろう。そして何を感じ取ったんだろう。どこが痛かったんだろう。

その答えは――――。

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