第二話 空耳流し
第二話01 空耳流し <言槻千咲 編>
▼雨文
「ぽ、ぽ。すぅー。ぽとんっ」
そんな音を響かせて、
左眼から流れたそれを言葉と唄で流した。
鏡を指差した人間の口は歪んでいた。
それは、
私を嘲笑っているようにも
『わたし』を嗤っているようにも見えた。
だからって、
喜ぶ気にも
怒る気にも
哀れむ気にも
楽しむ気にもなれない。
人間はそんな私の顔を見て、
なにを吐いただろう。
なにを紡ごうとしただろう。
なにを流しただろう。
どう思ったんだろう。
溜息だろうか
言訳だろうか
空耳だろうか
人間は、
雨女に何も云わず離れて行った。
「ぱちぱち、ぽとり、ぽとん」
――――――――――――――――――
▼自宅
幸福の反対は不幸であるというが日常の反対はなんだろう。
人間生きていればそれなり日常に飽きてくる。
倫理の教科書に載っていた言葉を思い出した。
『世の中の大抵の事は我慢できるが幸福な日々の連続だけは我慢できない』
そんなことを寝起きの頭で考えていると眼が覚めた。
顔を洗うため洗面所に向かって歩く。
なんで自分の家に女の子が…?
「おはようごさいます。モンキーさん」
「あぁー…うん。おはよ。キツちゃん。ちなみに僕は猿じゃないからぁーふわぁぁぁぁぁー」
「大きな
朝っぱらから気分を害することを云わないでくれるか。
せっかくの目覚めが台無しだ。
櫛でも直らない寝癖なのか、手で押さえながらピンを口に咥えその部分を留めた。
「朝ご飯何か食べた?」
「はい、冷蔵庫に入ってたプリンパンを頂きました。あれ、おいしかったです。また買ってきてくださいね」
つい親みたいな台詞を口走ってしまった自分が恥ずかしい。
ってそのプリンパンは僕の朝ご飯なんだけど。
なんて言わずに「行ってらっしゃい」と告げた。
「行ってきます。ちなみに寝癖凄いですよ。ライオンみたい。あははー」
僕の髪を
こんな幸せな日々を過ごしているとさっきまで考えていた事が頭をよぎる。
『世の中の大抵の事は我慢できるが幸福な日々の連続だけは我慢できない』
本当の幸せってなんだろうなー。
なんて馬鹿を演じながら鏡の前に立ってみる。
あの子の言う通り髪は原型を留めてはいなかった。
ガオォー。
ライオンの真似をする。
鏡の前で変なことをしている自分がいた
恥ずかしい。
このままでは何処にも行けないのでシャワーを浴びることにする。
着替えを持っていく時、ふと、眼に付くものがある。
リビングの付けっぱなしのテレビが視界に入る。
ニュースがやっていた。
16歳の娘に家庭内暴力をした罪で疑いをかけられた加害者がパトカーに連れていかれる映像が見えた。続きを見ようとはせずリモコンで電源を落とした。
お風呂場に足を進める。
温かいシャワーを浴びて先日あった事件を思い出す。
この前、『溜息殺し』から頼まれた仕事。
カラオケ店を出た後、僕の家に帰ってキツちゃんを2階のベッドに寝かせた。
あの人は溜息を残して次の仕事だと赤い傘を持って出て行った。
どこに行ったのかは知らないし聞きたくもなかった。
これはキツちゃんが眼を覚ましてから聞いた話になる。
あの人に仕事を頼んだのは、キツちゃん自身ではなく両親の方だったらしい。
どうも本当に止めるのが怖くて、自分で歯止めが効かなくなったという。
誰かの介入が必要だったみたいだ。
何故、それをキツちゃんが知っていたかは訊いてない。
そこは、知らない方がいい。知らなくていいことだ。
こうして、あの子を救えたんだから。
――――――――――――――――――
閑話休題。
世の中、そんなに甘くは出来てなく、また厳しすぎることはない。
幸福の後に不幸があってこそ幸福の有り難みということが理解できて努力する。
不幸の後に幸福が来ることでそれはそれで楽しい。
もし、どちらか或いは、どちらもなければ有り難みも楽しみも感じることはできない。
両方あってこそ幸福と不幸の均衡が保たれる。
こんなことを常に考えている人を
変人。
キツちゃん達の目線で『僕ら』を見たら、そう思われるのは至極当然のこと。
逆に『僕ら』の目線でキツちゃん達を見れば、それは『普通』というカテゴリ。
そんな考えは頭の奥に置いておいてシャワーも浴びて髪をドライヤーで乾かすのに集中する。
もう鏡の前で遠吠えしの真似をしてもなんのモノマネにもならない。
お腹が空いたからリビングに行く。
キツちゃんが食べてしまった朝ご飯の代わりを冷蔵庫で探っているとテーブルにあったスマートフォンから無機質なメロディが流れてきた。
通知を見るとアラームだった。
今日は、何かをする日だっけと
『レポート提出』
液晶画面には、それだけ表示されていた。
レポートってなんだっけ?
焦ることもなく冷静な自分がいる。
即座に思い返す。
タッタッタ。
軽快な音を響かせて2階に上がる。
キツちゃんの部屋を通り過ぎて自分の部屋。
色んな紙が散らばった机の上。
その中の一枚を取り出す。
誰も居ないのに下手に冷静を装いながら白紙のレポート用紙にペンを走らせる。
レポートといってもそう難しいものではない。
資料に載っている文字や絵図を書き写すという小学生みたいに馬鹿にされたような容易なもの。
カンニング行為や読書感想文のようなもの。
そんな簡単な課題をド忘れしていた。
あの事件の事で精一杯でやらないで居た自分が情けに感じてくる。
自分が学生だという事を忘れたい。
まだ本調子じゃない頭脳で片付ける。
――――――――――――――――――
▼雨文
「ぱちぱち、ぽとり、ぽとん」
一人になった私はあの『私』を想起していた。
見覚えのある誰かと共に居た『私』を。
あんなふうに楽しく人と時間を共有できていたのはいつ頃の話だっただろう。
もう、あの頃に戻りたいとは思わない。
戻りたくはない。
いや、戻ってしまわないように今を我慢しないといけない。
もうあんな間違いを、過ちを、罪悪を犯さないために。
「?SsEnIpPaH yLnO gNiRb YlLaEr SsEnIpPaH eHt SeOd」
訳の分からない言葉。
幸せとはなにか。
そう問われている気がした。
悩みに悩んだ末えに雨女は結論を出す。
黒ずんだ左腕から自ら赤い雫を垂らした。
「ぴちょ、ぴちっ、びたっ」
――――――――――――――――――
▼
自販機が一台しか無い校舎に入る。
レポート用紙を『ひげじい』という安直なあだ名を付けられている教授に渡す。夏休みが待ち遠しい中学生の気分を味わいつつ、情報科と調理科を結ぶ長い渡り廊下で今時珍しいものを目撃した。
カツアゲ。
なかなか見れる機会なんて無いだろうと興味心から見学させてもらうことにした。
加害者3名、被害者1名。
どちらも男だった。
被害者は加害者に必死に抵抗しながら、3人という複数人には勝てる見込みがないことを悟ったらしく財布から一万円札を出した。
それを、ぐしゃっと掴まれる。
加害者たちは「ふんっ」とか「ちっ」とかぼやきながら被害者に一発ずつ蹴りをお見舞いした。
しまいには調子に乗ってる若者と常識が欠けたおじさんがよくやる行為、唾吐き捨てをして去って行った。
被害者はうなだれて膝を付いた。
涙眼になってるように見える。
ドラマならばそこに人望が熱い女の子が駆けつけて「大丈夫?」なんて声をかけるのが定番。
そんな理想など単なる妄想にしかならない。
僕は、傍観者になった。
さっきの行為を噛み締めながら帰路を歩む。
あの『溜息殺し』ならきっとこう言うだろう。
『理想は常に醜悪な現実しか生まない』
▼自宅 主人公視点
学校から帰ってドアノブを捻ると何故か開いていた。
玄関には僕の知ってる革靴が一足、綺麗に並び揃えられていた。
この事実だけでキツちゃんが居ると確証できる自分が居る。
こんな感じでいいのかな、とも不安を覚える。
何故こんな平日の真っ昼間にキツちゃんが居るのか。
早退でもしたのかと例のおまじない【第一話 言訳紡ぎ <久槻月深 編> 参照】をやっている子に訊く。
「この通り私は元気です。ただ授業が午前中で終わっただけです。なんでも不審者がうろついているらしくて」
不審者?
それくらいで授業を切り上げるほど程の問題か?
僕だってついこの前、不審者扱いされたけどそんなに慌ててるようには見えなかった。
おまじないで元気を得た小娘は眼を細めて僕の顔をじぃぃと見てくる。
凝視。
「なに?」
「まぁその分、宿題を出されましたが。ですから教えてください。仮にも学生なんでしょう?」
「僕はキツちゃんの家庭教師でこの家に引き取った覚えはないんだけど」
「それを含めてここに来たんですけど!」
またびっくりする怒鳴り。
怒りっぽく顔を近づけてきた。
反抗期?
確かにムカッとはくるがそれぐらいは理性でどうにかなる。
こういう些細なことから親子喧嘩というのが生まれるんだろう。
そして虐待へ…。
考えていると不安そうな表情に変わる。
「何か言ってください。こっちの身が持たないです」
どうやらさっきの発言は冗談だったらしい。
人はよく分からない時に嘘を吐くものだとあの人は言ってたっけ。
眼を細めて、眉毛を「へ」の形にして顔を傾けてくる。
「あのぉ、聞いてますかー?」
「あ、ごめん。で、なんだっけ?」
「今から宿題をしますので邪魔をしないでください!」
ドンっ!ドンッ!
わざとらしい足音を立てながら階段を上がっていく。
やっぱり怒ってる。
まぁ若い内は熱くなるのも早く冷めるのも早い。
この前のカラオケの時だってそうだった。
だから特に何か言うことはしない。
『うちはうち、よそはよそ。そのよそもうちに入る時が来る』
『溜息殺し』がそう言っていた憶えがある。
さて、何をしようかと考える。
キツちゃんの言ってた不審者の話とさっき見掛けたカツアゲのことが頭をよぎる。
それを間のあたりして助けようとする人は見たことがない。
実際には見てみぬ振りをする。
それは知らないほうが身のためだということ。
『知りたいことを知ろうとすると知りたくないことまで知らなくちゃいけなくて、知りたくないことをそのままにしておくと知りたいことが知れない』
何処かで聞いた言葉を思い出す。
人はそうやって知りなくないことまで知りながら生きて行くしかない。
少し被害者の彼に同情した時、時計の針が全て重なった。
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