第16話 許嫁か? 元カノか? それが問題だ
僕はレコーダーからDVDを取り出してアンナさんに渡す。
「ありがとうございました。お陰で見ることができました」
「いいえ。どうでした?」
「女の人は結婚式場に現れた元カレに連れ去られて嬉しいんですか?」
別れた元カレがいきなりやってきて、式場から攫われてしまって果たして嬉しいものなのだろうか。
「本当に愛している人がそこまでしてくれたんなら、私なら嬉しいと思います」
アンナさんが真っ直ぐ僕を見つめた。
「なるほど」
「樹里さんという人と隆司さんはどういう関係ですか?」
「どどど、どうしてですか?」
突然、樹里の名前が出てきたので、びっくりして言葉が上手く出てこない。どうしてアンナさんが樹里のことを知っているんだ。
「この間、隆司さんに学校へ連れていってもらったときに、女の人が私のことを『樹里かと思った』って言ってましたので、隆司さんと親しい人なのかなって思ったんです」
渡辺さんの声が聞こえていたのか。なんと説明しよう。まさか元カノですと言うわけにはいかないし。アンナさんはじっとこっちを見ている。
「友だちです」
僕は嘘をついた。心苦しいが、ほかに言いようがない。
「樹里さんにこの映画を薦められたんですか?」
「そうです」
「近所に住んでいるんですか?」
アンナさんの声が心なしかいつもより尖っているような気がする。
「いいえ。今はアメリカです」
「そうですか」
アンナさんはなぜかDVDのケースをじっと見つめていた。
しばらくすると、アンナさんが顔を上げた。
「明後日には、アメリカに帰りますので、『明日お返事をいただけませんか』と父が言っていましたが、いかがでしょうか?」
「分かりました。両親にも伝えておきます」
「こちらからお迎えにあがります。時間はまた後ほどご連絡していただけますか?」
「はい。その前にもう一度確認していいですか?」
「どうぞ」
「アンナさんは本当に僕でいいんですか?」
自分で言うのもなんだが、僕とアンナさんじゃ全然釣り合わないと思う。アンナさんはお嬢様だし、頭もよく性格もいい。僕なんかにはもったいないすぎる。
「はい」
アンナさんは静かに頷いた。
「探偵の報告書だけで決めたわけではありません。実際に会って隆司さんはすごく優しい方だと思いました。父はたくさんの社員を見てきた人です。その父が隆司さんのことを高く評価しています。自分の感じたことと父の目を私は信じます」
「そうですか」
そこまで言われるとなんか照れてしまう。アンナさんはこんなに僕のことを思ってくれているんだ。今、プロポーズをしたら、必ずOKしてくれる。こんな素晴らしい人は二度と現れない。
頭では分かっていたが、僕にはできなかった。
「では、失礼します」
アンナさんが頭を下げる。
「お邪魔いたしました」
キッチンの母さんにも丁寧に頭を下げた。
「なんのお構いもできなくてごめんなさいね。隆司、送って行きなさい」
「うん」
僕もアンナさんと一緒に外に出ようとした。
「迎えが近くの大通りに来ているはずですから大丈夫です。失礼します」
アンナさんはもう一度頭を下げると、帰っていった。
夕食のときに、父さんと母さんに明日返事をしにアンナさんたちの泊っているホテルに行かなければならないことを話した。
「まずいな。明日はどうしても仕事の都合がつかないんだが……」
お父さんの顔が渋くなる。
「別にいいわ。私と隆司で会いに行くわ」
「すまんな。母さん、頼むよ。隆司、自分の気持ちに正直にな。母さんとよく相談して決めるんだぞ」
「大丈夫よ。きっと上手くいくわ。午後1時にお伺いしますってアンナさんに言って」
僕の意見も聞いていないのに母さんが自信ありげに言う。
どこからくるんだその自信は?
本当に母さんのことがよく分からない。
僕は自分の部屋に戻ると、アンナさんに電話をして、ベッドに寝転んで考えた。
結婚するなら絶対にアンナさんだ。穏やかで優しく礼儀正しい。その上、実家は金持ちだ。アンナさんのお父さんも本当の実力以上に僕を評価してくれている。さらに、アンナさんは僕の許嫁で結婚してもいいと言ってくれている。
100人に聞いたら、100人がアンナさんと結婚するだろう。樹里なんか比べものにならない。
でも、僕は悩んでいる。
樹里は気が強くって、がさつだ。
だけど、僕に毎日お弁当を作ってくれたり、渡辺さんたちに囲まれたときに助けに来てくれた。お兄さんに殴られたときも謝ってくれ心配もしてくれた。それに僕のことを愛しているとまで言ってくれた。
僕も樹里のことをいつの間にか好きになってしまっていた。なんで樹里なんか好きになったんだろう。アンナさんに先に会ってたら、樹里を好きになることなんて絶対なかったのに。
だが、樹里はもうフィアンセと結婚しているかもしれない。もう遅いかも。
でも、樹里はあの『卒業』という映画を僕に薦めた。それはフィアンセから奪い取りに来てくれという意思表示なのだろうか。それとも、単に気に入った映画を僕に薦めただけだろうか。
もし、前者だったとしてもアメリカのどこにいるのか分からない樹里をどうやって探せばいいのだろうか。
僕は一日中悶々として眠れなかった。
朝方になってうとうとしていると、母さんの声が聞こえた。
「隆司、いつまで寝ているの。早く起きなさい」
うっすら目を開けると、気合の入った化粧をした母さんの顔が僕をのぞき込んでいた。
「母さん、気合入っているね」
「当り前よ。逃がした魚は大きいと思わせなくちゃ」
母さんが微笑んだ。
「……」
僕はあきれてものが言えなかった。母さんは自分が勝手に逃げたということを忘れているんじゃないの。
もう昼前になっていたので、僕は顔を洗い、遅い朝食のような昼食を食べた。
「母さん、今日のことだけど……」
僕は自分の考えを言おうとした。
「言わなくても大丈夫よ。分かっているから」
「えっ、どうして分かるの?」
「隆司の母親だもの。分かるわよ」
「そう?」
本当に大丈夫かな。母さんは天然っぽいから少し心配なんだけど。
僕はご飯を食べ終わると、不安に思いながら出かける用意をした。
僕が着替えを終わるのを待っていたかのように、玄関のチャイムが鳴った。
門のところに出ると、ブラックスーツを着た60近い感じの男の人が立っていた。門の前には長いリムジンが止まっている。
「お迎えに参りました」
「あっ、はい」
家の前の道は狭いのにリムジンが停まっていたら邪魔になると思い、母さんを呼びに行こうとすると、ちょうど母さんも出てきた。
「あら、岡田さんじゃない」
母さんが男の人を見て懐かしそうに言った。
「お嬢様。お久しぶりでございます」
お嬢様? 誰が?
「母さん、知り合い?」
「学校に車で送り迎えしてもらってたって言ったじゃない。その時の運転手さんよ」
あの話本当だったの?
「お嬢様。お迎えに上がりました」
岡田さんが母さんに頭を下げる。
「もう、お嬢様はやめて。わたし、もうすぐ50よ」
「何をおっしゃいます。まだまだお若いです」
「じゃあ、あなたが迎え?」
「はい。今は高津様のところで働いています。どうぞ」
岡田さんがリムジンのドアを開ける。
僕と母さんを車に乗せると、岡田さんはどこかに電話をした。
「今、お会いできました。はい。30分ぐらいで、そちらに到着すると思います。はい。分かりました。では」
どうやら電話が終わったようだ。
「では、出発します」
岡田さんがドアを閉め、しばらくするとリムジンが静かに動き出した。
リムジンの中はすごく広い。二列シートが向かい合わせになっていて、シートとシートの間には床に固定された小さなテーブルまで付いている。テーブルがあっても足元は十分ゆったりとしており、母さんと向かい合わせに座っても全然狭く感じない。
シートもフカフカして、いかにも高級車という感じだ。
走っているのに車はほとんど振動がない。やっぱりいい車は違うな。
テーブルの上には、数本のオレンジジュースの瓶とコーラの缶とグラスが二つ置いてあり、個包装されたクッキーが皿に盛られている。
「隆司、何飲む?」
母さんは自分のグラスにオレンジジュースを入れて飲みながら、クッキーを食べている。
「このクッキー美味しいわよ」
すっかり寛いでいる。
僕なんかこんな高級車に乗ったことがないから緊張しているのに。
さすが元お嬢様。
「でも、高津さんって、母さんのところの養子になる前の旧姓じゃないの?」
「アメリカ国籍を取得して、登録するときに旧姓の高津に戻したって、手紙に書いてあったわ」
母さんの旧姓はなんだったっけ。
「銀座だわ。久しぶりに来たわ」
外の風景を見ていた母さんが呟いた。外を見ると日比谷公園が見えてきた。
車は日比谷公園が見えると、ホテルの敷地へと入っていき、玄関の車寄せに停まった。
蝶ネクタイをして、燕尾服を着たホテルの従業員がドアを開けてくれる。
僕が降り、母さんが降りると、アンナさんが近づいてきた。
「今日はわざわざお越しいただきありがとうございます」
「いいえ」
母さんが返事する。
「父と母は部屋でお待ちしています」
アンナさんの案内でホテルの中に入ると、1階ロビーにあるフロントの前を通り過ぎ、その奥にあるエレベーターに向かう。
ホテルのスタッフの人が「△」のボタンを押してくれた。エレベーターが来て、アンナさんは乗り込むと、カードを階数ボタンの下のところに当てると、当該階数のボタンが点いた。
すごいシステムだ。初めて見た。
当該階に着くと、アンナさんが「開」のボタンを押して母さんを先に降ろし、僕にも「どうぞ」と言う。僕はアンナさんの代わりに「開」のボタンを押して先に降りてもらう。
「ありがとうございます」
アンナさんが軽く頭を下げて降り、続いて僕も降りた。
エレベーターホールには客室とエレベーターホールを隔てるように自動ドアがあった。
アンナさんは自動ドアの前のカードリーダーのようなものにカードをかざすと、自動ドアが開く。
さすがに一流ホテルは違う。不審者が客室に入れないようにセキュリティ対策しているんだ。
中に入ると、小さなフロントのようなところがあり、着物を着た女性のスタッフがいた。
「おかえりなさいませ」
スタッフの人がにこやかに挨拶をしてくる。
「高津ですが、お願いしてあった紅茶とケーキを持ってきていただけますでしょうか」
「承知いたしました。すぐにお持ちしますのでお部屋でお待ちいただけますか」
「よろしくお願いいたします」
アンナさんが長い廊下を歩き出す。左右にいくつかのドアがあり、一つのドアの間に立つと、カードをかざした。
カチャッと音がして、アンナさんがドアを開けた。
「どうぞ」
アンナさんに言われて、母さんに続いて中に入る。
中は、かなり広い部屋でローテーブルを挟んで二人掛けのソファーが向かい合わせにあり、片方のソファーに高津さんと詩織さんが座っていて、その隣に一人掛けのソファーが置いてある。
どこにもベッドがない。家族で泊ったことがあるホテルの部屋はベッドと申し訳程度の応接セットみたいなソファーとローテーブルがある部屋にしか泊ったことがない。
隣に通じるようなドアが見えるから、隣がベッドルームか。だとするとこの部屋はスイートだ。こんな一流ホテルのスイートってどれぐらいするんだろう。
「どうぞお座りください」
高津さんが自分の前のソファーを指す。
「遅くなってすみません」
母さんが立ったまま挨拶をする。僕も母さんの横に立って頭を下げる。高津さんと詩織さんも立ち上がる。
「いえいえ。こちらこそお呼びだてして申し訳ありません」
「夫は仕事の都合で参ることができませんでした。申し訳ありません」
「それは残念です。もう一度お話をしたかったんですが」
高津さんが残念そうな顔をする。
「どうぞ、お座りください」
詩織さんに言われて、僕と母さんは並んで二人掛けのソファーに座り、アンナさんは一人掛けのソファーに座る。
「隆司から、明日、アメリカにお帰りになると聞いたんですが」
「ええ。明日の夜の飛行機で帰ります」
高津さんが頷いた。
「そうですか。何時の飛行機ですか。主人と一緒にお見送りに行かさせていただきます」
「何時だったかな。あとで確かめてアンナに電話させます」
チャイムの音がした。アンナさんが立ち上がってドアを開ける。
「紅茶とケーキをお持ちしました」
先ほどの着物を着た女性スタッフがケーキと紅茶の乗ったワゴンを押しながら入ってきた。それぞれの前に紅茶とケーキを置いていくと、女性スタッフが出て行った。
「隆司君。アンナとのことはどう考えていますか?」
高津さんが単刀直入に聞いてきた。
僕は母さんの顔を見た。
「私に遠慮することはないわ。隆司が思った通りに言いなさい」
いつものふわっとした言い方ではなく、母親らしい態度だ。
「アンナさんはお淑やかで、礼儀正しくって、僕にはもったいないぐらいの素晴らしい女性です。ただ……」
アンナさんのような優しくて淑やかで穏やかな人が理想の女性だった。
でも、今は……。
「ただ、何かね」
高津さんの顔が難しくなる。
「僕には好きな人がいます。つい最近まで付き合っていました。その子のことがどうしても忘れられないんです」
一気に言った。これが僕が一晩考えて出した結論だった。
「ほう。そんな子がいらっしゃるとは」
「アンナさん、ごめんなさい。僕は嘘をついていました。石野樹里は、友だちではありません。僕のカノジョでした」
僕はアンナさんに頭を下げた。アンナさんは何も言わずに僕を見つめている。
「『でした』というのは、今は違うということかね?」
高津さんが聞いてきた。
「樹里には婚約者がいます」
「では、別れたということではないのかね」
「たぶんそうです。でも、諦めきれないんです。今、アメリカにいるその子が結婚したことをこの目で見るまでは……」
ひょっとしたら樹里は僕が奪いに来るのを待ってくれているのかもしれない。あの映画のように。
「しかし、その子が結婚していたからといって、アンナと結婚したいと言われてもそれはできない相談だが……」
「いえ、そんなことは言いません。アンナさんとのことはお断りします」
「うーん。その子のほうがアンナよりもいいということかな」
「樹里はアンナさんと違って、がさつで、口が悪くて気が強いし、すぐ怒るし、どうして好きになったか分かりません。でも、好きになってしまったんです」
僕は応えた。樹里が聞いたら怒るだろうな。
「ふーむ。そうですか。その子はアメリカのどこにいるのかな? 連絡先とか分かっているのかな?」
「分からないんです」
「分からない? それでは探しようがないと思うんだが」
「樹里が連れて行ってくれたフレンチレストランは家族の方も常連みたいだったので、そこで何か分からないかと思っているんです」
樹里が連れて行ってくれたフレンチレストランはお兄さんが予約してくれてたし、スタッフの人は樹里のことをよく知っているようだった。
「なるほどね」
高津さんは何か考えているような顔になった。
「ごめんなさい。アンナさん。隆司はアンナさんの方より樹里ちゃんの方がいいみたいなの」
母さんがアンナさんに向かって言った。
その言い方なんかおかしくない?
「……」
アンナさんは俯いてしまって何も言わない。
「もし、その石野樹里という子が隆司君と結婚したいと言ったら、結婚させるおつもりがあるということですか?」
今まで黙っていた詩織さんが初めて口を開いた。
「はい。隆司がその気みたいですし、私も主人も樹里ちゃんなら隆司の嫁になってもらってもいいと思っています」
「そうですか」
詩織さんは黙って、アンナさんの方を見た。アンナさんは下を向いたままだ。
「アンナさん、すみません」
僕はアンナさんに向かって頭を下げた。
「隆司君がそういう気持ちなら仕方ありません。アンナとのことは諦めます。だが、隆司君がアンナと結婚した時に、お譲りすると約束した財産の一部は受け取ってください」
高津さんが母さんの顔を見る。
「それはできません」
「どうしてですか? 澤田様と私は義理とはいえ、きょうだいです。それに澤田様の方が実子です。遺産を相続する権利があります。澤田様の当然の取り分です」
「私は実家から勘当されています。それに、両親が亡くなったときに、相続放棄の手続きも済ませています。高津様からいただくものは何もありません」
母さんは毅然として言い放った。
親を捨て、財産も捨てて、父さんとの愛を取った母さんの強さを見たような気がした。
「頑固な方だ。残念ですが、仕方ありませんな」
高津さんは母さんと握手した。
「アンナさん、本当にすみませんでした」
僕はもう一度アンナさんと詩織さんに頭を下げた。
アンナさんは顔を上げずに肩を揺らしている。
泣いているんだろうか。
今、気づいたが、アンナさんの肩が揺れるたびに宝塚を観に行ったときにも付けていたピアスが耳で揺れていた。
「では、失礼いたします」
母さんが挨拶して部屋を出て行く。僕も高津さんたちに頭を下げて、母さんの後をついて出た。
ホテルの玄関の前に、行きに乗ったリムジンが待っていて、帰りも送ってもらった。
リムジンの中では、僕も母さんもずっと無言だった。
さすがにリムジンで家の前まで行くのは近所の目もあるので、近くの道路で降ろしてもらった。
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