第17話 断ったはずの許嫁が僕に会いに来た

 家に帰ると僕は母さんに頭を下げた。

「母さん、ごめんなさい」

「いいのよ。樹里ちゃん、キレイだし、面白いもんね」

 母さんはなんでもないように言う。でも、母さんの本心だろうか?

 夜、家に帰ってきた父さんにも謝った。

「お前の一生だ。父さんや母さんに気兼ねする必要はないよ」

 父さんも母さんも優しい。

 翌日、父さんと母さんは高津さんを見送りに行ってくれた。

 だが、謝りに行ったはずが、父さんは上機嫌で帰ってきた。母さんも楽しそうにしている。

「高津さんはすごくいい人だね。これからも親戚付き合いをしたいと言われたよ」

 そうか。高津さんは母さんと同じ一族だもんな。

 そうなるとこれからもアンナさんと会う機会があるのか。

 なんとなく気が重いな。


 4月になり、僕は大学生になった。

 大学生活には、なかなか慣れず、苦労したが、5月の連休明けには少し慣れてきて、少ないが友達もできた。

 5月の終わりになると、僕はバイトをするようになった。ずっとしたかった書店のバイトだ。

 レジをしたり、新しく送られてきた本を並べたり、期間の過ぎた本を送り返したり、店内を掃除したりとかなり忙しい。

 コンビニでバイトをした経験が多少役に立つ。

 高校の時の図書委員と違い、本を読む暇はないが、本に携わる仕事ができて嬉しかった。

 バイトでもらったお金は昼食代や本代、滅多には行かないが友達との飲食代に使い、残ったお金は貯金した。樹里に会いに行くための貯金だ。

 あの『卒業』の映画のラストを見る限り、二人があの後幸せに暮らしたとは思えない。続きがないのか調べたら『卒業PARTⅡ」という題名で本が出版されていることを知ったので、図書館で借りて読んでみた。

 二人は結婚していて、子供も生まれてハッピーエンドではないが、それほど悪い終わり方でもなかった。

 僕と樹里が小説のようにいくかどうかは分からないが、どうしてももう一度樹里と会いたい。

 僕は初めてのバイト代をもらった時、両親と一緒に樹里が連れて行ってくれたあのフレンチレストランに行った。

 本当は紹介者がいないとダメなんだそうだが、樹里と一緒に来たことがあるのをスタッフの人が覚えていてくれて特別に入ることができた。

 さらに図々しくも、もし樹里のお兄さんが来たら、僕が樹里に会いたがっていると伝えてもらえないかと頼んだ。

 スタッフは最初は渋っていたが、最後は根負けして、樹里のお兄さんが来たら伝えるだけは伝えてくれると言ってくれた。


 スタッフの人からなんの連絡もなく、やはり無理だったかと諦めかけた夏休みも終わろうかとする9月の終わりに思いがけない人が僕の家を尋ねて来た。

 バイトが終わり、家に帰って、玄関に入ると、母さんと女性の笑い声が聞こえてくる。

 玄関に黒いハイヒールがある。

 誰だろうと思い、ダイニングに入ると、腰まである黒髪の女の人の後姿が目に入った。

「あら、隆司、お帰り」

 母さんが言うと、その女性が振り返った。

 高津アンナさんだ。

「アンナさん、どうしたんですか? 日本にはいつ?」

「昨日、日本に来たところです」

 相変わらず綺麗なソプラノの声で囁くように言う。

 父さんが親戚付き合いをするようになったと言ったから、また会うことはあるだろうと思っていたが、こんなに早く会うことになるとは思ってもいなかった。

「せっかく、アンナさんが来てくれたから腕によりをかけて、夕食を作るわ。ちょっと買い物に行ってくる。あと、お願いね」

 母さんは買い物に行ってしまう。

 母さん、ひどいよ。2人っきりにするなんて。

 アンナさんは俯いて何も喋らない。

「アンナさんは何かご用事で日本に来られたんですか?」

 沈黙に耐えかねて僕は口を開いた。

「はい。隆司さんが私に会いたがっていると聞いて会いに来ました」

 囁くような小さな声だったので聞き間違いかと思った。

「僕が? アンナさんにですか?」

 アンナさんは頷く。僕はそんなことを言った覚えがない。

「誰から聞いたんですか」

「お父様が『Avec Plaisir』の店長に隆司さんが何か言ってきたら、兄に連絡してくれるように頼んでいたら、兄から隆司さんが私に会いたいと言っていると、連絡があったんです」

「ええー?」

 どうして、アンナさんのお父さんがあのフレンチレストランの人にそんなこと頼んだんだ? それに僕はアンナさんのお兄さんを知らない。どうして店のスタッフはアンナさんのお兄さんにそんなこと言うんだ。

「なにかの間違いでは? 僕はそんなことを言っていません」

「隆司さん、ひどいわ。私のことを忘れられない。結婚したいって言ったじゃないですか。私を抱きしめて離したくないって言っていたのに。ひどい」

「そんなこと……」

 僕は頭がおかしくなったのだろうか? アンナさんにそんなことを言った覚えも抱きしめた記憶もない。アンナさんたちがアメリカに帰る前日に、はっきりと断ったはずだ。それともあれは夢だったのか?

「ウフフ。まだ分からないんですか」

 アンナさんがニコニコ笑いながら顔を上げた。

「何がですか?」

「私が石野樹里です」

「えっ。何の冗談ですか」

 僕は信じられない思いで、アンナさんの顔を見た。

「冗談ではありません」

 アンナさんは真剣な顔をしている。

「でも、顔が全然違う」

「樹里の顔を詐欺メイクだって言いましたよね。薄化粧はしているけど、今の顔が本当の顔です」

「でも、性格も全然違う」

 アンナさんはすごくお淑やかだった。

「私は中学のときに演劇をしてたって言いましたよね。劇でいろんな役をしているうちに、色々な性格の人を演じることができるようになったんです。劇のためのメイクを自分でしているうちにいろいろなメイクの仕方も覚えました」

 つまり、アンナさんは石野樹里という役を演じていたっていうことか?

「でも、名前は?」

 学校では偽名や役名は使えないでしょう。

「私は二重国籍なんです。アメリカでは、アンナ・ジュリー・タカツで、日本では石野樹里が正式な名前なんです」

 そういえば、アンナさんはアメリカで生まれたようなことを母さんが言ってたな。

「じゃあ、僕を騙してたんですね」

 許嫁だということを隠して、顔や名前を変えて、僕に近づいてからかって楽しんでいたんだ。

「そんなつもりはありませんでした」

 アンナさんは申し訳なさそうな顔で僕を見た。

「じゃあ、どうして?」

「父が雇った探偵の報告書は見ました。でも、表面ではまじめで大人しくても裏では、態度が変わる人がアメリカにはたくさんいます。隆司さんがそうではないと言いきれません」

「……」

 そういう人は日本にもいる。

「だから、隆司さんが本当はどんな人か知りたくて、多分嫌いな性格じゃないかなあと思う樹里という気の強くて、自分勝手な女の子を作り上げて、その役になりきって隆司さんがどんな態度をとるか見てみたんです。ごめんなさい」

「つまり、僕が本当はどんな人間か試したっていうことですね」

「そうです。隆司さんは、あんな樹里にでも優しく接してくれました。本当にやさしい人だと思いました。本当にごめんなさい」

「なるほど」

 アンナさんの気持ちがわからないでもない。いきなり許婚がいるから結婚しろと言われてもどんな人か分からないと不安だもんな。僕自身もそうだった。

「でも、樹里とアンナさんが同じ人だとはとても信じられません」

 それにしてもあまりにも樹里とアンナさんでは顔も性格も違いすぎる。いくら演技だと言われてもすぐには信じにくい。

「どうしても信じてもらえないんですね。メイクをしてきます。隆司さんは私より樹里のほうがお好みみたいですし」

 アンナさんが少し怒ったような目で僕を見たような気がした。

「いや。まあ……」

「申し訳ありませんが、洗面所を借りていいですか?」

「どうぞ。使ってください」

 僕はアンナさんを洗面所に案内する。

「30分ぐらいかかりますけど、待っていただけますか」

 アンナさんは今にも消え入りそうな声で話す。

「大丈夫です」

 僕が言うと、アンナさんは安心したように小さなポシェットを持って洗面所に入っていった。

 本当にアンナさんが樹里に変わるのだろうか?

 着替えをしてアンナさんが戻るのをダイニングで待った。

 アンナさんが洗面所に行って30分ぐらい経った。


「隆司、どう?」

 声の方を見ると、樹里が立っていた。僕は声も出ない。

 アンナさんの言うことは本当だったんだ。

「口が悪くて、気が強くて、すぐ怒る樹里よ。会えて嬉しい?」

 樹里が怒ったような顔をしている。高津さんたちに言ったことをひょっとして根に持っている……よね。

「嬉しいよ。でも、酷いよ。ずっと僕を騙して。婚約者がいるとか嘘を言って」

 樹里は僕が自分の許嫁だと知っていながら、別の人物になりすまして僕を騙していたんだ。その上、婚約者がアメリカにいるなんて嘘をついて僕をからかったんだ。

「隆司が鈍いだけよ。わたしが許嫁だって分かるヒントをあげてたのに気づかないんだもん」

「ヒント?」

「アメリカにお兄ちゃんがいるって言ったし、英語が喋れることも教えてあげたし、そもそも許嫁じゃないと、隆司と付き合おうと思うわけないじゃない。それにアンナで戻ってきたときに、チイちゃんや真紀は気づいていたみたいだし」

 樹里が大笑いをする。

 そうか。アンナさんが樹里だと気づいていたから、チイちゃんはアンナさんに抱きついたんだ。真紀もアンナさんを見て、『樹里かと思った』って言ってたし。

「あの時は、隆司にもバレているのかと思ったわ」

「悪かったね。ああそうですよ。鈍いですよ」

「そんなに拗ねないの。本当のことだから」

 樹里は傷口をさらにえぐるようなことを言う。

 アンナさんの時とは大違いだ。

「それに婚約者がいるのは本当よ」

「やっぱり」

 ガックリする。どんな婚約者か知らないが、誰であれ僕が勝てるわけがない。

「何落ち込んでるの。婚約者って、隆司のことに決まっているでしょう」

「僕?」

 樹里の言っている意味が分からない。

「他に誰がいるのよ。パパが決めた婚約者って、許婚のことでしょ。全然イケメンじゃないし、カッコ良くもないけど、優しい人って言ったじゃない。隆司のことに決まっているでしょう」

「イケメンでなく、カッコ悪くてごめんね」

「アンナに戻って会った時も隆司がくれたピアスをつけて行ったのに全然気付かないんだもん。笑っちゃったわよ」

「そうなんだ」

 あのアンナさんの耳で揺れていたピアスは僕が贈ったものか。どおりでよく似ていたはずだ。

「それに最後に一緒に帰った時、『また会いましょう』って言ったでしょう」

「そんなこと言った?」

 母さんに聞いたら、「さようなら」って意味だと言ってたけど。

「言ったわよ。“Au revoir”はまた会いましょうっていう意味の『さようなら』よ。二度と会わないんなら“A dieu”よ。常識でしょう」

 そんな常識知りません。

 でも、樹里とまた会えて嬉しい。もう樹里を離したくない。


 しばらくすると、母さんが買い物から帰ってきた。

「あら、樹里ちゃんになったの?」

 樹里の顔になっているアンナさんを見ても母さんは驚かない。

「うん。おばさん」

「母さんは樹里がアンナさんだって気がついていたの?」

「最初に会った時から気づいてたわ」

「嘘? どうして分かったの?」

「だって、樹里ちゃんの苗字『石野』でしょう? 『石野』は私の実家の苗字よ」

「そうだったっけ」

 母さんの旧姓を聞こう聞こうと思って忘れていた。

「そうよ。それになんとなく私の一族の雰囲気があるし、英語が喋れるからたぶんそうだろうなと思ったのよ」

「どうして教えてくれなかったの?」

「間違ってたら嫌だったし、隆司がいつ気付くかなと思って見てたんだけど、全然気付かないから笑ちゃったわ。それより樹里ちゃんにプロポーズしたの? 結婚したいんでしょう?」

 母親なのに、よく息子を笑えるな。

「まだしてもらってないわ」

 樹里が期待のこもったような目で僕の顔を見る。

 母さんの前でするのか? 

「樹里、結婚してください」

「いやよ」

 即座に断られた。

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