第15話 許嫁と勝気な元カノジョに言われたDVDを見た
しばらくすると、幕が上がり、劇が始まった。
演目は『ファントム』。原作は『オペラ座の怪人』だ。
怪人ファントムはまだ駆け出しの新人女優の歌声に惚れ込み歌のレッスンをして、一流の女優にしようとする。
だが、その才能を妬んだ劇場の支配人の妻である劇団のプリマドンナが新人女優に毒を盛り、声を出なくして、舞台で大失態を演じさせる。
そのことを知ったファントムはプリマドンナを殺してしまう。
最後は警察官に囲まれたファントムを実の父親がピストルで撃ち、新人女優の歌声を聴きながら、息絶えていく。
初めて宝塚歌劇を見たが、感動した。女役の人が綺麗なことはもちろんだが、男役の人はとても女の人が演じているとは思えず、僕なんかよりもはるかに男らしいし、男の僕から見てもカッコいい。
劇の後にあるフィナーレというものも大きな羽飾りを付けた男役の人を中心に歌やダンスをするのだが、本当に華麗という言葉がピッタリに思えた。
男役の人の人気がすごく、追っかけがいるというのも頷ける。
終演になり、横に座っているアンナさんを見ると気分が高揚したようで、目を大きく見開いて拍手をしていた。
劇場を出ると、僕はお腹が空いていた。
時計を見ると、もう6時30分。
「何か食べに行きませんか?」
アンナさんもお腹が空いているのではないかと思って、聞いてみる。
「そうですね……」
アンナさんは自分の時計を見た。
「少し待っていただいていいですか」
アンナさんは立ち止まり、携帯電話をカバンから取り出してどこかに電話をした。
「アンナです。今、終わりました……。はい……。はい……。分かりました」
アンナさんが電話を切ると僕を見た。
「母が、よろしければご一緒に夕食をいかかですかと言っていますがどうでしょうか?」
「いいですけど……」
どんなところで食事するんだろう。
「では、ホテルまで戻りましょう。ホテルのレストランで夕食にすると言っていますので」
「分かりました。ところでチケット代をまだお支払いしていなかったんですけど、おいくらですか」
母さんが家を出る前に1万円を渡してくれたが、チケット代と食事代が足りるか心配になってきた。超一流のホテルだから食事代も高いだろうし。
「いいえ。いりません」
アンナさんが首を横に振る。
「そいうわけにはいきません。受け取ってください」
いくら許嫁でもチケット代を出してもらうわけにはいかない。
「母と一緒に行くつもりで、父の知り合いに頼んでチケットを取ってもらったので、私はチケット代がいくらか知りません。父か母に聞いてください」
「はあ、そうですか。分かりました」
アンナさんは詩織さんと行く予定だったんだ。だから、詩織さんが誘ってくれた時、変な雰囲気だったのか。
ホテルに戻ると、1階ロビーを抜けた正面にある階段の方にアンナさんは歩いて行く。
「すみません。2階ですので階段でよろしいでしょうか?」
アンナさんが正面の階段の前に立ち止まった。
「いいですよ」
たしか、Tホテルのフランス料理って有名人もたくさん食べにきたところだよな。マナーとかうるさいんだろうな。どうしようちゃんとできるかな。
大丈夫だ。樹里と一緒にフランス料理を食べに行ったとき、マナーをそれとなく教えてもらった。そのあと、自分でインターネットで調べた。出来るはずだ。
だが、ホテルに入ると、緊張してガチガチになってしまい、顔が引き攣り手と足が一緒に出てしまう。
2階に上がり、左のほうに行くと、フレンチレストランがあった。アンナさんは案内するように僕の前を歩いて、店の前に着く。
「高津です」
アンナさんが店のスタッフに言うと、「お待ちしておりました。お荷物をお預かりします」と言った。僕たちは預けるものはなかったので、お店のスタッフがそのまま席へ案内してくれる。
店の中に入ってもアンナさんは僕の前を歩く。樹里が僕の前を歩いた時は、性格だと思っていたが、レディーファーストだということを知った。
テーブル席の間を通り抜けて奥へ行くと、引き戸があり、スタッフの人がノックをして、開ける。
中に入ると、もうすでに高津さんたちは席に着いていた。
「戻りました」
アンナさんが言った。
「座って」
部屋に入ってきた僕たちを見て、詩織さんが自分たちの前の隣り合った席を示す。
スタッフの人が椅子を引いてくれている。椅子のどっち側から座ると樹里は言っていたかな。
間違うとカッコ悪いな。インターネットで調べたのに思い出さない。
焦っていると、左手首を樹里の冷たい手で掴まれたような感じがした。
そうだ。左側だ。別に左側と絶対に決まっているわけではないが、並んで座るときに、お互い違う側に立つとぶつかり合うので、基本は左側と決まっていると書いているブログがあった。もちろんケースバイケースだが。
アンナさんが詩織さんの前に座り、僕は高津さんの前に座った。
席に座ると、テーブルの上に置いてあるナプキンを取って半分に折り膝の上に乗せる。樹里に教わったとおりにした。
アンナさんと詩織さんはティッシュで唇を拭き、口紅をぬぐう。樹里も同じことをしていたな。
僕たちが座ると、前菜が運ばれてきた。ホワイトアスパラガスとモリーユ茸のソテー。
たくさん並んでいるフォークとナイフの中から一番外側にあるものを取る。
「歌劇はどうでした?」
詩織さんがにっこりしながら僕に聞く。
「すごくよかったです。男役の人は女の人と思えないぐらいカッコよかったですし、音楽も生演奏で迫力がありました」
「そう。楽しんでもらえたならよかったわ」
「すみません。アンナさんと一緒に行くはずだったのに譲っていただいて。チケット代をお支払いします」
僕は財布を取り出そうとした。
「そんなに気を使わなくっていいですよ。お金はいりません」
「でも……」
詩織さんも受け取ろうとしない。父さんか母さんに払ってもらった方が良さそうだ。
「アンナはどうだった?」
高津さんがアンナさんに問いかけた。
「すごくよかったです。みんな歌が上手いし、言葉を使わず、動作や表情だけで感情表現をするのがすごく巧みでした」
アンナさんが目を輝かせて話す。
「そうか。そんなによかったか」
高津さんはニコニコしながら聞いている。アンナさんのことがすごくかわいいと思っていることが僕にも分かる。
「それに、女の人が男の役をしようとすると、どうしても誇張してしまってわざとらしい感じになるんですけど、仕草が自然に見えて全然わざとらしさがないんです。本当に素晴らしかったです」
アンナさんはいつもの柔らかい喋り方ではないハキハキとした話し方をする。
「アンナさんは宝塚歌劇が好きなんですね」
アンナさんは宝塚歌劇のファンなんだろう。
「宝塚歌劇というよりも演劇が好きなんです」
アンナさんはいつもの柔らかい声に戻っていた。
「私は今はやっていませんが、中学の時には、演劇部に入っていましたので、演劇が好きなんです」
「そうですか」
おとなしく見えるアンナさんが演劇をやっていたとは意外な気がした。
「アンナは州の演劇コンクールで賞を取ったこともあるんですよ」
詩織さんがアンナさんを見て微笑んだ。
「すごいですね」
アンナさんが舞台に立って演技している姿は想像できない。
そういえば、樹里も演劇をやっていたかどうかは知らないが、演技は上手かったな。
「そんな大したことありません。小さなコンクールで中学の演劇部が参加したものですから」
アンナさんが頬を赤く染める。
「『卒業』っていう映画を知っていますか?」
樹里に言われた映画をまだ見ていないのを思い出して、演劇が好きなら、もしかしたら映画も好きかなと思ってアンナさんに聞いてみた。
「『卒業』ですか?」
アンナさんは戸惑ったような顔をした。
やっぱり知らないか。
「よくそんな古い映画を知っているね」
高津さんが驚いたように言った。
「ご存知ですか?」
「まだ、私が生まれる前の映画だが、テレビで放映していたのを見たことがあるよ」
「どんな内容ですか? 友だちに勧められたんですけど」
「私が説明するより見たほうがいいんじゃないかな。DVDが出ているはずだから」
「レンタル店の会員になっていなくて」
映画とかドラマとかを借りてまで見たいとは思わないので、会員になっていなかった。
「今、兄も日本にいて会員になっているレンタル店がありますから、借りてもらいましょうか?」
アンナさんが僕の方に顔を向けた。
「そこまでしてもらう必要はありません。自分で会員になって借ります」
会ったこともないアンナさんのお兄さんに迷惑をかけることはできない。
「いえ。兄に頼んでみます。私も見てみたいです。明日、隆司さんの家にお持ちしますので、一緒に見ていただけませんか?」
アンナさんがじっと僕の目を見つめる。
「でも、お兄さんに迷惑じゃないですか?」
「大丈夫です。兄は私の頼みは聞いてくれますから。私と一緒に見るのは嫌ですか?」
樹里のお兄さんも樹里には弱かった。どこの家でも兄は妹に弱いみたいだ。
「そんなことはありません。じゃあ、お願いします」
僕がそう言うと、アンナさんはニッコリ微笑んで頷いた。
「ところで、隆司君は4月から大学生になるそうだが、何を専攻するのかな」
高津さんが話題を変えた。
「妖怪の研究をしようと思います」
「妖怪?」
高津さんが驚いたような顔をした。
「はい。日本に妖怪というものが根づいた理由を考えて、妖怪が特に地方でどういう役割をはたしたのかということを研究してみたいと思っています」
「ほう。なかなかおもしろそうだね。それで、大学を卒業したらどういう仕事に就きたいと思っているんだね」
「卒業したらですか……」
まだ大学に行っていない段階でそこまで考えていなかった。もちろんなんとなく考えている仕事はある。
本が好きだから本に関する仕事。例えば、出版社とか司書の資格を取って図書館とか考えていることはあるが、まだはっきりこれとは決めていない。
「ぼんやりとは考えていることがありますが、まだそこまでは……」
「あなたは本当にせっかちね。まだ入学もしていないのに隆司さんもそこまで考えられないわよ。いつもは冷静なのに、アンナのこととなったら……」
詩織さんが呆れたように言う。
「そうじゃない。もし、まだはっきりと道が決まっていないなら私の仕事を手伝うというのも選択肢に入れてくれないかな」
「えーっと、僕は農業の経験とかありませんし……」
僕はびっくりした。いくらなんでも急に農業をやれと言われても無理だ。農学部でもないし。
「別に農業をして欲しいというわけではない。私は日本にも会社を作って息子を支社長にしようと思って、準備をさせているが、息子は思い込んだら突き進む性格で、気の短いところもある」
それで日本にアンナさんのお兄さんが来ているんだ。
「調査結果を見て、隆司君は温和だが、真面目で落ち着いた性格をしていると思った。息子が暴走しそうになったら意見を言ってくれるだろうと思う。もし、よかったら選択肢に入れて欲しい」
「はあー」
高津さんは勘違いをしている。僕は別に落ち着いているわけではない。ただ、ぼーっとしているだけだ。
「勘違いをしてほしくないのだが、このこととアンナとの結婚は別問題だ。アンナとは結婚して欲しいと思っている。隆司君は必ずアンナを幸せにしてくれると思う」
そう言われると責任重大なように思えてくる。
もちろんアンナさんと結婚したら、不幸にはしないが、幸せと思ってくれるかどうか自信はない。
話をしている間に料理は進んでいき、ビーフのコンソメスープ、魚料理にはオマール海老のココット、メインがシャリピアンステーキ、デザートはクレープシュゼットでこのホテルの自慢のものらしい。
クレープにブランデーをかけ、炎が上がる。その色はとても綺麗だった。もちろん味も最高だった。
「明日、お伺いします」
最後のコーヒーとチョコレートなどの小菓子が出てきた時に、アンナさんが言った。
「はい。お待ちしています。時間が決まれば連絡ください。近くの駅まで迎えに行きます」
「いえ。車で送ってもらいますので」
「そうですか」
やっぱりお金持ちは違う。家までタクシーでくるんだ。念のためにアンナさんに携帯の番号を教えた。
「隆司君。アンナは親の欲目かも知れないが、よくできた娘だと思っている。前向きに考えて欲しい」
「はい。アンナさんは素敵な方だと思います。よく考えます」
アンナさんは素敵な人だ。なんの問題もない。問題があるのは僕だ。
アンナさんと樹里とで悩んでいる。樹里はフィアンセがいるんだ。ほかの人と結婚するのは分かっているじゃないか。何を悩むことがあるんだ。
帰りの電車の中で自分を叱ったが、やはり樹里のことが頭から離れない。僕はなんて女々しい男なんだろう。一人自己嫌悪に陥った。
両親に明日アンナさんが来ることを告げ、樹里とアンナさんの間で揺れている自分に自己嫌悪を抱きながら寝た。
翌日、昼過ぎにアンナさんが約束通りⅮⅤⅮを持ってやって来た。
「アンナさん。昼ご飯は食べてきた?」
「はい。食べてきました」
母さんの問いにアンナさんは柔らかい笑みで応える。
「そう。じゃあ、お茶入れるわね」
「どうぞお構いなく」
すごく礼儀正しい。樹里とは大違いだ。どうして僕はアンナさんと樹里で迷っていいるんだろう。自分のことがよく分からなくなる。
唯一、テレビとⅮⅤⅮレコーダーがあるダイニング兼リビングにアンナさんを案内する。
僕は、いつも食事をするときの自分の椅子に座り、アンナさんは正面に座ってもらう。
アンナさんからⅮⅤⅮを受け取ってレコーダーにセットした。ⅮⅤⅮが始まったと同時に母さんがコーヒーとケーキの入ったお盆を持ってきた。
「どうぞ。あら、『卒業』?」
母さんが僕とアンナさんの前にコーヒーとケーキを置き、テーブルの上に自分の分も置いて、空いている椅子に座る。
「知ってるの?」
「昔、テレビでやっていたのを見たことがあるのよ」
「そうなんだ」
母さんはワイドショーと韓流ドラマしか見ないのかと思っていた。
『卒業』は1960年代に作られた映画だ。
主人公が大学卒業後、故郷に帰ってきて、幼馴染みの母親と不倫をしてしまう。その後も2人の関係が続くが、大学の休みで戻ってきた幼馴染みと付き合うことになる。不倫関係を隠して付き合うが、付き合いをやめないと2人の関係をバラすと幼馴染みの母親に脅され、自ら幼馴染みに告白する。
ショックを受けた幼馴染みは大学に戻り、両親の勧めで別の男と結婚することになる。
主人公はなんとか結婚式をする場所を探しだし、式場に乱入して花嫁姿の幼馴染みを連れ去ってしまう。
ラストは主人公と花嫁姿の幼馴染みがバスの一番後ろの席に座り、不安そうな目をしているところで終わる。
「前に見たときも思ったけど、この2人は幸せにはならないわね」
母さんがボソッと言った。
「そうだね」
僕も同意した。こんなふうに2人で逃げても何も持っていないし、住むところもないから生活なんてできるわけがない。
「そうでしょうか」
アンナさんが意外な言葉を言った。
「こんなに愛されていたら女性は嬉しいと思います。この人のためならどんなに苦労があっても頑張ろうと思うんじゃないでしょうか。男性もこれだけのことをしてたんですから、どんなことをしても女性を幸せにしようと努力するんじゃないでしょうか」
「アンナさんはそう思うの? なるほどねえ。ふーん」
母さんが意味ありげにアンナさんを見つめる。アンナさんが目を逸らした。
「コーヒーのおかわりはいかが?」
母さんがアンナさんに聞くと、「もう結構です」とアンナさんが首を横に振った。
「じゃあ、片付けるわね」
「はい。ケーキおいしかったです。ご馳走様でした。お手伝いします」
アンナさんが立ち上がろうとする。
「いいわよ。座ってて。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
母さんは食器をお盆に乗せて、キッチンに行った。
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