第14話 許嫁とデートをした
アンナさんと、学校に向かう途中で久しぶりに樹里のマンションの前を通ってしまう。
ずっとこの道を避けていたのに、なぜか分からないが、今日は足が向いてしまった。
今にもマンションから樹里が出てきて、僕たちを見て「隆司、その女誰よ」と言って怒られるんじゃないかとビクビクしながら通った。
出てくるはずがないのに。
マンションを通り過ぎたとき、蜂蜜好きのクマの絵の入った赤いトレーナーを着た女の子が前から走ってきた。
チイちゃんだ。
チイちゃんは僕たちの前で止まると、じーっとアンナさんの顔を見上げて、ニッコリ笑って、僕の少し後ろを歩いていたアンナさんの足に抱きついた。
「おねえしゃん、遊んで」
抱っこをおねだりするように両手を広げているチイちゃんの顔をアンナさんは困ったような顔でしばらく見て、抱き上げる。
あの樹里にも懐くぐらいだから、チイちゃんは若い女の人が好きなんだろう。
チイちゃんはニコニコしながらアンナさんに抱かれている。
「こら、チイちゃん。ダメでしょう。知らない人に抱きついたら。ごめんなさい」
後ろから歩いてきたチイちゃんのお母さんがアンナさんに謝る。
「いいえ」
アンナさんは苦笑いのような表情を浮かべて、チイちゃんをお母さんに渡した。
「バイバイ」
チイちゃんが元気よく手を振った。アンナさんも微笑んで小さく手を振っている。アンナさんは子供好きみたいだ。
「アンナさんは子どもがお好きなんですか?」
「ええ。可愛いですよね」
アンナさんが優しい笑顔を浮かべた。僕も子どもは大好きだ。
校門の前に立つと、校舎に向かって満開の桜が道の両側に咲き誇っていた。
「ここが、隆司さんの学校ですか?」
「そうです」
校内は部外者の立ち入り禁止だが、僕は卒業生で、アンナさんは僕の許嫁だから部外者ではないだろうという勝手な解釈でゆっくり校門の中に入る。
「まあ、キレイ」
胸の前で手を組み、目を大きく見開いて桜を見つめ、舞い落ちてくる花びらの中を歩く着物姿のアンナさんは、まるで一枚の絵のようで見惚れてしまう。
見惚れているうちに、なぜだか知らないがアンナさんの姿がだんだん樹里に変わっていく。
なぜ樹里に見えるんだ。僕は目を擦った。
風に乗ってアンナさんの方からいい香りが漂ってくる。樹里とは違う香りだ。
「アンナさんは香水をつけているんですか?」
「はい。『ミル』という香水です。この香りお嫌いですか?」
アンナさんが心配そうに僕を見る。
「いいえ。好きです」
これは僕の感覚だが、樹里のつけていた香水よりも濃厚な甘い香りがして、大人っぽく感じる。
「今日、卒業式だったんですよね。お父様が言ってらっしゃいました」
アンナさんが桜に目を向けたまま言った。
「そうです。アンナさんの学校の卒業式はいつですか?」
「大学の卒業式は夏です」
「大学? 高校じゃないんですか?」
たしか、母さんがアンナさんは僕と同じ歳だと言っていたはずだったけど。アンナさんは僕より歳上か?
「ええ。小学校から大学までの間に何回か飛び級をしたので、今年の夏に大学を卒業する予定なんです」
「そ、そうですか」
飛び級をするなんてアンナさんはすごく優秀だ。こんな優秀な人が僕の許嫁なんて信じられない。
「おっ、隆司じゃないか」
後ろから陽気な声が聞こえてきた。
振り向くと、紀夫と渡辺さんが手を繋いで歩いてくる。
「どうしたんだ? 用事があるから、謝恩会に出られないて言ってたのに。誰?」
紀夫が興味津々という感じでアンナさんを見る。
僕はアンナさんたちが来るから、欠席にしたが、午後から体育館で卒業生合同の謝恩会をやるんだったな。
アンナさんをなんて紹介しよう。許嫁なんて言ったらびっくりするだろうしな。
「隆司さんの遠い親戚です。隆司さんの卒業した高校が見たかったので、連れてきてもらったんです。隆司さんのお友だちですか?」
僕に代わってアンナさんが柔らかな声で応えてくれた。
「はい。お綺麗ですね……うっ」
紀夫の顔がにやけた。渡辺さんが紀夫のお腹を肘で突っついている。
「頭に花びらがついているわ」
渡辺さんがアンナさんに近づいて、20センチ近く背が高いアンナさんの頭に乗っている花びらを背伸びをして取り始めた。
「ありがとうございます」
アンナさんが渡辺さんに、はにかんだような笑顔を向け少し膝を曲げた。
「どこかでお会いしたことありません?」
渡辺さんが首を捻りながら、アンナさんの顔をじっと見つめている。
「ありません」
アンナさんが恥ずかしそうに下を向いてしまう。
「アンナさんはアメリカに住んでいるから、会ったことないはずだよ」
「そう? どこかで会ったような気がするんだけどな」
僕の言葉にも、まだ納得がいかないような顔を渡辺さんはして、「樹里かと思った」と囁いた。
「えっ」
アンナさんが聞き返す。
「なんでもないです」
渡辺さんが首を横に振った。
「真紀、行こうぜ。もう時間だ。じゃあな隆司」
紀夫はまだアンナさんを見ている渡辺さんの腕を取って体育館の方へ歩いて行った。
紀夫たちを見送って、アンナさんの顔を見ると、少し青い。
「大丈夫ですか? 気分でも悪いんですか? どこかで休みましょうか?」
アメリカからの長旅や時差で疲れたのかもしれない。あるいは、着慣れないであろう着物を着て気分でも悪くなったのかもしれないと思った。
あの樹里でさえ着物を着たときは、少し苦しそうにして、普段は大股で歩いているくせに小股で歩きにくそうにチョコチョコ歩いていたのだから。
誰か先生に頼んで職員室で休憩させてもらおうと思った。
「大丈夫です。でも、そろそろ戻りましょうか?」
アンナさんは首を横に振った。僕はアンナさんの腕に腕を通して、支えるようにして歩く。
「そんなことをしていただかなくても一人で歩けます」
アンナさんは頬を赤く染めて恥ずかしそうに腕を抜こうとする。その姿がすごくいじらしい。
「大丈夫です。慣れてますから。僕の方に体重をかけてください」
樹里が低血圧で体調が悪い時に体を支えて学校に通っていた。アンナさんの体格は樹里と変わらないので、十分支えられる。
「すみません。低血圧なので、時々、急に気分が悪くなることがあるんです。でも、もう大丈夫です」
アンナさんも低血圧なんだ。女の人って低血圧の人が多いんだな。
「本当に大丈夫ですから。遠慮なく」
「すみません」
アンナさんは僅かに僕の方に体重をかけて歩く。
アンナさんは、なんて奥ゆかしい人なんだろう。樹里なんか遠慮せず僕に凭れてきたのに。
家の玄関に入ると、父さんと高津さんの笑い声が聞こえてきた。
「ただいま」
ダイニングに入ると、父さんたち4人は笑っていた。
「早かったわね。どこに行ったの?」
母さんが僕の顔を見る。
「学校に行った」
僕がそう応えると、母さんは呆れたような顔をした。
「どうして、学校なんかに連れて行ったの?」
「桜が見たいってアンナさんが言うから、桜の咲いている場所がほかに思い浮かばなかった」
「呆れた。アンナさん、つまらなかったでしょう」
母さんが同情するようにアンナさんの顔を見る。
「そんなことありません」
アンナさんは優しい。樹里だったら間違いなく文句を言っているだろう。
「楽しかった?」
詩織さんが聞くと、
「はい」
アンナさんは小さく頷いた。
「どうですか? アンナのことを気に入りましたか?」
高津さんが僕に笑いかけた。
「はい」
「では、婚約するということでいいですかな」
「えっ」
高津さんの言葉に驚いた。会っていきなり婚約なんて。もちろん許嫁だから、結婚は前提なのだろうけど、あまりにも急すぎではないだろうか。
それに、アンナさんの気持ちも聞いていない。
「アンナさんはそれでいいのですか?」
父さんが心配そうにアンナさんに聞いた。
「隆司さんがよければ」
僕がよければいいのか。本心からアンナさんはそう思っているんだろうか。
「実は、大変言いにくいことだが、隆司君のことは探偵を雇っていろいろ調べさせてもらいました」
「探偵?」
びっくりしたように父さんと母さんが顔を見合わせた。
「私も妻もその報告を見て、隆司君はアンナの婿に相応しいと判断したんです。勝手なことをして大変申し訳ありません。娘を思う親バカだと思って許してください」
高津さんが頭を下げた。
「いえいえ。その気持ちはよく分かりますよ。綺麗なお嬢様ですからね。相手がどんな男か心配ですよね。娘には幸せになって欲しいですもんね。分かります。うん。うん」
父さんは何度も頷く。
うちは探偵を雇って調べたりしていない。息子はどうでもいいってことか? もっとも、探偵を雇うお金はウチにはないだろうが。
「アンナさん。本当に隆司でいいの? 後悔しない? 無理をしなくていいわよ」
いくらなんでもそんな言い方ないんじゃないの。母さんから見た僕はそんなにひどいのか。
「私の体のことを心配してくれたりして、探偵の方の報告のとおり隆司さんは本当に優しい方です。私は隆司さんがよければ、結婚したいです」
探偵の報告ってどういうこと書かれていたんだろう。少し気になる。
「どうだね? 隆司君」
「えーっと」
僕は返事を躊躇った。
何を僕は躊躇っているんだろう。アンナさんは綺麗だし、大人しく、所作も上品で、頭もいい、その上、資産家のお嬢様で、許嫁だ。
こんな人と巡り会う機会なんてもうないだろう。
でも、返事ができない。
「あなた、急ぎ過ぎよ。会ったばかりで、隆司さんも決められないわよ」
詩織さんが高津さんを諌めるように言う。
「だがな……。うーむ。まあそうだな。隆司くん。私たちは1週間日本に滞在します。その間にアンナとのことを決めてもらえないだろうか? もちろん、無理強いはしない。君の率直な気持ちを聞かせてもらいたい」
高津さんが僕の顔をじっと見つめてきた。
「はい。分かりました」
僕は返事をした。考える時間は短いが仕方ない。
「その間はアンナもなるべく隆司さんとお会いするようにして、自分のことを知ってもらいなさい」
「はい」
詩織さんに言われて、アンナさんが顔を赤らめて返事をした。僕と会うというのが恥ずかしいのだろうか。そんな素振りを見せるアンナさんを僕はいじらしく感じてしまう。
「明日はいかがですか? 卒業式が終わったので、4月の入学式までは空いていますけど……」
4月の入学式まで、することは何もない。バイトも授業が決まってからしようと思っている。
「明日は……。その……。ちょっと……。せっかく誘って頂いたのにすみません」
アンナさんが泣きそうな顔になって、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、いえ。別にいいです。こちらのほうこそすみません」
きっと、もう予定が入っているんだろう。アンナさんの顔を見ていたら、なんか申し訳なくなって、思わず謝った。
「アンナ。そんな顔しないの。隆司さんが気になさるでしょう。すみません。どうしても明日は用事がありますので。明後日はいかがですか? アンナも用事がありませんから」
詩織さんが微笑んだ。
「でも……」
アンナさんがびっくりしたような顔をした。
「いいの。いかがですか? 隆司さん」
詩織さんはアンナさんの言葉を遮った。
「僕は構いませんが」
「では、Tホテルのロビーで。3時でいかがでしょうか」
「はい」
僕に異存があるはずがない。
「では、3時で。アンナ、いいわね」
「はい。お願いします」
アンナさんが僕に頭を下げた。
「どこか行きたいところがありますか?」
アンナさんのことをまだよく分かっていない。アンナさんがどこに行きたいのか分からない。
「もし、隆司さんがよろしければ、宝塚歌劇を観に行きたいのですけど……」
「宝塚ですか……」
「お嫌ですか。お嫌ならほかのところでも」
「いえ、嫌ではないんですけど、今からチケットが取れるのかなと思って」
宝塚歌劇はファンが多い。前売りチケットの販売と同時に売り切れになることが多いと知り合いから聞いたことがある。今から2日後のチケットなんて取れるのだろうか。
「チケットなら大丈夫です。父が知り合いから譲ってもらったものがあるので」
「そうですか。では、構いませんが」
「アンナのことをよろしくお願いします」
僕にそう言うと、高津さんたちは帰っていった。
「隆司、よかったじゃない。アンナさんが美人で」
母さんは冷やかすような目で僕を見た。
「アンナさんとよく話をするんだぞ。隆司の将来のことだ。よく考えて結論を出すんだ」
父さんがいつにもなく真剣な顔で言う。
「うん。分かっているよ」
アンナさんは美人だし、お淑やかで、料理も上手い。きっといい奥さんになるだろうなと思う。
だが、僕は簡単に決められない。
どうしてもあの樹里のことが頭に浮かんでしまう。
翌々日、僕は待ち合わせの場所である銀座のTホテルのロビーに行った。
Tホテルは有数の老舗ホテルで世界のVIPも数多く泊まっている。
名前はよく聞くが一度も来たことがなかったので、カチカチになりながら中に入った。
ロビーは広く、日本人だけではなく、沢山の外国人もいて、アンナさんがどこにいるのか、なかなか見つからない。
さんざん探し回って、ロビーの長椅子に座っているアンナさんを見つけた。
アンナさんは黒地に白の小さなハート柄を散りばめたワンピースに黒のローファーを履き、白の小さめのバッグを持っていた。
アンナさんの隣には、若そうな白人の男性が座っていて、アンナさんに盛んに話しかけていた。アンナさんは困ったような微笑みを浮かべて、少し首を傾げている。
知り合いだろうか?
僕が近づいていくと、「隆司さん」と言って、アンナさんはホッとしたような顔をした。
白人の男性も僕の顔を見て、アンナさんに何か言って、手を振ってどこかへ行ってしまった。
「お知り合いですか?」
もし、知り合いだったら、なんか悪いことをしたなと思った。
「いいえ。全然知らない人です。座っていたら、いきなり隣に座ってきて、『一人? どこかに一緒に行こうよ』と英語でしつこく誘われたので、困ったなあと思って、英語が分からないふりをしていたんです」
「そうですか」
それで困ったような顔をして微笑んでいたのか。外国で言葉が分からない時、日本人は意味もなく笑うっていうもんな。アンナさんは演技してたのかな。本当に困っているように見えた。
樹里と待ち合わせした時も似たようなことがあったな。もっとも樹里は相手を自分で追い払っていたけど。
「では、行きましょうか」
「はい」
アンナさんがゆっくりと立ち上がる。何かアンナさんのひとつひとつの所作が優雅に見える。
この間一緒に歩いた時も思ったが、歩く時は、僕よりもやや後ろをアンナさんは歩く。僕の背が低いから気を遣ってくれているのか、僕を男として立ててくれているのか分からないが奥ゆかしさと、いじらしさを感じる。
アンナさんは外国で育ったのに大和撫子だ。僕はこういう女の人が好きだ。
こんなことを言うと、フェミニストの人たちが怒るかもしれないけど、どう思おうが僕の自由だ。日本の憲法にも思想・良心の自由があると書いてある。人にとやかく言われる筋合いはない。
もっとも面と向かって言われたら、僕はシュンとなって言い返すことができないだろうけど。
アンナさんの横顔を見ると、どこかで見たようなピアスが揺れていた。樹里にあげたものに似ているが、よくあるピアスの形だろうしアンナさんの家は金持ちだから僕が買った安物と違ってもっと高価なものだろう。
宝塚劇場はTホテルの前の道の信号を渡ったところにある。
宝塚劇場の入口を入るとロビーがあり、正面に赤い絨毯を敷かれた階段があった。
僕は宝塚劇場に来たのは初めてだったので、周りをキョロキョロ見回しそのきらびやかさに圧倒された。
アンナさんは案内するように僕の少し前に出て階段を上っていく。
「来たことがあるんですか?」
アンナさんの慣れているような感じに不思議に思った。
「いいえ。初めてです。インターネットで大体のことを調べたので……」
階段を上りきったところに劇場があり、アンナさんは中に入ると「前です」と言って、前方に歩いて行く。
僕たちの席は中央の前から2番目の通路側の席とその隣の席で、僕たちの横には大学生くらいの女の人がすでに座っていた。
アンナさんはその女の人の隣に座り、「こんにちは」とにこやかに挨拶した。女の人も笑顔で「こんにちは」と返している。
「そちらの席でいいのですか?」
アンナさんに小声で尋ねると、にっこり笑い「はい」と応えた。
これも同じようなことが樹里とあったような。まるでデジャヴだ。
「どうしたんですか」
アンナさんが心配そうに僕を見ている。
「いえ、あまりにも華やかな感じで、驚いているんです」
僕は劇場を見回す。前方にオーケストラがいた。宝塚のことはよく知らないが歌やダンスがあることは知っている。演奏はこの人たちがしているのか。てっきり、テープを流しているのかと思っていた。
横を見ると、アンナさんは隣の女の人が話すのを笑みを浮かべながら聞いていた。
アンナさんは人付き合いも上手そうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます