第13話 許嫁が会いに来た!!

 翌日、いつものように5時に目が開いた。

 二度寝しようと思い、布団の中でゴロゴロしているうちに6時になる。

 無意識にスマホを取り、樹里に電話しようとする。

 そうだ。もうかける必要はないんだ。僕は手を止めて机の上にスマホを置いた。

 鼻の奥がツンとする。

 もう寝ることもできないので、1階に下りていく。

 いつものように母さんが朝食の用意をしている。

「まだ早いんじゃないの? もう少し寝てたら」

「寝れないんだ」

「樹里ちゃんはいつアメリカに行くの?」

「今日らしい」

「見送りには行かないの?」

「来ないでって言われた」

「そう」

「母さんは英語話せるの?」

「少しならね。これでも英文科を出てるんですから」

「えっ、そうなの?」

 そんな話は初めて聞いた。てっきり父さんと同じ法学部だと思っていた。

「第二外国語はなに?」

 大学では語学を2つ勉強すると聞いたことがある。

「フランス語よ。どうして?」

 母さんが僕の方を向く。

「昨日、樹里にオーブワとか言われた。何語だろう?」

“Au revoir”

 母さんが樹里と同じような発音をした。

「それだ」

「さようなら……か。なるほどね」

 母さんがニヤけた。

「さようならって意味なんだ」

「そうよ」

 どうして母さんはニヤけてるんだ。それになにが『なるほど』なんだ。

 本当に樹里といい母さんといい訳が分からん。

「振られたぐらいでいつまでも落ち込んでちゃあダメよ」

 気が抜けたような僕を見て、母さんが注意する。そんなことは言われなくても分かっている。でも、どうしようもなく虚しい。

 僕の中で、こんなに樹里の存在が大きくなっていたとは。あんなに嫌いだったのに。

 いつもの通学路を通ると、樹里の住んでいた女性専用マンションの前を通る。

 樹里が出てくるのではないかと、ありもしない期待をしながら、マンションの入り口を見た。

 当然、樹里が出てくるわけはない。

 もうこのマンションの前を通る道は使わないようにしよう。胸が苦しくなる。


 樹里がいなくなったことで、僕は完全に気が抜けてしまい、ボーっと過ごしているうちに、いつのまにか卒業式の日が来た。

 目が覚めて、時計を見ると、やっぱり5時だ。

 いくらもっと寝ようと思っても勝手に目が開いてしまう。

 完全に習慣になってしまった。

 6時になると、スマホを手にして樹里の情報を削除した。

 目から涙がこぼれ落ちた。流れ出る涙を全部絞り出すと、樹里のことを振り切るために僕は勢いよく立ち上がった。

 階下に行くと、いつものように朝食の用意をしている母さんの背中が見える。

「おはよう」

「おはよう」

 母さんが振り返った。

「……おはようございます」

 僕は思わず言い直した。

 声は母さんだが、見たこともない美人が立っている。

「どうしたのよ? ポカンと口開けて」

「ひょっとして母さん……?」

「当たり前でしょう。他に誰がいるのよ。自分の母親の顔を忘れたの」

 顔が違いすぎる。母さんは少し細い目で、目尻がちょっと下がっているタレ目、全体的に凹凸の少ない顔で、笑うと笑窪が出る。肩甲骨ぐらいまである髪をいつもポニーテールにして、背も低いため可愛いという印象だ。

 買い物に行って、僕の同級生に女子大生と間違えられてナンパされたぐらい見た目が若い。

 だが、今、目の前にいる女性はどう見ても目鼻立ちのはっきりした大人の美人だ。

「どうした?」

 父さんがダイニングに入ってきた。

「母さんの顔が違う」

「顔が違う? おっ、母さん、今日は気合い入ってるな」

 父さんは母さんの顔を見ても別に驚いた様子を見せない。

「それはそうよ。隆司の卒業式だもん」

 それにしても気合いの入れようがすごい。とても自分の母親とは見えない。

「驚かないの?」

 僕は父さんに聞いた。

「母さんと出会った時はこの顔だったから、こっちの方が馴染みがあるんだが」

「そりゃそうよ。あの頃は、他の女の子たちに負けたくなかったから、毎日気合いを入れてメイクしてたもん。それより、早くご飯食べて。母さんも用意しないといけないんだから」

「うん」

 僕は自分の椅子に座ると、なるべく母さんの方を見ないようにご飯を食べる。

 なんとなく知らない人と一緒に食べているようで気恥ずかしい。

「なに照れた顔してるのよ。母さんに惚れてもだめよ。母さんは父さんのものだから」

 何をバカなことを言ってるんだ。それにしても今日の母さんは別人だ。

 母さんは後でくることになっているので、先に家を出た。

 学校に着くと、正門の前には学校名を書いてその下に卒業式と書かれた立て看板が立てられている。

 その看板の横には生徒指導の先生がいつものように立っていた。

「おっ、澤田、今日は1人か?」

「はい」

 僕は無理に笑う。

 どうやら先生は樹里が今日の卒業式に出ないことを知らないらしい。

 教室に入ると、紀夫が後ろを向いて、僕の席に座っている渡辺さんと喋っていた。

「よっ」

「おはよう。澤田君」

「おはよう」

「やっと卒業だなぁ」

 紀夫が嬉しそうに言う。

「なんか嬉しそうだな」

「そりゃそうさ。大学に行ったら思いっきり遊んでやる」

 今まで、勉強ばかりしていたようなことを紀夫は言う。

「ところで、渡辺さんは大学合格したの?」

 渡辺さんが関西の大学を受験するとは聞いたが、合格したかどうかはまだ聞いていなかった。

「合格したわよ。当然でしょう」

「じゃあ、紀夫の近くに住むの?」

「違うわよ。パパが今度、大阪支社の社長になるから家族全員で引っ越すことになったの。だから、関西の大学を受けたのよ」

 なるほどね。別に紀夫と一緒にいたいから関西の大学を受けたわけじゃないんだ。

「いつ大阪に行くんだ?」

 紀夫に聞いた。

「来週の月曜日には行くよ」

「そうか」

 紀夫とは人生の半分は一緒に過ごした仲だ。その紀夫がいなくなると思うと、寂しくなる。

「樹里からなにか連絡あった?」

 渡辺さんが心配そうに僕の顔を見た。

「ないよ」

「そう。どうしてるのかな」

 渡辺さんも少し寂しそうだ。

「石野のことだ。アメリカでうまくやってるよ」

「そうだろうな」

 僕も納得する。

 樹里はきっと婚約者と仲良く過ごしているだろう。

 そんなことを考えているとフツフツと嫉妬心が湧いてくる。

「ほら、早く廊下に出て並べ」

 担任の先生の声に全員廊下に出て並び、式場である体育館に向かう。

 校長先生の挨拶、卒業証書の授与、在校生代表の送辞、卒業生代表の答辞と続き、校歌斉唱して卒業式は終わった。

 卒業式が終わり、教室に戻ると、担任の先生から卒業証書を一人一人受け取り、最後の終礼が行われて、僕の高校生活は終わった。


「終わった。終わった。隆司、帰ろうぜ」

 紀夫がカバンを持って立ち上がった。

「紀夫、謝恩会でね。澤田君は謝恩会は出ないんだよね。元気でね」

 渡辺さんが手を振って、友達と一緒に帰っていく。紀夫が渡辺さんに手を振り返した。

「俺たちも帰ろうぜ」

 紀夫に促され、僕も立ち上がる。

「帰ってきたら会おうぜ。大阪にも来いよ。また連絡するし」

「そうだな」

 夏休みにでも大阪に行ってみようかな。

 僕と紀夫は職員室に行き、お世話になった先生方に挨拶をしていく。

 その後、紀夫がクラブの後輩に挨拶に行くと言って、部室に行ったので、僕は司書の先生に挨拶をしに、図書室に行った。

 司書の先生に挨拶を済ませ、陸上部の部室の前に行くと、ちょうど紀夫が出てきた。

「じゃあ、行くか」

 保護者は卒業式が終わると、体育館の前で自分の子どもがくるのを待っている。

「あっ、いたいた」

 紀夫が自分のお母さんを見つけて近づいていく。

「あれ、おふくろと喋っている美人は誰のお母さんだ?」

 紀夫に言われて、その女の人を見た。

「あれはうちの母さんだ」

 母さんが紀夫のお母さんと喋っていた。

「嘘。顔が全然違う」

 長い付き合いの紀夫は当然母さんの顔を知っている。

「気合いを入れて化粧をしたら、ああなるそうだ」

「本当か?」

 紀夫は信じられないという顔をしている。

 今日は薄いパープルのパーティードレスにシルバーのハイヒールを履き、いつもポニーテールにしている髪を下ろして、毛先をカールさせているのでいつもと違う大人の女という雰囲気を漂わせている。

「あら、紀夫君。こんにちは」

 母さんが挨拶すると、紀夫が恥ずかしそうに下を向いて、「こんにちは」とボソッと言った。

「どうしたの。いつもは、『おばさん、お腹空いた。何かないの』とか言って元気があるのに、今日は大人しいじゃない」

 紀夫は去年ぐらいまではよく家に遊びに来ていた。

「この子、澤田さんがあんまり綺麗になってるから照れてるのよ」

 紀夫のお母さんが笑う。紀夫のお母さんも目鼻立ちのはっきりした整った顔をしているが、今日の母さんに比べたら、見劣りする。

「あら、惚れちゃあダメよ。私には夫がいるんだから」

 母さん、そればっかり。いい大人が健全な青少年をからかったらダメだよ。紀夫が真っ赤になってるじゃないか。

「帰りましょうか」

 紀夫のお母さんが笑いながら言った。


 母さんがバッグからスマホを取り出した。

「あら、もういらっしゃっているわ」

「父さんから? もう来てるの?」

 どうやら父さんからメールがあったみたいだ。

 高津さんから僕の許嫁を連れて、家に訪ねて来るというので、父さんは休暇を取って家にいる。

「そう。急いで帰りましょう」

 僕と母さんは紀夫たちに挨拶をして急いで帰った。

 家に帰りついて玄関を開けると、男物の革靴と草履が2足置いてあった。お父さんが玄関に出てくる。家の中から何か美味しそうな匂いが漂ってきた。

「もうお見えになっているぞ」

 母さんと僕は慌てて中に入った。ダイニング兼リビングにこちらに背中を向けて座っているダークグレーのスーツを着た男の人と着物を着た女の人の背中が見えた。

 僕たちが入ると、2人が立ち上がった。

「ようやくお会いできて大変嬉しく思います。初めてお目にかかります。高津浩二です」

 高津さんは50過ぎぐらいに見え、身長190センチほどで、肩幅も広く背広の上からでも分かる筋肉質のガッチリした体格をしている。口の周りと顎には綺麗に手入れされたヒゲが生えていて、鼻が高く彫りの深い顔をしている。

「妻の詩織です」

 高津さんの隣の女の人が頭を下げる。高津さんの奥さんは、身長170センチぐらいで、色白の瓜実顔、切れ長のやや細い目、鼻筋は通っているが、凹凸の少ない顔で、薄い唇のおちょぼ口という着物の似合う黒髪の和風美人だった。

「こちらこそ両親や家のことまでしていただいたのにご挨拶にも伺わず申し訳ございませんでした。澤田雪乃でございます。隣は息子の隆司です。遠いところをおいでいただきありがとうございます。それで、お嬢様は?」

 母さんが高津さんを見た。そういえば、僕の許嫁という人の姿がない。

「それが……」

 父さんの顔が渋くなって、キッチンの方に顔を向ける。

 和服姿の女の人がこちらに背を向けてガス台に向かい何か料理をしているようだ。玄関まで匂っていたのはこれかと思った。

「あなた。高津様のお嬢様に料理をさせているの?」

 母さんが呆れたように父さんを見た。

「いや。止めたんだけどどうしても作りたいと言うから」

 父さんが困ったような顔をした。

「お気になさらないで下さい。アンナが勝手に料理を作りたいと言ってしていることですから。アンナ。こちらに来てご挨拶しなさい」

 高津さんがアンナさんを呼んだ。

「少し待ってください。もうすぐ終わりますから」

 アンナさんのやっと聞こえるか聞こえないかぐらいの声が返ってくる。

 しばらくして、アンナさんが自分の詩織さんの隣に戻ってきて、立ったまま頭を下げた。

「高津アンナです。勝手にお台所を使わせていただいて申し訳ありません」

 すごく小さい声で顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしている。

 アンナさんは詩織さんに顔がよく似ている。身長も同じぐらいで、違いをあげるとすれば、詩織さんよりもアンナさんの方がやや目尻が下がっている。それを除けば、アンナさんが老ければそのまま詩織さんという感じだ。

「お昼を作ってくれていたのですか」

 母さんが聞くと、下を向いて「はい」と、囁くようにアンナさんは返事した。 

「料理は得意なんですか?」

「得意ということはないんですけど」

 母さんの問いにはにかんだ様にアンナさんは応えた。

「家では私の手伝いをしてよく料理をしてくれるんです」

 詩織さんは優しい目でアンナさんを見つめる。どうやら自慢の娘のようだ。

「そんな……大したことはしていません」

 真っ赤にした顔を下に向け恥ずかしそうに囁く。

「もう出来たのか?」

「はい」

「では、食べていただいたらどうだ」

 アンナさんが高津さんに言われて立ち上がった。

「食器の位置は分からないわよね」

 母さんも立ち上がり、アンナさんに食器の場所を教えた。

 しばらくすると、アンナさんが唐揚げとサラダを盛ったお皿とご飯とお味噌汁を入れたお盆を持って父さんの前に置く。

「美味しそうだな」

 父さんが相好を崩す。父さんは樹里が来た時もすごくうれしそうだった。若い女の子には弱いみたいだ。

 父さんの言うように唐揚げもいい色で揚がっていて、本当に美味しそうに見える。綺麗に盛りつけられていてアンナさんは料理が得意そうだ。

 みんなの前に料理が置かれると、母さんがビールとグラスを持ってきた。

「ビールはお飲みになりますか?」

「はい。大好きです」

 高津さんが嬉しそうに応えた。

「少しなら」

 詩織さんは微笑んだ。

「隆司。冷蔵庫にジュースが入っているからアンナさんに取ってきてあげなさい」

「うん」

 僕はアンナさんと自分の分のジュースとグラスを持ってくると、アンナさんの前にジュースの瓶とグラスを置いた。

「では、乾杯しましょう」

 父さんの乾杯の声に合わせてみんなグラスを合わせた。

 僕はジュースを少し飲んでから、唐揚げに齧り付いてびっくりした。母さんが作った唐揚げの味とまったく同じだ。

 父さんも驚いたような顔をしている。母さんは「美味しいわ」と言いながら顔色一つ変えず食べていた。

 お味噌汁もついていたが、それも母さんの味噌汁と同じ味がする。母さんは高津さんも詩織さんも同じ一族だと確か言っていた。料理の味って同じ一族なら似るものなのだろうか?

「どうですか? 美味しくないですか」

 アンナさんが心配そうに僕の顔を見る。

「美味しいです」

「よかった」

 アンナさんはホッとした顔をする。

「今、私は6000エーカーの牧場と70エーカーの農場を持っています。それと食品加工会社を経営していて、いずれは日本に支店を作りたいと思っています。その準備をアンナの兄にやらせているところです」

「それはすごい。外国で相当苦労されたんでしょうね」

 父さんが感心したような声を出す。

 エーカーというのはどれぐらいの大きさか分からないが、広大なものであることぐらいは分かるし、外国で成功するには並大抵の苦労ではないことは僕にも分かる。

「これも澤田さんのご実家が私を養子にしてくださったおかげだと感謝しています。ですから、なんとしてもアンナと隆司君に結婚してもらい、私の財産の一部でも受け継いでもらいたいんです」

 高津さんはビールを一口飲んだ。

「できればアメリカに来てもらって、私の仕事を手伝ってもらえれば嬉しいのですが」

 そこまで考えているのか。僕はそこまでとは想像してなかった。少し怖気づきそうになった。

「あなた、急ぎすぎですわ。まだ澤田様のお気持ちも聞いてないんですから」

 奥さんが結論を急ぐ高津さんを諌める。

「私は隆司がアンナさんと結婚したいと思うなら構いません。ねえお父さん」

「そうだな。隆司しだいだな」

 みんなが僕を見る。僕はあいまいな笑いを浮かべることしかできなかった。

「天気もいいからアンナさんにこのあたりを案内してあげたら」

 母さんが僕に言った。

「うん」

 僕は返事をして立ち上がった。

「そうだな。アンナ、行ってきなさい」

「はい。お父様」

 アンナさんと僕は立ち上がって外に出た。

「どこか行きたいところありますか?」

 外に出たはいいけど、どこへ行けばいいか見当もつかない。

「桜が見てみたいです」

 アンナさんは僕の少し右斜め後ろを歩き、下を向いて囁くような声で言った。

「桜が好きなんですか?」

「はい」

 アンナさんが小さく頷く。

 桜の名所ってどこだっけ? 上野か新宿? 

 でも、母さんに近くを案内するよう言われたのだから、そんな遠くまで行くことはできない。

 この近くで桜といえば……。

 ふと学校が思い浮かんだ。

 校門から校舎へ行くまでの道の両側に桜が植えられている。今日の卒業式の行き帰りに通ったときは、あまり気にしていなかったが、思い出すと桜が咲き誇っていた。

「僕の学校でもいいですか?」

 アンナさんが僕の方を見て、少し微笑んで頷いた。アンナさんは微笑んだ顔も素敵だ。

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