第8話 勝気なカノジョの家に誘われて
外に出ると、僕は本来の目的を果たそうと思った。
「でも、知らなかったよ。樹里が病気だったなんて」
映画の主人公は病気の手術のためにアメリカに行った。
「病気? わたしが? まあ低血圧だけど」
「だって、手術するためにアメリカに行くんでしょう?」
「誰がそんなこと言った?」
「違うの?」
アメリカになぜ行くのかと聞いた時、この映画を観に行こうと言ったから、てっきりこの映画と同じ理由で行くんだと思い込んでいた。
「違うわよ。わたしはそんなこと一言も言ってないけど」
「じゃあ、どうしてこの映画を観に行こうって言ったんだよ。涙まで流して」
「アメリカへ行く話をしてたら、急にこの映画の宣伝をしていたことを思い出して観に行きたいなあと思って、誘っただけよ。それに涙を流したのは、上を向いていたら、急に目が痛くなっただけよ」
どういう発想だ。涙を流していたのも目にゴミでも入ったっていうこと?
「じゃあ、どうしてアメリカへ行くの?」
そう問いかけた時、突然、樹里が空を見上げた。雨粒が頭に当たった。
「雨? 傘持ってないから、走るわよ」
天気予報では雨とは言ってなかったから、僕も傘を持ってない。樹里が走り出したのを見て、慌てて走り出す。
男子と女子は体育を別々にするので樹里の足が速いのかどうか知らなかったが、すごく速い。
僕は運動神経はよくない。クラスの男子の中では走るのも遅い方だ。だが、いくらなんでも運動クラブに入っていない女子の樹里よりも速いと思っていた。
だが、いくら走っても樹里に追いつくどころかどんどん引き離されて行く。最初はポツポツだった雨が急に激しくなって滝のように降り出した。樹里はスピードをさらにあげる。足が長いからストライドが大きく、僕が必死に走っても全く追いつかない。
2人とも必死に走ったが、樹里のマンションに着いた時には、服が絞れるぐらい身体中びしょ濡れになっていた。
「すごかったね。それにしても樹里は足が速いね」
先についていた樹里に声をかけた。
「遅いわね。風邪引くでしょう」
樹里が下を向き、怒ったように言う。
「ごめん」
「こっちを見ないで。雨でメイクがほとんどとれてるから」
僕は慌てて目を逸らす。横目で見ていると、樹里は顔が見えないように下を向いたまま、いつも編んで一つに纏めて前に垂らしている髪を解き、顔を覆い隠すように前に垂らした。
「ブスな素顔を隆司に見られたくないから、こっちを見ないでよ。いつも詐欺メイクで誤魔化しているだけなんだから」
すごく真剣な感じで樹里が言う。
「分かった」
見たことはないが、樹里の素顔がそんなに悪いとは思えないが……。
でも、テレビで詐欺メイクをする女の人を見たことがあるが、とても同じ人だとは思えないほど変わるので、樹里の言うことが全く嘘だとは言い切れない。
樹里はホラー映画に出てくる女の幽霊みたいに顔を覆い隠した髪の毛から雨の雫を垂らして、操作盤に鍵を差し込んだ。
「じゃあね」
自動ドアが開いて、エントランスに入っていく樹里の後姿に言った。
「何言っているの。この雨の中を傘もささずに帰る気? 雨が上がるまでわたしの部屋で待ちなさい」
樹里が立ち止まって命令口調で言う。
「でも、このマンションは女性専用マンションだよ。男が入れるの?」
「そういうマンションもあるけど、うちのマンションはちょっと入り口で面倒な手続きがあるけど、男の人も入れるわよ。住んでいる人の男の家族が様子を見に来たり、カレシを連れ込む人もいるわ。契約違反だけど、カレシを泊める人もいるんだから」
「でも……」
女子の一人暮らしの部屋に入るのは気が引ける。
「いいから来なさい」
樹里が怒ったように言う。仕方なく僕は樹里の後ろからついて入った。
初めて入るエントランスはホテルのロビーのようで、とても広くテーブルやソファーが置いてあり、シャンデリアまでかかっている。左手にフロントがあり、黒いスーツを着たチイちゃんを連れてきた時と違う20代後半ぐらいのフロントウーマンが座っていて、樹里を見ると立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
フロントウーマンは樹里と同じぐらいの背丈があり、がっしりとした体格をしている。
「友だちが一緒なんだけど」
樹里がフロントウーマンにだけ顔が見えるように髪を少し上げた。この人は樹里の素顔を知っているのか?
「ああ石野様ですか。凄い雨でしたね。では、お友達の方はこちらに注意書きが書いてありますのでよく読んで、ご同意いただけるなら、お名前と石野様の部屋番号をお願いします」
僕にペンと用紙を差し出した。
注意書きには、他の階や部屋に決して立ち入らないこと、立ち入った場合は不法侵入として警察に通報されても異議がないこと、親族以外は泊まることは許されないことなど細かい注意がいっぱい書かれている。
「はい」
ペンを受け取り、出された用紙に名前と樹里の部屋番号を書いた。
「有難うございます」
フロントウーマンは用紙を受け取ると時計を見て時間を書き込んだ。
「行きましょう」
樹里が先に立って歩き出す。
フロントの奥にエレベーターがあり、『△▽』のボタンの下に鍵穴が付いている。樹里がその鍵穴に鍵を差し込むと、エレベーターが下りてきてドアが開いた。
エレベーターに乗ると階数のボタンを押さなくても点灯しており、エレベーターが上がっていく。
「すごい設備だね」
「このマンションは設備とセキュリティはしっかりしているの。地下には、駐車場と警備員室と機械室があって、24時間警備員が常駐しているし、さっきの女の人もコンシェルジュ兼警備員さんなの」
だから、あの女の人は体格が良かったのか。
エレベーターのドアが開いて、樹里が先に下りる。右と左に小さな門とポーチが見えた。樹里は右のほうに行く。
「門があるんだ」
友達のマンションに遊びに行ったことがあるが、沢山のドアが廊下に沿って並んでいるという印象しかない。
「ここは1フロアに2部屋だけで、各部屋には門とポーチがある造りなの」
樹里は門の鍵穴に鍵を入れた。
「この門もセキュリティになってて、鍵を差し込まずに、こじ開けようとしたり、乗り越えようとしたりしたら、門のところにあるセンサーが働いて部屋のドアがロックされて、外からは開かないようになるの。警備員の部屋の警報が鳴ってすぐ飛んでくるから、勝手に開けようとしたらダメよ」
「そんなことしないよ」
「一つだけ合鍵があるけど、持っているのは家族だけで、入居の時に部屋に来る家族の写真を管理会社に出していて、入口の警備員がその写真と顔をチェックされるの。だから、カレシを家族だと嘘をついて鍵を渡すのは無理なの」
樹里は門を開け、部屋のドアの鍵を突っ込むと開けた。
「入って」
僕は入るのを躊躇った。小学校の時は女子の家に遊びに行ったこともあったが、思春期に入ってからは、行ったことが一度もない。妙に緊張してしまって体が動かない。
「なにボーっとしているの早く入りなさいよ」
「今まで女子の家に入ったことがないから、なんか緊張しちゃって体が動かない」
僕は苦笑いをした。一人暮らしの女子の部屋となると、余計に緊張してしまう。
「何バカなこと言ってるのよ。こっちまで緊張しちゃうじゃない。さっさと入りなさいよ」
樹里が眉間に皺を寄せて、僕の背中を押して無理矢理家の中に入れた。
玄関は広く、シューズクローゼットまであり、玄関から奥に向かって廊下がずっと続いており、正面一番奥に1つ、左右に2つずつのドアが見える。
「ちょっと待ってて」
樹里が右側にある一番手前のドアを開けて、中に入り、フカフカのタオルのようなものを持って戻ってきた。
「これで足を拭いてから入って」
「これで?」
「そうよ。なにか不満でも?」
「不満はないんだけど……」
「だったら、早く拭いて」
樹里は同じ扉を開けて中に入っていく。
どう見ても雑巾には見えない。タオルを広げると、ブランド物だ。フローラルの香りがする。こんないい物で足を拭いていいのか?
そういえば部屋の中は、樹里の香水とは違うとてもいい匂いがする。男子の部屋と違って女子の部屋はいい匂いがすると聞いたことがある。これは樹里の香りだろうか。樹里の香りを胸一杯に吸い込もうと大きく息を吸う。
「なにをしているの?」
ドアから出てきた樹里がびっくりしたように僕を見る。
「えーと……深呼吸」
僕は顔を引き攣らせた。
「何やってんの!! 馬鹿なことしてないで先にシャワーを浴びて」
樹里が出てきたばかりのドアを指す。
「ええ。いいよ」
さすがにそれはまずいだろう。
「風邪ひいて、わたしのせいにされるのは嫌なの。いいから入りなさい」
有無も言わせぬ調子に僕は足を拭いて中に入った。
6畳の僕の部屋の2倍以上もありそうなパウダールームになっていた。
洗面台も大きく、シャワーヘッドがついていて、頭も洗えるようになっている。洗濯機や乾燥機も置いてあり、着替えなどが置けるラックまであった。
僕はスマホや財布が入っているウエストポーチを外し、ラックの上に置いた。
「服や下着なんかはこれに入れて。後で乾燥させとくわ」
樹里も入ってきて、乾燥機を指差す。
「分かった。入れとく」
樹里が出て行くと、服を脱ぎバスルームに入った。
バスルームも大人3人ぐらいは余裕で入れそうな広さだ。シャワーで体と頭を洗い終えて、バスルームから出たとき、重大なことに気がついた。
着替えを持っていないのに、乾燥機に服や下着を入れてしまった。まさか裸で出ていくわけにはいかない。乾燥機から服を取り出そうかと思ったが、ふとラックを見ると、バスタオルとガウンが置いてある。気を利かせて樹里が置いてくれたのだろう。
裸の上にガウンを羽織るのはなんだか恥ずかしいが、この際そんなことは言っていられない。
バスタオルで体を拭いて、ピンク色のガウンを羽織った。ガウンのサイズは大きく、足がすっかり隠れてしまい、引きずるような感じになるが、フカフカして暖かい。
これは樹里のだろうか?
ガウンの匂いを嗅ぐとやっぱりいい匂いがする。
なんだか樹里に包み込まれているような気がしてきてちょっと興奮してくる。
頭の中で二人とも裸で後ろから樹里に抱きしめられている自分の姿が頭に浮かぶ。
僕はなにを考えているんだ!!
慌てて、頭を激しく振って妄想を振り払った。
今日の僕は変だ。前はこんなことを考えなかったのに。
紀夫があんなDVDをくれるからだ。まったく。紀夫に八つ当たりした。
ウエストポーチを手に持ち、ドアを開けて廊下に出ると、一番奥のドアが開いていた。
入れということだろうか。
入って行くと、30畳はあるリビングダイニングで、左側には革張りのいかにも高そうなソファーとローテーブルがあり、右側には、木製の天板がオシャレなダイニングテーブルとイスがあった。リビングにはローボードの上に80インチぐらいありそうな大型テレビが置いてある。樹里の姿はどこにもなかったが、リビングのローテーブルの上に『出てきたら、電話して』というメモが置いてあった。
樹里に電話をする。
「もしもし」
すぐに樹里が出た。
「出たけど」
「今、リビング?」
「うん」
「わたし、今からシャワー浴びるからドアを閉めてテレビでも見ていて」
「分かった」
「覗いたら殺すからね。それと、他の部屋を見たり、置いてある物に手を触れたら許さない」
樹里の脅すような声が聞こえてくる。
「覗かない。絶対覗かない。物に手を触れたりしない。誓います」
僕が誓うと、電話が切れた。すぐに飛んでいって廊下との境のドアを閉めた。
すごく座り心地のいいソファーに座って、ローテーブルの上に置いてあるリモコンに手を伸ばして、テレビのスイッチを入れる。
子供のように小さくされた高校生が推理をするアニメ番組をやっていた。このアニメは好きなので、大体毎週見ている。
最初は夢中で見ていたのだが、そのうち走ったり、シャワーを浴びたりしたためかだんだん瞼が重くなってきて、いつのまにか眠っていた。
どれぐらい寝たか分からないが、ドアが閉まるような音で目が覚めた。
何時だろうと思ってスマホを見ると、もう7時を回っている。
ガタガタと廊下の方で音がした。樹里がシャワーを浴びて出てきたのかと思って、ドアを開けると、目の前に男が立っていた。身長は180センチぐらいあるだろうか。僕を見下ろしている。
「お前、誰だ」
男がギロッと僕を睨んだ。足が竦んで動けない。
「えっと……」
「樹里はどこだ?」
男はブラックスーツを着ていて、スポーツ刈りをし、ガッチリした筋肉質の体で厳つい顔をしている。見た感じはかなりやばい仕事の人に見えた。呼び捨てにするところをみると樹里とはかなり親しいみたいだ。
ひょっとして樹里はこの男の愛人なんだろうか?
「樹里はどこだって聞いてるんだ」
男が妙にドスの効いた声を出す。
「シャワーを浴びています」
思わず本当のことを言ってしまった。
「なにい〜。シャワーだああああ。それにお前のそのカッコはなんだあー」
しまった!!
ガウンを着た僕に、シャワーときたら、誤解してくれって言ってるようなもんだ。
男の強烈な右ストレートが顔面に飛んでくる。僕は逃げることもできず、反射的に右を向いた。すさまじい衝撃が頬に走って、リビングの壁まで吹っ飛んだ。
ガーン。
物凄い音が響く。僕は壁にぶつかり、そのまま崩れ落ちた。
「どうしたの?」
樹里の驚いたような声が聞こえた。ピンクのニットを着て、デニムを履いた樹里がドアのところに立っているのが見える。
「樹里、こんな奴とお前なにしてるんだ」
男が振り返り、樹里を見た。
「樹里、逃げろ」
僕は叫んだ。男は頭に血が上っている。樹里になにをするか分からない。なんとか樹里を助けようと思って、もがくが体が痛くて動けない。
「お兄ちゃん? 何しているの?」
樹里の言葉に唖然とした。この男が樹里のお兄さん? 樹里とは似ても似つかない厳つい顔をしているが。冷静に考えれば、この男はインターホンを鳴らさずに入ってきたということは、合鍵を持っているということだ。合鍵を持っているのは家族だけだと樹里が言っていった。突然、男が入ってきたので、パニックになってそのことを忘れていた。
「ちょっと邪魔よ。隆司、大丈夫? お兄ちゃんに殴られたの?」
樹里はお兄さんを突き飛ばして、僕のそばに来ると心配そうに顔を見る。
「お前こそ、こんな奴と何をしてたんだ。シャワーまで浴びて」
怒りの治らない樹里のお兄さんは目を細めて樹里をにらんだ。
「バッカじゃないの。お兄ちゃんが考えているようなことはしていないわよ。隆司と映画を観に行った帰りに雨に降られて、びしょ濡れになったからシャワーを浴びただけじゃない。なに想像しているの。いやらしい」
樹里は軽蔑したような目で自分のお兄さんを見ている。
「なにがいやらしいだ。お前、まだそんな格好をしているのか。ストリートガールみたいなメイクをして」
樹里はいつものギャルメイクをしていた。
「顔を見せて」
樹里はお兄さんの言葉を完全に無視して僕のほうを向くと、頬を押さえている手を掴んで、その手を退けた。
「まあ、痣になってるじゃない。なんてことをするの」
樹里が非難するようにお兄さんを見た。
「それにその声は……」
お兄さんが無視されたことに腹を立てているのか大声になっている。
声? 樹里の声がどうかしたのかな? いつも通りのような気がするけど……。
“My brother, My brother……He is thingy, He is thingy ”
突然、樹里が身体中から殺気を漂わせ、いつもよりさらに低い声で、英語を喋り出し、体ごとお兄さんの方を向いた。
『He is thingy』ってどう言う意味だ? 僕にはまったく意味が分からない。
“Really?”
お兄さんは驚いたような顔になった。樹里が黙って頷いている。お兄さんは急に押し黙った。
「大丈夫? 病院に行く?」
樹里が心配そうに僕の方に向き直って、再び顔を見る。
「大丈夫だよ」
殴られたところを軽く押してみたが、骨とかは折れてる感じゃないし、歯も折れていない。
「こんなことして。隆司のお父さんとお母さんに謝りに行かないと」
樹里はお兄さんをにらみつけた。
「すまん。そうだな」
お兄さんは渋々という感じで頷く。
「そんなことしてもらわなくていいですよ」
いきなり樹里とお兄さんが家に押しかけてきたら、父さんも母さんもびっくりしてしまう。
「何言ってんの。こんな顔を見たらびっくりするわよ。どんな言い訳をするつもり。ちゃんと説明しないと、お父さんもお母さんも納得しないわ」
樹里はどこからか手鏡を取ってくると、僕の目の前に突き出した。
「げっ」
自分の顔を見て驚いた。顔が腫れて頬に拳型の青アザがくっきりと付いている。
これはマズイ。
「隆司の服はもう乾いていると思うからそれを着て。靴はまだ乾いていないから、ビニール袋に入れて持って。わたしのスリッポンを貸すわ」
僕が着替え終わると、樹里とお兄さんは玄関で待っていた。
「お兄ちゃんが車で来ているから、車で行きましょう」
僕はぶかぶかの樹里のスリッポンを履いてついて行く。地下2階が駐車場になっており、高級車が並んでいる。お兄さんは真っ赤なポルシェに近づくとドアを開けて乗り込んだ。
「隆司は後ろに乗って」
樹里はそう言って、助手席に乗る。僕が乗ってドアを閉めるとポルシェのエンジンがかかった。
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