第7話 勝気なカノジョがアメリカにいく理由

 なんとなく暗い気持ちで家に帰った。

 樹里みたいな性格の女子は大嫌いだったはずなのにキスまでしてしまった。

 付き合うなんて信じられないとあんなに思っていたのに、樹里と一緒にいる時間が楽しくなっているような気がする。

「ただいま」

 僕が沈んだ声で家の中に入ると、母さんが食卓に座っていた。

「お帰り。向こうから3月25日の午後に会いましょうって言ってきたわ。3月25日って、たしか卒業式よね」

 食卓にエアメールが置いてある。

「誰から?」

「許嫁よ。他にエアメールくれる人はいないでしょう」

 母さんがそう言った瞬間、自分が忘れていた重大なことが何だったかが分かった。

「それだ!!」

 僕は叫んだ。

「何よ、急に大声を上げてビックリするじゃない」

 母さんが不審げに僕を見る。

「その……そのことをすっかり忘れていたなあと思って……」

 そうだ。僕には許嫁がいたんだ。ちゃんと樹里に言おう。僕には許嫁がいるから、もう付き合いをやめようと言おう。

 きっと樹里は納得してくれると思う。嫌がらせで僕と付き合っているだけなんだから。

 そう心の中で決めた時、なぜかチクチクと胸が痛んだ。


 翌朝、僕は樹里のマンションに真っ直ぐ向かった。

 いつものように樹里の部屋番号を押し、樹里が出てくるのを待つ。これも今日で最後だと思うと、何か感慨深いものがある。樹里が出てくると、いつものように手を握って歩き出した。

「どうしたの? 顔、暗いよ」

「そうかな」

 どうしてだろう。樹里と別れることができるのになぜか気分が沈む。僕は無理矢理笑った。

「分かった。昨日のキスのこと気にしてるの? 大丈夫よ。本当にあれぐらいのキスなんて挨拶みたいなもんだから気にすることないわ。女の子同士でも挨拶であのぐらいのキスするわよ」

 ふざけて女の子同士でキスするということは聞いたことがあるが、挨拶代りにするというのは聞いたことがあまりない。

「違うよ」

「そういえばファーストキスとか言ってたものね。もう一度ちゃんとする? わたしはいいよ」

 樹里が少し屈んだ。したくないといえば嘘になるが、これ以上話をややこしくしたくない。

「今日、昼休みちょっと話がしたいんだ」

「いつもしてるじゃない」

 たしかにしている。お弁当を食べながら、樹里が見た映画や演劇の話、僕が最近読んだ本の話など他愛もない話をしていた。でも、今日は違う。

「ちょっと、大事な話があるんだ」

「今でもいいわよ」

「ごめん。昼休みがいいんだ」

 まだ心の準備ができていない。樹里が泣いたり、喚いたりすることは絶対ないだろうし、僕との付き合いをやめたくないと言うこともないだろう。せいぜい嫌がらせができなくなることへの不満を言うぐらいだろう。

 むしろ僕が樹里と会えなくなることが寂しくなるために躊躇っているだけだ。僕はなんて情けない奴なんだろう。あんなに樹里のことを嫌ってたのに。


 昼休みになると、樹里がいつものようにお弁当を持って教室にやって来た。最近は寒いので、テニスコートには行かず、僕の教室で樹里は紀夫の席に座って弁当を食べる。

 弁当を食べ終わると、樹里を誘って屋上へと向かう。ドラマとかの影響かもしれないけど、なんとなく、2人きりで話すのは屋上がいいのではないかと思い込んでいる。

「寒いわね。なんの話? 早くして」

 さすがに12月中旬の屋上は気温が低いうえに風が吹いて寒い。

 躊躇ってなかなか何も言わない僕に樹里がイライラしたように言った。

「ごめん」

 僕は頭を下げた。

「いきなりなによ」

「樹里とはもう付き合えない」

 胸がチクチク痛む。こんなことを本当は言いたくない。

「ハアー、どういうこと?」

「僕には許嫁がいるんだ」

 僕は顔を上げた。ギャルメイクをした樹里が戸惑ったような顔をしている。

 それはそうだろうな。普通こんなこと言われたらこういう反応になるよな。

「だから、もうわたしとは付き合えないって言うの?」

「うん。ごめん」

 もう一度頭を下げる。

「ダメ。絶対別れない。隆司から告っといて、なんでわたしが振られないといけないの?」

 樹里が腰に手を当て僕を睨んだ。

「でも、あれは……」

 告ったというより告らされたっていうか。

「あれはなに?」

 樹里がギロッと睨む。

「なんでもないです」

 なんか余計なこと言うと怖そう。

「そうでしょう? それにどうしてあの時、言わなかったのよ」

「それは、ウーンと……」

 まさか忘れていたとは言えない。

「で、その子はどんな子よ」

「知らない。会ったことがない」

「会ったことがない? どういうこと?」

「その子が来年の春に高校を卒業したら、僕と結婚しに日本に来る……らしい」

「らしい? らしいって何よ」

「色々事情があって、父さんたちはそういうことになるだろうと言っていた」

 簡単に両親から聞いたことを話した。

「フーン。隆司はどうしてもその子と結婚しないといけないんだ」

「たぶん」

「でも、それはわたしとは関係ないわ」

「だけど、父さんと母さんが約束した以上守らないといけないと思うんだ」

「隆司はわたしが当番をちゃんとすれば、付き合うって約束したわよね」

「したよ」

「わたしは約束どおりちゃんと当番をしてるわよね。そうでしょ?」

 それは認めます。僕は頷いた。樹里の当番が終わるまで図書室で本を読んだり、勉強したりして待っているので、当番をやっているところを見ている。

 もっとも僕が当番の時、樹里は「待っている間することがなくて暇だから先に帰るね」って言って、なんの躊躇いもなく帰っているけど。

「じゃあ、わたしとの約束も守らないといけないわよね」

「そうだね」

「だったら、約束どおりこれからも当番をちゃんとするし、委員会にも出るわ。それなら、振られる理由はないわよね」

「どうして僕にそんなにこだわるの? 樹里なら僕よりカッコいいイケメンといくらでも付き合えるだろう?」

 自分で言っていて情けないが、僕は全てにおいて平均以下だと思っている。樹里なら僕よりもっといい男と付き合えるはずだし、実際に付き合っていた。

「別にこだわってないわ。ただ、振られるのがイヤなだけよ」

 樹里が屈託なく笑う。

「でも、僕と付き合っててもつまらないでしょう」

「別にそうでもないわ」

 僕に嫌がらせをするのが楽しいんだろうか。

「でも、やっぱり無理だよ。このまま付き合うのは許嫁を裏切っているようで悪い。本当にごめん。気がすむなら殴ってもいいよ」

 樹里と付き合うことは許嫁に悪い。少々痛い思いをしても仕方がない。

「その子が来るのは春なのよね」

「そうだよ」

「だったら、付き合うのは卒業まででいいよ。その方がその子のためにもなると思うわよ」

「どうして?」

「隆司は女子と付き合ったことないから、女子のことよく分からないでしょう?」

「う、うん」

 年齢と同じだけカノジョいない歴の僕が女子の気持ちが分かるわけがない。

「そんな女子の気持ちも分からない隆司と結婚したらその子がかわいそうだよ」

「そ、そうだね」

「わたしと付き合えば少しは女心も分かるようになるわよ。だったらその子にとってもいいことじゃない」

「う、う〜ん」

 樹里の性格はあまりにも特殊すぎると思うんだけど。

「それに、わたしもそのつもりだったし」

 何気無く樹里が言った。

「そのつもりだったってどういう意味?」

「あれっ? 言ってなかったっけ」

「聞いてない」

 僕は首を横に振った。そんな話は一言も聞いていない。

「おかしいな。言ったつもりだったんだけど……」

「聞いてない」

「卒業したら、アメリカに行くの」

「アメリカって……留学?」

 樹里の家は金持ちのようだ。樹里を留学させるぐらいなんでもないだろう。

「えっ? 留学じゃないんだけど。えーっと……」

 樹里は何かブツブツ口の中で言いながら、突然空を見上げた。

 しばらくすると、樹里の目の端から涙がこぼれ落ちてくる。樹里が涙を流すなんて。何かよっぽど言いたくない事情があるんだろう。余計なことを聞いてしまった。

「ごめん。言いたくないなら別に言わなくていいよ」

 僕は慌てて言った。

「そうだ。期末テストは終わったし、大学も通ったから、週末暇でしょう?」

 樹里が急に思いついたように言う。

「別に用事はないけど」

 受験勉強もする必要がなくなったし、遊びに行く予定もない。用事があるとすればせいぜい母さんに頼まれて買い物に一緒に行くぐらいだろう。

「土曜日に映画を観に行こうよ」

「映画?」

「そう。駅前に2時。待ってるからね。寒いから教室に戻るわ」

 樹里は一方的に言うと、教室に戻って行った。

 なぜアメリカに行くか樹里は何も答えてくれなかったので、理由は分からないが、きっと映画を観れば分かるということなんだろうか?

 でも、これってデートじゃないのか?

 付き合うのをやめようと言いに来て、なんで僕はデートの約束をしているんだろう。

 いや。これはデートじゃない。アメリカに行く理由を樹里に聞いた以上、僕にはその答えを聞く義務があるんだ。


 約束の土曜日、僕は駅前に待ち合わせの時間より10分前に着いた。

 学校をよく遅刻する樹里のことだから、まだ来ていないと思っていたが、もう来ていた。

 土曜ということもあって人が多いが、樹里は背が高く、美人だから人混みの中に立っていてもすごく目立つ。

 樹里はギャザーの入った薄いベージュのマキシ丈のワンピースに黒のライダースを着ている。なかなかボーイッシュだ。

 樹里に背の高い大学生ぐらいのイケメンが大きな声で話しかけていた。

「ねえ、1人? 美味しいイタリアンの店知っているんだけど今から行かない? 君、美人だから奢るよ」

 樹里はチラッと男を見て、何か言った。

「……」

 少し離れているので樹里の低いボソボソとした声がなにを言っているのかはっきりとは聞こえなかったが、そんな長い言葉には思えなかった。

 その大学生はポカンとした顔をして立っている。一体なにを言ったんだろう。


「あっ、隆司」

 大学生を無視して、樹里が僕を見つけて手を振ってくる。僕が近づいていくと、大学生は舌打ちをして、「何がゲラだよ。笑ってなんかいないぜ」と、ブツブツ呟いてどこかへ行ってしまった。

「ナンパ?」

「そうよ。最低」

 樹里は怒りの目を男の背中に向けた。

「樹里、あの男の人になんて言ったの?」

「あっちへ行けって言ってやったの」

「そう」

 でも、あの大学生なんで笑っていないとか言って怒っていたんだろうか?


「行くわよ。ああ、気分悪い」

 歩き出す樹里の後を慌ててついて行った。初めてのデートだと思うとなんかウキウキする。

 いや、違う、デートじゃない。樹里がどうしてアメリカに行くかを聞くために行くんだ。それさえ分かれば、樹里と別れる話をちゃんとしないといけない。

 樹里が駅前の映画館の入っているビルに入って行く。ビルは20階建てで映画館は一番上にある。ビルに入るとすぐエレベーターホールがあり、エレベーターに乗る人が結構いた。

 途中の階で人が次々と降りていき、結局エレベーターの中には僕と樹里だけが残った。

「ボタン押しておいて」

 20階に着くと、樹里に言われるままに『開』のボタンを押す。樹里が先に降りると、僕も降りた。映画館のチケット売り場には人がもうかなり並んでいる。

「この映画を観たいの」

 チケット売り場の前に置いてある大きなポスターが並んでいる中の一つを指差した。

 僕でも知っている人気の若手俳優と女優が並んで写っている。たぶんかなり人気がある映画だろう。封切りされたばっかりの人気映画なら、いくつものスクリーンでやっているが、樹里が見たいと言った映画はもう封切られて随分経っているのかスクリーンは1つしかない。時間を見ると、上映時間の20分ぐらい前だ。

「チケット買いに行ってくるよ」

 チケット売り場へ行こうとすると、樹里が呼び止めた。

「お金出すわ」

 黒いグッチの長財布から1万円札を出して、僕に差し出してくる。

「いいよ。僕が出す」

 お弁当を毎日作ってもらっているのにお金を払っていない。樹里はいいと言うが、そういうわけにはいかない。母さんから昼ごはん代にもらっているお金がかなり貯まっている。

 もちろん今日帰ったら事情を話して残りは母さんに返すつもりだ。

「通路側がいいわ」

 僕は頷いて、チケット売り場へ行く。かなり後方だが通路側とその隣の席が空いていた。

「空いてたよ」

 樹里にチケットを渡した。

「そう。ねえ、喉が渇いたわ。コーラのLとポップコーンのキャラメル味を買ってきて。これで隆司の分も一緒に買って」

 先ほどの一万円札を差し出した。

「いいよ。僕が出すよ」

「これで買ってきなさい」

 樹里が命令口調で言う。仕方なく受け取る。売店に行って、樹里の分と僕のオレンジジュースとポップコーンの塩を買う。店員さんがポップコーン用の穴とジュース用の穴が空いていて、一緒に入れることができる箱みたいなものに入れて渡してくれた。

「買ってきたよ」

 僕は樹里の分とお釣りを渡そうとした。

「行きましょう」

 樹里は僕にポップコーンの箱を持たせたまま歩き出す。

 僕に持てということね。落とさないようにゆっくり歩く。樹里はスタスタ歩いて入口のところで僕を待って、2枚のチケットを係りの人に渡して中に入る。僕も後ろからついて入った。

 5番と書かれた中に入ると、中は7割ぐらいの人が座っていた。樹里は後ろへ歩いて行って立ち止まった。通路側から3番目の席には女性が座っていたので、樹里が座るだろうと思うと、目で僕に奥へ入れと指示する。

「えっ!!」

 女性の隣には、座りにくい。樹里はポップコーンとジュースの入った自分の分の箱を僕から奪い取ると、イラついたようにもう一度目で合図をしてくる。

 仕方ない。僕は奥に入る。隣の女性は大学生ぐらいで、チラッと僕を見て嫌そうな顔をした。それはそうだろう。男女連れできたら、女性の横には、普通は女性が座るよな。

 横の樹里を見ると、通路側の席に座って、ポップコーンを食べたり、コーラを飲んだりしている。僕も隣の女性を気にしないようにして、ポップコーンを食べた。


 しばらくすると、暗くなりコマーシャルと上映予定の映画の紹介の後、映画が始まった。

 高校生同士の恋愛映画だ。

 バスケットボールの有望選手だった主人公の男子高校生が脳腫瘍が見つかり、アメリカで手術することになる。成功確率は20パーセント。たとえ、成功してももうバスケットのような激しいスポーツはできなくなると宣告される。

 自暴自棄になる主人公だが、両親やクラブの仲間、そして1学年下の同じバスケット部のカノジョに支えられ、手術へとアメリカに旅立っていく。

 残されたカノジョは主人公の意志を継ぐかのようにバスケットに打ち込み、3年生になった時、チームを高校総体決勝へと導いていく。

 高校総体決勝の日に客席でカノジョの活躍を見つめる車椅子姿の主人公の姿があった。カノジョの活躍を涙を流しながら見つめる主人公。

 最後は優勝してメダルを掛けられたカノジョと抱き合い、再会を喜ぶ主人公とカノジョの姿が大写しになって、エンドロールが出た。


 よくあるパターンの話だが、抱き合う2人の姿を観て、涙が出た。鼻をすする音があちらこちらから聞こえる。隣の女性も目をハンカチで押さえていた。

 樹里のほうを見ると、平然としてスクリーンを見つめたまま、まだポップコーンを食べている。

 エンドロールが終わるとパッと明るくなる。樹里はゆっくりと立ち上がった。僕も立ち上がり、後ろからついていく。樹里から空になったコーラのコップとポップコーンの入れ物を渡されて、僕の分と一緒にゴミ箱に捨てた。

「よかったね」

 僕は樹里に話しかけた。樹里は横に並んだ僕の腕をとって、腕を組んでくる。

「よくあるわよね。この手の話。今のはやりなのかな。よく泣けるわね」

 樹里はどこまでも冷めている。

「隣の女の人も泣いてたよ」

「そう」

 関心なさそうに言う。

「どうして、樹里は通路側に座ったの? 僕の隣は女の人だったから樹里が座った方が良かったんじゃない?」

 隣の女の人は僕が座ったとき、少し嫌そうな顔をしていたことを思い出す。

「隆司はあの女の人を知ってるの?」

「知らないよ」

「じゃあ、あの女の人がわたしに痴漢をするかもしれないじゃない」

「そんなこと……」

 僕は絶句した。

「でも、隆司あの人のことを知らないのよね。あの人にそういう趣味がないと言い切れる?」

 そういう趣味の女性がいないわけじゃない。たしかに彼女を知らないんだから分からない。

「それはそうだけど」

「それとも拳銃を突きつけられたり、ナイフを突きつけられるかもしれないじゃない」

「日本ではそんなことないよ」

「そうかしら? でも確率は0ではないわ。そうでしょう?」

「う〜ん」

 言っていることが極端すぎて、どう答えていいか分からない。

「隆司はわたしがそんな目にあっても平気?」

「平気じゃないよ」

「わたしが危ない目にあいそうになったら、守ってくれるわよね」

「うん」

 いくら樹里が気が強くても女の子だ。喧嘩とかはからっきしダメだが、精一杯守る。

「隆司が間にいたら、わたしを襲えないでしょう。それに隆司が襲われたら、わたしはその間にすぐ逃げられるし。だから、通路側に座ったの。分かる?」

「そういうことか」

 つまり、僕を盾にしたってわけだ。樹里が僕の顔を見てニヤっと笑った。

 僕と樹里が帰りのエレベーターに乗ったとき、ようやく本来の目的を思い出した。

 今日は樹里とのデートに来たのではない。樹里がアメリカに行く理由を聞きに来たんだ。

 そんなことを考えているうちに、エレベーターが1階に着いた。僕と樹里は映画館の入っているビルから出た。

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