第6話 勝気なカノジョと初めてキスをした
合格発表までの1週間が1年のように永く永く感じた。
早く来て欲しいような来てほしくないような悶々とした日々をすごす。
もういっそのこと何もかも捨てて逃げ出したい気持ちにもなる。
そんな僕の様子を樹里が冷たい目で見て、「肝っ玉の小さい男ね」と、のたまう。
そうだよ。僕は気の小ちゃな情けない男だよ。そんな男が嫌いならサッサッと振ってくれ。
そんな悶々とした気持ちで毎日を過ごしていると、ついに合否の通知が来る日になった。
合否は郵便で通知されてくる。昨日の午前中に発送されているから今日には着くはずだ。
ホームページ上では、昨日合格発表が行われているが、僕には変なこだわりがある。
郵便で通知をしてくれるというのに、先にインターネットで見るというのは納得がいかない。なぜだと聞かれてもそれが僕のこだわりだからと言うしかない。
昨夜は、発表が気になって気になって、全然眠れなかった。寝よう寝ようとしてもどうしても発表のことばかりが頭をよぎって、一向に眠気がこなかった。
気がつけば、起きる時間になっていった。目は開いているが、頭がボーっとしている。
いつものように樹里にモーニングコールしてから机の前に座っても、合否のことばかり考えてしまう。
大丈夫だっていう気持ちと、どこかでミスしたんじゃないだろうかとか面接の受け答えはあれでよかったのだろうかとか頭の中であれこれ考えてしまう。
食卓で、母さんが話しかけてきてもほとんど聞こえてこない。
そんな僕を見て、母さんも父さんも「不合格になったら浪人すればいいんだ」と言ってくれるが、家の家計を考えたら、甘えることはできない。
学校でも合格発表のことが頭から離れなかった。その僕の様子を見て、樹里には「今日、わたしは当番だけど先に帰っていいよ。目の前でオロオロされても鬱陶しいだけだから」と突き放すように言われ、紀夫には、「きっと大丈夫だよ」と根拠のない励ましを受けた。
授業にも全く身が入らなかった。郵便が来たら母さんが知らせてくれることになっているので、休み時間ごとにメールをチェックしたが母さんから何もきていない。
終礼が終わると、僕は教室を飛び出して家に向かって急いだ。
家に帰る途中でメールの着信音が鳴った。スマホを見ようかと思ったが、僕はそのまま見ずに家に帰ることにした。ここまできたら自分の目で確かめたい。
僕は家に入ると、すぐにダイニングに向かった。
「来たわよ」
母さんがテーブルの上を指す。僕はテーブルを見た。
大きい封筒だ。深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから封をハサミで切る。
「合格」の文字が目に飛び込んでくる。
「ヤッタア!!」
僕は大声をあげた。
「よかったね」
母さんもホッとした顔をした。
これで僕は春から大学生だ。
夕食は豪華だった。母さんは寿司屋さんで大トロや鯛の握りが入っている盛り合わせの寿司桶を取ってくれ、さらに『合格おめでとう』と書かれたホールケーキまで買って来てくれ、父さんは丸ごと1匹のローストチキンを買って帰ってきた。
父さんと母さんが次々と皿に料理を入れてくれる。僕は今までに味わったことがない豪華な料理を堪能した。
部屋に戻ると、樹里に電話をした。合格できたのも樹里のお陰と言ってもいい。
樹里が新聞の記事の話をしてくれと言わなければ、毎日新聞を読むことがなかっただろう。もし、新聞を読んでなかったら、あの小論文には相当苦戦していたと思う。
樹里のスマホに電話したが、なかなか出ない。切ろうかと思った時に樹里の低い声がした。
「もしもし」
「樹里。合格した」
「……そう。おめでとう」
ほとんどなんの感情もこもっていない声だ。
「樹里のお陰だよ」
「どうして?」
「樹里が毎日新聞の記事の話をしてと言ってくれたお陰だよ。樹里に話した事と同じようなテーマの問題が出たんだ。だから小論文を上手く書けたと思う。ありがとう。感謝しているよ」
僕は涙が出そうになる。
「偶然よ。よかったわね」
声はいつもどおりだが、何となく喜んでくれているような気がする。
「うん。ありがとう」
「じゃあ、また明日」
樹里がもう要件は終わったよねという感じで言った。
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
樹里は僕と嫌がらせで付き合っているかもしれない。僕も樹里とイヤイヤ付き合っていたつもりだが、だんだんと樹里の存在が僕の中で大きくなってきているような気がする。
早く僕を振ってくれないだろうか。このまま続いたら、樹里のことを好きになってしまうかもしれない。
翌朝、僕はいつものとおり5時に起きた。もう早朝の勉強をやめていいんだから起きる必要はないが、習慣になってしまったのか勝手に目が開いてしまう。
もう寝れそうにもないので、僕は新聞を取りに行き、ゆっくりと読む。
6時になると、樹里に電話し、いつも通りの時間に出てマンションの前に行くと、いつもはまだ部屋の中にいる樹里が珍しく入り口に立っていた。
「どうしたの? 珍しい」
「今日は調子が良かったから寝起きがよかったのよ。たまにはいいでしょう」
樹里がいつものように僕の手を握って歩き出す。
「調子がいいんなら良かった。何かあったのかと思った」
人が違うことをする時、何か理由があるというのを何かの本で読んだことがあった。
「合格おめでとう。ところで、大学では何を勉強するの?」
「妖怪」
「妖怪? 『ファントム』とか?」
ファントムってたしか『オペラ座の怪人』に出てくる怪人の名前だよな。
「ちょっと違うけど、座敷わらしとかあずきとぎとかそっちの方かな」
西洋の魔物と日本の妖怪は少し違う。西洋の魔物は悪者というイメージだが、日本の妖怪は必ずしも悪者ということにはならない。
「ああそうか。柳田國男とかっていうことね」
「そうそう。民俗学的見地から妖怪のことを勉強したいんだ。でも、柳田國男なんてよく知っているね」
樹里が柳田國男を知っていることに少し驚いた。
「学校の教科書に載ってたわよ。『遠野物語』」
そういえば国語の教科書に載っていたような気がする。
「進路が決まって安心した?」
「うん」
僕もこれで一安心だ。そういえば、樹里の進路を聞いていないな。前に聞いたときは『ヒミツ』とか言って、はぐらかされた。
「樹里は進路どうするの?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
「ヒ・ミ・ツ」
樹里が指を口に当てた。
「どうしてそんなに秘密にするの?」
「今は答えたくない。答えられるようになったら、言ってあげる」
「そう」
本人が言いたくないなら無理に言わせることはできない。
「またお昼休みね。今日のお弁当は期待していいわよ」
樹里は教室の中に入っていく。
あんなに進路のことを言うのを嫌がるなんて、一体何があるんだろう。
自分の教室に向かう途中で、今日も新聞記事の話をしなかったということに気づいた。もういいのかな。
昼休みになると、樹里はテニスコートのベンチまで僕を引っ張って行く。
「うわぁー。すごいご馳走だ」
いつもは弁当箱一つだが、今日は二つある。弁当箱を開けると、一つにはオムライスだ。上の卵焼きには合格おめでとうとケチャップで書かれていて、チキンライスが包まれている。もう一つにはおかずが入っており、エビチリ、フレンチドレッシングがかかっているサラダ、鯛の煮付け、そしてステーキまで入っている。僕が今まで美味しいと言ったものがみんな入っているような気がする。
「合格祝い。いっぱい作ってあげたから全部食べなさい」
樹里が脅すようにいう。なぜそんな脅すように言うんだ。
「このステーキすごく柔らかい。高かったんじゃないの?」
この肉は絶対いい肉だ。口の中で蕩けそう。今までこんな肉を食べたことがない。
「大丈夫よ。昨日、私が食べた残りだから。わざわざ隆司のために買ったものじゃないわ」
食べ残しと聞こえて、樹里の赤いルージュを引いた唇を見た。あの唇で食べた残り?
「今、私の唇を見たでしょう? 食べ残しじゃないわよ。夕食に使った残りの肉を使ったって言ってるんだからね。なんか変なこと考えてたでしょう? いやらしいのね」
樹里が揶揄うような目で僕を見る。
「そんなこと考えてないよ」
顔がカーッと熱くなる。
お弁当を残さず全部平らげた。もうお腹いっぱいでなにも入らない。こんな豪華で美味しいお弁当を作ってくれるカノジョがいるなんて僕はなんと幸せ者なんだろう。
「すごく美味しかった。作るの大変だったんじゃない?」
これだけのものを作ろうと思ったら、相当な手間ひまがかかったんじゃないかな。
「大丈夫よ。これぐらいなんでもないわ」
「ありがとう。最高のお祝いだよ」
「気にしなくていいわ」
樹里が微笑んだ。
「そろそろ行こう」
今日はお弁当の量が多かったので食べるのに時間が掛かってしまった。
「そうね」
樹里も立ち上がり、並んで歩く。僕はこっそり樹里の整った横顔を盗み見る。
駄目だ。樹里は美人すぎる。僕は樹里のことが好きになり始めている。
どうしよう。
大学に無事合格し、期末テストも終わり、あとはクリスマスと正月だけという浮かれた気分で、僕はいた。
いつものように一緒に登校した樹里と別れて、教室の入り口を開けると、紀夫が待ちかねたように手招きをしている。
「これ、合格祝い」
席に着くと、紀夫が紙袋を差し出してきた。
「ありがとう」
さすが親友だ。忘れずに合格祝いをくれるなんて。
そういえば、紀夫も大阪の大学にスポーツ推薦で合格したけど、合格祝いはまだしていなかったな。あとで何か考えよう。
紙袋を開けて、さっそく中を見る。裸の女の写真が目に飛び込んできた。
「もしかしたら、これ?」
「紀夫特選のエッチDVDだ」
「お前なあ。何考えてるんだ」
「何って。お前、これは俺の中ではベスト10に入るものばっかりだぞ。お前だから特別にやるって言ってるんじゃないか」
確かにDVDが10枚入っている。ひょっとして、大阪の大学へ行く前に自分のコレクションを処分したいだけなんじゃないのか。
「いらない」
紀夫に紙袋を差し出す。
「絶対、見て損はないぞ。俺が保障する。お前、真面目だからな。ずっと貸してやるって言っているのに、いらないなんていうから。カノジョができたんだから、これを見て少しは勉強しろ」
なんの勉強をしろって言うんだ。それに樹里と僕はそんな関係じゃない。
「やっぱり。いいよ」
「いいから。持って帰れ」
どうしても紀夫は受け取らない。
「一応、もらっとくよ」
持って帰るしかないが、どこに置こう? 母さんに見つかったら大騒ぎになるだろうな。
「ところで、石野と上手くいってるのか? 昼飯を一緒に食べてるぐらいだから大丈夫そうだけどな」
樹里は僕と嫌がらせで付き合っているだけだから、上手くいっているかどうか分からない。
樹里が飽きない限りこの関係は続くだろう。今のところは飽きられていないみたいだけど。
「まあそうかな」
「そうか。これでしっかり勉強してお互い頑張ろうぜ」
紀夫が親指を立てた。これを見てなにを頑張るんだ? こんなもので勉強したことを実践したら樹里にぶっ飛ばされる。
「ハアー」
僕は盛大なため息をついた。まあそれでも合格祝いをしてやろうと思ってくれるだけ有難い。その気持ちだけでも嬉しかった。
終礼が終わって、帰る用意をしていたら、いきなりクラスの女子3、4人が僕を取り囲んだ。
「なに?」
突然のことで僕はパニックになりそうになる。女子とは用事がある時以外はほとんど喋ったことがない。
紀夫が心配そうな目で振り返ってこっちを見ている。
「澤田君、石野さんと付き合っているんでしょう」
クラスの女子では一番可愛いと言われている渡辺さんが口を開いた。
「……」
僕は声が出ない。元々、女子と喋るのはすごく苦手だ。樹里の時みたいに用事があって喋るならまだ喋れるが、こんな風にわけも分からず囲まれたりしたら、どうしていいか分からなくなってしまう。
「聞こえなかった? 付き合っているの? いないの?」
渡辺さんが詰問口調になる。渡辺さんはストレートの髪を肩先で揃えていて、大きな目をした西洋人形みたいな可愛い顔をしているが、性格はかなりキツイ。だから、顔は可愛いが男子受けは非常に悪い。
「えっと、あのー」
渡辺さんのキツイ調子に完全にテンパってしまい、ますます言葉がうまく出てこない。
「イライラするわね。どっちなの」
渡辺さんの眦が上がる。
「そうよ。はっきりしなさいよ」
渡辺さんの取り巻きの女の子たちも口々に責めるように言う。樹里といい渡辺さんたちといい、うちの学校の女子は気が強い。
思わず、下を向いてしまう。
女子たちに囲まれて口々に責められ、緊張と怖さで体が固まってしまい、もう泣きそうだ。
「おい……」
僕のことをよく知っている紀夫が堪りかねたような声を出したのと同時だった。
「付き合ってるわよ。それが何か?」
突然、樹里の低音が聞こえた。顔を上げると、いつのまにか樹里が小柄な渡辺さんの後ろに立っていた。渡辺さんを押し退けるようにして僕のそばにくる。
「わたしのカレシと何を話しているの? 渡辺さん」
樹里が肩に優しく手を置いた。気持ちがスーッと落ち着いてくる感じがする。
「大丈夫? 落ち着いて。わたしに任せて」
樹里が少し屈んで、今まで聞いたことがないような優しい声で囁く。
「別に。石野さんと澤田君が本当に付き合っているか聞きたいだけよ」
渡辺さんが挑むように言う。
「それが渡辺さんと何の関係があるのかしら?」
樹里がゆっくりと渡辺さんの方を向いた。
「カレシなら石野さんが他の子のカレシを取らないように躾をしてもらおうと思ったのよ」
僕より一回り小柄な渡辺さんが見上げるようにして、樹里を睨みつける。
「あら、人のカレシなんか取ったことないわよ。勝手に向こうが寄ってくるだけ。その子に魅力がないからわたしに寄ってくるんじゃないの?」
「そうよね。石野さんは顔だけはいいですものねえ〜。性格は別にして」
渡辺さんが嫌みたらしく『顔だけ』の部分を特に強調して言う。
「少なくとも渡辺さんにそんなこと言われる筋合いはないと思うんだけど。渡辺さんのカレシを取った記憶はないし。そもそもカレシもいなさそうだし」
渡辺さんの顔色が変わった。
「うるさいわね。そんなこと関係ないわ。1年経っても相変わらず、同じことばっかりして、みんなが迷惑しているって言ってるのよ。成長しない人ね」
渡辺さんが噛みつきそうな顔で言った。せっかくの可愛い顔が台無しだ。
「相変わらずお節介ね。その性格だったらカレシは出来ないわね。そういえば、2年生の時に、好きな子がいるみたいなこと言ってたわよね。でも、その性格だったら無理よね。そんなにガミガミ言われたらカレシが可哀想だもの」
樹里が意味ありげに紀夫を見たような気がした。
そういえば、樹里と渡辺さんは2年生の時、同じクラスだったよな。
でも、どうして樹里は紀夫の方を見たんだ。
「うるさいわね。性格のことを石野さんに言われたくないわよ」
渡辺さんの顔が真っ赤になり、今にも掴み合いの喧嘩をしかねない顔付きをしている。2人の勢いに渡辺さんの取り巻きは完全に引いてしまって、このままじゃ本当に喧嘩になってしまうかもしれない。
どうしたらいいんだ。
紀夫と目が合ったが、紀夫は小さく両手を上げた。
お手上げということか。
僕のためにこんなことになってるんだ。なんとかしないと。でも、どうしたらいいんだ?
「僕と樹里はラブラブなんだから。樹里が他の人のカレシを取ったりするわけないよ」
体が勝手に動く。僕は立ち上がると背伸びをして、素早く樹里の唇にキスをした。
キスと言っても唇が触れるか触れないかのものだ。でも、それは僕のファーストキスだった。
「きゃー」
女子たちが悲鳴に似た声を上げる。渡辺さんがポカンと口を開けていた。
樹里もビックリした表情で僕を見つめている。
「そ、それだけ仲がいいなら大丈夫よね」
渡辺さんがぶつぶつ言いながら、僕と樹里から離れていった。取り巻きも後について行く。
「時々、お前、とても想像できないようなことをするよな。カノジョが待っているから、クラブに行ってくるわ」
僕の肩を叩き感心したように言って、紀夫は教室を出て行った。
僕と樹里の周りには誰もいなくなった。
教室に残っているクラスメイトが僕と樹里を見て、何か囁き合っている。
「帰ろう」
樹里は何事もなかったかのように言うと、呆然としている僕の手を取って引っ張った。
慌てて手を伸ばして鞄を掴むと、樹里に引っ張られていく。校門を出ると、樹里は引っ張るのをやめた。僕と樹里は手を繋いだまま無言でしばらく並んで歩く。
「どうして、あんなことをしたの? 無理しちゃって」
樹里が不思議そうに顔が火照ったままの僕を見た。
「なんとかしなくちゃと思ったら、体が勝手に動いたんだ」
2人を止めなきゃという思いだけで、体が動いていた。思考は完全に停止していた。
「呆れた。わたしとそんなにキスしたかったの?」
「ごめん。でも、樹里にとってはキスなんて挨拶なんだろう?」
「バカね。あれは頬や額へのキスのことよ。唇にキスをするのはよほど親しい人にだけよ」
樹里が呆れたように言う。
「ウソ!!」
僕はなんという勘違いをしたんだ。顔から火が出そうだ。
「隆司はカレシだから別に平気だけど」
「でも、僕はファーストキスだった……」
僕はボソッと呟いた。
「なんか言った?」
「なんでもない。じゃあー、また明日」
いつの間にか、ちょうど樹里のマンションの前だったので樹里に手を振ると、あまりの恥ずかしさに走って家に帰った。
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