第8話

 詩織の夢を見なくなってから、私は寝起きに頻繁に吐くようになっていた。寝起きに吐くというよりは、吐き気のために急に体を起こされ、そのまま考える間もなくトイレに向かう、そういう状況になっていた。何かしらの夢を見ていた感覚は一切なかったが、最後に彼女の夢を見たときの、あの時の感触だけは私に染みついていた。両腕は痺れ、また恐怖から震えた。足には力がなかなか入らず、それに立ち眩みもひどかったので、私はしばしば、吐いた体制のまま動けなくなった。起きがけの嘔吐は、食後のそれよりもよっぽど辛かった。大抵の場合、数回嘔吐くまで何も吐けず、細くてイガイガした声が喉を引っかくだけであった。やっと何かを吐ける、という感覚がしても、強烈な酸性の消化液が、ぴしゃっ、と微量出るだけであり、傷だらけの気道の粘膜に染みて痛みを感じた。口の中は、酸っぱいような苦いような踏ん切りのつかない味と、辛さに似たような味が喧嘩しており、歯の表面を僅かに侵食してもいた。もう何も出るものはなかったが、それでも便器に向かって何回も嘔吐き、そうしている内にわけもわからず涙が溢れてくるのであった。こうして、自分の命を削るようにして嘔吐し続けていれば、自分の嫌いなところ、悪いところまで体外に出すことができるのだろうか。それとも、仮にそれができたとしても、それでも嘔吐は止まらず、最終的に私は空っぽの人形になってしまうのだろうか。どちらに転んでも、もうどうでもよかった。私は便器の横に崩れて倒れ込み、声を上げて泣いた。その時の、あまりにも醜い自分の姿を、私は頭の中で俯瞰してみる。第三者視点で傍に立つもう一人の自分が、横たわった自分を見下ろしているところを想像すると、その滑稽さに堪え切れず、倒れている私は泣きながら笑った。掠れて乾いた声が、黴臭いユニットバスに反響した。

 その頃の私は、欲求が非常に不安定な状態にあって、毎日生活態度を変えていた。ある日はこってりしたラーメンを宅配してもらい、満幅の状態でさらにコーラとスナック菓子を貪るように食べたが、またある日は一日中何も食べず、ひたすらマスターベーションに励む時もあった。早朝に起きてラジオ体操を第二までこなし、一日に二度シャワーを浴びる時もあれば、二日間風呂に入らずに、納豆のようなむわっとした異臭を頭皮から放ちながら、朝日が昇るころに寝始めることもあった。部屋の中は、以前は酒の空いた容器が散乱していたが、そこに徐々に煙草の箱も並ぶようになった。ガスのなくなった百円ライターは机の脇に積み重なり、どこに何本残っているかわからないカラフルな箱が壁を作っていた。だんだんと肌寒い季節になるにしたがって、部屋の外の空気は冷たく、すっきりと乾いてくるのとは反対に、私の部屋の中は湿っぽく、いつも心地悪い温かさがあった。北川と会う日が決まってから、多少はそんな態度を見直したからよかったものの、もし彼女との約束の日がもう少し遅かったら、私は人知れずその部屋で灰になっていたかもしれない。そのくらい、私はぎりぎりの状態にあった。



 机の上に置かれたカフェラッテのような見た目のカクテルは、先ほどのカクテルと同様、甘い香りがする。

「美味しそうだ。これはなんて名前のカクテル?」

「アレキサンダーよ。さっきのカクテルが気に入ったなら、これもきっと好きになると思う」彼女は、乾杯、と小さく言って私にグラスをゆらっと向ける。こくっ、と僅かに上下する彼女の喉を見ていると、私は目の前のアレキサンダーよりも、彼女の胃の中で出来上がりつつある新種のカクテルの味のイメージが勝手に脳内に湧き上がってきて、私はごくんと生唾を飲み込んで慌てて視線を逸らした。

「どうしたの、もしかしてコーヒーは苦手?」

「いや、なんでもない、頂くよ」私はそのカクテルを口の中へ運ぶ。舌先に触れた瞬間、グラスホッパーよりも強いアルコールを感じる。酒特有の苦味が、カカオの苦味とブレンドされ、香ばしさが同時に広がる。舌の全体に行き広がると、ブランデーの芳ばしい、醸成された奥深さをゆっくりと味わうことができ、飲み込むと後には生クリームのまろやかさが残る。昼間は喫茶店をやっているという、このお店のいいところがぎゅっと凝縮されているような一杯に、私は思わず感嘆の熱い息を吐いた。

「どう、なかなかいけるでしょ」

「ああ。俺はどうやら北川と好みが合うらしい」

「後で頼もうと思っているものも、それなら安心だわ」彼女はそういってクラッカーを一枚手に取り、何もつけずに一口でさくさくと食べる。

「さあ、それじゃあ話してくれ。北川のこと」

「そうね、いいわ。いい感じに温まってきたところだしね」彼女はクラッカーを摘まんでいた二本の指をぱらぱらと擦り合わせる。

「どこからしようかしら。実を言うと、そんなに上手に構成とかを考えてきたわけじゃないの」

「別に構わない。北川の口から出てくるそのままの言葉で聞かせてほしい」

「さっきからあなた、私を口説いてるみたいね」彼女がそう言って一口カクテルを飲んだので、私もその隙にクラッカーを一枚摘まむ。彼女がそうしたように何もつけずに食べてみると、食感が軽快で塩味が少しきいており、甘いアレキサンダーによく合う。

「それじゃあ、中学生の時まで遡ろうかしら。時系列に沿った方が都合がいいの」

「任せるよ、北川が話したいように話せばいい」私がそう言うと、彼女は遠い目をしながら語りだす。細い糸を辿るように、道中に落ちている大事なものを拾い上げながらゆっくりと歩くように。

「あなたは私のことを変わった、って思っている。けれど、実は私が変わったのは、別に初めてではないの」

「その話をするために、中学時代の話が避けては通れないんだな」

「そういうこと。私、市外の府中に通っていたの」

「珍しいよな、詩織もそうだったけど、わざわざそこから進学してくるなんてな」彼女が言う市外の府中とは、私達二人の母校のある市とは別の市にある、有名な国立大学の附属中学校のことであった。そこに通う中学生は、基本的にその市で一番の進学校を受験することがほとんどで、そこよりもランクの落ちる、しかも違う市の高校に進学した彼女は稀なケースだった。私達が通っていた高校は公立だがバレーボール部がそこそこの強豪校であり、腕のある監督がいた。詩織は中学生の時からその監督に声をかけられていたようで、スポーツ推薦という枠での合格を手にした。その詩織とは違い、同じ府中に通っていた北川が私達の高校に進学してきたのは、甚だ不可解であった。高校三年生の時に、何気なく詩織から、市外の府中から進学してきたの、実は夕夏ちゃんもなんだよ、と聞いた時から、私はずっと北川のことをどこか風変わりなやつと認識していた。

「知っていたのね、詩織さんから聞いていたのかしら」

「その前はお前の出身校どころか、北川夕夏という存在すら知らなかったけどな」

「私がさんざん嫌味を言ったから、仕返しでもしているの?」彼女はそう言って笑うと、クラッカーを手に取り、木のスプーンを器用に使ってクリームチーズをその上に乗せる。北川が最初に選らんだクリームチーズにはレーズンのようなものが混じってあって、彼女は小さく口を開けると半分齧って、皿の端に残った半分を置く。さく、さく、と小気味いいリズムで咀嚼する。彼女の胃の中のカクテルは、クリームチーズのおかげでより濃厚なものとなる。

「私ね、中学生の時、いじめられていたの。それも、すごく陰湿ないじめ。引かないでね、あなたには脚色したり編集したりしない、本当のことを言うから」

「望むところだ。俺は『ミッドサマー』もディレクターズカット版で見た」

「いいわね、私とも今度映画に行きましょう」彼女は紙ナプキンで指を丁寧に拭く。

「私って、自分で言うのもなんだけど、結構綺麗じゃない?運動だって人並みにできるし、勉強ならそれ以上に得意。当時は吹奏楽部に入っていたんだけれど、そこでの評価も悪くなかった。担任の先生からも、顧問の先生からも信頼されていたし、その頃の私は明るくて素直な性格だったから、男子にもモテた。中学に入りたての時期は友達も沢山いたの」彼女は全く自慢げな態度を見せず、淡々と事実のみを語る。私は相槌を打つこともなく、耳を傾ける。

「でもね、思春期の人間関係なんて、ちょっと力加減が変わって均衡が崩れると、一気に破綻する。あなた、豚のしっぽ、っていうトランプゲームを知ってる?」私は、そのゲームがどんなルールだったかをよく覚えてはいなかったが、話の腰を折らないように、適当に頷いて話の続きを待つ。

「場の中心にカードが溜まっていくまで、私達は毎日楽しく過ごしていた。もしかしたら、場が動く条件が揃うことなく、このままゲームは終わって、敗者も勝者も決まらないまま卒業を迎える、そういう結末もあったのかもしれない。」

「でも、ジョーカーが出てしまった」私は朧気ながら、そんな条件があったことを思い出して口にする。

「そして、そのジョーカーを引いてしまったのは私だった。考えてみれば、裏向きにセットされたカードの中に、ジョーカーが入っていないなんて、そんなことを期待する私は愚かだった。でも、さっきも言った通り、私は明るくて素直な子だったの。だから、ゲームが動く条件になるジョーカーを真ん中に置いた時も、まさか誰もそこに手は出さないと思っていた。条件が揃っても、誰も動かなかったら、みんなが平和に暮らせる道はまだ残っている、そう信じていた」彼女はそう言って、机の上に両手を乗せて重ねる。きめ細かな彼女の白い肌が間接照明に照らされる。

「兆候はあったのか。楽しい学生生活が崩れ始める、黒い影の足音が、みんなには聞こえていたのか」

「少なくとも私には感じられなかった。対照的に私以外の子達には、残りカードが少なくなるにつれて、ジョーカー出るのは次かもしれない、引くのは自分かもしれない、そういう恐怖が蓄積されていたかもしれない。そもそも、このゲームに限らないけど、どんなに少ない確率であったとしてもゲームは、『条件が揃うことがある』ということが前提となって参加者が集まる。そのことに気がつかなかったのは私だけだったみたい」

 彼女が一息つくためにカクテルを飲むタイミングで私もそれに合わせる。さっきまではカカオの風味によって感じられなかったナツメグの甘い香りが引き立っているのを楽しむ。

「きっかけなんてなかったのよ。私が先生から贔屓目に見られていたことも、学年一の、イケてるサッカー部の男子から告白されたことも、驚異的な不運の前では無力だった」

「どんな感じで始まったんだ、北川が場にあるカードをすべて引き受けてしまった後」

「最初は仲の良かった子達全員からの無視だったわ。それはね、露骨に避けるわけではなく、一応は返事はしてくれるの。だけど、私以外の誰かが冗談を言うとみんな弾けたように笑うのに、私が同じような軽口を叩くと、そうなのね、とただ冷笑を浮かべられるだけだった。それならまだ、一切口をきいてくれない方がまだよかった。そのうち私が会話に参加する機会が次第に減っていくと、今度は物を隠されるようになった」

「陰湿だな。北川が言う通り」

 私の通っていた中学でも、無視や物を隠すといったありきたりないじめが女子の間であるということを、話には聞いたことがあった。ありきたり、と私は片付けるが、当事者からしたらたまったものではないだろう。

「とても陰湿だった。隠される物はいつでも、使い古した消しゴム、終わりかけのノート、残り少ないシャーペンの芯とかで、なくなっても、まあいっかで済むようなものばかりだった。仲の良かった誰かの仕業だってことはすぐにわかったけど、言及する方が逆にみみっちく見えてしまうような、取るに足らないラインの物を選りすぐって隠す汚さに失望したわ」

「だからといって許されることじゃないだろ。誰かに相談することはできなかったのか」

「今の私ならしてるわ。けれどその時は怖くてできなかった。先生からはきっと、相変わらず輪の中心にいる明るい私が映ってたと思う。問題として取り上げられるようなやり方はされていなかったしね。それでも、たった一個の癌細胞がどんどん増殖していって、器官全体を蝕んでしまうように、私の精神は少しずつ、だけれど確実に侵されていった」彼女は先ほど皿の端に置いたクラッカーをほいっと口に入れる。このレーズン、ラム酒が効いてて美味しいのよ、と私に勧めて、またナプキンで指を丁寧に拭く。

「他にも陰険ないじめはあったけど、到頭キリキリとした胃の痛みに耐えられなくなった私は、テスト勉強に集中したいから、といってきっぱり彼女たちの輪から外れた。自分の席で勉強をしていると、教室の隅で話し込んでいる彼女たちの笑い声が聞こえた。すごく楽しそうなのが、憎くて堪らなかった。私がいないとそんなに愉快なのか、ということに憤怒し、私のことを笑っているのか、と憂愁に閉ざされた」

「クラスの他のやつらは、その状況にどう対応してたんだ」

「あなたの想像する通りよ。傍観していたわ。でもそれも仕方のないことだと思う。いじめという、学校内に突如として生まれる不条理に立ち向かう術を、十二、三歳の彼らが知っているはずがないもの。私のことを好きだと言っていた男子も、もうとっくに別の人に心変わりしていたしね」私は無性に、その男子のことを殴りたい衝動にかられた。それを抑えるために、クリームチーズを乗せたクラッカーをぼりぼりとカスを落としながら食べた。

「冬に備えて木がその葉を落とす頃。桜の木の下で、屈託のない笑顔と思い切りのいいピースを向けていた少女はもういなかった。少女は髪を下ろしてできる限り顔を隠し、誰にもどんな表情も向けることなく、机と、椅子の、その間、になっていた。」

「それがつまり」

「高校三年生の時、同じクラスになってあなたが見ていた私」

「その同級生たちから逃げるために、北川はわざわざ市外の、それも同級生の多くが進学するところよりも偏差値の低い高校に入った」

「概ねそんなところよ」彼女はクラッカーに手を伸ばし、先ほどとは違う、オレンジ色の何かが混ざっているクリームチーズを乗せた。それを私の口の近くに運び、これも美味しいのよ、食べてみて、と勧める。口を開けてそれを受け入れると、オレンジ色のなにか、は柑橘系の果実の皮のようであった。程よい酸味と苦味が癖になり、噛んだ時のむにっとした食感も美味しい。私は笑顔で彼女にそう伝える。

「余談だけど、詩織さんとは中学三年生の頃出会ったの。彼女はわかっててそうしたのか、知らずにやってしまったのかわからないけど、存在感のない不気味な私に、普通に接した。特に仲がよかったわけではないけど、彼女はなんの下心もなく私に宿題を聞いてきたり、バレー部の愚痴をこぼしたりした。志望校を決めたのは、そんな彼女と同じところに行きたい、という思いだった」

「すごいな、詩織は。人一人の人生を大きく動かしている」

「そうね、彼女のお陰でだいぶ救われた。私は不運な人の中で最も運に恵まれていた」

「詩織以外に誰も北川のことを知らない高校に通うことになって、元の明るい北川には戻らなかったのか」もしそうなっていれば、きっとそれは巡り廻って私の人生も変えていただろう。それくらい彼女の影響力には潜在的なものがあった。

「そのつもりだったわ。むしろそのためにわざわざ毎朝四十分も電車に揺られることを選んだはずだった。だけど、だめだった。声が出なかったの。話しかけてくれる女の子たちが、かつてのクラスメイトと重なった。表情筋がこわばって、自然に笑い返すこともできなかった。喉まで出かかった言葉を発音しようとするけど、乾いた息が漏れるだけで、そのうち頭は真っ白になって、ただ、どっどっ、どっどっ、と速くなっていく心臓を落ち着けることでいっぱいいっぱいになってしまった」

「でも北川の中には、以前の純白な北川もいることにはいた」

「ええ、それは間違いないわ。その淳良な私は、みんなと仲良くしたい、好きな男子の話題で盛り上がりたい、そう切実に願っていた」彼女はクラッカーを食べる。私、この柚子のジャムが入ったクリームチーズが一番好き。私はそれに頷く。

「勘違いしてほしくないのだけれど、思い描いていた高校生活ではなかったものの、それなりに満足はしているのよ」

「残酷な方法で無視されることも、愚劣なセンスの物隠しもなかったから?」

「それに、憧れの知人を近くで応援することができたから。結果論だけど、あなたに出会えたというのも悪くはないわ」私は、それはどうも、とそっけない返事をしてカクテルを飲む。いつの間にそんなに飲んでいたのか、グラスの中にはあと少ししか残っていない。

「なんとなく背景はわかった。北川にはもともと明るい性格が備わっていたけど、それはいじめをきっかけにして隠れてしまった。代わりに、人とのつながりを避けて空気となることに徹する内気な性格が台頭して、俺が見ていたのは丁度その時の北川だった」

「理解がよくて助かるわ」

「高校卒業後、お前になにがあった」彼女はそれにすぐには答えず、カクテルを飲んだりクリームチーズだけを食べてみたり、意味もなく、ここいいところでしょう、と言ってみせたりした。私は彼女の次の一言を慎重に待っている。割に淡泊な彼女がここまで溜めるということは、決定的なことを言う証拠に他ならない。私は、辛抱強く彼女の口元を見ている。彼女はさらに何拍も間をおいて、大きく深呼吸したあと、私をはっきりと見てこう言った。

「私は、半分死んだの」

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