第7話

 六品目の炊き込みご飯と、七品目のだし巻き卵が運ばれて、ついに智樹は

「俺こんなに食べられねえよ」と腹をぽんぽんと叩きながら言った。私の酔いもだいぶ回り、誰がなんと言っているのか、よくわからなくなり始めていた。

「ねえねえ、男女の友情って成立すると思う?」

「あると思うけどなー、第一、今まさにこれが男女の友情ってもんじゃないの?」

「私もそう思ってた時あるんだけどね、実は違うんだよ、智樹」

「どう違うってんだよ」

「あのね、男女の友情ってのは、一方が他方のことを恋愛的に好きだから成立してるんだって」

「ははーん、それってつまり告白?」

「違うよ!ネットで見たんだよ!ってか、私が智樹を好きなんじゃなくて、あんたが私を好きだってこと!」もうどうでもいい。どっちがどっちを好きでも構わないから、セックスするときはさすがによそでやってくれよ。酒を飲みすぎたせいで、頭痛がしてきた私は内心で悪態をつく。

「理由は違うけど、私は男女の友情ってあると思うよ」はりのある優しい声だ。

「だって、男女だっていう前に、私達は同じ人間でしょ?男性は股間が凸型に出てきて、女性は凹型にへこんだだけ。凹と凸は、確かにしっくりはまりすぎてしまうし、中には男女の友情を認めずに、すべての異性を性愛の対象と見てしまう人もいるかもしれないけど、そんな人を見ると、私は少し悲しくなるんだ。男女でも友達になれる、って思えば、それまでの二倍の人との友情を育めるのに、って」

「ちょっと、詩織真面目に考えすぎだよー」

「すげえ、俺なんか哲学に目覚めそうだったよ」

「もし、異性の友人に対して、恋心を抱いてしまったら、それでも友情は成立する?」

「そもそも、なんで同性同士だったらその間にあるものを友情と呼んでいるの?」彼女は私の質問に答えない。

「すごーい、二人とも真面目だね」真面目?そうだな。いつも流行りのアイドルが出ている深夜番組をみて、年中痩せたいとほざきながら風呂上がりのアイスを欠かさないお前よりはよっぽど真面目だ。今日はいつも飲んでいるコラーゲンのサプリメントを忘れたか?俺の分のだし巻き卵はくれてやるから、それ食って寝ろ。安心しろ、効果はほとんど同じだ。え?意味が分からない?そっか、お前馬鹿だもんな。

「なんか俺たち二人蚊帳の外、って感じだよな」違う。お前たち二人が蚊帳の外にいるんじゃなくて、俺と詩織が蚊帳の外で伸び伸びと夏の夜を楽しんでいるんだ。どうしてそんなことができるかわかるか?俺たち二人は、虫よけスプレーをお互いに掛け合い、近くで蚊取り線香を焚いているからだ。種々の利器を駆使して、俺たちは外の世界に出ている。確かに、蚊に刺されることは憂鬱だ。熱が出るときもある。だがそれを恐れていては、川辺に光る蛍を見に行くことはできないし、缶チューハイを片手に花火を楽しむこともできないんだ。くそ、どうしてもイライラしてくる。それになんだか悲しくてならない。かつて苦楽をともにしてきたクラスメイトが、あの時親友ができたと疑わなかった彼らが、今では取るに足らない存在になってしまっている。受験勉強を必死でしたって、なんの意味もなくね?そう言って将来に中途半端なニヒリズムを持ち込むのがどんなに楽しかったのか、忘れてしまったのか。酒と煙草しかすることがなかった私に、モラトリアムがいかに素晴らしくて、愛すべきものなのかを君たちは教えてくれるはずじゃなかったのか。

 集まりの話を智樹が持ち掛けてきたとき、窶れ、心身ともに摩耗された私をみんなの前に晒すのが、私は怖くてたまらなかった。だから短い期間ではあったができるだけのことをして準備をしてきたのだ。女性がメイクに二十分かけるとしたら、私はその千倍近くの時間をかけておめかしをしてきたようなものだ。それなのに、この二人はというと、まるで青姦だ。頭ではなく、股間で考えたことをなんのフィルターも通さずに吐き出す。運ばれてきた料理を汚く食い散らかし、脂っぽい指でスマホをいじる。目の前には違う種類のお酒を必ず二つは置き、回し飲みすることで一つになろうとする。ここは私のいるべき場所ではない。きっとこの後智樹は二次会を提案するだろうが、適当な理由をつけて帰ろう。ありがとう智樹、久しぶりに地元の友人と会っても、所詮この程度のことしか話さないのだ、ということが君のお陰でわかった。




 十二月の中旬になったが、相変わらず詩織は私の夢に現れなかった。今度こそ電話をかけようと思ったが、彼女が電話に出なかったら、夢の内容が現実になる気がして、結局私は発信コールをすることができなかった。私は旧友たちで集まった日に撮った、唯一の集合写真をずっと眺めていた。詩織に照準を合わせてピンチインすると、詩織はお酒で顔を紅潮させ、キャップに手をあてて笑っていた。季節が変わり、写真の当時吸っていたメンソールの煙草は、今やタールがさらに重くなったレギュラーのものへと変わっていた。コンビニの喫煙所で、写真を見ながらタバコを吸っている手が寒さで悴んだ。ぶるっ、と身震いした拍子に、灰がひらひらと待ってスマホの画面の上に落ちた。私はその灰を拭おうとして親指で軽く画面を撫でた。すると、詩織が中心に据えていた画面が左に逸れ、集合写真の一番端に静かにピースをしている北川の顔が移った。北川は薄い唇を左右に引き、切れ長の目でウインクをしていた。

 帰路につき、コーヒーを入れながらキッチンで煙草を吸っていると、例の表情をした北川が頭から離れなくなった。詩織とあの夜を過ごしてからすっかり忘れていたが、それまでに私の頭を支配していたのはそういえば彼女だった。急に雰囲気を変え、楽しそうに笑う彼女の横顔を、私ははっきりと認めていた。もし高校時代から彼女があのような性格であれば、間違いなく男子からの人気ランキングで不動の一位を獲得していただろう。あまりにも目立つそのオーラは、きっと一位の座にも落ち着かず、殿堂入りを果たす未来まで見えた。彼女は居酒屋のお手洗いで私に、なぜそこまでの極端な変貌を遂げたのか、教えてあげると言っていた。なぜいきなりそんなことを言い出したのか、具体的にどう教えるかは一切触れず、あとは私に軽く口づけをするだけであった。てっきり彼女からまた連絡をくれるものだと思っていたが、もしその気になったのなら私の方から連絡をとれ、ということだったのだろうか。彼女の話を聞けば、私は詩織を失った虚無感を埋めることができるだろうか。私も、この陰鬱とした自分と離別して、北川のように明るくふるまえるようになれるだろうか。私は途中まで吸っていた煙草をぐりぐりと灰皿に押し付け、コーヒーを片手にパソコンの前に座った。充電していたスマホを手に取り、高校三年生の時のクラスチャットを開く。加入しているメンバーの中から北川を見つけた私は、彼女に友達申請を送った。彼女のプロフィール画像は、海辺でしゃがんで砂にハートを描いている写真だった。顔は髪に隠れてうまく見えないが、それも含めて、彼女の写真は完璧なまでに女子大学生そのものという感じだった。こちらから友達申請を送っても、向こうから承認されなければ発信の通知はいかない。

 彼女が私の申請を許可するまでの時間的猶予として、私は一日待つことにした。いつも退屈で長い時間を過ごしている私だが、この時はいつも以上に時間が長く感じられた。寝ては起きてを繰り返し、アダルト動画サイトをめぐるのに数時間費やした。その日私は、長い黒髪が印象的で、色白のポルノ女優が主観でセックスをしている動画を見ながらマスターベーションをした。他にすることもなかったので、導入部分のドラマから見始め、いつもの倍近くの時間をかけて励んだ。シーンの切り替わりの時の暗転した画面に反射する私は、不摂生のために皮脂で顔をテカテカと生々しく光らせていた。

 明くる日、緊張した面持ちで、私は彼女に通話をかけてみることにした。もともとそのために友達申請を送ったのだ。今更引き下がることはできない。昼頃に起きた私は、ベランダに出て一本煙草を吸ってから、冷水で顔を洗い、牛乳をコップ一杯飲んだ。比較的綺麗な部屋着に着替え、髭を剃り、歯を磨いてから机に向かった。スマホを点け、アプリを開く。新しい友達欄にいる彼女の名前をタップし、音声通話、ビデオ通話、トーク、の三つのメニューから、間違いなく通話を選ぶ。「北川夕夏さんと音声通話を開始しますか?」私は震える手で開始をタップした。軽快な曲調の発信音が三回鳴ったあと、彼女は出た。

「思ったより早かったのね」彼女は透き通るような声で、元気?と続けた。

「あまり元気とは言えないかな」

「知ってた。だから私に電話をしたんでしょう?」

「その、俺の内面を見透かしているような物言いやめてくれないかな」

「あら、大体わかるわよ。大方、授業も全然出席しなくなって、一日の大半を寝るか煙草を吸うかして過ごしてたんでしょ」なぜ彼女がそこまで正確に言い当てることができるのか不思議でならなかった。

「惜しいな。それに加えて、昨日今日はずっと君のことを考えてた」

「そんなの、当たり前すぎて言うほどにもないことだと思ったのだけど」彼女の鼻につくような返答にはげんなりしたが、それでも私は彼女に会って確かめたいことがあった。

「なあ、今はそんなことどうでもいい」

「それよりもすぐに私と会いたい?」

「そうだ。俺は君と今すぐにでも会って話がしたい」

「そう言うと思って、実はもう予約してあるの」

「日付についてはまだなにも指定していないんだけど」

「十二月二十四日、クリスマスイブよ。場所は後で送るけど、雰囲気もお洒落で、隠れ家的な素敵なところなの」聞きたいことはたくさんあった。まずその店の所在地はどこなのか、なぜ私の行動予測にそこまで自信が持てたのか、私にイブの予定が入っていたらどうしていたのか。

「沈黙、ということは、とりあえずは了承してくれた、と受け取ってもいいのかしら?」

「あぁ、構わない。具体的な日時は後で送ってくれ。これ以上君と話している貧血になりそうだ」

「そう、それじゃ、鉄分を多めにとって早く寝ることね。さようなら」彼女は最後にくすっと笑って、私の返事を待つことなくぶつっ、と乱暴に通話を切った。呆気にとられた私がスマートフォンの画面を見ると、彼女とのトーク画面に素早く集合場所についての指定があり、お店の外観や内装の写真も送られていていた。その下には彼女のメッセージが続き、お店についての多少の説明も連なっている。都内にあるらしいそのバーは、昼間は喫茶店をしているらしく、コーヒーと酒を組み合わせたカクテルを売りにしていた。集合場所の駅に午後六時を指定してきた彼女は、一連の吹き出しの最後に、ホテルも予約してあるから心配しないで、とハートの絵文字付きのメッセージで締めくくった。突如イブの予定が埋まった私は、戸惑いながらもようやく大学生らしいことをできる、と少なからず舞い上がっていた。

 しかし、頭のどこかで詩織のことも考えていて、詩織も誘ったら、喜んで参加してくるだろう、それにごく自然に、彼女とまた会える、そう脳裏によぎった。私がこのように考えたとしても、結局考えるだけでなにも行動を起こさない、と北川は予想しているのだろうか。すべては彼女が言っていることの予定調和のように思えてならなかった。

 私は前回同様、北川と会うまでの間にできるだけ生活習慣を改めるようにした。もともと、煙草もお酒も惰性で習慣化していただけであり、断とうと思えば完全にではないが、難なく断つことができた。それよりも、崩れてしまった生活リズムを直すのはかなり難しく、結局彼女と会う日も起きるのが昼近くになってしまい、慌てて準備をして新幹線で待ち合わせの駅まで向かった。出口がいくつもある大きな駅で、彼女は東口にいるとのことだったが、どういうわけか西口に着いてしまった私のところまで迎えに来てくれた。

「さすがにここまでとは、私も予想できなかったわ」彼女は白い息をはぁはぁ吐きながらそう言った。

「悪かったなそれは。というか第一声は久しぶり、とかじゃないのか」

「あなたが東口に最初から来てくれればそう言ってたわ」彼女はベージュのロングコートに赤いマフラーを合わせていた。毛糸の赤い手袋をこすり合わせて、待合室は温かかったのに、と膨れて言った。黒く長い髪がマフラーの上でもこっ、と溢れており、やはり服装だけでみても高校生の頃とは別人だ、そう思った。

「さあ、早速だけど行くわよ。方向音痴なあなたのせいで少し時間は押しているの」くるりと背を向けた彼女は、ついてきなさいと言わんばかりの勇み足で、すぐ目の前に見える出口とは反対側に踵を返して歩き始めた。私は人混みの中、今度は迷わないように彼女の後ろについていく。

「なあ、ありがとな」

「それはなにについてのお礼?」

「いろいろあるけど、まずは、今日誘ってくれて」

「それを言うなら私の方こそ。わざわざ来てくれたこと、感謝してるわ」

「まさかイブを指定してくるとは思わなかったけど、お店の予約までしてくれてるなんて」

「ホテルも予約したこと、忘れてないでしょうね」彼女は茶色がかった目をちらりと向けて、からかうようにして笑った。

「え、冗談じゃなかったのか?」彼女はすっ、と真面目な表情に戻り、はぁ、とため息をついた。

「いつかの居酒屋で言ったでしょ?手取り足取り教えてあげるって」

「それがホテルとどう繋がるんだよ」

「それより先を女の子に言わせるつもり?」彼女はじとっとした目をしたかと思うと、すぐに明るい声で

「ま、行けばわかるわ。それよりも、今はこれから行くお店を楽しみましょう」と言った。

 私たち二人は、短く会話を済ませると、無言のままお店へと向かった。途中、東口から外へ出ると、駅前の広場には見上げるほど大きなクリスマスツリーが、黄金色に光る電飾を全身に纏って物々しく立っていた。周囲には待ち合わせをしているらしき人だかりができていて、何組かのカップルは仲睦まじい様子で写真撮影をしていた。彼女はそれに目もくれず、スタスタと店に向かった。彼女の横で何も話さずにいると、悶々と考えていることを逐一読まれている感覚がして居た堪らなくなった。

「着いたわ」細い裏通りを抜けると、寂れた外観のバーがあった。「Cafe&Bar for 20.」と書かれた看板は、所々錆びていて、その錆びた部分が不健康な人の血管のように見えた。建物全体は黒を基調としており、どうやら一階が喫茶、二階がバーというふうに分かれているようだった。一階の喫茶の出入口脇に、二階のバーへと続く細い階段があり、地上からはバーの入り口がどんなふうになっているか、暗がりでよく見えなかった。階段の手前には泥を落とすための、タワシのようなマットがあり、それに靴底を何往復かこすらせてから一段目に足をかける。彼女が先導し、私がそれに続いた。こつ、こつ、と彼女がブーツで上がっていく音が小気味よく、リズムも一定で、まるでメトロノームのようだった。階段を上りきると、厚そうなガラスの扉があり、鉄製の長い取手がついていた。彼女が力を入れてドアを引くと、きゅ、と扉の底のゴムが擦れる音がした。そして、カランコロン、と軽いベルが鳴り、彼女は小さな声で、こんばんは、と言いながら中へと入った。彼女に代わって開いた扉を受け、私もすぐにそれに続く。

 一歩中へ踏み込むと、靴がずしっ、と赤いカーペットに沈んだ。店内はざっと見渡せるくらいの広さで、温かみのある暖色の間接照明が淡く全体を照らしていた。バーと聞いていたから、てっきりカウンター席しかなく、なんの種類かよくわからない熱帯魚でも飼育しているのかと思ったが、実際にはテーブル席とゆったりとしたソファがあったし、カクレクマノミ他もいなかった。お店に入って左側には、いわゆるバーカウンターがあり、マスターと思わしき初老の男性が、いらっしゃいませ、お待ちしておりました、と渋く畏まった声で言った。北川はそれにぺこっ、と一礼すると、そのまま店の奥に進み、外が見える窓際の席に向かった。私はそれについていくため、あたふたとしながら彼女を真似てペコリとマスターに礼をして、足早に彼女の後を追った。窓際の席は、カウンター状の長い机が窓に設置されていて、背の高い椅子が二脚ずつ間隔を空けて並べられていた。

 その席の中でも、彼女は一番端の、壁際の席に着くと、「ここからだと、目の前の通りのイルミネーションが見れるのよ」と大事なプレゼントを開けるように言った。私は彼女の横に座って、ほら、と彼女が指さすほうを見た。すると、眼前には、駅から大通りに向かって伸びるイルミネーションの道が、広い川のようになって広がっていた。電線や古びた電灯の間から覗くことができるその川は、オレンジ色に輝いていた。その光は強弱のグラデーションを繰り返し、しばらくすると赤色や緑色など、さまざまな色を放っていた。美しい川のずっと下流の方には小ぶりなクリスマスツリーがあり、そのツリーから伸びる何本もの線は、青色に光る線と白色に光る線とが交互に並んでいて、冬らしさを演出して今日の主役を引き立てていた。

「本当だ。綺麗だね。あそこだけ眩しくて、余計に綺麗だ」

「あなたは、イルミネーションは好き?」

「どうだろう。綺麗だとは思うけど、そんなに好きというほどでもないかも」わざわざ連れてきてくれた彼女に気を遣って私はそう言った。実を言うと、イルミネーションには興味がなかった。例えば、クリスマスに合わせて急にクリスマスツリーにされてしまう大きな木は、それだけで場の空気を圧倒するだけの自然的な魅力を持っているのに、なぜ人工的な感動のために電飾を付けられるのか、以前から不可解だったし、不憫にも思っていた。

「あなた、中途半端に自然主義なところがありそうね」彼女は私のふとした発言や、その際の表情の機微を逃さず察し、私の普段の行動とを結びつけて推測しているのだろう、と考えた。そうでもしないと、このエスパー級の読心術は説明がつかない。

「別にそんなことないよ。そりゃ自然は好きだけど」

「当てようか、あなたが吸っているのって、アメリカンスピリットでしょ」私はぎくりとして、参ったと言わんばかりにポケットの中から青色の箱を取り出した。

「言っておくが、別にオーガニックだなんだってのを気にしていたわけじゃない。色々試した結果、これが一番美味かっただけだ」私は耳をカーッ、と赤くしながらそう言った。

「あなたって、本当にわかりやすいわよね」

「お前の見る力が異常なだけだ」私が逆に呆れたような顔をしたところで、先ほどのマスターとは違う、若い男性のバーテンダーが席にやってきて、私の横に立ち中腰の姿勢をとった。少しカールのかかった前髪を左右に分け、額を出していた彼の顔立ちは、眉と目がくっきりと濃く、目元だけでかなりの色男であることがわかった。

「失礼いたします。最初のドリンクはすでにお決まりでしょうか」

「そうね、いつものやつを2つお願いするわ」

「かしこまりました」彼は丁寧にお辞儀をすると、気取らない歩き方でバーカウンターへと戻って言った。

「常連なんだな。いつもの、って俺初めて聞いたよ」

「ここのお店、一度行くと絶対に顔や好みを覚えていてくれるの。まあ、それだけじゃなくて、事実私はもう何十回と来ているけど」

「そんなにお酒がおいしいのか」

「すぐにわかるわ」彼女はうっとりとした目で自信ありげに答えた。

 店内は曲名はわからないが、ずっとおしゃれなジャズが流れていた。ピアノのポロポロという弾むような音色が、緩急をつけて左右に揺れる。そしてそれを、コントラバスのぼんぼん、というリズムが支える。ドラムは謙虚に、時に激しく曲全体に流れを作り、テナーサックスの丸くて艶のある音が奥行きを持たせていた。クリスマスイブだというのに、かかっている曲は全くその類の曲調ではなく、目の前の景色にツリーが移ってなかったら、今日がイブであることを忘れそうなところであった。私たち以外の客の入りは疎らだったが、さすがにどこを見渡してもカップルしかいなかった。

「なあ、なんでよりにもよって今日なんだ?」

「私たち二人が揃って歩くのに、最も適した日だったからよ」

「逆だろ、もし万が一友達に遭遇したら、間違いなく付き合っていると思われる」

「あなたに友達なんていたかしら」彼女の言い方はどこも嫌味っぽくはなく、単に私との会話に冗談を織り交ぜることを楽しんでいるようだった。

「俺だけじゃなくて、お前の友達にだって会う可能性はあるだろ」

「そう。だからこの日を選んだのよ」

「イブに一緒に過ごす人がいる、ってアピールするためか」私はそう言いながら、彼女は決してそんなことを目論む人ではないことを薄々勘づいていた。

「違うわ。考えてもみなさい。仮に今日、ないし今日明日以外の日に私の隣にあなたがいてみなさい。イケてる女子大生と、援助交際を迫るフリーターになってしまうわ。私はあなたの名誉のために今日を指定したのよ」今日を指定したところで、イブの特別料金を払う脛齧りフリーターに見えてしまう線も考えられるだろ、と言い返そうとしたが、あまりにも悲しいので私はその理由に納得したふりをした。

「じゃあ、今日の予約を以前から入れていたってのはどういうことだ?俺から連絡が来る保障なんてどこにもなかったし、あるだろうと踏んでいたにしても、イブに予定が入っていることだって考えられただろう」

「ねえ、あなたはマジックを見る時もいつもそうやって、仕掛けをみやぶってやろうと血眼になるの?」彼女は手で隠しながら、つまらなそうに小さい欠伸をした。

「これは私の個人的な考えだけれど、マジックには二つの要素がある。『油断』と『緊張』よ。マジシャンは観客の精神状態をうまく誘導して、この緊張と油断を行ったり来たりさせる。それを少し応用させて、あなたにいつの間にかジョーカーを持たせていた、ってわけ」私が彼女の発言の意味を考えていると、先ほどのバーテンダーがナッツと、水色っぽい液体の入ったグラスを二つ運んできた。初めて見る色のそのお酒は、若干とろみがあり、てっぺんにはミントの葉が添えられていた。ごゆっくり、と彼がまたバーカウンターまで戻るのを見届けた後、私は彼女を振り返って言った。

「いつの間に俺の」そこまで言ったところで、それを遮るようにして彼女は言った。

「まずは乾杯をしましょう。あなたもきっと気に入ると思うわ」彼女はそう言ってグラスを持ち上げ、私の方に傾けた。こぼさないように注意しながら、私は彼女のグラスへと自分のものを近づけた。

「乾杯」彼女はちん、と軽いキスをするようにして、グラスを寄せた。



 彼女の一口目を待って、この水色の物体が安全であることを確かめてから、私もようやく口を付けた。口元に運ぶと、濃厚な甘い香りがした。猛毒だが、脳が麻痺するくらいの誘惑的な匂いを放つ花に引き寄せられる獲物になった気がした。少量口に入れると、香りの通り強烈な甘さが口いっぱいに広がった。思わずじわっ、と涎が口の中に溢れ出てくる。その甘さは、感覚からしてチョコレートで間違いなかった。水色とそのイメージが結びつかなかっただけで、味がチョコレートと認識した瞬間、先ほどまでにも嗅いでいた香りが、今やチョコレート以外の香りには思えなくなっていた。チョコレートの甘味に舌が慣れると、その奥からミントの爽やかさが滲んてきた。滑らかな清涼感が鼻から抜け、しつこいと思っていた甘さが昇華されていった。ごくん、と胃の中へ流し込むと、喉がかっ、と熱くなった。チョコレートの甘さとミントの風味に上手くカモフラージュしていたアルコールが、しめしめ、と私の内側へと侵入してきた。かなり度が強いらしく、胃の中にもむかむかとする熱を感じたし、ふーっと息を吐くと、酒気を多量に帯びた呼気が出ていくときにも粘膜に吸収されていく気がした。

「どう、私が好きになる気持ち、わかった?」彼女は私の反応を見て満足したようだった。

「あぁ。美味いよ、これは」私は店内の間接照明に当てて、向こう側が透けて見えないそれを凝視した。

「なんていうカクテルなんだ、これは」

「グラスホッパー、あるいは、いつもの」

「それが通用するのは北川だけだろ」グラスホッパー、私は初めて知るカクテルの名前を頭の中で復唱した。

「そんなことないわ。あなたは私の連れとしてここに来たけど、もうきっと顔を覚えられている。そしてあなたは一杯目に、私がいつもの、とオーダーしたカクテルを飲んだ。だから、次回以降あなたがここに来ていつもの、と言えばこのカクテルが運ばれてくるわ」

「そこまでされても、逆に怖いな」

「でも、きっとあなたもここに通うことになると思うわ。最初は、いつもの、と頼むのがくすぐったい感じがするかもしれないけど、段々と、いつもの、は、いつもの、になっていくの」

 彼女はナッツを一つ口に含むと、カリカリと触感を確かめるようにして食べた。

「それで、さっきの話に戻るんだけど」

「緊張と油断の話?」

「そう。お前は一体、いつ俺をその波に乗せた?」

「思い出してみなさい。マジックを見破るときに、スロー再生にしてみるみたいに」私はそう言われて、彼女と再会したあの日のことを思い返してみた。あの時、トイレの洗面所の鏡越しに彼女と目を合わせた私は、蛇に睨まれた蛙のように、一切の身動きが取れなかった。一瞬でも隙を見せたら、彼女に捕食されるかもしれない、と常にうまくやり過ごすことだけを考えていた。これが彼女の言うところの緊張なのだろうか。その後、彼女はそのままの体制で私に、そんなに私のことが気になるの、といじらしく言った。急な事態に驚いた私が固まっていると、彼女は私に近づき、今度教えてあげる、と短いキスをしたのだった。彼女の薄い唇が、十分な弾力をもって私の口から離れる時、私の鼻腔を彼女から発せられる林檎の甘酸っぱい香りがついた。彼女が私の横を通って席に戻ってからも、緊張が絶えず精神と身体を支配しており、どこにも油断の要素はなかったはずだった。だがもしかしたら、私の緊張状態はもっと前から始まっていたのかもしれない。彼女が飲み会に参加することがわかった八月の頭からすでに。あるいは、私が緊張していると思っている時間は、同時に緊張することによって安心し、むしろ油断している時間でもあったのかもしれない、と思った。

「どうだろう。少なくとも、手は汗ばんでいたし、口が乾いて動悸は早かった」

「そうね、あなたの場合は緊張しすぎていたわ。今日会ったら、さすがにだいぶとけているみたいだと思ったけど」

「北川と別れた後、俺にもいろいろあったんだよ」

「詩織さんとセックスしたりね」私は急な発言に動揺し、咽てなかなか収まらない咳をした。

「急になに言いだすんだよ、お酒くらいゆっくり飲ませてくれ」

「違った?あなたの横にいた詩織さんは、その気になっているように見えたわ」

「確かに彼女の部屋には行ったけど、別になにもしなかったさ。彼女の好きな映画を見ながら、飲みなおしていただけだよ」

「彼女、愛撫がとても上手だったでしょう」北川は私に横顔を向けたまま、あーん、と口をあけ、舌先でナッツを受けて、わざとらしく大きな音を立てながら咀嚼した。

「メンタリストにでもなったらどうだ」

「あなたのわかりやすい反応が見られればそれでいいわ」

 私は早く酔いを回すため、先ほどよりも大きい一口で飲んだ。

「真面目なことを言うと、詩織と話してみて、それでもう一度考えていたんだ。わざわざ大学に入ってまで自分が勉強したかったことはなにか、この先どうしていくのがいいのか」

「それで、自分なりの答えはでた?」私は首を振った。

「駄目だったよ。毎週毎週、今の日本の労働力不足の背景とか、日本と諸外国の法体系の違いとかの話を聞いて、身にならない穴埋め形式の課題をやっていると、そういった勉強を始める前よりも興味が持てなくなっていった。在学中に勉強以外のなにかに打ち込んだ方がいい、ってことも意味は分かるけど、しなかったからと言って明確なデメリットがわからなかった」

「明確なデメリット、ならあるんじゃないかしら」

「北川が言いたいことはわかるよ。就活のこととか、余暇の時間とかのことだろ?もちろん考えたさ。だけど、それは俺にとってはデメリットって程のことでもなかったんだ。熱中できる何かがなければ、就活で話に詰まることもある。暇な時間を寝て過ごすしかなくなる。それは至極当然の結果であって、」

「本質的な問題ではない」

「そう、本質的な問題ではなかったんだ」詩織といい、北川といい、会話の先読みがここまで早いとは驚いた。一番おいしいところを取られたような気がしたが、しっかりと私の話を聞いてくれている証でもあり、心地よかった。彼女は、極めて中立的な態度で、

「あなたにとって本質的な問題ってなに?」と聞いた。

「人間的な感性、みたいなものかな」

「人間的な感性」彼女は私の発言をナッツと一緒に口に入れた。私は自分の口から自然と出た言葉の真意を自分自身の中に探していた。

「あなたの言う、人間的な感性、というのは、授業に真面目に出るとか、バイトやサークルに精を出すこととは直接的な関係はない、という認識で合ってる?」

「そうなる。人間的な感性は、誰がどのくらい持っているかを判断しづらいんだ。だから、自分にそれが足りていないと思う人は、果たして自分がどのくらい持っているかを測る前に、考えることをやめて先を見ない行動に走るんだ」

「でもあなたは賢明だから、自分にはもう十分それが備わっていることが分かった」

「そこまでは思ってないよ。でも、授業の単位とかサークル活動とか、そんなことをいくらやったって、最初から冷めている俺にとっては感性を磨くことには繋がらないな、そう思ったんだ」自分で言っていて、恥ずかしくなるほどの清々しい言い訳だと思った。努力する人を嘲笑い、達観した気になることは麻薬と同じで、気づいた時には容易にやめられなくなってしまっているようだった。

「そう。あなたの言っていることも一理くらいあると思うわ。拗らせ過ぎている気もするけど」

 彼女の発言には何も言い返せなかった。それは私自身が一番感じていることだったからだ。私はあれこれと理由を付け、入学から今日に至るまで、何の苦難も経験していなかった。大学で始めようと思っていたテニスも、居酒屋のアルバイトも、他にいくらでもやりようはあったがしてこなかった。コップを逆さにした空間に閉じ込められ、限界を与えられたダニは、それ以上の高さに跳べなくなってしまうと聞くが、私はそもそも裏返したコップをどけてそれを確かめる気力すらも残っていなかった。親友、あるいは恋人のように親しみをもって接していた酒と煙草は、私にとって一番の悪友となっていた。一緒に授業をフケて、他の人との関わりを断つ絶好のグループになっていたのである。

「これでも褒めてほしいくらいだよ。俺はギャンブルにだけは手を出さなかったんだ。まともな金銭感覚だけはいまだに持ち合わせている」

「まともな金銭感覚を持ち合わせている人は、一箱500円もする発がん性物質に手を出したりしないわ」私の苦し紛れのジョークは、彼女のカウンターパンチを喰らった。彼女がクスクスと笑うのに気が緩んで、私も釣られて笑った。

「あなたは私の変わりように興味があるみたいだけど、私は逆にどうしてあなたがそこまで変わったのかについて興味があるわ」

「井底の蛙だったんだよ、俺は」と言った私は、そういえば自分は蛇に睨まれた蛙になったこともあったっけ、と思い返し一人でふふっ、と鼻で笑った。

「引籠っていたあなたにとって、大海とはどこのことだったのかしら」

「この世界そのものだよ」私は彼女のきつい皮肉に対して冗談で返した。

「あなた、相当拗らせているわ」彼女は綺麗な歯を見せながら愉快そうに笑った。彼女は私よりも酒に強いらしく、すでにグラスの中はほとんど残っていなかった。その視線に気づいた彼女は、気にしないでいいのよ、最初だけなの、私が早いのは、とグラスと私を交互に見ながら言った。

「それで、この世界の荒波にもまれたあなたは、かつての無知だった自分のようには振舞えなくなった、そういうわけね」

「平たく言えばそうなる」彼女に一言でそうまとめられてしまうと、この数ヶ月の自分の中の葛藤がひどくつまらなかったことのように思われた。

「今のあなたが、入学前の希望に満ち溢れていたあなたにそれを伝えたら、どんな反応をすると思う?」

「北川も、もしも、の話をするんだな」なんとなく、彼女はそういった仮定の話は嫌いなような気がしていた。

「単純に気になったの。高校生の時、あなたはいつも友達に囲まれていて、クラスで集合写真を撮るときも真っ先に一番前で寝転がるような人だった。そんな人が、今では肝臓と肺を侵されて、堕落した生活を送っている。今のあなたが過去のあなたに接触したら今のあなたは変わっているのか。あなたの考えを聞きたいわ」彼女はグラスの淵を白くて長い指でなぞりながら言った。赤い色のネイルが鮮やかで、熟した林檎のようだった。

「そうだな、今の俺が過去の俺と話をしても、結末は変わらなかったと思う。多分その時は、話に納得して、新たな可能性を探すフリをするだろうけど、結局友達の一人もできなかっただろうと思う。人の根底にあるものは、そう簡単には変わらない」

「ということは、高校生の時の、カルピスのコマーシャルに出ていそうなあなたの根底には、今のあなたと同じくどす黒くて腐敗したものがあったのね」

「お前は俺になにか恨みでもあるのか?」そうは言ったものの、今更それは違うと否定する気力もプライドも、その時の私にはなかった。

「いいえ、嬉しいのよ。あなたとの間に共通するものを感じることができて」彼女は本当に嬉しそうにそう言うと、残り少ないカクテルを一気に傾け、上に載っていたミントも一緒に飲み干した。私のグラスにはまだ半分ほど残っており、ミントの葉はグラスの縁に張り付いていた。

「俺の話はこれくらいにして、今度は北川の話をしよう。今日俺はそのために来たんだ」机に手をついて座る姿勢を変え、彼女の方に少し体を向けなおした私は真剣な眼差しでそう言った。

「私はまだあなたの話を聞いていたいわ」

「それは北川の話を聞いた後にまたいくらでもしてやる」

「それはつまり、今夜ずっと一緒に過ごしてくれる、ってことよね?」彼女は片方の口角をあげながら、したり顔でそう言った。

「わかった、もうそれでいい。どうせホテルはとってあるんだろ?」

「言質はとったわよ」彼女は気分を良くしたのか、ナッツを二つ続けざまに口に入れた。

「聞きたいことは山ほどあるんだが、そうだな。まずは、なんであの時急に俺にキスをした」彼女が変わったことは勿論聞きたいことの最重要事項であったが、話のスタートラインとして、まずはその時の真相について聞くことにした。

「何言ってるの、あの時すれ違いざまに肩をつかんで強引にキスをしてきたのはあなたの方でしょ?あんな情熱的なキス、忘れられないわ」彼女はわざとらしい上目遣いをしながら平然と嘘を言った。

「で、どうなんだよ、本当のところは」一瞬どきりとしたが、すぐに平常心に戻った私はカクテルで自分を鼓舞した。

「残念だけれど、あなたが考えるような深い意味はないわ。私を前にして、どぎまぎしているあなたを見ていたら、急に可愛らしく思えて、子犬におやつをあげる気持ちでしたの」彼女はそう言って、皿に残っている一番大きなナッツを手に取り、それを私の口元へと運んだ。首を傾げながら、彼女自身も、あーん、と声を出し口を開けていた。私はされるがままに彼女に餌付けされ、恥ずかしさから目を逸らした。

「照れてるの?」

「うるさい。誰にでもキスするお前こそ、もっと恥を知った方がいい」

「失礼ね、別に誰にでもキスするわけじゃないわ」

「だとしてもだ。お前は高校生の時から変わったし、そうでなくても変わったやつだよ」変人、と揶揄するために言ったつもりが、彼女に届くころにはそれは誉め言葉へと変わってしまった。

「そうね、変わったの、私。高校生の頃だったら、愛おしい態度のあなたと話していても、きっと急にキスをすることはなかった。なんであなたにキスをしたか、その一次的な理由はあなたが怯える子犬のように見えたから、だったけれど、根本的には違う。根本的な、二次的な理由は、私が変わったから。高校生の頃の私ではないから」北川がそう言うのを聞いて、詩織もそう言えば、高校生の頃の自分はもういない、と言っていたのを思い出した。

「どうして、北川は変わった。俺は今日、それを、それだけを確かめに来たんだ」私はくっ、と残りのカクテルを煽った。喉と一緒に、興奮で脳まで熱くなるのを感じた。静かに置いたグラスには、飲み口からグラスの底に向かってじわーっ、と少し粘度のあるグラスホッパーが内側に伝っており、相変わらずミントの葉は剥がれずに縁にくっついたままだった。

「本格的に話をする前に、オーダーしても構わないかしら」彼女は卓上に置いてあった銀のベルを一度チーン、と鳴らした。ほどなくして、例の彼が注文を取りに来て、先ほどと同じ姿勢で私の横に立った。彼女がどんな注文をするのだろうかと様子をうかがっていると、彼女は澄ました顔で、

「いつもの」と短く言った。彼は、かしこまりました、とさっきと寸分違わないトーンでそう言うと、テーブルの上のグラスを下げ、一礼してバーカウンターの方へ戻っていった。彼の綺麗な目鼻が、彼の振舞いを一層精巧なアンドロイドのように思わせた。

「なあ、いつもの、ってことは、またさっきと同じカクテルが来るのか?」新しいお店に来たのだから、せっかくなら違う酒を飲んでみたい、と私は思っていた。

「あなたがさっき飲んだのは、私が一杯目に飲むいつもので、これから飲むのは、私が二杯目に飲むいつもの、よ」

「そしてそれは、これから俺がこの店で二杯目に飲むいつもの、になる」

「わかってきたじゃない」彼女はクスリと笑った。

「じゃあそのいつもの、が来る間、短い話を一つしてもいいか?」

「ええ、もちろん」

「北川は、夢についてどう思ってる」

「それは、将来の目標とか理想、という方の夢のこと?」先にそっちの夢を思い浮かべる北川は、少なくとも、私よりも日々を主体的に生きているのだろう。

「いや、寝ているときに見る方」

「どう思う、ね。夢占いとかは当てにしてないけれど、かといって全くの無意味なものでもないと思っているわ。よく、夢は記憶の整理をしているときのフラッシュバックって言われてるじゃない?日中の経験のうち、実際に記憶されるのはごく僅かな情報量だから、その仕分け作業をしている時に、パッ、と映る夢は、それなりに自分にとって重要な意味を持っていると思う。あなたはどう考えているの?」

「俺は、それ以上に重要なものとして考えてる。というか、そうでもしないと他に納得できる理由がない」詩織が私の夢に出てきているのは、ただの記憶の整理として片づけられなかった。

「どんな夢を見てそう思ったの?私と交わる夢だったりして」

「そうだとしても本人には言わないよ。あの夢は、そんなものよりももっと象徴的で、なにかを暗示するようだったんだ」

「なんとなくわかったわ、あなたが見ている夢のこと。その類の夢なら私も見たことある。でも、所詮は夢として割り切った方がいい。そういう夢が連夜続く時は、確かに気になるけれど、ある時を境に見なくなる。そうなれば、自然と気にすることもなくなるわ」

「でもあの夢は、本当にリアルだったんだ。あの夢を一度見てしまうと、今生きている世界が揺らいでしまうくらい、現実よりも現実的だった」私が焦点の合わない目でそういうと、彼女はそっと右手を私の頬に当て、

「私を見て」と、優しく私の視線を誘導した。色素の薄い彼女の手はひんやりとして冷たく、火照った私の顔にぴとっ、と吸い付いた。

「現実よりも現実に近い夢なんてありえない。現実に私たちは生きているからこそ、夢だとか現実だとかを論ずることができるの」私は震え声で彼女に返した。

「明晰夢、というのがあるじゃないか。夢の中で、これは夢だと理解して、好きに行動できるようになるという。俺は一度も見たことはないけど、今現実だと思っているこの世界が、まさに俺が今見ている明晰夢で、そうだと気づいた瞬間、目の前にいる北川が消えてしまうかもしれない」

「その可能性は否定できない。でも、あなたが今見ている景色が夢であることの根拠にはならない。ねえ、私の目を、しっかりと見て」私は彼女の茶色い目の中心部にある瞳孔を見据えて、頬に当てられた彼女の手の上から自分の手を重ねた。

「私は、あなたからしたら、夢に出てくる仮想の存在かもしれない。そこまで疑われたら否定のしようがないわ」ひんやりとしていた彼女の手は、私の頬と手に挟まれて、少しずつ温かくなっていく。

「だけど、夢かもしれない私が、今は唯一、あなたのリアルを証明しているの。私はあなたと同様、夢かもしれない、あなたがそう思う世界の住人なの」彼女の手から冷たさが抜けると、先ほどまでは感じなかった柔らかさをありありと確かめることができた。若い男性の店員が、お待たせしました、という定型句と一緒に、濃いめのカフェラッテのような色合いのカクテルと、クラッカーとクリームチーズの盛り合わせを運んできた。カクテルは見た目通り、コーヒーのような香りが漂い、クラッカーについてきたクリームチーズは、三種類、それぞれ何かが混ぜ合わせられているようで、彩りも綺麗だった。彼女は私の頬から手を離し、

「私、冷え性なの」といって、温まった右手で左手を包み、すりすりと擦った。私は、合わされた彼女の両手を、彼女の手より一回り大きい左手で覆った。彼女は少し驚いたようで、目をぱちぱちさせながら私の方を見た。

「ありがとう、北川。お前のリアルは、俺が証明する」たった一杯で、私はだいぶ酔い始めているようだった。

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