提携の否定形
闇を落下し続け、僕は夢見心地へ達する。深淵では僕と同じように夢へ誘われた同胞が啓示の時を待っていた。人数は百を優に超えているように見える。居場所を作れる愛嬌もないし、さすらう知恵も度胸もない、淘汰される未来しかない者の集い。これから何が起こるのだろう。何をさせられるのだろう。似た境遇の同胞と巡り合えたとて僕の不安は消えることはなかった。
「諸君、ようこそ」
暗闇の向こうから一人の男が現れる。慇懃な態度で彼は「服部」と名乗った。今回のアルバイトの担当者だ。顔も見覚えがある。以前に夢で仕事の説明をしていた男も同じ名だった気がする。こうして再びまみえたということはあの夢で起こった出来事は現実だったのだろうか。「それならば」と僕は周囲を見渡して彼女の姿を探したが、見つけられなかった。
「諸君は、選ばれました」
「何に?」という無言の問いがその場一帯に広がる。喜ばしい出来事ではないのは周囲の雰囲気から僕にも察せられた。しかし、この場を逃れる術がない以上、次の言葉を待つしかなかった。
「あなた方には今回の心理モニタリングを通じて、私どもが真に望む仕事の適性を確かめさせてもらいました」
あの文章にどのような意味があったのかはわからない。不審な点だらけの状況に及んでもなお僕は彼を信用し、危機を見て見ぬ振りしようとしていた。男は言い聞かせるように仕事の内容を明かす。
「心配には預かりません。簡単なお仕事をしてもらいたいのです。業務の内容は……害虫駆除です」
僕は労働に必要な手続きを知らない。だが、彼の望む仕事が文字通りの意味なら、こんな回りくどいテストを行う必要がないのは知っている。害虫駆除――僕が日頃から触れるコンテンツと同じ文脈で用いられるなら彼が欲するところはおそらく……。
「この頃、ある輩に業務が妨害されておりまして……。そこで皆様のお力を借りたいのです」
集団の中で小さくどよめきが起こり、困惑の空気が一帯に広がる。察しが悪くとも想像はつく。これは犯罪の片棒どころか両棒を担がされるに違いないと。僕は三毛がこの場にいなかったことに密かに安堵した。良かったな。これ、やばい仕事だったよ。
「もちろん、皆様の中には荒事……すなわち他人へ暴力を働いた経験がない方も多いでしょう。御心配には及びません。私がサポートしますから、皆さまは何もなさらなくても結構です……いや、もうすでに――」
「何もできませんがね」と、服部が呟いた頃にはもう手遅れだった。「えっ」と声を発そうとしたが声が出ない。指先一つすら動かすことが叶わない。
(夢の中で金縛り……?)
僕だけではないらしい。周りにいる全員が同じような状況に囚われていた。誰もかれもが声を発さずにじっと服部へ視線を向けている。
「さすがにこの数を弾くのは重いな……。だが、この程度なら演奏に支障はない」
服部が空に向かって手を差し出すと、空間に穴が開き、その中からバイオリンが現れた。彼が弓で音を奏でると、それに合わせて僕たちの体は一糸乱れぬ動きを取ってしまう。意思に反して体が動作してしまう現象を僕の脳は処理しきれないでいた。ただ流れのままに、彼の示すままに状況は進んでしまう。「さあ諸君」と服部は僕たちに向けて意気揚々と声を張り上げる。
「意味を与えよう」
何ということだ。彼は僕たちのような「できない人間」で憂さ晴らししたり見下したりするだけでは飽き足らず、僕たちを使って自分の手を汚さずに私腹を肥やす――もっと邪悪で恐ろしい存在だったのだ。気付いた頃には拒否する権利は奪われている。彼は意味を与えるのではなく、焼き印のように押し付けようとしている。相手が苦しもうともがこうと構わず……。そして、使い物にならなくなったら切り捨てる。想像力を働かせなくても認識できる。
絶望する一方でこうならない為にどうしたらよかったのか、選択肢さえ思い浮かばない。それがこの上なく悔しい。僕が妹のように賢くてしっかりしていたら……そこまで行かずとももっと普通だったら、こんな目に遭わなかったのだろうか。
「さあ……獲物が来たぞ」
背後に何者かの気配を感じる。しかし、身の自由が利かないので振り返ることはできない。
「誘いにわざわざ乗ってあげたけど、前よりもたくさん……随分と手駒を集めたこと。あのお店の中だけじゃなかったのね」
女性の声が後ろから聞こえた。最近聞いた気がする鈴のような声色……「もしや」と期待に似た感情が僕の胸中によぎる。
「それだけ君を評価しているのだよ。蜂が単独で狩りを行うという噂が真で助かった。そして、もう一つまことしやかに囁かれている噂もある。「蜂は狙った獲物しか殺せない」とね。さて、君はこの軍勢を一人も殺さずにくぐり抜けて、先にいる私を仕留めることができるかな?」
「あなたがキリギリスなら、利用されているその子たちはアリと言った所かしら? 自ら手を汚さないあなたらしい趣向ね」
「前にも言っただろう? 彼らはビジネスパートナーだ。事を為し遂げてくれたなら相応の礼はする。蜂を仕留められたなら業界でも名が売れる。仕事もたくさん舞い込むだろう。ピンチではあるが、反対にこれ以上のビジネスチャンスはない。ここで手を引く合理性は微塵もないのさ」
「諸君! 我が声に耳を傾けよ!」と、服部は大仰に拳を掲げ、軍団を鼓舞する。傀儡と化したこの集団にそんなことをする必要はないのに、彼がそうするのは彼自身が拭えない恐れを抱いているからなのかもしれない。
「怖いか? なに恐れる必要はない。君たちは私の身に危険が及ばぬよう盾にさえなってくれたらいい。それだけで愚かで、のろまで、何の役にも立たない君たちの存在にも意味があるというもの」
服部の演奏によって僕たちは相手の前に立ちはだかるように隊列を組まされる。敵は動じることなく、悠然とこちらの態勢が整うのを待っていた様子だった。視界に見覚えのある女性の姿を捉え、僕は安堵に似た感情を抱く。それはきっと、彼女の狂気はこの程度の障壁を物ともしないと肌で感じ取っていたからかもしれない。すでに勝敗は決している。僕にもわかることなのに、どうして服部がわからないのだろう。声すら出せない状況が歯がゆい。
「滑稽ね。キリギリスさん。この子たちはもうわかっているみたいよ?」
「降伏勧告のつもりか? それで唯々諾々と首を差し出しても、貴様らは満足できないのだろう?」
「せっかくだから楽しませてくれると……? ふふ……わかってない。やっぱりあなたはわかっていない。そんなだから煮ても焼いても旨味がないと言われるのよ。良い? 私たちはオーガズムや利益が欲しくてこんなことをしているんじゃない。ましてや平和で住みよい社会を目指してもいないし、哲学的探求を求めてもいない。生きるのに必要だからしているの。そう聞いたら食事なんかに例えられがちだけど違うわ。もっと副次的な位置付けにある行為よ。人間って、あってもお腹は満たされないし、何なら害を及ぼす可能性もあるけれど、なくては精神の安らぎを得られないものや行為に心が惹かれる……悪く言えば執着するじゃない? 娯楽嗜好、お金や名声、他者とのつながり、肉体的な快楽……例を挙げれば色々あるけれど、蜂も普通の人間と同じように、そうした執着を抱えて生きている」
彼女はゆっくりと一歩ずつ僕たちに向かってくる。間合いが近付くほどに空間が彼女のものになっていくような感覚を覚えた。徐々に物々しい気配が這い寄る中、服部は虚勢を張って言葉を返す。
「善でも悪でもないと、ニヒルを気取っているつもりではないのはわかっている。なら、お前たちは何に執着しているというのだ?」
――不幸の味は蜜の味。
彼女はそう静かに言葉を発した。確信めいた響きが空間に波打つ。それこそが彼女、いや彼女たちを支える何かなのは僕にも伝わった。彼女一人の考えだと感じなかった理由はわからない。ただ、言葉の背後にさざめきのような残響が尾を引いているように感じたのだ。不幸の味は蜜の味――この言葉は彼女が属する「蜂」と呼ばれる集団に共通した考えなのかもしれない。
「私たちは執着によって生まれる苦しみに執着する。だから欲を肯定するし、非合理性を許せるし、不善を慈しめる。そう、この世界の誰よりも人間を愛している」
「菩薩でもあるまいし、随分と殊勝なことを言う。人間を愛している? ならばお前の目の前にいるこいつらを愛せるか? 知能は幼児から成長せず、ろくに文字の読み書きも会話もできない。衝動や反射でしか物事を判断できないこいつらを! 社会から、人間の群れから、保護か迫害のプロセスが踏まれる可能性すらない、自然淘汰されて消えゆくだけのあはれなる存在……。これなら無能でも群れの習性を知覚して生きていられる分、虫にでも生まれた方がマシだってもんだ。こんな奴らを愛したって無駄だぜ? こいつらは何も感じない。俺についてきたのだって、何となく楽に金を稼げそうだからって理由だろうからな! まあ、あんたのその良い体で愛してやったら少しは何か感じるかもなぁ……! その時は白く濁ったくっせぇ蜜が採れるだろうよ」
これまでの紳士的な振る舞いを捨て去り、下卑た笑みを浮かべて服部はバイオリンの弓を蜂へ突き付ける。「さあ、コンサートの時間だ」
女性は物怖じせず、男の舌尖を一笑に付した。「だからここにいる」と呟いて。
――それが始まりとは気が付かなかった。地の底へ引きずり込まれるような深い眠気が僕たちを襲う。視界がぼやけて姿勢を保てない。夢の中でさらに眠るなんて……。
「大丈夫。あなたたちには何もしないから」
おぼろげながらも彼女が手を伸ばした程の距離にいるのがわかる。濃厚な甘い匂いが鼻腔にまとわりついて離れない。頭もぼーっとする。「そんな!? これからドンパチやろうって所なのに!」と、服部の慌てふためく声が遠く後方から聞こえる。
「バトル漫画のような大立ち回りを期待してた? 最後に一花咲かせようと、全ての力を尽くしてこの子たちを操り、敢然と私に立ち向かうあなた。操り人形と化し、人知を超えた身体能力を発揮するようになったあなたのしもべを、俊敏かつ華麗な……そう! まさに蝶のように舞い、蜂のように刺す身のこなしで躱しきり、戦陣の奥にいるあなたへ渾身の一撃! 私が決め台詞を言ったと同時にあなたは絶命する……なんて展開でも想像してた? 見せ場を作ってあげられなくて悪いけど、そんな暇はないのよ」
柔らかな気配はふっと僕の側から消えたかと思うと、瞬時にキリギリスの方へと移動した。残った芳香がさらに僕を眠りへ誘う。思考はまだらで、もう彼らの声を耳に入れることしかできなかった。
「獲物を仕留める最高の瞬間じゃないのか……?」
「残念ながら瀬戸際まで責めるのが好きなだけで殺しは別に」
「ならもう少し楽しんでくれても――」
「それはダメ。あなた、味がしないんだもの。私はもう良いから仕上げは別の子にやってもらおうかな」
「別の……? 蜂は単独行動では?」
「何事にも例外はあるものよ。あなたのお仕事でもよくあるでしょう?」
「例外……?」
「さあ、おいで。サナギちゃん」
「サナギ……? 君……お前は……!」
「…………」
「ま、待て! クソッ! 俺がこんなガキに……!」
――全ては女王の御心のままに。
「おやすみ」と、とても耳に馴染んだ声が聞こえた。声の主を確かめようにも僕の視界はもう真っ暗で何もわからない。わからない。わからない。どうして僕は何もわかれないのだろう。わかるようになりたい。難しいことはわからなくてもいい。ただ……。
間もなく僕の意識は夢の大地から転がり落ちる。抗えない重力に導かれ、僕はまた現実へ産み落とされるのだった。
夢幻のワスプ 壬生 葵 @aoene1000bon
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