やっぱり朝だよね(了)


「脱走者は始末したよ。後は仕上げだけ」

 私からの報告を受け、母は「そう」とだけ漏らした。視線は窓辺に向いたまま。外はどこまでも澄み渡っていた。同じ空の下で殺人が行われたとは思えない程に晴れやかだ。

「浦亜香里への執行は今夜。美琴の迎えはその明朝に」

 淡々と今後の予定だけを告げていく。母は何も言わず、一度だけこくりと頷いた。紅茶の湯気を眺めるだけの時間が流れる。まさか殺人の打ち合わせとは思えない程に穏やかなひと時だった。「今日はサークルで集まるから夜ご飯はいらない」と伝えるのと同じで、私にとってはどちらも日常だ。

 そう、幼き頃から刷り込まれた日常……。


 ――殺しを教え込むなんて……。あなた達は最低です。


 昨晩、吐きつけられた言葉が甦る。あの場で「私も……」と教えてあげたら、彼女はどんな顔をしただろうか。冷血な殺人マシーンへと育て上げられた憐れな娘と、涙でも流して同情してくれたかもしれない。

「本当のお母さんの件、恨んでる?」

 母は相変わらず外を眺めながらこちらに尋ねる。迷いや心配からの問いではなく、事務的な意思確認のようだった。

 飢餓も悪臭も痛みも感じられなくなった無の世界は今でも脳の奥底に刻まれている。あそこでは人としての全てを放棄せざるを得なかった。実母に対してならともかく、私を拾い、蜂として生きられるようにしてくれた母に恨みなんて一度も抱いたことはない。

「母さんはどうして私を連れていこうと思ったの?」

「そういうものだから」と母は事もなげに紅茶の香りを楽しんでいる。「女王の務めって奴よ」


 幼き頃の記憶を手繰り寄せる。

 あの日はとても静かだった。床がきしんでも鼻をすすっても、怒号が飛んでこなかったので異様に感じたのを覚えている。違和感の正体を掴みかねている内に、母親の部屋で「ドサリ」とただならぬ物音がした。入ってはならないときつく言いつけられていたけど、そこでようやく私は「何かが起こっている」と感じ取った。恐る恐る扉を開くと、彼女は椅子から転げ落ちた状態で動かなくなっていた。それをどうすることもできずにただ眺めていた所で「母」と出会う。


「ワーカーは女王からの使命を果たすのが務め。じゃあ女王の務めとは何か。それは巣の繁栄と存続を図ること。だから新たな女王はその座に就いた時点で次代の女王を身に負わなければならない」

「次代の女王……それが私なんだね?」

 他の蜂と扱いが異なるのはずっと感じていた。巣で育ったから特殊なのだと自分を納得させていたものの、何となくもやもやしたままだった。

「ええ。次代の女王は既存のワーカーから選ばれない。あなたは初めから女王になる為、私の手で巣に招かれた。でも、あなたが拾われたのは偶然よ。当時、妊娠の予定がなかった私に前女王が『こいつにしな』と命を下したの」

 母は「無茶苦茶よねぇ」とニコニコ朗らかに往時を懐かしんでいた。「そんなきっかけでよくここまで育てられたね」と私も笑うしかない。

「親になるのに必要なのは血の繋がりや愛情じゃなくて覚悟よ」

 あっけらかんと話しているけど、母の思いがわかって心がほのかに温まる。きっかけはともかく、その後はちゃんと私を育ててくれたのだから文句を言えない。

「そういうものなんだね」

「そういうものよ」

「私もできるようになるかな?」

 生まれも幼少期の環境も果ては育ってきた家庭も一般的ではない。普通を知らない私はどんな「家族」を作れるのだろう。想像すらできなかった。

「それはこれから次第ね」と母は微笑む。安易に「できる」と答えないのが母らしい。温かい人柄に見えて、現実的でシビアな思考をもっているから計り知れない怖さがあった。

「そっか……。じゃあ頑張らないとね。私は母さんの娘だから」

「ふふっ……ゆっくり無理なくよろしくね。あなたは私の大事な娘だから」


 ティータイムを終えて六〇六の自室に戻ろうとする際、私を見送りながら母はほっとした表情を浮かべていた。

「最後の仕上げ、頼んだわよ」

「うん。良い報告を待ってて」

 つま先で床をトントンと叩きながら靴を履く。何となく足の収まりが悪い。

「母さんは元二〇三のこと、どう思っている?」

 間を埋める為にふと発した問いが空を渡る。辞めていった同僚の話をするような感覚に近い。「何であいつ辞めちゃったんだろうな?」みたいな。

「珍しいね。あなたが仕事のことで質問してくるなんて」

「……別に」

 ただ、もう少し母と言葉を交わしたいと思って聞いてみただけだった。仕事をこなしてワーカーとして高みに昇るほど、親子で居られる時間が目減りして母が遠くなっているような気がしていたから。

「そうね……。あなたも知っての通り、ワーカーは私の因子を宿した分身で、まさに娘のような存在。どんな形であれ、別れは嫌なものよ」

 蜂になるには女王の祝福を受けなければならない。祝福とは因子を授けられる儀礼を指す。具体的にどういう行為かというと……恥ずかしいから言えないや。

「でも」と母の話は続く。壁にもたれかかって俯く仕草はいかにも物憂げで様になる。私のような無感情であろうとする者にはできない芸当だった。

「でも、獲物なら別よ」

 女王は垂れた髪の隙間から鋭い眼光を一瞬だけ覗かせる。煌めく白刃のような殺気に私の下腹がゾクゾクと疼いた。長く一線から退いているとはいえ、その強大な力は色褪せない。うっとり見惚れてしまうほどの暴力的な気迫が突風のように私の体を通り抜けていく。

 蜂は巣を抜けた瞬間、狩る側から狩られる側へと立場が転じる。だって皆何らかの不幸を抱えているし、仕事で他人の不幸に触れるしで不幸まみれだもの。だから殺すと良質な蜜がたくさん得られた。

「あなたが送ってくれたあの子の蜜、美味しかったわ。次のメインディッシュも楽しみにしているよ」

 殺気の余韻を残しつつ、母はニコっと微笑む。娘からのプレゼントに喜ぶ姿が本当に親らしくて眩しい。

「うん。じゃあ行ってきます」

 ――行ってらっしゃい。

 声を背に受けてドアを開く。甘い香りを纏いながら私は夢路へと駆けた。




 今日もゆうくんから連絡は来ない。どうして? もしかしてあの夢って現実だったの?

 何だか嫌な予感がして家に帰ってみたけど、今のところはあたしの身に何も起こっていない。夢での忠告通り、とりあえずに餌はやっている。あれを生かしておけばあの怖い女は夢に出てこない。夢占いって半信半疑だったけど何だか信じてしまいそう。そのくらい現実感がある夢を何度か見た。いかにも真面目そうな女がいかにもな綺麗事で説教してくる夢も苦痛だったが、表情が死んでいる女に痛めつけられる夢の方が命の危機を感じて恐ろしかった。

 もしかして奥さんにバレた? だとしたら良い物件だと思ったのに残念だ。早く次を探さなくちゃ。小遣い程度の児童手当だけじゃ生活できない。それかそろそろ働く? でもキャバは人間関係がやだなぁ。風俗はゆうくんみたいに寝ているだけで済む人ばかりじゃないし、そもそもエッチが嫌いだから無理だ。スーパーとかコンビニは給料が安いから論外。

 それに最近はあれが妙に大人しい。弱ってきたのかな? 死んだらどうしよう? 虐待がバレるよね? だったら死体を隠す? こんなことなら元夫に無理やり親権を渡せば良かった。あの男のせいでできた子どもなのに、あいつは私に押し付けて今どうしているのやら……。あれのせいであたしの人生はめちゃくちゃだ。

 ……そうよ! あれがいるからあたしは……! だったら児相がまた様子を見に来る前に動かないと。

 思ったが吉日、あたしは充電コードを手にして部屋を出る。忌まわしいものを押し込めた二階へと階段を一段また一段と昇っていく。

 あれはもう使っていない寝室のベッドでじっとうずくまっていた。ガリガリで臭くて気持ち悪い。一瞬でも触れるのすら嫌だからビニール手袋をして首にコードを巻き付ける。

 さあ、あとは両手を目一杯引くだけ。これは人殺しじゃない。の処分よ。引くぞ、引くぞ……。

「何してんの?」

 ――えっ? だベゥッ!

 声がした方に振り返った瞬間、衝撃が顔面を襲った。あたしはそのままベッドから転げ落ちてしまう。視界が点滅して何が何だか状況が掴めない。

「その子は

 あんたは――と声を発する間もなく今度は平手が飛ぶ。キーンと耳鳴りがして音の輪郭がぼやける。虚ろな意識の端で恍惚とした表情の女の姿を捉えた。

 夢で見た女だ。それじゃあこれは夢? いつの間に寝ていた? もう現実なのか夢なのかわからない。はっきりしているのはあの女がここにいて、あたしの身に危険が迫っているってこと。

「行いはずっと見ているって言ったよね?」

 女の声がぼんやりとくぐもって聞こえる。体に力が入らなくて起き上がれない。まだ頭がグラグラする。何て馬鹿力なんだ。このままでは殺される……!

 女はなおもあたしに容赦しない。前後不覚で這いずっていると、靴のヒールで右手を踏み潰された。聞いたことがない音が体内に響く。あまりの激痛に声が出ない。ひゅーひゅーと息を漏らして痛みに耐えるしかなかった。

 痛い痛い痛い。何なのこれは。どうしてあたしが……。お願い! 夢なら醒めて……。

「女王の御心のままに」

 首筋に細くて冷たいものが触れる。人の指だと気付いた頃にはあたしの意識は――。




 さっさと始末すれば良いものをちょっと手心を加えてしまった。現実の肉体にも内出血のような痣ができていた。まぁ死んだからどうでも良いか。死因もアレルギーによるショック死としか出ないし。

 日も出ぬ内に車を走らせた末に一軒のアパートに辿り着いた。未施錠のドアを開くと、中は夢で見たのと同じように静かで、ほこりっぽくて、臭かった。朝方のほの暗い部屋の中で若い女が眠るように死んでいた。

「良い死化粧じゃん」

 顔に痣が浮かんでいるにも関わらず、安らかな死に顔だった。逝く瞬間は苦しまないで済むだけ、人でなしには充分すぎる最期だ。こればかりは針を使わなければ蜜を得られないから仕方ない。それよりも今日ここを訪れたのは他でもない、あの子を迎えに来たのだ。

 夢で見た階段を軽やかに駆け上がって、見覚えのある寝室に至った。カビに皮脂に糞尿にと、悪夢のような臭いが鼻をツンと突く。ほんと、最高すぎてクラクラする。

「ま……」

 少女は出会った時と変わらず、ベッドの上に寝転がった状態で私を出迎えてくれた。目はまぶたが重たそうで半開きがやっと、体はガリガリに痩せて身じろぎすらできない始末だった。触れるに四肢が簡単に砕けそうで、抱き上げるに赤子よりも軽かった。慎重に慎重を期して優しく胸に抱き寄せてあげると、スースーと寝息を立てて私に身を委ねてくれた。

 朝陽が地平線の向こうから頭を覗かせ、部屋の中にオレンジの光が差し込む。私は長く閉め切られていた窓を開き、冷たく澄んだ空気を招き入れた。外の光景は今日を迎える人々の意思を凝縮したようで、この気怠くて温かい瞬間を私は愛している。

「ねぇ、君は朝が好きかな?」

「ま……ま……」

 ご飯を食べている夢を見ているのだろうか、口をもにょもにょ動かしている。

「ふふっ……君も白米好きになるだろうね」

 どこかの家で炊飯器のブザーが鳴った。おっとうかうかしていられない。そろそろここを離れないと……。

 朝ってほんと短くて忙しい。

 でも、だから貴い。


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夢幻のワスプ 壬生 葵 @aoene1000bon

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