夜明け前ですけど起きてます?


「またね! お姉ちゃん!」

 血の繋がりがない妹を見送り、そのままエレベーターに乗り続けて六階まで上がる。何だか気が抜けてしまった。

 六〇六号室に入り、何となく横になっている内にうとうと眠ってしまう。変に疲れていたのかもしれない。


 目を開くと自宅の天井があった。これは私の夢。だが、いつもと感覚が違う。

 ――誰かが入ってきている。

 こんなことができる存在なんて決まっている。「蜂」しかいない。

「良い度胸しているじゃない」

 いつお目にかかろうか迷っていたけど、向こうから来たのなら願ったり叶ったりだ。

 家を出て辺りをうろつく。居場所の目星は付いている。現実で見慣れている風景を通り過ぎ、相手が潜んでいるであろう場所へと赴く。

「……いるね」

 到着したのはお馴染みのマンション。そう、「蜂の巣」だ。下層のワーカーがどれだけ気配を隠そうとも私には通用しない。ここまで相手に近付けば、どの部屋に潜伏しているかも手に取るようにわかる。

 エントランスを抜け、階段でそのまま二階へ上がる。コツーンコツーンとあえて足音を鳴らして到来を相手に告げる。

(「羽音」が乱れた……まぁその程度よね)

 二階の廊下に出て、するりと目的の部屋の前へ。ドアには「203」の番号が刻まれている。

「残念。そこはもうあなたの居場所じゃない」

 ノブに手をかけ、ゆっくり静かに開ける。室内に明かりは灯っておらず、しんと静まり返っていた。

「罠も不意打ちもなし。さて……」

 ここまで何もないと拍子抜けする。小細工の類はなさそうだと判断し、薄暗い玄関をすたすた踏み入り、居室へと通じる扉を躊躇なく開けた。

 ――待っていました。

 部屋の中で待っていた女は私より少し年上だろうか。細いフレームの眼鏡に肩口で切り揃えられた髪、化粧っ気のないこざっぱりした顔つきからして、一見真面目で大人しい印象を抱く。資料に載っていた顔写真とそう雰囲気は変わらない。表情が固く、声はわずかに上擦っていた。この手の仕事に慣れていないというより、人と話すのに慣れていないようだった。

「はじめまして。二〇三番さん」

 私はゆっくり歩を進めて、手を伸ばせば体に触れられる距離にまで近付く。鼓動が、浅い息遣いが聞こえる。不安を押し殺してここに来たのがわかる。緊張で足が竦んでいるのか、それとも……。

「わざわざそちらからやって来てくれて手間が省けたよ。私に与えられた命令をわかっていながら来たのなら大したものね」

「『使命を捨てた者には報いを』ですね。それなら承知の上です」

「ですが」と続けて、女は毅然として私に対峙する。

「私はお願いしたいことがあって、あなたに会いに来ました」

「お願い?」

「浦亜香里さんへの執行を見直して――」

「無理」と間髪入れずに答える。「収穫前の果実を腐り落ちるまで放置しろと?」

 命を取られるリスクを冒してそんなことを言いに来たのか。まったく呆れた。

「リスクを冒してでも言うべきだと……立ち向かわなければならないと思ったからです」

「ふーん……」

 使いっ走りの私に訴えかけようと意味なんてない。その覚悟だけは褒めてあげても良いかもしれない。私のぞんざいな態度が気に入らないのか、女は厳しい表情を浮かべている。

「私ね、あなたみたいな人をたくさん見てきたわ」

 私達に狙われた時点でもう救いようがないのに、勘違いして仕事を放棄するワーカーは少なからずいる。世の悲惨な一面を目の当たりにして、そうした境遇に陥った人を救いたくなったのだと。そして、法に則らずに人を裁くのは悪だとも。

 本来、私達が行っていることは裁きでも救済でもない。「蜜」を集める為にそうしているだけ。崇高な理由はなく、巣の存続の為に捕食という最も俗的な行為をしているに過ぎない。

「じゃあ巣は何の為にあるのです?」

「全ての命に明確な存在理由なんてあると思う? そんな世界、気持ち悪くない? 皆が『これだ』っていう目的をもっていて、その為にうごめいているなんて」

「詭弁で返さないで」

 女の語気が強くなる。こんな議論をいくら交わした所で意味はない。私が手を下さなくても対象はいずれ破滅する。それか私以外の蜂が始末する。結末は決まっている。

「そんなことはありません。彼女はあなたの忠告を受け入れた」

「ふーん。視ていたんだ?」

 それを知っている辺り、やはりこちらの行動を監視していたのか。大学でくっつきちゃんの尾行に気付けたのも、それ以前から誰かに視られている気がしていたからだった。

「私だって何もしていなかった訳じゃありません。児相や自治体に働きかけて亜香里さんがまともに暮らせるように動いていた。良質な蜜には強い負の想念が必要。不幸の花が咲かなければ蜂は手を出さない。彼女の生活が一時期改善して更生の余地があったから、あなた達は半年の間動かなかったのでしょう? 今はまた悪化していますが、正しい支援を受ければ必ず立ち直れるはず」

「母がそんな甘々なことを許すと思う?」

「女王のお考えはワーカーには測り知れません……。ですが、私の意思を汲んでくれる慈悲はお持ちだと思います。私は何としても彼女と美琴ちゃんを救うつもりです。たとえ使命に背くことになろうとも……!」

 自分の母親にもこのように思ってくれる人がいたら運命は変わったのだろうか……いや変わらない。現にこの女はあのろくでもない母親を何一つ変えられていないのだから。思いだけが先行して、何も成し遂げられていないのにやった気になっている。それなのに「人は変わる」とうそぶく恥知らずだ。

 女は静かに戦いの構えを取る。「またこのパターンか」と私は憐れむように呟いた。与えられた力にのぼせて愚かな夢に惑う。脱走者はどいつもこいつもこんな感じでうんざりする。

 互いに視線を交わし、じっと見据えたまま対峙している。ビリビリとした殺気が部屋の中に充満しつつあった。

「思い込みだけで行動するって罪だね。どうしたらそこまで自惚うぬぼれられるのかな?」

「私はあなたや他の蜂のように世界に絶望していませんから」

 私の挑発に女は明らかにムッとしたようだった。経験の浅さが露呈して愛らしささえ感じる。まだまだ人間ね。そう、本当に人間くさい。

「じゃあさ、脱走を見逃したのも、半年も手を出さなかったのも、あなたは女王の掌の上で転がされていただけだって言ったらどうする?」

「それってどういう……」

「全ては女王の御心のままに」

「――っ!」

 女はこちらの纏う空気が変わったのを嗅ぎ取り、瞬時に貫き手を放った。先手必勝とみて、機先を制そうとしたのは高評価。でも恐怖にまみれていて鈍い。それはむなしく空を切った。

「――あがっ!」

 私が回避と同時に振った拳は女の胴にめり込んでいた。害虫を踏み潰した時のような不快感が拳から伝わる。眼鏡が落ちて「カシャン」と情けない音を立てた。女は床に沈んで朦朧としている。フローリングに点々とヒトの体液が落ちた。やっぱグーは気持ち良くないな。

「あーあ、向かってきた所でこうなるのはわかっていただろうに」

 髪を引っ張り上げて今度は頬を平手でぶつ。乾いた音が夢幻の世界に反響する。うん、やっぱパーだね。女は呻くだけで言葉を発しない。夢の世界と言えど痛いものは痛いから無理もない。

「人の不幸は蜜の味。だったら幸福はどんな味なのかな。求める人は躍起になって何も考えられなくなるのだから、さぞかし美味しいのだろうね」

 苦痛に顔を歪めたまま女はこちらを見上げる。手加減したものの、思ったより回復が早い。

「幸せでありたいって願うほど、自分は不幸だって言い聞かせているようなもんだよ」

「……不幸を餌にしている蜂らしい言葉ですね。誰だって満ち足りた暮らしを味わいたいものです……。あなたは人間じゃ――」

 今度は脇腹を蹴り上げる。体を両断しかねない程の衝撃によって女は壁まで吹っ飛ばされた。部屋が大きく揺れてほこりが舞う。倒れ込んだままの相手の首筋に指先を当て、私は最後の決断を促す。

「ここで死ぬか、大人しく『針』を返すか、選べ」

「…………」

 ――どうせ殺すのだろう?

 無言の抵抗はそう語っているようだった。

「針を返してくれたらあなたにもう用はない。夢を見られなくなった蜂を気にかけるほど、私達は暇じゃない」

 蜂は針を失うと人に戻る。こちらとしてはそれだけで無力化できるのだから命までは奪わなくて済む。同族殺しはできるだけ避けたかった。心情的にもだし、何より組織内で角が立つ。

 そんなの――。

 女は声を絞り出して意志を示す。

「そんなのくそくらえです」

「……そう」

「あんな小さな子を親から離して、人殺しを教え込むだなんて……。あなた達は最低です」

「……そうね」

 感情を闇に溶かし、指先に意識を集中させた。女の体が刺激に反応してピクリと揺れる。

「悪びれもしないなんて本当に……くそ……が……」

 ……呪詛は徐々に途切れがちになり、やがて静寂が辺りを包む。

「おやすみなさい」

 人の抜け殻に祈りを捧げ、その日の夢は終わった。



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