夕方も良いよね?
お袋の味って味だけじゃなくて、ああいう食事中の雰囲気も関係あるのかな。離れてから気付くこともあるもんだね。
穏やかな心地で六〇六の部屋に移り、早速仕事に取りかかる。今度侵入する夢は――。
「ここか」
眼前には単身者向けのありきたりなマンションがそびえ立っている。侵入してまず初めにここへ辿り着いたのなら、彼女にとってあそこはもう家ではないのだろう。
対象がいると思われる部屋を目指す。オートロックもここでは意味を為さない。難なく通り抜け、エレベーターに乗り込む。駆動音に耳を傾けながら一度深呼吸する。
「今日は忠告だけ。殺さない」と自分に言い聞かせるように呟く。どんなろくでなしであっても、この手順は外してはならない。更生の猶予を与える為? 全然違う。女王に捧げる蜜は至上の質でなければならないから。私達にどうこう言われても、己の業を省みない正真正銘の外道を選別する為のひと手間。活きの良い餌を見つける為、といえばわかりやすいかな? まぁついヤってしまう時もあるんだけど。
そんなこんなでエレベーターは目的の階へ。ある一点を除けば所詮新人向けの案件、ぬるすぎる。悠々とある部屋の前に到着する。ドアノブは……回らない。でも――。
「こんなの無駄無駄」
夢の世界で私達に敵うものなどありはしない。「開け」と念じるとカチャリと音を立ててノブは回った。
「お邪魔しまーす」
飄々とした調子で居室へ入り込むと、シングルベッドの上に裸の女が一人、他には誰もいないようだ。テーブルの上には灰皿と吸い殻の山、空になったチューハイの缶、タレが乾いてこびりついた皿が雑然と置かれている。まぁ良い生活だこと。
女は目覚める様子がなかった。夢の中でも寝入っているなんて随分と暢気なものね。顔を確認する為に乱雑に布団を剥ぎ取る。薄掛けから胸の谷間が現れ、そこについた赤い痣を見て若干の吐き気を催した。
「ん? ゆうくん?」
女は寝ぼけまなこで恋人の名を呼んだ。残念、私はゆうくんじゃない。うつらうつら身を起こしてきた所で頬を思いっきり平手打ちしてやる。痛烈な音が響き、私の下腹がわずかに疼いた。うん、グーじゃ出せない良い音……。
「こんにちはー。
何が何やらという様子の女に対し、にこやかに問いかける。相手は頬を抑えてキッとこちらを睨んでいる。状況をわかっていないようなので今度は逆側の頬をぶつ。
「返事くらいできるよね? 大人なんだから」
「……はい」
返答はいかにも渋々といった様子だった。目に怯えや戸惑いがない。餌としては小物だけど少しは活きが良さそうだ。良い蜜が取れるかもしれない。
「私のこと、何者だと思ってる?」
「ゆうくんの元カノ……ですよね?」
「ふふっ……。そんな生易しいのだったら良かったのにね」
どうやら彼女は夢ではなく現実にいるものと錯覚しているみたい。説明するのも面倒なので用件だけを伝えることにした。
「私はね、あなたを殺しにきたの」
「え? 何で?」
唐突に物騒なワードが飛び込んできたせいか、処理が追い付かないようだった。「何も悪いことをしていないのに?」と言いたそうなのは表情から読み取れた。家に置き去りにした娘の存在など、もう頭の片隅にも残っていない。
「何でって……あなた、たくさん酷いことをしているよね?」
「は? あんたいきなり何言ってんの? ゆうくんに振られたあの女が悪いんでしょ? あたしは何も悪くないし」
この手の人間はトラブルを起こしていないと生きていられないのだろうか。調査班からの資料には、この女が言う痴話喧嘩の経緯も事細かに記されていたが、例のごとくどうでも良い。まじめに子育てに悩み、苦しんでいる世の母親にこの能天気さを少しでもわけてやりたいくらいだ。
「そっちは関係ないからお好きにどうぞ。私が来たのは別件」
「別件?」と問い返しながら目線が揺れる。言外に「まさか」という思いが漏れ出していた。美琴の件はバレないと高を括って、意識の外に追いやっていたのだろうか。それとも己の行いにわずかでも罪悪感を抱き、事実から眼を背けているのか。どちらにせよ、何らかの動揺を見て取れた。
「お家、帰っていないでしょ?」
それを聞いて亜香里の顔色がハッと変わる。「違う! 違うの!」とうろたえ、こちらに縋りつこうとしてきた。私は躊躇なく思いっきり突き飛ばす。壁に背を打ち、女は堪らずうずくまる。体に羽織っていた薄掛けがはだけ、裸が露わになる。汚い。
「違う? 何が?」
「死なせるつもりはなくて……! ちょっと息抜きができたら帰るつもりだったの! 本当よ!」
死んでいると思っていながら放置していたのか。昨日の私なら蹴りの一発や二発でも叩きこんでいたかもしれない。今は冷静にただ仕事をこなす為に言葉を紡ぐ。
「息抜きの期間が随分長くなっているようだけど?」
「だって仕方ないでしょ! あの子のせいであたしは……! あの子が憎くて一緒にいると、どうにかなってしまうんだから」
女の顔が醜く歪む。腹の中に収まらないほどに憎悪が溢れているのだ。ここまで堕ちたらもう救いようがない。
「憎い? それは別れた夫との子だから?」
「そうよ。拒んでいるのに無理やり生でヤって、いざデキたら妊娠中に『余所の女と一緒になるから別れてくれ。金は出す』ってね。その頃には堕ろせない時期になっていたから仕方なく産んだけど、言うことを聞いてくれないし、どんどんあの男に似てくるしで最悪! 別れた後のお金も支払いが徐々に遅くなって、いつの間にか雲隠れ。そんな男に作らされた子どもを愛せる訳ないでしょ? 二束三文でも手当が入るから家に居させてやっているだけよ」
亜香里は呪詛のように言葉を吐き捨てる。私はそれに対して「だからといって云々」と綺麗事を並び立てる気はなかった。対象が抱く負の感情はどれほどのものか、それがわかれば後はどうでも良い。私達に一度でも狙われた人間は、どうあがいても同じ結末を迎えるから。
「言いたいことはそれだけ?」
「えっ?」
「じゃあ帰ってあげなよ?」
私の反応に亜香里は呆然とする。娘はとっくに死んでいると思っていたのだろうか。もうどうでもいいと思って捨てた娘が生きている。これを悟って希望を抱くのならば、そもそも育児放棄などしていない。彼女にとって娘の生存は枷であり、絶望そのものだ。
「今回は忠告だけ。こちらはあなたの行いをずっと見ている。今度あの子を一人きりにしようとしたら……わかっているよね?」
逃げれば私に殺されると脅かされている状況で、彼女はどんな道を取るのだろうか。といっても夢で宣告を受けた所で人は変われやしない。これはあくまで手順の一つ。元よりこの女には期待していない。
亜香里は無言で何度も頷く。この手の案件を受け持つと決まって見る光景だ。その度に「あの人もこんな風に許しを乞うたのか」と生みの母へ思いを馳せてしまう。舌打ちで邪魔な思考を打ち払い、さっさと部屋を立ち去る。
あーもう、さっさと終わらせてしまいたい。
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