お昼はどう?
一瞬の浮遊感の後、一気に落ちる感覚、そして足が地面に着く感触……よし、到着。
目を開くと私は見知らぬ土地にいた。ここは夢の世界。ある人物の精神と繋がってその中に潜入している。広がる景色はその人の記憶と意識が作り出したものだ。
「お、ドンピシャ」
道路を挟んだ先に二階建ての小さなアパートが見えた。メゾネットタイプって奴ね。この仕事をしていると、住宅事情にも自ずと詳しくなる。
「こんばんはー」
玄関ドアを開いて躊躇なくお邪魔する。返事がないので、ずかずか上がり込んで居間に続くドアも突破する。
床には脱ぎ捨てられた子ども服が散乱しており、テーブルに食器が放置されていた。台所の冷蔵庫が開いたまま沈黙している。電気が止まっているのが端から見てもわかった。ベランダへの窓は……ご丁寧にチャイルドロックが取り付けられている。長く閉め切られていた為に、室内にはむわっとした独特な臭気がこもっていた。
――くさい。懐かしい臭い。
自分の過去が一瞬だけ想起されるも、即座に打ち消して目的の人物に接触を図る。一階には誰もいない。
「二階? まだ動けるのね」
今回、私が会おうとしているのは標的の娘。名前は
娘に関しては現状、夢に入れるなら少なくとも現実で死んではいない。母親の行方についても把握済みだけど、残念ながら私達の仕事は慈善事業じゃない。児童相談所に通報したって結局同じこと、子どもの孤独は決して消えやしない。世の中には悲劇が溢れていて、これもその一つ。不幸の味は蜜の味、私達は世界の不幸を溜め込む蜂だ。標的やその周りのことなんてどうでもいい。獲物はただ狩る。それだけ。
階段を上った先、寝室とみられる部屋でやせ細った女の子がベッドの上にうずくまっていた。母親の匂いを探し求めた結果、そこに至ったのだろう。現実でも夢でも一人ぼっち……。それでもこの子は母を信じているというのか。
「この期に及んで……」
波立った気持ちを鎮めて自分の務めに集中する。「こんばんは」と優しく声をかけると、娘は身を起こして虚ろな目でこちらを見つめる。視線を向けただけで言葉を発しない。いや、発せないのだ。だってまともに言葉を知らないのだから。
「ま……ま……」
「うん。ママは帰ってくるよ」
伝わっているかはわからない。でも、そう言ってあげるしかなかった。この際、この子はここで……という考えが頭を過る。だが、それは与えられた指令から外れる行いだった。ふと湧いた殺意を押し留めて、そっと子どもの隣に腰かける。
「…………」
すえた臭いとほこりっぽい空気によって、再び昔の光景が想い起こされる。私の母親も何も言わずに家を出て行っては、しばらく経ったらふらっと帰ってくる人だった。家にいる間は自室に籠もって出てこず、神経質で少しの物音でも立てれば容赦ない折檻が待っていた。あの頃は床の軋み一つ鳴らせない暮らしに疑問なんて抱かなかったし、家の中だけが私の世界だった。
「ねえ、美琴ちゃん」
「…………」
呼びかけにも全然反応がない。もしかしたら自分の名前すらわからないのかもしれない。ぼーっとこちらを見つめる目には思考が微塵も感じられなかった。
「お腹空いてないかな? まんま」
「ま……」
「まーんーま」
「まーま……」
「ママ」と勘違いしているみたいだけどまぁいいか。私は両の掌で雪玉を固めるように空間を包み込んでグッと握り込む。
「んー……よいしょ!」
手を開くと中から白米がキラキラと眩いほどに輝くおにぎりが現れた。ここは夢の世界、念じれば何だってできてしまう。何を食べようが現実の腹の足しには一切ならないけど、これくらいの夢は見せてあげても良いよね。
「食べる?」と訊ねる前に、おにぎりは私の手元から離れていた。小さい子の中にはお米を好まない子もいるけど、この状況ならそりゃそうか。
おにぎりを食べさせながら辺りを窺う。荒廃した夢の世界、窓の外はアパートの近隣のみを映して遠方はおぼろげ……この子にとってこれが全ての世界なのだ。
「美琴ちゃん、一緒に来ない? まんまいっぱい、だよ?」
手を差し伸べて優しく問いかける。あどけない瞳は訳がわかっておらぬようで、ただただ「まんままんま!」とねだるだけだった。
私は仕方なしに手を取って連れていこうとした。しかし、少女は弱々しくも手を振り払ってベッドから離れるのを嫌がる。抱きかかえていこうにも泣いて抵抗する。ここは夢の世界、精神が拒んでいるのならこれ以上はやむなし。
それからはまたおにぎりを与えてやったり、歌を歌ってあげたりして夢の空間を過ごした。単なるお節介ではない。これも仕事の一環だ。ただ一度の邂逅とて、精神の深層に記された体験は現実にも影響を及ぼす。だから私はこの子にまさに「夢のような体験」をさせたのだ。
「また会いにくるね」
「…………うん」
名残惜しそうな美琴とお別れをして外へ出る。夢路を歩む中で、幾度となくあの子の別れ際の表情が浮かんだ。私も昔はああだったのかしら。
ふっとため息を吐いて懐古の情をかき消す。同様の事例はよく見てきたはずなのに、今回は妙に感情移入している自分がいた。あーやだやだ。さっさと帰って炊きたてのご飯を食べて切り替えよう。
翌朝、炊飯器のタイマーを入れ忘れた。巣でひと眠りしたせいで、自宅に帰っても寝付けずに夜更かしをしたのが悪かった。ぼーっとした頭で釜をセットしたまでは良かったものの、ボタンを押し忘れていた。私は朝ご飯を食べずに家を出た。
今日は余計なことを考えず、務めに集中しよう。カリカリした心を宥めながら巣へ直行した。
「おはよう」
エントランス前で母がプランターに水やりをしていた。まるで私が来るのがわかっていたかのような間の良さだ。
「おはよう。珍しいね。下に降りてるなんて」
「いやね、別に引きこもっている訳じゃないんだし、ここのオーナーとしてやることはやっているわよ」
「ふーん、そうなんだ」
何とはなしに水が滴る木々を眺める。雫が上から下にポタポタ落ちて心地よいリズムを奏でていた。「ねぇ」と母はにこりと笑みを浮かべながら問いかける。
「朝ご飯、一緒に食べない?」
「え?」
「顔を見ればわかるわ。食べてないんでしょ? 良いじゃん、親子で久しぶりに。ね?」
太陽のような笑顔を見せつけられて、私は断る理を見失った。「ほらほら」と半ば強引にエレベーターへ乗せられて最上階に向かう。無性に照れくさかったけれども、波風立った心がいつの間にか凪いでいた。
「はい! あなたが大好きな炊きたてのご飯!」
「うん。ありがとう」
はにかみながら碗を受け取る。子どもの頃に使っていたものだ。まだ置いていたんだな。
私は生みの親の元から連れ出されて、それから大学生になるまではここでずっと「母」と暮らしてきた。引き取る際の細々とした手続きや元の親をどうしたのかはわからない……いや、聞かなくとも何となくわかっている。彼女も「蜂」なんだから。
静かに「いただきます」と呟いてからみそ汁をすする。うん、あったまる。穏やかに朝食を楽しむ中で、母がにこやかに問いかける。
「一人暮らしはどう?」
「別に変わらないよ。ワーカーになって部屋を持ってから、ほとんど一人暮らしみたいなものだったし」
「ふーん。お母さんのこと、思い出して泣いても良かったのに」
「ないない。そもそも仕事でしょっちゅうここに帰ってきてるじゃん」
みそ汁のおかげかな。何だか胸が温かい。そういえば母とこうしてゆっくり話すのは久しぶりだった。何だかんだ心配をかけているのだなとちょっぴり反省、気をかけてくれているのがわかって少々の感謝。親子で水入らずの時間を過ごしている内に、いつもの私が帰ってきた気がする。
「さあ、今日も頑張ろっか!」
「ふふ、元気が出たようね」
「ありがとう。何だかほっとしたよ」
「そう……。じゃあ頼んだわよ?」
「うん……!」
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