其の三 明治天皇②

 謙四郎が江戸へと旅立ってから4か月程が過ぎようとしていた。季節はすっかり夏になり、御所の周りにある木々からもうるさい程の蝉の声が響いていた。

 そんな御所の中で1人の少年が頭を抱えていた。


ちんはこのままで良いのだろうか……」

「どうなさいましたか?陛下」


 陛下と呼ばれた少年が声のした方を振り返る。


「このまま、朕は薩長の言いなりで良いのか、と思ってな」

「まぁ、そのようなことをお考えになるとは、ご立派です。陛下」


 付き人は恭しく礼をしながら言う。しかしそれは少年が求めている言葉ではなかった。


「もう良い。お主は下がっておれ」


 きつく言われた付き人は、軽く肩をすくめると少年の部屋を後にした。残された少年は再び頭を悩ませた。そんな少年の背後がゆっくりとゆらめいたのだった。




「あーつーいー!クーラー、ううん、せめて扇風機……」


 沙夜は京の夏の暑さに何もやる気が起きずにいた。浴衣の裾をまくり上げて、胸元をパタパタとあおぎ風を送る。そんな沙夜の様子につき子さんは苦笑する。


「沙夜、はしたないですよ」

「だって、暑いんだもん!つき子さんは暑くないの?」


 沙夜の問いかけにつき子さんは一言『暑いですよ』と答えた。


 沙夜はすっかり明治元年の京の生活に慣れて来ていた。着物での生活もそれほど苦にはならなくなり、日々の生活で困ったことはつき子さんと相談しながら乗り越えてきたのだったのが、さすがに暑さはつき子さんでもどうにもできない。


「そうだ、沙夜。打ち水をしてみたらどうでしょう?」

「打ち水~?」


 怪訝そうな表情の沙夜につき子さんは言う。


「コンクリートではないので、打ち水で涼しくなるかもしれませんよ」


 沙夜は少しの間考えを巡らせると、浴衣の裾と胸元を正した。


「何もしないよりは、マシか……」


 そう呟くとからおけを持って近くの井戸へと向かった。井戸水を桶にたっぷり汲んでから、沙夜は家の前へと戻る。柄杓ひしゃくを片手に戸の前や窓の下に汲んできた井戸水をまいていく。コンクリートに水をまく時とは違い、まかれた水は地面へとゆっくり吸い込まれていった。

 そうして打ち水を終えた頃だった。


「お姉ちゃん、ここの人?」


 突然沙夜の背後から幼い声がした。振り返った沙夜の視界の下に1人の少年が立っている。沙夜はしゃがむと少年と目線を合わせた。


「そうだけど、どうしたの?」

「これ」


 少年は手に持っていたふみを沙夜に差し出した。沙夜がそれを受け取ったのを見ると、


「じゃあ、確かに渡したから」


 少年はそう言って走って行ってしまった。沙夜が一体誰からだろうと受け取った文の後ろを見てみると、そこには『謙四郎』と書かれていた。


「つき子さん!おじいさんから、手紙!」


 沙夜は急いで家の中に入ると、つき子さんと共に謙四郎からの文を読みだした。そこには最初に謙四郎自身の無事が記されていた。沙夜は安堵したが、続くぶんに手が震えた。

 そこには戊辰戦争の戦線が関東から東北へと北上し、今まさに東北戦争が始まろうとしている旨が書かれていた。


「東北、戦争……」


 沙夜の心に『戦争』と言う言葉が重くのしかかった。目に浮かぶのは4月に見た鳥羽・伏見の戦い跡だった。

 つき子さんはそんな震える沙夜の手の上に自身の手を置いた。沙夜は弾かれたようにつき子さんを見つめる。つき子さんは優しく微笑みながら頷いた。


「大丈夫ですよ、沙夜。謙四郎さんを信じましょう」


 そんなつき子さんの言葉に、沙夜は小さく頷くしか出来なかった。

 明治元年8月、戊辰戦争の戦線はいよいよ東北へと及んだ。つき子さんは沙夜に歴史は順調に流れていると言った。沙夜は夏の空を見上げて今も東北で繰り広げられている戦いに思いを馳せるのだった。




 東北戦争が始まろうとしている時、御所内では都を江戸へと移す遷都案が浮上していた。


「先の蛤御門の変、そして鳥羽・伏見での戦いで、京の都は大分焼けてしまいました。ここは1つ、江戸に都を移して日本東西をしっかり治める機会としてはいかがだろうか」

「そのようなこと……!今まで幾度となく復興を果たしてきた町人たちを裏切るような行為ですぞ。陛下、どうか考え直してくだされ」


 1人の少年を囲んで大人たちが議論を繰り広げている。陛下と呼ばれた少年はその様子を黙って見ている。

 目の前の議論を眺めながら、少年は1つ心に決めていることがあった。


(朕は、薩長の傀儡くぐつにはならぬ)


 その思いは日に日に強くなっていくのだった。

 少年は毎晩夢を見ていた。自分が江戸に行くことにより起きてしまうであろう未来の出来事と思える夢を。


 富国強兵を掲げた日本は目覚ましい発展を見せるのだが、その裏では形だけの四民平等の下、刀を取り上げられた武士たちは反乱を起こしていく。その反乱は薩長が中心の新政府軍によって武力で鎮圧されていくのだ。


 ただでさえ今、東北で激しい戦いが行われようとしているのに、これ以上の内戦は少年の心を痛めるのだった。


(何もかもを諸外国の真似をしなくても良いのではないだろうか)

(日本は日本の力で諸外国に対抗しうる力を得ていけば良いのではないか)


 毎晩見る夢が予知夢ではないかと思えてならない少年は、江戸への遷都だけはしまいと心に誓っていたのだった。




 明治元年8月も終わりに差し掛かった時、東北戦争は苛烈を極め、会津戦争へと突入していた。しかし京の町は今も続く戦いがあるとは感じさせない穏やかな日々が流れている。

 沙夜とつき子さんは時々届く謙四郎からのふみによって、この時代の流れを知るのだった。


「ねぇ、つき子さん」

「なんですか?沙夜」

「神様って、勘違いとかはしないのかな?」


 沙夜は板床いたどこで足を伸ばしながら口を開いた。この数か月、歴史が大きく動く様子はなく、人神の気配すら感じられなかったからだ。


「神様の勘違いならさ、もう現代に戻してくれてもいいと思うんだよね」


 沙夜の言葉につき子さんは苦笑を返すのみだった。

 沙夜の疑問をよそに、人神はゆっくりと動き出している。水面下でのその動きに、沙夜たちが気付くことはなかった。


 そうして8月が終わり、朝夕は涼しさを感じられる9月に入った。会津藩は若松城にて籠城ろうじょう戦を展開している。そんなある夜のことだった。

 沙夜は夜着に着替えて床につこうとしていた。


「沙夜、あれを見てください」


 つき子さんの言葉に沙夜が振り返ると、謙四郎から預かった鏡が光っているように見えた。

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