其の三 明治天皇①

 鳥羽・伏見から戻ってきた沙夜は、その日は1日慣れない着物で歩き通しだったこともありすぐに疲れて眠ってしまった。

 翌朝、沙夜は部屋に差し込む柔らかな春の陽光で目が覚めた。ゆっくりと辺りを見渡した沙夜は、部屋の隅に置いていた昨日謙四郎が持たせてくれた握り飯が目に入った。


(あ、おにぎり……)


 昨日は結局食べずじまいだった沙夜は、握り飯の方へと這いよりもぞもぞとその包みを開けた。


「おはよう、沙夜。何をしているんですか?」


 先に目を覚ましていたつき子さんが、そんな沙夜に声をかけた。


「あ、つき子さん。おはよう。朝ごはん、食べようかなって思って」


 沙夜はそう言うと手に持っていた包みをつき子さんに見せた。それを見たつき子さんが頷く。


「おいしく戴いてください、沙夜」

「うん、そうする!」


 つき子さんの言葉に笑顔で返すと、沙夜は手に持った少し不格好な握り飯にかぶりつく。


「ん~!おいしい!」


 昨日は戻ってから何も食べていなかった分、1口目の握り飯が身に染みる。そんな沙夜の様子をつき子さんはにこにこと見守った。1個目の握り飯を食べ終えた沙夜は、指をぺろぺろと舐めながらつき子さんに話しかけた。


「つき子さん、あのね。私、歴史を守るって意味が良く分かっていなかったんだ」


 沙夜にとって歴史は、今まであってもなくてもどちらでも良い存在だった。自分が生きていく上で、歴史は特別必要なものだとは感じなかったのだ。それよりも知っておくべきことは他にたくさんあると思っていた。


「でもその考えは間違いだったって、昨日お菊さんに会って思ったんだ。私が今、何不自由なく現代文明の恩恵を受けていられるのは、そこに至るまでの歴史があって……」


 そしてそこに至るまでの人の想いもまた、存在するのだ。


「歴史を守るってさ。きっと、そんな人の想いも守るってことなのかもしれないって思って」


 沙夜はそこで言葉を区切ると真っ直ぐにつき子さんを見た。


「だから私、そんな人の想いを、人神から守るよ!」


 沙夜の宣言をつき子さんは真正面から笑顔で受け止める。


「本当に人間と言うのは……」

「何?つき子さん」

「何でもありませんよ、沙夜。そうと決まったのなら、具体的に何をしたら良いのか、謙四郎さんに尋ねてみましょう」


 つき子さんからの提案に沙夜は頷くと、残りの握り飯を平らげるのだった。

 朝の身支度を終えた沙夜はさっそく隣の空き家へと向かった。


「おはようございます」


 外から声をかけて戸を開ける。中を覗いて沙夜は目を丸くした。そこには旅支度を始めている謙四郎の姿があったのだ。


「何をしているんですか?」

「おお、沙夜さんにつき子さん。おはようございます」


 謙四郎は手を止めると、いつものにこにこ顔で沙夜たちに声をかけてくれた。2人を振り返った謙四郎は、中に入ってくるように促した。沙夜はその言葉に草履を脱いで中へと上がり込む。


「お邪魔します」

「どうぞどうぞ。昨日は無事に帰って来られたようで良かったです。どげんでしたね、鳥羽・伏見は」


 沙夜は謙四郎の言葉に『凄かったです』と返すのが精いっぱいだった。沙夜の言葉を聞いた謙四郎は『そうですか』と笑顔で頷くと、旅支度を再開しそれ以上のことを沙夜に聞かなかった。


「おじいさんは、何をしているんですか?」

「こいですか?こいは、旅の準備ばしとりますよ」

「旅?」


 沙夜の問いかけに何でもないことのように答えた謙四郎は、旅支度の手を止めることなく言う。


「私はこれから江戸に向かって、そいから旧幕府軍と行動ば共にするつもりです」


 沙夜はその謙四郎の言葉に目を見張った。そんな沙夜に謙四郎は手を止めることなく続ける。


「戊辰戦争はまだ続くけん。私が人神やったら、歴史を変えるのにこげん良か事件はなかたい。そうけん、何が起きてもすぐに動けるように、私は戊辰戦争の戦線と一緒におらんばいかん」

「だめです!」


 沙夜は咄嗟に声をあげていた。脳裏をよぎるのは昨日見た、鳥羽・伏見の惨状だった。


「そんな、1人じゃあまりにも危険すぎます!」


 沙夜の叫びに謙四郎は旅支度の手を止めて沙夜に向き直る。


「危険なことは承知の上たい。ばってん、動かんば何も始まらんとよ。動かんば、歴史は守れんとよ」


 謙四郎の言葉に、沙夜は二の句が継げなくなる。そんな沙夜に謙四郎は続けた。


「そん時代に生きた人々の想いは、例え神様でも捻じ曲げたらいかんと思っとっとですよ。そいを、人が神になった人神がやろうとしとっとやったら、正してやるのは人の役目と考えとっとです」


 真っ直ぐな謙四郎の言葉を、今の沙夜はすんなりと理解することが出来た。


「それなら、せめて私たちも一緒に……」

「そいはいかん」


 沙夜の言葉を謙四郎はぴしゃりと遮った。


「そいこそ危なか。それに私が行くところは文字通りの戦場たい。戦場でおなごが出来ることはなかけん」

「それじゃあ私は、どうしたら……」

「京におりなっさい。まだここには明治天皇もいらっしゃる。ここで歴史ば変えることも可能やっけんね」


 沙夜の言葉に謙四郎はこともなげに言ってのける。沙夜は女に生まれたことに悔しさを感じながら下唇を噛んだ。


「沙夜さん、そげん顔ばせんでください。それに忘れとっかもしれませんが、私は1人じゃなかけん」


 そう言って微笑む謙四郎の言葉に、謙四郎の背後の景色がゆらめく。それは謙四郎の付喪神の気配だった。その気配を感じた沙夜は少しだけ安心した。


「そうだ、沙夜さん」


 謙四郎は何かを思いついたかのように言うと、懐から古い鏡を取り出した。


「こいば持っとってください」


 差し出された鏡を見て、沙夜は少し戸惑いながらそれを受け取った。謙四郎は満足そうに頷くと、


「何かあったら連絡すっけん。手紙も書くけんね」


 謙四郎の優しい言葉に沙夜は涙が出そうになるのだった。そこをぐっと堪えると、ただ頷くしかできなかった。

 こうして明治元年4月、謙四郎は江戸へと旅立った。沙夜はその背中が見えなくなるまで見送った。満開だった桜は葉桜へと変わり、季節の移り変わりを知らせていた。

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