其の二 王政復古の大号令⑤

 朝食を終えた沙夜に謙四郎が言う。


「今日はもう、鳥羽・伏見の方まで行ったら帰って来られんけん、また明日早い時間にここを出発したら良かですよ」


 そして再び懐から紙を取り出すと、沙夜のいる場所から伏見奉行所のあった辺りまでの地図を書いて渡してくれる。


「ありがとうございます」


 沙夜はお礼を言うとその紙を受け取り、懐へとしまった。


 その後はこの明治を生きていくための基本的な知恵を、沙夜は謙四郎から教わった。火の扱い1つでも現代と明治では大きく違い、沙夜は料理をするにも一苦労だと感じるのだった。

 最後に謙四郎が教えたのは、この時代の名前についてだった。この時代はまだ名字と言うものが存在していない。一般人はただの名前しか持っていなかった。名字を語れるのは上流階級の人間だけだと言う。


「もし名前ば聞かれたら、下の名前だけを答えてください」


 そうして過ごすとあっという間に半日は過ぎ、日が暮れていく。沙夜とつき子さんは謙四郎にお礼を言うと、昨夜寝泊まりした空き家へと戻るのだった。


「あー、疲れた!これは仕事より大変かも」


 空き家に着いた沙夜はさっそく教わった通りに火を灯して足を伸ばした。昨夜は真っ暗だった部屋の中が淡く映し出される。その火は隙間風を受けて、ゆらゆらとゆらめき、部屋の陰影を色濃くした。


「お疲れ様、沙夜」


 足を伸ばした沙夜につき子さんが労いの言葉をかける。沙夜はそのままぱたんと上半身を後ろに倒して寝転がった。


「こんなことになるなら、歴史、ちゃんと勉強しておくんだったなぁ……」


 後悔の言葉を口にする沙夜の傍に座ったつき子さんが、優しく言葉をかけてくる。


「沙夜。物事に遅すぎると言うことはないんですよ。今ある問題に気付けるかどうかだと、私は思っています」


 そんなつき子さんを、沙夜は下から見上げた。

 つき子さんの言葉はいつも沙夜を励まし、前向きな気持ちにしてくれた。今回も沙夜はつき子さんのこの言葉に励まされた気がする。


(知らないことがあるのなら、これから知っていけばいいだけ)


 そのことに早いも遅いもないのだと感じた沙夜は気持ちを切り替える。がばっと体を起こすと、


「ありがとう、つき子さん」

「どういたしまして、沙夜」


 そうして、へへへと照れて笑うのだった。


 翌朝、沙夜は日が出てきた頃に目を覚ました。腕時計やスマホの画面で時を知ることが出来ない今、沙夜は空を見上げて太陽の動きで何となくの時間と方角を把握する。今日はまだ始まったばかりのようだ。


「つき子さん、おはよう」

「おはよう、沙夜」


 沙夜はいつものようにつき子さんへと挨拶をする。つき子さんも柔らかな声音で沙夜に朝の挨拶を返した。そうして沙夜は空き家から近くの井戸へと向かうと顔を洗う。寝ぼけていた頭が冷たい井戸水でシャキッとしてくる。この感覚は現代ではなかなか味わえないと感じながら、沙夜は手拭いで顔を拭き空き家へと戻った。

 朝の身支度と朝食を終えた沙夜は昨日書いてもらった地図を再びしっかり懐にしまい、隣の謙四郎の元へと顔を出した。


「おはようございます」


 戸の外から中へと声をかけ、沙夜はゆっくりと戸を開ける。部屋の中央に座り朝食を摂っていた謙四郎が、沙夜とつき子さんをゆっくりと振り返りにこにこと笑顔を送ってきた。


「沙夜さん、つき子さん、おはようございます。行くとですか?」

「はい。出発前にご挨拶をと思いまして」

「それはご丁寧に、ありがとうございます」


 謙四郎は食事の手を止めて頭を下げた。そして顔を上げると、


「ちょっと待っとってください」


 そう言って奥から何かを持ってくる。


「握り飯ば握ったけん、道中で腹が減ったら食べてください」

「いいんですか?ありがとうございます!」


 沙夜はがばっと頭を下げると謙四郎から握り飯を受け取り、鳥羽・伏見に向けて出発した。

 地図によると碁盤の目のようになっている京の町をひたすら南下していくことになるようだ。


「まさか、紙の地図をたよりに町を歩くはめになるとはなぁ」


 普段はスマホのナビで移動していた沙夜にとって、紙の地図は不便に感じられたが、こんな経験も新鮮だな、と感じる。京の道は広く、車が走っていない分、春の空気が澄んでいるようだ。相変わらず着物は動きにくかったが、周りには沙夜と同じように着物姿の人々が町を歩いている。

 その様子を目の端で捉えながら、沙夜はひたすら、京の南を目指した。


「凄いね。映画やドラマと違って、ここの人たちの生きてる空気を直接感じられるよ」

「この時代でも、ちゃんと人が生きていたと言うことですね」


 当たり前のことと言われたらその通りなのだが、教科書の中の活字のみの世界だと思っていたものが目の前で息をして動いていることに、沙夜は妙な感覚に襲われるのだった。

 どれだけ京の町を南下しただろうか。頭上の太陽は間もなくてっぺんに差し掛かろうとしている。学生時代はスポーツ少女だった沙夜でもさすがに着慣れていない着物での徒歩移動に疲労の色が見られてきた頃だった。眼前の景色が一変する。


「何、これ……」


 すれ違っていた人々の影はいつの間にか消えており、代わりに壊れた家屋が次々と姿を現す。歩みを進めるとその数はどんどんと増しているようだった。今にも崩れ落ちそうな家屋を縫って歩いていく。焼け落ちた家々からはまだ燃えていた頃の匂いがしてきそうだった。


「凄い……」


 生まれて初めて目の当たりにするその光景に沙夜は息を飲む。そのまま破壊された町を歩いていくと、1軒の大きな建物が現れた。ここが目的地の伏見奉行所の建物だ。


 そこから一面を見渡した沙夜は、戦いの壮絶さを容易に想像させる光景に目を離せない。伏見奉行所だったその建物は、大砲を撃ち込まれたのか建物の上部に大穴が開いている。今にも弾薬の香りが立ち込めてきそうな生々しい有様は、沙夜に衝撃を与えるのに十分だった。

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