甘くほろ苦い自叙伝

 重い夜があった。

 個々の運動が鈍くなるような重い夜があった。

 眼前には排泄物に汚れた和式便器がある。何らかのシンボルに見えなくもない、夜が織りなす影がそれを彫像のように浮かび上がらせていた。脳裏で幻のメトロノームが周期的に音を連ねていた。内界の秩序と外界の混沌が朽ちた公衆便所の内側でせめぎ合っていた。割れた夜だった。割れた夏だった。遠くでエンジンのうなりがきこえた。犬の鳴き声がきこえた。やがてそれらは個々の雑音として掻き消えた。僕は嘔吐した。吐しゃ物が眼下の便器に落ちた。胃が痛んだ。不快な感覚と感情が背筋をせりあがっていった。唯一の救いは街灯から洩れる光。それが薄明りへ変化し、便所内部を疎らに照らした。目を凝らせば、それは光明を帯びた虫だった。虫たちは運動の鈍った空間内部を飛びまわり、増殖しつつ、また消滅してもいた。脳裏に対消滅する宇宙が浮かんだ。強大な大質量を有する宇宙同士が衝突し、膨大な大エネルギーへと変換される空想。静かな公園に佇む公衆便所の内側で、あるいはそれは僕は姉である京香の、既に生気の損なわれた頭部を抱いた。


 ふくよかな膨らみを愛撫しながら下腹部に絡みつく熱の、とろけるような甘さに僕は快感と同時に罪悪感を覚えてもいた。肉と肉の摩擦が発する恍惚的な光はやがて京香の口内から喘ぎ声として漏れ始めた。断続的に繰り返される快楽の声音のなかで僕は京香を味わい、香りをかぎ、そして己の胸中に芽生えた物質的な快楽と、精神的な罪悪の内側で葛藤した。

 情事を終え、僕と京香はまた互いにベッドのなかで裸のまま抱き合った。姉である京香の接吻を受け、彼女が発した「愛」の言葉に僕は安堵した。

「俺は希望になりたいナァ」、服を着、階下の居間へ降りると、テレビのコマーシャルを眺めていた父がいった。

「希望になりたいナァ、うん」、父である和夫の無機質な言葉は虚空へ掻き消えた。僕は侮蔑の眼差しを父へ向けた後、冷蔵庫のなかからミネラル・ウォーターを取りだし一本を口に流し込んだ。

 父はマネキンだった。精巧に象られた人間そっくりのマネキンだった。継ぎ接ぎの肉体から時折、神経やら血管やらが覗いていたが、それらは僕の眼にはグロテスクには映らなかった。毎度のことだったからだ。

「ナァ、希望になりたいナァ」、和夫は背中を掻きながら、僕を後目にテレビを見続けている。


 僕が殺し屋『K』に出会う前、実家の外れにある廃墟のプラネタリウム内でいつもの通りセブンスターを燻らせていた頃、普段とは異なる気配を感じ振り返ると少女がいた。黒のドレスに身を包み、長い黒髪を後ろで束ねた少女だった。透き通るような白の肌がドレスを影のように浮き立たせ、最初視認した際は人には見えなかった。

 

 ロックバンド、『スター・チャイルド』が歌った<About a Sun>の歌詞に次のようなフレーズがある。「――石のように生きるならば、石のように死ぬべきだ。/風のように生きるならば、風のように死ぬべきだ」。‘96年発売の米ローリング・ストーン誌には次のようなインタビューが飾られている。「歌詞に深い意味はないよ、ただ、あえて云うならば、当時のおれの感情、楽観主義者らへの警鐘みたいなものかな」。


 いずれにせよ僕はこの歌を聴くたび、他害的な衝動にかられる。他人の頭蓋の内側を覗き、そのグチャリとした体液を浴びて、自己完結的な思想に耽る。そんなイメージ。

……あー、厭だわ。親父が自害しちまったもんだからよう、組潰れてよう。おれさ、将来はベンチャー企業っつーの? 一種の賭けで人生豊かにする計画立ててたんさ、野に咲く花? 雑草? 草も食えねえのに草食う人種、一歩手前っつー! 永瀬さんがいつの間にか僕の隣に腰かけて、ハイライトを燻らせている。どうしたもんか、と悪態を吐きつつ、僕の髪をわしゃわしゃと掻きむしる。……おめえ、なんの曲、聴いてるん? あ、おめえ、バンドやってたもんなあ。あれだろ。むつかしいアメリカとかイギリスとか、そっちの音楽聴いてるんだろ。俺も好きな曲あってよう。前に『イージー・ライダー』て映画見たとき、そこでかかってた音楽。名前? 忘れた。

……なあ、おめえ、死にたくねえ? 死にたくないか? 永瀬さんが執拗に僕を小突いて、気分わりぃ、と云った。僕は何も云わなかった。

 子どもの頃読んだ漫画に、偶然『力』を手にしてしまった主人公が次から次へと襲い来る刺客を倒し、ヒロインである少女を守る、という内容のものがあった。絵が鮮烈だっただけに、当時漫画家を志していた僕にはその絵のタッチが特に好きで、よく真似して描いていた覚えがある。主人公は『力』をヒロインの少女から与えられるのだが、そのヒロインを悪側である組織が追う構図だったと記憶している。

……その『力』は特定の条件下でしか発動しないのよ。

僕は、力は一個の観念的なものだと考えている。自動的であろうが他動的であろうが、力とは物質的なものではなく、ひどく観念的なものだ。一個の精神を欲動させるものが力。僕はそう信じている。ふと思い出した。ミネラル・ウォーターを飲んでいるとき、何かの拍子にペットボトルのキャップが転がり始めた。キャップはころころと転がり、一周して僕の足元の手前で静止した。これも力だ。何気なく過行く日常の些細な部分に力は転がっている。

「――シンボルさ」と、永瀬さんが云った。「シンボル。うん、いい響きだね」

「どうしたんです?」

「これだよ」

 永瀬さんは躊躇なく懐から一丁のトカレフを取り出した。僕は少しぎょっとした。が、次いで興奮みたいなものが内側に広がっていくのを感じた。

「親父を殺した銃さ。こいつでさ」永瀬さんはトカレフを僕に握らせ、銃口を自らの額に誘導させた。「撃ってくんねえかなあ。おめえじゃ、撃てねえだろうなあ」

 永瀬さんは酔っている。

 何に?

「こいつで一発、パンッとさ、解放の喜びを味わいたいねえ」

「この世界に解放はありませんよ」

「馬鹿いうなよ。自殺したいんじゃあねえ。殺してくれ、って云ってんだ」

「殺す? ですか?」

「おうよ。オレをヤッて、解放してくれよ、上宮」

「僕が?」

「一発、ヤリてえだろ?」

 長々と僕のこころの内側で『スター・チャイルド』の<About a Sun>が流れている。「――石のように生きるならば、石のように死ぬべきだ。/風のように生きるならば、風のように死ぬべきだ」。絶望とは、死に至る病だ、と云った思想家がいる。僕は、常に外への志向性を帯びた絶望が欲しい。モラリストには、到底なれないらしい。

 永瀬さんの両脚を引きずって、眼前に広がる大洋に蹴り捨てた。永瀬さんから譲り受けたトカレフと茶封筒を掴んで、僕は下手くそな口笛を吹いた。「――石のように生きるならば、石のように死ぬべきだ。/風のように生きるならば、風のように死ぬべきだ」。『スター・チャイルド』のフロントマンであるルーシーは、同誌で更にこう語った。「仮言命法的に生きる奴らへの警鐘、いわば復讐さ」。


 学校の屋上で黒髪を靡かせているのは『E』だ。僕らは互いをアルファベット一文字で呼び合っている。『E』はセブンスターを咥え、これまた黒のドレスに身を包んで、いつもの通り独り言を呟いている。彼女曰く神との交信。イカレた女だと思うかい? いや違うね。彼女は本当に神と交信し、神話を紡いでいる。この物語の消滅した現代で、新たな物語を築こうとしている。……、あら『K』。久しぶり。どでかいものが釣れそうなのよ。あの太陽の向こう側、きっとあの向こう側からどでかいものが。

……、いいから、タバコ、よこせよ。

……聞いてよ、『K』。それは鯨なのよ。万象の色をもった鯨なのよ。あるいは、人の意識の集合。実体はね。受動的にしか働かない者にとっては鯨だけど、能動的な意志を持つものには意識の集合として映るのよ。ただし、神様ではないの。神様はもっと奥深いところにいるのよ。そして同時に存在しないの。

……わかったから、タバコよこせよ。

 神様、もし存在するならば、僕を滅ぼしてください。僕は、たぶん生きたままいろんな野郎が放つ火に焼かれ、永い年月を経て、大地に還り、また生まれて雑草のように生きるのです。土に還りたい。


 海へ来た。僕は拳銃を取り出し、銃身を咥える。


 了(二〇二一年 二月十五日)。

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