第39話 おっさん、綾華の想いを知らず

 英二の実家から帰ってきた綾華は四条家のテラスで椅子に腰かけ、お気に入りの小説を読んでいた。寒空のテラスといえば、風邪を引いてしまいそうなものだが、そこは四条家のテラスである。日当たりの良い空間を断熱性のガラスで仕切り、暖房が効いているおかげで真冬でも薄着でも快適であった。


 ふと、綾華は小説から目を離し物憂げにため息をついた。これで何度目のため息になるかわからない。節操を重んじる教育を受けた綾華は滅多なことではため息をつかない。お気に入りの小説にも関わらず読書に集中もできていない。


 おもむろに口から出る一言。


「……英二様」


 その声に反応した訳ではないが、執事の桜庭は冷めた紅茶を下げて温かい紅茶に置き換えた。目じりのシワを深くしながら穏やかな声で綾華に話しかけた。


「英二様が恋しいのですか? 英二様の実家から帰られて、まだ三日と経っておりませんが」

「当たり前ですわ。せっかく、英二様のお気持ちを聞くことが出来て、わたくし凄い幸せでしたのに。あの言葉を聞いてどれだけ幸せだったことか。今までよりも更に幸せな生活が始まると思っておりましたのに。当分の間は会うことを我慢しなければいけないだなんて……」


 英二が教育係から解任されて四条家から追い出すと聞いた時、「わたくし、承知できませんわ!!!」と淑女らしからぬ大声で猛反対し取り乱した綾華だが、英二を社交界から守るためであり、機を見て四条家に戻すと聞いて不承不承ながら我慢する事にした。


「両想いと分かったからには、色々な場所へお出掛けしたいですわ。恋人がいらっしゃる学友の方々は、映画館や水族館で愛を育んだり、ネズミーランドに行ったりとそれはもう楽しそうに話してらっしゃいますのよ。わたくしも手を繋いだり、クレープを食べさせあったり、休憩の際には英二様の肩にもたれかかって休んだりしたいです」

「ネズミーランドやネズミーシーは常に混んでおり、待ち時間が長いと聞きますな。英二様と綾華様のデートの時には一日中貸し切りる事も可能ですが?」

「駄目ですわ、きっとそれは英二様は喜びません。それにわたくしは普通のデートがしてみたいですの。列に並ぶ時間がどんなに長くても、愛する者同士ではその時間すら幸せな時間だと聞きますわ」


 桜庭の若い時代は、ネズミーランドデートをしたカップルは長い待ち時間で疲れてイライラして会話が無くなり、些細な事で大喧嘩に発展して夢の国で相手に幻滅して別れるというのが定説だった。そのせいか、近年は上流階級がお金さえ払えば待ち時間を無くす画期的なシステムをネズミーグループに導入させたとかしないとか。


 綾華が出かける際は、四条家ネットワークにより綾華の向かう先に待ち時間など決して起こさせないように事前通達が行く。そのおかげで、本人が知らないところで綾華は快適に買い物が出来るわけである。よって、綾華にとって行列に並ぶというのは未知の領域であり、桜庭としては英二が綾華を気遣えるかに賭けるのみである。まあ、綾華であれば英二と入れるだけで幸せだろうから、本当に苦にならないだろうが。


「英二様とたくさん素敵な思い出を作りましたら、次はいよいよ、その、、、結婚ですわよね。白菊を卒業しましたら、すぐに式を挙げたいですの。子供は最低三人は欲しいですわ。そうですわね、やはり最初は女子がいいですわ。ほら、一姫二太郎ってよくいいますでしょう?」

「あ、あの綾華様?」

「あ、英二様の希望も聞かずに子供の人数を決めてはいけませんですわよね。でも、英二様との子どもなら可愛いですし、人数にこだわってわいけませんわよね」

「いや、綾華様。せめて大学は卒業させるという旦那様のご意向ですが」


 初めて見る暴走気味の綾華に戸惑いながらも、綾華をたしなめようとする桜庭。


「大学はもちろん卒業しますわ。でも、結婚しても大学は通いますでしょう? でも赤ちゃんが産まれたら産休で大学は休まないとですわね。英二様との赤ちゃん、、、」


 赤ん坊を抱いている自分をリアルに思い浮かべたのか、綾華は赤い頬を押さえながらテーブルに突っ伏してスカートから除く足を控えめにドタバタしてしまう。

 四条家の淑女らしからぬ振舞いだが、年相応と言えば年相応。兄を亡くして塞ぎこんでいた時に比べれば、こちらの綾華の方が活き活きとしており、桜庭はたしなめるのもためらう。真面目に考えて心配なのは英二の方である。綾華は若いから子どもを沢山欲しいと思っても問題ないだろうが、英二の方が体力的にも精力的にも心配である。そういう意味では、学生結婚もありかもしれないと一人納得してしまう桜庭であった。


 再び、ため息をつきながら温かい紅茶が入ったティーカップを口に運び、一息つくと思いついたように綾華は桜庭に尋ねた。


「そういえば、当分の間とはどのくらい待たなければいけないのでしょうか。ご存じでして?」

「そうですなぁ、社交界行への根回しなども考えると最低でも半年ではないでしょうか」


 ガシャンとティーカップを落とすような形でカップの受け皿に戻すと綾華はこの世の終わりだとばかりの表情で身体を震わせる。唇なんて蒼白である。


「無理です。無理ですわ! 半年間も英二様がいない生活なんて考えられません。わたくし、長くても1ヶ月の我慢かと思っておりましたのよ!!!」

「お待ちください、綾華様。どちらへ向かうおつもりですか?」


 勢いよく椅子から立ち上がり歩き出した綾華の前に進み出る桜庭。本来であれば、執事が主の行く手を遮るなどあってはならないが、このままだと勢いのままに英二の元へ向かいかねない。どんなに桜庭が説得の言葉を連ねても綾華は止まらず周りのメイドたちを巻き込み、騒ぎは綾華の母親が駆け付けるまで続いた。




 □ □ □ □ □ □



 うー、寒い。いくら厚着していてもドカ雪の時に外でタバコなんて吸うもんじゃねえな。でも、旅館の喫煙室で吸うのはなんか体裁が悪いんだよなぁ。従業員のみんなの視線が気になるし。


 綾華が旅館を去って一週間。綾華が居た時に比べて旅館全体の活気はどこか物足りなかった。旅館に綾華が居たのはたった数日だけだったが、その数日で綾華が旅館に与えた影響はデカい。ベテランの従業員の中には、ぜひ綾華をウチの旅館の未来の女将って言っていた人たちもいるくらいだ。そんな人たちからすれば、四条家から捨てられた俺を情けなく思うだろう。


 隣でタバコに付き合ってくれている良太が缶コーヒをすすりながら聞いてきた。


「お前、これからどうすんの? 俺はそろそろ家族で東京に戻るぞ」

「んー、四条家からは見限られたしなぁ。四条家にあった荷物もウチに届けられたし、東京に戻っても仕事のツテねえし、もう綾華とも会えんだろうし、どうすっかなぁ。親父は旅館で働いてもいいぞと言ってくれているけど」

「旅館、継ぐのか?」

「いや、それはないな。姉貴がずっと親父たちの手伝いをして旅館を支えてきたし。東京にずっといた俺がどの面下げて旅館を継ぐって話さ。東京でリーマンしてた俺じゃ、従業員のみんなは納得しねえよ」


 まあ、継ぐ継がないの話は関係なしに、しばらくは旅館で世話になるしかないな。


 幸い、東京でのプログラマーの経験が活きるだろう。ウチの経理システムは相変わらず昭和よろしくアナログだし。親父も姉貴も機械には弱いから経理関係をデータ化して管理するって事が出来ていない。綾華みたいに実務面で従業員のみんなの役に立てなくても、システム面からは役に立つことは出来る。


「俺が東京に帰る前に商店街のスナックにでも行くか? 美津子の同級生がやっている店があってな。そこなら英二と飲みに行ってもいいって美津子から許可が下りてる」

「あー、いいね。商店街の連中とも久しぶりに吞みたい」

「スナックのママに可愛い子つけてもらうか? 運が良ければ綾華ちゃんの事を忘れられるかもよ?」

「おう、ぜひとも、お願いしたいね。まあ、忘れようとして手を出しても、傷口に塩を塗られる結果になりそうだけどな」

「お前ほど女に玉砕しまくる男も珍しいよな。学生の頃から今に至るまで綾華ちゃんを除けば全敗だもんなぁ」

「うるせぇ、ほっとけ」


 ホント、いい出会いでも転がってねえかな。ここまで女性との縁に恵まれないって、俺は前世で何か悪いことでもしてたのかね。こうなったらスナックで綺麗な子と吞みまくってやる。タバコを吸い切った俺は良太と一緒に呑む連中をリストアップしながら旅館に戻っていった。

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