第86話 由里香の家で②

「生徒会の仕事、忙しいの?」


「少しだけ忙しいかもしれないです。でも、もう少しすれば仕事も減ると思いますので」


「他の3年生の先輩たちは放課後は生徒会の仕事なんてせずに帰ってるって聞いたけど……まさか桜子、あんたみんなから仕事押し付けられてるわけじゃないわよね?」


「ふふっ、違いますよ。皆さん私に早く帰るように言ってくれていますよ。ただ、私が勝手に残って作業をしているだけです」


桜風学園の伝統として、生徒会長は2年生の秋におこなわれる選挙で選ばれて就任するものとされてきた。だけど、桜子は1年生の秋から生徒会長をしている。


当然、当初は上級生だらけの生徒会でいきなり会長なんて立場に立ってしまい、肩身の狭い思いもした。


それでも桜子は周囲が呆れるくらいの仕事量をこなしながら、学年トップの成績を維持することで、自身が生徒会長を務めることを認めさせた。


「作業って野球部のことと関係しているのかしら?」


「あ、ちがいますよ! そういう意味じゃ」


由里香が苦笑いをしたので桜子が慌てて否定した。明らかに、華菜が2年3組の教室に突然現れたときから由里香の様子がおかしい。


あの日以来、由里香は考え事をしていて、心ここにあらずな状態になっている時間が明らかに増えた。


由里香の近くにいるのは桜子であるはずなのに、その心は桜子の方には向いていないように感じられた。


そして5月の頭から、それまで体育以外で使われることのなかったグラウンドから打球音や元気な声が聞こえてきて、いよいよ由里香の中に野球に対する思いが強まってきていることはよくわかった。


由里香本人は桜子に一言もそんなことは言わないけど、ずっと由里香のことを見てきた桜子にはそんなことは簡単に見透かせてしまった。


いっそ自分が、そんな由里香の気持ちにまったく気が付かないくらい鈍感なら良かったのに、と何度も思った。


「で、今日は何か話があってきたんじゃないの」


「ああ、いえ。そういうわけでは。ただちょっと由里香に会いたくなっただけです」


「ふふ、何それ」


本音を言うと今日の生徒会室での怜との話を相談したかった。終わりがけに聞かされたキャッチャー不足の話。このままだと、もし由里香が野球部に入った時に、由里香の球を捕るのは華菜になってしまう。


だから、なんとか理由をつけて、野球部には入らない方が良い、そう一言伝えに来たのだ。


だけど、いざ本人を目の前にするとそんな話はできなくなってしまう。由里香の幸せは間違いなくマウンドに立つことなのだ。


そして、由里香が自分の意志で再びマウンドに立ってくれることは、桜子にとっての幸せでもある。


2つの矛盾する感情の間で揺れなければならないのは、間違いなくあの子、小峰華菜のせいだと桜子は恨めしく思った。


あの子が野球部でなければ、桜子は優しく微笑んで、心の底から由里香が野球部に入るための後押しができるのだ。

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