第20話 ただの点と線の塊(1)

 キョー助は硬い床の上で目を覚ました。宿屋の一階で倒れ、そのまま寝てしまったようだ。周りには誰もいない。フロアはきれいに片付いていて、4つのランプも消えている。窓から街の賑わいが聞こえてくる。血の跡も、天井の死体もない。



 夢だったのか?キョー助が寝ぼけ眼をこすろうとすると、右手が渇いた血で赤茶けていた。左手も、着ているシャツも、全身が猟奇殺人の帰りのような有様だった。



 キョー助は息一つついて立ち上がった。奥に井戸があったので、そこで血を洗い流す。シャツに付いた血はどうしても取れなかったので、あたりにあった誰かの服を勝手に拝借した。



 二階に上がり一番奥のドアをノックした。返事がないのでもう一度。それでも返事がないので取っ手を引くと、ドアはすっと開いた。



 中を覗くと、窓には厚いカーテンが引かれたままだ。隙間から白い筋が数本のびて、漂うホコリが舞うのが見える。床の文書の底なし沼の上に、血でどす黒くなったフリフリのピンクのワンピースが脱ぎ捨てられていた。魔王は机に突っ伏してスースーと寝息を立てている。キョー助は魔王の下着姿がまぶたの裏に焼き付かないうちに、そっとドアを閉じた。



 キョー助は街に出た。ポケットには泉を見世物にして稼いだ小銭がチャリチャリ鳴っている。昨日から何も食べておらず空腹は限界を超えているどころではない。とにかくなにか食べ物をにありつきたかった。


 人が少ない通りで左右を見る。西に行けば昨日歩いた南北に走る大通りに出る。キョー助は東に向かって歩き始めた。



 大通りほどではないが、このあたりにも多くの屋台が軒を連ねている。屋台の品を眺めながら歩いていると、あちこちから「どうだい兄ちゃん!」などしきりに声をかけられた。幽霊扱いされていない。どうやら魔王が近くにいると認識されなくなるようだ。



 一際客を集めている屋台があった。のぞいてみるとタレに漬け込んだ肉を串焼きにして並べてある。匂いといい、見た目といい、ボリュームといい、男子高校生の食欲がダイレクトに刺激された。もうその肉しか目に入らない。キョー助が店主に「これで買えるか?」と小銭を見せると、店主は久方ぶりに見る小銭に驚いていたが「おうよ!」と肉が刺さった串を差し出した。



 やっと食い物にありつける。キョー助は目が潤ませて肉に腕を伸ばした。だがコンクリート色の手がキョー助の腕を掴みそれを阻んだ。腕に冬の日の濡れたコンクリートのような冷たさがジンと伝わってくる。キョー助は邪魔する手を無視し、全力で、脇目も振らず肉の串焼きに腕を伸ばす。だがキョー助の腕は1センチも動かない。どうしても肉に届かない。



「なんなんだよ、もう!」



 キョー助がたまらず叫ぶと、その先には由木三星がフードを目深にかぶって立っていた。由木は相変わらずの無機質な声で言う。



「来て」



「待ってくれ、少しでいいから!」



「ダメ、早く」



 由木はキョー助の腕を掴む手にさらに力を入れると、キョー助を引きずるようにして歩き出した。キョー助は肉を!肉を!とジタバタするが、屋台はあっというまに遠ざかり、肉を見つめるキョー助はハラハラと泣いた。



 由木はキョー助を引きずって北に向かった。東西を貫く大通りを渡ると巨大な壁が見えてきた。高さは5階建てのビルほど、長さはざっと1キロ以上はある。由木が「王宮の壁」と教えた。



 キョー助は壁の手前で路地に連れ込まれた。そこは昼間なのに誰もおらず喧騒も聞こえてこない。この街に来てから一番静かな場所だった。人を殺すのにはいい場所だとキョー助は怯えた。



 由木がキョー助を開放した。いまだ、逃げよう。キョー助は走り出した。だが由木は右腕一本でキョー助を背中から抱きかかえて捕まえる。この形から殺すつもりか?片腕でジャーマンなのか!?キョー助が必死に抵抗するが、由木の腕は絶叫マシンの安全装置のようにキョー助を逃さない。



「暴れないで。飛ぶから」



 飛ぶと言われて更に暴れるキョー助を抱えて由木は垂直に飛んだ。高く飛んだ。屋根の高さを難なく超え、なんとそのままキョー助を抱えて空を飛んだのだ。



 王宮の壁を超えると、キョー助は眩しさで目をつむった。目を開くとキラキラと輝くアレキサンドリアの全景がいっぱいに広がっていた。


 南北と東西2本の大通りを軸に、碁盤の目のように規則正しく区分けされ、その中を黒い人だかりが細々と動いているのが見える。


 王宮の壁の中には、豪奢な宮殿や闘技場、図書館と思われる生真面目な建築が見えた。赤城はかなり贅沢な暮らしをしているようだ。王宮に接した港では多数の軍船が集められ、兵たちが忙しく働いている。もうじき出港なのかもしれない。


 由木はさらに上昇し、大灯台すら眼下に小さく収まるほどの高さでやっと止まった。



「すげー!」


 キョー助は強風に負けない歓声を上げた。



 東には大きな川が見える。ナイル川だろうか。


 こうしてみると泉が言っていたとおり、川がアレキサンドリアの土地を作ったということがよく分かる。あと2000年経てば、川が運んできた土砂であの北の港もすっかり埋まってしまうだろう。



 南はマレオティス湖と一面の砂漠。西には延々と海岸線が伸び、北には青い地中海が広がっているはずだった。だがキョー助は目を疑った。そこにはありえない光景があった。


 大灯台のずっと向こうの海に、裂け目が口を開けていたのだ。幅はアレキサンドリアがすっぽり入るほどはあるだろうか。長さは水平線の端から端まであり、どれほどあるのか見当がつかない。色は黒。陰影もグラデーションもなくただただ黒い。トリックアートのような、現実感が危うくなる不自然な黒。


いつのまにかキョー助の手が震えていた。

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