第9話 狂騒と静寂の古代都市(4)

 お嬢様に教えてもらった場所には日本の夏祭りの匂いが立ち込めていた。その真中に、手書きの可愛いタコが踊る暖簾をつけた屋台があり、若い女が威勢のいい声で客に舟皿を手渡していた。春日涼水だ。


「盛況ですね!」


 泉が感嘆の声を上げる。キョー助は沈黙している。


「さすがは料理研所長殿です」


 泉は、接客し、従業員を労い、手が空けば客に愛想を振りまく春日を賞賛するが、キョー助は沈黙している。


「どうします?挨拶だけしておきますか?」


 泉が行列の客を数えながらキョー助に言うが、やはりキョー助は沈黙している。


「キョー助くん?」


 見るとキョー助は唇を真っ青にし、脂汗を流し、肩を震わせていた。


「だ、大丈夫ですか?」


「死ぬよりはマシ……だと思う」


 いまキョー助は、生き返るために春日に会うことが死ぬより怖かった。


 春日が不意に背伸びをしてあたりを見回した。その視線がキョー助をかすめた途端、キョー助は猟銃を向けられた兎のごとく全身全霊で逃げ出した。人とぶつかり、テーブルをひっくり返し、数え切れない罵声が浴びせかけられたが、キョー助はそれら全部を置き去りにして逃げた。


「……くん、キョー助くん!!」


 気がつくと、くたびれた猫が肉球でキョー助の頬を叩いていた。キョー助は慌てて前後左右と天地を確認する。


「……春日は?」


「大丈夫。追ってきていませんよ」


 キョー助は息を整えながら、あらためて周りを見渡した。そこは街の端で、星がたくさん見える。目の前には真っ黒な海が広がっていて、明かりをともした船がぽつりぽつりと浮いていた。海からは水気を含んだ風が吹き、それがキョー助の心を落ち着かせていった。


「また港に戻ってきたのか……」


 しかしここが北の港ではないと気がついた。あのタワーマンションほどの高さのある大灯台が見えない。


「ここは街の南側です。目の前に広がっているのはマレオティス湖ですね。ナイル川から運ばれた土砂が長い時間をかけて細長く堆積して、河口を海と湖に分けました。アレクサンドリアはその細長い土地に作られた街なんです。水気を含んだ海風の正体は、砂漠から海に向かう陸風が、この湖の上を通るときに水気を含んだためでしょう」


 泉がアレクサンドリアの地理について講義をする。よくよく見ると、ここでも夜陰の中かなりの人数が働いている。だがここでも人の声が聞こえなかった。みな声活気なく、ろくに光もない中で粛々と働いているのは北の港とまったく同じだった。岸についた船からぞろぞろと港の労働者が降りてくる様子などは、昔のゾンビ映画を思い出させた。


キョー助は息が整うと立ち上がった。


「春日の屋台に戻ろう」


「大丈夫ですか?」


 キョー助は傷だらけになっていて、一つ一つの傷がじわじわと痛み出してきていた。


「燃やされても元に戻る体だからな」


 春日から逃げていては生き返られない。キョー助は痛む体を引きずり市街に向かった。


 街にはアルコールが回りきっていた。その中にキョー助はキラキラとした深緑色の服が揺らめくのを見た。20代に見える58歳のお嬢様だ。酒を飲んだのだろう。ごきげんな様子で南北の大通りへと歩いていく。


 キョー助が声をかけようとしたとき、深緑色の後ろ姿が糸が切れた人形のように倒れた。最初、キョー助は見間違いだと思った。お嬢様の横をすれ違っていく人々が一人も見向きしなかったからだ。だがお嬢様は倒れたまま動かない。泉に「おい」と呼びかけると、泉はそれより早くお嬢様の元へと駆け出していた。キョー助も泉の後を急いだ。


「大丈夫ですか?!」


 お嬢様に駆け寄り大声で呼びかけるが、お嬢様は動かない。


「おい、お前もなんかしろ!」


 キョー助は呆然としている泉に怒鳴った。ゆっくり振り返る泉の声はかすかに震えていた。


「……息が……脈も……」


「!?」


 キョー助は額を地面にこすりつけ、お嬢様の口元に耳を寄せる。だが聞こえるのは雑踏と喧騒。指の腹を手首、そして首元に当てて固唾をのむが、白絹の肌は冷たく固くなっていく。


「すみません!病院はどこですか!」


 キョー助は横を通り過ぎようとする男二人組に尋ねた。だが男たちは笑いながらキョー助を無視して行ってしまった。


 キョー助は次にいちゃつきながら歩いていくカップルを捕まえた。しかしカップルは互いを見つめ合ったままで、キョー助のことなど目に入っていない。

 キョー助は女の肩に爪を食い込ませて「医者はどこですか!」と怒鳴る。だが今度も同じだった。女はキョー助の腕を簡単に払いのけると、何もなかったように男に胸を触らせながら行ってしまった。


「なんで……」


 キョー助は立ち尽くす。幸せそうな人の群れは、倒れたお嬢様を横を流れていく。だれも倒れた人間を顧みない、助けを求める声が届かない。活気で沸騰する街のただ中で、そこは異様に静かだった。


「キョー助くん!」


 泉が叫んだ。振り返るとそこには白い仮面をつけた何者かが立っていた。全身ピンクの服を着て手に鎖を持っている。無数の人間の流れの中で、仮面の向こうからの視線だけがキョー助を捉えていた。

 こいつが救急隊員じゃないのはたしかだ。キョー助が一歩を踏み出すと、白仮面は鎖を投げお嬢様の首を縛り上げた。


「!?」


 キョー助はとっさに鎖を掴み引き剥がそうとする。


 白仮面はキョー助たちに背を向け鎖を引いた。キョー助は抵抗するが、白仮面はお嬢様と抵抗するキョー助もろとも引きずり、なんと単車並みの速さで走り出した。


 なぜか人混みが割れ白仮面の前に道ができ、速度がどんどん上がっていく。キョー助の体は地面の凹凸に大きく跳ねて叩きつけられ、屋台に激突して大破させ、石壁に皮と肉が削られていく。


 「があああ!」


 キョー助は悲鳴を上げながらも、決して鎖を離さない。白仮面は余分な荷物に舌打ちすると、一転、キョー助に飛びかかった。キョー助も迎え撃とうとするが、体がいうことを聞かない。白仮面はキョー助の前に左足を踏み込み、右足を後に振り上げ、飛びこんだ勢いに常人ではない脚力を加え、キョー助の腹を蹴りぬいた。


 キョー助の体は潰れたくの字になって吹き飛び、近くの屋台に激突して瓦礫の山に変え、赤黒い血をぶち撒けた。白仮面は動かなくなったキョー助に何かを放り投げると、鎖をジャラリと鳴らしてお嬢様を引きずり去っていった。


 白仮面が投げたそれはカラカラと瓦礫の上を転がりキョー助の顔の前で止まる。キョー助の血の気が一気に引いた。爆弾だ。


 キョー助はボロボロの体を励まし逃れようとするが、爆弾はその暇を与えない。一塊の閃光が弾けると、轟音と火炎と爆風がキョー助の顔前で荒れ狂った。

 死を覚悟していたキョー助はそっと目を開けた。


 またあの天井が……見えなかった。


 つんざく耳鳴りのなかで見えているのは、もうもうと立ち込める白い煙と、赤黒い血溜まり、そしてゴツいブーツ。見上げると男の分厚い背中がそびえていた。

 首を少し動かすと、体が道路工事されてるように痛んだ。その痛みにキョー助は安堵した。体の感覚があり、自分がいるという実感があった。それは無音で冷たい死の暗闇に消えていく絶望感に比べ、とても心地よかった。


 キョー助はそびえる背中に向かって「あんたは?」と言った。だが声は亡者のようなうめきにしかならなかった。

 男がかがみ込み、キョー助の頭をガシガシと撫でてきた。何か言っているようだったが耳鳴りでなにも聞こえない。


 するとキョー助はいつのまにか体が痛くなくなっていることに気がついた。ブーツの男が「立てるか?」と手を差し出す。耳鳴りも止んでいた。男の手を取り立ち上がることができた。体が自由に動いた。キョー助は自分の体をまじまじと見て、つぎにあたりを見た。足元には屋台の瓦礫があり、周囲50mは更地になっていた。


「間に合ってよかったよ。回復魔法はサービスだ」


 ブーツの男が笑った。


「助けてくれたのか?」


「オーナーの命令だからな」


「オーナー?」


 そのとき何者かがキョー助の背後から首にヒヤリとした物をあてた。鋭い痛み。そして首から生温かいものが流れ出していく。


「私の店になんてことしてくれるのよ」


 背後の女の声に、キョー助は流れ出る血が凍った気がした。キョー助がゆっくりゆっくり後ろを振り返ると、春日涼水が出刃包丁を手にし鬼のように笑っていた。

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