四、飛鳥


 当時の飛鳥の中枢は小墾田宮おはりだのみやと呼ばれる宮殿で、大王おおきみ額田部ぬかたべ(後の推古天皇)によって治められていた。額田部は女性でありながら高御座についた大王であり、皆からの信頼も厚い人物である。

 その額田部を目の前にして、帰還した大和は深く礼をする。彼女はくすくすと笑うと、「良い良い、もっと近くにおいで」と手招きをした。額田部には竹田たけだという皇子がいたが、数年前に亡くなってしまった。疲労からくる心の病であった。ちょうど厩戸と同じ年をした健気な皇子で、生きていれば皇位継承の可能性もあっただろう。

 彼女は我が子竹田を想うがゆえに、身体が丈夫で皆の信任も厚い厩戸や、後見になっている馬子を恨んだこともあった。しかし本心ではない怒りに虚しくなったのだろう。幾つかの月日が流れてからは、また厩戸と馬子へ心を寄せてこうして国の頂点に立っている。

 大和にとっては優しい母のような人だった。それゆえに、彼女と二人きりで向き合う時はいつも傍で頭を撫でられた。ちょうど竹田のように見えるのだろう。彼もまた、大和に似たまろやかな髪の持ち主だった。

「どうであった? 隋は」

 額田部が髪を梳きながら問う。大和は「面白い国でした」と答えてやった。海の広さ、恐ろしさ。華やかな市の香りや異国の喧騒。そして同じ存在である洛陽のこと······。額田部は楽しそうに頷くと、「それは良かった」とまた大和の髪を弄ぶ。少々耳に擦れてこそばゆいが、嫌なものではなかった。

「上手くいくかのう」

 ふと柔い彼女の指が止まる。厩戸らが隋との交流をすると言い出した時は「そうか」と答えて了承した。しかし不安だったのだ。女の大王が隋を怒らせてやまとを滅ぼした。そんな未来になれば面目が立つはずもない。大王になると決めた日から最悪の事態も覚悟はしていたはずだが、それでもやはり落ち着かぬのは、神になりきれていないからだろうか。額田部の言葉に俯くと、大和はいささか気まずくなった。


 以前妹子が言っていた。隋という国は、どうも男が尊ばれていると。もしも倭の王が女だと知ったら皇帝・楊広ようこうは一蹴するだろうか。それはあまりにも口惜しい。大和はこの額田部の気品を美しいと感じていた、まるで天照アマテラスのように神々しいと。厩戸や馬子もこれを分かっていたのだろうか。大和にとって、彼女が大王になったことはどこか必然であるかのように思えた。だからこそ、どうしても彼女に聞いて欲しかったのだ。裴世清が述べるであろう、隋の天子からの返事を······。

 額田部が再び大和の髪を撫でる。たおやかかつ芯のあるぬくもりに、柔らかな陽だまりに咲く凛々しい花を見た気がした。






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