出会い
「大和さん」
とある日の昼下がりだった。宮中の隅の小屋にいた大和は名を呼ばれて手をとめる。初めて聞いた声だった。一体なんだと小屋から出ると、声の主を見上げた。
つい四年ほど前に定められた冠位十二階。そこにおいて五位・大礼と定められた赤い衣と赤い冠。艶やかな朝服を身に纏った彼の切れ長の瞳は、優秀な人柄を表すかのように美しかった。しかし慌てて走ってきたのか、肩で息をする彼からはどこか人間くさいあたたかさも感じられる。それはやはり初めて見た顔で、こんな役人もいたのかと眉を上げた。
「あの」
彼が口を開こうとすると、突如二人の間を何者かがさえぎった。大和の後ろから現れたそれは、大きな角の生えた頭をゆっくりと目の前の赤い冠に向ける。
「ダメやで
一匹の牡鹿であった。一年ほど前、とある山の麓で怪我していたのを大和が助けたのだ。それからというもの、宮中にあった空き小屋で毎日世話をしている。鹿丸の身体は、七つほどの見た目しかない大和よりも大きい。しかしながら素直なもので、大和が人差し指を立てると人のようにぺこりと頭を下げた。
礼儀正しい鹿に少々驚いたらしい。赤い冠の彼は、「あ、いえ。大丈夫です。お気遣いありがとうございます」などと言ってつられて頭を下げてしまっている。
その慌てぶりに大和は口元をほころばせた。鹿に礼を言う彼が面白かったのだ。すらりとした瞳に似合わず可愛らしい性格だと思った。しばらくくすくすと笑った後、眩しそうに彼を見上げる。
「何か用ですか?」
その言葉にはっとしたらしい。彼は竹のように背筋を伸ばすと恭しく頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私、小野妹子と申します」
深々と礼をする妹子に、大和は「そんな丁寧にせんでもええよ」と手を前に出す。
「普通に大和って呼んでぇな」
妹子は一瞬戸惑いをみせた。彼もまた、土地である大和への接し方が分からなかったのだろう。初めて出会ったのだから当然だと思った。
誰にでも初めは困惑されるのだ。このような稚児の姿で何十年も生きているからか、妖のようだと気味悪がる人もいた。はたまた神なのではないかと勝手に崇め奉る人もいた。しかし大和とて自分が何者か分からず、どう反応してやることも出来なかった。今はとりあえず朝廷の管理下におかれ、宰相たる
妹子もかける言葉を選んでいたようだが、しばらくしてほんの少し大和に歩み寄る。そしておずおずと小さな口を開いた。
「じゃあ大和、さん。今回の遣隋使の件なんですけど」
遣隋使といえば、数年前に初めて派遣された隋への使者だ。しかし当時の使者たちは隋の皇帝に会うことを拒否され、そのまま帰ってきたはず。再び派遣するなどという話は聞いていない。
何も知らぬことを告げると、妹子は驚いたようだった。「てっきり
「おっしゃる通り、前回の反省も踏まえて、また遣隋使が派遣されることになりました。今回は
「でもそれなら俺に言うことないんちゃう?」
「それがですね」
詰まった言葉に嫌な予感がした。じわりとした不安を吐き出すかのように、大和は恐る恐る口を開く。
「まさか、俺も一緒に行けって?」
妹子がこくりと頷く。
理由を聞けば、遣隋使の発案者である厩戸と、大臣・
「それに、あちらの国にも大和さんのような存在がいるのだと言うのです。なので、その方々と友好関係を築いてほしいとのこと」
自分の他にも土地の化身が存在することは知っていた。しかしまだ誰とも会ったことがない。倭国内の化身にも出会えていないのに、他国の化身と仲良くなれと言われてもピンと来なかった。
とはいえ、まだ見ぬ国の化身達には興味がある。自分と同じ存在とは、一体どのようなものなのだろう。そして、自分達は一体どのような存在なのだろう。それが気になって仕方がなかった。
「分かった。なら俺もついてこうかなぁ。詳しい日程とか分かったら教えてもらってもええ?」
「もちろんです」
大和が頷きほっとしたのか、妹子が声音を明るくする。そんな彼に笑顔を向けたあと、大和は隣にいた鹿丸の顔を両手で挟んだ。一体どこから持ち出したのか、彼はカブをもしゃもしゃと食べている。暢気な様子の鹿丸を見ながら、大和は明るい笑顔をつくった。
「ほんならその間は鹿丸にお留守番して貰わんとなぁ」
突然顔を挟まれ驚いたのか、鹿丸の口から一欠片、カブがポロリと地面に落ちた。わしゃわしゃと鹿と戯れる大和の足元で、小さな雀がこぼれた欠片をぱくりと拾う。
大和は鹿丸と共に妹子を見送ると、ふと足を止めて地面を見つめた。小野妹子。名前だけは聞いたことがあった。なんでも、
今政治を取り仕切っている厩戸皇子が拾ってきたらしいが、そもそも彼を飛鳥に引っ張り出してきたのは
しかし、奇妙なのは彼らの言い様だ。
厩戸は妹子のことをこう言った。「磨けばどこまでも光る人だと思います。ただ、まだ自信が足りないように見えますね。身分のこともあって萎縮しているのでしょうが、彼の才能は確かだと思いますよ」と。確かに大和もそう思う。今回彼に会ってみて全く同じことを考えた。
しかし、河勝の言い分は違う。大和が妹子のことを尋ねた時、彼は眉を寄せて「あー」と面白がるような顔をした。
「あれとは腐れ縁でね。連れてきたのが僕だっていうのは事実ですよ。でも、正直僕も迷ったのですよ、彼を朝廷に近づけるかどうか。ともかく、あまり彼に近寄らない方がいいですよ。あれはとんでもない魔物だ」
何故こんなに言い方が異なるのだろう。二人から聞いた妹子が全く違う姿をしていて、大和は訳が分からなかった。しかし今日初めて見た妹子は厩戸の言葉に近かった気がする。
(河勝は······感性が独特だからなぁ)
そんなふうに片付けて、深く考えないことにした。妹子のことは関わっているうちに分かってゆくだろう。今悩んでいてもきっと無駄だ。
カブを食べ終えた鹿丸を促して、大和は小さな小屋に入る。そして鹿に別れを告げると、小屋の鍵を閉めて宮中の自室へと足を向けた。
大和達が飛鳥を去る一年ほど前のことだった。
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