本編

二宮花楓の場合

(1)

 溶かしたバターと砂糖、卵をいい感じに混ぜる。

 さらに牛乳、ホットケーキミックス、苺のジャムも加えてさらにいい感じに混ぜる。

 カップに入れて、クリームチーズをのせる。

 百七十度のオーブンで二十五分焼く。

 ――以上、簡単にできるマフィンのレシピ(某料理レシピサイト調べ)。


 あと一月ほどで夏休みになろうとする休日に、私は一人お菓子を作っていた。いや、今時っぽくスイーツと言った方がいいのだろうか。あるいはスウィーツ。どれもさほど変わりもしないだろうと自己結論を出して、作業に戻る。


 今から作るこのお菓子たちはどうしてやろうか。私の趣味は作るところまでで、食べるところは範囲の外だ。兄にでもなすり付けるか。生地をひたすらに混ぜながら考える。


 うまくできたものをあげる人は決めているけれど、失敗作を押し付ける人の選定には苦労する。持ち運びやすく見た目もそれなりにできたものは学校にもっていって友人と一緒に食べることも出来るけれど、そうでないものは家の中で消費するしかない。となると標的は兄か両親になるわけだ。いい感じに捏ねた生地をカップに移していく。


 さて、唐突だけど私こと二宮にのみや花楓かえでには好きな人がいる。同じ学校の同級生で藤島ふじしままことという人物だ。なぜ好きなのかとかどこが好きなのかとか、そういうのはうまく言葉に変換できないけれど、とにかく私は彼が好きなのだ。たぶんきっと顔が好きだとか性格が好みだとかそういうのは通り過ぎて、存在自体が好きになっているのだ。うまく表現できていない気がするけれどそういうことだ。マフィンの形に近づいたカップをオーブンに入れる。


 いいじゃないか。私は高校生なのだ。息をするように恋をしてもかまわないはず。倫理の授業でも習ったように、『恋愛は人生の秘鑰ひやくなり』なのだ。意味はよく分からないけれども。人並みに少女マンガのような恋に憧れるし、それ以上に単純に好きな人と結ばれたい。将来のことなんてまだ知らないけれど、今この時の感情は無視できない。青春を謳歌するセブンティーンな私は今を生きるしかないのだ。オーブンが焼き上がりを告げる。

 出来立てほやほやのマフィンを取り出し、味見と称してひとくち


「あっっっっっつ!」


 口の中を熱が襲う。尋常じゃない。熱いというか痛いに片足を突っ込みかけていた。そりゃそうだ。出来立てなのだから少しは熱を取らないとだめだろうに。そんなことも分からないほどにぼんやりとしていたのかと自分を疑うと同時に、ほのかに感じたおいしさに満足感を得る。


 初心者にしてはいい出来だろう、と。


 実のところお菓子作りが趣味になったのはつい先日、どころかついさっきから。きっかけなんて決まり切っていて、つまりは藤島の存在が大きく関わっているということである。


 彼曰く、『料理とかできる女の子っていいよな』とのこと。これはもうやるしかないと使命に燃えたのがつい先日。いきなりお弁当とか作るのも持っていくのも手渡すのもハードルが高いからお菓子を作ろうと思い至ったのが昨日。そして今日、お菓子作りに手を染めることになった。


 そんなわけで、私はずぶずぶのドがつく素人なのだ。右も左も分かりかねる迷える羊なのだ。できれば師匠が欲しいところだけれど、そんな人物は存在しない。強いて上げるならばお母さんになるのだけれど、その当人はレシピを表示したタブレットをこちらに寄越してどこかに行ってしまった。きっと今頃散歩と称した井戸端会議に精を出しているのだろう。ちくしょうめ、私の恋路を応援しようという気はないのか。父は休日出勤だかなんかでいないし、誰も役に立ちやしない。もっと私を甘やかしてよ。ぎぶみーあどばいす。


 マフィンが冷めるのを待ちながらちょっとした憤りを感じていると、兄がひょこりと顔を出した。


「何作ってんの?」

「マフィン。食べる?」

「……いや、怖いからやめとく」

「怖いとはなんじゃ怖いとはーっ!」


 まったく失礼な奴だ。お礼として食べかけのやつを無理やり口に突っ込んでやった。あっふあっふと目じりに涙を浮かべて喜んでいる。


「どう? おいしい?」

「はっふ、お、お前なあ!? 味なんかわかるかっての!?」

「妹の初手料理の感動で?」

「料理の熱のせいでだ!! せめて冷めてから食わせてくれよ」


 涙目で兄がのたまう。がしかし、そんな余裕がないであろうことを私は察していた。


「だってお兄ちゃん、今から出かけるんじゃないの?」

「まあな。兄は今から彼女とデートだ」

「もう一個いっとく?」

「どうしてそうなる!?」


 どうしてってそりゃ、頑張って恋愛のスタートラインに立とうとしている妹を差し置いてイチャコラしてこようとするからに他ならないんだけれども、癪だから何も言わずにマフィンを二つ、適当な袋に放り込んで兄に渡す。


「……これにはどういう意図が?」

「味見役に兄カップルを指定します。原稿用紙一枚以内で今日中に感想を持ってきて」


 特に彼女さんの方の感想を求む。兄の情報によると自炊をしている人らしいから、少なくとも兄よりもまともなアドバイスが出て来るだろう。


「まったく、仕方がないな」


 兄は頭をかきながら手持ちのショルダーバッグにマフィンをしまった。


「それじゃ、俺はもう行くから」

「はいはい。行ってらっしゃい」


 その場で兄を見送る。足音と、玄関のドアが開いて閉まって、鍵がかかる音。聞き慣れた音だけれど、そのあとに来る静寂が今この家にいるのが私一人なのだと再認識させる。


 一人の時間というのは何ともいえない奇妙な昂揚感がある。シリアスな考え事をするには少々浮つきすぎているけれど、今の私の頭の中には愛だの恋だのといった浮ついたことしかないのだからきっと問題ないのだろう。


 さて、と私は今からするべきことを考える。とはいえ、もはや何もすることはないのだが。せいぜい後片付けくらいのものだろう。非常に面倒くさい。


 後回しでいいか、と適当にそんなことを考えつつ、なんとなく冷えてきたマフィンを袋に詰めていく。


 自分の味覚を信じるならば程々の出来になったこれを、彼に渡して喜ばれるかどうかは分からないけれど。


 せめてまずいと言われませんように。南無。

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