あべこべのさかしま

 可憐なハミングを響かせながらデリの足が即席のキッチンに向く。


「――橙色紙片によると、破滅のアジフライにはソースがつくそうです。レムラードソース、タルタルソース、ウスターソースにソイソース、レモンジュースとピンクロックソルト……どれでもなにかひとつ、食べたい人の好みのソースをつければ完成でした。――でも、僕は聞くのを忘れちゃったから」


 享楽に溺れた瞳をし、デリは破滅を待ち望む。


「スーキーさんが、一番好きで、一番嫌いで、一番大事で、一番邪魔だと思ってるものはなんだろうって考えたんです――多分、舌でしょう? 魔法使いの舌。コウィン派の象徴です」

「むぐぅ! むぅ、むぅぅぅう!」


 スーキーは至福の表情で破滅のアジフライを味わい、迫る死の恐怖に怯えていた。

 混沌とした狂態をうっとりと眺め、デリは言った。


「ヒントをくれたのはグミさんです。グミさん、橙色紙片にあったポテトを一口食べて、悦びながら怯えてました。どう頑張っても手が止められない。そんな感じに。でも耐えたんです。耐えられたんです。なんでだと思いますか?」

「むぅ! ぅうぅぅ! うむ、んんんん!」


 スーキーは口を開けない。心も躰も、欲望に囚われてしまっている。

 デリは満足そうに頷き、橙色紙片をつまみあげる。


「コウィン派だったグミさんは、これがなにか知っていました。知っていても欲望に囚われかけていました。それでも耐えられたのは、グミさんがサークルを抜けたからです。グミさんは、お祖父ちゃんの力を借りて舌の力を捨てていたんです。グミさんにとって、味はもう一番大事な欲望じゃない。わかりますか?」


 つまり橙色紙片が伝えているのは、コウィン派の主観的世界を利用するすべ

 デリの魔法が、ただの料理に重大な意味を与える。

 ショイン派の魔法使いが知れば、カイイン派の魔法使いが学べば、コウィン派の魔法使いが味わえば、込められた意味が世界を食らう。

 創り手、創られたモノ、それを味わう魔法使い。すべてが揃った瞬間、デリの魔法が世界を動かす。

 だから、祖父はデリを橙色紙片から遠ざけ、隠し、封印しようとしてきたのだ。


 ――そうでしょう? おじいちゃん。


 調理場に戻ったデリは、新たなアジにバッター液を絡ませつつ首台を見やる。

 祖父は虚ろな目をするばかりでなにも答えない。

 答えられなくさせられた。

 スーキーに。

 デリはズボンの下で窮屈そうに膨らむ自分自身に目を落とす。邪悪な蛇。いまにも弾けそうだった。せめて、もう少し、もう少しだけ、とアジに衣を纏わせる。


「……カッ、あ、デ、リィィィィィィィィ!」


 スーキーの絶叫に、デリは絶頂に迫る快感をおぼえた。

 見れば、筋の浮き立つ喉を両手で押さえ、長い髪を振り乱し、蕩けたような舌を伸ばしていた。


――カチン。


 と金属質な音を立て、舌に打たれていたはずの銀のピアスが床で弾んだ。

 デリは両手で口元を隠し、クスクス笑いながら、脳髄を弄る官能に躰を震わす。


「ああ、もう、そんないい顔をして……スーキーさん。キちゃいます。すごく、すごくクるんですよ。どうですか? アジフライは美味しいですか?」


 デリは油の温度をたしかめた。少し低い。焜炉の給気口を広げる。


「物を食べるときに口を開けたらダメですよ? お行儀が悪いです。それにほら、スーキーさんの大事なソースが、口から全部たれちゃいますよ?」


 デリの言葉に、スーキーが慌てて口を押さえた。べちゃり、と汁ばんだ音がした。指の隙間から黒い粘液が漏れた。躰が恐怖に竦んでいる。

 しかし、潤んで揺れる瞳は、口中を満たす快楽に翻弄されていた。


「あっ……」


 と歓喜に掠れた声を発し、デリは両手を机に置き、腰を浅く引いた。危なかった。


「はぁ、はぁ、ふっ、ぅ……フライって、揚げたてが、最高に美味しいんですよ?」


 デリは昇ってくるきらめきの瀬戸際に踏みとどまり、至る寸前でアジをつまむ。


「やめ……やめなさい……やめてぇ……」


 スーキーは歓喜と懇願の涙を流していた。

 魔法使いは欲望に突き動かされる生き物だ。

 一度味わった快楽がより素晴らしい形となって目の前に現れれば、もう抗えない。

 強ければ強いほど、耐え難い欲望と向き合わなくてはならない。

 食べれば破滅が待っている。

 わかっていても、躰は永劫の快楽を、破滅のアジフライを求めてやまない。

 デリが望むは邪悪の破滅。すべての邪悪の滅びを望む。スーキーの力が破滅を喚び起こし世界を洗う。終われば、そこにはデリの姿も残らぬだろう。

 恐怖が頭を心を躰を襲う。だが、それ以上に、自らの手料理を欲する者が目の前にいて、提供できるということが、デリを魔法に駆り立てる。


「すぐ揚がりますからね……?」


 愉悦。愉悦。愉悦――。

 食べれば緩やかな死へ向かうと知りながら、スーキーは揚がるのを待たずにいられない。食べたくて食べたくて仕方がないのだ。

 自らの肉で味わう破滅のアジフライを。

 背負った業と自らの命をもって味わう、デリのアジフライを。

 自分のための破滅が欲しくてたまらないのだ。

 なんて楽しいんだろう。なんて面白いんだろう。気持ちいい。快感だ。やめられない。止められない。

 そんな料理をご馳走できるだなんて!

 デリはもはや自分の興奮を隠そうとしない。迫る絶頂に期待し昂ぶっていた。


「さぁ、揚がりましたよ?」


 デリは黒い双眸を輝かせ、菜箸を手に取った。


「うぅ、うぅ~~~」


 と、スーキーがうめいた。よだれが溢れて止まらないのだろう。食べたくて、罰を与えてもらいたくて、死にたくてたまらないのだろう。

 なんて、なんて心地良い音色なんだろう!


「……すぐに気持ちよくなりますよ……!」


 デリは閨で言われた言葉を投げ返し、破滅のアジフライを引き揚げた。瞬間、 

 建物が揺れるほどの轟音があった。

 すぐに階下の男たちがあげたであろう歓喜に塗れた絶叫が続く。

 グミだ。間に合ったのだ。

 間に合って、しまったのだ。

 デリは深い深いため息をつきながら、揚がったばかりの破滅のアジフライを盛り箸でつまみ上げ、床を這いずるスーキーに歩み寄る。


「あ、あぁ、あぁぁぁぁ、で、り、おねが、い……もう、ゆるし、あ、あ、あ……」


 スーキーは涙を流し、涎を垂らし、食事の中断を訴えた。

 けれど、台所の王は許さない。

 食卓の支配者は認めない。

 復讐という昏い悦びを追い求める魔法使いは、


「はい、スーキーさん。あ~~~~~ん」

「あ、あぁ、あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああぁ……」

 

 ぽっかり開いた口に、デリは破滅のアジフライを押し込んだ。

 咀嚼をはじめたスーキーは、どさり、と仰向けに倒れた。両手の指をつかって閉じてしまった口をこじ開けようとしている。だが、指が入る隙間などない。


「ほら、ほら、スーキーさん、危ないですよ? 指まで食べちゃいますよ?」

「うぐぅぅ、んぶぅ、ぶっ、ぐんぅぅぅぅぅぅ!」


 スーキーの瞳が上向く。口からもたらされる快楽に背をらし、黒い霧のような力そのものを全身から吹き出しながら絶頂を迎える。一度や二度では終わらない。口中を満たす破滅のアジフライが消えるまで、命が尽き、世界に破滅を呼び起こす瞬間まで快楽に嬲られつづける。

 デリはスーキーの痴態を見つめ、耳を澄ました。

 近づいてくる。階下で響く男たちの嬌声が、少しずつ近づいてきている。


「……スーキーさん、シリアナの女王が来てくれましたよ? もし間に合えば、スーキーさんは死なずにすむかもしれない。人間のお尻の穴は口とつながっていますから、シリアナの女王ならスーキーさんの口から、破滅のアジフライを取り除いてくれるかもしれません」


 いかにも残念という風にデリは言う。

 シリアナの女王が振るう魔法だけが、それを成しうる。

 デリは恐ろしく深い慈悲の笑みを浮かべて小さな両手でスーキーの頭を挟むと、みしり、みしり、と軋ませ執務室の扉へ向けた。


「スーキーさん、素敵すてきだと思いませんか? シリアナの女王と破滅のアジフライが、スーキーさんの躰の中で戦うんです。グミさんと、僕と、スーキーさんとで勝負です。すごく、すごく素敵だと思いませんか? 思いますよね? スーキーさんは、魔法を使うのが、とっても、とってもお好きですから」


 デリは抑えきれない興奮に身震いし、今にも焼け焦げそうな声を発した。


「シリアナの女王が勝てば、あなたは業を背負い恥辱に塗れて生き長らえます。破滅のアジフライが勝てば、魔法使いとして快楽の中心で滅びを迎える」


 ポケットをまさぐり、一枚の銀貨を出した。


「賭けですよ、スーキーさん」


 足音が近づいてくる。

 シリアナの女王の足音が。


「僕の一シリング銀貨は、貴女の死に」


 デリを助けるため。スーキーに業を負わせるため。世界の破滅を止めるため。

 シリアナの女王がやってくる。



 

 そしてデリは一シリングを失い、寸止めの甘美に酔いれた。

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