魔法使いの饗宴
ぶつり、と耳に残るような音を立て、デリの握る包丁が小ぶりなアジの頭を落とした。つづけて落とした首から包丁を入れ内蔵をかきだす。ふたつ並んだ水で満たされたボウルに浸けてよく洗い、布巾で水気を拭って背中側から開く。
橙色紙片の挿絵を参考にして、デリは尾っぽを残すように中骨を取り払った。魚の身に塩を振って馴染ませ、洗い流す。
すべてレシピ通りの、ごく一般的な調理風景である。
――そこがスーキーの執務室で、執務机の上でなければ。
奇妙で美しい情景だった。執務机は白いクロスですっぽり覆われ、その脇に絢爛豪華な装飾のなされた焜炉がある。燃料はコークス。換気のために普段は閉め切られているであろう窓が開かれ、街の風と、薔薇の香水と、魚の生臭さと、いかんともしがたい死臭がいっしょくたになっていた。
即席のキッチンと化した執務机の正面には、階下から持ち込まれた猫脚の円卓があり、脇に『サロメの銀盆』と名付けられた首台が立つ。そこから、祖父と元ブラザー・チェリーの生首が、ナイフとフォークを手に席につくスーキーとともに、デリの早すぎる夕餉の支度を見守っている。
生気を失った二つの視線に、いまか、いまか、と期待し、興奮に血走る双眸。
実に奇妙で、奇妙の一語では足らない凄惨さを孕む空間だった。
しかし、魔法使いの用意する食卓とは、饗宴とは、そんなものかもしれない。
そうデリは思う。
常識とやらは犬に食わせておけばいい。正しさは汚水とともに下水に流せ。
人間が倫理を信じ道徳を尊ぶのなら、魔法使いは破戒と背徳を望む。
『デリへ。言いつけを守るように』
こんなときに――いや、こんなときだからこそ、祖父からの手紙を思い出す。
デリは生首だけになった祖父に微笑みかけ、心のうちで呟く。
ごめんなさい、お祖父ちゃん。いまから言いつけを破ります。いけないことをします。覚えていますか? 近所の子どもに馬鹿にされて泣きながら帰ったとき、おじいちゃんは僕に言いましたよね。
やり返そうと思ってはいけない。嫌なやつと同じになってはいけない。
でも、僕はもう、同じだから、復讐するね。
デリは祖父の虚ろな瞳に背徳的な悦びをおぼえながら、スーキーに微笑みかけた。
コウィン派の魔法使い。力を使うという欲望に囚われた哀れな女は、閨でそうしてみせたように淫猥な笑みで返してきた。
「それじゃあ、つくりますね? 揚げたてが一番美味しいですから」
「ええ。わかっているわ? 待ち遠しくて待ち遠しくて――」
熱っぽく迸るスーキーの戯言から意識を離し、デリは開いたアジの尾っぽをつまんだ。小麦粉と卵、少量の水を溶き合わせたバッター液に浸し、生パン粉の衣をつけていく。
たっぷりパン粉を纏わせて、あとは高温に熱した上質な菜種油で揚げるだけ。
特別な材料、特別な手順、そんなものはいらない。特別なレシピが求めていない。
特別なのは、そのレシピが魔法使いの残した橙色紙片であることと、それをつくるのがデリ・K・エッセであること。
いつもより少し丁寧に、いつもより鮮明にイメージするだけでいい。
僕の料理を食べて、スーキーはすぐに直観を得る。
吐き出さなくてはいけない。食べてはいけない。
けれど、咀嚼を止められない。口に届いた美味に、舌で感じる官能に、
コウィン派の魔法使いは抗えない。
「ふふっ」
デリは至福に悶えるスーキーを想像して陰部を硬くしながら、木製の少し太い菜箸を指に挟む。かなり精密な動作を要求されているのだが、思いのほか手に馴染んだ。
もしかして、これも子供のころに仕込まれたのかな?
と、デリは祖父の生首を覗き見て、ぞっとするような気味悪さに高揚し、菜箸の先を水の入った小皿に漬ける。水気を拭き取り、次は油に。
しゅう、と勢いよく泡が立った。高温の証拠だとレシピの『一点忠言』にあった。
デリは衣をつけたアジをつまみあげ、煮えた油にそっと沈み込ませた。途端、身から離れたパン粉が花のように開いた。
香ばしい匂い。
騒がしい薔薇の香水も、重々しい死臭も、躰に絡みつくような淫臭をも吹き消す鮮やかな匂いだ。
デリは空っぽになっている胃袋が収縮するのを感じた。顔を上げてみれば、食卓で待つスーキーも目の色を変えていた。
欲望は河の如しとグミは言った。
睡眠欲は万物を飲み込む大河で、食欲は溢れれば止まらない荒河で、
性欲は逆流れする一直線の河だという。
では、食欲と性欲の河が渾然一体となればどうなるのだろう。
デリは期待に股間を熱くしながらアジの揚げあがりを注視する。衣がきつね色に色づき、油の泡沫が微細な粒に変わった。チリチリと爆ぜるような微小音を立て、さぁ引き揚げてとアジが浮かびあがった。
菜箸を鍋に差し入れアジを挟む。鍋際で油を引き、網にあげ、白い皿を用意する。
「できたの? できたのかしら!?」
はぁはぁと息を荒くしながらスーキーが言った。待ちきれないとばかりにフォークとナイフを握りしめ、腹を空かせたひな鳥のように騒いでいた。
親鳥の役目を仰せつかったデリは、台所の王は、銀色に輝く盛り箸で、
破滅のアジフライを皿に盛る。
食卓の支配者として、魔法使いのデリとして、一見なんの変哲もないフライドフィッシュが秘める魔性を知りながら、憎き女の前に置く。
「どうぞ。橙色紙片に記された、破滅のアジフライです」
「これが……これが……?」
スーキーは訝しげな目をして皿とデリを見比べ、震えるフォークでフライを押さえナイフで一口分を切り取った。
ふっくらとした身から蠱惑的な湯気が膨らみ、魔法使いの食欲を愛撫する。芳醇な香りがコウィン派の舌を甘やかし、口中に溢れる唾液が理性を滅ぼす。
理性とは、すなわち世界に植えつけられた常識であり、魔法を防ぐ最後の盾だ。
自らの欲望に盾が打ち砕かれた今、デリの魔法が始まる。
スーキーが、破滅のアジフライを口に運んだ。瞬間、
雷に打たれたように躰が弾んだ。
「――ガッ、アッ!? あっ、あぁ、あぁぁぁぁ……」
目を見開いたスーキーは舌の上で破滅のアジフライを転がし咀嚼する。ひと噛みごとに身を捩り、よがるような声をあげ、やがて嚥下を試み、熱っぽく潤んだ瞳でデリを見る。
「ふふふふっ」
デリは笑った。はらわたを貫く愉悦。
「飲み込むのがもったいないんですか? いつまでもお口に入れていたら、ふやけちゃいますよ? それとも舌の上で蕩けるのを待ちますか?」
「……っ、あっ、で、り……?」
スーキーは歓喜に打ち震える眼をデリと皿の間で往復させる。いったいどれほどの官能を叩き込まれているのだろうか。薬なんてメではない。肉欲なんてたかが知れている。そうでなくてはならない。
僕の味わう快感は、あなたの主観的世界を破滅に導く。
デリはそっとスーキーの両手に手を重ね、ナイフとフォークを下ろさせた。
「手で、どうぞ。お口いっぱいに頬張ってみてください。きっと美味しいソースが溢れてきます」
「あ、あぁ、あぅ、あ……」
声にならない悦びを零すスーキー。その双眸に、涙が滲んだ。
怯えている。恐怖を感じている。食べてはいけない。これ以上はダメだ。けれど、もう止められない。欲望の泉に
スーキーはデリの手を振りほどき、破滅のアジフライを口に押し込み始めた。
「あはっ、あははははははは!」
デリは純粋無垢な笑い声を立てながらスーキーを見下ろす。最後の晩餐に興じる魔法使いを憐れんで、そうまでして欲される自らの魔法に無限の愉悦を感じる。
「美味しい? 美味しいですか? ほら、スーキーさん、ソースの味わかります?」
「ひょ、ひょー、ふ……ふぅっ! ふっ、ぐぅぅぅ!!」
ゴボリ、とスーキーの口の端から黒い液体が零れた。
デリはおねだりする少女のように顎の下で手を重ね、困ったように眉を寄せる。
「デゾレ、スーキー。そういえば、僕、お好みのソースを聞くのを忘れてました」
歌うように、
「だから、僕、最高のソースは、ご自身で用意してもらおうと思って」
「ふぅっ!? ふっ、ぐむぅぅぅ!」
抗議の意志を込めたであろう呻き声を聞きながら、デリは恍惚のうちに言う。
「わかります? スーキーさんの、舌です。タン・ソース。美味しいですか?」
「ふむぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
スーキーがくぐもった叫びをあげた。しかし咀嚼は止まらない。意志を離れて顎が動くたびに、口端からねっとりとした黒い液体が溢れた。
タン・ソース――常識の世界には存在しない。
デリの、魔法使いの主観的世界にのみ存在している――否、橙色紙片を扱える魔法使いと、それを食する魔法使いが揃ったときのみ、この世界に顕現する。
デリの魔法。それは味覚によって食欲と性欲を混沌に堕とす。性欲の制御機能を破壊し、ただでさえ世界を滅ぼしかねない食欲をもって、世界そのものを侵食する。
古来、飢餓は世界を変えてきた。
古来、美食は世界を壊してきた。
そして未来、デリの手料理が魔法使いの舌を通じて破滅をもたらす。
「どうですか? 美味しいですか? いったい、なにが生まれそうですか?」
口にしたモノの力を世界に引き出す魔法で、破滅のアジフライがもつ魔性を引き出せば、なにが起こるだろうか。
デリの口角が
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