五章:シリアナの女王と破滅のアジフライ

さながら魔法使いのように

 宵闇色のねやの中、火照った白肌に浮く汗玉と唾液の跡が、ぬらぬらと光っていた。

 息はいつまでも荒く、途方もない虚無感がデリの全身を支配していた。流した涙はいつの間にか乾き、もう溢れもしなくなった。

 ぼうっとした頭の底に手酷い余韻がへばりついている。

 ぎしり、とスプリングを軋ませて躰を起し、スーキーはハンカチで口元を拭った。


「――貴方、たまには自分でしてる? 溜め込みすぎるのは躰に毒というわよ?」

「がっかりしてるみたいですね」


 デリは声を絞り出した。すると、スーキーが眉根をじわりと寄せた。


「ええ、たったいま、がっかりさせられたわ。せっかく良い気分だったのに、なんなの? いきなり。もう大人になった気分なのかしら?」

「いいえ。あなたの勘違いが、とっても可愛らしくって」


 デリは唇の端を吊った。顔中を舐め回されたからか生臭い匂いが鼻をついた。

 スーキーはますます皺を深くした。


「勘違いですって?」

「僕は、お祖父ちゃんが隠したものの在り処を知ってると言ったのに。スーキーさん、まったく聞いてくれなかったから」

「……なにが言いたいのかしら? 貴方、自分の立場をちゃんと理解してるの?」

「もちろんです。だから、教えてあげようと言うんです」


 デリは左手を開き、重い頭を振って銀の指輪を見つめた。

 グミさん、魔法を教えてくれてありがとうございます。

 内心で感謝を捧げ、デリは呟くように言った。


「橙色紙片」


 瞬間、服を整えていたスーキーがピタリと止まった。時間をかけ、骨と筋肉を捻じりあげるように首を振り、肩越しにデリに顔を向ける。


「なんですって?」

「橙色紙片、です」


 グミが酒と薬で沈没する直前に言った言葉だ。特別なレシピ。二度と故郷に帰れない哀れな男の魂を、故郷に送り返した魔法のレシピだ。


「デリ、貴方、それがなにを意味するか、知っているのかしら?」


 苛立たしげなスーキーの言葉を無視してデリは言う。


「『パンの大神おおかみ』の前から三分の一くらいのところにあるはずです」

「……なに? なんですって?」


 デリは祖父の本棚を思い返す。

 最上段にあった古めかしい本で、見たこともない質感の革の表紙が気になり手を伸ばした。中身は小説のようだが難解すぎるように思われ、いつか挑戦してみようかとぺーじを送っていると、


「縁がオレンジ色に塗られた頁があったんです。その頁だけ色がついていて、まるで薄く伸ばした硝子がらすみたいな光沢があって、古くて奇妙な言葉で書かれてるんです」

「橙色紙片は、未来の魔法使いが、過去の魔法使いに向けて記した、ある種の予言書だと言われてる……」


 スーキーは目を爛々と輝かせる。


「馬鹿は貴方よデリ! 勘違い!? フフッ、それだけわかればもう充分! まだまだ子供なのねデリ! 可哀想なデリ! でも安心して? 私が貴方を食べてあげる。爪の先まで残さずきれいに食べて、貴方が知ってる――」


 半狂乱になって脅しをかけてくるスーキーに、デリは釣り餌の価値を確信する。

 あのレシピが予言書? きっと、そんな上等な物じゃない。

 だが、せっかく大口を開けて待っていてくれる魚がいるのに針を投げない理由もない。


「スーキーさん、落ち着いてください」


 デリは漆黒の天井に瞬くガラス粒の星を見上げながら、くすくすと笑った。


「僕の躰を食べちゃったら、せっかくの橙色紙片がただの紙切れになっちゃいます」

「――どういうことかしら?」

「あの頁に書かれていたのは、料理のレシピでした。よく似た料理を知ってますけど、まったく別の料理です。もしあれが予言書なら、きっと作る人と食べる人が必要なんです。なんでしたっけ、あの円盤みたいな、あれと同じなんです、きっと」

「円盤――レコードのことかしら? 音を記録する――ああ! そういうこと!? 橙色紙片には料理のレシピが書かれていて、魔法使いが魔法によって料理を作り、魔法使いが魔法を使って食べることで、はじめて意味がある?」


 スーキーは嘲笑するかのように顔を歪めた。


「おかしいわね、絶望を教えてあげたはずなのに、まだ生きていたいだなんて。死にたくないからって子供だましみたいな嘘をついても――」

「魔法を使えない人が、ひとり死にました」


 デリはスーキーの言葉を遮った。

 内心で、死んだポテトの男に謝罪する。


「すごく悦んでましたよ、あのおじさん。僕の作ったポテトを美味しい美味しいって、豚みたいにがっついて食べだしました」

「……あのポテト……まさか貴方がつくったとでもいうの? あの魔女じゃなく?」

「そうですよ? 僕が作った、バスティーユの夜明け風フライド・ポテトです。あの人は魔法使いじゃなかったから、耐えられなかったんだと思います」

「バスティーユ……あのオヤジ……そういうこと……? 嘘でしょう? 本当に?」


 デリは目を瞑り、瞼の裏にポテトを食べる男を映した。

 あの悦ぶ顔。肉体の軛から魂を遊離させ、束の間、遠く離れた故郷に帰る男。

 最高の一食を提供できたと悦ぶデリの精神に呼応し、肉体が歓喜するのを感じる。痺れの残る腰に血流が集まり、自身が上向いていく。

 スーキーはそれを見つめ、舌なめずりした。


「ああ、デリ……」

「だから、勘違いしてるって言ったんです。お祖父ちゃんが見つけて、集めていたのは、橙色紙片です。普通の本に混ぜて製本し直したんですよ。もうひとつ。お祖父ちゃんが作りあげたのは僕なんだと思います。事細かに書いた設定書と人形は、きっと僕を匿う場所を作るためのものです」


 全て推測――いや、もっと酷い、でまかせと言ってもいい。

 けれど、欲望に忠実な魔法使いなら、美味しそうな餌を出されたスーキーならば。


「コーウェンは人形と設定書を世界中に送って、貴方の逃亡先を確保していた……? その意味は……? 橙色紙片と、それを扱える魔法使いを離すため……?」


 かかった、とデリは内心ほくそ笑む。躰を包む倦怠が、感情を殺す絶望が、復讐という名の欲望が、滑らかに舌を動かした。


「『パンの大神』です、スーキーさん。橙色紙片を持ってきてください。道具を揃えて、僕に作らせてください。絶対に、あなたを満足させると、お約束します」

「ふふっ、ふふふふっ、うふふっ」


 スーキーは不気味な笑みを零した。


「いいわ。いいわよ、デリ。子どもだと言ったのは撤回してあげる。貴方、魔法使いになるのね? いいわよ? サークルに入れるかどうか、私がテストしてあげる!」


 ギッ! と強くベッドを軋ませ、スーキーが立ち上がった。薄っすらと透ける天蓋越しにベッドに寝そべるデリを見下ろし、舌先のピアスが光っている。


「少し絞りすぎたから疲れたでしょう? しばらく寝ていなさい。ただし――」

「なにもしませんよ。なにもできません。僕は僕のしたいことしかしたくない」


 デリがそう答えると、満足したのかスーキーは足早に部屋から出ていった。静かに寝室の扉が閉じられ、なにか紐のような物をドアノブに巻きつける音がした。

 逃げたりなんかしないのに、とデリは苦笑する。

 せっかく、この手で復讐するチャンスがきたのだから。

 デリは目を鋭くし、怠さを訴える躰に鞭を入れた。

 いますぐにでも熱いシャワーを浴びたい。汚れた躰を清め、湯船に沈んで瞼を閉じたい。けれど、いまは、やらなければいけないことがある。


 太股ちかくまで引き下ろされたズボンを引っ張り、尻ポケットに手を伸ばす。柔らかい布の感触。あった。失くしてなかった。気づかれなかった。奪われなかった。

 デリはその小さな布を引っ張り出し、はらりと広げた。

 真っ赤な色の、扇情的な形をしたショーツ。シュメールが履いていて、昨日スーキーから逃れるためにキングに渡された品。さすがにそこらに捨てるのはまずいと思ったのか、キングは魔法で動けないデリの尻ポケットにねじ込んだ。


 それと気付いたのは、ファジーセットでキングがトイレから出てきたときだ。

 失礼ながら頭の悪い発想だと思うが、彼は汚れて脱がざるをえなかったビキニパンツの代わりにシュメールのパンツを履こうとしたらしい。

 トイレから出てきたキングの、シュメールの、という言葉にそれと察した。すぐに傷ついたグミたちが飛び込んできて、その後は手当をしなくてはいけなくて、まさか完全に忘れている様子の本人に返せるはずもなく、そのままになっていた。


 デリはしわくちゃになった真っ赤なパンツをしばし見つめ、苦笑した。

 どうしたことか、以前ならもっとドキドキしただろうし、恥ずかしくて直視もできなかったであろうのに、今はなんとも思わない。

 躰が疲れているからか、色を知ってしまったからか。

 たぶん違うな、と思いながら、デリはベッドを下りた。


 グミの言っていた主観的世界の変容だ。シュメールのパンツの意味が、恥ずかしくて淫らなものから、仲間を呼び込むための信号旗に変わった。

 デリは宵闇色に染め上げられた寝室を見回し、色味の違いを探した。

 侵入者の足を遅らせるように作られた古風な家ならば、部屋には必ず矢を射るための窓がある。それも電灯のない時代につくられているから、かなりの数の窓が。


「……あれかな?」


 ほとんどの窓は箪笥やら戸棚やら動かせそうにない家具で塞がれていたが、一箇所だけ不自然な位置に絵があった。近くの椅子を引き寄せ、慎重に絵を下ろすと、


「――うっ、あっ……」


 作られた宵闇を光が払った。目を焼かれ、危うく椅子から転げ落ちそうになった。まったく自分の背の低さが憎い。早く大きくなりたい。そのためにも、


「もう少し……!」


 デリははめ殺しになっている窓枠をナイフで削った。幸いにも、古い家ゆえに木枠がもろくなっており、簡単に隙間ができた。そこにシュメールのパンツを押し込み、大半が窓の外に出るようにして引っ掛けておく。

 風にはためく真っ赤なパンツに、デリはくすりと微笑んだ。だいぶ余裕が戻った。


「あとはシュメールさんの鼻が無事なら……」


 きっと大丈夫。マスターは別れ際に見つけると言っていた。

 グミさんがいるし、マスターもいるし、キングさん――はノーカウントにするとしても、真っ赤なパンツは彼らの網にかかるはずだ。そう信じる。

 額縁を戻し、デリは最後の仕上げにかかろうと寝台に躰を横たえた。

 部屋に残るむっとした淫気にムカムカする。

 しかし、それも、肉体の苛立ちを精神の充足とするのに都合がいい。


 醜いやつ。

 いやしいやつ。

 この愚かな肉体め。

 心の言葉で肉体を責めたて、追い詰め、嗜虐しぎゃく的な悦びを得る。責め苛まれる肉体で被虐的な悦びを受取り心に返す。


 さながら、悲劇の主のように。

 さながら、喜劇の主のように。

 自らの尾を咥える大蛇のように、主観的世界の内側で欲望を循環させる。


 ああ、こういうことか、とデリは思う。

 視線を足元に下ろし、天を向く自分を嘲笑する。

 性的な欲望は理性をもって制御できる。なにが自分を昂ぶらせるのか理解わかる。単純な肉欲を満たしたところで低次な快楽しか得られない。全然、まったく、足りない。


 僕は、そんなんじゃ愉しくないんだよ。


 ガラス粒の星空の下、深く静かに瞑目し、これから作ろうという世界に浸る。


 さながら、魔法使いのように。

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